ついのすみか Ⅶ

ついのすみか Ⅶ

61 ならないために

 ハジカミさんは勉強した。切磋琢磨して勉強していい学校に入った。立派な人と結婚して立派な息子を育てた。
 息子は結婚し、旦那様を看取り……月日は流れた。

 そして赤ちゃんに戻った。タチの悪い赤ちゃんに。
 世話が焼ける。排泄物の量は多いし、ヨチヨチ歩いては転ぶ。

 そうならないために、なにかできなかったの?

 イチイさんの部屋には脳トレの本がたくさんあった。娘に迷惑かけまいと、気に入らない施設に入れられても我慢した。嫌いな人(コデマリさん)がいるから、とリビングで皆と過ごさなくなった。
 そして、10歳も年上の嫌いな人より先に逝ってしまった。
 
 ストレスと平穏とどちらがいいのか?
 ストレスで血圧は上がるけど、平穏で会話はなくなり認知が進む。
 
 人生の秋から冬。

青春:少年から青年期。10代から30歳くらいまで。
朱夏:青春より少し成長した成年期。30代前半から50代前半まで。
白秋:より年齢を重ねた時期。50代から60代前半まで。
玄冬:人生の終盤。60代後半以降。

 冬がいちばん長い。
 もう冬か……
 切磋琢磨しなければ。
 必死に勉強したように。子育てしたように。
 それ以上に努力しなければならない。
 生まれてきて長い人生の最終目標は、

 認知症にならないこと!
 
 それが大事。それがいちばん。それがすべて!
 もう、そのために生きなければならない!

 便を漏らしたハジカミさん。
「赤ちゃんが産まれる〜 産婦人科の先生呼んで〜」
と、暴れたとか。
 きれいにしてもらっている間、怒っていた。
「あんたのせいよ。あんたがちゃんと仕事しないから……でくのぼうばかり」

 誰かを犯罪者にしないために。
 周りに迷惑をかけないように。
 どうすれば?

 人生の冬。
 もう、料理するのは旦那さまのためではない。自分のためだ。料理は認知症予防にいいのだから。
 ウォーキング、投稿も認知症予防のため。あ、ピアノもいいらしい。また再開しよう。挫折してる場合ではない。
 ボケないために弾くのだ。ボケないために歩き生きる。
 人生の最大の最後の目標、課題は認知症にならないこと!!
 全力で取り組まなければならない。

✳︎

 認知症のリスクが高い人には、生活習慣や性格、病歴、遺伝的要素など様々な要因が関わっています。
 具体的には、食生活の乱れ、運動不足、過度の飲酒・喫煙、睡眠不足、糖尿病や高血圧などの生活習慣病、怒りっぽい性格、他人を頼らない傾向、脳をあまり使わない仕事、遺伝的にアルツハイマー病のリスクがある場合などが挙げられます。(AIによる概要)

 よかった。どれも当てはまらない。
 リスクが高い持病がありながら、毎日酒を飲み、歩くのも嫌がる夫。
 年金で特養には入れるだろうが、かなり待つだろう。入ったら私の生活は厳しくなる。自分の年金だけでは厳しいどころではない。半分がマンションの管理費、修繕費。
 働き続けなければ。死ぬ前の日まで働かなければ。
 それは幸せなことかも?

 夫が亡くなれば私も遺族年金で特養に入れるだろうか? 特養は介護度3以上。
 入れても入りたくない。

 茶はぬるいし、内緒だけど……
 若い職員は急須に蓋をしないの。蒸らさないとおいしくないのに。蓋をしなければ洗わなくて済むから。工程を省く。
 それでなくても施設の茶葉はおいしくない。おいしい茶の入れ方の紙が貼ってあるが、どうやってもおいしくない。
 自費で買う紅茶はティーバックだし。コーヒーはインスタント。

 茶が人生の楽しみなのに。
 イチイさんも言っていた。
「ジャンピングした紅茶が飲みたい」
と。
 そんな施設があるとしたら、月々いくらかかるのだろう? 
 ナースコールを押したらいつでもすぐに来てくれる施設は?

 無理だ。無理。特養の施設への支払いだけで精一杯。嗜好品は買えません。
 皆は10時に豪華なおやつ。最近の入居者さんの家族はすごい。高級チョコに⚪︎屋の羊羹。1年前とは大違い。1年前は冷蔵庫もガラガラだった。
 
 子どもたちは生活に必死でばあさんの嗜好品まで買えないから、私は施設の麦茶だけ……

 そういう方もいるのです。預かり金の残高がない……買い物を頼まれても言いにくい。しっかりした方だから辛いです。
 
 ナースコールを何度も鳴らすツバキさん。
 誰かが転倒しようが、救急車が来て大変だろうがおかまいなし。
 わからないわけではないだろうに。
 高学歴の方だ。
 若いのに。私より若いのに。
 新人が、胃が痛いって言ってますよ。

 入居を待つお年寄りは山ほどいるけど、介護する人は貴重なのですよ。
 だから都から住宅手当が付いたという。
 親元から通ってる若い女性にも支給されている。パートの人たちにも支給されている。
 私は103万円以下だからナシ。
 賞与ナシ。
 勤続手当ナシ。(いちばん長くオープン当初からからいるけど)
 健康診断ナシ。

 ナシでもいいです。
 働ければ。
 
 

 

