ヒトとして生まれて:第16巻

はじめに

 私が勤務していた企業(IHI)の航空宇宙事業本部のOB会組織に
おいて翠風会(すいふうかい)という名の下で「Webによる交流」を
重ねている。今回、あらためて翠風会の「翠」の文字を辞書で引いたと
ころ「翠」を「かわせみ」と読むことを知った。そして、身近な話題と
して近郊の彩の森入間公園の下池にも、時々かわせみが飛来して多くの
カメラマンを魅了している。

 そこで、私も、時々「翠(かわせみ)ダイアリー」として旅日記など
を軸にして、翠風会(すいふうかい)の「Webによる交流会」に投稿
してみようかと考えて、構想を練り、綴った文章を投稿してみた。

 結果は「Webによる交流」で親睦を図る狙いから筆者の顔が浮かぶ
様に「実名での投稿をお願いします」と云われた、それまでペンネーム
での投稿を続けていた私は熟慮、私の記述には、実在の人物が登場する
ことが多いので、実名での投稿となると、登場人物の個人情報が容易に
特定されてしまうという危惧に気付きOB会組織への投稿は断念した。

 しかしながら、これまでかなりの文量にて脳内に文章化したイメージ
が蓄積されており、もったいないので、自分の裁量で運営できるサイト
(星空文庫)にて投稿することに決めて投稿を始めた次第である。

 日常的に身近な文学の世界では、例えば俳句などの交流において俳号
を用いて情報交流などを行うことは常であるため多少の違和感を覚えた
が「違う世界もある」と、考えて割り切ることにした。



翠(かわせみ)ダイアリー 001 

 今年(2025年)の初夏は、九州四日間の旅として別府温泉方面に
出掛けてみた。旅先選びは家内の得意とするところなので、今回も膨大
な量のパンフレットが寄せられてくる阪急交通社の旅案内から、家内の
「選択眼」任せで旅に出た。

 団塊の世代の夫婦旅が旬を迎えていることから、今回の旅人のサイズ
は43名で昨年比では膨張傾向である。早朝に出発の飛行機旅に懲りた
私たちは今回はお昼ごろの飛行機便で帰りも早目の帰り便の旅を選んだ。

 今回の旅程で、一番に、気に入ったホテルは三日目の「杉乃井ホテル」
(別府温泉)で今までに泊まったホテルで五指に入ってくる宿と云える。
ホテルの宿泊棟は、3棟から構成されており、棟と棟を繋ぐエリアには
大きなゲームセンターが配置されていて、大浴場や露天風呂などは屋上
にレイアウトされており、ホテルそのものが、丘の上に位置していると
いう立地条件もあり、昼には、温泉に入りながら別府温泉の湯けむりを
眺め、夜になると別府市街の夜景を一望できるという絶景で設計センス
が垢抜けている。

「室内の設計も旅人の気持ちを良く把握している」という印象で・・・
「設計センスが優れているな」と、いう点では洗面所と風呂とトイレが
別になっているところまでは誰でも思いつくが洗面所が二人で同時利用
出来るデュアル仕様になっているなどの点はエクセレント評価だ。

 総じて、若者向けゲームセンターに趣を置いている点や、洗面所内の
デュアル思考など新しい感覚でデザインされているところから、三世代
&四世代ファミリーで一緒に宿泊するには、最適のホテルと云える印象
で、鎌倉ファミリーとの一緒の旅が想像された。

 今夏には我が家と鎌倉ファミリーとの北海道旅行が話題になったこと
もあり、昨夏は、下見も兼ねて仙台港から北海道に向けての船旅なども
体験したが、鎌倉の孫が今春の大学受験で鎌倉からなら自宅から通える
ところの慶応に合格、それまでは逗子開成高校で共に受験勉強に励んで
いた仲間と意気投合して、北海道のスキー旅行に出かけて、親と一緒に
出掛ける旅からは卒業、今夏も学生仲間で連れだって北海道旅行に出掛
ける様子なので、毎年の恒例行事であった「鎌倉ファミリとの二世帯旅」
は当面はお預けの様である。

 したがって、当面は、鎌倉の孫と一緒に食事がしたければ、鎌倉まで
出かけて、海上に大花火が写る「鎌倉の花火大会」などを狙って、鎌倉
に出掛けるなどの選択肢を考えて鎌倉に出掛けるのも一案だ。

 鎌倉の祖母は102歳までの長寿を全うしており生前に鎌倉の70年
超の洋館を建て替えることを思い立って、息子に指示(鎌倉ファミリー
の親父さん)もともと建築好きで、大手建設会社の重役で一級建築士と
いうこともあり、洋館を壊して「メーターモジュール方式」の家に建て
替えた。メーターモジュール方式は我々の常識では「1800×900
サイズの畳サイズ」で家の間取りを設計するが 「2000×1000
サイズ」で間取りを設計して行くので、家の階段などもだいぶゆったり
とした印象で広々としている。

 孫の可愛さ百倍の親父さんにしてみれば、自分の息子(長男)の書斎
よりも、孫の部屋は三倍の広さで、二階部分に設計してあるため、我々
が鎌倉を訪問した時には、孫の部屋に泊めてもらうことになる。
(1階には客間も用意されているが孫と一緒が良い)

 これからは北海道旅行をはじめ学生仲間同士の土産話を鎌倉に泊めて
もらって聞かせてもらうのも楽しみだ。そうはいっても、先日は「孫の
大学合格のお祝い」として鎌倉ファミリが川越まで出かけて来てくれて
イタリアンとフレンチの融合レストランで合格祝いの食事を共に楽しま
せていただいた。

 この様な祝いの席のセッティングは、鎌倉ファミリーの娘の特技とも
云える分野で、今回も、お任せの祝いの席であった。川越のビル内に、
その趣向の凝ったレストランは存在していた。

 様式は「イタリアンとフレンチの折衷」といった斬新なレストランで
店の名前はSENTIAMO、店の入り口にはオーナーシェフの似顔絵
が描かれており、その段階から、顧客の興味を惹く趣向になっている。
案内されたのは、個室で5名以上の利用が原則の様である。周囲は暗く
正面の照明でお互いの顔が際立つように工夫されている。献立に沿って
料理が運ばれ三人の女性スタッフによって料理の提供が進行されて行く。

〇 先ずは、弥生の献立と謳っているだけに、前菜は季節感たっぷりの
 新鮮な野菜と、点のように浮かび上がったソース類
〇 風車豚とモルタデッラとキノコの盛り合わせは絶妙な味覚
〇 ここで「たい焼き」には、驚かされた。まさに、泳げたい焼き君の
 出で立ちでソースの海の中をたい焼きが泳いでいる。これはシェフの
 洒落で、たい焼きの皮を剥ぐと中に正真正銘の鯛を焼いた具材が内在
 しており気の利いた駄洒落といったところだ
〇 ブラックアンガス牛は、レアで提供され美味であった。添えられた
 パンも香ばしく、パリのレストランを想像させる印象であった
〇 春トリュフはアイスクリームとの相乗りで美味しかった
〇 焼き菓子は五種類、これも洒落が効いていて、お寿司の五品風の皿
 に盛りつけてあった、これは、アールグレーの紅茶にピッタリ

 最後に、シェフのご尊顔を拝したいという、我々の要望に応える様に
オーナーシェフが挨拶に見えたが、恵比寿様のようなご尊顔にて有難く、
入学祝いのキャンドルを囲んで鎌倉ファミリーと共に記念写真を撮って
いただき、目出度く祝宴を記念に収めて、小江戸川越の街中に繰り出し
大賑わいの市街地を散策した。

 イタリアンにしてもフレンチにしても毎日の様に豪華な食卓が続くと
飽きて来るという稀有な体験に恵まれたことがあるが、その様な場面を
想像した時に、イタリアンとフレンチの折衷スタイルなどは、シェフの
遊び心としては良いかもしれない。

