Bite!! / 遠吠 負ヶ犬 作
遠吠負ヶ犬 作
第一話
「バイトやめたい」
資本主義を採用している日本という国において、お金は老若男女関係なく必要なものだ。
そしてアルバイトとは、未だ社会に出ていない学生が、自分で自由に使えるお金を手に入れるための手段である。
しかし、これが行きすぎてしまう人間は、残念ながら少なくない。
世の中には自らが自由に使える時間を犠牲にしてまでバイトに打ち込む人間が存在し、彼らは更に二つの人種に分けられる。
自らの意志で地獄へと足を踏み入れる人間と、他人の意志で引きずり込まれる人間。
大半の人間が後者であり、かく言う僕もその一人だ。
「バイトやめたい」
辞めたい理由は山ほどある。仕事内容、人間関係、シフト関係……挙げ出せばキリが無い。それでもこのバイトをやめないでいるのは、少しの情と、辞めるにあたっての決定的な理由が見つからないから。
「バイトやめたい」
辞めたい理由が山ほどあるのに、辞める決定的な理由が見つからないというのは、なんだかおかしな話だ。
けれど、人生はきっとそんなものなのだろう。
「バイトやめたい」
この言葉は、そんな僕の複雑な感情を表した言葉だ。
「バイトやめたい」
もう何回言ったか分からない。
ここ最近シフトの入り過ぎで体調も優れないし、欲しいものも無いのに働くという状況に、精神的にも参ってしまった。
僕は一体何のために働いている? バイトのためにどれだけの誘いを断ってきた?
考えないようにしている。きっと考えたら終わりだ。何の終わりなのかも分からない。
多分、それも考えない方が良い。
「よォ、未来のエリートくんじゃあねぇか。こんな辺鄙なバーに足を運ぶたぁ、ついこの間酒を解禁したパピーにしちゃ見る目があるってもんだ。女神サマのお眼鏡にもかなうだろうぜ?」
「先輩が呼んだんじゃないですか。わざわざ位置情報までつけて。それでもここを見つけるのに小一時間かかりましたよ」
「まぁそう言わずに座れよ! オマエも飲むか?」
「やけにテンションが高いと思ったら、もう飲んでるんですか……」
このチャラそうな金髪男は、酒と女に溺れた先輩だ。大体いつも知らない女性が隣にいるし、仕事中も酒を飲んでいる。
もう病院を勧めたい。
「今日は一人なんですね」
「オイオイ! いくらオレでも仕事前に女はべらせねぇよ!」
「酒は飲むのに?」
「こりゃあ一本取られちまったぜ! マスター、コイツにも一杯!」
「だから飲みませんって!」
このバーの店主である初老のマスターは、ただカウンターでニコニコしているだけ。この金髪をここに放置しているのが申し訳ない。
こういう気苦労が多いのもこのバイト先をやめたい理由の一つだ。
「ほら、そろそろ仕事の時間ですよ!」
「あー? まだ九時じゃねぇか……時間にうるせぇパピーだな」
現在時刻は二十一時。もちろん仕事は今から始まる。このようにシフトが夜遅くから始まる事も……まぁ、言うまでも無い事だ。
「そんなに急いでも意味ねぇだろうがよぉ」
「いっつも酔っ払って準備に手間取るんですから! さっさと行きますよ!」
そうして完全に出来あがった先輩を仕事場まで引きずっていく。これが地味に面倒くさい。重いし、追加分の給料も出ない。
「わあったよ! マスターまた来るぜ! 今度は同僚も連れてなぁ!」
黙ったまま深々と頭を下げるマスター。こんな酔っ払い迷惑客相手にも微笑みを絶やさないその姿勢に、尊敬の念すら抱く。
あれがプロフェッショナルというものなのか。
「オマエも少しはマスターを見習って、心に余裕を持てよ?」
今すぐコイツを細切れにして、その辺のドブネズミの餌にしてやりたい気持ちをぐっと堪え、僕は仕事場に向かう。
全ては金。金のためだ。そう思わないとやっていられない。
別に奨学金を借りているとか、どうしても欲しいものがあるとか、推しに貢ぐために金が必要だとか、そういった事は一切無い。
しかし、生きているだけで、そして生きていくだけでどうしてもお金はかかる。
学生とはいえバイトでお金を稼ぐ事はとても大切。これは二十年生きてきた僕の結論だ。
だからこうして働いている。不本意ながら。
「バイトやめたい」
そう言いながらも、僕は一人でビルの上から目標を見下ろしている。
「どうしたパピー、いつにも増して声が暗ぇじゃねぇか」
トランシーバーから聞こえる先輩の声は、仕事中なのにさっきのバーにいた時から変わっていない。酔っ払いのテンションだ。
「何でも無いですよ。というか、いい加減『パピー』って呼ぶのやめてくれませんか?」
「仕方ねぇだろ? そういうルールなんだからよぉ」
呂律が怪しい。これだから酔っ払いは嫌いだ。
ふいに冷たい風が僕の頬を引っ掻いた。
「ターゲット、建物から出てきました」
「おっし! お仕事開始だあ!」
「あんまり大声出すと、相手に位置がバレますよ」
持ってきた双眼鏡の奥には、サングラスをしたスキンヘッドの男がいる。アニメなら確実に悪の組織の一員といった見た目だ。
八百メートル離れたここから見ても、明らかに周辺を警戒している。
「『待て』だぞパピー」
「分かってますよ。犬じゃないんだから。無駄口叩いてないで集中してください」
「言うじゃねぇか、子犬のくせに」
「集中!」
どうして僕は、よりにもよってこんな人と仕事をしなくちゃならないんだろうか。早く帰って寝たい。
夜風が肌にしみる。真冬のビルの屋上なんて来るもんじゃない。寝る前に何か温かいものが飲みたいな。
「パピー」
「ちゃんと見てますよ。アタッシュケースも確認できました」
「よし、後は手順通りに。分かるな?」
「大丈夫ですよ」
バイトを始めた際に渡された手順書の内容は、完璧に頭に入っている。
ターゲットを狙撃する際の、三つの手順。
手順一。スナイパーライフルを組み立てる。サイレンサーを忘れずに。
手順二。ターゲットを視認。事前に見たプロフィールと合致しているかも併せて確認。
手順三。引き金を引く。なお、標的を殺さず足止めをする場合には、頭ではなく脚を狙う事。
スコープの向こう側ではスキンヘッドが右足を抱えてうずくまっている。上手く当てる事が出来たらしい。
しかし、そんな僕の一瞬の油断を突かれる。
「クソ、仲間か……」
「うおっと! してやられちまったなパピー!」
別の男が建物から飛び出し、スキンヘッドとは逆方向に走り出した。
トランシーバーからは映画でも見ているような先輩の声が聞こえた。熱が頭に籠もっていく。
熱に浮かされ、うずくまるスキンヘッドの頭にもう一発撃ち込んだ。
毛の無い頭がえぐれたのを確認し、逃げたもう一人に照準を合わせる。
「男はビルの陰に隠れながら西へ移動中」
「スキンヘッドが持ってたケースはダミーだ。中身が空だぜ」
「チッ!」
完全にしてやられた。嫌な熱が身体に纏わりつく。思考が霞んでいくような感覚に陥る。
「反省も説教も後だ。奴の位置を先輩に教えな!」
冬の風が僕の頭を、再び元の状態に戻した。
「そこから西に二百メートル。上手い具合にこっちの射線を避けて逃走してます」
「りょーかいだ、まぁパピーにしちゃ上出来だな。後はこのバイパーに任せな!」
そう言い残し、通信も切らないまま先輩は男を追い始めた。
先輩は酔っ払いとは思えないスピードで男を追い始める。狭い路地裏を、まるで蛇のように進んでいく。
二人の距離が十メートル程に縮まると、男も先輩の存在に気づいたらしく、振り切ろうとスピードを上げていく。
「逃げんなよボーイ! オレと一緒に遊ぼうぜ!」
ナイフを男に向かって投げる先輩。しかし、脚にかすっただけに見える。男は立ち止まって先輩の方に向き直った。
あれほど近距離でナイフを当てられない相手になら、一人でも対処できると判断したようだ。
「そう来なくちゃなぁ!」
あたかも、勝負はこれから始まるかのように先輩は叫ぶ。本当にいい性格をしている。勝負は既についているというのに。
