言葉本来の役割とは

言葉本来の役割とは

 言葉は生き物であり鮮度が命、その人の人柄をも表す、そんな自己表現をするための目に見えない道具であるということは、文章を書いていて私が痛感していることであり、折に触れて散々書いてきたし、きっとこれからも書き続けるであろう永遠の「テーマ」であると思う。

 読解力がない人が読めば、どんなに分かりやすく説明書きしたところで、伝わらないものは伝わらない。説明しないと分からないようでは、もうそこに作者の知性も何もあったものではない。伝わるか伝わらないか、これは私にはどうにもできないことである。しかし、そうでない人が読めばきっと分かってくれる筈。そんな思いがあるから、私に限らず人が何かを伝えたいという思いは、尽きることがないのだろう。

 人が用意したセリフを話すという職業に、役者というものがある。役者は用意されたセリフを丸暗記し、さもそれを本当に自ら発している言葉として、聞き手に話さなければならない。そして、その言葉が真実として、聞き手に伝えることができなければ、成立しない職業である。

 先日、悠仁親王殿下の成年会見を拝見した。収録公開されている映像は約15分。初めて彼がまともに話しているところを私は見聞きしたが、きっと、多くの国民がそうであったことだろうと思う。

 生まれた時の姿を目にしている国民としては、感慨深い思いで記者会見も見ることになる筈だが、その成長する姿を折に触れ目にする機会がなかったことに加え、時が流れて迎えた昨日、大学の進学問題や論文盗作問題など、きな臭い話題が消えることのない悠仁親王殿下である。おまけに敬宮愛子内親王殿下の時とは違い、成年会見をまるまる生中継するテレビ局も全くなかったものだから、本当に定刻通り記者会見が開かれたのかすら疑わしい結果となってしまった。

 成年会見という名目で会見をするのであるから、歴代の皇族方の成年会見に倣った会見になることは、致し方がないことであると好意的に見れば思えなくもない。しかし、決まりきった質問に、礼儀正しく答えればすべて良しということではない。そこを超越して、その人の人柄というものが明確に示されなければ、わざわざ会見をする意味や必要性は見出だせないように思う。

 この成年会見の行われる約1ヶ月前、舞鶴引揚記念館を訪れた際、引揚船の「乗り心地」という発言を聞いて、私はある意味ドキッとしたが、こういった言葉一つとっても、本当に彼は成年会見で自分の胸の内を、自分の言葉を発したのだろうかと、疑問に思わずにはいられなかった。引揚船というものが、どういうものか分かっていないのも危惧するところだが、やはりこれは皇族民間人問わず親の教育、もっと言えば国がきちんと歴史を教えないから、こういう頓珍漢な質問をする人間が出てきてしまうのだと、大変嘆かわしい思いであったし、危機感さえ抱いた。
 間違っても金持ちがするような、豪華客船での優雅な船旅ではない。これに乗れなければ、もう二度と祖国に帰れるか帰れないかという瀬戸際で、船に乗ることができても生きて帰れるか分からない。まさに命懸けで乗り込んでいるのである。乗り心地もクソもあったもんではない。それでもその史実を知っている人は知っているし、知らない人は知らない。それはまだ仕方がないとしても、知っていなければいけないような立場の人が、それを知らないでいたということが、私は衝撃だった。引揚船のことをきちんと理解していないというのは残念ではあるが、それはそれでいいのである。知らないなら知らないで、それが本当なら取り繕ったり知った顔をするより、知らなかったと言った方が余程気持ちが良くて清々しいではないか。それを知った後、どう思ったか答えれば良いのであるし、きちんと歴史を学んで知っていけば良いのである。良くも悪くもこういう意味での真実の言葉が、昨日の成年会見では聞かれなかった。

 話がいささか脱線したが、悠仁親王殿下の成年会見を拝見して思ったことは、どうせ用意された言葉を口にするのなら、役者のようにきちんと自分の言葉に変えて、話をして欲しかったということである。淀みなくお答えになられていてご立派だったと思いたいが、それはリアルタイムで日本全国に生中継されて、質疑応答という逃げ道のない状態であれば、見上げたもんだ、大したもんだと多くの人は思い敬うことだろう。たとえ言葉に詰まっても頑張れと応援したくなる、それが人情というものである。
 
