
ピアニスト・田中希代子がいた場所
2025年2月26日「note」掲載。
人は誰でも、自分が愛した人の痕跡というものをどうにかして感じたいと思う、そんな習性があるのだろうか。それが、もう二度と会うことのできなくなってしまった親しい人に限らず、歴史上の人物となってしまった人に関しても、特にその傾向が強いように思う。
昨年、松山バレエ団の森下洋子さん主演による「くるみ割り人形」を見に行った帰り、私は帰路に着いた際、電車の座席に座り、鞄からウォークマンを取り出した。今の時代に、ウォークマンなんてものを使っている人間がいるのかと笑われそうだが、私はスマートフォンで音楽を聴くという習慣がない。なぜならば、私が聴きたい音楽のCDは全て廃盤となり、どこのアプリケーションでも容易く耳にできるという、そんな手軽な音源ではないからである。
殊に年齢を重ねた今、私の耳は人の声が入っている音楽は極一部のものしか好まなくなったようで、専らクラシックを好んで聴くようになった。それもピアノ曲が殆どである。
ピアノコンクールとして最も著名な「ショパン国際ピアノコンクール」に日本人が何人も入賞するような時代になり、これだけ日本の演奏家の水準が世界のそれに引けを取らないくらい、素晴らしい演奏をするようになったとはいえ、私の感性にピタリとはまる演奏をするピアニストがいるかというと、残念ながら一人もいない。コンクールとは私にはあまり意味をなさないもののようである。したがって、今となっては生演奏で聴くことのできなくなった、今は亡きピアニストがわずかに残した伝説的な録音を聴くに留まっている。
私が最も敬愛するピアニストは、人物評伝として「ルソン島に散った青年とその時代を生きた女性たち」にも書いたが、日本人ピアニストとして海外で初めて認められ、1937年、「第3回 ショパン国際ピアノコンクール」にこれまた日本人として初めて出場し「特別聴衆賞」を受賞したが、その残された演奏録音の少なさから伝説のピアニストと称される原智恵子であるが、彼女は別格として、同じ日本人ピアニストでもう一人、今度は戦後の「第5回 ショパン国際ピアノコンクール」に初めて出場し、見事第10位に入賞を果たした田中希代子の演奏を、ある時期から好んで聴いている。
田中希代子の残された演奏の中には、文京公会堂で録音されたドビュッシーの「子供の領分」で耳にすることができるように、若さゆえ時に多少の物足りなさがあることも否めないものもあるが、几帳面で折り目正しく清潔感があり、ショパンを弾いても他のピアニストとは一線を画し、必要以上に過度に甘ったるくなることなくさっぱりしていて、自己陶酔せず冷静で、毅然としている。まるで聴衆の一人として、自己の演奏を俯瞰して聴きながら演奏しているような、そんな稀有なピアニストである。
今の時代において、自己主張が表に出ず、奏でるピアノの中にだけ溢れ出るこういうピアニストは、皆無に等しいのではないだろうか。数少ない希代子の演奏する姿を捉えた映像を見たことがあるが、ショパンの「練習曲」を涼しげな顔で表情一つ変えず、さらっと難なく弾きこなすその姿は、自己陶酔の欠片もなかった。
あえて、ここに書く必要があると私は判断して記載するが、ピアニスト・中村紘子のホームページには「第7回ショパン・コンクールで日本人初の入賞」との記載があるが、それは「大きな間違い」であることを記しておく。既に鬼籍の人となっている人を攻撃するようで本意ではないが、これは、歴史の改ざんでもあり、ピアニスト・田中希代子の存在をないがしろにしている行為である。中村紘子ほど世界的な名声を得た、才能豊かなピアニストのホームページが、どうしてこんな記載ミスというか、虚偽をそのまま放置しているのか謎であるが、彼女が存命中からこの記載は変わらないので、何かしらの思惑があっての記載なのかもしれないが、日本人として「ショパン国際ピアノコンクール」に入賞した初めての日本人ピアニストは「田中希代子」であることを、くどいようだがここに明言しておく。