とりあえず、僕も自分の仕事をするとしよう。
「あがっ!」
ビルとビルの隙間から見える、拳銃を構えた男の左手を撃ち抜いた。
すかさず先輩が手の届く距離まで近づく。
しかし、男はまだ諦めていない。先輩に殴りかかろうと、撃たれていない右拳を振りかぶった。
「死ねえええ!」
「ハッ! 血気盛んなのはいい事だなぁ!」
先輩は何もしない。ただ膝から崩れ落ちる男を、何が起きたのか分かっていない男を、ただただ笑って見下ろすだけだ。
「だめだぜボーイ、蛇に噛まれた時は冷静にならなきゃなぁ。じゃなきゃすーぐに毒が回る」
「な……なにを……」
「だから毒だよ。オマエに投げたナイフに塗っておいた」
また始まった。勝利が確定した時に話しすぎる。これは飲酒と同じくらい先輩の悪い癖だ。ただ酔っ払って饒舌になっているだけかもしれないが。
「いいか? 対策の上に対策を重ねる。これが一流だ」
多分これは僕に言っている。人は酔うと饒舌になるというのは、先輩から学んだ数少ない事だ。
「仮にミスをしたとしてもきっちりリカバリーをしなくちゃならない。それがオレたちの仕事だからな。因みにコイツが逃げた先にはオレ様特製の毒が塗られたワイヤーが張り巡らせてある。どんな状況にも対応できる様に、対策の上の対策の上に対策を立てる、これが超一流のやり方だ!」
超一流。どうにもこの人に言われると、受け入れられない。
「おまえらは、いったい……なんなんだ……」
倒れている男は、絞り出すようにそう尋ねた。
「あ? ……まぁ、冥土の土産に聞かせてやるよ」
先輩は自慢げに答える。
「お客様を仏様に。安心と平穏をお届けする、キルコーポレーションの死神サマさ」
──もとい、ただの『殺し屋』だ。
第二話
「ふあぁ……」
昼下がりの講義。窓からは暖かい日差しが差し込んでいる。もう眠くて眠くて、先ほどからあくびが止まらない。
結局昨日は後処理やら何やらに追われ、帰って寝たのは夜中の一時過ぎだった。
明らかにバイトが学業に支障をきたしている。
「眠そうだな」
「あぁ……うん……」
講義も終わり、大学の知人が声をかけてくるが、正直頭がボーッとしてそれどころじゃない。というかコイツ誰だっけ。
「バイトで忙しいんだって? いわゆるブラックバイトってやつ?」
半笑いでそう尋ねてくる。僕は適当な返事を繰り返した。
馬鹿を言え。ブラックどころか、ぶっちぎりで闇バイトだ。
「とりあえず、コーヒーでも買ってから帰ろう……」
今日は久しぶりにシフトが入っていない日だ。そして今日の授業はもう終わり。どうやら僕にもつかの間の平穏が訪れるらしい。
教室を出て購買に行くには中庭を突っ切るのが一番早い。僕は眠い目をこすりながら校舎を出た。
「──でさ~そいつがぁ~」
「え~マジ~?」
「アハハ! お兄さんマジ最高!」
しかし、中庭ではチャラそうな男女数人組が馬鹿みたいに大きな声で話している。ただでさえ耳障りな声が寝不足の頭にキンキン響く。
「お! おーい! こっちこっち!」
そのうちの一人が誰かを呼んでいる。正直これ以上うるさくされたら正気を保てなくなりそうだ。
「こっちだって! こっちこっち!」
恐らく呼ばれている奴は気づいていないのだろう。誰かを呼ぶ男の声が、まるで悪夢のようにグルグルと頭の中を回っていく。
と、その時誰かの手が僕の肩を掴んだ。
「オマエだよ、パピー」
目を合わせないよう俯いていた僕の顔が反射的に跳ね上がる。
そこにいた男……金髪のチャラ男がかけているサングラスには、目の下に真っ黒なクマが刻まれた、僕の間抜け顔が映っていた。
「先輩……」
「よぉ、待ちくたびれたぜ」
さようなら、僕の休日。
「コイツだよコイツ! さっき言った後輩!」
先輩と肩を組まされた僕は、陽キャグループの前へと引っ張り出される。
「ふーん、この陰キャっぽい子がねー」
「先輩、何でここにいるんですか」
いかにも頭悪そうな女を無視し、先輩に質問する。もちろん先輩は大学の関係者でもなければ学生でもない。なぜ僕の大学にいる?
「んなもん、オマエに用があるに決まってんだろ?」
どうせ勝手に入ってきて、数人の女子大生をナンパしたのが今の状況なのは分かるが、僕に用事?
「お仕事のお話さ」
「それは分かりますよ。逆にそれ以外だったらぶち殺しますからね」
「オイオイ! 冗談になってねぇぜパピー?」
「アハハ! この子おもしろーい!」
この軽薄そうな女たちも、軽薄な先輩も、心底不愉快だ。
「ねぇねぇ陰キャくん、君この人と仲良いの?」
「はぁ……いや……」
こういう女、僕は嫌いだ。
頼むからどっか行ってくれ。僕は眠くて眠くて仕方ないんだ。
「それじゃ! オレはコイツに用があるから、皆またねー」
『またねー』じゃないよ。まずなんで闇企業の正社員がこんな所に来てるんだよ。アンタ頭の先から足の先まで殺し屋じゃないか。
「いやー大学って良いとこだな! かわいい女の子が選り取り見取りだぜ!」
「逮捕とかされたら、それこそ洒落にならないですよ」
「安心しろ。仮に捕まっても仕事の事はバレねぇよ」
この女たらしが。いっその事逮捕されてしまえ。
「それで? 仕事の話って何ですか? 今日僕シフト入ってないんですけど」
無駄な抵抗なのは分かっている。しかし、言いたい事は全て言わなくてはならない。どうせ連れて行かれるのは変わらないだろうけど、足掻けるだけ足掻くのが僕のやり方だ。
「ボスがお呼びだ。オレと事務所に来い」
絶対に断れない用事。鉄製のハンマーで頭をぶん殴られたような感覚だ。
「……今日はちょっと大学の講義が」
僕の儚い希望を乗せたピコピコハンマーは、いともたやすく握りつぶされる。。
「嘘つけ。今日のオマエの時間割は三限で終了だ」
なんで知ってるんだよ。
そんな訳で、僕は会社の事務所にいる。小さな清掃業者のフリをした、至って普通、ごくごくありふれた事務所だ。
「お疲れ様、折角の休日なのに呼び出してしまって申し訳ないね」
「いえ……」
小太りの中年が微笑んでいる。イスに腰をかけたサンタクロース風のおっさんが僕のバイト先のボスだ。
「大丈夫っすよボス、コイツ大学以外の予定無いっすから」
先輩はここに着いたその時から、事務所のソファに寝転がって酒を浴びている。
控えめに言って死んでほしい。
「早速だが本題に入ろうか。今日君たちを呼んだのは昨日の依頼についてだ」
「昨日の?」
昨日の依頼。あの二人を始末する仕事だったが、普段の仕事との違いは無かったように思える。
ここじゃよくある、普通の仕事だ。
「まんまと囮に釣られるわ、標的に射線切られて逃げられるわ、焦ってスキンヘッド撃ち殺すわ……オレがいなきゃ依頼しくじってたもんなぁ?」
「先輩だって、囮に騙されてたじゃないですか」
「バーカ! 気づいてた上でパピーに黙ってたに決まってんだろうが!」
「まぁまぁ、彼はまだアルバイトですし、サポートとして君とコンビを組ませたんですから。大目に見てください。バイパー君」
バイパーというのはここでの先輩の通り名である。なにせ、本名等の個人情報を出す事が危険な仕事だ。
僕もここでは、不本意ながら『パピー』と呼ばれている。
「さて、話を戻しましょうか。昨日のターゲット、どんな人間だったのか知っていますか?」
ボスが僕に問いかける。
「いいえ、僕らの仕事はただターゲットを始末する事。そこに詮索は不要。むしろ余計な情報は思考を鈍らせます」
「その通り。よくできました」
「先輩方に教え込まれましたから」
もちろん、あの飲んだくれ適当男に教え込まれた訳ではない。ボスは続ける。
「君たちには依頼人の事情も、ターゲットの素性も知らせない。全部こっちで止めてるからね。でも今回はそういう訳にもいかなくなった」
「んあ? どういう事だボス?」
「君たちのターゲット、正確に言えばそいつらが持ってたアタッシュケースだね。あの中に最近裏で出回り始めている薬物がぎっしり詰まってたんだ」
