絶世美人

絶世美人

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二 深山幸子

 深山幸子は、三年生の中でも際立って美しい少女であった。肩まで伸びた黒髪に長いまつ毛、肌は白くて、微笑む顔はまるで百合のようといった言葉がぴったりと合った。手足はすらりとして長く、その姿勢の良さが彼女の存在を大きく見せた。
 幸子が美術部に入ったのは、実を言えば絵を描きたかったからという理由ではない。できるだけ目立たない部に入りたいというのが彼女の本音であった。けれども、美術部の活動で写生をしたり、美術展に行って直に美術作品を見たりしているうちに、自分も美術の世界にのめり込んでいった。幸子は昔からきれいなものや可愛らしいものが好きだった。小学校の頃、通学路でよく同じ家の門の上で昼寝していた白い猫をよく覚えている。誰かに手入れされているのか、猫自身がきれい好きなのか知らないが、とても艶やかな毛並みで、目を開けばエメラルドグリーンの瞳が煌めいた。幸子はこの猫がとても気に入っていたが、猫はそのうちどこかに行って全く見かけなくなった。けれども、幸子はいつまで経ってもその猫を見かけた時の胸の高鳴りのようなものを忘れられない。

 その日、美術室にはガラス窓から午後の日差しがキャンバスや木製のイーゼルに柔らかく差していた。女子たちの声が、部屋の片隅で少し高めのテンションで弾んでいた。
「ねえ、人物描きたいって言ったの誰?」「あんたでしょ」「だって人体練習したいじゃん。静物飽きたし」「じゃあ誰描くの? モデルになってくれる人ー?」
 ああ、始まったな、と幸子は思う。
「ちょ、待ってって、ほんとに!」
 しばらくして、美術室の中央に引っ張り出されていたのは、案の定、飯田三樹だった。
 女子用のブレザーを無理やり着せられ、長い黒髪のウィッグを頭に載せられ、彼は困惑しながらもなぜかそこから逃げようとしない。
「お願いだから、見ないで……」
 三樹は干上がったような表情で言っていた。
「顔小さ! てか、肩幅細!」
「ちょっと待って、リップ塗ったら絶対映えるって!」
 美術部の女子たちが妙な連帯感で盛り上がり、手際よく三樹を仕上げていく。誰かが小道具のリボンを持ち出し、誰かがスマートフォンのカメラを構える。
 完成した三樹の姿を、幸子はじっと見ていた。きれいだった。それは完璧なほど美しかった。けれども、何かが壊れているようにも見えた。だからこそ、目が離せなかった。美しいものは壊れている。そして、それゆえに人の目を引くのだと幸子は知っていた。
「ふふ、変な光景ね」
 部長の森見和が隣にやって来た。
「幸子、あれ見てどう思った?」
「うーん、似合ってたと思う。ちょっと、歪んだ感じで」
 和は笑った。
「あんた、言うことほんと詩人よね」
「そんなつもりじゃないけど」
 二人は少しだけ笑い合った。
 その夜、幸子は珍しく何も手に付かなかった。描きかけの絵も、読みかけの本も、どこか遠くに置いてきたような気がしていた。

 翌日の放課後。美術室には人の気配がなかった。幸子が一人でキャンバスに向かっていると、扉が静かに開いた。
「こんにちは。今日も来てたんですね」
 振り返ると、三樹が立っていた。少しだけ髪が乱れていて、制服の襟元がだらしなく開いていた。
「ええ。描きかけだから」
 短い会話。けれど、その静けさの中で、昨日のあの騒ぎとはまるで異なる空気が生まれていた。幸子はブラウスのポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。
「送られてきたの」
 画面には、女装を終えた直後の三樹が写っている。驚いたような顔。三樹が顔を赤らめて目を逸らす。その反応が少しおかしくて、幸子は口元だけで笑った。
「とても可愛らしかったわ」
「忘れてください……」
 紅潮した顔を伏せる仕草が、昨日の夕暮れの光の中で見た彼の姿と重なった。筆を置き、窓の方へと歩く。教室には西陽が差し始めていた。淡い光が、三樹の輪郭を照らす。
 幸子は、そのまま一歩、彼の方へ進んだ。唇を合わせるのに、それほど時間は必要なかった。触れた感触は、柔らかかった。心は、何も言わなかった。ただ、その美しさに触れたということ。それだけが、微かに残った。
「やっぱり、飯田君は可愛らしい」
 幸子は一歩だけ離れて、そう言った。三樹の頬が赤く染まっていた。目が潤んで光を放っていて、まるで少女漫画に出てくる女の子のようだと思った。その姿に、幸子は自然と顔が綻んだ。

 その日を境に、幸子と三樹は付き合い始めた。そういうことになった、というのが正確かもしれない。
 放課後の校舎の廊下で、一緒に歩いたりはした。連絡先を交換して、他愛もないやりとりもした。名前のついた関係の中にいるというのは不思議だ。同じ二人なのに、特別な何かになっている。けれど、幸子の心はどこか別の場所にあった。自分は彼に、何を期待していたのだろうか。そもそも、期待などしていたのだろうか。
 その問いには、まだ答えたくなかった。

絶世美人

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  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-11

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