絶世美人
一 飯田三樹という少年
「ミツキくんが女子の格好をすればいいと思います」
ある女子部員が言ったことで、上の空で話を聞いていた三樹は跳び上がるようにして席を立った。
「はぁっ?」
三樹が叫ぶよりも先に、美術室の中を女子の歓声が覆った。
「それ最高!」
「見たい見たい!」
「賛成!」
半円になって座る女子部員たちが口々に声を上げる。既に三樹が何を言っても止まらない勢いになっていた。
そこで、待っていたとでも言うように端に座っていた女子部員が立ち上がって言った。
「私、ちょうどカツラ持ってるんですよ」
そこで、ようやく三樹は「はめられた!」と理解した。
事の発端は、女子部員の一人が人物デッサンをやりたいと言い出したことだった。そして、まだ入部したてで技術が身に付いていないことを理由に、他の女子部員も賛成して、話が盛り上がって行った。
「なら、やっぱりモデルは美人がよくない?」
女子部員その三が言ったので、美術部員の中で誰が一番の美人かという議論になった。もともと人物デッサンに加わる気のなかった三樹は、興味なさげにそっぽを向きながらも、そんな人は深山幸子以外いないに決まってる、と心の中で思っていた。
その矛先が自分に向かった時にはもう時は遅かった。盛り上がる女子の勢いは止まることなく、三樹に女装をさせる方向で話が進んでいった。最早そいつらに人物デッサンをする気などさらさらなく、三樹を女装させることが目的であることは明らかだった。
「ちょっと! 何とかしてくださいよ!」
三樹は後ろで黙って見ていた部長の森見和に振ったが、意地悪そうに「飯田君は人気者だねぇ」と言うだけだった。次に三樹はその隣に座っていた深山幸子にきっとした視線を向け、無言で助けを求めた。けれども、幸子は逆に三樹が惚れ惚れしてしまうような美麗な笑みを浮かべて言った。
「いいんじゃない? 私も是非見てみたいわ」
三樹はもう絶望するしかなかった。
「……これは、予想以上に」
「可愛すぎる」
「女装っていうか、もはや女では?」
女子部員たちが三樹をまじまじと眺めながら呟く。三樹は断る権限もないかのように女子の制服に着替えさせられ、長い髪のカツラを被せられていた。あまりの恥ずかしさに三樹は紅潮した顔をじっと下に向けて耐え忍んでいたが、そのような仕草が余計に彼女らを興奮指せた。
三樹は散々に写真を撮られ、手を叩かれ、いじり倒された。そして、夕方頃になってようやく解放された。女子部員たちはみな満足げな表情で帰って行った。デッサンなど誰一人する様子もなかった。
「くそっ……」
美術室の端にある流し台で施されたメイクを洗い落としながら三樹が吐き捨てた。窓から差すオレンジ色の夕陽が部室全体を染め上げていて、そこに残っているのは、もう部長の森見和と深山幸子の二人だけだった。
「見た目が良いっていうのも難儀だねぇ」
森見和が他人事のように言う。
「部長も止めてくださいよ!」
顔も見ずに言った後で、隣で相変わらず穏やかな笑みを浮かべている深山幸子に、三樹は裏切り者とでも言わんばかりの視線を向けた。けれども、幸子は少しも動揺せずに、三樹に微笑み返した。
「可愛かったわよ?」
「忘れてください」
三樹が顔を洗いながら、耳まで真っ赤にした。その様子を見て、和と幸子は声を合わせて笑った。
飯田三樹は、世界的なモデルとして名を馳せた夏目由香利の息子として生まれた。父は由香里の仕事場で知り合った腕利きのカメラマンであったが、仕事時間のずれや人生観の違いから、ほどなく離婚した。三樹が母の容姿を存分に受けついでいることは、小学校に上がるくらいの頃にはもはや誰もがはっきりと分かるようになっていた。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪、ぱっちりと開きながらも美しく吊り上がった目、長く伸びたまつ毛に、小さく主張しすぎない鼻、どの部分も申し分なく整って、小さな顔の輪郭の中に収まっていた。その時から、三樹は母を知る沢山の大人から「あなたは大きくなったらお母さんと同じくらいの美人になるわ」と言われ続けた。
