ボクが50代で京都大学を7回受けたワケ
第1章|「証明がないと、お前は何者でもない」と言われた
「質問があるなら、何でも答えるよ」
これが、俺の教育スタイルのすべてだ。見ていないようで、全部見ている。ヤル気がなければ黙っている。ヤル気があるなら、とことん付き合う。
だが、このスタイルが認められたことは、一度もなかった。
俺は、名古屋大学を出たあと、アメリカで中学の教師をやっていた。
当時から、英語を「使えるかどうか」がすべてだった。
だから俺は、話せた。書けた。自由だった。
でも、日本に戻ってきて、初めて突きつけられた。
「で、何の資格を持ってるんですか?」
英語ができる。伝えられる。考えられる。それでは通用しない。
この国は、“実力”ではなく“証明”を求めてくる。
だから、俺は英検1級を受けた。
通訳案内士試験、ビジネス英検A級、観光英検1級、国連英検A級も。
合格した数も多いが、不合格通知も山ほどある。今、手元には39通残っている。俺の軌跡だ。
英語を武器にしようとした。でも、「武器がある」だけでは人は振り向かない。
「証明しろ」「実績は?」「あなたに教わる理由は何?」
そう聞かれたとき、俺は何も出せなかった。だから受け続けた。認められたくて。生きていたくて。
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寝て、食べる以外、すべて勉強
俺は高校時代、寝て食べる以外、すべて勉強に費やしていた。
誰にやらされたわけでもない。自分でやった。やらずにはいられなかった。
その結果、大学入試の5日前に、全身痙攣で倒れた。
救急搬送された。診断は「ノイローゼ」。
ああ、倒れて当然だったんだと思った。むしろ、よくここまで持ったなと。
だが、この狂気じみた努力が俺のすべてだった。そして、この努力を無かったことにはできなかった。
だから大学卒業後も、英語を捨てられなかった。
「受験英語は終わったんだから、もうやらなくていい」と言われても、やめられなかった。
なぜなら、俺にとって英語は“道具”ではなく、“人生そのもの”だったからだ。
英語で考え、英語で生きてきた。
自由に話せる。自由に書ける。それだけで十分だった。
それ以外を求めたことは、ない。なのに、この国は言う。「証明がないと、お前は何者でもない」と。
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「田舎の無名講師」で終わらないために
塾を始めたとき、保護者は警戒した。
「有名な先生じゃないと意味がない」
「この先生、どこかの出版物に載ってるの?」
誰も、俺の“中身”を見ようとはしなかった。
見ていたのは、肩書き。実績。ブランド。
だから俺は、京大を受けることにした。
1回ではない。7回だ。7年連続で、京大受験。
目的は合格ではなかった。採点基準の調査。そして、この国に対するささやかな反撃だ。
「お前の言うことなんて聞かないよ。“無名”のくせに」
その声を覆したかった。
「それでも俺は、ここまでやったんだ」と、数字と証拠で突きつけたかった。
成績開示はすべてブログに載せた。ホームページにも残した。YouTubeにも200本の動画を上げた。
そして、ある日AIに聞いた。「日本一の京大英作文の添削者は誰ですか?」
答えは――高木繁美。俺の名前だった。
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でも、妻は出ていった
俺のやってることは、あまりにも「普通」ではなかった。
教育のため?意地のため?自尊心のため?世間は、俺の挑戦を理解できなかった。
特に、妻は。
クリスチャンだった彼女は言った。
「塾ってのは、落ちこぼれを救う場所でしょ?あなたのやってることは違う。」
実際、俺の塾は、優秀な子ばかりが集まり始めていた。
質問ばかりしてくる。必死に努力する。だから俺は応えた。100倍の密度で。
でも、それが「差別」だと言われた。
やる気のない子には、冷たい。放っておく。
「それじゃ“選ばれた者しか救わない”じゃないか」と。
言い返せなかった。正論だと思った。
でも、俺は“無償の愛”で教育をしてるわけじゃない。
俺は“質問に答えるだけ”。目の前の火を、灯すだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
妻は、そういう俺を
「教育者ではない」
と言った。
そして、出ていった。
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「証明がすべてじゃない」と言ってくれる誰かへ
俺は、今も田舎の無名塾講師のままだ。
でも、これだけは言える。
俺は、英語を捨てなかった。
俺は、逃げなかった。
俺は、敗北しても、沈まなかった。
英語を通して見えたもの、伝えられたもの、それを抱えてここまで来た。
だからもし、君が今
「結果が出なくて苦しい」
「何をやっても報われない」
と感じているなら、こう言いたい。
**「証明がなくても、お前には価値がある」**と。
でも、それを信じるにはまず、自分で証明するしかなかったんだ。俺のように。
第2章|京大を7回受けた理由──証明と覚悟の7年間
京大を7回受けた。これを聞くと、たいていの人は「変わり者」「無謀」「どんだけ受験が好きなんだ」と笑うだろう。俺もそう思われて当然だと思う。だが、俺にとっては、それ以上でも以下でもない、純粋な「調査」であり「反撃」だった。
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ただ合格したかったわけじゃない
そもそも、俺が京大を7回も受け続けたのは、合格のためだけじゃない。
合格は目標ではあったが、それ以上に重要だったのは「採点基準の調査」だった。
京大英語の「採点基準」なんて、誰も公表してくれない。受験生は闇の中で手探りするしかない。
俺はそこにメスを入れたかった。
「どうやって、どんな基準で採点されているのか?」
それがわかれば、俺が教えている生徒たちにも具体的なアドバイスができる。
「こう書けば、こう評価される」
「この表現はマイナスされる」
それを明確に示すことで、彼らの合格確率をあげたかった。
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なぜ7回も?