62 お題から

 他サイトのお題で投稿した掌編です。

【マンサクさん】

 仮名マンサクさん。
 紳士だった。この方からヒントをいただき小説を書いたくらい。

 クラシック音楽が好きで、映画のDVDがたくさんあって、話が合った。

 脚本家になりたがってて、物知りだった。石川達三が好きだって。娘に全部捨てられたと怒っていた。
 石川達三なんて、私は読んだことがない。第1回芥川賞受賞。Wikipedia読んだら興味深い。

 初めてお風呂に入れたときは、贅肉なんてついてなくて、スポーツやってたの? と聞いたわね。

 でも、だんだん居室に閉じこもり偏屈で怒りっぽくなった。
 太ったね。動かないから。
 
 洗濯物をしまいに行ったら、引き出しに季語辞典があった。細かい字でびっくり。
「すごいね、俳句作ってたの?」
「作ってないよ」
 今は無気力で何を言っても否定的。
 それでも私が適当に読むと聞いていた。
 はさんである名刺には覚えがないと。
「お孫さんの名刺じゃないの?」
 たぶん初めて作った名刺だろうに、もう孫の名さえ、
「なんだっけかな?」
 テレビの音量は100になってる。よくかけているのが『必殺仕事人』

「中山麻理知ってる? 亡くなったよ。サインはVの。きれいな人。三田村邦彦の奥さんだった」
 反応した。マンサクさんと同じくらいの歳だね。
「渋谷陽一も亡くなったよ。私よく聞いてたんだ。知ってる? ロックは聴かなかった? ダダンダダダ〜ン」
「運命か?」
「違うよ。運命はダダダダ〜ン」
「ヘタクソだな」
「マンサクさん、カラヤンがクラシック以外で認めた曲が2つあります。
 ひとつは『君が代』。世界の国歌の中で、もっとも荘厳な曲だって。もう1曲はなんでしょう?」
「知らねえよ」
「じゃ〜ん、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』でした。興味ないか。
 うるさくてごめんなさい。お邪魔しました」

『お題』 覚えがない名刺


【日常】

 お年寄りは寒がりだ。
 夏でもひざ掛け、カーディガン。
 カリンさんなんて頭からショールを被って出てきたからびっくり。
 リビングの温度は27度。それでも寒いから切って、と言われる。

「温度、上げましたから」とウソをつく。
 
 私は一年中半袖のユニフォーム。
 シーツ交換に入ると、エアコンが切ってある部屋がある。
 昨年は電気代が高騰してるから、節約してください、なんてお達しがあったので我慢したけど、今年は無理。
 最低賃金で命落としたくない。

 部屋のエアコンを付けると熱風が。暖房になっている。そんな部屋もよくある。さすがに18度設定にはお目にかからないが。

 夜になると帰宅願望。
「帰りたいの。今日帰れるかしら?」
「今日は台風だから危険です」
「でも、すぐそこなのよ。歩いて行けるわ」
「強風で飛ばされてしまいますよ。ハジカミさん、か弱いから」
「あら、そう?」
「ハジカミさん、高校どこでしたっけ?」
「A校よ」
「優秀だったんですねえ」

 不毛の会話が繰り返される。
「帰りたいのよ。帰れるかしら?」

 以前いた職員なら、
「帰んなっ!」
と怒鳴っていた。
「帰んなっ! 帰っていいよっ!」
 言ってみたい。
 辞めて行ったあの人は、今はどこでどうしているのやら?

 そこへタラノキさんがやって来る。掛け布団を持って。枕を大判のバスタオルにくるんで肩にかけてサンタクロースみたいに。
 タラノキさんは姉と同じ歳。まだ、70代。
 キッチンにもスタッフルームにもよその居室にも入ってしまう。
「タラノキさん、出身はどこ?」
「オレ、会津だ」
 女なのに『オレ』と言う。
「会津といえば白虎隊。
 もう少しぃ、時がぁ、ゆるぅやかであったなぁらぁ〜」
 パチパチパチ。
「おねえさん、うまいねえ」

『お題』 「冷房」「18度」「強風」

63 言わないで

 言ってはいけないが言ってしまった。サカキさんの今……
 職員がコソッと言った。
「もう、人間じゃないよね」
「前からですよね」

 キッチンでの私との会話。
 蔑んでいるわけではない。病気だとわかっている。病気のこともわかっている。

「あー! ハヨ持ってこぉい! はやくしろぉ!」
 聞き取れない大声でテーブルを叩く。周りの人がうるさがる。だからたまに、隣のユニットに連れて行ったりする。
 ビニールのエプロンをかじる。滑り止めのマットをかじる。スプーンを持たせても口まで届かない。エプロンに落ちる。手づかみで食べる。そして食事介助。食べるのは早い。ソフト食を完食。
 陰部に手を入れ、便を舐めた……
 夜勤さん、拭くのは大変だろう。
 カリンさんはベッドの柵に塗りたくったことがあった。
「ミトンしたいですね。私の母親ならミトンします」
 
 職員さんが言った。よくわからないが、ミトンをするのは虐待らしい。

 サカキさんの家族は面会に来なくなった。服や靴は季節の変わり目に送って来る。だからきれいな服がタンスにしまいきれないくらいある。持って帰ってほしいが、捨ててくれ、と言われたそうだ。

