
あれやこれや 211〜218
211 スイスへ行きたい
スイスに行きたい。
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前作の『スカトロジー』に他サイトでコメントいただきました。
ホームヘルパー2級をお持ちの男性で、介護現場の研修の経験もおありです。
『どんなに認知症になろうが施設には入らないと決意した。
その場合は、スイスに行きたい……』
うちの息子も以前仕事で介護現場に配達に行ったとき……
あんなになったら、
「殺してくれ!」
と思ったそうだ。
施設の若い職員も口々に言う。
長生きはしたくない。
口から食べられなくなったら胃瘻は拒否する。ソフト食さえいやだ。ましてや他人にシモの世話など……
入居者さんも自分がそうなるとは思っていなかっただろう。何年も何十年も身内や介護スタッフのお世話になるとは……
介護保険で莫大な金額が使われるとは……
認知症でも謝ってばかりの方もいる。
なにもできない、お迎えが来ない……と嘆く。
だから、認知症でわからなくなる前に、迷惑をかける前に、スイスに行きたい。
スイスなら安楽死ができるのだ。
旅費、宿泊費を含めても300万くらいらしい。
自分で歩けるうちに行こう。行こう。
しかし、語学力がないと……無理!
◇
日本では安楽死は法的に認められていない。だが海外では安楽死を法的に認めている国がある。安楽死は、現在、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、カナダ、アメリカの一部の州で実施されている。たとえば、国内の死因の約4%が安楽死に当たるオランダでは、在住者は保険が適用され無料となる。
しかし、海外からの希望者への安楽死は行っていない。安楽死を法的に認めている国のうち、外国人が安楽死できる国は、世界でスイスしかない。
なお、安楽死といっても、スイスでは医師が直接、手を下すことは禁じられている。患者が苦しまない方法で自殺を遂げることを、医師が助けるといった「自殺幇助」が認められている。点滴やコップに注がれた致死薬を患者自らが体内に注入して逝くという方法である。
なお日本人がスイスで安楽死を行うためには、費用とは別のハードルがある。「語学力」だ。
死期を早めたい理由について、本人が英語もしくはドイツ語で説明できなくてはいけない。経済的余裕があっても、語学力がなければ、「安楽死」を選ぶことはできない。
(安楽死を遂げるまで 宮下洋一 PRESIDENT OnLine)
1回のボタンで死に至る「安楽死カプセル」が近い将来、スイスで使われるものとみられる。カプセル内の酸素を窒素に変えて低酸素症で死亡させるものだ。
安楽死を望む利用者は、精神能力を含む医学的・法的要件にともなう診断を受けた後、紫色のカプセル「サルコ」に入ってふたを閉じる。
機械からは
「あなたは誰ですか」
「どこにいますか」
「ボタンを押せば、どのようなことが起きますか」などの質問が流れる。
返事を終えた利用者にサルコは、
「もしあなたが死ぬことを望むのであれば、このボタンを押してください」
と案内する。
利用者がそのボタンを押せば、空気中の酸素の量は30秒後に21%から0.05%に低下する。
製作者のニチケ博士は
「死亡するまでの約5分程度、無意識状態に留まることになる」
として、カプセル内の酸素の水準と患者の心拍数、血液の酸素飽和百分率などを外部でモニタリングすることができると説明した。
ニチケ博士は、もしボタンを押した後に気が変わっても
「戻ることはできない」と説明した。
サルコを、いつどこで、誰が初めて使用するのかについては決められていない。AFP通信は
「カプセルの潜在的な使用の可能性によって、スイスでは法的・倫理的問題が提起され、自殺幇助に対する論争が再燃した」
と報じた。
スイスは安楽死の一種に分類される自殺幇助を1942年から容認してきた。ただし、今回のカプセル使用については、スイスのバレー州の医師は使用を禁止すると明らかにし、他州も立場を留保している。(ハンギョレ新聞)
他サイトで投稿を読んでくださった友人がメールをくださいました。
◇
投稿読みました。
以前テレビで、難病の女性がスイスまでたどり着いて、いよいよ最後の意思確認で思いとどまり、帰国するというドキュメンタリーを見ました。