田中希代子は父がヴァイオリニスト、母は声楽家、弟も後に、NHK交響楽団のコンサートマスターを務める程のヴァイオリニストになるという音楽一家に生を受け、幼い頃から両親に英才教育を受けて育った。
戦後、学校教育法に基づく日本の学校制度の6・3・3制とぶつかり、日本の音楽学校では学ばずフランスへ留学。パリ音学院で学び、主席で卒業を果たした後、「ジュネーブ国際音楽コンクール」「ロン=ティボー国際音楽コンクール」、そして、前述した「ショパン国際ピアノコンクール」 と、世界的な三つの音楽コンクールに日本人として初めて入賞を果たした、戦後の日本が生んだ、言い換えるなら戦後の日本のクラシック音楽の歴史は田中希代子からスタートしたと言っても過言ではない、類い稀なる才能を秘めた偉大なピアニストである。
希代子が最も活躍した1950年代〜60年代半ば、その演奏活動は主に海外が盛んで、日本での演奏活動はあまり活発ではなかった。その理由として、海外で学んだ他の日本人ピアニスト同様、希代子自身も語っていたように、日本の批評家たちの的を射ない批評に困惑させられたことも、一つの大きな要因であったようである。
忙しい合間を縫って日本に帰国しても、特定のレコード会社との専属契約を結んでいなかった希代子は、正規のレコード録音というものを殆どする機会がなかった。録音する時はいつも決まって、NHKで放送するためのスタジオと「フジセイテツコンサート」のラジオ番組で放送するためのホールでの公開録音が主だった。そのため、録音された演奏は番組の放送時間の関係でリピート部分が省略されていたり、10曲で構成されている楽曲の1曲をやむなくカットした演奏といった、後年になって考えるとこれだけのピアニストをゲストに迎えて演奏してもらったものとしては、非常に勿体ない録音となっている。しかし、それからわずか数年後に襲った田中希代子の悲劇を思えば、そんな勿体ない演奏録音と称する音源でも、残されていたことに心から感謝しなければならないことになる。
1968年、希代子はピアニストとしても、人としてもまさにこれからといった36歳の年に、不治の病である全身性エリテマトーデス・膠原病を発症する。今の時代とは違い、当初、その不気味な体調不良の原因が中々膠原病と特定できず、その間、希代子は療養すればまたすぐにピアノが弾けると信じて疑わなかった。その理由の一つに、前年のヨーロッパではたちの悪い風邪が流行しており、体調不良もその風邪が原因だと思っていた。しかし、体調は日増しに悪化するばかりだったが、その体調不良の原因が膠原病であると分かると、怪しい壮絶な民間療法にも耐え、絶望の淵に立たされても決して諦めず、様々な治療を試み、1970年辺りまで体調を見ながらだったが演奏活動も続けていた。
当時、レコードアーティストとして、自身の納得のいく録音は極わずかしか残さなかったが、放送という分野で活躍したことにより、その放送用録音のテープが幸運にも、活動した年数の割にはわずかだったが破棄されるのを逃れ、数十年の時を経て全てに近い音源がCD化された。
田中希代子の録音集は何度も復刻され、権利関係の都合上、その一部の録音を除き今も大半を聴くことができるが、その最も初期の復刻は、1987年~90年の3年間に亘ってアダム・エースから発売された5枚のCD、「田中希代子の遺産」シリーズである。ここに収められた希代子の演奏は、日本、ポーランド、東ドイツと3カ国から集められたピアノソロや協奏曲を、一つの「作品集」として聴けるように、作曲家や楽曲を上手く組み合わせて編集された、文字通り、田中希代子の「遺産」であった。散逸しかけていたその録音の中身は、ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン、ラフマニノフ、ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、サン=サーンス、クープラン、ラモー、フォーレといった、作曲家の名前を並べただけでも、まだ若かった希代子がどれだけ自分の才能を試すように、様々な楽曲に挑んでいたか、当時の希代子のピアニストとしての卓越した技術と、その感受性が垣間見れるバラエティに富んだ顔ぶれである。