 私が稀有な体験をしたのは豪華客船に管理工学(IE)の講師として
乗船した時のことであり、毎日の様に、これでもかという勢いで豪華な
フレンチ料理が続き、さすがに飽きたことがある。
(IEとは、インダストリアル・エンジニアリングの略称である)

 その様な、連日のフレンチの食事が続く中で、ある日(突然)和食の
日本蕎麦が昼食に振舞われた時には「生産性の船」という、堅苦しさも
ある雰囲気の中で、豪華客船が揺れる程の拍手が湧いた。

 生産性の船に講師として乗船する案件については日本IE協会の管理
部長が、当時、IHI航空宇宙事業本部の「TQC推進部」を訪問して、
航空宇宙事業本部の幹部会に諮られ講師としての「収入:108335円」は
当事業本部の雑収入として計上することで承認された。

 当時は、生産事業部の統括部門からTQC推進部に異動したばかりの
タイミングで、それまでに携わった瑞穂工場における生産性向上運動の
一環で、航空機用のジェットエンジン製造における最終的な組立作業や
オーバーホール作業における動作分析において 「ビデオIE」という
独自の管理技法導入が評価されて、広く普及させて欲しいという要望が
関東地区のIE協会だけでなく、日本を代表するトヨタ生産方式が席巻
していた中部IE協会においても講演などが要請されていたこともあり
これを全国的に、普及させたいという、日本IE協会の狙いもあっての
「生産性の船への乗船依頼」であった。



翠(かわせみ)ダイアリー  002

 私は、家内と一緒に小旅行に出かける前に、怪我をすることが多い様
な気がする。毎回という訳ではないが、数年前には、お正月のバス旅行
に出掛けることになっていた際に数日前になって「ギックリ腰」を発症
したことがある。この時は日帰り旅ということもあって代わりに行って
くれる方を、家内が、スポーツジムの仲間から見付けてくれて、友人の
善意で救われたことがある。

 しかし、これが、数日の宿泊旅となると、即決では代っていただける
人を探すのは至難の業である。先日、テニスの練習仲間の女性がやはり
突然の怪我で参加不能となり急遽、ご主人の仲間が代理参加してくれた
というが、稀なケースといっても過言ではない。

 私の正月の日帰りバス旅の時の「ギックリ腰」は重傷で起きての行動
が不能な状態で、当時やっとのことでかかりつけの接骨院に辿り着いた。
接骨院の見立ては「長年、座椅子での執筆活動を続けたため」と、診断
されて、家の中の座椅子は全て廃棄処分とした。以来「生活スタイル」
は「椅子に深く正座するか」「立ち姿勢か」または「寝てるか」の三択
に徹底した(それ以来、ギックリ腰は、発症していない)

 そして、昨年(2024年)の秋の京都旅の際には、旅行に出掛ける
6日前に当たる日に、二階からの階段で、残り2段の処で階段を踏み外
して両膝を打撲してしまった。私が二階の書斎で片づけをしている時に
急ぎの電話で家内が呼びに来て一緒に階段を下りて行った時に、家内は
階段を降りきり、私が背後から追って行くという形勢のため、私が階下
に落ちた瞬間に家内を付き飛ばしたら、前面にはガラス戸があって家内
に怪我をさせてしまうという状況で私は咄嗟に両膝を着地させて、瞬間
的に、私は態勢を右に倒した(この間は、おそらく1秒未満)

 結果的には、左膝は内出血、右ひざは強い打撲、接骨院の医師が云う
には、このケースでは、骨折などの大怪我をすることが多いのだと云う。
「よくぞご無事で」という診断結果であったが、医師の診断通り内出血
した左膝は早めに治り、右膝は完治までに時間がかかった。

 京都の旅では接骨院からシップをいただき、シップを替えながら旅の
行程を乗り切った。しかしながら、京都旅は寺院などの紅葉見物が主体
のため日々が石段との戦いでたいへんであった。旅の二日目には旅仲間
が石段を踏み外して夜は宿で足首を冷やし、シップで養生という旅行に
なったが、注意していても、最近、旅行者の怪我は多い様である。

 京都旅の土産は「生八つ橋」にして接骨院にも届けたが旅を終わった
後も膝の治療は続いた。しかし、旅の代役を建てることもなく「何とか
乗り切れた」のも接骨院の医師のおかげであった。

 そして、今回2025年の初夏の旅では出発の4日前にテニス特訓の
際のサービスの練習で 「背筋を痛めてしまって」旅の出足を挫かれた。
接骨院で治療を始めたものの手当出来るのは3日間のみ。その様な状況
の中で、たまたま、家内が、近郊のスーパーマーケットの店内において
「電位治療器」のデモンストレーションに日々熱心に通っていて、試し
に「電位治療器による治療」を体験してみたらと云われて3日間通った。
この際、接骨院の治療との合わせ技となるが、神頼みに近い感覚で体験
「旅の出発日に背筋の痛みはなく」キャリーバックを引ける様になった。

 家内は、その後も、電位治療に通い「32日間」お試しで様子をみた
結果「1/f周波」という医療サイクルの採用などもあって・・・
〇 夜は朝まで熟睡出来るようになった
〇 便通改善にも役立ちそう
などという効果も確認され、同じ治験仲間でも50日超の体験者も居て、
「電位治療器の購入」を決めた様だが、私も、旅行から帰って、何度か
電位治療の体験をしてみたがテニスの翌日など膝の痛みを感じていたが
電位治療器を当てた後は膝の痛みがないことから、私からも相応の資金
分担をして二人で電位治療器の購入を決めた。

 旅の前の身体上の痛みなどに、万能ではないと考えるが八十路の助け
として頼りにしてみることにする。



翠(かわせみ)ダイアリー  003

 初夏の別府温泉の旅において 「杉乃井ホテル」の宿が一番のお気に
入りであったことを、既述したが、食事などについても杉乃井ホテルは
エクセレント評価が出来る食処であった。

 特に、ディナーについては、今、流行の「インクルーシブスタイル」
でアルコール類は飲み放題であった。とは云うものの私と家内にとって
は、生ビールが大好きなので、生ビールを片手に美味を探求と云う食の
スタイルであったが、食事の形態は、バイキング料理でありながらも、
食材は、どれも超一流の料理人仕込みで、和食・フレンチ・イタリアン
中華料理と、いずれも美味でまったく飽きさせない品揃えであったため
美味探求の世界観であったと云っても過言ではない。

 翌日になって、前夜の酒好きの仲間が集まって談話していたが、相当
に深酒を共に体験した模様で「家族ぐるみ」で、すっかり親友の雰囲気
を醸し出していた。昔からの例えで「お茶の一年・お酒の三日」という
が「友好の深まり」を絵にした様な姿を垣間見た思いがした。

 別府温泉の旅の一泊目の「メルキュール佐賀唐津リゾート」にしても
二泊目の「ホテルデンバーグ」にしても、それぞれにAランクのホテル
なので、食事には恵まれていたと云えるが「杉乃井ホテル」がずば抜け
て美味しかったということであり、今回の別府温泉方面の宿泊コースに
ついては全体的に食事処に恵まれていたと云って良い。また、自分たち
で選ぶ自由食の場面もあったが「自分達の好みで選んで食せる機会」も
ハウステンボス内での食事など「食の寛ぎ」といえる演出で良かった。

 今回の別府温泉の旅は飛行機の出発が5月26日(月)11時40分
であったため、羽田空港の集合時間も、午前10時50分とゆったりと
した時間設定で、気分的には気軽な対応が出来た。

 福岡空港への到着は13時30分であったため、皆、昼食は機内で済
ませていたため、現地で、当日のツアーコンダクターと面着すればバス
に乗車して、即、九州旅の始まりとなる段取りが組まれていた。しかし
福岡空港での懸念は、ツアーコンダクターとの羽田空港での面着の際に
「ツアーコンダクターが前夜から声が出なくなってしまった」と、いう
ことで、応援の同僚が駆け付けて代行にて受付や旅の案内を行っていた
ため、福岡空港では一人対応となるので、思いやりの溢れたツアー客の
心配は、そこにあった。