その女性には成人した子どもと夫がいて、最後は怖さと家族への未練? なのかで結局やめた。肉体的な痛みで生きているのが辛くてスイスまで行ったんだけど、精神面というか気持ちが痛みを超えたんだなと感じました。
とは言えケースバイケース。
212 サラ・コナー
未来からきた殺人マシーンに命を狙われる……
いずれの作品も、(全部は観てないけど)ひとことで強引にまとめてしまえばそれだけの物語ではある。
未来で繰り広げられている人類対機械の果てしない闘い。
機械軍は人類のリーダーであるジョン・コナーを歴史から消すべく、1984年のロスへ冷徹無比の殺人機ターミネーターを送り込んだ。
目的は、いずれジョンを産むことになるサラ・コナーの抹殺。
同姓同名のサラ・コナーたちが命を奪われていく中、ジョンの母となるサラは未来など知らずに平穏な日常を暮らしていた……
1作目は面白かった。
が、元々はB級作品だったという。
1981年に監督した『殺人魚フライングキラー』が失敗した際、ジェームズ・キャメロンは評論家やマスコミにもひどくこき下ろされたため、屈辱のあまり熱を出して寝込んでしまったという。
そのとき、
「炎の中からロボットが現れて自分を殺しに来る」
という悪夢を見たことが、本作を製作するきっかけとなったと語っている。
(wikipedia)
出演者
アーノルド・シュワルツェネッガー
マイケル・ビーン
リンダ・ハミルトン
公開前の予想に反して、『ターミネーター』は2週間にわたって米国の興行成績のトップに立ち、640万ドルの少ない製作費に対し、最終的に7,830万ドルの興行収入を記録した。
前作『ターミネーター』の予想を超えたヒットにより、早くから続編の製作が期待されていたが、元々B級映画だったために続編製作の権利は複数のマイナー会社に握られており、作りたくても作れない状況にあった。
さらにキャメロン自身も前作の焼き直しに陥るのを危惧して早期の続編製作には否定的で、「少年とターミネーター」という新たな構想を温め続けていた。
事態が大きく動いたのは1990年、カロルコのマリオ・カサール(映画プロデューサー)が『トータル・リコール』に続くシュワルツェネッガー主演の超大作として『ターミネーター2』の製作を企画、権利を買い集めた事による。
脚本・監督の依頼を受けたキャメロンは、ターミネーター同様にサラ・コナーも続編に不可欠な要素と考え、ただちにリンダ・ハミルトンに連絡を取った。
彼から新たなサラのキャラクターの概略を聞かされたハミルトンは、契約目前だった他の映画の主演を蹴って本作への参加を決め、激しい筋肉トレーニングや軍事教練を受けて戦士サラ・コナーへと変貌した。
『ターミネーター2』は、1991年のアメリカのSFアクション映画。
ウィリアム・ウィッシャーと共同で脚本を執筆したジェームズ・キャメロンが監督・製作を務めた。
出演は、アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、ロバート・パトリック、エドワード・ファーロング、ジョー・モートンら。
1984年に公開された『ターミネーター』の続編であり、『ターミネーター』シリーズの第2作目。
公開当時の製作費は9400万ドルから1億200万ドルで、それまでに作られた映画の中で最も高額だった。
1991年7月3日にトライスター・ピクチャーズから米国で公開された。
公開後、演技、アクションシーン、視覚効果などが評価され、大成功を収めた。
全世界で5億2,000万ドルの興行収入を記録し、シュワルツェネッガーのキャリアの中で1991年最高の興行収入を記録した。
この作品は、アカデミー賞の音響編集賞、録音賞、メイクアップ賞、視覚効果賞、ヒューゴー賞映像部門など、数々の賞を受賞した。
マリオ・カサール
コロンビア ピクチャーズとトライスター ピクチャーズの下で働き、1981年の『勝利への脱出』から始まるいくつかの映画の製作を担当した。
1976年には、ヴァイナと共にカロルコ・ピクチャーズを設立し、『ランボー』から始まって、『トータル・リコール』、『ターミネーター2』、『スターゲイト』などのSF映画を含む多くの超大作映画の製作責任者を務めた。
カロルコは『ターミネーター2』が大ヒットした1991年に絶頂を迎えたが、1995年に倒産している。
【お題】 同姓同名
213 赤ちゃん 9
【お題】 不完全なぼくら
これは今の私にはなんとも辛いお題。
完全てなに?
