
その直前のその先
普段街を歩いていると、以前よりタバコの吸い殻が、そこらに捨てられているということがなくなってきたなと思ったりする。その反面、コロナ禍を過ぎた今でも一定数の人がマスクをしているせいか、マスクのポイ捨てというのか、気づかない間に落としているのか、それが目につくようになった。
一方で、これもきっとコロナ禍が明けて、平和な世の中を象徴している物の一つなのだろう。二月にバレエを観に行った時も、アルコール飲料の氷結の空き缶が道端に一本、何日も前からそこに文句も言わず、泥水を浴びて立っていた。
氷結であるから、アルコールであることに間違いない。そうすると、この氷結を飲んでいた人物が一体、何本目の飲酒になるのか分からないが、酒を飲んでいることに変わりはなく、これを飲んでいた奴は酔っているに違いない。この空き缶一本だけが、そこに行儀よくオブジェのように立てられているということを考えると、きっと一人で静かにここに座り込み、最終的に酒を飲み干し家路に着いたと思われる。なぜ一人と推察したかは、空き缶が一本だけだったという理由の他に、もし複数人で同じ場所で酒を飲んでいたのだとしたら、この空き缶一本だけを置き去りにして、この場を立ち去るということはどうも考えにくいからである。気の利いた人ならば、自分の飲んだ空き缶くらい持って帰るのは当たり前のことであるし、道に置きっ放しにされた空き缶をたった一本だけそのままにして帰るような、そんな無神経な人ではない筈である。もしくはそれとは正反対に、同じような空き缶がまるでボーリングのピンのように、ふざけてきれいに立てられていたかもしれない。
この空き缶の所有者は間違いなく男。年齢は特定不能だが酒を飲む人で余り幸せじゃない人。何となくここに自分がいた痕跡を残して帰りたかったのかもしれない。などと、探偵じゃあるまいしこんな推理をしてみたところで、何が正解か分からない。考え過ぎのノイローゼと思われるのがおちである。しかし、空き缶はきちんとゴミ箱に捨てられて、リサイクルされるところまでが空き缶の人生である。ずっとそこに突っ立って、雨に降られて泥まみれになるのは空き缶にとっても不本意なことである。
この後、酒を飲み干した男が向かった先には何があったのだろうか。誰も待つことのない灯りのついていない真っ暗な部屋に、ほろ酔い加減で帰ってそのまま万年床へダイブして、朝まで突っ伏して平和に眠ったのだろうか。それとも人生最後に飲む酒と決めて、どこか死に場所を求めて彷徨い歩いたか。それとも、誰かを殺してやろうと景気づけにこの氷結を煽って、相手のいる場所へと意を決して向かったのか。殺したのか未遂に終わったのか。それは誰にも分からない。唯一分かっているのは、その直前までこの氷結をこの場所で飲んでいた。ただそれだけである。
何気ない日常の景色に目を向ける時、人は何を思うのだろうか。退屈に思える毎日でも、そこには考え方次第で自分でも想像だにしていない、壮大なドラマが待ち受けているかもしれない。
同じような毎日はあっても、同じ毎日は二度とないのである。起こってもいない先のことを考え、思い煩えるのは、案外幸せなことなのかもしれない。
どうせなら、楽しいことを思い描き思い煩いたいものである。
その直前のその先
2025年3月29日 書き下ろし
2025年5月28日 「note」掲載