 敬宮愛子内親王殿下の時と比べるつもりは毛頭なかったが、結局のところ、今の時点では皇位継承順位第二位というお立場にも関わらず、そうではない敬宮愛子内親王殿下と同じ土俵に上がらなかったことで、比べられるような形になってしまっているということも、ご自身で気づき考え、もし、回りの人間にすべてをお膳立てされているならば、きちんとそれに対して意見のできる人間にならなくてはいけないし、大学の進学問題や論文盗作問題についても、記者から訊かれずとも自分から釈明なり真実を話すなりした方が、今後長い目で見たらご自身のためだったのではないかと、誠に残念であった。

 敬宮愛子内親王殿下は、会見にあたり、天皇陛下や雅子皇后、宮内庁の方々からお力添えをいただいて、十分に準備をして会見に臨まれたことと察せられるが、その通りに事が運ぶかといえば、決してそうではない。時折、視線が泳ぎ、言葉に詰まったり言い直したりする場面もあったが、そのお言葉は丁寧で、確固たる意思をきちんとお持ちであることが伝わるものだったし、これが皇族といえ人間の本当の姿でさえある。ご自分のおっしゃりたいことは緊張しながらも、何だかんだできちんとおっしゃっておられた印象を受けたし、その言葉が借り物ではなかったから、きっと多くの国民の胸に響いたのだろうと思う。
 拝見していると、成年を迎えたばかりの初々しい女性が、ちょっぴり背伸びをするかのように、立ち居振る舞わなくてはと自身を鼓舞し、一生懸命にお答えになっていらっしゃるお姿は、時に健気でさえあった。だがその反面、時間が経つに連れ場に馴染まれて来たのか、心持ちリラックスされたのか、ふっと春風が吹いたようなそんな爽やかであたたかな、年相応の魅力が伝わる瞬間も端々にあり、非常に素敵な会見だったことが、今も懐かしく思い出されるのである。

 悠仁親王殿下の話は、非常に内容の薄いものだったという印象を受けた。きっと話し方のせいもあったと思われる。分かりやすいといえば分かりやすいが、あまりにゆっくりお話なさるのと、言葉を一つ一つ区切って話すせいか、その間でかなりの時間を消耗し、勢いに欠け、話の一つ一つが中弛みした印象である。底意地が悪いと思われるかもしれないが、記者会見の様子を1.5倍速で再生したら何と聞きやすかったことか。言葉は生き物であり、相手があって話すものであるから、過度にテンポを落として話すのも、時として考え物である。

 敬宮愛子内親王殿下の会見時間とほぼ同じ時間だったにも関わらず、印象が薄くいやに時間が長く感じられたのは、やはり生中継でなかったせいだろうか。こんなことは言いたくないが、本当に定刻通り会見されたのかさえ、私たちには分からない状態である。 たどたどしくとも、決して上手いスピーチとは言えずとも、自分の言葉で自分の思いをどうにか伝えようとする、その真剣さが人の心を惹きつけるのであって、もっとこの人のことを知りたいと思わせるものである。熱のこもった言葉か、血の通った言葉か、自らの思いで発した言葉か、そこに真実があるのか。それを聞き分けられない程、人は愚かではないのである。

 初めて皇室の方に対する私の印象を書いたのは、敬宮愛子内親王殿下と悠仁親王殿下の成年会見は、「言葉」というものの持つ力、それを話す人の魅力、話す人によって全く違うものになるという事例について語るには、どうしても書かずにはいられない程、対照的な好例だったからである。

 男というだけで天皇になるならないが決められてしまうということは、本来ならあってはならないこととまでは言わないが、それに相応しい教育を受け、そして相応しい人柄に育っているか、そうでない人間がその立場に着いたところで、最も気の毒なのはその当人である。
 天皇になる人間が、幼少の頃より天皇の下で教育を受け、人として躾られる。一緒に暮らすだけで親の背中を見て子は育つのである。そうでないところで育った子は、やはりそれまでなのである。成年になるまで、その親(天皇)の下で育たなかった子は、それだけで埋めなければならない隙間が余りにも多く、それを容易く埋めきれるものでは決してないのである。性別だけで一人の若者の青年の将来を決めつけてしまうのは、私たちが思っている以上に、本当のところは酷なことなのである。

 近い将来、誰が天皇になるのか。その頃、果たして皇室があるのか。私も生きているのかそんなことは知る由もないが、 おニ人とも生きるべきふさわしい場所で、ご自分の長所を枯らすことのないよう、自分らしく納得のいく場所に根を張り、これからの長い人生を幸福に過ごしていただきたいと、一国民として願わずにはいられない、悠仁親王殿下の成年会見であった。

言葉本来の役割とは

言葉本来の役割とは

どう取り繕っても、その人の人柄が如実に表れてしまうのが「言葉」である。それだけに、一生かけて磨き上げ、大事にしたいものである。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-02

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