 しかしそこは福岡チームのチームプレーで、大型バスの運転手さんが
受け入れのための対応を代行、全員がバスに乗車すればそこからは車中
のマイクが利用できるので「もっぱらマイクによる案内」で対応した。

 福岡空港を出て、福岡市内をバスが進行して行くと福岡市街の街並み
は心地よい景色が続き「住んでみたい街」の上位にランク入りする理由
が伝わってきた。我が家の長男(年齢は姉弟で一番下)が、大学を卒業
して最初の赴任地が福岡であったので、家内も時々現地を訪ねていたが
ここなら「住んでみて気持ちの良い街だったろうな」と想像した。

 昨年の旅では宇部空港に着陸して、長男の勤め先の本社にあたる地域
の空気を吸ったが、九州の旅では長男が若い頃に活躍した地域の空気を
吸うことができ、それを想うと帰省の度にお土産としての「明太子」や
「とおりもん」の、銘菓を手にして帰ってきたことを思い出す。家内は
それに応えるように魚市場で「鯛」を購入していたことを思い出した。
(この模様は当時のインターネット上の俳句投稿コーナーに掲載)

 その後、バスは唐津方面に移動して、鏡山展望台に到着。島々が海上
に浮かぶ姿から東北の松島を連想した。そして、その後、日本三大松原
のひとつと云われている「虹の松原」を訪れて海岸を散策、ここからは
近距離の「メルキュール佐賀唐津リゾート」に到着して、ホテルの展望
エリアに足を運ぶと、たった、今、散策した虹の松原の海辺を近距離の
視野に確認出来た。


翠(かわせみ)ダイアリー  004

 別府温泉方面の旅行も、二日目はハウステンボスへの入園がメインの
企画となっているが、その前に「伊万里焼きの窯元」を訪ねた。街並み
は坂道で道の両脇に陶器店が連なっている。伊万里焼は品の良い陶器類
という印象で、思わず手にするが、けっこうな価格で購入するまでには
心が動かないものの観賞するには目の保養になるという印象だ。

 昨年の萩・津和野の旅では、陶器店に入った瞬間、かつて楽しい時を
共にした飼い犬「もも」を思わせる置物を見付けて家内共々、即、購入
に心が動いて、今、我が家の「モモちゃんコーナー」に置かれているが
今回は、その様な出会いはなかった。

 その後は、展海嶺として、ボランティアの調査による大小208の島
から成る「九十九島」を、一望出来る場所に立ち、島々の風景を楽しみ
一路、カステラの名店に向けて旅は出発進行、美味しいカステラの試食
もあり、旅仲間は土産に最適なものをウインドウケースから選び出して
それぞれに買い求めていた。家内もお土産にはこれと思ったカステラを
見つけてお土産袋に収めていた。

 それぞれに、お土産ものを取り揃えた旅仲間は、お土産袋を手にして
当日の宿となっている、ハウステンボス内の「ホテルデンバーグ」内の
各々の部屋に、土産物や手荷物をひとまず部屋の隅に置くと、洗顔など
を済ませ、紅茶などをいただきながら「一時の休息」ハウステンボス内
の案内図を一覧して、歩いて行けるハウステンボス内に移動、一瞬では
分かりにくい入場口を探し当てて入場、お試しで、目の前の会場に入る
ことにした。

 会場はファンタジックな雰囲気で、会場に入ると若者の歓声が谺して
いた。光のファンタジーといった印象で、プロジェクターによって映し
出されるファンタジーが秒速で変化して行く光景には迫力があった。

 ハウステンボス内のショーは、プロジェクターによる光のマッピング
によるショーが主体で、大規模なものは、屋外で大きな建造物を劇場に
設えてショーを繰り広げるために、新鮮な印象で視界をファンタジック
な世界に演出して行く。花火大会なども同じ仕様で仕掛けるため花火師
はいらない。

 初めて大観覧車に乗ったが、頂上部からの展望ではハウステンボス内
が一望の下に見渡せるので「このまま停止していて欲しい」と思ったが
あっという間に、ゴンドラは下って行く。ハウステンボスはオランダの
アムステルダムの風景を模して構築してあるため外国情緒がたっぷりで
大展覧車からの景色は「異次元の魅力スポット」と云える。

 その晩の夕食は自由食であったので「中華料理」の店に行こうという
ことになり歩を進めたのだが、あいにくの店休日とあって、イタリアン
に変更、それなりの美味に満足した。

 ホテルに戻ると、その日の入浴は園内をバスで移動しての温泉と云う
ことで、早速、バスで移動して入浴を済ませて、バス停に戻ると行く先
はホテルごとになっていて、覚えにくいホテル名を気にもせずに温泉場
に着たがバスの行け先を特定できないままに待っていると、偶然、旅の
仲間に出会い、バスに同乗してホテルに帰着、忙しすぎという印象の旅
に疲れて、その日は、あっという間の熟睡であった。



翠(かわせみ)ダイアリー  005

 別府温泉方面の旅も三日目の朝には「佐賀城」を訪問。武家屋敷の中
でも特に特徴のある「大広間」を見学、佐賀藩の命運を決める重要な話
し合いの場を確認。密室での藩の運営と云うよりも、多くの武士が参画
しての話し合いの場が用意されていたという面からは、当時も風通しの
良い藩の運営が行われていたことが推測された。

 その後は、一路、バスは「柳川」に向かう。柳川と云えば「鰻重」と
「川下り」が印象深い。バスの車内におけるツアーコンダクターからの
案内によれば(この頃からツアーコンダクターも声が出るようになった)
船下りをするなら「鰻重は食せない」鰻重を重視するなら船下りの時間
はないと二択を迫られた。これは、お客の顔を見てから鰻を捌くことに
徹しているためために鰻を蒸す工程で時間がかかるためなのだと云う。

 私と家内は「どうする?」ということになって「両方、こなしたいね」
と云うことになり、具体策としては「先ずは、船下りに参画」次の段階
で「鰻を食することを考えよう」ということになった。

 先ず船下りに参加するには、船宿の窓口で「乗船券」を購入する必要
があり、該当の窓口を探し当てて、二人分の乗船券を購入、船着き場に
は、今回のツアー仲間も居て、同志と云う印象で流し船に乗り込んだ。

 周辺には、外国人の船頭も居て、外国人を乗船させ、日本の流行歌を
口ずさみながら船を漕いでいた。我々が乗船した小舟の船頭によれば
「彼らは柳川の流し船にまつわる話題は提供出来ない」ので、流行歌を
歌うことで場を繋いでいるのだと云う。

 我々の小舟の船頭はベテランで、柳川における川下りの生い立ちから
周辺の景観にまつわる話題など言葉巧みに解説を続け、柳川にまつわる
民謡なども披露、面白かったのは、小舟が橋の下をくぐる際に、当日の
様に水嵩が増している状況では、乗船客は小舟の縁の下まで寝そべって
航路を進まないと橋桁に頭をぶつけることになるので、ほとんど仰向け
に寝そべった状態で橋の下を小舟ごと潜り抜けることになる。

「その時、立って操船している船頭は、どうするのか?」

その答えは、橋の手前に梯子が用意されていて、梯子を登って橋を渡り
反対側の梯子を下りて船に飛び移る。ところが、この光景が有名になり
すぎたために、川の水嵩が下位にある時には船頭は小舟に乗ったままで
橋の下をくぐり抜けられるのだが、インターネット上でこの光景が拡散
され有名になりすぎて、水位が低くても梯子昇りのショーをやる必要が
出て来て、水位の低い時のほうが梯子昇りがたいへんなのだという。