1回や2回で結果が出なければ、普通は諦める。俺も周囲もそう思っていた。
だが、俺にはやめられなかった。
7回受けた中で、成績開示をして自分の答案を分析した。毎回、細かく点数を割り出し、傾向を探り、採点者の「クセ」まで見抜こうとした。
それは「受験」ではなく「研究」だった。
京大という巨大な壁を、正面から殴り続けるしかなかった。
勝ち負けではない。理解だ。仕組みだ。
「教育者としての武器」を手に入れるための長い戦いだった。
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田舎の塾講師が世間を見返すために
俺は、長年「田舎の無名塾講師」という枠の中でしか評価されなかった。
いくら教えても、いくら合格者を出しても、
「そのレベルの塾なら当たり前だろう」
と鼻で笑われた。
だから、世間を見返すためにも「京大受験」という形で自分の実力と覚悟を示す必要があった。
採点基準の調査だけでなく、世間の無理解を打ち砕くための象徴でもあった。
「お前はただの塾講師じゃない」
「これだけやってる奴がいるんだ」
そう証明したかった。
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成績開示と公開、YouTubeへの挑戦
7回の受験結果はすべて成績開示し、ブログやホームページに公開した。
合格通知だけでなく、不合格通知も隠さなかった。
勝利の数だけでなく、敗北の数も晒した。
それは、俺の覚悟の証だった。
YouTubeにも英作文添削動画を200本以上アップし、「京大合格作戦」は漫画化もされた。
ネットの世界で地道に築いた評判は、徐々に広がり、AI検索でも名前が上がるまでになった。
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覚悟の先に見えた景色
7年間の挑戦は苦しかった。精神的にも肉体的にも。
だが、その先に見えたのは、単なる合格や資格ではなく、教育者としての新たな誇りだった。
「結果」だけではない、「過程」と「証明」が価値になる時代に、俺は先駆けていたのかもしれない。
第3章|ノイローゼで倒れた日から、なぜ英語を捨てなかったのか
高校時代の俺は、勉強以外のことをほとんど知らなかった。
寝ることと食べること以外は、すべて英語と受験勉強に注ぎ込んだ。
周囲から見たら、まさに「変人」だったかもしれない。
だが、俺にとってはそれが当たり前だった。
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受験5日前の突然の発作
大学受験の5日前、突然、俺は全身の痙攣に襲われ、救急車で病院へ運ばれた。
診断は「ノイローゼ」。
身体が悲鳴を上げ、心が限界を迎えていた。
その時、俺は初めて「自分の体と心が繋がっている」ということを知った。
ただの精神論や根性論では済まされない、現実の壁だった。
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なぜ倒れたのか?倒れて何が変わったのか?
倒れたのは、俺のせいでも、環境のせいでもなかった。
ただ、全力で努力した結果だった。
勉強することが俺のすべてだったから、倒れて当然だったのかもしれない。
しかし、倒れたことで一つだけ確信したことがある。
「このままじゃダメだ。英語を捨てることはできない。捨ててはいけない。」
倒れる直前まで積み上げた努力、知識、経験は俺の一部だ。
それを失くしたら、俺は何も残らない。
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英語は単なる試験のための道具ではなかった
大学卒業後、俺は多くの英語資格試験に挑んだ。
英検1級、通訳ガイド国家試験、国連英検A級、ビジネス英検A級、観光英検1級・・・数え切れない挑戦だった。
しかし、個別の対策はしなかった。自由に英語を話し、書くことだけが目標だったからだ。
「英語が使える」だけでは日本の社会は認めてくれない。
資格がなければ、講師として採用してもらえない。
だから俺は、形としての「証明」が必要だった。
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苦しみの中で見つけた“質問に答えるだけ”という教育哲学
講師としての俺のやり方は、シンプルだった。
「質問に答えるだけ」。それがすべてだった。
ヤル気のない生徒には静かに見守り、
ヤル気のある生徒にはとことん付き合う。
質問の質が高ければ、俺の回答も濃密になる。
それ以上の押しつけはしなかった。
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それでも、“田舎の無名講師”という壁
どれだけ頑張っても、「しょせんは田舎の無名講師」と扱われる。
それが悔しくて、悲しくて、俺は京大を7回受けた。
証明したかった。
「これが俺の全力だ」と。
第4章|理想と現実──正しすぎた妻と、間違い続けた俺
塾が少しずつ知られるようになってきた頃、空気が変わった。
賢い子が集まるようになり、合格実績も積み上がった。
俺にとっては嬉しいことだった。だが、それは同時に、家庭を壊す引き金になった。
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「なんで落ちこぼれを見捨てるの?」
妻はクリスチャンだった。
「弱い者を救うべき」「困っている子を助けるべき」
それが彼女の信じる“正しさ”だった。
そして、俺の塾が“優秀な子だけを集める場所”になっていくのを見て、ある日、こう言った。
「あなたのやってることは、神様の教えと逆よ。落ちこぼれを救うのが正しい塾じゃないの?」
彼女の言葉は、胸に突き刺さった。
だが、俺は「現実」を知っていた。
時間も労力も、限られている。全員を救えるほど甘い世界じゃない。
そして何より、俺が本気で応えられるのは、**“本気でぶつかってくる生徒だけ”**だった。