薬物? あの二人組はその薬物の運び屋だったのか。
「その二人を消した事が、薬物をさばいてた連中にバレて、少々面倒な事になりつつある」
なるほど、確かに面倒くさそうだ。正直バイトじゃなくて正社員たちだけでどうにかしてほしい。
「で、オレらはどーすんだ? ボス」
先輩の言葉に、ボスはより一層深い微笑を浮かべる。
「どうもしないよ。私たちの会社がする事は一つ──」
「『お客様を仏様に』」
「安心と平穏をお届けする、キルコーポレーションだぜ」
これも、ここに来た時に教え込まれた。
「……そう、二人ともよく分かってるね」
ボスは満足そうに頷く。
「君たちをここ呼んだのは注意喚起のため。二人ならまず大丈夫だと思うけど、念には念をというやつだよ。話は以上だ」
ボスはそう言うと、別の仕事があるらしく事務所を出て行ってしまった。
「ったく……そんな事でいちいち呼び出すなっての」
口には出さなかったが、その点に関してはこの人に賛成だ。
でも意外と早く終わったのは良かった。さっさと帰ろう。
「んだぁパピー、もう帰っちまうのか?」
「当然です。折角の休日なんですから」
「ほーん、飯でも奢ってやろうと思ってたのになぁ」
「結構です」
酔っ払いの世話をするくらいなら、家でカップラーメンでも食べた方がマシだ。
そう思い、帰ろうとした矢先、ボスと入れ違いで一人の女性が事務所に入ってきた。
「おや? 珍しい子がいるね」
銀色の長髪をなびかせる、スーツ姿で長身の女性。スラッと伸びた手足と色白の顔が、まるでアニメから飛び出してきたような雰囲気を醸し出している。
「毒蛇くんは一昨日ぶり、子犬くんは久しぶりだね」
彼女は毒蛇くん、もといバイパーと同じく僕の先輩だ。
「うぃー一昨日ぶりだぜーオウルの姐さんよー」
「君は飲み過ぎだ。何度も言っているが酒は嗜む程度にした方が良い。子犬くんも困っている」
「いえ! 滅相もないです先輩! お気遣いありがとうございます!」
「ん? 先輩が後輩を気遣うのは当然の事だろう?」
流石の一言に尽きる。
オウル。銀色の梟。
仕事への姿勢や普段の所作、何をとっても完璧な彼女への憧れが、僕をバイトに引き留めている一つの要因……というか、唯一の理由と言ってもいい。
決して下心があるとかそういうのではない。純粋な憧れだ。
「先輩はどうしてここに?」
「私か? ボスに少し用事があってね。しかし、どうやら入れ違ってしまったみたいだ」
ソファに腰をかけるという所作だけで、どうしてこんなにも美しいのだろうか。ソファに寝そべっている飲んだくれとは大違いだ。
「ヘイ! パピー、言いたい事があるなら睨むんじゃなくて言葉にしな!」
「急性アルコール中毒になればいいのに……」
「オウルの姐さんとは随分と対応が違ぇなオイ!」
「相変わらず君たちは仲が良いな」
とんだ勘違いである。けれど先輩が笑っているなら、まぁ良いかと思えてしまう。不思議だ。
「そうだ子犬くん、君にもちょっとした話があるし、これから一緒に夕食でもどうかな?」
「姐さん! 残念だけどコイツはさっさと帰りたいらしいぜ」
「行きます」
迷う余地無し。
「……私の方は急ぎの用ではないから、また後日でも構わないぞ?」
「酔っ払いの言葉に耳を貸さないでください。どこへなりともお供しますよ先輩」
「そうか、ならば子犬くんの夕食は私がご馳走しよう。近くに私の行きつけのレストランがあるんだ」
心の中でガッツポーズを決める。尊敬すべき先輩とお食事に行けるなんて、後輩としてこれほど光栄な事は無い。
「それでは行こうか、子犬くん」
「はい!」
ソファから発せられる酔っ払いのブーイングなど、聞こえるはずもなかった。
そうして先輩に連れられ、僕は見た事も無いほど高いビルの前にいた。
「あの、先輩? ここは……」
「私の行きつけのお店でね。味もそうだが雰囲気も気に入っているんだ。安心したまえ、もちろん私の奢りだ」
そういう心配をしている訳ではない。
高級レストランというものをそのまま具現化したような建物。完全に腰が引けてしまった。
こういう店には正装が必要なんじゃないかとか、僕が余計な事を考えている間にも、先輩は店の中に入っていくので、僕も離されないよう先輩の後についていく。
きっと、今までの人生で一番エレベーターに乗っている時間が長かった。
何も話さず、こうやって側にいるだけでも、僕にとっては高級ディナーくらい価値がある。
「いらっしゃいませ、タカナシ様」
「いつもの席は空いてるかい?」
「はい、こちらへどうぞ」
ウェイターらしき人の案内で、夜景が見える個室に連れて行かれた。
少し薄暗くて雰囲気がある中で、先輩と向かい合って座っている。そういえば僕に何か話があるとか言ってなかったか? そう考えるとより緊張してきた。
「子犬くん、何か苦手なものはあるかな?」
「いや、特には……」
「それは良かった」
美しく微笑み、美しく手を挙げ、美しくウェイターに注文をする。
恐らく食事の注文だろうが、全然聞きなじみが無い。本当に同じ日本人なのだろうか。
「先輩」
「ん? なんだい?」
テーブルに肘をつき、こちらを見据える。それだけの事なのに、全身に異様なまでの緊張感が走り、暑くもないのに汗が滲む。
少し薄暗いレストランの雰囲気もあるのだろうが、先輩の瞳がまるで鳥のように僕を突き刺した。
微笑んではいるがボスとは違う。まるで自分の心の全て、知らない所まで見透かされているみたいだ。
彼女が『梟』と呼ばれているのも納得できる。
「さっきの『タカナシ』っていうのは……」
「あぁ、もちろん偽名だよ。仕事柄、こういう名前は余るほど持っている」
確かにそうだ。緊張しすぎて当たり前すぎる事を聞いてしまった。少し落ち着け、僕。
「そんなに固くなるな。まったく、君はかわいいなぁ」
先輩は自分の手を、机に置かれた僕の手に重ねる。
「な! なにを……」
「ふむ、意外と君の手は小さいね。私と同じくらいだ」
先輩にリードされ、掌を合わせる形になる。
「ほら、そんなに変わらないだろう?」
先輩の体温が掌から伝わってくる。心臓の鼓動が更に速くなった。
「どうかしたか? 顔が赤いぞ?」
「あ、あの……その……」
「お待たせしました」
その場の空気を一刀両断するように、ウェイターが料理を運んできた。
当然、僕と先輩の手は離れてしまう。
「さぁ、料理をいただこうか」
「はい……」
普段高級なものなんて全く食べない僕だ。正直料理を楽しめない気もしていたが、一口食べてそんなのは杞憂だと思い直した。
ステーキと呼んで良いのか分からないが、真っ白な皿の上に小さい肉と、ソースのようなものが塗られている料理。
美味い。めちゃくちゃ美味い。
先輩の見よう見まねで料理を口に運んでいく。
「そういえば、昨日も仕事だったそうじゃないか。どうだった?」
「……まぁ、大変でした。先輩はいつも通り酔ってましたし」
「あの子は生粋のアルコール依存症だからね。困ったものだ」
「そうなんですよ。でも今回は先輩のおかげで成功したとこもあって……」
そんな他愛ない話をしながら、食事を口に運ぶ。正直テーブルマナーなんて全く意識していなかったが、先輩は笑顔で僕の話を聞いてくれた。
これ以上の幸せは無いと本気で思う。
そして話題は自然と、もしくは意図的に、先輩の望む方向へと向かっていった。
「子犬くん、一つ聞かせてくれないか」
「はい、何でしょう」
「君は人を殺す時、一体何を考えているんだい?」
先輩からその質問をされた瞬間に、室温が一気に下がったような感覚に襲われた。
見られている。量られている。僕という人間を。
「必死の形相で逃げるターゲットを追い詰める時。血と涙と鼻水でグチャグチャになった顔で、それでもなお生きようと、必死で命乞いをする人間を前に、引き金に指をかける時。君は一体何を考えているんだい?」