 かつて、イタリアにツアーで出掛けた時に、海面から「青の洞窟」に
入って行く時に、同様の姿勢を取って洞窟に入っていったことがあるが
海面は、その時々に潮位が変化するために、青の洞窟では海面によって
は洞窟への入場が出来ないこともあったことを思い出した。

 やがて、小舟も帰りのコースとなったところで、小舟の船頭に向けて
船着き場で船から降りて「短時間で鰻を食する方法」はないかと尋ねた
ところ、船から上がった先の道順と共に「鰻のお結び」ならその答えに
なると聞いて街並みを訪ね訪ね歩き始めたが、だいぶ遠くという印象な
ので、目の前の鰻屋さんに飛び込んで「うなぎ弁当を用意して」いただ
けないかと頼んだところ「大急ぎで鰻を蒸しますので待てますか?」と
問われて、店内で待つことにした。

 お店では俊敏な対応をしてくれて、二人で「鰻弁当」を抱えてバスに
戻り、まだ他の仲間が戻らない状況の中で「船下り」も「鰻の美食」も
二つ共にやってのけて、二人して大満足であった。

 その後は、江戸時代からの街並みが残るレトロな印象のある「日田の
豆田町」を散策して、バスは別府温泉の「杉乃井ホテル」に向かった。
(杉乃井ホテルは前述した様に素晴らしいホテルであった)


翠(かわせみ)ダイアリー  006

 別府温泉方面の旅も四日目は、江戸時代から300年も続くと云うと
ころの「湯の花小屋」を見学、湯の花とは硫黄成分のまとまりで、昔の
硫黄を採掘した小屋を見やすい形態に再現したもので、黄色いダイヤと
云われた貴重な採掘現場を確認出来る貴重な光景に圧倒された。

 次に訪れたのは「湯布院」かつての旅で宿泊したこともあり、ツアー
コンダクターの方に、その旨を伝えると、具体的に「どこの宿か?」と
聴かれて「そういえばどこの宿だったか?」思い出せないことに気付き
周囲を見渡したが、宿泊した宿のイメージが鮮明化出来なかった。
(かろうじて「金鱗湖」の記憶は、鮮明に記憶に残っていた)

 その日の帰着便は、福岡空港発14時25分で、羽田空港には16時
10分に到着、あいにく羽田空港から所沢行きのリムジンバスは時間帯
が嚙み合わず、山の手線経由で西武池袋線を利用して最寄り駅に着いた
が、ほとんどが座席に恵まれて、まったく疲労感のない旅程であった。
八十路の旅には、一泊多くなっても「ゆっくり出発・ゆっくり帰着」が
ベストであることを確認した旅であったとも云える。

 そして、昨年は、鎌倉ファミリーとの「北海道の旅」を考えていたが
今夏の「北海道も猛暑」のニュースを聴くに至って「北海道の避暑旅」
は遠い昔のイメージとなったことを知り、今夏の旅として急遽決まった
鎌倉ファミリーとの「鬼怒川の旅」が避暑旅として浮上してきたことに
ワクワクの期待感をもって、これからの楽しみとしたい。
(ひばりが丘ファミリーは夏休みオーストラリアに出掛ける様である)

 ここで我が家のトピックス・ニュースとしては、家内が、32日間も
スーパーマーケットにおける「電位治療器」の治験に通い、私が旅行前
に背筋痛から救われた電位治療器が我が家にも届き自前の電位治療器の
体験が始まった。近郊での電位治療器のデモンストレーションの2回目
の治験も近郊のスーパーマーケットで再開されたが、我が家でも八十路
からの若返りが楽しみである(実際に執筆のピッチも俊敏化)


翠(かわせみ)ダイアリー  007

 今までのあらゆる旅を思い出しても、今回の「鬼怒川・日光方面の旅」
は最高の旅であったような気がしている「何故だろうか?」旅の楽しさ
の決め手は旅の仲間とのハーモニーなのかも知れない。それは誰と誰と
でいったと云うシンプルなものではなく・・・

「旅の仲間同士の旬な年齢の組み合わせだとか?」
「今、お互いが置かれた状態における幸せ感のハーモニーだとか?」
「お互いにある種の制約からの解放感とか?」

 採れたてのフルーツの様な人知では測れない「神様からの贈り物」の
様なものかもしれないが、八十路の境涯に達しないと感じ取れないもの
かも知れないことも考えられ私だけが感じ取った「人生で最高の瞬間」
だったかのかも知れない。

 しかしこれもシンプルに考えてみると、ここ2年間は鎌倉ファミリー
にとっては、孫の航ちゃんの大学受験で多くの事柄を制約して、大好き
な旅も止めて、家族総出で受験勉強に集中出来る様にある種の禁断状態
が続いてきていて、それが「現役で、慶応に一発合格をやってのけて」
皆の心が一気に解放され、その解放感が我々にも伝播してきた。その様
な解放感「真っ只中の雰囲気」が、我々にもドライブを通じて伝播して
きたということかも知れない。

 思えば遥か6年前に孫の航ちゃんが逗子開成の中高一貫校に合格して
伊豆の老舗旅館「望水」で家内の喜寿のお祝いと合わせて、手の込んだ
料理をいただき、翌朝は、遥か海上から登り立つ日の出を目出て以来の
意識としては、自覚は少ないものの緊張感が続いてきたと云っても過言
ではない「頑張り屋さんの孫の航ちゃんの熱勉ぶり」を傍で見て来ての
快挙であり、その総体での喜びが今回のドライブにおける最高の幸せ感
として出現したのかもしれない(約6年がかりの幸せ感)

 今回の旅路は、鎌倉ファミリーが我が家まで迎えに来てくれて、お盆
明けの8月22日(土曜日)に入間の地から日光方面に向かうドライブ
コースで、当日の東北道は商業車、特に大型のコンテナーカーが圧倒的
な存在感を示していた。車の脇腹に大手コンビニ店の名前を表示した車
なども走っていて、多くの車が物流を支える印象の走りであった。

 我々一行は、日光に入る手前の今市で、鎌倉ファミリのお気に入りの
「煎餅の専門店」に入った。そこは驚くほどの創作煎餅のラインナップ
を成しており、試食する場所も試食コーナーと云うよりも試食ラインと
云う印象のスペースが用意されていて子供たちは嬉々として試食の列に
混じって並んでいた。

 試食ラインの脇には、試食のためのテーブルや椅子が用意されていて
老若男女がお茶コーナーからお茶を運んできて、美味なる煎餅の多彩さ
を楽しんでいた。私は煎餅の種類の多さに驚いたが、前回、立ち寄った
時よりは、種類が半減されているという。

 次に立ち寄ったのが「今市の道の駅」で、駐車場は入場待ちのために
いったん入り口で列をなして待機、お土産店や自酒の酒蔵など大繁盛で
我々は娘がお勧めの蕎麦店に入った日光周辺では「ゆば」が有名なので
皆さんは「ゆば付きの天ぷら蕎麦」を注文、私は一人、鴨の南蛮そばを
注文「鴨肉がこれでもか」というくらいに入っていて驚いた。

 その後は、日光方面は、明日の楽しみにして、鬼怒川周辺をドライブ
して、本日の宿である「ホテルハーベスト・鬼怒川」にてチェックイン
まさに、森林のなかに突如ホテルが登場という印象で、宿泊した部屋は
勿論のこと、入浴の施設も森林の中に設けられた露天風呂や入浴施設と
云う印象で大満足なファインダービューであった。

 夕食は、これもまさに森林の中の印象で食事エリアはリラックスする
には最適なエリアであった。食事スタイルは、バイキング形式であった
が、目の前で、ローストビーフを手の凝った印象でお皿に盛りつけたり、
すき焼きや温野菜なども、冷めないうちに食べてという印象で目の前で
盛りつけたり、ケーキなどもモンブランなどは雨を降らせる様な見た目
で盛りつけたりと、外国人の手でショーの様にして盛り上げていた。