とりあえず5体満足を指すのなら……
ごめん。
完全に産んであげられなかった。
でも、あたふたしたけど、考える間もなくあたふた手術。
上にふたりの幼い子がいたのに、今思うとよくやったなあ、と思う。
周りの皆に助けていただいた。当時は付添が必要だったから、上のふたりの子も心配。私にはすでに母がいなかったし。
そんな思いをして育った娘は、胸の傷以外は完全になった。子どもも産める、と。ふたりでも3人でも4人でも。
孫が産まれるたびに心配した。
遺伝。
娘は遺伝ではないし、私は酒もタバコもやってません。
そんな娘のふたり目の男の子が……
遺伝なのかな?
不完全な心臓。少し穴があいているだけだけど。たった7ミリ。
7ミリが大きいって。
それで、大学病院から、子ども病院に移る。
ようやく大学病院にも慣れたのに。迷うのよね。レントゲンや心電図の場所。
手術になるのかな?
完全になるために。
まあ、あなたたちには強い味方がいる。
214 すみません
落としましたよ。
では、すみませんからね。
なにを?
先日、アズサさんがベットから転落した。着替える時に座らせて、服が届かず、ちょっと離れた隙に、顔面から床に落ちた……
私はその日は休みだった。
週明けにユニットに行ったら……
アズサさんの顔が……痛々しい、というより、怖い。
痩せて肉の落ちた顔。眉の上は、紅く太いアイブローを塗ったよう。その上にクロのブロー。
目の周りは赤い太い輪。特に左目の周りが凄まじい。
これは、家族に電話しただろう。家族はどうしただろう? 心配して見に来ないか?
もう亡くなったけど、ツルマサキさんだったら大変だ。息子に何を言われるか……
オープン当初、ツルマサキさんはよく立ち上がって、私がシーツ交換で部屋に入ったら、トイレで尻餅をついていた。
リーダーに知らせたら、
「ああ、終わった」
と、思ったそうだ。
だからといって、拘束するわけにはいかない。だいたい施設の車椅子にはベルトがついていない。
以前、あの、うるさいコデマリさんは家族が美容院に連れて行った。歩道を車椅子を押していく。段差が多い。
勢い余って、コデマリさんは車椅子から……落としましたよ。
あれ、職員がやらかしていたら大変だっただろう。家族だから、コデマリさんもなにも言えない。
注意しないと!
注意しないと!
注意しないと!
8年前、入って4ヶ月経ったころ、パートは皆辞めてしまい私だけが残った。
あの頃は今より人手がなかった。職員が、合間を見てシーツ交換もしていた。
資格のない私は、最初は周辺業務。
早番の職員は離床させていく。
今は、職員が早く来て動いているが、当初は時間になるまで始めなかった。だから、配膳、食事はずっと遅くなった。
その頃、副菜はまな板と包丁で丁寧に刻んでいた。今は器の中でハサミで刻んでいる。見た目が良くないのだが、速いのだ。
キッチンから、入居者全員は見渡せない。私が刻んでいると、ネコヤナギさんが大声を出した。
「アブナイヨ」
見ると車椅子の女性が立ち上がって、壁に突進して後ろに倒れた。止める間もない。
慌てて職員を呼んだ。
この方が立ち上がるなんて思いもしなかった。
「おねえさん、おしっこ」
以外の言葉は聞いたこともない。
そういえば、その朝は出勤した時からハイテンションだった。薬の処方を変えたばかりだったようだ。精神薬は難しい。
その方は骨折し入院した。
【お題】 「落としましたよ!」から始まる物語
215 口癖だった
しょうもねえ、が口癖だった。
付けた仮名はネコヤナギさん。男性。
8年前、施設がオープンし、ユニットに配属された時からいた方だ。まだ60代だった。30代で脳梗塞になり右半身麻痺。
体格は良く、言葉は不明瞭だが大声で乱暴で怖かった。10人の入居者の中で男性はふたり。ネコヤナギさんが1番若く元気でうるさかった。
パートの私たちにはひどい言い方をした。
バカヤロー、ペーぺーか、はやくしてくれよ、しょうもねえ……
たぶん、刑務所の近くに住んでいたのだろうが、刑務所に入っていた、とか噂。
ネコヤナギさんがイヤだから仕事辞めます、というパートもいた。