この時まだ、この演奏者の張本人である希代子は存命で、自らの過去の録音を引っ張り出されてCD化されることに難色を示した。自分の過去の演奏を耳にすることで、ピアノが弾けなくなってしまったその人生を呪いたくなるような、またはピアノを二度と弾けない寂寥感に襲われたのかもしれないが、この一連の録音集で希代子は「新日鉄音楽賞・特別賞」を受賞するという奇跡を起こした。この録音集に対する特別賞ということは、現役で演奏していた30代の頃の「ピアニスト・田中希代子」の演奏に対して授与されたものであるが、本来なら、健康で演奏活動を続けられていたら、希代子が授与される筈だった数々の賞のほんの一部に過ぎないものだったと、私には思えてならない。
その後も何度か、このシリーズの中の録音が収録曲を変えて再発売される間に、新たに発掘された放送音源が未発表の「新譜」として、希代子のピアノ・コレクションに加えられていったが、その決定盤とも言うべき演奏録音が、ニッポン放送の倉庫に60年近く日の目を見ずに眠っていた。
希代子がピアニストとして国内外を問わず、全盛期を送っていた1960年代、日本に一時帰国した際、リサイタルを開けば久しぶりの希代子の演奏を直に聴くことができると、当時の希代子やクラシック音楽のファンは、希代子の演奏会へと胸をワクワクさせながら足を運んだことだろう。そんな一流ピアニストとして、希代子の華やかな演奏活動を思い描いていた当時のファンの思いとは裏腹に、希代子の実情は大きく違っていた。フランスへの留学費用として莫大な借金を抱えていた希代子は、その借金返済のために演奏会を分刻みで開かなければならない、切羽詰まった切実な現実があったのである。
そんな希代子が、リサイタルと並行して精力的に行っていた演奏活動の一つとして、そして、リサイタルとは違い、肩の力を抜いてできたのが、ラジオやテレビでの放送分野での演奏だったのではないだろうか。特にNHK交響楽団と共演した数々のピアノ協奏曲や、NHKでのラジオ放送用に演奏した録音の現存する全てがCDで聴くことができるが、それでも復刻された演奏の中に、希代子のステレオ録音によるピアノソロは皆無であった。
このまま希代子のピアノソロのステレオ録音は発見されることなく、レコード・コレクションも止まってしまうのかと諦めていた矢先のことだった。
希代子がピアニストとしての活動を本格的に展開し始めた1950年代半ば、ニッポン放送が富士製鐵一社による音楽番組「フジセイテツコンサート」の放送を開始する。
この番組はその名の通り、演奏家がラジオ放送用に開いたコンサート、ライブを番組が録音し、そのまま放送で流すという、今考えれば何とも贅沢な番組であった。もちろん、オンエアはその日その時の一度きりであり、後年の再放送はなかった。
2004年11月26日、数々の録音を保有していたであろうニッポン放送が、放送開始50周年を記念し、2枚組CD「新日鉄コンサートの歴史」をポニーキャニオンから発売した。この中で、希代子の演奏はショパンの1966年に放送された「幻想即興曲」を収録したのみで、他の録音がどれくらい残っているのかは不明であった。ただ、一定期間の放送録音のマスターテープは全て保存されていて、それを順次CDに焼きつける作業をしていると、ライナーノートには記されてあった。