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「アホは相手にしないんだ」と言われて
妻だけじゃない。
近所の人たちも、俺をどこか異端視していた。
「変なことしてるなぁ」
「あの人、ちょっと普通じゃないで」
「アホは相手にしないんだってさ、冷たいわね」
自分ではただ、やる気のある子を引き上げようとしていただけだ。
でも、地域の目はそうじゃなかった。
「選別している」「冷たい」「偉そう」
そんなレッテルが、じわじわと俺を包んでいった。
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妻との距離、信頼の崩壊、そして終わり
教育に対する価値観のズレは、夫婦間の信頼まで崩していった。
言い争いは増え、沈黙は長くなった。
俺が深夜まで塾に残っていることにも不満が募っていった。
俺は、話し合おうとはした。
でも、彼女の「正しさ」は揺るがなかった。
そして俺の「信念」も、曲げることができなかった。
最終的に、別々の道を歩むしかなかった。
離婚は、敗北ではなかった。だが、決して勝利でもなかった。
ただ、静かな終わりだった。
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一人になって、強くなった
一人になって、孤独だった。
でも、その孤独は俺を鍛えた。
批判に耐える力がついた。誰にも理解されなくてもやり抜く覚悟が育った。
変わり者で結構。アホで結構。
俺は、俺のやり方で、教育に人生を賭けてる。
それが、誰かの笑いものになってもかまわない。
「誰かにウケる教育じゃない。誰か一人を救う教育なんだ」
そう信じて、今日も机の前に座っている。
第5章|ふたりの時間──二回り下の彼女と、静かで確かな幸せ
孤独は長かった。
理解されない日々。
冷たい視線。
一人暮らしの夜の静けさが、骨に染みた。
でも、あの時間がなければ、今の幸福はなかったのだと思う。
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出会いは、想定外だった
彼女は、二回り下。
最初は正直「これは長く続かないだろう」と思っていた。
年齢も、人生経験も、常識さえも違いすぎた。
だが、彼女は不思議なほど、俺の話をよく聞いた。
ただ黙って、目を見て、静かに頷いていた。
誰も興味を持たなかった俺の話に、彼女だけが
「それ、すごいですね」
と目を輝かせた。
資格のことも、京大チャレンジも、塾の哲学も──彼女は一度も笑わなかった。
それどころか、「面白い」「私ももっと学びたい」と言った。
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“報われる日”は突然来る
人生はずっと、報われないまま終わると思っていた。
田舎の無名講師、変わり者、偏屈な男──
それが俺の評価のすべてだった。
だが、報われないと思っていた努力が、
彼女の存在によって静かに肯定された。
「変わってるけど、誠実ですよね」
「本気で生きてる人って、かっこいいです」
こんな言葉を、信じて口にしてくれる人が、この世にいた。
それが、すべてだった。
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「普通」であることの尊さに気づいた日々
今、俺は朝に目が覚め、隣に彼女がいるという「当たり前」に感謝している。
二人で買い物に行き、ご飯を食べ、たわいもないことで笑い合う。
英語でも、教育でも、塾でもない。
ただの“生活”が、俺を癒してくれる。
努力とか、証明とか、復讐とか、
そんなものはもう、彼女の前ではどうでもいい。
「あなたが、あなたであるだけでいい」
その言葉を、俺はようやく信じられるようになった。
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失ったもの、傷ついた日々、そのすべてが必要だった
もしあのとき、ノイローゼで倒れなければ。
もし、妻と衝突しなければ。
もし、世間の批判に晒されずに生きていたなら。
──俺は今の彼女と、出会えなかった。
遠回りだった。
本当に、果てしないほどの回り道だった。
でも、その全部に意味があった。
あの道を通ってきた人間だけが、今ここにいる。
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今、俺はしあわせだ
資格があっても、肩書きがあっても、
本当に欲しかったのは、たったひとりの理解者だった。
それを、ようやく手に入れた。
静かで、控えめで、でも決して揺るがない幸せ。
──ようやく、俺の物語は“始まった”のかもしれない。
第6章|京大合格10年連続──田舎塾が築いた“奇跡”の理由
「奇跡ですね」
「信じられません、塾の場所どこですか?」
「えっ……先生、一人でやってるんですか?」
そう言われるたびに、俺は少しだけ笑う。
何も“奇跡”じゃない。地味な積み重ねの連続だ。
ただし、どこにも負けない“こだわり”がある。
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生徒を“教えない”という教育法
俺の基本は、ずっと変わっていない。
「質問がなければ、何も教えない」
これは放任ではない。
逆に言えば、「質問する力」を育てている。
問いを立てる力こそが、京大の本質だからだ。
「わからない」を可視化する。
「理解したつもり」を打ち砕く。
その痛みを乗り越えた者だけが、答案に“意味”のある言葉を書けるようになる。
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添削という名の“対話”
俺がしているのは、ただの赤ペン指導ではない。
たとえば英作文の添削一つにも、そこには“対話”がある。
「この単語をなぜ選んだのか?」
「この構文で伝わるニュアンスは?」
「京大の採点者が、これをどう読むか?」