ネコヤナギさんは左手でスプーンで、ごはんに刻み食。食べるのが速かった。歯がほとんどない。ほとんど丸呑み。飲み物も後に水分制限されたが、コーヒー等、相当量飲んでいた。
「コオヒイ」
「おちゃくれっ」と叫ぶ。
しかし、糖尿の数値が上がり、1日千ミリリットルに。状態によっては1回百ミリリットルに減らされる。
熱い茶を欲しがった。
「あつくしてくれえ」
と念を押す。ほとんど無視されるが。
私は電子レンジで温めていたが……
こぼすようになったのでやけどするから温められない。
介護を始めたばかりの頃、ネコヤナギさんの朝食後のトイレが間に合わなかった。わからなかった私は普段通り下着を下ろした。まだ、教わったばかり、不慣れな私のズボンに大きなそれが転がり、靴の上に落下した。
私は平静を装い、靴の上のそれを始末した。
「ごめんね、慣れてなくて。すぐきれいにするからね」
本来は敬語を使わなければならないのだが、つい出てしまうのだ。
「しょうもねえ」
そんな言葉をネコヤナギさんは言った。この方の言葉で理解できるのは、『バカヤロー、どいつもこいつも、そんなもんだ』
長い時間をかけきれいにし、着替えをさせ、ようやく私は自分のズボンと靴を履き替えた。
7年の付き合いだ。短時間パートとはいえ情が湧く。ネコヤナギさんも私がいるときはわがままになるらしい。
私がシーツ交換をしている部屋まで、車椅子で自走してきたことがある。
若い職員に言われていた。
「好きなのはわかりますがね」
それがいけないのだ。私が甘やかすから職員が大変になる……
そんな雰囲気。
ネコヤナギさんも人を見る。厳しい職員にはおとなしい。以前はずっとリビングでテレビを見て我が物顔に振る舞っていたが、
「あなただけのテレビじゃないんです。自室で見てください」
と言われ、食事以外は自室に篭る。
少し前までは丈夫だった.風邪を引いた時に、
「よかったね、バカじゃなくて」
なんて、冗談を言えたくらい。
かなり弱った。私が腰痛で休んでいる間に2回誤嚥性肺炎で入院した。戻るたびに痩せて弱り、食事形態がソフト食に変わり、食べるのが遅くなった。
ソフト食はツルツルしてスプーンから落ちやすい。1番に食べ終わっていた方が、最後になった。
食べ終わったあとはエプロンや床にこぼれている。無視できないくらいの量だ。
厳しい職員がリーダーに話していた。介助すれば、職員が大変になるんです……
1対10なのだ。夜勤は1対20。夜中救急搬送などがあれば、ひとりはついていくので、1対40。
ネコヤナギさんは以前は運動のため、車椅子で廊下にも出て日に何度も往復していた。そのたびに頑張れ! と声かけしていたが、ほとんど動かなくなった。
居眠りが多くなった。ヨダレが……
話し相手はいない。
ポプラさんは男性で85歳を過ぎているが、相手に気を使う方だ。入居してきたときはネコヤナギさんの隣の席で、いろいろ話しかけたりしていた。ネコヤナギさんは、バカヤローが口癖で横柄に返していた。
私が2ヶ月ぶりに仕事に戻ると、ふたりの席は別々でネコヤナギさんは大きなテーブルにひとりで座らされていた。
ポプラさんは新しく入居した女性の隣。おふたりともきちんとしている。
ネコヤナギさんは本当は優しいのだ。この私とは長い付き合い。
以前はよくティッシュをくれた。ご自分のものはティッシュとインスタントコーヒーくらい。
私が、誕生日なのよ、と言うと、差し入れのインスタントコーヒーをくれたことがある。もらえはしなかったが。
ティッシュを気に入った入居者にも配ってきた。車椅子で自走し、ほらっ、と差し出す。受け取る方も手を伸ばす。
そんなことも、コロナ禍で禁止された。
「感染症が流行っているんです。あげないでください!」と。
面会も月に1度は数人で訪れていた。垢抜けた妹さんとおにいさんたち。
ショートステイの人と、オセロをしたり、ボランティアの人が将棋を教えにくると楽しんでいた。それが、コロナ禍でなくなった。入居者にとっては長くひどい年月だった。
そして、入院したネコヤナギさんは戻らなかった。
しょうもねえ、しょうもねえ。