 明日は、日光方面の、装飾工事の完成した日光東照宮や久々の華厳の
滝などの見学が楽しみだ。



翠(かわせみ)ダイアリー  008

 鬼怒川&日光旅のドライブも2日目、私は、八十路ゆえに運転はしな
いが、元々がドライバーとしては不向きなので、ドライブの主役は鎌倉
の若旦那、2日目の帰路では、日光路から埼玉県入間市までの道のりを
約1時間半でかっとぶという離れ業をやってのけたが、この話は後述に
詳しく語るとして、鬼怒川&日光旅の2日目は、朝食によるパワー充足
から始まったと云える。

 2日目のホテルハーベスト・鬼怒川の朝食は昨夜とは印象の変わった
食材の盛り付けで、我々は、モーニングサラダからいただくことにした。
目覚めのミルクとお腹のウェークアップ用のヨーグルトにブルーベリー
をかけてのお膳立ても、家内を見習ってヨイコラショと運ぶ。

 和食のご飯にするか、洋食風にパンにするか、先ずは選択肢が迫って
くる。自然な形で、ウインナーとスクランブルエッグが目に入ってきて
洋食スタイルで行くことに決める。後は、洋食のラインに沿って食材を
トレーに載せて行く。家内は、和風を選択した様だ。今回の旅の仲間は
5人だがそれぞれに食事の好みは違う。しかしながら和洋食の壁を越え
て、お互いに目の前の逸品を目にすると、追加の食材として加えて行く
ので、ついつい食べ過ぎることになる。昨晩は風呂場で体重を図ったら
通常60kgなのに62kgになっていたので驚いた。

 朝食を済ませて森林浴の様なホテルの部屋で寛いでから本日の観光地
である日光方面に向かう、東照宮参拝は久々のことだが東照宮の多彩な
造形物が装飾類などを丁寧に修復して、見事に復元させていると聞いて
いるので楽しみである。

 そのせいか東照宮に近づくにつれて駐車場はどこも満車状態で入り口
で待機することになる。やがて順番が来て自動車を木陰の場所を選んで
駐車を済ませてから東照宮に向かう。陽明門には金箔が24万枚も使わ
れているというだけに、その豪華さには圧倒される思いで、仰ぎ見れば
なおさら豪華絢爛さが感じられる。境内に入るには陽明門を仰ぎ見なが
ら登ることになるが、階段を昇るだけでも、その威容さには敬服の念を
いだくことになる。

 今までにも何度も観ている「見まい・聞くまい・話すまい」の三猿を
観ながら思うことは、その度に違った思いを抱くが、今までは人生訓と
してその儘の思いとして素直に教訓としてきたが、八十路の旅の途中で
感じたことは「八十路ともなると違う受け止め方」もあるのかなと。

 八十路ともなったら、人生を無駄にすることなく「大いに見て廻る」
「大いに他人の声に耳を傾けて真意を尋ねる」「大いに話し発信する」
という具合に反転攻勢をかけてみる逆転の発想をしても良いのではと。

 そんなことをふと考えてみた。境内はなんとも暑さの真っ盛り、最近
は室内テニスに徹しているために炎天下で帽子を被るという行為がなく
炎天下の旅先で帽子を忘れた。その時に、鎌倉ファミリから帽子の差し
入れがあり有難く借用した。無帽なら、直射日光で倒れていたかもしれ
ないと思うとありがたい。鳴き龍の体験などは室内なので室内と屋外の
温度差は激しく借用した帽子には命を救われた思いだ。

 その後は装飾の完了した本宮内に入るために履物を脱いで、本宮内の
階段を登ると豪華絢爛な光景が目に入ってきた。外国人の姿も多く欧米
人の姿が目立った。中国や韓国からの来場者も多かったのだろうが見た
眼では判別できなかったが傍を通ると会話の状況で外国人と分かった。

 本宮から外に出ると、階段を登って外宮の参道に連なって行くが階段
の傾斜がきつく休み休み上ったものの登りきった処で休息が必要な程の
心臓脈の高鳴りが続いた。家内と鎌倉ファミリーとの共通の話題として
伊豆の旅で経験した浄蓮の滝からの上り坂を思い出して「あの時の登り
は凄かったね」と云う話題に話が飛んだ。

 さらに奥に向けて階段を登れば徳川家康の墓所に辿り着くが、何度か
訪ねているので、そこまでとして、階段を降りることにして、華厳の滝
に向かうことにした。華厳の滝の入場口までの道のりはスムーズに行け
たものの、駐車場はどこも満杯状態で駐車場に自動車を止めるまでには
だいぶ時間がかかった。
(皆で懸念していた入場口付近には猿の姿はなく一安心だった)

 華厳の滝のチケットを手にするとエスカレーターに乗り百メートル程
下ると、何度か来たことのある地下道を下り、華厳の滝を直視できる処
までは一直線、展望台に出ると水飛沫が舞っていた。これほどの水量の
豊富な展望台は初体験で、暑さの中で、とても心地よかった。

 華厳の滝の流れ口に目を転じると物凄い勢いで大量の水があふれ出て
いた。上流の水流の経路までは想像できなかったが、向かって右側の方
が水量で勝っていた印象があった。いずれにしても水量の多さでは初め
て見る印象で、展望台まで水飛沫が届く勢いは実感出来た。

 その後は昇りのエスカレーターから外に出ると土産店に寄って珍しい
土産物を探し昼食をとるための店に向かうことになった。ここでも鎌倉
ファミリーがスマホで探したお薦めの店に向かうことになり、午後2時
までに着店すれば、ゆばを使った「お薦め御膳」が、食せるというので
一路ばく進、午後一時過ぎには入店出来た。

 店構えは創業百年を越える印象の「ゆば御膳の名店」で実際に食して
期待通りの美味であった。店内は涼しく旅の疲れを癒してくれるという
くつろぎ感に満足した。その後、渓谷に立ち寄ったものの渓谷を降りて
行くと「熊の出没に注意」という看板を見つけ、そうそうに引き返して
売店で休息、そこからの帰路は快走で午後2時半に帰路について、午後
5時には入間市の自宅に到着した。途中、東北道にしては珍しく空いて
いて、目立った印象としては、トレーラの2連結での走りが目に付いた。
これだと、輸送量は2倍に成るので小さな輸送革命になると推測したが
ドライバーの技量にはかなりの熟練を要するのだろうか。

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 私が勤務していた企業(IHI)の航空宇宙事業本部のOB会組織に
おける「Webによる交流」では、当初、ペンネームでの投稿も良しと
していたので、私は「萬田白水」の筆名で投稿していたが、ある時から
実名での投稿に改定され、私からの投稿を実名で掲載するように依頼が
あり、当時の投稿文には登場人物を特定されてしまう記事があったため
投稿を断念した経緯は文頭に書き記したが、それ以前に、OB会組織に
投稿した記述にも愛着があり、OB会組織のWEBに預けたままという
のも少し残念な思いがあるので、そっくり、このコーナーに引っ越しを
することにしたので、ご笑覧いただければ有難い。

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009 広島方面への旅日記(1)

【萩・津和野・安芸の宮島の旅情】

 萩や津和野・広島といえば久々の訪問で、かなり前に旅路の思い出は
あるが、些細な旅情については思い出せない。そんな訳で僅かな記憶を
頼りにしての旅程となった。毎度、お馴染みの阪急交通社の旅であるが
今回は、出発時間の案内に衝撃を受けざるを得ない旅となったのは残念
であった。今回の旅の申し込みにおいては最寄り駅を始発で行けば羽田
空港にはなんとかぎりぎりのタイム・スケジュールとなるものの間に合
うという算段で申し込んだのだが旅案内が届いて、正直、驚いた。

