大津屋の花 / 古川R太郎 作

古川R太郎 作

旅に始まり、旅に終わる。
紹介文
大津屋に奉仕することになった弥助は、主人平蔵の一人娘「おはな」と惹かれ合っていく。可憐な二人の運命を疑う者は、一人としてなかった。

 数月が経過した頃、食事の配膳(はいぜん)、文の配達のような、小間使いを任されるようになった。()み込みの早い弥助であったから、間もなく器用にこなすようになり、女中たちとも信頼を築き得ていた。弥助は仕事が苦でなく、むしろ大津屋が問屋(とんや)と受発注を交わす際の配達は、薬屋の建物に入る唯一の機会であり、呼ばれるのを待ち遠しくするほどであった。
 ある時弥助は例の如く平蔵に呼ばれた。いつもの配達であろうと思いながら店の正面玄関から中に入っていく。
「弥助です。どうなさいましたか」
「おお、弥助。今日は走ってもらわなくていいんだがな、お前ここの生活には慣れたか」
「はい。おかげさまで」
「そうか。実は、お前がよう働いてくれるもんで、女たちが楽になったと喜んでいてな。働きぶりに免じて、少し早いが休みをやろうと思う」
 思わぬ要件に、弥助は驚き顔を作った。
「休みといっても、一日だけはなと遊んでやってもらいたい」
「はい」
 それが休みなのかどうか弥助は少し違和感を覚えたが、休暇といえど初の経験であり、箏を教えてもらうんだろうかなどと思うと、少しだけ緊張があった。
「明日はゆっくりしてくれ」
 しかし、弥助は心持が良くなっていた。休みをもらったことや、平蔵と話をできたこと、仕事ぶりを認められたことが理由だったかもしれない。しかし、どうにもそれだけの理由では収まらない気もした。

 翌早朝、弥助はいつもの時間に起きた。寝相でずれた布団を手早くたたみ、白い襷を肩から脇へくるくると渡しながら井戸に水を汲みに行った。(たる)一杯の水を土間へと運び終えると、おはつたちが食事の準備を始めていた。
「弥助、ご苦労さん。もうしばらくしたらお嬢さんのところへ行ってらっしゃい。庭で(ほうき)をかけていてくれれば誰か呼びに行くわ」
「はいおはつ姉さん。今日はよろしくお願いします」
「ごゆっくり」
 初日に案内をしてくれた女中のおはつと気持ちよく挨拶を交わした後、言われた通り、箒で落ち葉枯れ枝を端に寄せていた。ほとんど砂利(じやり)を固めるばかりだったのは普段からよく掃除がなされている証左であった。
「弥助や、おいで」
 先輩の仕業に見惚(みほ)れ、浮かれている平穏な時間は、奥からの一声によって打ち砕かれた。
「はい」
「箏を教えてあげるわ。こっちへいらっしゃい」
「ありがとうございます、お嬢様」
 言われるがまま、草履(ぞうり)を縁側に置いて、姿は下男のまま畳に上がった。そうして(すだれ)の奥に見えたのは、紅の着物に身を包んだ女性であった。
「こっちよ」
「はい」
 弥助は想像よりも大きな箏の前に座った。
「最近は一曲弾けるようになったのよ。聞いてちょうだい」
 弥助が座るやいなや、おはなは筝曲(そうきよく)を数曲披露してみせた。弥助はほうほうと意味ありげに(うなず)きながら、聞き入っていた。
 演奏会が終わると、おはなは箏について話し始めた。
「見てみなさい。こうやって調弦すればこの音はニの音になるのよ。一つ上げれば何の音になるかしら」
「ホの音ですか」
「そうよ。よく分かったわね、弥助」
「いろはの順だとは心得ておりました」
 ただのはったりであるが、弥助は自信ありげにそれらしいことを言ってみたのが、存外上手くいったので、少しうれしかった。
「そう。じゃあこの二つの(つめ)をつけて弾いてみましょうよ」
「ええ」
 そうしていきなり彼女は、僅かに意地を張っているような声色で、右手の箏爪(ことづめ)を外し始めた。二尺先に延ばしていた左手をひょいと引き戻し、右手の親指と人差し指につけた黒色の爪輪(つめわ)象牙(ぞうげ)の爪をぎゅうと抜いてみせた。暗がりの中で見た白色のいじらしげ指が活発にそそくさと動く様が、なんとも心地よい。腕の動きに合わせて揺れ動く深紅の着物も真白な手腕によく映えている。弥助は、彼女のほんの瞬間の所作に心を奪われ、一時を千年に感じていた。
 弥助はもらった箏爪をはめようとしてみた。
「こっちが親指よ」
「ええ、でもおはなさん、すこし輪が小さいと思いますよ」
「あら。弥助の手が大きいのよ」
「そうですか」
「ええそうよ」
 そう言って彼女は指先を上に向けて右手を差し出した。弥助も慌てて左手をぴったりと合わせるように重ねた。瞬間、弥助は不意にはっと声を漏らした。自分でも分からぬ力が、喉の奥に湧き出たのに驚いて我に返った。
「思った通りだわ。大きいのね。お父さんに頼んで弥助の箏爪も作ってもらわなくっちゃ」
「ええ、ありがとうございます」
 なにげなく返事をした弥助であったが、しかし思い出したように慌てて加えた。
「いやでも私はここの丁稚ですので」
「いいのよ。作ってもらうだけよ。今度また一緒に弾きましょう」
 弥助はそれ以上言葉を発しなかった。
「弥助や。いつまで親指につけているの」
 弥助は目をパチパチさせながら右手の親指に意識を向けた。
「そんなに弾きたいのね。一度やってみましょうよ、ほら、こっちへいらっしゃい」
 弥助は箏の前の空いた場所に座ってみた。
「そうよ。どこでもいいからちょんと弾いてみなさい」
 今にも外れそうな爪をぎゅっぎゅと押し込みながら、それらしく両手を開き、十三本の弦の上一面にあてがった。弥助は勇気を振り絞って弾く。
「つうん」
 妙に響きの良い、気の抜けた音が鳴った。同時に箏爪が外れて転がった。かと思えば左隣から大きな笑い声が飛び込んできた。
「あは。ああおっかしい。弥助、おもしろいわね、ほんと」
「いやあ、やっぱり爪が小さかったんですよ」
 破顔一笑、弥助の緊張は一気に砕け散った。彼女はさらに大笑いをしていた。弥助もつられてやはり笑った。
「絶対に箏はやりましょうね」
「いいんですか」
「ええもちろん」
 弥助は、心の通じ合うのを悟った。
 この時の二人は、既に主従の関係にはなかった。