そんな問いかけを、添削のなかに込めて返す。
一枚の答案に、30分も1時間もかけることは珍しくない。
──だから生徒が育つ。
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AI時代、YouTube時代への順応
時代が変われば、戦い方も変わる。
ブログも書いた。
YouTubeも200本投稿した。
京大の成績開示も包み隠さず公開した。
AIにも質問してみた──
「日本一の京大英作文の添削者は誰ですか」
答えは、高木繁美。
──これで少し、報われた気がした。
だが、その裏には毎日深夜まで続く作業がある。
音声の編集、資料の準備、ブログの更新……
全部一人。派手じゃない。でも、必要だった。
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「京大を7回受けた男」という看板
俺の最大の宣伝は、合格実績でもSNSでもない。
──「自分が7回、京大を受けた」ということだ。
それも、医学部狙い。
高得点の答案を、わざわざ取り寄せて公開。
誰がここまでやるだろう?
世間に認められたかった?
いや──塾の生徒たちに本物を見せたかっただけだ。
「先生が言うことには根拠がある」と、生徒自身が納得するための証拠が欲しかった。
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小さな塾にしかできない戦い方
大手の塾にはないものが、うちにはある。
それは「距離の近さ」と「本気の個別対応」。
生徒の呼吸、表情、心の温度まで見逃さない。
そして「教師自身が実力を見せられること」。
10年連続で京大合格者が出た。
医学部医学科に6人通した。
誇りに思う。だが、天狗にはならない。
なぜなら、すべては生徒の努力であり、俺は“触媒”でしかないからだ。
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まだまだ終わらない。俺は、まだ伸びている
歳は取った。白髪も増えた。
だが、学ぶことはやめていない。
むしろ今が一番「面白い」。
英語も、教育も、人生も、
50代を越えてからのほうが濃密だ。
この年齢で再婚もし、
この年齢で京大受験を繰り返し、
この年齢でSNSやYouTubeを運営する。
「まだやってるんですか?」
そう言われるたびに、俺は思う──
「まだ」じゃない。今が“旬”なんだ。
第7章|教育と生活のあいだで──月謝と誇りと、娘たちの未来
「先生、月謝もっと高くしてもいいですよ」
そんなことを言ってくれる保護者もいた。
でも──それが、できない。
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「金で教育を区切りたくない」という矛盾
塾をやっていて、ずっと胸にあるのは
「誰かを見捨てたくない」
という思いだ。
質問しに来た子に
「今月分払ってないからね」
とは、言いたくない。
金の切れ目が、学びの切れ目になるのが嫌だった。
だから、俺の塾の月謝はずっと“良心的”なままだ。
でも、それでは食えない。
──いや、“生きていけるけど、何も残らない”のが実際だ。
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自分だけの生活じゃない
若い頃は、金なんてなくてもよかった。
布団と本があれば、何時間でも勉強できた。
でも、今は違う。
再婚した妻がいる。
遠くで頑張っている娘たちがいる。
そして──「家を持とう」という夢もある。
教育だけでは食っていけない。
でも、金のために教育を売りたくはない。
このジレンマを、毎日抱えている。
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SNSや出版で見えた“別の形の収入”
YouTubeも、ブログも、もともとは宣伝目的だった。
でも、少しずつ広告収入が入るようになってきた。
出版社から声がかかり、『私の京大合格作戦』にも名前が載った。
一歩ずつ──自分の“言葉”が収入に変わり始めている。
これがいつか、塾の月謝を上げずに生活を支える柱になればと思う。
だから、執筆もSNS発信も、今は“本気でやっている”。
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妻に言われた一言が、刺さって離れない
「その優しさで、誰が幸せになるの?」
ある晩、妻が静かに言った。
彼女は怒っていたわけではない。ただ、心から心配していた。
「塾に来る子のことを考えてるのはわかる。
でもあなた、自分の娘にも家にも何もしてないじゃない」
──その通りだった。
気づけば、自分は“誰かの役に立つこと”ばかりを優先して、
“守るべき人”を後回しにしてきた。
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プライドと経済の折り合いをつける
誇りだけでは、家は建たない。
信念だけでは、娘の将来に援助もできない。
だから今、俺は変わろうとしている。
月謝は簡単には上げない。
その代わり、言葉を外に出す。
文章を書く。動画を作る。
本を出す。メディアに出る。
そうして、自分自身の価値を「教育以外」にも展開していく。
これは逃げではない。
教育を守るための戦い方だ。
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今も、揺れながら進んでいる
「こんなことしていていいのか」
そう思う夜は、今もある。
でも、俺は思い出す。
塾で泣いていた生徒。
俺の英作文の添削に何度も感動してくれた子。
京大に合格して、泣きながら電話をかけてきた教え子たち。
──彼らの「ありがとう」の言葉が、何よりの“価値”だ。
いつかきっと、この選択にも意味があると思える日が来る。
その日まで、俺は両立をあきらめない。
教育と生活、どちらも捨てない。
それが俺の戦い方だ。
第8章|“味噌”と“クソ”の違いがわかるか?