 家族も見たくはないだろう。
 壊れた母を。
 手を出せば腕をつねられる。力だけは強い。


 最近入ってきたタラノキさん。
 若い。姉と同じ歳だ。70代前半。
 なのに、面会に来た娘さんのことさえわからない。
「なんにもわからないですから」
 初めて来た長女さん。
 父親もショートステイにいるが母親のほうが認知が進んでいる。
 春に亡くなったネムノキさんはご主人がしっかりしていた。よく面会に来たそうだが、妻が亡くなるとあとを追うように逝ってしまったのだと。
 カリンさんのご主人もよく面会に来ていたが、妻より先に死ねない、と言っていたが相当なお年だったのだろう。コロナ禍で亡くなった。
「タラノキさんは謙虚ですから」
 なんとか良いことを言ってあげたい。
「そうですかあ?」
 ユニットでいちばん大変なんですが……

 タラノキサンは接客業だった。(理容師)
 ショートカットで髪形はいつも羨ましいくらい決まっている。
 見た目はきちんとした奥さん。歩ける。食事は常食。
 手持ち無沙汰で素手でテーブルを拭いている。洗面所をシャツの裾で掃除している。キッチンペーパーを排水溝に詰め込む。
 かがんで床をこすっている。テーブルの足までこすっている。
 キッチンにも、スタッフルームにも入ってきてしまう。他の入居者の部屋にも入ってしまう。
 マンサクさん(男性)の部屋で肩を揉んでいた。マンサクさんも怒らないで揉ませていた。
 他の女性は嫌がって、自室の鍵をかける。タラノキさんの部屋の鍵をかけるのは虐待になるのだ。

 私より若いツバキさんも謙虚だ。きちんと挨拶をしてくれる。私がいる短時間の間に「すみません。ありがとうございます」を何度も言う。
 コデマリさんもそうだ。ありがとう、が口癖になっている。それはもう、ありがたみがない。
 謙虚そうだがふたりともわがままだ。若い職員は態度や言葉に出してしまう。
 ツバキさんは博識だ。リビングのテレビの真ん前の席なので、ニュースに詳しい。いろいろ教えてくれる。事故や事件、災害、トランプさんがどうのこうの……
 半身が不自由だが認知はない。もう、ひとり暮らしは無理だから入居したのだろう。お子さんはひとり。同居はできない。
 お金はどうなっているのか気になってしまう。自分の年金か遺族年金?
 家賃や介護費用のほかに、身の回り品、おやつ等は職員が買いに行く。今のユニットは皆オヤツが豪華だ。少し前までは冷蔵庫は空っぽだった。皆チョコレート菓子や和菓子、飲み物も〇〇○コーヒーのカフェ・オレとか。家族からの差し入れも多い。
 そんな中でツバキさんはおやつがない。コーヒーも切れている。お金がない。家族からの入金がない。
 化粧品やおやつ代、子どもが出すのかわからないが、うちの息子だとしても、自分の生活で精一杯。月に5千円でも大変だと思う。
 知っているのか知らないのか、いろいろ要求する。
 でも高いんです。それは。
 

 ストイックだったポプラさんは亡くなった。
 紳士だった。それこそ誰よりも謙虚だった。それが最近の職員には信じられないようだっが。
 若い女性職員にはわがままになった。孫より若い子にキンキン注意されるのがプライドを傷つけたのか? 人を見て態度が変わる。まるで赤ちゃんのようにウーウーうなり、手がつけられなくなった。
 持病のせいか目の焦点が合わなくなり、耳も聞こえないようだった。
 そして夢を見た。
 夢と現実の区別つかなくなり、ひと騒動。
「人を殺してしまった。もう生きてはいられない」
と、トイレでタオルで首を吊ろうとしたとか。
 
 それからは見守り強化。
 電話口で奥さんは泣いていた。
 精神科往診が決まり数日し、ポプラさんは朝起きてこなかった。午後に熱発し搬送されすぐに亡くなったと。

 …………

 奥様には伝えたい。紳士だったと。
 私が会った男性の中であんなに謙虚で努力家の方はいなかった、と。

64 厄介だけど

 ネコヤナギさんの夢を見た。若い男性がなぜかネコヤナギさんで、私が聞いていた。
「あんた、本当に死んだの?」

 ネコヤナギさんは答えたような……支離滅裂な夢。
 
 入院してしばらくしてからの訃報だったから実感がないまま消えてしまった。
 そんな方が大勢いる。面会に来ていた兄弟姉妹も歳を取り来なくなる。
 子どもがいても来ない人も。
 
 それに比べて、しょっちゅう面会に来て差し入れが多い人もいる。
 でもね、食べられますか? そんなにたくさん。 
 そんなにたくさん。使いますか? ストローを毎回毎回。1年分はあるのでは? そんなにしまって置く場所はないのですよ。

 お菓子は棚や冷蔵庫を占領し、賞味期限との戦い。ごはんが食べられなくなる。もう歳だから、好きなものだけ食べてりゃいいと思うが。
 それでもこんなに長生きしているのだから。

 冬には暖かい羽布団。すごいボリュームの高そうな掛け布団。暖かすぎて暑がりのスイセンさんは汗をかく。施設の布団なら洗濯に出せるのだが。
 暖かくなり陰干しする場所もしまう場所もない。ギュウギュウにビニール袋に詰めて家族に持って帰ってもらった。
 毛布や肌がけ、洗うのは洗えるが、干すのは大変なのだ。乾燥機は壊れたままだし。なぜ、こうも対応が遅いのか?