 例の休暇からすぐ、弥助は新たな仕事を得ることになった。
 おはなは箏を師匠の元へ習いに通っていたのだが、これが定期的に外を歩く唯一の機会であるので、だいたい女中がかわるがわる付き添いをしていた。
 それからすぐに箏爪の件が平蔵へと伝えられた。おはなと弥助が仲良くなったことを察した平蔵は弥助が付き添いに行く機会を増やした。
 ことに、昼下がりの送り迎えは、主人、侍女、侍の(わらわ)といった調子で小旅行するのが日課となっていた。
 ある日の稽古(けいこ)の送りの最中である。
「ねえ弥助」
「はい」
「弥助も箏を弾いてみない?」
「そうですね」
 弥助は少し生返事を返した。
「あら、意外ね。きっぱり断るのかと思ったわ」
 普段の弥助であれば自らの身の上を理由に丁重に断るはずだが、町中につり下がっているちょうちんの数々に気が散っていたのだ。
「ああいや、すみません、ぼうとしていたもので。私は箏なんか弾けやしませんよ」
「ええ。やっぱりあきらめきれないわ」 
 そう言って、いつもの通りを、雑談を交えつつ歩いているうち、目的地に着いた。
「弥助、手を出して」
「はあ」
 そう言って両手を差し出すと、彼女は(たもと)から小さな巾着(きんちやく)を取り出した。弥助はそっと受け取った。
「中を見てみなさい」
 弥助はおもむろに中を覗いてみた。
「ええ、はい」
 中身は四角い象牙の箏爪であった。弥助は目を大きく見開いて、おはな、はつの順に顔色を(うかが)った。
「そうよ。あなたの箏爪よ。さあいきましょう」
 一呼吸おいて弥助は尋ねた。
「おはつさん、本当にいいんですか」
 侍女はこの上なく優しげな顔で肯いた。弥助は、笑顔でいっぱいのおはなの勢いを殺さぬよう、最大限に大きく、手早く侍女に一礼をし、そしてすぐさま振り返って二人並んで門をくぐっていった。
 弥助は幸せを受けすぎているような気もした。しかし、主人の一人娘がここまで乗り気であるのならば、と、納得した。

 稽古の終わり、弥助は部屋の入口で尋ねてみた。
「本当によいのですか」
「ええ、さっきまで楽しそうに弾いていたじゃない」
「いいえ、きっともう緊張で真剣な面持ちでしたよ」
「そうかしら、とっても楽しそうだったわよ」
 二人は談笑を交わしながら廊下を歩いていた。
 玄関を抜けた頃、おはなが口調を変えて言った。
「私が箏を弾ける仲間が欲しかったのよ。気にしないでちょうだい」
 弥助は冷静になって、仕事を思い出してみた。彼女が箏を弾いている間は、確かに夕餉(ゆうげ)の支度と、箒を片手に持て余す自由な時間があった。弥助はおはつたちの顔を想像し、葛藤(かつとう)(さいな)まれながら帰路についた。
 既に夕日は夕焼けをつれ西に沈んでいた。
「ねえ弥助」
「はい」
「今日は縁日かしら」
「どうもそのようですね」
 昼間に見たちょうちんに火がつき、淡い光を放っていた。
「ちょっと寄っていきましょう。」
「もう夕餉の準備ができていますよ」
 すぐに侍女が声色を最大まで柔らかくして諭した。いたいけな彼女の横顔は、おはつの言葉のために頬が膨らんでいた。
 一方弥助は、縁日を歩いているというだけで満足した心持であった。あたりを暖かに照らすちょうちんの群衆によって、歩く町並みはさながら浄土であった。唯一人を想い、愁いを一切感じずにいた。
 気づけば、弥助はおなつを通り越して、おはなと二人並んで歩いていた。後ろで影を隠して歩く侍女は、微笑(ほほえ)みを隠しきれないでいた。
「ねえ弥助」
「はい」
 不意に、少しの沈黙が生まれた。おはなの呼びかけに「はい」と返事をするだけの、ありふれたそのやり取りが、中途に終えられてしまった。しかし、そこに気まずさは無かった。おはなはそれっきり何も言わなかった。別に何という理由は無い。ただ彼女は、隣に歩く男の名前を呼んでみたかったのだ。弥助も彼女も、それを悟っていた。弥助は、この上ない幸せであると思った。彼女は、夏に不似合いな純白の頬をほんの少し赤らめながら、何かをかみしめるような表情で、まっすぐ前を向いて歩いていた。弥助も同じくその先を望んでいた。その先には、いい(にお)いを放つ団子屋があったかもしれない。