しょうもねえ、全日本介護施設……
【お題】 全日本、しょうもない選手権
216 こんなふたり暮らしは嫌だけど
結婚して子どもができて、狭い風呂なしアパートからマンションに移った。
新築の分譲マンションの金利は高かった。5、5パーセント。頑張って完済した。
3人の子は皆出ていき、またまたふたり暮らし。
同じマンションのお隣さん。
40年前、うちより数日遅く入居してきたときは4人家族だった。
「出前のメニューありますか?」
奥様と、小学校高学年くらいの息子さんとやってきた。新居で、自分の部屋もできるのであろう息子は明るかった。
マンションにはあまり交流はない。住んでみれば、壁の薄いマンション。
少し経つと、奥様の怒鳴り声が頻繁に聞こえるようになってきた。娘を怒っている。不思議なことに隣なのによくわからない娘。避けられているのか、顔を合わせることはなかった。
奥様は働いていた。夕方帰りドアを開けるなり、
「M子、お米、といだ?」
と、大声が聞こえた。向こう隣の主婦が私に文句を言うほど、怒鳴る声は頻繁に聞こえた。
ご主人はエレベーターで何度か会った。数年経ち、数回エレベーターで乗り合わせても、
「何階ですか?」
と聞かれた。
「4階です」(隣です。そんなに影が薄いですか?)
ご主人は真面目に働いていた。1度焼肉屋で居合わせたことがある。仕事仲間と一緒だった。作業着で十数人、忘年会かなにかだったか? 私達夫婦を認識しただろうか?
長い年月が過ぎ、さすがのご主人も子どもが3人いる私たち家族を認識できるようになった。
ある日、飼っていた猫がいなくなった。網戸が開いていた。娘はエアコンが切れると暑くて、確かめもせず窓を開けてしまったのだろう。猫はベランダに出て隣のご主人の部屋に上がり込んだ。
朝になって慌てた私たち……ベランダで隣のご主人が猫を隙間から返してくれた。明け方お邪魔したネコを優しく預かっていてくださった。猫好きな方だった。それからは会うと少し話した。子どもたちにも声をかけてくださった。
奥様は乳癌だった。滅多に顔を合わせないが、うちが浴室をリフォームしているときに、廊下で会い立ち話をした。長話などしたことがないのに話した。
リフォームしていることを羨ましがっていた。癌治療でお金がかかる。身内には仕事柄たくさん保険に入れたが、自分にはあまり掛けていなかった……
新聞を床に広げて読むときに違和感を感じた。検査したらすでにステージ4。
マンションでは、亡くなってもお知らせはない。亡くなったことさえわからないこともある。しばらくして、ご主人に外で会った。奥様は亡くなり葬儀も済ませていた。それ以来、心配はしていたのだ。私の父は母を亡くしてから酒浸りで仕事まで失っていたから。
ご主人は元気だった。年月が経ち今ではおそらく80歳過ぎ。
息子さんは結婚したのか家にはいない。いるのは、おそらく独り者の娘。1度は家を出た娘が父親を心配して戻ってきたのか? 今では50歳くらいか?
この娘とはまともに顔を合わせたことも話したこともない。玄関ドアを同時に開ければ、エレベーターに乗らず、向こうの階段を降りていく。
数年前から、私が眠りにつく頃、10時を過ぎた頃に頻繁に怒鳴り合う。父親は耳が遠い。もう、会っても会話にはならない。大声を張り上げなければ聞こえない。
小遣い稼ぎに空き缶集めをするようになっていた父親は、駐車場の自分の車に大量の空き缶を保管していた。高齢になり車を手放すと、マンションの自転車置き場の隅にビニール袋に入った空き缶を置いておくようになった。
苦情が出たのだろう。それからは大量の空き缶をエレベーターで自分の部屋に運んでいた。エレベーターにも廊下にも液が垂れる。その苦情でもあったのだろうか? 大量の空き缶を何袋も置かれたのではたまらない。
娘は怒鳴る。聞こえない父親に大声で夜半に。かつて自分が母親に怒鳴られたように。
終いには父親も
「親をバカにしているのか?」
と怒鳴った。
もう、怒鳴り合う声は頻繁になってきた。
「言ったよね、聞いてよ、だから、聞いてよ、聞いてよ」
なにかを叩く音もする。父親にはよく聞こえてないのだろう?