 また職員が休職。もう、どのユニットも手が足りない。それでやっていくしかない。ひどいときは施設長が夜勤をしていたこともあった。
 超勤、残業、帰りが心配。有給取るのが特異な感じ。

 職員は少ないのに周辺業務のパートは多い状態。それで補えるわけではない。忙しくても手伝えない。介助してはいけない。 
 また、介護やってみない? と聞かれたが、あの腰の痛みはもう嫌だ。それにもう歳だし。
 
 だいたい、年金もらえるようになったから仕事を減らしたのに、なに? この値上がり?
 値上げには慣れなきゃ、と思うのだが、果物も買えない。去年はふたり暮らしなのにスイカを丸ごと1個買って思う存分食べた。
 今年は手が出ない。備蓄米も買った。昆布と味醂を少し入れて炊くとまあまあ。

 退職後の翌年は住民税に健康保険、多額の出費は予定していたけど、その後も高い健康保険、介護保険。
 少しばかりの蓄えは減るばかり。寒気がして仕事を増やした。

 もう、介護は行き詰まり。辞めても補充できない。残った人の身体が心配。主婦だったら無理だろうな。

 それなのに近くにまた介護施設が建っている。働ける人いるのだろうか? うちの施設も5階のユニットは職員が足りなくて、なかなかオープンできなかった。
 入居者は山ほどいるが、面倒を見る人がいないのだ。アジアの女性が3割くらい。ロッカーで聞こえてくるのは何語だ? 大声で喋っている。

 そんな状態を知らないのか、文句を言う家族がいる。トイレが汚いとか……
 確かに汚い。清掃業者は週に1度。都度都度汚れたら掃除すれば楽なのに、そんな時間はないようだ。
 だから、その方の面会日にはシーツ交換をして掃除をする。タンスの中も整理する。
 窓はずいぶん汚れているが、時間ないし、暑いからパス。レースのカーテンしているし。そこまでチェックするだろうか?

 ネパールの若い女性、8時間も働いているが、掃除ばかりさせたら嫌だろうし。以前毎回床掃除させられていたパートさんは施設長に言って異動して行った。掃除で雇われたわけじゃないのだ。
 自分で気がついてやってくれたらいいのに。指示されないとやらない。そう言われているのかわからないが。
 
 もう、パンフレットには本当のことを載せればいいのに。

 特養では、最低限のことしかできません。最低限の人数もいないのです。
 協力して掃除してタンスの整理をしてください。散歩に連れて行ってください。外泊させてください。
 もう、入居者よりも、介護者のほうが貴重なのです。うるさい家族は退去してもらいます……

 忙しくて心が荒む。ハジカミさんが毎夜フラフラ。ずっとそばにはいられない。
 また転んだ。

 もう、転んで骨折して入院しろ!

 なんて、心の中で叫ぶ。

 厄介な方のために体調壊した職員もいる。ストレスで頭痛。救急車で運ばれたことも。

 厄介な方が亡くなればホッとする。

 よかったですね。大丈夫ですか?

 タラノキさんも毎夜フラフラ。
 でも、不思議、この方は……好きなんだ。厄介だけど、優しくしてあげたくなる。

 新しく入ってきたカツラさんは面白い。食べてもすぐ忘れる。厄介なのだが。
 キッチンにいる私をじっと見ている。食べた後に言う。
「お食事はまだですか? なにか一品だけでもください」
 体格も良く言葉もしっかりしている。ただ、よだれが出る。いつもダラリと出ている。だからテーブルの上にタオルを置いて畳んだり伸ばしたり。
 ずっと喋っている。低音で耳障りではない。
「なんにもできない女なんです」
 思わず返した。
「え? それ、誰かに言われたの?」
 いつ、どこで誰に言われたのだろう?

65 疑問

 冒頭は、第1話を少し抜粋、加筆修正しました。

 ごはんはユニットで炊く。今は粥になった方が多いが。
 それを若い子は中高に盛る、ということを知らない。不味そうに盛る。ペタンコに、汚く。
 前にいた女性の職員は、茶碗も汁椀も箸もおかずも、右も左も前後もおかまいなし。
 たかだか短時間のパートの私はなるべく黙っていようと思い、注意しなかった。
 配られた認知症の年配者は無意識にだろうが位置を直す。

 △年目の女性。注意されずに異動になったら、異動先で注意されまくり、メンタル弱くて行けなくなった。
 たぶん……
 日本茶は急須に蓋をしないで注ぐ。とんでもなく薄い(こともある)。
 盛り付けは食欲を減退させる。
 キッチン周りはビショビショ。引き出しは開けっ放し。ゴミ箱にゴミは入らず落ちていた。

 都度都度、私は拭いていた。閉めていた。ゴミを拾っていた。

 さて、私が出勤して一番にやることは何でしょう?

 ゴミ箱のゴミを押し込むこと。
 燃えるゴミも燃えないゴミもふんわりと溢れそうになっている。空気を抜くと半分に減る。
 ずっと疑問だった。なぜ皆、押し込まない? ときには下に落ちている。丸めたキッチンペーパーや汚れたラップが。

 昨日馴染みの美容師さんとそんな話をしたら、旦那さんが(若くはないのに)そうなのだと。何度言ってもふんわり。
 ゴミにはさわりたくないのだそうだ。

 そうか? 雑菌に対してはすごい知識があるのだ。
 子どもたちの家にはテーブルを拭く台布巾というものが存在しない。ウエェっトティッシュだ。孫は言う。
「おばあちゃんち、ウエットティッシュないの?」
 きっと、お嫁はいやだろうな。洗っておろしたての布巾でも、濡らした瞬間から雑菌が増殖する……