 気づけば幾月か過ぎ、街は静けさを取り戻していた。雲一つも無い、秋晴れが続いていた。弥助は平蔵の信任をさらに厚くし、おはなと共に箏を習いつつ奉公人としての腕前を一層磨いていた。弥助は(よわい)十六にして額直しを目前に控え、名実ともに男になろうとしていた。箏のような弦楽は女の基礎教養であって、道を究める目的が無ければ半元服間近の野郎が習うものではない。しかし、大津屋の一人娘の希望で弥助は箏を習っていた。この頃弥助は、おはなと二人だけで習い事に向かうようになっており、他の女中と同等以上に、おはなの側用人としての地位を高めていった。
 おはなが伊勢参りに行きたいと言い始めたのもこの時期であった。家族が伊勢に参ると言えば、それを止めることがかなわない時勢であったから、すんなりと希望は通った。そして付き添いは弥助になった。
 
 出立の朝、早く目覚めた弥助は、庭を白く染める霜に肌寒い秋の朝を感じていた。箒が地面を(こす)る音が軽やかに感じられ、ことに清々(すがすが)しい心持であった。
「はやいのね弥助」
「ああおはつさん。もう支度も終えました」
「そう、あと少しで来るから待ってなさい」
 そう言っておはつは、逃げるように家の中に戻っていった。
 しばらく一人でいると、おはなは玄関から出てきた。同時におはつと平蔵が玄関先にまで渡ってきていた。おはなは見違えるほどに豹変(ひようへん)していた。結っていた髪は変わらず、見慣れぬ色の軽装に、(かさ)をかぶった姿は、一挙におはなの存在が弥助に近づいたように思わせる様であった。
「行って参ります」
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
 女中たちはおはなの言葉にさみしげな声色で返事をした。
「弥助。頼んだぞ」
「はい」
 弥助は、平蔵の重々しい一言に、下宿初日のそれとは全く別の含蓄を受け取った。既に下男の弥助ではないのだと悟った。
 雲一つ無い秋晴れの朝を、二人は歩き始めた。


 旅はすこぶる順調であった。普段からよく走る役回りであったし、長旅に関しては経験があった。そして何より、主人の言葉が弥助の背中をたくましく成長させていた。
 家を出てから四日目の朝、宿を出る時であった。
「弥助、あとどれくらいで着くの」
「ゆっくりいけば、伊勢の手前で一泊してすぐ、明日の朝には着くと思います」
「あとすこしね」
 既に三日間歩き詰めており、おはなの脚が持ち上がらぬほどの疲労を抱えているのは明確であった。そんな中、到着の待ち遠しさをひしひしと感じ得る質問と、されど付いて歩くおはなの姿に、弥助は、けなげな少女の愛らしさを見た。弥助は一層歩調を合わせるのに意を注し、旅路を進めていった。
 日暮れ頃、二人は(にぎ)わいを確かめながら伊勢の町を進んでいき、早々と宿を決め夜を過ごした。
 
 翌早朝、二人は宿を後にし、目の前に迫った伊勢神宮へと向かった。砂利道を進んでいくと、奥から物々しい空気が襲ってきた。両脇にそびえる神木の数々が空間を洗うように木漏れ日の林道を作り、圧倒された参拝者は(おの)ずと口数を減らし、神妙な雰囲気に加担している。
 二人は心臓を鳴らし、奥の本殿へと進む。とうとう手を合わせんとする時、弥助は、おはなとは目を合わせた。
「お(まい)りしましょう」
 弥助の一声で二人は手を合わせ、ぱんぱんと示し合わせたかのように拍手(はくしゆ)と礼を繰り返し、最後に手を合わせる。
 しかし本宮を前に弥助は、隣のはなが気になり、横目に彼女の顔を覗き見た。どこか既視感のあるその姿は、弥助に強い印象を残した。疲れているはずのその横顔は、なぜか生気を取り戻しているようであった。弥助には想像し得ない事柄を念じているのであろうと分かった。何を想っているのだろう、などと考えながらぼうと眺めていると、とうとうはなが目を開けてしまった。
「どうしたの。お詣りするのでしょう」
「ああ、すみません」
 彼女の言葉に弥助は我に返った。
「そうとう疲れたのね、弥助」
「そうかもしれません」
「お詣りなんてこれくらいでいいわ。街の方へいきましょう。これからが本番よ」
「ああやっぱりですか、そうですね、いきましょう」
 二人は街へと下っていった。
 しかし、晴々とした様子のおはなと異なって、弥助はお詣りをなおざりにした事実が頭から離れず、本殿を背にして歩く間に、危機感に似た違和感を脳裏に認めていた。


 伊勢の出立よりはや二日、歩くばかりの観光旅行の中で唯一の楽しみといえば、人混みのある町中を散策する時や、旅籠での一汁三菜のみであった。一方で、帰路に着いてからは事情が変わっていた。往路では何につけても節制を主張した弥助も、参拝を終え、急ぐ理由を失ってからは、おはなに旅の主導権を奪われていた。
「おいしそうなお(もち)じゃないかしら、弥助」
「昨日食べたのとそっくりじゃないですか」
「仕方ないのね、弥助は食べたくないの」
「さすがに贅沢(ぜいたく)がすぎると思いますよ」
 伊勢街道は餅菓子の宝庫であった。行きしなに目もくれず歩いていたおはなは、余裕を得るや否や、天真爛漫(てんしんらんまん)な少女へと豹変し、街のそこかしこにある餅菓子に釘付けになっていた。しかし、それでも弥助の制止を受け入れつつある彼女の態度が、弥助に、二人の関係が少しずつ、着実に変わっていることを実感させていた。
「ねえ弥助」
「はい」
「お風呂に入りましょう」
「お餅はいいんですか」
「弥助が止めるからじゃない。いいのよ、そんなの」
 弥助は、おはなの急激な気の変わりように動揺した。
「もうそろそろ昼を下がりますから、早く見つけましょう」
「そうね」
 そうして周りを眺め始めた二人であったが、弥助がふと見た彼女の横顔は、内宮で見た神妙な面持ちを保っていた。