「もう、迎えに行かないからね」
??
足腰の強い父親。自転車で遠くの空き缶交換所まで日に何度も往復していたが、もしや、認知症? 保護されて迎えに行った?
自分の父親を思い出す。妻に先立たれた男は情けなかった。酒に逃げひどかった。真夏に酒を買いに行き、帰り道がわからなくなり保護された。
早く死んでくれ、と何度思っただろう。悩みの大半が父親のことだった。いまだに思い出すのも嫌だ。
隣のご主人は酒に逃げてはいない。ついこの間までベランダで洗濯物を干していた。空き缶が落ちていれば自転車を止め拾っていた。しかし、足腰の丈夫な人が認知症になると厄介だ。
娘さんの心情を思うとせつない。息子はどうしているのだろう?
【お題】 今日からふたり暮らし
過去作を改筆しました。
217 社長と私
高校を卒業して就職した。当時は人手不足で先代の社長はわざわざ地方の高校まで求人に来た。小さな工場だが寮もある。
私はすぐに決めた。東京に出て働きたかった。
真面目だけが取り柄の私を先代の社長は認めてくれた。社長の1人息子は将来を約束されていたが、結婚を反対され家を出た。息子を失くした社長は私をかわいがってくれた。
忙しかった。遅くまでの残業は当たり前、生産が間に合わないと休みを返上した。給料は上がりボーナスは大手企業の大卒よりも多かった。頑張った分だけ出してくれた。社長が好きだった。尊敬していた。
社長が脳梗塞で倒れると途端に会社は傾いた。ワンマン経営、皆次々に離れていったが私は残った。貯金もあるし恩もある……
息子が戻ってきた。私よりひとまわり上の、女房の故郷で暮らしていたという1人息子は、実にスーツが似合っていた。
会社を見捨てず残っていた者は皆息子を知っていた。皆戻ってきたのを喜んでいた。余程人望があったのだろう。
彼は誰よりも早く出社し経理の不正をすぐに見抜いた。私に給料明細と源泉徴収表を探させるとざっと見て怒りだした。実際よりもらっていることになっていた。3年間私の給料は誤魔化されていた。私が見ていたのは手取り金額だけだった。
「俺の女房だって見抜くぞ」
社長に信頼されていた甥の経理部長は帳簿を誤魔化し、家と別荘、高級車、小型の船まで買っていた。訴えるというのを嫁が止めたという。社長夫人ががショックを受けるから。夫人は介護疲れで寝込んでいた。
「おふくろが目をかけかわいがっていた甥だ」
甥は謝り全てを売って会社に残った。
「オヤジは次期社長にするつもりだった。バカなやつ。俺? 俺は田舎が気に入っているんだ」
息子に肩書きはない。英輔さんと呼ぶ。
英輔さんは夜遅くなっても家に帰った。仮眠室もあるのに。
「女房の顔が見たいから……」
子供の顔じゃないのか?
「オヤジを風呂に入れなきゃな。女房に任せっきりで罰が当たる」
帰っても大変なのだ。介護士や家政婦を雇う余裕はない。
寮を追い出された。
「悪いが売る……当面うちに来い。食事付きだ。女房のメシはうまいぞ」
女房、女房……親も家も会社も捨てさせたのはどんな女房なのだ?