母・由香利は、三樹が生まれてから一年の育児休暇を経て、仕事に復帰し、再び世界中を飛び回るようになった。三樹が物心ついた頃から、母は仕事のために家に帰ることもほとんどなかった。三樹の家での話し相手は、毎日夕方まで家にいる家政婦と、同居している祖母だけだった。けれども、三樹はテレビや雑誌で母の姿を見て、世界中で注目を浴びる母を誇りに思ったし、母に会えないことを恨みもしなかった。
小学校に入ってから、三樹の友達は女の子ばかりだった。理由はクラスの一部の男子が三樹をその容姿や細くなよなよとした身体から「女男」と呼んで、たびたび三樹に嫌がらせをしたので、すっかり男子と遊ぶのが嫌になってしまったこと。もう一つは、そんな時に三樹を守るのはきまって女子たちで、そのうちに彼女たちは三樹を同性のように仲間に入れて遊ぶようになったこと。そのことで三樹は男子たちの嫉妬を買って、余計に男友達を作りづらくなっていった。そうして、いつの間にか三樹の友達は女子ならクラスをまたいで大勢、男子は時々話をする程度の一人二人、という状態になった。
三樹が小学三年生の頃、母が突然運動会に顔を出した。三樹にとってこれは心底意外なことだった。それまでの間、幼稚園でも小学校でも、何か行事がある時に来てくれるのは家政婦と祖母だけだった。三樹はそれを嬉しく思う反面、母に学校での自分を見られたくなかった。それは、三樹が今もクラスの男子から嫌がらせを受け続けていたからだった。見えないところで陰口を言われたり、ちょっかいを出される分にはまだ良かった。けれども、学年の出し物をする際にみんなで走って入場する時、三樹は隣の男子に足を引っかけられて盛大にすっ転んだ。そして、顔も身体も砂まみれになり、膝に大きな傷を作って、何もしないまま退場になった。昼食の時になって、三樹は顔の汚れが残ったまま、重々しい様子で母と顔を合わせた。三樹は、会えないながらも尊敬していた母に、こんな姿を見せるのが言いようもなく恥ずかしかった。そうして、泣きそうになりながらうつむいていた三樹に、母は外出時にいつも付けていたサングラスを外し、三樹の顎を手でくいと上げて、その顔をじっと見つめた。
「三樹は可愛い。やっぱりあなたは私の子だわ」
たった一言、母はそう言った。三樹は、その時涙を浮かべながら見た母の顔を今でも鮮明に覚えている。
その翌年から、母は突然病のために仕事を休止することになった。母は都会の大学病院で入院したので、三樹は祖母と一緒に毎週見舞いに行った。母の活躍がテレビや雑誌で見られないのは少し悲しかったが、毎週会って話が出来ることは三樹にとっては幸せなことだった。母は一年ほどでみるみる内に弱り、痩せ細っていき、かつてのモデルとしての姿は見る影もなくなっていった。母の病気が癌であったことは、三樹が後になって知ったことだった。母は、もはや助かる状態ではなかった。
三樹が最期に母と話したのは、三樹が小学校を卒業する間際、その二日ほど前だった。髪は抜け、頬は骨と皮だけのようになっていたが、母の態度と話し方だけはいつも毅然としていた。三樹と二人だけになった時、母は三樹をいつかのようにじっと見つめて言った。
「私は世間があなたを知ることがないようにしてきたし、あなたを私と同じ世界に入れるようなことはしなかった。でも、あなたが私のいたところに行きたいと思うなら、好きにしなさい。あなたはあなたの生きたいように生きなさい。でも、あなたがどのような道に進むとしても、これだけは覚えておいて。あなたは私の子よ。どこまで行っても、そうよ。それは、呪いのようにいつまでもあなたの身体に付きまとうわ」
母を亡くした三樹は、同居中の祖母のもとで育てられることになった。最期に言われた母の言葉は、三樹の記憶にいつまでも残り続けた。
中学に入ると、三樹はより鮮明に母の美貌を映すようになった。それにともない、三樹は烈火のように好かれるようになった。一年の時に三樹が女子から告白された回数は四十回を超えた。中二になると、同級生はもちろん、先輩から後輩までまんべんなく好意を寄せられた。時に男子から告白されることすらあった。
中二の半ば頃のことである。三樹が昼食を取り終えて、昼休みに友人と談笑していると、体格のいい三年の男子生徒が教室に怒鳴り込んで来た。
「おい! 飯田三樹はいるか!」
その怒声に三樹は飛び上がってそちらを見た。全く見覚えのない相手である。その男は三樹を見つけると、のっしのっしと大猿がジャングルをかきわけるように歩いてきた。そして、三樹の前に立つとその大きな手で三樹の胸倉を掴み上げ、叫んだ。