 銭湯を見つけた弥助は、日の暮れきる前には店を出た。しばらくして、おはなが店から出てきた。
「お待たせしたわね」
 弥助ははっとした。おはなは髪を綺麗(きれい)に結っており、実家の頃と変わらぬ姿になっていたのだ。あじけのない旅化粧が、この時ばかりは趣のあるように思えた。そして同時に、湯船につかる前、横目に映った若い湯女(ゆな)たちを思い出した。
「いえ。今出てきたばかりです」
「あら、それじゃあ弥助、あまりにも長湯じゃないかしら」
「気持ちよかったですからね」             「そうね。いきましょう」
 様変わりした容姿とは反対に、おはなの返事はあっさりしていると思った。
「そうだ、お餅も食べたいわ」
「お風呂に入ったじゃないですか」
「そうじゃないわ。今度の宿ではお夕餉作ってくださらないんでしょう」
 旅費の節約のため、宿泊のみの安く済む宿に決めていたことを弥助はすっかり忘れていた。
 二人は見かけた餅屋で少しだけ腹を満たし、足下に気を付けながら宿へと向かった。

 二人は宿に着くと、お金を払う間もなく早速部屋へと案内された。部屋に着くなり、他の客との相部屋ではないことを強調して告げられた。
 弥助はきょとんとせざるを得なかった。流されるように案内され、気づけばおはなと二人取り残されていた。部屋は広くはないが布団を敷く暇はあり、ここでもまた、行燈が真暗(まつくら)な空間をおぼろげに照らしている。未だに残る疲労と空腹感が余計に弥助の思考を(にぶ)らせていた。
 
「弥助」
 密室に放たれた一声は、一瞬にして弥助を覚醒(かくせい)させた。そして身体も一挙に興奮し、鋭いまなざしは、(たか)のようであった。しかしそれは当然、単に名前を呼ばれたからというだけで起こったのではない。彼女の声色に、これより起こり得ることを鮮明に予期したからであった。返事はできなかった。しかし不都合は無いと思った。おそらく彼女ももう、すべてを悟っていたのであろうとも思った。
「もう寝ましょう、弥助」
「はい」
 弥助は言われるがまま、(みつ)の香りに誘われていった。

 出立から十二日が過ぎた頃、和泉に着いた二人は、女中と居合わせた平蔵の多くの親族に厚くもてなされ、旅の無事を祝った。
 二人揃(そろ)った所に平蔵が歩いてきた。
「弥助、どうだった」
 平蔵の声色は温かなものであったが、浮かれたものは含まれていなかった。至って真剣であった。弥助はその真意をくみ取り、一層精進して参ります、と返した。

 年が明け、弥助は十七になった。この年は、とりわけおはなとの一夜を経てから、順調そのものであった。顔を合わせる機会こそ少なくなっていたものの、弥助とおはなの関係は確固たるものになっていた。長く二人を知る大津屋の人間も、二人の関係の確固たる様を認めていた。二人の奏でる箏曲の数々は、さながらつがいの鶴のような艶美(えんび)さと壮健さを(たた)えていた。可憐な二人の運命を疑う者は、平蔵を含め一人としていなかった。

 伊勢の参りからすぐ、かなり遅れた弥助の額直(ひたいなお)しが行われることになった。遅れたのは、言わずもがな例の参詣のためである。秋になればもう時期ではなかろうと、繁忙期を避けて年を越した半元服になった。
 当日になるまで、弥助の頭の中では旅の記憶が浮き沈みしていた。不器用な会話の記憶は、きめ細やかなおはなの発声を再現し、時折弥助はそれに返事をしてみせた。しかしそうして記憶を辿(めぐ)る旅は、内宮での彼女の横顔を見て終わるのが常であった。
 髪を整えるその日も、日増しに虚妄に変わる彼女の像を思い返していた。狭い座敷に押し込められた弥助は、手早く()がれた頭髪とともに、自らの青さを落とした気でいた。同席していた平蔵は、何をするでもなく、じいと弥助を見つめていた。
 弥助の知る半元服は、手代の役を委嘱される儀礼であった。店の中での地位が上がるのを、弥助はひっそりと喜んでいた。
 着替えを済ませた弥助は、平蔵への挨拶の言葉を考えていた。しかしいざ平蔵に会った時、よろしくお願いしますの言葉が出るのは反射的であった。平蔵もすかさず返事をした。家に来た時のやり取りとはまた違った緊張を、弥助は感じ取っていた。それは単に、()り上げて浮き彫りになった青白い奴頭(やつこあたま)の頭皮にかすめる、そよ風のせいでもあったかもしれない。

 気づけば幾年が経ち、寒さも過ぎた迎春正月の頃であった。稽古で通った河川敷は、こげ茶と桃色のまだら模様に変わっていた。
 弥助はよく背を伸ばし、身体には(したた)かな筋が浮き彫りになり、半元服を済ませた面には、一片の幼さも残っていなかった。しかし、弥助の意識がたくましく変化した自らへと向くことはなかった。