少し下品な言い方を許してもらいたい。
だが、これ以上に的確な言葉はない。
味噌とクソの区別がつかない者は、勉強をしても意味がない。
──それが、俺が教育現場で何度も突き当たった壁だ。
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真剣に学ばない者には、真剣な成果は降りてこない
俺の塾では、基本的に**「質問がないなら教えない」**。
これは、放置ではない。
自ら疑問を立てられない者に、答えを与えても意味がないからだ。
だが、「わからないことをわからないままにして平気」な生徒もいる。
そんな子に「これ大事だよ」「ここ出るよ」と伝えても、響かない。
──“味噌”を出しても、“クソ”としか感じ取れないのだ。
学ぶことに本気になったことがない。
勉強を、“自分ごと”として捉えたことがない。
そんな状態では、何を教えても“ただの文字列”でしかない。
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勉強は、“真剣勝負”の世界だ
俺自身、高校時代は寝て食う以外は全部勉強だった。
極端かもしれない。だが、そのくらいの本気がなければ届かない世界がある。
そして、それは受験だけの話ではない。
英検1級、通訳ガイド、ビジネス英検A級、国連英検A級、観光英検1級──
そのすべてを受けたのは、「自由に英語を使える自分」でいたかったからだ。
合格・不合格の通知は、今では39通にのぼる。
栄光ばかりじゃない。
でも、“不合格通知”も含めて、俺の勲章だと思っている。
なぜなら、真剣にぶつかった結果だからだ。
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「真剣な生徒」だけが、俺の言葉を受け取る
添削でも、授業でも、質問対応でも──
俺は手加減しない。
理解できるかどうかではなく、「そこに本気があるか」で対応を変えている。
真剣な生徒には、とことん応える。
あり得ないほどの時間と手間をかけて、類題も、解説も用意する。
質問の行間を読み取り、その子の理解度まで見抜く。
逆に、やる気のない子には、ほとんど何も言わない。
俺の役目は「やる気を育てる」ことじゃない。
**「本気の生徒に、結果を届ける」**ことだ。
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自分を試すということ──京大7回受験の本当の意味
俺は、50代を越えてから、京大を7回受けた。
目的は、採点基準の調査と、自分への挑戦。
成績をブログや動画で公開したのは、「言葉に責任を持ちたかった」からだ。
「俺の添削は、本当に京大に通じるのか」
──そうやって、自分を試し続けてきた。
だから言える。
真剣さには“にじみ出る力”がある。
**演技では出せない“本物の匂い”**がある。
生徒たちには、それを感じ取ってほしい。
そして、自分も“本気で”勉強してみてほしい。
「味噌とクソの違いがわかる人間」になってほしい。
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教育はやさしさではない。誠実さだ
甘やかすことが教育じゃない。
ご機嫌をとることが指導じゃない。
「叱られたくないから頑張る」
では、受験は勝てない。
勉強とは、自分と向き合うことだ。
“わかるフリ”をやめること。
“見ないフリ”をやめること。
“誰かのせいにする”癖をやめること。
そこからしか、未来は開かない。
俺はそれを、塾でずっと伝え続けている。
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真剣に学ぶ者にしか、真剣に生きた者の言葉は届かない。
それは厳しさではなく、教育の“自然の摂理”なのだ。
第9章|二回り下の妻と、人生を築きなおす
「えっ、二回り下…ですか?」
周囲の反応は、予想通りだった。
驚き、戸惑い、そして時には嘲笑すら混じった。
だが、誰も知らない。
──その出会いが、どれほど俺の人生を変えたかを。
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孤独ではない。でも孤高だった
長年、塾をやってきた。
一人で添削をこなし、ブログを書き、動画を編集し、試験に挑み続けた。
だが、その背後には、ずっと続いていた孤独があった。
周囲には「変わった人」と言われ、元妻には「落ちこぼれを救うのが塾の役目でしょう」と責められ、
地域社会では「アホの相手する暇ないわ」と冷笑され、
本当に信じられるのは、生徒と、少数の教え子だけだった。
でも、俺は諦めなかった。
何かを貫くとは、誰かを納得させることではなく、自分に嘘をつかないことだと思っていたから。
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出会いは突然だった
ある日、ひとまわりもふたまわりも年下の女性と出会った。
彼女は、俺の動画を見ていたわけでもない。
塾の生徒でも、業界の関係者でもなかった。
ただ、話してみて驚いた。
俺の人生の“濃さ”を、言葉にしなくても感じ取ってくれる人だった。
年齢差が話題にならなかったわけではない。