「てめぇ、この野郎! よくもやりやがったな!」
「ちょっと待ってくださいよ、僕には何が何だか……」
三樹は冷静を装って両手を前に出した。
「とぼけんじゃねえ! 人の女に手を出しやがって!」
男は再び叫ぶ。もちろん三樹には身に覚えがない。教室がにわかにざわめきだす。
「この野郎!」
憤慨した男がもう片方の手を振り上げる。そこに、もう一つの声が鳴り響いた。
「やめて!」
教室の入り口から声を上げたのは、三年の女子生徒だった。男の手が止まり、教室中の視線がそこに集中した。
「三樹くんの顔をぶたないで!」
どうやら、その女子生徒は男の元交際相手のようであった。しかし、彼女から「好きな人ができた」と言われ、男は振られてしまった。その好きな人というのが、三樹であった。後に彼女が飯田三樹に告白したという話が男の耳に入ることになる。そして、男は怒りの勢いのまま三樹のいる二年の教室に怒鳴り込んで来たのである。
この出来事は、飯田三樹の人気を象徴する出来事となり、「三樹くんの顔をぶたないで事件」として友人・石田太一によって語り継がれることになった。
三樹にとって、その美貌は決していいことばかりではなかった。男子からの嫉妬を買うことはしばしばであったし、時にこのような騒動に見舞われることすらあった。それは、三樹にとって、かつて母から言われた「呪い」のようなものであった。だからといって、母の面影を残すその顔を自ら傷つけようとも思わなかった。
三樹はいつだって憂鬱であった。もっと男友達と気ままに遊びたかった。女子は自分の顔ばかり見るので好きじゃなかった。特別なことは何もない、普通の生活がしたかった。人から見れば贅沢な悩みだったかもしれないが、三樹にとってはそんな他愛のないことが真剣な願いであった。
「昨日は大変だったみたいだね、ミツキくん。というより、ミツキさんと言った方がよかったかな?」
石田太一が三樹の机の前にやってきて、にやにやと笑みを浮かべながら言った。三樹が何のことかと思いながら見ていると、太一は携帯電話を取り出して、その画面を開いて見せた。そこには、三樹が昨日の美術部で女装させられた時の姿が映っていた。
「なっ!」
三樹が思わずその携帯電話を奪おうと手を伸ばすと、太一はひょいとそれを上に掲げた。
「消せ!」
「いやぁ、本当に美しいというのは大変だね。こんな格好までさせられてしまうんだから。それにしても、よくできてる。まさに絶世の美少女ってやつだ」
三樹は、あぁーっとうなりながら頭を抱えた。太一がこの画像を持っているということは、もう学校中に回ってしまっているということだ。自分の恥が学校中の見世物になってしまっている。けれども、三樹にとって一番の気がかりは、それよりも深山幸子の手にこの画像が渡っていないかということだった。
「まったく、情けない。断りなさいよ、こうなることくらい分かってるんだから」
そう言って隣に立ったのは、三樹の唯一の女友達である上条亜希であった。
「うるさいな、気づいたらそういうことになってたんだよ」
「あんたってそういうやつよね。流されやすいというか何というか」
「そこがミツキくんのいいとこなんじゃない」
太一が面白おかしそうに言う。けれども、そこに嫌味な様子はない。だから、三樹もそれをいちいち恥ずかしがったり、腹を立てたりすることはなかった。
石田太一と上条亜希は、三樹にとってただ二人、気の置ける友達と言える存在だった。太一は小学校から、亜希は中学からの付き合いであった。太一はいつも飄々としていて、大らかな性格。他の男子が三樹の女子人気に嫉妬したり、容姿をからかってきたりしてきた時、太一だけは誰とも変わらない接し方で三樹と接してくれた。だから、三樹も太一にだけは信頼を置くことが出来た。一方、亜希は女子の中で唯一と言っていいほど三樹にはっきりとものを言える人間だった。もともと強気でさっぱりとした性格だったのもあり、他の女子のように三樹に色目を使ったり遠巻きに歓声を上げたりしなかった。三樹は、亜希がそのように接してくれることが嬉しかった。
