余命百歩
羊然歌 作
「あなたの余命は残り百歩です」
目の前の医者が言った。僕は全く意味が分からず、思わず聞き返した。
「はい?」
「ですから、あなたはあとたった百歩歩くだけで、命を落としてしまうのです」
しかし、依然として耳に入ってくる言葉は変わらない。ドッキリでも仕掛けられているのだろうか?
「冗談でしょう? そんなの聞いたことがありません。時間ならまだしも、歩数だなんて」
「それでも、そういうものなのです。とても珍しい症例なのですが――」
その後の医者の話を、僕はよく覚えていない。
それから、僕の車椅子生活が始まった。ただ車椅子で過ごすだけではない。世の中の大抵の場所は、車椅子で過ごせるような造りになっていないのだ。不自由なことを全て他人に補ってもらう生活だ。これまで何の問題もなく過ごしてきた身としては、それはとても窮屈で物足りない日々だった。
こんな生活を始めてから数年の月日が流れていたが、僕は既に飽き飽きしていた。この脚で立って歩いていた日々を今でも思い出す。未だに僕は歩くことを諦められずにいた。未練を捨てられず、毎週エアロバイクで足腰の筋トレを続けている。もう一度歩けるようになる保証などないのに。
ある日のこと、僕は一人で散歩をしていた。車椅子で出かけることを散歩と言っていいのかは分からないけど。車椅子の生活にも慣れ、ある程度は一人でも出歩けるようになった。
天気のいい日だった。雲一つない快晴で、心地良い風が頬を撫でていった。こんな日に、無邪気な子供のように走り回れたら、一体どれだけ気持ちが良いのだろうか。僕は頭を振って無益な問いかけを掻き消した。
そのとき、僕は向こうの交差点の近くに一人の少年を見つけた。小さめの通りと大通りが交差しているところだ。歩行者は少ないが、大通りよりも信号が少ないため、交通量は道幅に似合わず多い場所だった。
僕は彼を少し離れた場所から見つけた。少年はずっと俯いたままぶつぶつと何かを呟いているようで、信号が赤になっていることに気付いていないようだった。どうも様子がおかしい。足元も若干ふらついている。
僕はそれから目が離せなかった。どうせ知らない人なのに、もしかしたら途中で気付くかもしれないのに、どうしてか僕がやらなければいけないような、強迫観念にも近い衝動がこみ上げてきた。意識した途端に、それ以外の何もかもが見えなくなった。聞こえなくなった。
近くに人はいない。ここにいるのは僕だけ。僕しか助けられない。僕が、助けないと。いつも誰かに助けられてばかりじゃだめだ。僕も人を助けたい!
窮屈なこの車椅子じゃ間に合わない。僕をずっと縛り付けていたそれを蹴飛ばすようにして走り出した。
久々に大地を踏みしめた足はどうもうまく感覚がつかめず、つんのめりそうになりながらも僕は必死に走った。息は切れ、吸っても吸っても肺に空気が送り込まれた気がしない。どんどん胸が苦しくなっていく。苦しい呼吸に逆らい、思いっきり息を吸い込んで叫ぶ。
「ねえ、そこの君!」
少年は僕の声が聞こえていないようだった。この距離で聞こえないのはやはりおかしい。どうしてしまったのだろうか。或いは、僕がどうかしているのかもしれない。赤の他人のために、命を投げ出すような行動をするなんて。
でも、もしかしたら、これが僕のやりたかった本当のことだったのかもしれない。柵なんて全部捨て去って、何も考えず我武者羅に突っ込んでいく。この生活を始めてからだけじゃなくて、それまでの生活も全てぶち壊してしまうようだ。まるで自由な鳥になったようで、久々に感じる爽快感だった。
もう、死んでしまっても良いかもしれない。ああ、でも、目の前の少年だけは助けてから終わろう。
やがて僕は少年のすぐ後ろまで辿り着き、その肩を叩いた。
「すみません、大丈夫ですか?」
「うわっ! ……何ですか?」
いきなり知らない人間に話し掛けられ、少年は困惑しているようだった。
「いえ、何だか集中しているようで、危ないと思ったので。お節介だったらすみません。信号には気を付けてくださいね」
変な人間だと思われてしまったかもしれない。まあ、いいか。残り少ない命を人助けに使うっていうのは、存外気分のいいことだ。もしあのまま生き永らえていたとしても、僕は後悔したまま退屈な人生を歩んで死んでいくだけだっただろう。
どうせ一度捨てる覚悟をした命だ。もう未練はない。どうせなら残りの寿命も全て使って、盛大に楽しく死んでやろう。そう思って、僕は再び走り出した。
――が、どうもおかしい。いつまで経っても死ぬ気配がない。車椅子のところまで戻ってきてしまった。そう長い距離ではないとはいえ、流石に百歩は超えていたはずだ。
僕は不審に思って、医者に聞いてみた。どうして死なないのかと。すると、医者は興味深そうに口を開いた。
「珍しい症例なので詳しくはなかったのですが、言われてみれば当然ですね。だってあなた、歩いてはいないでしょう?」
それから、僕の走り続ける生活が始まった。
余命百歩