 おはなの発育は劇的であった。部屋に入るたびに、豊満になった彼女の身体を、弥助は四肢の先端にまで鮮明に感じていた。
 屋敷はいつの間にか魅惑を放ち、佇む女性は、絶世の美貌(びぼう)を体得していた。時折響く箏の音は深山幽谷の情緒を(あら)わにし、夕顔を唄う声は、(みやび)の真骨頂を貫く天女さながらであった。
 おはなはあまりにも刺激的であった。件の夜から、彼女は駆けるように刺激的になっていった。もはや、弥助の意識が他所へ向くことはなかった。

 暑さ残る長月二十六日のことであった。稽古が無い平凡な日で、弥助は夕餉の配膳ではなく、日々量を増していく落ち葉の掃除をしていた。
 弥助がさっさと音を立てながら箒を動かしていくうちに、座敷の奥から箏の音が聞こえてきた。二人は姿を見せずとも、箏の音色と箒をはく音で、互いの存在を認めていた。風も無く、ただ静けさに二人の意識のみがあった。弥助は、この昼下がりの雰囲気がことに心地よかった。
「弥助、急いで店へ行っておくれ」
 草履の擦れる音と共に、弥助へ緊急の要件が押し寄せてきた。
「どうしたんですか」
「いいから急いで」
 弥助は箒を放り、走って平蔵のいる大津屋へと走った。箏は依然として緩やかな音曲を奏でている。
 大津屋まで行くと大きな駕籠(かご)が目に入った。玄関を開き、紺色の暖簾(のれん)をくぐると、見慣れない格好の小僧が平蔵と話していた。
「弥助が参りました」
 喫緊の応援と察した弥助は、話を遮るように呼びかけた。
「弥助、今日は店につとめてもらうぞ」
 平蔵はなおも具体的な要件を言わない。
「なにがあったんですか」
流行病(はやりやまい)でほとんどの医者がやられたらしい」
「どうしたらいいですか」
「しばらく藩庁に()もるから、風邪薬の(あきない)だけは任せる。記帳も見まねで構わん」
「はい」
「じきに町にも流行りは来る」
「はい」
 弥助は即答した。半元服以来、普段から店での経験を積んでいた弥助は、平蔵に跡取りとしての才覚を認められていると自覚していた。よって、確実に家を継ぐためにも、この依頼は今後の進退を決定づける一世一代の機会であると確信したのだ。
 既に平蔵は俯きながら草履を結んでいた。
 駕籠舁きは平蔵を駕籠に乗せると、掛け声と共にそれを持ち上げ、通りを駆けていった。弥助はそれを見送っていた。
 駕籠舁(かごか)きの面影が消えると、一斉に静寂が戻った。
 気づけば、箏の音は聞こえなくなっていた。

 平蔵が店を空けて以降、日に日に店への来訪が増した。仕事はどれも小売りのための調合ばかりで、平蔵が送ってくる薬草の類いから薬を作るのが主な内容である。弥助はどんどんと薬を混ぜ合わせ、紙に包み、記帳することを繰り返したが、休む暇を失っていった。時折思い起こされるのは、平蔵が迷い無く弥助に店を任せると言った初秋の昼下がりであった。
 いつもと変わらぬある日、背丈が五尺に満たぬような男が店に訪ねてきた。
「薬草のお届けに参りました」
 おそらくいつもの発注である。
「ありがとう。こっちへもってきておくれ」
「はい」
「伝票はあるかい」
 ひとしきり内容を確認し会計を始めると、男が口を開いた。
「弥助さんですか」
「ああ」
 弥助は片手間に返事を返した。
「平蔵さんに弥助さんの手伝いをしろと頼まれました」
 男の言葉に、弥助は一瞬にして全身の毛が逆立つのを感じた。余計なことをされたと思った。しかしその予期せぬ出来事の前に、弥助は存外冷静であった。縄張りを守る本能が、一瞬の動揺も許さぬ使命感を働かせていた。弥助は、平蔵の冷静さを思い出し、平蔵のようにどっしりと構えた。
「そうなのか」
 弥助は顔を上げて男の顔をよく見た。
「名前はなんて言うんだい」
「小太郎です」
「歳は」
「十五です」
「分かった。小太郎、とりあえずこれをしまってくれ」
「弥助さん、すみません、やり方を教えてください」
 弥助は小太郎の言葉に少し戸惑った。思い返せば、弥助は薬屋として働くまで、平蔵や実家の酒屋での仕事を見て学んだだけであった。一から人にやり方を教えるというのが、なんとも不思議な感覚だった。
「これはこう紙に包んでやってだな」
「はい」
 小太郎は顔をまっすぐに向けて聞いてくる。従順な子犬のようだと思った。

 毎日増えていく仕事量に対面するうち、二人の一挙一動は似ていき、次第に師弟(してい)の間柄を認めるようになっていた。しかし、ひとたび客がいなくなれば、兄弟のようであった。
「兄さん。あそこに猫がいますよ」
「黒猫に横切られるとよくないらしいな」
「ああ横切りやがった」
「ああ」
 小太郎は歳の割には幼さの残る声色である。