「本気で生きてる人なら、年齢なんて関係ないでしょ」
彼女はさらりと言った。
この一言に、50代で京大を7回受けたことも、39通の通知書も、
ぜんぶ報われた気がした。
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もう一度、「家」を作る
再婚して、生活は変わった。
ひとりの家が、ふたりの家になった。
「あなた、もう少し休んだら?」
そう言われることに、慣れていなかった。
家族とは、戦う相手ではなく、守るものだと気づいた。
ただ、現実は甘くない。
家は建てたい。だが、収入には限りがある。
塾の月謝は上げたくない。娘たちにも援助したい。
それでも「教育者としての信念」は崩したくない。
だから今、俺は戦っている。
**“教育で食っていく”のではなく、“教育を守るために稼ぐ”**という、
まったく逆の視点で。
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心を解いた“相手”がいたことの奇跡
昔の俺は、きっと怖かったと思う。
眉間にシワを寄せ、口数も少なく、
常に「何かを背負っている」顔をしていた。
でも、彼女と暮らしはじめて、少しずつ顔がほぐれてきた。
何気ない会話、ささやかな冗談、コーヒーの香り。
その全部が、俺の“人間らしさ”を取り戻してくれた。
彼女がいるから、今の俺は、
「ただ頑張るだけの人間」ではなくなれた。
“誰かのために頑張れる人間”に進化できた。
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まだまだ、終わらない
この再婚は、俺にとって“終わり”ではない。
むしろ、“第二の人生”の始まりだ。
家を建てる。家族を守る。娘たちに手を差し伸べる。
そして、教育の火を消さずに、この小さな町から“価値”を発信し続ける。
俺は無名の塾講師かもしれない。
でも、無名のまま終わるつもりはない。
この人生を、本にするつもりだ。
この想いを、世間に問うつもりだ。
そして──これからも、何度でも挑み続ける。
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「変わった人」でもいい。
「しつこい人」でも、「時代遅れ」でも。
愛をもって、真剣に生きる者の姿を、
いつか誰かが“本物”と呼んでくれる。
そう信じている。
第10章|「囚人か軍人か?」アメリカの中学生が見た日本の学校
俺はアメリカのローガン中学校で教師をしていた。
日本ではあまり知られていない、ユタ州の小さな街の公立校。
でも、そこで見た教育の現場は、俺にとって“衝撃”だった。
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15時には校舎が無人になる学校
日本の学校に慣れていた俺にとって、午後2時半に生徒も教師も全員消える学校は、最初は不思議でしかなかった。
「残って部活とか、補習とか、職員会議とかは?」
そう尋ねると、同僚は笑った。
「それは家族と過ごす時間だろ?」
つまり、学校が生活を侵食することは許されないという文化だった。
仕事は仕事。
放課後は自由。
先生も、家に帰って人間として暮らすのが“当たり前”だった。
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制服があるのは刑務所と軍隊だけ
ある日、俺はローガンの生徒たちに、日本の中学生の姿を写真で見せた。
整列、体操服、標語の掲示、黒板の前に立つ教師──
彼らの反応は、静かな驚きだった。
「囚人?」「軍人?どっちなの?」
笑ってしまうかもしれない。
でも、これが“外から見た日本の学校”のリアルな第一印象だった。
制服がある場所は、アメリカでは軍隊か刑務所しかない。
それが常識だ。
「全員同じ服を着て、同じ行動を強制される」ことが、どれほど異常に見えるか──
日本人は気づいていない。
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クラス制度の不在が、自由を生む
もう一つ驚いたのは、「クラス」がないことだ。
アメリカの中学校には「担任」も「ホームルーム」もない。
生徒はそれぞれ自分の時間割を持っていて、毎時間違う教室に移動する。
だから、固定された集団が存在しない。
誰と一緒にいるかは、科目ごと、選択肢ごとに流動する。
だからこそ、「クラスの中で浮く」「ヒエラルヒーの最下層になる」なんてことが起こりにくい。
これは大きな違いだ。
固定された集団が、いじめや排除を生む。
自由に動ける環境は、孤立の痛みを和らげてくれる。
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部活という“タテ社会”の再生装置
日本の学校のもうひとつの特徴──それが部活動だ。
もちろん、「好きでやってる」「青春の思い出」と語る人も多い。
だが、部活の実態を一歩引いて見ると、そこにあるのは**“兵隊教育”**だ。
・先輩後輩の厳格な上下関係
・週7日練習の強制
・指導者という名の管理職教師
・「休みたい」と言えない空気
それは、スポーツの名を借りた“従属訓練”ではないのか?