 ユニットでも、布巾を濡らさないで薄めた次亜塩素酸をスプレーして拭く。私は水で絞った布巾でキッチン周りも拭く。 
 若い子はそれは苦手だと。ペーパーで使い捨てにしたい、と。そしてゴミ箱にフンワリと。押し込まない。
 納得……?
 でも……

 忘れてはならないのは、人間が無菌の環境で生きているわけではないということだ。私たちや周囲を取り巻く環境の何もかもが、細菌で覆われている。それが正常な状態なのだ。

 さらに、私たちは電話やドアノブに触れることで、または握手をしたりキスをしたり、セックスをしたりすることで常に他人と細菌を「共有」している。私たちが一か月以上にわたって使う歯ブラシにも、細菌は付着しており、繁殖している。
 多数の細菌に取り囲まれた通常の環境が私たちの免疫力を高め、アレルギーや喘息の症状の改善につながっていることを示すデータも数多くある……

『台所のスポンジ、菌まみれでも心配無用な理由』より
https://forbesjapan.com/articles/detail/17246?read_more=1


 サカキさんの足が拘縮して座っているとわからないが、寝ていると膝が曲がっていて伸びない。
 職員がぽろっと言った。
「お棺に入らないよね」
 何気なく言ったのだろうが、引っかかった。不謹慎なことを言うな、ではなく、疑問が。

 またまた、美容師さんとの会話。
 15年前、おかあさんが亡くなった時、そうだったのだと。
 葬儀屋さんが棺に入れてくれた。近くに彼女がいると思わなかったらしい。
 バキッ! と音がした。
「やりやがったな」
と思ったが黙っていたと。
「15年前だけどね。今はどうなんだろう?」

 孤独死の場合、玄関に向かって腕を伸ばして亡くなったりしたら……
と、美容師さんは仕事の手を止めてそんな格好をする。
 折る? だって棺の蓋が閉まらない。そのまま収まる大きな棺があればいいけれど。

 これは検索したらたくさんある。
 実際に折られて憤慨した人、蓋から手が出ていていいのですか? と回答する人。
 家族の精神的な苦痛は金銭的に評価する方法しかない、とか。
 湯灌すれば伸びる? 乾物じゃあるまいし。

 だったら、鼻に綿を詰めるのはいいのか? 焼いてしまうのはいいのか? 等々。

 長生きして最後は棺の蓋が閉まらないで悩ませるなんて!!

 半世紀前、母が亡くなったときはエンゼルケアもされずに帰された。
 姉とふたりで排泄物の処理をし、体を拭いた。指輪はこのままでいいね、なんて思ったけど伯母に、はずすよう言われた。硬直した指からはずすのは大変だった。折れてしまうかと思うほど力を入れないとはずれなかった。

 先日夫が知り合いの奥様の通夜に行って来た。顔を見てやってくれと言われ見たら……
 とてもきれいだったそうだ。

 ターミナルケア、エンゼルケアは私が直接関わることはないが、資料を読んでレポートを書く。
 もっと調べてみよう。

66 お題から2

 ブティックで

 スタッフA「まあ、とても素敵ですわ」

 スタッフB「……」

 店長「割引しますよ。3割お引きします」


 Aは誰にでも言う。
 Bは正直な私。お世辞が言えない。
 価格は原価の3倍の3割引き。

 ある程度の「お世辞」は人間関係を良く保つために必要なこと。

 施設で

「お肌きれいね」

「髪型、素敵ですよ」

「素敵なお洋服」

「もうすぐご飯ですよ」

 施設では90歳過ぎた方に自然に言える。
 日に当たらなくなった肌はきれいになる。

 染めなくなった髪は元気になる。

 服は家族が季節ごとに持ってくるけど、スタッフは同じものしか着せない。

 ご飯は食べたばかり。


【お題】 真実

⭐︎

「さあ、婦人会始めるわよ〜」
 
 ユニットのボス、スイセンさんの演説が始まった。
 まだ60代の認知のないツバキさんは呆れ顔で居室に戻る。半身麻痺になり施設入居を余儀なくされたが、どう思っているのだろう?

 もうすぐ90歳のスイセンさんの声は大きく通る。話し始めれば30分でも話し続ける。
 周りの数人はまるっきり無関心。言葉ひとつ発さない。
 カツラさんは、
「あの、ごはんまだですか?」
 スイセンさんは、テーブルを叩く。
「あなたねえ……」
「でも、私、なんにももらってないんです」

 スイセンさんはこの前は、社長とやらの悪口を延々と喋っていた。相手をすると何もできない。仕事が終わらない。
 その前は彼氏に会いに行くと、エレベーターの前で待っていた。

 大変な方だ。

 ツバキさんが新しく入居した方と見栄比べ。海外はほとんど行った、アラスカも行った……
 認知はないが虚言癖か妄想癖か? 
 息子に家も車も買ってやった。その息子は医者で……
 お金残しておいて、もっと高級な施設に入ればよかったのに。ナースコール何十回鳴らしても飛んできてくれるような施設。そんなのあるのかしら?