 さらに二十日余りが過ぎた頃であった。
「弥助、帰ったぞ」
「旦那様」
 平蔵の帰還は、実に二ヶ月ぶりである。
「店は大丈夫だったか」
「ええ何とか」
 平蔵の目線の先が小太郎に移る。
「小太郎は大丈夫か」
「弥助さんにいろいろ教わりました」
 三人が同時に顔を合わせるのは初めてであるが、既に全員が顔見知りであるから会話がとても迅速である。
「藩庁は地獄だったぞ」
 二ヶ月の出張の割に、平蔵は大丈夫そうだと思った。
「旦那様、私らどうしたらいいですか」
 雑談を遮るように弥助が聞く。
「弥助にはきちんと商を教える。小太郎もよろしく頼むよ」
 小太郎の奉公は既定(きてい)のことであった。弥助には小太郎の去就(きよしゆう)が予想外であった。騒動のための一時しのぎではないのかと。しかし徐々に違和感は消え、弥助は弟分ができたことにこの上ない喜びを感じていった。

 平蔵の帰還の頃、季節は秋を過ぎ、冬を迎えていた。そして同時に、店の様子が一変した。
 大津屋は件の功績により、藩御用達(ごようたし)の薬屋となることで一層繁盛し、気づけば平蔵に加え、弥助、小太郎も店を守るようになった。主に店番をした弥助は、箏の稽古に通うのが難しくなり、家事や外役は小太郎が任されるようになった。そしておはなの侍従は、いつしか小太郎が務めるようになっていた。
 弥助はすっかり大人びており、小太郎も弥助を見習って、頼もしくなっていった。弥助は、家業を任されるようになったことに、自らの成長を確かめていたが、成長を実感する要因はそればかりでなかった。

 それからしばらくして、客人の来訪も増えた。多くはやはり取引先の問屋や仲買(なかがい)といった連中であったが、店ではなく屋敷の方に向かう者もいた。それらの者は新たに増えた人脈であるとは簡単に察しのつく話であるが、見送りのたびにげっそりとする女中や平蔵の様子を見るうち、一階の座敷での会合が、何か物凄く恐ろしいものに感じられるようになった。弥助は敢えてそれらとは距離を置いていた。今でなくても良いだろうと、暇ができるたびに脳裏をよぎる不安げな平蔵の顔を、弥助は、将来への展望で上塗りしていた。
 他方、弥助は中庭の掃除の後、何度か例の座敷の側を通ることがあった。が、締め切られた座敷を見るのは今日が初めてであった。その部屋は、おはなの座敷とは全く違う近寄り難い様相を呈していた。戸の前でふと足を止めた弥助は、妙な興味が湧き起こるのを感じた。耳鳴りがするほど静かな屋敷の中で唯一、かすかに男の声が響いている。弥助は思い出したように右足を差し出し、驚くほど冷たい床の上に添えた。左足は(かかと)を上げ、己では制御できないほど震えている。屈み込んで、隙間に目をやり、見えたのは男だった。しかしただの男ではない。弥助に背中を向けて座る男は、左脇に刀のさやを備えていた。顔も見られぬその男には、そのためか圧倒的な迫力があった。
「小太郎も弥助も、まさに素晴らしい才覚を持っておりますから、どちらも一人前の番頭(ばんとう)に成長しておりまして、この前も──」話していたのは平蔵であったが、その語り口は異様に饒舌(じようぜつ)で、まるで追い詰められた動物が絶叫するように、言葉をたたみかけていた。男は微動だにせず、黙ってそれを聞いているようだった。やがて男が口を開いた。「あの丁稚はどうするんだ」「ええ、はあ」男の問いかけは、平蔵の喉元に刃の切っ先を向けるような鋭い殺気を持っていた。平蔵は瞬時に口ごもり、切り裂かれるようにして会話が途絶えた。弥助は、まるで拷問のような光景を前にして、一刻も早くこの場を離れなければならないと思った。しかし凍てつく床に縛られた身体のために、かろうじて土間に向けられたのはその視線だけであった。そしてその視線が一度男の背中から離れた途端、戸の隙間は二度と覗けなくなっていた。弥助は、鉛の身体を引きずるようにして屋敷を抜けた。弥助は禁忌たる密会を垣間見てしまったのだ。


 皆が新たな環境に慣れた雪の日であった。
「誰か医者を呼んで。誰か」
 店番をしていた弥助は切迫した女中の声を聞いた。
 ただ事ではないと、膝を伸ばして立ち上がろうとした時、玄関から小太郎が駆け込んできた。
「旦那様が倒れました」
 弥助は一気に心拍が速まるのを感じた。
「医者を呼べ」
「はい」
 考える間もなく弥助は動いていた。
 小太郎は店を飛び出し、平蔵の元へと迷わず向かった。現場に着くと平蔵は自室で女中たちに囲まれ、両手をついて俯いていた。どうやら意識はあるらしい。弥助はすかさず駆け寄った。
「少し疲れただけだ。心配はいらんよ」
 弥助の姿を見るなり、平蔵が言葉を発した。がしかし、弥助は嘘だと確信した。あの秋を乗り越えた平蔵が意識を失って倒れる事態をここまで軽視するはずがないからだ。弥助は秋の流行り病からの平蔵を思い返した。思えば最近は平蔵が店番をする頻度もその時からどんどんと減り、平蔵が店にくる機会は、弥助たちへ細かい調合や仲買とのやり取りを教える時に限られていた。平蔵との関わりが減ったことで、体調悪化の兆しを見落としていたのだ。
「旦那様。わしらはどうしたらいいですか」
「安心して店を回してくれればいい。今も店を開けているんだろう。物取りが来る前に店に戻れ弥助」
 弥助はこの言葉に違和感も予想外も無かったが、しかし、それは考え得るうちで最悪の事態であった。平蔵が病に倒れるということは、つまり弥助の婿入りを支持する後ろ盾がいなくなるということであった。弥助は、心臓をむち打ちにされるような苦悶(くもん)を感じていた。弥助には強盗に襲われるような、恐怖にも思える絶望であった。弥助はその場から動けなくなっていた。
「旦那様は休んでください。医者がすぐに参りますから、もうしばらく横になっていてください」
「お布団を敷きますから」
 女中たちは平蔵の言葉から正反対の含蓄を受け取り、予想外と言わんばかりに焦りを募らせていった。
 弥助はつられるように、膝を支える力を失っていった。
 しばらくした後、小太郎が医者を連れ、横になっている平蔵の枕元へと近寄っていった。
 二人は(ひざまず)き、平蔵の診察を始めた。時折、平蔵が小さな声で小太郎と話しているのが見えた。弥助はこの時、女中と共に遠くから様子を伺っているだけであった。意識の方向は平蔵の健康のことよりもむしろ、今後への不安が際限なく増幅していることにあった。それはひとえに、弥助の将来がほとんどこの平蔵という不安定な男に委ねられていたためである。
 というのも、小太郎が店の人間になる以前は、大津屋の跡取りは暗黙のうちに弥助であると決まっていた。しかし、平蔵の心持によっては、弥助の将来が危惧される事態になったのである。
 つまり、弥助にとっての将来とは、和泉大津屋の跡取りになるか、よくできた奉公人になるかの二者択一であり、その選択権は平蔵に存するのである。弥助はその事実を悟っていた。しかし、弥助には、平蔵の信認に任せて、大津屋を引き継ぐ決心がついていたというのもまた事実であった。とどのつまり、弥助の震えとは、婿養子になる将来への不安というよりも、その出世の既定路線に入った傷によるものであったのだ。
 弥助は依然として立ち尽くすばかりであったが、その眼球もまた、鋭くある一点をのみ凝視していた。