それから15年が経った2019年、その「フジセイテツコンサート」で希代子が演奏したピアノソロを収めたアルバムが4タイトル発売された。全曲ともステレオ録音によるものである。 ピアニスト・田中希代子のピアノソロを上質なステレオ録音で聴くことができるとあって、この録音がなぜ今まで世間に公表されずに来たのか、疑問でしかなかったが、こうして希代子のピアニストとしての演奏を思う存分堪能できる、そんな一級品とも位置づけられる貴重な録音が、ようやく日の目を見たのである。 残されていた録音はショパン、ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルト、スカルラッティのピアノ・ソナタ、ショパンのバラード、ノクターン、幻想即興曲の各1曲、「24の前奏曲」全曲、シューマン「クライスレリアーナ(第3曲カット)」である。この他に、膠原病を発症した後、演奏会からは遠ざかっていたが、体調が日によって良かった頃の、まだ幾分、前向きな様子で近況を語る1969年の希代子の貴重な肉声が、十数秒含まれていた。
これらのCDのライナーノーツの中で、どこで演奏されたかという会場の記載があり、私はその会場名を見て驚いた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」と、シューマンの「クライスレリアーナ」は先日、松山バレエ団の「くるみ割り人形」を見て来た東京文化会館であった。しかも、収録日を確認したら、1964年12月7日とある。今からちょうど60年前の出来事である。
舞台終演後、客が退くのを待ち、引き寄せられるように3階席から階段を降り、1階席の舞台がしっかり見える場所に立ち、写真を撮った。もちろん、この時、私がこの事実を知る筈もなかった。
図らずも導かれるように、私の愛するピアニストの一人、田中希代子が生きて、そしてピアニストとしてたくさんの聴衆から拍手喝采を浴びた、人生至福の時を過ごしたその会場に、私はいたのである。
これを書くにあたり、私の手持ちのCD全てを確認してみたところ、1965年1月14日、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」、1月27日にサン=サーンス「ピアノ協奏曲 第5番 エジプト風」1968年1月16日、同「ピアノ協奏曲 第4番 ハ短調」を同会場で弾いていたことが分かった。殊に、1968年のサン=サーンス「ピアノ協奏曲 第4番」に至っては、当時はまだ判明していなかった膠原病を発症し、既に希代子は体調不良による高熱にうなされ、手も開かなくなってきていた頃のまさに命懸けの演奏であり、公式に出回っている録音では、これがピアニスト・田中希代子の完璧な演奏を収めた最後の録音である。
この後、徐々に激痛を伴い開かなくなってきていたその手に痛み止めを注射し、キャンセルできなかった京都市交響楽団とショパンの「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調」で共演したが、途中で音を外し「あっ」と思わず小さく声をあげると演奏を中断、途中から弾き直したこの納得のいかない演奏が、希代子がオーケストラと共演した最後であったと評伝には記されている。
ライブ演奏にミスタッチはつきものであるが、不本意にも演奏を自らの手で止めてしまったということは、ピアニストにとってあまりに屈辱的で、完璧主義者だった希代子にとっては、さぞ無念であったことだろう。
膠原病にさえならなければ、希代子はまたこの翌年も東京文化会館のステージに立ち、様々な作曲家の残した作品を演奏していたことだろう。一歩一歩、その過程で成長し、もしかしたら90代に入った今も、同じピアニストで100歳を超えて尚、活躍を続ける室井摩耶子氏のように、元気であればたまにリサイタルなどを開いていたかもしれない。そんな希代子を、この東京文化会館はまた、あたたかく迎え入れてくれたことだろう。
時代の流れと共に、過去の偉人のいた場所や見ていた景色というものが、容赦なくどんどんと失われつつある中、偶然にもこうして田中希代子のゆかりの場所に、時を越えて立つことができた喜びを、私は帰りの電車の中でその演奏を聴きながら、しみじみと噛みしめたのだった。
ピアニスト・田中希代子がいた場所
奇しくもこの記事を掲載した日は、田中希代子さんの29回目の命日だった。2月26日と聞いてすぐに思い浮かべたのは、2・26事件だった。
偶然とはいえ、田中さんのことを書けて、そして掲載できて良かったと思う。