何度か招かれた豪邸。毎年正月には招かれていた。贅沢な食事、高価な酒、上品な社長夫人、外国映画に出てくるような小犬、調度品、家具、夢のような生活をしていた……英輔さんは骨董品を売り、夫人の宝石を売り自分の高級車を売った。
「介護手伝ってくれ。女房が親父とおふくろの面倒をみてる。妹? 金をかけた妹たちは知らん顔さ。借金の相続なんてとんでもないって」
初めてあのひとを見た。日曜日の午前中に引っ越した。英輔さんとふたりで荷物を運んだ。あのひとは庭で社長とバラの手入れをしていた。
化粧品会社の社長の息子の嫁が化粧もしていなかった。車椅子の社長の姿を見て涙が出た。社長の目からも涙がこぼれた。あのひとがさりげなく拭いた。手に血がついていた。バラのトゲで傷つけたようだ。社長が怒った。言葉にはならないが。手袋面倒くさい……あのひとが言い訳を……英輔さんが手を取り舐めようとした。ふたりだけならそうしていただろう。
「おとうさん、紹介して。自慢の嫁だって。美しいバラのような女だって……ヒヒッ」
文字にすればヒヒッとだろうか。下品でも上品でもなく、形容しがたい魅力的な微笑み……この笑顔に悩殺されたんだな……
社長がなにか言った。
「雑種? そうよ。私は強い雑種」
「原種って言ったんじゃないですか?」
「原種だよ。飾らなくてもきれいで強い。原種のままでいろ。三島君、惚れるなよ、トゲがあるからな」
と英輔さんが冗談を言った。
夫人は介護に疲れ驚くほど老けていた。
あのひとは結婚を反対した夫の両親の面倒をみていた。父親は嫁に従順になっていた。最初は大変だったらしいが……母親は頼りきり謝ってばかりいた。幼い息子の英幸君は母親似で愛らしかった。夫婦の愛の結晶は私をおじちゃんと呼んだ。おにいちゃんだよ、おにいちゃん……
あのひとは父親の介護に母親の世話、英幸君の世話、小犬の世話、広い家のことをすべてひとりでやっていた。食事は質素だった。金がないのだ。魚のアラなんて初めて食べた。英幸君に、食べ方がきたなーい、と叱られた。白米がうまかった。居候してからは下痢をしなくなった。英輔さんはあの人に仕事の相談もした。あのひとの助言で罪を免れた経理部長は、借入返済の期限を延ばしてもらってきた。
あのひとは計算が早い。確かにあのひとなら見抜いただろう。数字に弱い私はふたりの話についていけなかった。カタカナの言葉がわからなかった。
あのひとはクイズが得意だ。英輔さんよりも博学だ。記憶力がすごい。私は口を開けば無知を晒す。
社長と夫人は就寝前に、レコードを聴く。社長の不明瞭な言葉でのリクエストをあのひとは理解し、レコードをかける。曲が始まると腕を上げ、指揮者の真似。振り下ろすと曲は始まる。老夫妻は笑う。本当の娘のようだ。あのひとは洗い物をしに行く。英輔さんが手伝う。エルガーのチェロ協奏曲……
無知な私は高尚なクラシック音楽に眠気を誘われソファで眠った。体力も気力もあのひとにかなわない。英幸君が毛布をかけてくれる。せめて、この子の面倒くらいみなきゃならないのに…… ああ、うるさい……
「あなたには雑音ね」
あのひとの声……英幸君が起こす。おにいちゃん、お風呂入りなさい、歯磨きしなさい……
面倒を見られたのは私の方だった。ふたりで風呂に入った。体を洗ってやる。英幸君は私の背中を流してくれた。おにいちゃん、おにいちゃん、と懐いてくれた。湯船に浸かり歌を歌う。
初めてふたりが喧嘩するのを見た。
「こんなときだから欲しいの……欲しい。欲しい。欲しい」
なんの話だ?
「もう一生やらないっ!」
あのひとが怒って私の横を走っていった。怒った目を初めて見た。英輔さんはため息をついた。
「こんなときに子供が欲しいって……」
仲直りしただろうか? ふたりは下で寝ている。父親にいつ呼ばれるかわからないから。私は眠れずキッチンで水を飲んだ。ふたりの部屋から声が聞こえた。
「思い出すな……田舎の海」
「田舎に帰りたい」
「自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ」
「数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く……」
難しくて私にはわからなかった。
中断され子供の声。
「ずるいよママ。僕の番。パパ、僕も抱っこ。ぎゅーして…………
パパ……僕もお馬さん……えいっ!」
どんな体位で? 笑い声。あのひとのおおらかな笑い声、英輔さんの笑い声。子守唄。英輔さんの歌を初めて聞いた。社長もうまかったが……子守唄に聞き惚れた。
「パパ好き、ママ好き、おじいちゃんもおばあちゃんも、おにいちゃんも大好き」
すぐに眠ったのだろう。
銀河系宇宙との性交……続きが始まる前に私は離れた。
悲惨な空気はあの家にはなかった。会社は倒産寸前。父親は半身不随、母親は体を壊し精神も参っている。親戚は寄り付かなくなっていた。
「皆で田舎で暮らせばいいわ。なんとかなるわよ」