血と硝煙の匂い。冷えに冷え切った頭で目標を追い詰め、
あと一歩で仕事が終わる時、僕が何を考えているのか。
少し考えた後、僕は口を開く。
「『今日の夕飯どうしようかな』ですかね」
「……は?」
先輩の冷静な顔を少し崩せたのは、素直に嬉しかった。
もちろん、ウケを狙った訳ではない。
「ターゲットにも、君と同じように家族や友人、大切な人がいる。そんな事は考えないのか?」
「まぁ、その『大切な人』は僕にとっては何の価値も無いですし、僕にとってはその日の夕飯の方が大切ですから」
「殺しに、抵抗が無いのか?」
そう尋ねる先輩の顔は、いつもの冷静な微笑みではなく、まるで子供が驚いたような顔だった。
「バイトを始めた頃は自分に出来るのか不安ではありましたけど、先輩たちのおかげで今ではだいぶ慣れてきました」
そういう事ではないのかもしれない。
先輩は少し黙った後、今度は心底おかしそうに笑い始めた。
それはもう、涙が出るくらい笑っていたものだから、僕の方が驚いてしまったくらいだ。
「すまない! おかしな事を聞いてしまった! 試すつもりは無かったんだが、君という人間に少し興味が湧いてね」
「はぁ……」
僕が質問の真意を汲み取れていないのを察してか、先輩は普段の冷静な先輩に戻り、話を続けた。
「実を言うと、君が本当にこの仕事を続けられるのか、私はずっと疑問だったんだ」
「え、そうなんですか」
「ボスが君を採用すると言った時も、私は最後まで反対していたよ」
初耳だ。先輩には初めから良くしてもらっていたし、そんな事を考えていたなんて、全く気づかなかった。
むしろ毒蛇の方が……
「君は仕事に罪悪感を覚えていると思っていたんだが……まさか夕飯について考えていたとは……ふふ」
何度も言うが、別にウケを狙った訳ではない。それでも自分の言った事で先輩が思い出し笑いをしているのなら、気分が良い。
「これで安心して日本を去れるな」
「……先輩、海外に行くんですか?」
うちの仕事上、海外からの仕事を受ける事も少なからずある。優秀な先輩だ。別に不思議じゃない。
しかし、僕は今日一番の緊張感に襲われていた。
何か、とてつもなく嫌な予感がする。
「そうだった、今日は君にこれを言いたくて夕食に誘ったんだ」
食後のコーヒーが運ばれてくる。先輩は美しくカップを持った。
「私、向こうで結婚するんだ」
知らなかった。
高級レストランのコーヒーは味がしないらしい。
翌日、僕はボスに辞表を叩きつけた。
第三話
「驚いたな……質の悪い冗談という訳でもなさそうだ」
どうやら僕には、普段微笑んでいる人間の顔をぶっ壊す才能があるらしい。
事務所のドアを開け、正面の席に座るボスは真剣な顔をしている。
まぁ、もう全てがどうでもよいが。
「一応聞くけど、どうして辞めたいんだい?」
「学校が忙しくなるので」
「……そうか」
そんな適当な理由で本当に納得したのか、ボスがそれ以上辞める理由を追及してくる事は無かった。
「君が辞めたいのはよく分かった。だが、やはりオススメできない」
「どういう事ですか?」
「君がうちに入った時に渡した契約書、君も目を通していると思う」
契約書なんて貰っただろうか。覚えていない。
「何しろ仕事内容が仕事内容だ。簡単に辞められない」
流石は闇バイトだ。僕も簡単に辞められると思ってない。
「じゃあどうすればいいんですか?」
「うちを辞めるには、何か大きな仕事……正直に言えば確実に失敗する仕事を一人でこなす事が条件になっている」
なるほど、要は口封じという訳か。
会社の情報が、辞めたソイツから漏れるかもしれない。だから、任務という形で始末するというのは、なかなかに合理的じゃないか。
「『確実に失敗する』なんて、これから辞めようとしてる僕に言って良いんですか?」
「君は優秀なアルバイトだ。会社としても、出来る事なら君を手放したくない。ましてやまだ若い才能を摘むなど……」
「で、僕がやる仕事は何なんですか?」
「……本気か? 確実に失敗するんだぞ? 失敗すれば待つのは死だけだ。君も分かるだろ?」
「それをやらなきゃ辞められないんですよね。じゃあやるしかないじゃないですか」
ボスはそれ以上、僕を引き留める事は無かった。
「つい先日、君とバイパー君に伝えた例の薬物。あれを闇市場に流している大元を見つけたんだ」
「なるほど、そこを潰せばいいんですね」
「話が早いな。実行は今日の深夜。薬物が大量に施設へ運ばれてくる所を狙う。今から準備しなさい」
「承知しました」
ボスはまだ何か言いたげだったが、黙って事務所を出て行ってしまった。扉が静かに閉じる。
僕は準備のため、事務所の壁に備え付けられたロッカーに手をかけた。
「今から準備するんで、用があるならさっさとしてください」
そう呟くと、事務所の扉が再び開いた。
「よぉ、パピー」
今日は酒を飲んでいないのか、神妙な面持ちで先輩はそこにいた。
「オマエ、ここ辞めるんだって?」
「はい。それで、止めにでも来たんですか?」
「止めても聞かねぇだろ、だから……ほらよ」
先輩は持っていた黒いアタッシュケースを、僕に向かって放り投げる。薬品の匂いと酒の匂いが混じった黒塗りのアタッシュケース。中々の重量感だ。
「これは?」
「オレの仕事道具だ。パピーでも使えるやつを選んで詰めといたから、使いたきゃ勝手に使え」
驚いた。急に何なんだ? 普段は飲んだくれているだけの男なのに、こんなにも後輩に気を遣える人間じゃなかったはずなのに……
「んだよその顔は」
「……もしかして、消毒用アルコールでも飲んだんですか?」
「バカにすんのも大概にしろよ!」
僕の動揺に気がついたのか、先輩は奇行について説明してくれた。
「昔、オレの先輩だった人が……ってオイ待て! 最後まで話を聞け!」
仕方なく準備の手を止め、先輩の方に向き直る。
「そのオレの先輩、優秀な人だったんだけどな。度が過ぎるほどのお人好しで、仕事に疲れちまったんだ。そんでオマエみたいに会社を辞めようとして、それで死んだ」
「だから、僕にこれを?」
「少しの間だが一緒に仕事をしたよしみだ。せいぜい殺されねーように頑張れよ」
そう言うと先輩は、そのまま事務所を出て行った。
「……あれで励ましたつもりなのか」
勘弁してくれ。別に先輩はただの飲んだくれチャラ男で十分だったのに。正直、少し見直してしまったじゃないか。
「準備、するか」
先輩に渡された道具、そして僕が持っている道具。これらを組み合わせれば、達成不可能な依頼もどうにかなるかもしれない。
そう思い、僕は事務所のロッカーを開く。
普段、事務所にある僕のロッカーには、当然僕の仕事道具しか入っていない。
だからロッカーにアタッシュケ―スが入っているのを見つけた時にはまた驚いてしまった。
大きさや重さはさっき先輩に貰ったものと同じ。違うのは表面が銀色な事と、どこかで嗅いだ事のある匂いがする事くらいだ。
見ると裏側に紙が貼ってある。
「子犬くんへ」
迅速に、かつ中身を壊さないよう慎重にケースを開ける。
中には仕事道具と思われるものと、手紙が綺麗に収まっている。
「何となく、君にはこれが必要だと思ってね。お節介かもしれないけど、いくつかの仕事道具を渡しておくよ。直接渡すと君は遠慮するだろうから、こうして勝手に置かせてもらった次第だ」
手紙には美しい字で、ケースの中に入っている道具の説明がしたためられていた。
「先輩……」
涙が出そうだった。僕は本当に良い先輩を持ったと、心から思う。
金属でできた道具の中には、手紙の他にチケットのような紙が入っている。
「──最後に、かわいい後輩のため、君の頼みを何でも一つ聞いてあげる事にした」
思わず目をこすって文面を確認する。読み違いではない。
「何でもだ。どんな願いでも叶えてあげよう。内容が決まったらそのチケットに書いてある番号に連絡してくれ」