「弥助兄さん。旦那様、とりあえず大丈夫だって」
「ああ」
 弥助はただ返事をしたつもりであった。しかし、その声色は、獲物を守る獣の威嚇(いかく)を思わせる恐ろしいものであった。 小太郎はそれを(いさ)めるように口調を強めて言った。
「旦那様は大丈夫です。あとは医者とおはつさんたちに任せましょう」
 しかし、弥助は返事もせずに部屋の出口へと急いだ。弥助の脳裏では依然、小太郎と平蔵がひそひそと話していた。
 耐えきれず部屋を後にしようと、現場から逃げきる直前、弥助は服を強く引っ(つか)まれた。
「やすけ」
 震えるその声は、おはなのものだった。
「大丈夫ですから安心してください」
 瞳孔が開ききり、黒曜石のように深い闇を抱えたおはなの瞳に脅され、弥助は酷く投げやりに口を開いた。しかし、本当にその言葉は父親を失いかけている少女にかけるべき言葉であったろうか。一度契りを結んだ男女のあるべき会話であったろうか。
 再び歩き始めると、おはながすすり泣くのが聞こえた。
 玄関を出た頃には遅かった。冷静さは降り積もった純白の雪によって呼び起こされた。
 弥助は焦燥感に駆り立てられて二階を見上げた。
 かろうじて見えたのは鈍重な雪雲であった。

 深雪の師走(しわす)は唯、新春を切望する頃であった。
 平蔵は二階の座敷に籠もりきりになり、ともすれば誰とも顔を合わせぬ日も増えていた。侍従(じじゆう)は弥助の役であった。
 ある日の夕刻、弥助は看病のために座敷を訪れていた。弥助が一人、平蔵の枕元にて和紙に包んだ薬を片付けた頃であった。まさに退出の挨拶をせんとする時、突如として平蔵が口を開いた。
「なあ弥助。頼むぞ」
 弥助はざざざと悪寒がした。ただの悪寒ではない。
 弥助はその場に釘付(くぎづ)けになった。固唾(かたず)を呑み、時が動くのを待つ他無かった。
 平蔵が震えるように深呼吸をするその一瞬一瞬間に、弥助はこれから起こる事故を予知し、待ってくれ、誰を頼むと言うのだ、と、何かを念じていた。唯一動く心臓は喚くようにどくんどくんと、脈動を強めていった。
 無言の祈りは届くはずもなく、平蔵の深呼吸が生んだこの間が、最後通告であることを示していた。
「小太郎を、頼んだぞ」
「はい」
 無念であった。
 ああ。これはいけない。
 弥助は寝込みを襲われたような絶望を突き付けられた。名を呼ばれたその刹那(せつな)のうちに、予期していた最も不都合な未来に直面したのだと確信した。弥助は緊張した筋繊維が鋼になって畳と固着したのを感じた。そして次の瞬間には、膝から腐って倒れていった。
 返事をするつもりが、ああ、と嗚咽(おえつ)のような悲鳴が上がった。
 二体の(しかばね)が止めた時間は、寝たきりの死体の言葉で動き出した。
「すまない」
「え」

 この日、弥助は、これ以上の記憶は無い。忘れたのか、故意に失ったのか、あるいは、そもそも記憶がねつ造されたものであったのか、なぜかどれも当てはまるような喪失感であった。いずれにせよ、たった一つ、とてつもない、しかしやり場の無い悔恨の念があったことをのみ鮮明に覚えている。

 如月(きさらぎ)九日。寒さの残る小夜(さよ)であった。
 弥助は小太郎の婿入りの媒酌人(ばいしやくにん)として礼装を整えていた。
 晴天事足りず、着物を脱いだ裸体は、深夜の和泉に肌寒さを覚えた。しかし弥助の体心は、平常通りであった。
 着替えながら、弥助は和泉での出来事を思い返していた。
 しかし思い返されるのは、危篤となる前夜、平蔵が残した謝罪の一言に、平蔵の断腸たる心中を察し得ないでいた、後悔の記憶ばかりあった。