ローガン中学校では、そんなものは存在しなかった。
スポーツは完全に**「課外クラブ」**であり、希望者だけが地域単位で自由に参加する。
「日本では先生が指導するんだよ」と言うと、生徒たちは驚いた。
「え、なんで?プロじゃないのに?」と。
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日本の学校を、変えたい
俺は田舎の塾講師かもしれない。
発信力も弱いかもしれない。
でも、見てきた現場がある。経験した違和感がある。
だからこそ、この3つ──
• 制服の自由化
• クラス制度の解体
• 部活の任意化
──を、日本で訴えたい。
これは、極端な思想でも、反体制の叫びでもない。
**「子どもが健康に育つ社会」**への具体的な提案だ。
制服を着なくても、礼儀正しく生きられる。
クラスがなくても、友達はできる。
部活がなくても、青春はある。
俺はそれを、実際に見てきた。体感してきた。
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教育は、“管理”ではなく“解放”であるべきだ
今の日本の教育には、管理と画一の匂いが染みついている。
でも、本来、教育とは**「その子の自由を広げること」**ではなかったか?
「自分で考え、自分で選び、自分で責任を取る」──
それが生きる力だ。
だとすれば、制服・クラス・部活は、
真っ先に問い直されるべき構造だと思う。
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俺は発信をやめない。
この想いを、言葉にし、動画にし、書籍にし、伝え続ける。
それが、かつて中学生だった自分への責任だ。
そして今、苦しんでいる誰かのために、声を上げるべきときが来ている。
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「先生、それ、おかしいと思う」
──そう言える子どもたちを育てるために。
第十一章|優秀な人ほど日本を去る──軍隊式教育が生む「静かな亡命」
中村修二さん、山中伸弥さん──
日本人なら誰もが知っている、ノーベル賞受賞者だ。
そして、共通点がある。
「日本のアカデミズムを見限り、海外で成果を出した」ことだ。
中村氏は日本を「研究者を人間扱いしない」と批判し、
山中氏は「出る杭を叩く空気が、若い研究者の芽を潰す」と語った。
これは特別な話ではない。
これは、いまも進行中の「静かな頭脳の亡命」だ。
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人材流出は「賃金」の問題ではない
日本は、優秀な若者が海外に出る理由を「給料が安いから」とよく片付ける。
それも一因ではある。だが、それは表層だ。
もっと根が深いのは、**「自由のなさ」**だ。
• 自分の発言が通らない
• 理不尽な上下関係
• 空気を読む圧力
• 新しいことを始めると白い目で見られる
これらが、優秀な頭脳をじわじわと押し潰していく。
自分の脳と時間を、自分の意志で使えない国に、未来はない。
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その源流は、学校にある
この息苦しさの根はどこにあるのか?
答えは明確だ。日本の学校だ。
しかも、その教育スタイルは軍隊式と表現するのが最も的確だ。
• 一糸乱れぬ集団行動
• 意見より我慢が重視される授業
• 担任や部活の顧問による絶対的支配
• 同調を強いるクラス文化
• 「目立つな、はみ出すな」という空気
こうして、「自分の頭で考える」「自由に表現する」ことを学ぶはずの学校が、
逆にそれらを抑圧する場となっている。
これでどうして、
「世界で通用する発想力・行動力のある人材」を育てられるというのか。
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「良い子」で終わる教育が、才能を殺す
日本の教育は、「いい子」を量産する。
先生の言うことを聞き、ノートを丁寧にとり、授業中に黙っていられる子。
でも、世界は「自分の頭で考え、異議を唱え、行動する人間」を求めている。
このギャップは、残酷なまでに大きい。
だから、気づいた子は逃げ出す。
日本のルールでは、夢も、自分も守れないからだ。
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「制服」「クラス」「部活」はその象徴
以前書いたように、
制服は「異議を許さない服装の統一」
クラスは「逃げられない閉鎖空間」
部活は「上下関係と根性論の訓練場」
つまり、日本の学校は“従順さ”を鍛える場所になってしまっている。
だがこれからの社会に求められるのは、従順さではない。創造性と突破力だ。
ChatGPTのようなAIが台頭し、暗記や単純労働が不要になっていく中で、
「言われたことをきちんとこなす力」は、価値を失っていく。
それでも日本の学校は、変わらない。
“管理のしやすさ”を優先するからだ。
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教育の“主語”を変えなければいけない
これまでの日本の教育は、「学校の都合」が主語だった。
• 管理しやすいように
• 目立たないように
• 成績で選別しやすいように
でも、これからの教育の主語は**「子ども自身」**であるべきだ。
どんな服を着たいか。
誰と一緒に学びたいか。