手紙の最後は梟の絵で締めくくられていた。
字も上手ければ絵も上手い。流石は先輩だ。
そう思いながら、先輩の残したチケットの番号をスマホに入力した。
第四話
「さむっ……」
準備を終え、事務所から出た僕の頬を、夜の冷えた風が引っ掻く。
「さてと、じゃあ行きますか」
自然と独り言がこぼれてしまう。
二人で仕事をしていた癖が抜けないのか、なんて事を頭の片隅で考えながら、僕は目標位置まで移動する。
「あの建物だな」
時刻は夜の十二時。頭にたたき込んだ情報と、ビルの上から見える建物を照らし合わせた。
目標は三階建ての廃事務所。無人に見せかけているが、窓から周囲の様子を窺っている人間を二人確認した。
「中にいる人間の数は未知数、やっぱりキツいな……」
何度脳内でシミュレーションしても、この仕事が成功する確率はほぼ無い。
足りない情報、足りない戦力、何一つとして万全なものは無い。確かにこれは成功させる気の無い、殺す気しかない仕事だ。
「バイトやめたい」
なら殺るしかないだろう。逃亡すればキルコーポレーションとの全面戦争は避けられない。選択肢など無いのだ。
「ま、成功したらしたで結局殺されるんだろうけど……やってから考えるか」
生憎、こちらも殺る気満々だ。
今回の任務、違法薬物をさばく組織の壊滅。
建物はボロボロで窓も割れたままだ。その隙につけ込まない手は無い。
僕はビルを降り、間違っても見張りに気づかれないよう移動を開始する。
「ここからなら狙いやすそうだ」
別の建物の陰に隠れ、見張りの様子を窺う。
たまにはあの飲んだくれの先輩のように、勢いに任せて突っ込んでみる事にしようか。
「全員殺す」
【毒蛇兵器 スモークグレネード】
ピンを抜き、バイパー製の毒ガスが噴出するスモークグレネードを、割れた窓に向かって投げつける。
建物の一階からは黄色の煙が立ち上り始めた。
因みに毒の成分は不明。アタッシュケースに雑に入っていた道具の説明書には、『痺れさせる』とだけ書いてあった。
適当すぎる。毒のプロフェッショナルだろアンタ。
「な、なんだこれ!」
「攻撃されてるんだよ! 敵襲だ!」
咳き込む音と、パニックになっている声が建物から聞こえてくる。どうやら予想していたよりも人数が多いようだ。
「オイ! 早く外に出ろ!」
「あ……あれ……からだが……」
「全員煙から離れろ! この煙を吸うのはまずい!」
「そうですよ。気がつくのが早いですね」
「なっ!」
ガスマスクを装着し、窓から建物内に侵入する。
視界に入ったのは九人。倒れているのは五人。思ったより効果が薄いな。
「お前は……っ!」
「さよなら」
【毒蛇兵器 猛毒ナイフ】
緑色のいかにもヤバそうな液体が付着したナイフ。
飲んだくれ曰く、『取り扱い注意。間違っても舐めないように!』
馬鹿にしすぎだろ。
「こいつ……っ!」
致命傷を負わせる必要は無い。かすり傷をつければ十分。
【銀梟兵器 サイレンサー付きピストル】
銀色に輝くピストル。元々は先輩用に特注されたものらしく、グリップや銃の重さに至るまで、とにかく使いやすくなっているらしい。
先輩曰く、『銀梟の鉤爪』。
格好良すぎる。正直書いていただいた説明のほとんどは理解できなかったが、使いやすいのは明白だ。
両手に持った二つの武器で、毒煙に巻かれなかった四人を始末していく。
腕を刺し、頭を撃ち抜き、首の動脈を掻き切って、胸の辺りに数発弾丸を撃ち込む。
「想定内だったな」
気づけば建物の床と壁は血まみれだった。
いくら無人と思われている廃事務所だからと言って、あまり派手にやりすぎると第三者に気づかれる恐れがある。出来る事なら面倒なのは避けたい。
「な……んあ、おあえ……」
まともに舌も回らなくなった男が、地面に這いつくばったまま僕を睨んでくる。
「ひゃ……ひゃめ……」
命乞いをしているのか、男は涙と鼻水を垂れ流しながら僕を見上げる。
そんな彼に、僕は銃口を向けた。
『君は人を殺す時、一体何を考えているんだい?』
そんな声が、銀色の銃身から聞こえた気がした。
「ごめんなさい……」
僕は詫びる。彼にではなく、先輩に。
「ごめんなさい……僕は嘘を吐きました。正直先輩に笑ってほしくてウケを狙いに行きました」
本当は夕食の事なんて考えてはいない。僕は……
「僕は、本当は何も考えていないんです」
彼にも家族がいて、友人がいて、恋人がいて……そんな事は心底どうだっていい。
ただ、仕事だから殺すだけだ。心なんて痛むはずもない。
彼はなんでもない、ただの人間だ。
家族でも友人でもない、ましてや大切な人でもない。
分かった上で、理解した上で、僕は引き金を引く。
「『お客様を仏様に』。安心と平穏をお届けする、キルコーポレーションです」
せめて、これを言うのが最後になるよう、祈っておこうか。
想定内なのは組織を構成している人間の戦闘力。粗悪な武器しか持たされていない、ただのチンピラ崩ればかりだ。
「想定外なのは……人数……」
そのせいで、思っていたより時間と体力を使ってしまった。
「いたぞ!」
「クソッ……」
少し休もうとしても、その数と建物自体の狭さから簡単に見つかってしまう。建物外に出ようとしても、窓や扉、建物の外にも人員が配置されている。
「正面戦闘は避けて、なるべく一人ずつ……」
万事休すと言いたい所だが、やる事は変わらない。逃げずに僕を追いかけてくるのなら、むしろ好都合だ。
「チッ! あの野郎どこに……」
僕を追って先行しすぎた大柄の男。
【毒蛇兵器 超硬質ワイヤー】
「がっ!」
男の背後からワイヤーで首を絞めた。首に食い込んだワイヤーから逃れようと男はもがいている。
「大人しくすれば、すぐ楽になりますよ」
使えるものは全て使わせて貰おう。
「すみませんが、あなたには僕の盾になっていただきます」
話しかけても泡を吹く音しか返ってこない。
「あそこだ! 撃て!」
仲間を盾にしたのに容赦なくぶっ放してくる。人の心の無い奴らめ。あっという間に僕の盾が粉みじん寸前だ。
「これでも喰らってろ!」
残っていたバイパー製スモークグレネードを投げ、空いていた小部屋に転がり込んで扉を閉める。
あれぐらいでは大した時間稼ぎにはならないだろう。
「今は二階だったよな……一階よりも人が明らかに多くないか?」
どっからこの人数が湧いて来るのか不思議でならない。薬をさばいてるだけの組織のはずなのに……
僕の思考を遮るかのように、やけに軽い音が部屋に入り込んできた。
「なるほど、それくらいは持ってる訳か」
休憩終了。窓から投げ込まれたグレネードは、再開の合図にしては、いささか物騒すぎる。
【銀梟兵器 ショットガン】
部屋の扉を蹴破り、待ち構えていた男たちにぶっ放していく。
一発で男の上半身が消し飛んだ。
壁に汚い臓物と赤いシミが飛び散る。
「威力たっか……」
こんなものを扱っていたなんて、恐ろしい先輩だ。
「ひっ……」
「あぁ、なるべく動かないでいただけると助かるのですが」
もちろん、ここでの『助かる』は僕が助かるという意味だったが、返事は無い。抵抗も止まらない。
ショットガンで男たちの身体を吹き飛ばしながら、上の階を目指していく。いつまで経っても、この火薬の匂いと、鉄棒のような血の匂いは好きになれない。
「ほんと……バイトって面倒だな……」
何人殺した? あと何人殺せばいい? そんな事を頭の隅で考えながら、歩を進めた。
罪悪感は微塵もない。ただ、引き金を引くたび、全身にけだるさが纏わりついていく。
「考えてたら死ぬな。とりあえず前に進もう」
そしてたどり着いた階段。僕が三階に上がると、なぜか銃撃がピタリと止んだ。
「え?」
うるさいくらいの発砲音が、一瞬で静寂に化ける。振り返っても誰かが追いかけてくる様子はない。
どう考えても怪しいが、逆にこれはチャンスになり得る。今のうちに体勢を整えよう。