 ツバキさんの預入金はゼロの時がよくある。化粧品やおやつ等は職員が買いに行く。
 この方に、お金がないとは言いにくい。


 スイセンさんが若くなった。
「さあ、生徒会始めるわよ〜」

 呆れ顔のツバキさん。
「わたくし、生徒会長でしたのよ。中学も、高校も」


【お題】 今日は生徒会長

⭐︎

 入居者にはうんざりしている。
 以前は、喋らない、歩けない、文句を言わない、食べて排泄して寝かせる、そんな方が多かった。
 そんな方々が続けて亡くなって入ってきた方達にはうんざり。
 まあ、元気といえば元気。口だけは。
 口は達者な認知症。
 ああ言えばこう言う。
 ムカつく。
 手は出さないけど。

 あとは、わがまま。
 女学生じゃあるまいし、あの人と同じテーブルはイヤ、隣の人がうるさい。歩くのがうるさい……
 あの方、義足で歩いているんです。90歳過ぎても。

 よだれ垂らして汚くて食欲なくなるわ……って、あなた、ここに来てからずいぶん太りましたよ。パジャマのボタンがはち切れそう。

 男の職員には従順なのに女には怒鳴り散らす男性。そうやって生きてきたのかしら?
 あなたがいなくなっても誰も悲しまない。ホッとするわね。

 あら、愚痴ばかり。かわいいものとは縁がない。

 でも、なかにはいるの。
 おじいちゃんあばあちゃんが好きな職員。
 新しい入居者の写真見て、
「かわいい〜。好きかも」

 この人、ほんとにお年寄りが好きなんだな。一生懸命。
 でも、そういう若い人が挫折して辞めていくのを何人も見た。

 お金のため、生活のため、こんな過酷な労働、安い賃金で嫌々働いている。

 なんて思ってたら昨日、普段はおとなしい女性が、笑った。
 いつも喋らず自分の腕や頭や耳をいじって、掻きむしってガーゼ貼られているおばあちゃん。
 ときどきブツブツいうけど会話にはならない。
 そんなおばあちゃんが笑った。
 その瞬間のかわいらしさ。
 なにか楽しかったのか、嬉しかったのか? どうしたのだろう?
 
 そのあと食事には手を出さず食事介助されてた。
 あんなかわいい顔見せて、もしかしたら亡くなっちゃうんじゃないかと思っちゃったくらい。

 以前もいたなあ。かわいいおばあちゃん。
「かあちゃん、かあちゃん」
しか言わないけど、小さな目で表情がかわいかった。
 疲れた職員の癒やしになっていた。

 お嫁のおとうさんが歳をとり偏屈になって、おかあさんが愚痴るのだそう。
 お嫁はおとうさんに優しく言った。
「歳を取ったらかわいいおじいちゃんになってよ」 
 聞こえたのか、耳も遠くなってるから。

 はい、皆さん。
 人生の最後の仕事は自分をかわいくすることですよ。
 かわいいじいさんばあさんになること。

 施設に入っても好かれるようにね。


【お題】 かわいいモノをつくるお仕事です

 他作品と重複します。

67 お題から 3

 某サイトのお題でほぼ毎日投稿していますが、介護や施設や認知症の話になってしまうことが多いです。
『掌編集』と重複します。


【お題】 仰せのままに 

   否定しないで

 認知症の方に対して、否定的な言葉や態度を示すことは避けましょう。
「それは違うよ」
「それはできないでしょう」
などの否定的な表現は、自尊心を傷つける原因となります。
(おうち病院)

 わかってはいるけど、すごい入居者もいる。
 今日は思い切り顔に出してしまった。

 帰ってきて反省。
 認知症相手に意味のない……
 でも、すごい奴。
 身内なら怒鳴って手が出てる。

 今までも、職員とのトラブルが何度かあった。
 あなたが原因で辞めていった職員もいた。
 大袈裟に土下座した職員もいた。
 この職員も辞めた。離職率はかなり高い。
 そんな施設に、早10年。

 ああ、ムカつく。
 人間だと思うからムカつくのなら、豚がブヒブヒ唸っていると思うことにする。

 否定しないで、仰せのままに……
 でも、ムカつく。ムカつく。
 眠れないくらい。

 もう、施設の理念もなんのその、
 尊厳?
 私の尊厳はどうしてくれる?
 周辺業務は最低賃金。

 介護士さんはもっと大変。
 暴言、暴力。

 そんなあなたに介護保険と税金から毎月何万円?
 介護度4だから27万円。
 年間で320万円。10年で3200万円。
 あと、何年かしら? 税金からあといくら?

 こんなことが続くわけない。
 そこまできている介護破綻。
 もう施設に入れるのはお金のある人だけ。
 だって、介護する人もいなくなるから。

⭐︎

【お題】 ⚪︎⚪︎を克服したきっかけ

   妄想癖

 ひとり暮らしの私はかなり認知が進んでいて、隣から苦情があったらしい。
 部屋は汚物と虫で凄まじかったようだ。
 
 この頃の私は栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に覆う黒や青や黄色のミミズ腫れ、無数の傷跡があり、爪は異常に伸びきっていて、もはや、一人では歩けなかった。

 ひとり暮らしの私は施設に収容された。
 入浴し着替えさせられた。医師の診察を受けた。
 妄想がすごかったらしく、自分をルイ17世だと言い張り呆れさせた。
 鏡に自分の顔を写した。 
 人種が違う。国が違う。性別も違う。
 顔もぜんぜん違う。

 日に日に私は回復し押し車で歩けるようになった。体重も増え、肌も髪も健康になった。
 薬のせいか、頭には(もや)がかかっている。

 もう、自分が誰なのかもわからない。
 なぜ、ここにいるのかわからない。
 もう、バカなことは言わない。妄想癖は治った……

 皆が言う。
「家に帰りたい」
 家?
「あなたはどこに住んでたの?」
 
 私の家は?
「宮殿に住んでた」
「はい、はい、女王様」

 帰りたくない。
 あんな、光も入らない不潔な部屋には。

 私は入れ替わったのだ。この国のひとり暮らしのお年寄りに。
 可哀想なその女性は、知らない国の過去の時代に死んでいったのだろうか?
 