放課後、三樹はひとり美術室に向かった。その日は美術部が休みであることは知っている。校舎の一階の隅に、ひっそりとある美術室。放課後の、しかも美術部のない日に、誰もよりつかないその教室の前に来ると、三樹はそっと扉の窓を覗き込んだ。誰もいないはずの美術室で、一人キャンパスに向かっている女子生徒の姿がある。深山幸子である。彼女は、三樹のことなんかまるで気づかない様子で、真剣にキャンパスを見ている。時折、そこに描かれている絵に色を塗っては、立ち止まってキャンパスをじっと見る。そうして動く度に、肩まで伸びた長い髪が柔らかく揺れた。
そんな様子を、三樹はしばらく見ていたが、すぅっと一息つくと、何気ないふうを装いながら扉を開けた。その物音で、すぐに彼女は三樹のほうを振り向いた。
「あら、飯田君」
「こんにちは。今日も来てたんですね」
三樹はわざと知らないように言ったが、幸子が美術部のない日も、毎日放課後にこうして美術室に来ていることは分かっていた。三樹は何度かこうして見に来たが、実際に美術室に入っていったのはこれが二回目である。
「まだコンテストの締め切りまで時間があるのに、随分熱心なんですね」
「ええ、何だか気になってしまってね」
三樹はキャンパスの油絵を見た。そこに描かれているのは、森に囲まれた小さな湖の絵だった。木々の間から指す光によって照らされ、水面が不思議な色を反射している。その絵は美術部ながらほとんど絵を描かない三樹にも分かるくらい洗練されていて、美しく見えた。
「まだ完成じゃないんですか? もうこれ以上描くこともないように見えますけど」
「まだまだよ。これっていう色が出せていないの」
幸子は再びキャンパスを見た。三樹はそういう時の、真剣に絵に向かい合う幸子の横顔が好きだった。
「うん、でも、今日はこれくらいかもね」
そう言うと、幸子は傍らに置いてある机の上にパレットを置いた。そして、ふっと肩を撫でおろして息をつく。
「そういえば」
幸子が机の上の濡れた手拭いで手を拭くと、おもむろにブラウスのポケットから携帯電話を取り出した。
「こんなものが今朝送られて来たの」
携帯電話を開いて画面を見せると、そこには朝、太一が見せてきた、三樹の女装写真が写っていた。それを見て、三樹は顔がまるで瞬間湯沸かし器にでもかけたかのように熱くなった。
「なっ……け、消してください!」
「あら、いいじゃない。とても可愛らしいと思うわ」
幸子はくすくすと肩を揺らして笑った。肩にかかる髪がそれに合わせてはらりと揺れ落ちた。そんな様子にさえどこか上品さが滲み出ていて、三樹は思わず見とれてしまいそうになる。
「そういう問題じゃないんです」
「えー、勿体ない」
幸子は冗談めかして言うと、キャンパスから離れて、窓枠に寄りかかった。窓からは放課後の西日が差して、幸子の頬をきらきらと照らした。
「私ね、きれいなものが好きなの。湖が好き、モネも好き、陽の差した教室も好き」
そして、まっすぐに三樹を見て、笑う。その笑顔は、三樹が見てきたどんなものよりも美しく見えて、どこかあやしささえ感じ取れた。
「飯田君も、とてもきれいだと思うわ」
「そ、そういうのはいいですってば」
三樹の顔が再び熱くなる。
「あら、本当よ」
幸子がかつかつと音を立てて三樹の前に歩いてきた。三樹の身長はあまり高くないが、幸子と並ぶと少し高いくらいだ。幸子はすっと手を伸ばして三樹の頬に触れる。不意に冷たい幸子の手が触れたので、三樹の身体がぴくりと震えた。
「飯田君はとてもきれい。きっと誰が見てもね。私、飯田君のこともとても好きよ」
「深山先輩だって、きれいですよ」
思わず本音を言ってしまう。熱くなった顔を隠すように、三樹は頬を背けた。けれども、触れられている方の頬から熱が伝わってしまっているのも分かっている。そんな三樹の様子を見て、幸子がくすりと笑う。
幸子がもう一歩前に歩み出る。顔が真正面に来て、三樹も幸子の顔を見る。そして、幸子はそっと三樹の唇に口づけた。しんと静まり返った教室の中、二人の唇だけが触れ合う。永遠に続くかのように思える瞬間。けれども、幸子はすぐに顔を離して、三樹と向かい合ったまま再び一歩後ろに下がった。
「やっぱり、飯田君は可愛い」
幸子がくすりと笑う。三樹はどういう顔をしたらいいかも分からず、顔を伏せた。もはや耳の先まで、熱したように紅潮しているのを感じていた。
(続)
絶世美人