弾薬の装填を行いながら、脳は変わらず回転させ続ける。
なぜ撃つのを止めた? 弾切れ? 僕を油断させる罠か?それも多分ない。他に考えられる事は……
「撃たないんじゃなくて、撃てないのか?」
その考えを裏付けるように、廊下の突き当たりの部屋からガタン、と物音がした。何かが倒れたような、そんな音が。
言い表せない嫌な予感が、加速度的に膨らんでいく。
ふと、先輩の言葉を思い出した。
「対策の上に対策を……」
ショットガンを構えたまま、部屋の扉を開く。ピストルとナイフはいつでも抜けるように準備してある。
部屋の中はボロボロだった。段ボールが部屋中に積まれていた事だけが、他の部屋と違っている。
「これは……例の薬物か?」
「あぁ、そのとーりだ」
声のした方に、反射でショットガンの引き金を引いた。
至近距離で当てた。かわすのは不可能。この威力のショットガンでなくとも、当たれば蜂の巣になるのは間違いない。
しかし、当たった男は衝撃で壁に激突しただけで、何事もなく立ち上がった。
「いてて……いきなりご挨拶だなー」
まるで僕の方が撃たれたような感覚だ。息が荒くなる。
コイツはまずい。今まで出会ってきたどの人間とも違う。まず、人間かどうかさえ怪しい。
ショットガンで撃たれて一滴も血が流れていないのもそうだが、もっと奇妙なのはその姿だ。
地面まで伸びた真っ黒な髪、絵の具でも塗ったように血走った両目。反対に死体のように真っ白な肌。
人間の姿をしてはいるが、その様相はホラー映画に登場するバケモノそのものだ。
「いろいろ聞きたい事があんだけどよー、とりあえず一回ソレおろしてくれねーかなー」
不快だ。間延びした男の声が。大学にいるチャラい奴らとは比較にならないくらいに。
声だけじゃない。立ち上がる所作、頭をかく仕草、ショットガンを指さすその人差し指さえ、不快で不快で仕方ない。
「……あなたを、殺します」
僕が辛うじて出せた言葉は、そんな子供じみたものだった。
恐怖している。多分、人生で一番。
鼓動が速すぎて、まるで心臓が汗をかいているみたいだ。
「なるほどーお前殺し屋かー。まだ若いのになー」
今度は確実に頭にぶち込む。そう思ってほんの少し、ほんの少しだけ姿勢を前に動かした。
それだけの僅かな時間で、男は距離を詰め、ショットガンの銃身を素手で握りつぶしていた。
「なーお前、学生だろー? 何でこんな仕事してんだー?」
「何でって……アルバイトですから」
答えになっていない。会話に脳のリソースを割くほどの余裕が無いのだ。
「そっかー、お前にもいろいろあるんだよなー」
男は目線も銃身も離さない。僕は身体が硬直して、思うように動けなくなっていた。
「俺もなー金がいるんだよー、じゃなきゃこーんな仕事しないよなー」
衝撃が全身に伝わるのとほぼ同時、視界が暗闇に包まれる。
次の瞬間には、自分が部屋の外で瓦礫に埋もれている事だけが理解できた。
殴られたのか? 分からない。身体が全く動かない。一瞬意識を失っていたようだ。
ポタポタと液体が落ちる音が聞こえる。どうやら頭から血が流れているらしい。
「妹がなーあー血は繋がってないんだけどよー。俺の親もアイツの親も、借金だけ作って蒸発してーだから二人で暮らしてんだー」
妹? 意味が分からない。コイツは何を言ってるんだ?
「妹、まだ小学生でよー。こーれがまたかーいいんだよー。俺の後ろをついて回ってなー、兄ちゃん兄ちゃんって。アイツにこれ以上ひもじー思いさせたくねーんだわー」
身体の硬直は解けた。どうやらコイツへの恐怖よりも、死にたくないという生物学的な本能が勝ったらしい。
それでも、今は動くな。
「だからさー、お前にはほんっっっとーに申し訳ねーんだけどよー」
奴は僕が気絶していると思っている。その隙につけ込んでこのナイフを……
「死んでくれねーかー」
男はまるで友人から金を借りるかのようにそう言って、僕が振り下ろしたナイフを軽々と掴んだ。
そしてそのまま腹を思い切り殴られる。
今度は気絶しなかったので、自分の肋骨が折れる音という聞きたくない音を聞いてしまった。
身体が壁にめり込んだ気がする。口から内臓が飛び出しそうだ。
「おー、まだ生きてんのかー。すごいなー」
もう一発喰らったら死ぬと、本能的にそう悟った。
血を流しすぎたからか、頭の奥が冷え切っている。いつもの仕事と同じコンディションだ。
外から流れ込んでくる夜風が気持ちいい。
「アンタの馬鹿力、例の薬物か?」
話せるくらいには回復したらしい。
「あーそうみてーだなー。変な注射何本も打ったら、こーんな感じ。笑えるだろー」
立ち上がって男と向かい合う。
体格も小柄で、むしろやつれているようにすら見える。しかし、その病的に細い四肢からは考えられないほどの出力。
正面からやり合うのが非推奨なのは、身体で理解している。
「全くもって笑えねぇよ。仕事でそこまでするなんて、どう考えても馬鹿だろ」
「そーだよなー、まったくそのとーりだ」
抑揚の無い声で男は笑う。もうなんとも思わない。
「お前おもしれーなー。名前はなんてーんだー?」
答えず駆け出す。身体の動きはぎこちなかったが、今はそんな事を言っている場合じゃない。
走らなきゃ殺される。距離を取らなければ死ぬ。
「おーい、なーまーえーはー?」
当然、男は追いかけてくる。振り返らず階段を駆け下りた。
二階にはやはり、屈強な男たちが銃を構えて僕を待ち構えていた。
「いたぞ! あのガキだ!」
「そこ、気をつけた方が良いですよ」
僕の忠告が終わらないうちに、二階の天井が崩れた。
「踏み抜いたのかよ……コンクリートだぞ?」
「んあー? なんか踏んだかー?」
見事に、屈強な男たちは崩れた天井の下敷きになった。
瓦礫の上に立つ男の頭に向かって、ピストルの引き金を引く。
ショットガンでも死なない男に、ピストルが効くはずもない。けれど、それでいい。今は注意を引くだけで十分だ。
「おーい、どこ行くんだよー」
階段を降りて一階へ。男も再び二階の床を、つまり一階の天井を踏み抜いて追いかけてくる。
一階にいる奴らも、僕が直接手を下すまでもなく一掃してくれた。どうやらアイツには、僕以外の人間は視界に入っていないらしい。
「アンタの身体どうなってんだ? それ、明らかに人間じゃないだろ」
「そーかもなー」
簡単に距離を取らせてもらえない。しかし、これで邪魔な奴らの排除は終わった。
正直、ここまでは期待していなかったが、使えるものは全て使う。それが標的だとしても。
「そーいや名前、まだ聞いてなかったわー」
「知りたきゃまず自分から名乗れ!」
「あー……」
すると、途端に男は動きを止めた。
「名前……あーなまえな、なまえ。なまえ……」
ブツブツ何かを呟きながら、男は二日酔いの先輩くらい千鳥足で僕を追いかけてくる。
僕はもう一度、上に向かって階段を駆け上がった。ただでさえボロボロだった三階が、怪力で荒らされて見る影もない。床も壁も穴が酷い。
「なまえ……あれーなんだっけなー? つーか何で俺こんなことしてんだ? なんか忘れてる気がすんだけど……」
男はほとんど歩いて追いかけてきていた。独り言はまだ続いている。
「あーくっそ、思い出せねぇ……俺なんでこんなことしてんだっけ……」
「間に合った!」
たどり着いたのは屋上への扉。鍵がかかっていたが、壊して進む。
僕が屋上に出てからしばらくして、男がゆっくりとやってきた。
「妹……そうだ、妹がいるんだよー、だから俺はこんなことしてんだー」
「アンタ、しばらく鏡で自分を見てないだろ。酷い顔してるぞ」
男はピタリと足を止め、こちらを見据える。
痩せこけた顔に血走った目。その顔にもう恐怖は感じない。むしろ憐れみすら感じる。
「最後に飯を食べたのはいつだ? 最後に寝たのは? 最後に髪を切ったのは? 何も覚えてないだろ。自分の名前すら覚えてないんだ」
男は何も喋らない。ただ僕を見つめるだけだ。