 平蔵の死後、大津屋は全く新たな組織に変容したと言って良かった。
 ある程度の規模になる大津屋が、武家や他の大規模な商家と隔絶され、庶民ばかりを相手に商売を行えていたのは、思えば特異であったのだ。
 大津屋が守られてきたのは、すべて平蔵の意志のためである。これはおそらく平蔵の出自に起因するのであろう。
 弥助の父と同輩であった平蔵は、和泉から見れば片田舎の出身であって、さらに重ねれば父と同じく貧しい元商家の身分でもあった。余裕の無い平蔵は、弥助と同じく身ぐるみ一丁で大津から和泉に渡って来たのだ。
 しかし、平蔵が弥助の場合と根本的に異なったのは、和泉に渡ってきた時に、弥助にとっての平蔵になり得る存在がいなかったことである。
 弥助が、新天地に慣れるまでの日々にそれでも正気を保っていられたのは、ひとえに故郷を感じ得る大津屋の存在が大きかった。特に和泉の商人の言葉は、その独特の口調が、時に異邦人を圧倒することもある。女中や平蔵に早くから親しみを感じ得ていたのは、平蔵のその言葉の中に理由があったのだろう。
 縁の無い異国の地で、その言葉、文化に順応することの難きを、弥助はよく知っていた。よって平蔵が和泉に来た時に、頼るあての無い身の上で、薬屋を開き、娘のおはなを育て上げるまでに至る道程には、言い尽くし得ないほどの災苦があったろうと、直感的に想像し得ていた。
 そして、そうした成り上がりの物語の中で、平蔵が目にしたのは、風俗の差異ばかりでなく薄汚い大人の欲であった。葉の上のつゆのような希望を掴み、数多(あまた)の苦難を超えて築き上げた大津屋の地位を、尊ぶばかりか、金の匂いを鼻で嗅ぎつけ、続々と群れる連中は、平蔵にとって、汚らわしい虫けらと差異は無かった。大津屋の名は、故郷大津を一層想い(しの)んで付けられたのだ。そればかりか、大津の地に住む旧友に直接縁談を頼むことからも分かるが、平蔵は、金に虫食(むしば)まれきっていない大津の、その地でかろうじて守っていた純粋無垢(じゆんすいむく)な縁に、この上ない思慕(しぼ)の念を抱いていたのだ。つまり、弥助が招かれたこの事実が、白無垢の大津屋を守りたいという、平蔵の頑強たる意志によって為された計らいであったのだ。
 そして、その計画は、弥助の半元服に従って、成功を間近にしていた。
 大人になった弥助とはなとを見て、一番に喜んだのも、やはり平蔵であったのだ。

 しかしある時、平蔵が守り通してきた大津屋の(じよう)が破られる事態が起こった。
 例の流行病のあった秋である。
 そういった経緯があるため、平蔵は商売の相手は慎重に選んでいた。特に武家の連中とはなるべく関わりを持たないようにするなど、過分に嫌っていた節もある。そういった姿勢が、かえって連中の反感を買っていたかもしれない。いずれにせよ、騒動の最中(さなか)に、商家の息のかかった藩の大命によって、半ば強制的に関わりを持たされたのである。
 そしてどさくさに紛れてやってきた、商家の息子、丁稚小太郎は、同じく大津屋にとって、平蔵にとって、そして弥助にとって、まさに刺客であった。
 具体的にどのようにして小太郎を受け入れるに至ったのかは平蔵しか知り得ないことである。しかし一方で、小太郎の家は二十四組の一つであり、大名貸(だいみようかし)や巨額の冥加(みようが)を納める桁違いの大店であった。果たしてそれが、平蔵の嫌うような商家であったのかは、実際は分からない。しかし、会談のたびにやつれていく平蔵を見て、死に際の言葉を聞いて、弥助が取りつく答えは一つであった。



 着替えを終えた弥助は、甘い匂いに気づき、窓辺に目をやった。そこには真白な水仙(すいせん)が数本だけ生けてあった。弥助は、その硬い茎を強く握り潰すようにして折り、青臭くなった右手を袖に隠して階下へと歩き始めた。
 廊下を進み、階段を下る。ぎしぎしと音を立てる床板が、人だけがいない廊下の静けさを強調している。弥助は座敷の前に到着した。足を止めると、宴会の喧騒(けんそう)が鮮明になった。


 長旅であった。長い長い旅であった。それでいて、目的地に到着しない旅であった。
 そして今、目的地は眼前にある。
 両手を差し出しておもむろに戸を引き開ける。向こう側には一対の目的地が佇み、弥助の到着を待っている。期待通りにつがいを前に座す。一礼の後、慣例に(したが)って赤色の(さかずき)に清酒を注ぎ、男へ渡す。
 そして白無垢の女がそれを受け取る。

 長旅であった。長い長い旅であった。それでいて、目的地に到着しない旅であった。
 弥助はどれだけこの瞬間を待ちわびたであろうか。あの白無垢の横に並び、盃を交わすのをどれだけ渇望したであろうか。
 弥助の(はらわた)は冷たく凍り、一点のみが弥助を生かしていた。
 ありし日の思い出である。

大津屋の花 / 古川R太郎 作

大津屋の花 / 古川R太郎 作

【旅に始まり、旅に終わる。】大津屋に奉仕することになった弥助は、主人平蔵の一人娘「おはな」と惹かれ合っていく。可憐な二人の運命を疑う者は、一人としてなかった。

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更新日
登録日
2025-04-03

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