 それともやはり妄想なのか?

 僕はわずか10歳で死んだフランス国王ルイ17世。
 悲劇の王妃マリー・アントワネットの2番目の息子だ。 

⭐︎

【お題】 デジャブ

   悲しいデジャブ

「あなた、あなた、私に会ったことない?
 私を知ってるでしょ?」

「さあ、ここはどこ?
 なんにもわからない……」

「あなた、
 あなたと私はふたりでローマが燃えるのを見た」

「そうだったか?」

「42年、私たちは引き裂かれた。あなたはナチスに連れて行かれた」

「そんなこともあったかな?」

「9月11日、あなたはビルの中に。写真のあなたは笑っている」

「そうだ、そうだ」

「あなた、あなた、もう離れないわ」

「オラ、トイレ」

「なに言ってんのよ。私たちもう決して離れないわ。決して!」

「スイセンさん、服脱がないでください。タラノキさん、トイレ行きましょう」

「何度生まれ変わっても、もう離れないわよ〜」

⭐︎
 
【お題】 私のライフワーク 

   ある研究

 結婚して子どもができて退職して、そろそろ働こうと思ったらまたできて……
 でも、パート勤務も4か所目。今の介護施設に勤めたのはなんと59歳のとき。
 
 すぐ近くの施設で、入居者さんにも職員にも面食らうことばかり。
 そんなこと、あんなことをエッセイにして投稿したら、結構読まれてる。
 
 もう、自分を実験台にして、認知症研究していくつもり。どうしたら介護状態にならずにすむのか? 

 今のところわかったのは……
 歩く。
 人と関わる。
 歯を失くさない。毎日キシリトールガムを5分噛む。

 お題を考えて投稿する。
 
 いつまでできるかな?
 
 いつまで働けるのかな?
 契約更新では、まだOKだって。

⭐︎

【お題】 異様な隙間

   出てこられない訳

 隙間女という怖い都市伝説があるみたい。
 
 そうか、それだったのね。
 ずっと誰かに見られている感覚。

 押入れは締めても隙間空くし、冷蔵庫と食器棚の間は隙間がないとね。

 どこにいるの?
 隠れてないで、出ておいでよ。
 出られないの?

 そんな恨めしそうな顔しないで……
 出ていらっしゃいよ。お話しましょ。
 おはぎもあるわよ。
 あら、オニギリにぎっしり虫が……
 あら、ぎっしりって、この使い方でよかったかしら?
 
 ぎっしりとは……
 全てにおいて隙間なく詰まっている様子。
 私は勉強家だったのよ。

 あなたも隙間に詰まっちゃったの?
 動けないの?
 そんな恨めしそうな顔しないで。

 それとも妄想なのかしら? 自分の歳も忘れたし。

 それに、出てきても足の踏み場もないものね。
 ずっとゴミ出ししてないから異様な匂い。 
 
 え? 助けて欲しいの?
 虫たちは隙間が好きだからね。

 え? こっちよりマシだって?

 なに言ってんのよ。
 出てきて、掃除しなさあい!!
 怒るわよっ!!

68 お題から 4

【お題】 小説とごはん

   夜は憂鬱

 朝の仕事は3時間。配膳、シーツ交換、片付け、洗い物、洗濯、物品補充等々。
 立ちっぱなし、中腰、重いものを持つ、引きずる。手が荒れる。
 でも、楽。
 皆、比較的おとなしい。
 気力がない方もいる。精神薬のせいか、箸も持てない。持ち方、忘れたの?
 薬の量、減らした方がいいんじゃ? と素人の私は思うのだ。

 10時に帰って、のんびり。読んだり書いたり、ごはん作ったり。  
 ごはんは食事のことを言うのね。
 施設では、若い人は、「コメ、よそって」と言う。「コメ、食べる?」とか。
 
 娘の義親が新潟の農家さんから米を毎年買ってきてくれる。今年は90キロのお米が娘の家に届いた。市販の半額くらい。ありがたい。
 新潟の新米は炊いた時のツヤが違う。今年は備蓄米も食べた。みりんと昆布を入れて炊いた。まあ、普通だったけど。

 新米は米のとぎ汁で炊くと美味しいのだとか。軽くといで、浸水15分、ざるにあけて15分。そしてとぎ汁を米と同じ量。米はカップではなく重さを計った方が良いそうだ。2合半で375グラム。水も同量。
 そして、早炊き。すぐに炊き上がる。

 そして食べ過ぎて、夜の仕事に行く。

 夜は憂鬱。
 皆、元気。夕方症候群。帰りたい症候群。朝と夜、同じ時給っておかしくない?