「でもよー、仕方ねーんだ。俺がやらねーと、妹が生きてけねーんだ。クソ親も蒸発して、もう妹には俺しかいねーんだ」
男は笑う。笑顔以外忘れてしまったかのように、ただ笑い続けている。
「俺には妹がいてー、俺の家は貧乏だからさー、二人で生きていくためには金が要るんだよー、ほんと面白いよなー」
「……だから、何も笑えないんだよ」
まるで、仕事をする理由を探しているみたいだ。僕じゃない、自分自身に言い訳を並べている。
「俺は兄ちゃんなんだよー、んで、アイツは俺の妹なんだよー」
「……なら、妹の好きなものは?」
「あー?」
きっと、コイツには何も無い。コイツの全部が、誰かのどす黒い悪意で塗りつぶされている。
「妹の誕生日は? 妹との思い出は? 妹の名前は? 何か一つでも妹の事を覚えてるのか?」
コイツにとっての優先順位が狂っている。妹と仕事、人生と仕事、生きがいと仕事。
本当、不愉快だ。
「いい加減、目覚ませよ」
スマホで電話をかける。コール二回が合図だ。
雷が落ちたような轟音が響き渡り、男を中心に屋上の半分が消し飛んだ。
「やぁ、子犬くん。順調そうだね」
スマホからは聞き覚えのある女性の声が聞こえる。
「先輩、一体何使ったんですか? 明らかにやり過ぎですよ」
「何でも一つ願いを叶えると言っただろう? それに、仕事は全力でやるのが私の流儀だ」
【銀梟兵器 何でも一つ願いを叶えるチケット】
手に入れた時には、全力で脳を回転させて願いを考えたが、やはりこれが最善だった。
変な気を起こして、先輩の海外行きを止めるなんて願いを口走らなくて良かった。
「まさか、こんな事をお願いされるとは思ってなかったよ。子犬くんは本当に強運だ」
「強運? 何の事ですか?」
「いや、こちらの話だ。それじゃあ、『次の仕事で一発だけ君を支援する』という君の願いは完了したよ」
「先輩、一つだけ僕の質問に答えてもらえませんか? かわいい後輩の、最後の頼みです」
「いいとも、私に答えられる事ならね」
建物全体が崩壊するような、そんな予感を頭の隅に感じながら、僕は口を開く。
「先輩は引き金を引く時、何を考えていましたか?」
しばしの沈黙を経て、先輩は答える。
「人の命を奪う。私はこの行為に誇りを持っている。私が私であるための存在意義、生きがいと言い換えてもいい。だから私が引き金を引く時、きっと私は自分自身について考えているんだろうね」
「そうですか」
やっと認識する事が出来た。この心にある不快感を。
「それじゃあ、後は頑張ってくれ」
「先輩」
通話を切ろうとした先輩を引き留める。
「僕にとってこれは仕事で、僕はただの人殺しです」
それだけ言って電話を切る。
画面には先輩の電話番号と、通話終了の文字だけが映っていた。
「いもうとが……いるんだ……」
瓦礫の中から男が這い出してくる。先ほどの砲撃とも呼べるような狙撃を喰らって、まだ原型を留めているのは不思議でならない。
男はただ縋るようにそこにいた。
「だから……おれがやらなきゃいけないんだ……ハルをまもれるのは……おれだけなんだ……」
「それが妹の名前か」
これだけの出血、普通の人間ならそう長くはない。
丸出しになった傷口からなら、先輩のナイフに付着した毒が効くはずだ。
「……やっぱり、お前らは馬鹿だ」
血まみれで這いつくばる男を、僕は見下ろしている。
今なら何でコイツを不愉快に感じたのかが分かる気がした。
「単なる仕事のくせに、さも人生を犠牲にするのが当然みたいな顔しやがって……本末転倒だろ」
「あー……ほんと、そのとーりだな……」
「アンタ、ただ利用されてただけだろうが。変な薬打たれて、バケモノに改造されて、今の自分を見たら妹がどう思うのか、分からない訳じゃねぇだろ……!」
「かえすことばも……ねーよ……」
「妹にとってお前はたった一人の家族なんだろ! それを放って! 妹の事も全部忘れて! これが生きがいとか使命とか薄ら寒い事ばっか並べやがって! お前らの自己犠牲なんかただのアホらしい自己陶酔だっての! いい加減気づきやがれクソ馬鹿野郎がッ!」
溜まっていたものを全て吐き出す勢いで、息を整える間もなく捲し立てる。
男はどこか穏やかな表情でそれを聞いていた。
「おまえ……ころしや、むいてねーよ」
「知ってる。だからもう辞める」
「そーか……じゃーこれが、おれたちにとって、さいごだ」
男は全て諦めたようだ。何もかも投げ出して、僕からもたらされる死を待っている。
「そーいや、なまえ、きいてなかったな……」
「……まず、お前から名乗れよ」
「そーだったな……フユヒコだー」
フユヒコ。覚えておこう。
「でー? おまえはー?」
ナイフを握りしめ、僕は答えた。
「僕の名前は──」
最終話
違法薬物ドスロイテ。
接種すると異常な興奮状態を引き起こす。また、この薬物を過剰に摂取すると、常識を超えた身体能力を引き出せるそうだ。
もちろん、そんな薬物が人体に無害なはずがない。
副作用として幻覚、記憶障害、成長障害、睡眠障害などが見られる。依存性も極めて高いため、摂取を中断すると強い禁断症状が現れる事もあるらしい。
ボスが明かした薬物の情報はこれで終わりだ。
「正直に言って、君がこうして無事に帰ってくるとは思っていなかったよ」
正直、無事とはとても言えない。左腕も折ったし、肋骨もやっぱり折れていた。その他にも全身至る所に傷が残っている。
おかげで数ヶ月間入院する羽目になったし、傷が完治した訳でもない。
「それで、僕はもう辞められるんですよね」
「まぁ、そういう事になるね。でも君のような才能を手放すのはとても勿体ない──」
「それでは失礼します。今までお世話になりました」
それだけ言って事務所を早々に立ち去る。
ここに来る前に買っておいた消毒用アルコールを、ソファで狸寝入りを決め込む毒蛇に投げつける。
一応のお礼だ。
「さようなら」
二度と会わない事を、心から願う。
「あぁ、そうだ。一応言っておきますけど、これは注意喚起ですからね」
いつかのボスのように微笑む。ボスも先輩も、俯いたまま何も言わない。
「既に僕の個人情報は抹消しましたし、ボスが送ってきた刺客も全員消しました。これ以上僕に近づくなら、容赦なくこの会社、潰しますから」
無論、会社を辞めるなんて事が可能なはずがない。任務を完遂させた後も、入院中も、幾度となくキルコーポレーションの社員が襲ってきた。口封じなのだから当然だろう。
しかし、僕は生きている。生きて、こうして乗り込んできた。向こうからしてみれば恐怖しかないはずだ。
口封じを封じさせてもらう。
「それでは本当に、さようなら」
僕は事務所を出た。
もう二度とここには来ない。
「……ボス、どうやら一皮むけるどころか大化けしちまったみてぇだぜ。あれじゃ子犬どころかケルベロスだ。飼い主の手を噛んでもまだ頭が残ってやがる」
「あぁ、あれは引き留めるのも無理そうだね」
「とりあえずボス、今日アイツに差し向けた殺し屋の死体、さっさと回収した方が良いんじゃねぇか?」
事務所を出て、そのままの足で銀行に向かう。バイト用の口座を確認するとしっかり給料が振り込まれていた。
「なんだ、これ……」
通帳に印刷されていた数字は、見た事が無いほどゼロがいくつも並んでいる。
「一、十、百、千、万……」
その額、およそ一億円。
バイトの内容も内容だが、僕がどれだけバイトに時間を費やしていたのかが分かる。少し虚しい。
「さて、それじゃあ行くか」
残念ながら、まだやらねばならない事は残っている。僕は行かなくてはならない。
具体的には児童養護施設へと。
「ここか……」
電車に揺られ数十分。僕は小さな施設の前へとたどり着いた。
備え付けられていたインターフォンを鳴らし、事前に連絡した偽名を伝えると、案外すんなり通してくれた。
「どうぞ、こちらです」