「羽田空港の第1ターミナル集合:午前6:40」
「羽田からのフライト時間:7:30」を観て驚愕した。

○ 最寄り駅の武蔵藤沢駅で始発に乗っても間に合わない
○ 所沢からリムジン(空港直行バス)の始発に乗れば間に合うが朝が
 早すぎて、入間からのハイヤーは営業時間外であるため所沢駅までの
 交通交通手段がない
 
 そこで急遽、かつて、別荘としてセカンドハウスを構えていた池袋の
アパホテルを予約、空港までのアクセスをシミュレーションしてみたが
羽田空港まで約1時間かかることが分かりキャンセルする。

 空港羽田の周辺にはビジネスホテルの空きがない。なんとか見つけた
のが「蒲田駅前のビジネスホテル」1部屋だけ空いていて予約。蒲田駅
からは直通で羽田空港までのバスが走っていて約25分。それでも蒲田
のホテルでは、午前4:30起床、5:30ホテル発、空港までの直通
バスには5:50乗車と忙しい行動が求められる。

 前日は、入間ケ丘公民館において卓球の練習もあるので15:30に
練習を終わって、すぐに着替えて蒲田駅まで18:30頃には駅に到着。
そのままホテルでチェックインして外出、羽田空港までのバス停の場所
などを確認してレストランで夕食。食後は、ホテルで自慢の四季の湯に
入湯、清潔感が工夫された入浴を済ませて、いつも通り午後11時には
就寝してモーニングコールで4:30に起床、5:30にホテルを出て
予定通り5:50出発の羽田空港行きのバスに乗り集合時間の6:40
よりも20分の余裕で6:20に指定の集合場所に到着。

 現地では、当日の旅程の添乗員が、まだ到着していないと云うことで
ザワザワとした空気感の中で整列をしての添乗員待ち、通常なら定刻前
に受付が始まり定刻には、ほぼ受付が終わっているというのが通例だが
今回は定刻からの受付対応のために空港内の荷物検査などにも出遅れ感
があって、飛行機の出発時間の7:30までには余裕がなかった。

それというのも、宇部空港までの便は、通常の直結の出発口とは違い
空港内専用のバスに搭乗して、機体の処まで行く方法を採っているため
その分だけ余計に忙しい。そして実際のフライトでは搭乗者の羽田空港
への到着遅れのために、フライト時間を少し遅らせての出発となったが
この謎解きの機会が旅を終わって羽田空港からリムジンバスにての所沢
までの帰路に判明した。

 その旅行仲間のご夫妻は出発日に所沢からリムジンバスに乗車、早め
の出発時間に乗車したので、集合時間の6:40には余裕で対応出来る
と考えていたところが、リムジンバスが都内の道路に入った処で大渋滞
に巻き込まれて「今回の旅程はキャンセルか」と、ご夫婦で諦めかけて
いたところ、旅の添乗員から携帯に電話がかかってきて・・・

「残念ですが今回の旅行は諦めます」と、いう意思を伝えた処、その後
も添乗員さんから何度も励ましの電話があり「空港に7:20に到着」
それから脱兎のごとく空港内を走り抜けて空港内専用バスに乗り込んだ
のだと云う。思えば我々も「所沢からのリムジンバスのルート」を選択
していればまったく同じ思いをしていた可能性もあり、結果、蒲田での
前泊を選んだ訳だが、我々にとっても、アナザーストーリーの可能性は
あったと云える。

 そして、添乗員についても、集合時間の6:40ギリギリに姿を現す
遅滞ぶりには、非難ごうごうであったが、一方で、航空会社と交渉して
リムジンバスで渋滞に巻き込まれたツアー仲間を救っている。この陰の
努力を他のツアー仲間は知らない。

 かつて、渋谷における「IE実践研究会」において異業種交流会の場
でIE(管理工学)の面からのご指導をいただいていた芝浦工業大学の
津村教授が・・・

「例えば、目の前で、居眠りをしている人を観て、即、非難は思慮不足」
「その背景には今まさに人命救助をしてきた人物かもしれない」という
配慮が必要なのかも知れないという、ご高説を解説されていたが今回の
体験を通じて、津村教授の顔を思い出した。

 今回のツアー参加者36名という盛況ぶりにも航空便の確保が難しく
なってきている背景があるのかもしれない。前回の北海道旅行でツアー
客のサイズ:28名規模のケースを体験してきており、その後、時間の
経過に伴って団塊の世代が夫婦旅をする周期に入ってきておりツアー客
のサイズが大きくなって来ている印象はある。

 また、コロナ禍への対応が第5類に移行したため旅行者の急増もあり
70歳代や80歳代の旅には、出発はゆっくり旅の選択も賢明なのかも
しれない。今回の「萩・津和野・安芸の宮島の旅」は、旅の中身が充実
していただけに前泊という強烈な印象が強く特別な思いで旅のスタート
を切ることになったが、時代は、確実に動いているということなのかも
しれない。そして「いつの時代にも知恵者は居るもの」で今回のツアー
仲間で親しくなった3人組のお仲間からの情報で「同年代のご夫妻は、
前泊を嫌いツアー参加をキャンセル」「旅の案内には、1週間前の旅の
キャンセルについては旅行代金の半額は返金されないことになっていた
が粘りに粘った交渉の結果、全額の返金に成功した」のだという。


010 広島方面への旅日記(2)

【萩・津和野・安芸の宮島の旅情(続き)】

 私たちが、宇部空港に降り立つのは初めてのことである。宇部空港の
出口で今回のツアー客の全員(38名)が揃ったことが確認されて今回
のドライバーが待つ大型バスに向けてツアー客全員が脚を運ぶ。

 指定された座席に全員が着席すると「萩反射炉」に向かう。明治時代
の産業化初期の遺産として、世界遺産に登録されている文明化の象徴的
な存在だ。金属(鉄)の溶解炉としての反射炉だが結果的に鉄の溶解に
成功した設備ではない。世界遺産としての価値は、文明化に向けて山林
一帯の樹木を丸坊主にしてまで取り組んだ心意気に向けた評価といえる。

 航空機の分野と比較すれば、ライト兄弟が原動機を活用して飛行機を
飛ばした前のタイミングにおいて「ゴムの弾力による動力」を活用して
初飛行に成功した日本人の例に近く世界的な脚光は浴びなかったものの
そのチャレンジ精神は後に続くものに勇気と感動を与えている。

 次に、訪問したのは「松下村塾」で、昔、訪問した記憶はあるのだが
今回ほど感動を大きくした印象は記憶に残っていないのは何故だろうか。
萩の城下町では角館の武家屋敷を思い出したが角館ではしっかりと手を
加えて観光に寄与していたが萩の城下町では「あるがまま廃れるまま」
という印象であったが、観光という面からは訪れる観光客も少なく地域
の人口減少の影が影響しているように見える。

 石破総理が地方の活性化を謳っているが地方の人口減少は今や日本国
の少子化の課題同様に防ぎようにない負の力を感じざるを得ない。今回
の旅の最終日には、広島を訪問して、多くの溢れんばかりの観光客の姿
を散見したが、広島の観光客を萩に連れて行きたいと考えたのは今回の
ツアー客の共通の思いであった。

 その後は、絶景の「元乃住神社」と「角島大橋」を訪問、雄大優美な
大橋も観光客の少なさには残念な思いがしたが、政府の施策として多く
の外国人を誘導する方策などはないものだろうか。

 長門湯本温泉なども、観光客が少ない印象で、地域の過疎化の印象は
強く、政府が地域の活性化を唱えるものの、過疎化の波はどうにもなら
ないものなのだろうか。

 長期間にわたって影響を及ぼしたコロナ禍による余波は地方の観光地
ほどその影響は長引いている印象だ。日本の歴史を大きく動かした偉人
たちの郷里だけに、偉人たちが都市部で成功を納め都市部を発展させる
原動力となったものの郷里は廃れて行くという循環社会において郷里に
も好循環をもたらすという秘策はないものだろうか。