 歩けないのに立ち上がるからピーピー鳴る。座らせても、またすぐ立ち上がる。ピーピーピーピー、仕事になりゃしない。
 転んで入院しろ、と……思いません。

 フラフラ他人の部屋に入る人、お願い、座ってて、と本を読ませる。
 ボロボロの雑誌やなぜか文庫本。それに、なぜか英語の小説まで。
 それをページをめくっている。指に唾つけてめくっている。
 小さいおばあちゃんは、だんだん車椅子から滑ってずり落ちていきそう。ベルトしてやりたい。Y字帯したいですね、とリーダーさん。でも、それは拘束になるんです。

 ああ、もうすぐ、また虐待研修の面接。1年早いなあ。

⭐︎

【お題】 浮遊層

   浄化

 この間死んだらしい。

 死ぬと魂が離れ浮遊する。
 魂には重さがあると聞いたことがある。死んだ私の体は魂の分だけ軽くなったはず。
 
 私は浮遊層を漂った。
 人は亡くなると、しばらくの間この層にいるらしい。この世とあの世の間。

 この世に未練のない人はさっさとあの世に行くが、執着がある人はずっととどまる。
 
 なかには、死んだのかもわからない魂もいた。自分が誰だったのかもわからない魂も。最近では大勢いるそうだ。そういう魂はずっと漂う。

 だから、浮遊層は大変なことになっている。
 浮遊層は重力に縛られない場所なのに上手に浮遊できない魂が大勢いる。

 私はまだ23歳。簡単に成仏できない。

 結婚したばかりだ。
 かあちゃんより先に死ぬなんて。

 声が聞こえる。

「棺桶の蓋、閉まらないよね」
「足の関節折るのかな? でも、棺桶の蓋が閉まらないよりはいいよね」
「まったく、最後まで面倒かけて」

 しばらくの間、私は見ていた。あんなに小さい私の体。拘縮して足がひどく曲がっている。

 あれは、私の孫? いや、ひ孫たちだ。
 夫はすでに死んでいたのか? それさえ知らされなかった。
 息子は? 息子も亡くなっていたのか。
 
 私は100歳を超えていた。
 嫌われていたから、皆せいせいしてるだろう。誰も涙を流さない。

 もう未練はなくなった。心配なのはひとつだけ。
 
 棺の蓋がしまるだろうか?

 いや、そんなことはどうでもいい。
 
 浮遊層にまだ夫も息子もいるかもしれない。
 
 納得した私は浄化されたようだ。

⭐︎

【お題】 ずっと一緒
 
   ひとり

 ひとり暮らしをしたことがない。
 結婚するまで父と同居。
 40年以上夫と同居。
 
 嫌な時も、イヤな時もずっと一緒。

 ああ、ひとり暮らしをしてみたい。

 たぶんできると思う。 
 できるなら、まだ元気なうちに。
 足腰丈夫で頭もしっかりしているうちに。

 ひとりを謳歌しよう。
 持病はないし、遺族年金といくらかの蓄え。
 働けるうちは働いて。80代でも働いてる人がいるから。日に1時間でも働いて、死ぬ前の日まで働いて。

 共同生活は嫌だな。 
 テレビの音は凄まじく大きいし、入浴は週に2回。3番目だなんて浴槽に入りたくない。

 お茶はぬるいし、薄い。
 野菜は茹ですぎ。ごはんは柔らかすぎ。
 
 ああ、施設に入るお金はないか。

⭐︎

【お題】 寝言ずもう

   悲しいひとりずもう

 ハジカミさんの妄言がひどく精神科にかかるようになった。
 歩けないのに立ち上がるので何度も転んでいた。
 でも、不思議と骨折しない。受け身がうまいのか……
 そして、転んだことも忘れる。

 もう、転んで入院しろ! 
と、こちらも心の中で暴言を吐く。口に出す職員もいた。

 ハジカミさんのために職員は疲弊していた。
 暴言、暴力がすさまじい。
 便をする時に大騒ぎ。
「産まれる〜 先生呼んで!」

 病気のせいだ。娘さんによると穏やかな方だったらしい。

 精神薬のせいで朝は起きられなくなった。それでも食事しないと薬を飲ませられないので起こす。
 もう、箸の持ち方も忘れたようにおぼつかない。眠って茶碗を落とす。中身も床にぶちまける。カップを落とす。飲み物にはとろみ剤が入っているので掃除が大変。
 それでも朝はおとなしい。ごめんなさい、と謝る。

 午後はひどいらしい。車椅子には立ち上がるとピーピー鳴るようにセンサーをつけた。

 車イスから腰を浮かすとチェアセンサーが検知し、大事に至る前に介護士が駆けつけることができるというもの。

 夕方私が仕事に行くとピーピー鳴りまくっている。テーブルにハジカミさんひとりだけ。キッチンに近い席なので私は何度も手招きされる。

 もうすぐごはんです、と言っても帰ると言って立ち上がる。完全には立てず、ドスンと座り込む。
 仕事になりゃしないから放っておく。言うことは支離滅裂。

 ここは上野でしょ?
 何か用? 文句あるんですか?
 さわらないでっ!
 あなた、家に遊びにいらっしゃいよ。一緒に帰りましょ。
 もう、知らないっ! 

 何を叫んでもいいんです。立ち上がらないでくれたら。
 まるでひとりずもう。立てないのに何度も何度も挑戦する。
 実りのない物事に必死で取り組むハジカミさん。

 寝言よりひどい暴言ずもう。
 ひとりで何度も立ち会い、立っている時間だけピーピー鳴っている。

 頑張れ!
 おお、バランスの奇跡!
 
⭐︎

『立ち会い』とは、力士同士が呼吸をあわせて『立ち合う』のが語源。
 審判など第三者によらず、競技者同士の合意によってはじめて競技が開始されるという意味で、対戦形式のスポーツの中ではきわめて稀有な形態である。
 ジャン・コクトーは『バランスの奇跡』と讃えた

ついのすみか Ⅶ

ついのすみか Ⅶ

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 61 ならないために
  2. 62 お題から
  3. 63 言わないで
  4. 64 厄介だけど
  5. 65 疑問
  6. 66 お題から2
  7. 67 お題から 3
  8. 68 お題から 4