女性の案内で入った施設では、数人の子供たちが遊んでいた。幼稚園児から高校生くらいまで、幅広い年代の子供たちが戯れている。
僕が彼らの視界に入ると、全員がこちらを興味津々で見つめてきた。包帯まみれの知らない男が入ってきたら無理もない。
「ハルちゃん、こちらこの前話した……」
そう呼ばれた制服姿の少女は、少し驚いたような、しかし何かを期待をしたような顔でこちらに近づいてきた。
「初めまして、四季 春華です。高校二年生です」
彼女こそ、フユヒコの言っていた『ハル』であり、彼の妹。
礼儀正しくお辞儀をする彼女を見て、フユヒコの言っていた『小学生の妹』と、『記憶障害』という言葉が頭の中で入り交じる。
彼女がまだ幼い頃、フユヒコが組織に薬漬けのバケモノにされ、彼女の元へ帰れなくなった頃、施設に引き取られたそうだ。
それでも兄の事は朧気ながらも覚えているらしい。
「兄はいつも私のために働いていました。日に日に疲れていく兄は、それでも私の前では笑顔でした」
どこか悲しみをたたえた笑顔を浮かべる。きっとフユヒコも同じ笑顔を浮かべたのだろう。
「今でも月に一回、どこかからお金が仕送りされて来るんです。恐らく兄だと思うんですけど、連絡も取れなくて……」
ここまで彼女を支えておいて、本人の前には一切姿を現さないなんて本当に馬鹿な奴だ。
「私、バイトしてます。奨学金も借りてます。もう兄を頼らなくても生きていけるんです。だから帰ってきてほしいんです。もう、私のせいで辛い思いをしてほしくないんです……」
きっと彼女は何度も、兄を思い、こうして涙を流したのだろう。
つくづく損な役回りだと、そう感じる。
「でも、貴方が来てくれた。こんな事は初めてなんです。兄が私に……」
涙を拭き、彼女は僕をまっすぐ見つめる。期待の眼差しだ。
僕は今から、このか弱い期待を、淡い希望を、叩き潰さなければならない。嫌な役割だ。
「期待させて悪いんだが、僕は君を、アイツに会わせるために来た訳じゃない」
「え……?」
目の前の少女は、僕が今まで出会ってきたどんな人間より小さく見えた。
「アイツ……フユヒコから最期の支援と、伝言だ」
僕は今までのバイト代全てを施設に寄付した事を伝え、アイツの言葉も伝えた。
「『これで最期だ。どうか幸せに』だそうだ」
彼女の顔は見れなかった。きっと酷い顔をしている。
彼女も、僕も。
絞り出すように彼女は尋ねた。
「兄は……どこにいるんですか……?」
その質問には答える事が出来ない。それでも、僕は言わなければならない。
「僕がこんな事言える立場じゃないって事は分かってる。でも頼む、アイツを待っててくれないか?」
僕は兄について、彼女に何も言えない。何も語れない。
当然だ。僕は彼女の何者でもない。
「アイツは今、君に会うために努力している。アイツが自分自身を許す事が出来たら、きっと君に会いに来る」
確証なんか無い。全てがデタラメで、全てが僕の妄想。
「だからそれまで、どうか馬鹿な兄貴を待っててくれないか」
けれど、バイトを辞め、真の意味で自由になるためなら、こうしてか弱い少女に妄想を垂れ流してやる。こうして頭も下げてやる。
「そんなの……勝手だよ……っ!」
そうだな、アイツに一番聞かせてやりたい台詞だよ。
「ねーねーおじさん! おじさん誰なのー?」
いつの間にか周囲に子供たちが集まっていた。
「ハルねーちゃん泣かせてるー」
「あやしい! あなた殺し屋さんでしょ!」
「こら! お兄さんに失礼でしょ!」
流石に子供は鋭い。次のバイトは子供とは極力関わらない仕事がいいな。
「それじゃあ、僕はこれで」
「あの! 本当にありがとうございました!」
「別に、僕はただの友達の頼みを聞いただけだから」
格好つけ過ぎな気もしたが、これくらい許してほしい。映画の中の殺し屋は、こうやって去るだろう?
「兄に、私の事は心配しないでとお伝えください!」
背中から聞こえる健気な願いに、僕は右手を挙げて答える。
恐らくあの娘が兄と再会する事はないだろう。それでいい。アイツとは違う世界で、幸せに生きてほしい。
これほど穏やかな気持ちになれただけでも、損な役回りを引き受けた甲斐がある……という事にしておこう。
「あーそうだ。これはフユヒコとは関係ない、先輩からのアドバイスなんだけど」
「はい?」
彼女よりも数年早く生まれてきた先輩からのアドバイスだ。
「アルバイト、程々にな」
やはり僕は殺し屋には向いていない。格好良く去るという事は存外難しいようだ。
そして、四季 春華との面談から更に数ヶ月後、怪我が完治した僕はカフェでバイトをしていた。
一日の拘束時間が少なく、血生臭くなく、以前のような法外なバイト代も出ない、しかもおしゃれで下宿からも近い、健全なバイト先。
そこはまさに、僕が求めていた理想の職場だった。
接客業にはあまり自信が無かったが、先輩方にも恵まれて、絶賛仕事覚え中だ。
今日もカフェの入口のベルが鳴り、練習中の営業スマイルでお客様に向かう。
「いらっしゃいませー、一名様ですね。お好きな席にどうぞー」
昼過ぎのカフェ。あまり人がいなかったのもあって、入店した女性は当店自慢のテラス席に座った。
おしぼりと水を持って、そのテーブルに向かう。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「そうだね、最近ここに入った新人バイトくん……かな」
聞き覚えのある声だった。
目の前の女性は、おもむろに付けていたカツラとサングラスを外す。
忘れもしない、銀色の梟がそこにはいた。
「先輩……」
「楽しそうだね、子犬くん」
そんな馬鹿な。ありえない。先輩は海外で結婚生活を謳歌しているはず。何でまだ日本に……
「不思議そうな顔だね。いいだろう。君の疑問を解消してあげようじゃないか」
僕は仕事も忘れ、先輩の話に聞き入ってしまう。心なしか、血生臭い匂いがしてきた気さえする。
「まず『海外で結婚』というのは仕事の話だ。既にタカナシの旦那である資産家は土の中だろうよ。いや、海の中かもしれない。彼は散骨を希望していたからね」
「え、え?」
「そして私がここに来たのは君をスカウトするためだ。君が聞きたいのはこんな所かな?」
マシンガンのように撃ち込まれる新事実に、僕は蜂の巣にされる。いろいろ衝撃的すぎて、とてもじゃないがただのバイトのカフェ店員には受け止めきれない。
結婚は仕事? 僕をスカウト? ドッキリか何かか?
「この度キルコーポレーションから独立する事になってね。新しく会社を立ち上げるんだ。そこで君の才能が是非欲しい」
落ち着け。先輩が現れたのは予定外だったが、似たような状況は予想していたはずだろう。
混乱した頭でも、ここを切り抜ける策は用意できている。
「すみません先輩、僕はもう殺し屋は辞めたんです」
「君は──」
「ここまでご足労いただいて恐縮ですが、僕は先輩のお力にはなれません。本当に申し訳ありません」
喋らせるな。捲し立ててこちらのペースに巻き込むんだ。
「その代わりと言っては何ですが、良い人材を紹介しますよ」
「なに?」
先輩の目がギラリと光る。さながら猛禽類のように。
「実力は僕が保証します。金が必要らしく、金のためなら何でもやってくれますよ」
「へぇ……君がそこまで言うなんて、相当の手練れみたいだね」
「えぇ、もちろん!」
すかさず練習した営業スマイルを発動する。
このカードを切るのに罪悪感が無い訳ではないが、アイツのためにあそこまでしたんだ。僕のために生贄になるくらい許容してくれなきゃ困る。
別にアイツにとっても悪い話じゃない。前職よりは幾分かマシだろう。
「今は病院通いしているんですけど、仕事くらいは出来ますよ」
「その子の名前と連絡先、教えてくれないかな?」
スマホを取り出し、先輩に差し出す。
暖かい春の風が僕を撫でた。
「四季 冬彦っていうんですけど」
Bite!! / 遠吠 負ヶ犬 作