 その点において郷里の新潟を発展させた「田中角栄の存在」は、これ
からの地方の発展において、なんらかの大いなるヒントを与えてくれる
かもしれない。その様なことを洞察した時に、今回のアメリカの大統領
選挙において 「アメリカ・ファースト」を唱えたところのトランプの
存在感は産業の活性化の波からおいてきぼりを食らったアメリカ人たち
の貪欲な飢餓感からの「起死回生を訴える姿」なのかもしれないと考え
るのは部外者が感じとる的外れな感想だろうか。

 多くの偉人たちを、輩出しながらも、寂れ行く萩の街並みを観た時に
「おらが町ファースト」の貪欲さも、地方で生き延びて行くための知恵
なのかも知れないと感じた。



011 広島方面への旅日記(3)

【萩・津和野・安芸の宮島の旅情(続き)】

 旅路の2日目は朝の秋吉台の風景を眺めることからはじまった。大昔
は海底であったという風景には、家内の記憶と今の風景に違いがあると
云う。家内の記憶にある風景は「白色の岩が目立っていた」と云う。

 しかし、目の前の風景にあるのは「黒色の岩石のみだ」そんな会話を
交わしていると同じ旅行客の声で「昔は白い岩だったわ」と。これらの
岩は「大昔は、海底のサンゴ礁だった」と、いう現地の売店の方の説明
からも「これらの岩石は白かった」と、いう話に間違いはなく、歳月を
重ねて風化やがて黒色に色を変えたようだ。それにしても秋吉台の広々
とした風景は、大昔、海底であったという話に信ぴょう性があり納得の
行く異様さは感じ取れた。

 秋吉台の広々とした光景を展望台から眺めた後は、今回の旅程にても
ビッグイベントともいえる 「車海老づくしのフルコース」を提供する
老舗の料亭にての美食三昧の昼食会だ。

 車海老専門料亭と謳うだけあって、食卓に用意された料理皿には色彩
豊かな料理が並べられていて、華やいだ気分に、座を盛り上げていた。
車海老のお造りには海老の頭も添えられていて海老のお刺身を食した後
は、海老の頭の部分をから揚げにして提供するのだと云う。昼間からは
ビールを呑まない私でもビールを呑みたいところだが、なにせ36名の
ツアー客とあって「仲居さんの人数も少ない」ということもあり全員が
お茶を選択する。

 テーブルに並んだ料理のあれこれからもビールを置く場所もないほど
の豪華な盛り合わせで全員が「納得」の歓待ぶりであった。この車海老
専門料亭では宿泊客も受け入れていて、宿泊客の場合は、もてなす料理
の品数は約2倍になるのだというが想像が難しい。

 ほぼ全員が満足してバスに乗り込むと、一路、津和野の街へ繰り出す。
大型バスがお土産店に到着すると、店主が自ら津和野の街並みをご案内
街並みを賑わす存在としては、掘割を泳ぐ鯉の群れに、ツアー客の目が
注がれる。大きく太った鯉は街並みの歴史を感じさせる存在と云える。

 津和野では「鷺を模した踊り」が名物ということで大きな鷺の被り物
を踊り手が被り優美な踊りを披露するのだと云う。鷺の被り物は頭上の
遥か上までの存在感なので、踊り手も上方に位置する鷺の作り物を操作
することになるので、まことに、たいへんな操作が想像される。

 街並みの案内を巧みに語る土産物の店主によれば、安芸の宮島の厳島
神社の舞台で「鷺の舞」を披露したのだと云う。土産店に戻ると自慢の
銘菓がツアー客に試食として振舞われてツアー客はそれぞれ列をなして
お土産を購入していた(勿論、我が家でも、お土産に購入)

 その後は、地元の稲荷神社に参拝して、広島駅まで直行、広島名物の
「お好み焼き」などを味わうことになった。駅構内にはお好み焼きの店
が連なっていて、どこの店にも、お客の行列が出来ている。

 ツアーの添乗員のお勧めは「いっちゃん」のお好み焼きということで
いっちゃんの店は大行列に違いないと、考えて、駅の構内を散策したが
やはり「いっちゃんか?」と、いうことになって店頭に並ぶことにした
ところツアー仲間も待ち行列に加わっていた。

 並んでいる間に、手持ちのショルダーバッグを開けると昨夜の夕食の
御品書きが出てきた。暇つぶしに眺めていると「長州鮑付会食」の表題
になっていて、食前酒の「サンザンドリンク」から始まって・・・
〇 前 菜 「季節の和え物」
〇 お造り 「二種盛り」
〇 鍋 物 「ふくちり鍋」
〇 揚げ物 「ふく唐揚げ」
〇 台の物 「鮑の踊り焼き」
〇 蒸し物 「茶碗蒸し」
〇 酢の物 「ふくの叩き」
〇 食 事 「山口県産米」
〇 香 物 「三種盛り」
〇 留 椀 「清汁仕立」
〇 水菓子 「オレンジ・パイン」

 昨日の夕餉を、思い出しながら、お好み焼きの順番を待っている間に
私と家内との間で話題になったのは、昨日の夕餉の会食で食事係の女性
から、鮑の踊り焼きは途中で裏返しにして下さいと云われて私は裏返し
にしたが、家内はそのままにして食したものの、昨年、鎌倉ファミリー
と一緒に、伊豆の老舗旅館で鮑の踊り焼きを食した時にはそのまま食し
たよねという話になり・・・

そこで、お好み焼きを、食する順番が回ってきた。私と家内が注文した
「お好み焼き」は焼きそばに豚肉を載せて更に牡蠣をトッピングにした
もので生ビールとの相性も良くて昨夜に食した長州鮑付会食にも負けて
いない美味であった。



012   広島方面への旅日記(4)

【萩・津和野・安芸の宮島の旅情(続き)】

 お好み焼き店「いっちゃん」の店内のテーブルに座ってみれば、周り
は今回のツアー仲間で固めた様な席並びで、バスへの戻り時間には余裕
をもって集合出来た。

 お好み焼きを食した後は、お薦めのAランクホテルとなっているとこ
ろの「グランドプリンスホテル広島」に直行、バス内での話題はホテル
到着後の大浴場の利用には別料金で2150円が必要だと云う。

 ツアー客の多くが 「スパ(大浴場)は利用しない」という。部屋に
入ってバスルームを覗くと、外国のホテルなら部屋付きのバスルームで
済ませるわねということになったが、その前に自宅まで、まとめ買いを
したお土産や下着類の洗濯物などを宅急便で送って身軽になろうという
ことで入浴の前に、宅急便の段ボールを入手するために、ロビーのある
1階までエレベーターで降りることにした。

 1階のロビーまで降りると岸田総理の時代に「G7サミットの会場」
として選ばれただけに、ロビーからのファインダービューは素晴らしく
しばし電飾された風景を楽しんだ。

 その後は、せっかくなのでスパ(大浴場)に出かけて、2150円の
別料金を支払って私と家内は「男湯と女湯」で、それぞれ入浴を楽しん
だのだが、今回のツアー仲間のほとんどは部屋の風呂で入浴を済ませて
眠りについた様であった。

 私と家内は、その後、段ボールにお土産と洗濯物を詰めて、ロビーで
宅急便の手配を済ませてから就寝したが、翌日朝の出発は10:00で
あったので、スパ(大浴場)でゆったりと朝風呂を浴びて、朝食会場に
向かった。広島のプリンスホテルは、周囲が海の立地条件のため朝食時
の周囲の景色は素晴らしく大満足であった。

 海の景色満載のオーシャンビューでのバイキングとあって、ゆったり
とした気分で食事を楽しんでいると、ホテルの支配人が、気を利かせて
「写真を、お撮りしましょうか?」と、声を掛けて来る。