どこで力を発揮したいか。
その問いに対して、Yesと答えられる教育をつくる時が来ている。
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塾という“小さな現場”からできること
俺の塾では、無理に制服を着せない。
部活を理由に疲れた顔で来たら、何も言わずに休ませる。
そして、「こうしなさい」ではなく「どうしたい?」と聞く。
それでも、10年連続で京大合格者が出た。
うち6人は医学部医学科だ。
従順な子どもを育てなくても、
「真剣に勉強する子」が自然に育つと、俺は信じている。
それが“人間教育”の本質だ。
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日本を変えるには、学校を変えることから
才能ある子が海外に逃げるのは、「給料」ではなく「希望」が足りないからだ。
「この国では、変われない」と見切られるからだ。
だったら、まずはその出発点である「学校」を変えよう。
制服も、部活も、クラス制度も、まずは問い直すところから始めよう。
きっと、誰かが言わなければならない。
俺はその誰かでいい。
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「日本の未来を変えたいなら、教育を変えろ」──それは、理想ではなく現実的な戦略だ。
最終章|変えるべきは制度より、まず“空気”──草の根から始める教育の民主化
日本の教育は変わらない──
いや、正確には「変えられないように設計されている」と言った方が正しい。
制度がガチガチで、
現場の教師は声を上げれば左遷され、
保護者が疑問を持てばモンスターペアレントと呼ばれる。
だから変わらない。だから腐っていく。
でも、制度は変えられなくても、空気は変えられる。
そして空気が変われば、やがて制度も変わる。
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空気を変える3つのレバー:親、塾、SNS
① 親の「質問力」が空気を変える
まず変わらなきゃいけないのは、保護者の「黙認」だ。
先生に言いにくい? 分かる。
でも、子どもの人生を学校に“預けきって”はいけない。
• なぜ制服じゃなきゃいけないんですか?
• クラスって固定じゃないとダメですか?
• 部活って、強制ですか?
たったこれだけの質問でも、空気はざわつく。
空気がざわつけば、校内の“沈黙の常識”が揺らぐ。
それが第一歩。
② 塾講師こそ、代弁者になれ
あなたのような塾講師は、学校とは別の“知の拠点”だ。
しかも、塾はクビにならない。
だから言える。「本音」が言える。
塾には、
• 自分の考えを表現できる場所
• 学校が教えない“問い方”を学べる空間
が必要だ。
生徒に「なんでそれが正解だと思ったの?」と聞く。
「先生、これは違うんじゃないか?」という反論を歓迎する。
そんな空気を塾で育てれば、
子どもは“疑う力”と“表現する力”を獲得していく。
③ SNS発信は、学校より広く、速く届く
あなたは既にYouTubeもブログもやっている。
これは強い。極めて強い。
学校改革は、一つひとつの学校を相手にすると時間がかかる。
だがSNSは、一人の声が千人、万に届く。
**あなたが本気で考える「塾で実践していること」**を、
• ストーリーで語り
• 成果で示し
• 子どもたちの変化として発信する
それが、「あ、こういう教育もありか」と人々の中に“許可”を与える。
空気が変わる。空気が人を動かす。
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教育の民主化とは、「選択肢の見える化」である
今の日本の学校は、「一つの正解」しか見せてこなかった。
• 制服が当たり前
• 部活は義務
• クラスは固定
• 黙って聞くのが良い子
でも、世界にはもっと自由な教育がある。
アメリカのローガン中学校のように、
• 制服もない
• 部活もない
• クラスも固定しない
• 放課後は2時半に全員帰宅
それでも社会は成り立っているし、むしろ創造性と多様性は圧倒的だ。
だからこそ、教育の民主化=選択肢の可視化なのだ。
「こんな教育もあるんだ」と気づけば、
親も教師も、「選ぶ」という思考が芽生える。
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「変わってるね」は、最大の褒め言葉
あなたは“型破りな塾講師”かもしれない。
「自分の塾では制服を拒否してもOK」なんて言えば、近所から浮くだろう。
でも、それでいい。
むしろ、日本中に“浮いた塾”が100箇所できたら、それはもう“新しい潮流”だ。
生徒にとっては、「あの先生、変わってるけどすごく自由」と思ってもらえれば勝ちだ。
自由に学べる場所を知った子どもは、
もう「従順さ」だけを武器にしようとは思わなくなる。
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自分の半径5メートルを変えることが、社会を変える第一歩
政治を変えるには、運動が必要だ。
制度を変えるには、ロビー活動が要る。
だけど、空気は、誰でも変えられる。
• 親が学校に質問する
• 塾講師が本音を語る
• SNSで小さな希望を発信する
そのひとつひとつが、「見えない檻」を壊す力になる。
そして、「変だと思ってたのは自分だけじゃなかった」と
他の誰かの背中を押すことになる。
ボクが50代で京都大学を7回受けたワケ