季節のうつろいは人のうつろい

季節のうつろいは人のうつろい

 いつの時代にあっても、季節は誰に言われることもなくうつろい、花からこぼれた種子は土の中で養分を蓄え、やがて芽を出す時になれば芽を出す。「若葉のころ」などとは、ビージーズの歌にあった気がするが、そんな時期や頃合いは植物にとっては迷惑な話であり、人間が大体の目安として名付けたものにすぎない。

 当たり前のように、人の人生の中で存在し続けるものに、人は当たり前と思うことで目を止めることは余りない。人生100年と言われて久しいが、人生50年と言われた時代もあった。どちらにしろ、人は生まれてから死ぬまでの間に、やりたいことよりもやらなければならないことの方が、圧倒的に多いのである。生きるためには食事をし、暮らしていくためには労働をし、住みやすくするためには近所との付き合いを円滑にし、目の前のこと身の回りのことに頭を巡らすだけで精一杯となり、生きているという本質を見失ってしまう。特に現代においては文明が発達しすぎてしまったために、日が沈めば月明かりで本を読むなんてことをせずとも、電気料金さえ払っていればスイッチ一つ押せば電気は付き、煌々と明るい下で本を読むことができる。ちょっと寂しくなったり退屈しのぎに誰かに電話をかけようものなら、相手の家の事情も考えず話したい相手に直通で電話ができてしまう。アプリケーションを利用すれば、何時間でも無料で通話ができるというのだから、有難味も節操もあったものではない。

 こんなにも便利な世の中になってしまっても、季節はうつろうタイミングが来なければ決してうつろうことはない。人間のわがまま放題好き放題で若干、その規則正しかった季節のうつろいも大きくずれ始めてはいるが、それでも緑の頃になれば目にも鮮やかな緑が木の枝や大地に生い茂り、秋になれば紅葉の頃と言われるように、葉は赤や黄色に色を変え、ハラハラと地面に舞い落ちる。イヴ・モンタンが歌った「枯葉」のように、それだけで歌にもなってしまう。日本にはその季節の言葉、季語を用いて句を作る俳句というものもある。人間の感性一つ、それ次第で季節はもはや芸術にもなるのである。

 句と旬はよく似ている。俳句に限って言えば、これほど短い表現方法は世界にも類を見ないであろう し、旬はこれも堪能できる時期は極めて短い。どこかで書いたが、旬のものを食べると長生きできると言うが、それは逆を返せば旬のものを食べるために長生きすると言っても、過言ではないのかもしれない。それだけ、自然界から人間が与えられている恵みというものは、枚挙に暇がない。

 季節の移ろいに心をとめ、それを見つめることによって、生きていることの喜びを感じるという人もいる。これは老いも若きも本来ならばこうありたいと思う、理想の人間であり暮らしである。
 季節はうつろいでゆくことを、わざわざ人間に律儀に伝えてなどいかない。それだから、人間は黙って過ぎ去ってしまう季節のうつろいに、注意深く目を向けていなければならないのである。これはどこか人付き合いと似ている気がする。声をかけてもらえるうちが、気にかけてもらえるうちが花である。
 これ程、言葉をかけているのに、あなたは私に振り向いてもくれなかった。そんな風に思われた時、季節のうつろいと同じように、人も自分から離れていくだろうし、自分も人から離れていく。季節は人間に断りもなくうつろいでゆくが、人間はきちんと我が身に声をかけてくれるのである。その声に耳を傾けられなかった時、後悔してもその時はもう遅いのである。神経質になることはないが、季節のうつろいに目を向け気をとめられる、思いを馳せることができるということは何者にも代え難い、その人の財産であり、結果的に人の心にも寄り添えるということに繋がる。

 雨音ひとつとっても、それは生きている人間にしか感じることのできない、かけがえのない人生の一瞬間の宝なのである。その雨音を雑音としか感じないか、心地いい音と感じるか。私はその雨音を心地いいと感じることができる人間でありたいし、そう思える人と、これからも付き合っていきたいと思うのである。

季節のうつろいは人のうつろい

2025年5月14日「note」掲載

季節のうつろいは人のうつろい

季節のうつろいは人の心のうつろいと同じようなもの。そう感じるのは私だけだろうか。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-14

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