 食事を終わって売店に顔を出すと近畿ツーリストの旅行客は出発時間
らしく、まだ8時の時間帯だが、乗車するバスに向かって急ぎ足で回転
ドアをすり抜けていった。

 我々阪急交通社の出発は10:00なので「この違いは何だろう?」
と考えていたが我々のバスが「予定通りにホテルを出発」安芸の宮島に
到着すると「すぐに理由が分かった」安芸の宮島は9:00頃は満潮時
であったのだ。

 したがって、厳島神社の拝観通路などは、海面の下に位置することに
なるので厳島神社には入場できないのだ。グランドプリンスホテル広島
を10:00に出発すればタイミング良く厳島神社で拝観出来る。

 広島の宮島口から船に乗って10分間で秋の宮島に着くのだが船から
降りると、すぐに、土産物店「だいこん屋」の店員がガイド役を担って
くれて、厳島神社への案内に始まり、厳島神社内の見どころの案内役を
引き受けてくれるので大助かりであった。

 厳島神社の回廊は板敷になっており、床の表面には、満潮時の痕跡が
残っていて床面にはまだ海水の浸食の跡が残っていて湿っていた。厳島
神社では、適時、床に水を流して床面を洗うのだと云う。

 帰りの船で広島の宮島口に戻るときの集合場所も「だいこん屋」だと
いうので店の名前はすぐに覚えた。厳島神社の拝観を終わって外に出る
と集合時間の15:30までは自由時間、先ずは昼食だ。

 私と家内は道沿いに橋を見付けて、橋を渡ると店先で牡蠣を熱そうに
頬張る若者たちを発見、店の人に声をかけると裏手には食事処があると
案内されて、案内通りに裏手に廻ると、入り口があったので、そのまま
店内の食卓に席をとった。

 そこまでの道のりで、どこの店にも行列が出来ていたので幸運な道筋
であった。献立は蕎麦が主体で、私と家内は「穴子のフライ」を載せた
シンプルな昼食を選択した。

 食事に箸をつけたところで外国人の夫婦が来店、私のつたない英語で
「どこから来たのか」と聞くと「スペインから」というので、私が両手
の人差し指を耳の脇に着けて猛牛の真似をすると「その通り」といって
すぐに友達になった印象であった。

「今、食べているのはなにか」と、聞いてくるので「そば」と答えると
「それはラーメンか」と聞き返してくるので蕎麦であってラーメンでは
ないと応答すると、注文取りに来た店員に「同じものを食べたい」と、
男性客が注文。私が具は穴子のフライだがと云うと、フィッシュかと聞
いてきたのでフィッシュだと答えると「同じものが良い」と。

 奥様と思われるご婦人は、スマホを観ながら「具に牡蠣のフライ」を
選んでいた。


013   広島方面への旅日記(5)

【萩・津和野・安芸の宮島の旅情(続き)】

 広島の観光客には修学旅行生と外国人などの姿が目立っていた。我々
ツアー仲間の声として、広島にはまさに溢れんばかりの観光客がごった
返しているが、これらの観光客の脚を津和野に向けてあげたいものだと
思いながら、昨日の津和野のお土産店の店主の顔を思い浮かべていた。

 その後は、船に乗って約10分、宮島口に着くと、一路、広島空港に
向かっての帰路のコースとなる。私が、現役の時代には、1990年に
始まったV50運動後半において、TQC運動から脱皮したところの
「ミッション・マネジメント」において、四半期毎の業績向上に向けた
部単位の交流において呉2工場にも定期的に日帰り出張を行っていたが
呉2工場内で、長軸物の超精密加工の現場を見せて頂いた時に・・・

 かつて土光社長が、東京石川島造船所に入社してタービンの製造技術
を学ぶためにスイスに留学した話を思い出した。当然、高速回転機械に
おける超精密加工の技術なども習得されたことが想像されるが、その後
石川島芝浦タービンが設立されると、技術部長として出向し社長に就任
猛烈な働きぶりから土光タービンとあだ名されたというが、呉2工場内
の眼前で、加工されている長軸物の超精密加工などには、その体験から
「自信を持っていたのだろうな」という、思いを抱きながら呉2工場に
おける長軸物の超精密加工の現場に魅入っていたことを思い出した。

 戦後の日本において中間ジェット練習機用の純国産ジェットエンジン
を開発していた時にも、最終的な飛行試験においてエンジントラブルの
連続で四苦八苦している時に、防衛庁と通産省の間で、日本を代表する
5社連合による取り組みでは事態の解決には到らないと考えた末の結論
として、ジェットエンジン専業として、1社に絞り込むことを考えた。

 その時に「火中の栗を拾う」覚悟で純国産ジェットエンジンの玉成に
手を挙げたのが土光社長であったことを聞くと・・・

 ここでも「土光タービンのスプリット」は健在そのものであったのだ
と推測される。しかしこの時に衆目の下、火中の栗を拾うことによって
将来的に、ジェットエンジンの専業メーカとして、やって行けるという
「先見性」があってのストーリー性はじゅうぶんに推測出来る。

 勿論、純国産ジェットエンジンとして、IHIが飛行試験成功までの
成果を防衛庁と共にまとめ役としての役割を担い中間ジェット練習機用
の純国産ジェットエンジンとして俊敏な勢いでまとめた根幹には、初代
永野事業部長の天才的な技術力と俊敏性があってのことは、周知のこと
でありここでも適材適所の土光社長の先見性は際立っているといえる。

 次いで幸運であったことは、民需として国内エアーラインのANAに
向けたオーバーホールなどのメンテナンス事業において先鞭をつけたの
が森事業部長であり、この頃になるとジェットエンジン事業が有力分野
であることに気付いた他社の猛追は壮絶なものであったが、当時、最終
的にANA社からオーバーホール事業を勝ち取ったところのストーリー
は今や伝説になっているが他社からの民需への猛追は今も続いている。

 今井事業部長の時代には、航空エンジンの事業規模は全社の売上高の
5%に達したものの、将来的にIHIの屋台骨となるためには、絶対的
な品質保証が基盤になると考えた今井本部長はデミング賞に挑戦。

 1976年(昭和51年)にはデミング賞を獲得、民間分野において
世界市場への参入を目指していた分野において、V2500エンジンは
世界の有力企業との共同開発によって、民需分野で世界的な市場に参入、
これまで培ってきた官需(国内)をベースにして民需(海外)への進出
をビジネスベースで成功させるために取り組み始めたのが、1990年
(平成2年)に活動を開始したV50運動であった。

 当時は、急激な円高基調もあって、全社・全本部的に総コストを半減
させないと「黒字化が果たせない過酷な状況」にあったが、航空機用の
ジェットエンジンとして、創業期からの先人の先見性と、IHIエアロ
スプリットの積み重ねがあって「プラットフォームが成形されてきた」
ことを考えると、当時の本部長の大慈弥さんを先頭にして前進あるのみ
というのが当時の取り組み状況であったと云える。

 そういった意味においてV50運動の終盤に四半期ごとのミッション
マネジメントにおいて業務革新の交流を重ねたことは、全員が経営革新
に取り組んでいるという実体験をお互いに認識できたという点において
意義深いものであった。当時、呉2工場へは日帰り出張での業務革新に
向けた交流であったが黒字化に向けて意義深い業務革新の交流を果たす
ことが出来たことは思い出深い。

 今回の旅も広島発19:10便に搭乗すれば、一路、羽田空港、空港
から、リムジンバスに乗れば、所沢から最寄りの電車に乗って我が家だ。
今回も、比較的、天候にも恵まれて楽しい旅程であった。
 (時に、2024年の秋)

(続 く)

ヒトとして生まれて:第16巻

ヒトとして生まれて:第16巻

翠(かわせみ)ダイアリー 013 広島方面への旅日記(5) 【萩・津和野・安芸の宮島の旅情(続き)】

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-07-06

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