いよいよピアノも売られていく。今まで残っていたのが不思議だった。あのひとは自分が買う、と言い出した。私は通帳を出した。車を買うために貯めた金でピアノくらいは守れるだろう。あのひとのために……あのひとは私の気持ちに感謝してピアノを弾いた。クラシックに精通しているあのひとはどんな素敵な曲を弾くのだろう? あの人が弾いたのは……
猫踏んじゃった……
あのひとはヒヒッと笑った。社長も笑い出した。独学で練習していた。楽譜は読める。英幸君が歌う。
猫ひっかいた……
英輔さんも歌う。
猫、ごめんなさい……
若い母親は笑い転げた。つられて息子も笑い転げた。
あのひとは絶望しない。笑いが溢れていた。
「いよいよ家も手放すか……ギブアップだ。ピアノはまた買ってやる。絶対買ってやる。英幸に習わせておまえの好きなテンペストを弾いてもらおう」
あのひとは通帳を出した。
「おまえを露頭に迷わせる訳にははいかない。皆でおまえの田舎に帰ろう。俺はまたスーツを売る。任せておけ。売り上げはトップだから。帰ろう。田舎に。おまえの好きな田舎の海のそばで皆で暮らそう」
あのひとは通帳を開いた。本人名義のもの。
「おまえの貯金くらいじゃどうにもならないんだ」
私たちは数字を見た。言葉が出ない。覗いた数字は桁を間違えたかと思った。通帳の残高は私の金額の10倍。
「どうしてこんなに? 俺が渡した金を全部積んでいたのか?」
あの人は就職してからずっと節約して貯金していた。結婚してからは自分の配達の収入だけでやりくりしていた。夫が渡した生活費は手をつけずに貯めていた。
会社は持ち直した。あのひとの金で。私は部屋を借り三沢邸を出た。よかった。もう少しであのひとを好きになっているところだった。
英輔さんは社長になった。会社は業績を上げていった。私を昇進させた。学歴コンプレックスを一笑に付した。
「女房は中卒だ。俺よりすごい女だ。俺の片腕だ」
社長は私に苦手なことをやらせた。営業、会計、発表、スピーチ。いろいろな講習を受けさせた。高学歴の者ばかりが参加する……学歴で悩むとあのひとのことを思った。
【お題】残業したらいいことあった
218 われ先に
最初の航海の途中である1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。
犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人。戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故であった。
生還者数は710人だった。
4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の冷たさで、乗客の大半は低体温症などで十数分 - 20分程度で死亡したか、または心臓麻痺で数分のうちに死亡したと考えられている。
退船の際には
「Women and children first」が命令され、女性の生存率は73.3%、男性は26.7%となった。
スミス船長が
"Women and children first”(WCF)「女性と子供を優先せよ」
と救命艇を送り出した後、
“Now it’s every man for himself”「今から各自自由行動」
と云ったと伝えられているが、この言葉は英語では良く使われるフレーズで自分の身は自分で守らなければならない状態を表し、
"Every man for himself and the devil take the hindmost”「みんな自分で自分を守れ、悪魔は一番後ろの人を捕まえる」
といったことわざもある。
また「われ先に逃げろ」とのニュアンスもある。
生存者
一等客室:約62%
二等客室:約43%
三等客室:約26%
成人男性の生存率は
一等客室 : 33%
二等客室 : 8%
三等客室 : 16%
一等客室は貴族だったから、優先的に救命ボートに乗れただろう。
二等客室の男性の生存率が低かったのは?
三等客室(貧乏人)よりも体力がなかったから? (Yahoo知恵袋より)
犠牲となった一等船客の女性のうちの1人は愛犬を見捨てることが出来ず、沈みゆく船内に留まり亡くなったと伝えられている。
男性の中には、女性、子供を優先させるために命を犠牲にし、命よりも名誉を慮った人達もいた。
ベンジャミン・グッゲンハイム氏は
「このグッゲンハイムが臆病で助かりたいがために、船に取り残されるご夫人がでることは好まぬ」
と言い残して最後までブランデーを飲みながらポーカーに打ち興じていた。
ちょっと調べてみたら、タイタニックは特別らしく、他の水難事故では、女性は明らかに男性に比べて生存率が低い。
船長と乗組員の生存率は乗客に比べて著しく高い……
という、論文がありました。
【お題】 春に溺れて
あれやこれや 211〜218