償いと夢の絵葉書
長い石段の先にぽつりとある神社に向かって、わたしは鉛筆を構えた。
手が震える。頭も痛い。
誰のものかもわからない、わたしを責める声が聞こえる。
卑怯者。ろくでなし。どうせ下手なのに。
確かに、わたしは責められても仕方のないくらいのことをしてしまった。
手元の絵葉書には、確かに目の前の神社が、繊細な水彩画で描かれている。
ここの神様に謝っても、やっぱりダメ。
わたしにはもう、絵を描く資格がないのか。
結局、この木の下でうずくまっているしかなかった。
「お姉さん! 大丈夫ですか?」
まどろみの中で声を掛けられて、わたしは飛び起きた。
「あっ、えっと……ごめんなさい」
目の前には、一人の女の子。少し小柄だけれど、顔立ちから見て高校生くらい。短めの素朴なカットの黒髪に、垂れ目のかわいい小顔。心配そうにわたしをじっと見ている。
「もしかして、お昼寝中でしたか?」
「まあ、そんなところです」
「だとしたら、起こしちゃってごめんなさい。今日は涼しくて気持ちいいですよね」
彼女は苦笑いしながら謝った。わたしは、彼女が地元の人なのかどうかが気になり始めた。
「いいえ、気にしないでください。それより……」
「お姉さん、絵を描いていたんですか?」
質問しようと思ったら、先に聞かれてしまった。
「ええ、まあ。それで……あなたは、この町の人ですか?」
「夏休みの間だけ来ているんです。少しなら、この町のこともわかりますよ」
かなり期待が持てる気がした。そもそもこの町は、観光客もあまり入っていかない山の奥。この神社も人気はなく、一人で来るのは慣れている証拠だと思う。
わたしは絵葉書を手に取った。この町の名前と、柄目征爾という画家さんの名前が書いてある。それを彼女に見せた。
「実は、この絵を描いた画家さんを……」
「あーっ!」
説明する前に、彼女は急に驚きの声を上げた。
「お姉さん、この絵葉書をどこで?」
明らかに興奮している様子。何か心当たりがあるのか。
「わたしが小学生のとき……十年くらい前に、手前の温泉街で買ってもらったんです」
「そうなんだ……それで、この絵に描かれたこの神社まで、来てくれたんですか?」
来てくれた。その言い方からして、彼女はこの絵を描いた人をちゃんと知っていそうだ。
でも、どうする。わたしがその人に会いたい理由、ここまで来た目的は、まだ話すための心の準備ができていない。
「ええと……この絵が好きで。もしできたら、この絵を描いた画家さんに会いたくて……」
「あっ……」
すると、彼女は急に勢いを失って、しゅんとしてしまった。
「ご、ごめんなさい。えっと、どこから説明しようかな」
その寂しそうな表情を見て、わたしはいくつかのことを察した。とりあえず彼女は画家さんを知っているどころではなく、身内のように近い人だと思う。
「あなたはこの画家さんの、娘さん?」
「えっとね、孫なんです。柄目美夜。美しい夜と書いて美夜といいます。高校二年生です」
当たった。改まって名乗ってくれた美夜さんの名前を心の中で復唱しながら、わたしも自己紹介をする。
「わたしは、寺井雪絵です。漢字は天気の雪に絵画の絵。大学の一年生です」
「雪絵さんですね。それじゃあ、おじいちゃんのアトリエに招待します。一緒に来てくれますか?」
「ありがとう。お願いします」
まだほんの少し、疑う気持ちもあった。でも、美夜さんは人を騙したりはしなさそうだと思う。わたしは自分の見立てを信じて、彼女について行った。
アトリエまでは五分くらいだという。歩きながら、美夜さんのおじいさんのことを聞いた。
「おじいちゃんは、二年前に亡くなりました。でも、まだアトリエだけは残っていて、おばあちゃんも住んでいます」
「美夜さんも、絵を描くの?」
「はい。全然、おじいちゃんには及ばないですけど……良かったら、あたしの絵も見てほしいです」
明るくて、前向きで、温かい雰囲気の子だと思う。おじいさんももし生きていたら、こんな感じなのだろうか。わたしの罪も赦してくれただろうか。
気がつくと、左手の手首がかゆい。神社にいたときに虫に刺されたらしい。わたしが刺されたところを気にしていると、美夜さんが振り向く。
「虫刺されですか? 多いですよね、ここ。あたしもよく刺されるんですよ。むしろかゆいのにも慣れちゃいました」
「そうなのね」
美夜さんはもう、友達のようにいろいろ話してくれる。夏休みの間だけ来ていると言っていたけれど、本当に住んでいるところでは友達も多いだろうし、ここでは寂しいのかもしれないと思った。
「美夜さんは、絵を描くためにこの町に?」
「はい。山籠もりなんです。あっ、おばあちゃんの家が見えましたよ」
道のりでは、神社のあった山の階段を下りてから、坂道を上がってきた。道の脇には畑がある。美夜さんが指したのは、青いトタン屋根の平屋だった。
「おばあさんにも、ご挨拶していきたいのだけど……」
「おばあちゃんは今、山菜採りでいないんです。夕方には帰ってきますよ」
この平屋が母屋で、アトリエは奥の離れにあるらしい。
「アトリエはこの先なんですけど……お手洗いは大丈夫ですか?」
「えっと……お借りしてもいい?」
「はい。こっちです。もし虫がいたら、殺虫剤も使ってください」
お手洗いは母屋の脇にあって、母屋からも外に出ないと来られない。そして、洋式で水洗だけど汲み取り式だった。さすがに山奥という感じがする。蠅が一匹飛んでいたけれど、殺虫剤を使うほどではなかった。
「ありがとう」
「いえいえ。ちょっと怖くありませんでしたか? 昼間はまだいいですけど、夜なんてもう、虫も増えるし大変なんですよ。ここなら誰にも聞かれないので、思いっきり歌って気を紛らわすんです」
頑張ってるなあ、と思った。美夜さんは本当に、山籠もりの修行のような気持ちでここに来ているらしい。それはやっぱり、おじいさんのような画家を目指しているからだろうか。
アトリエは母屋の裏の空き地の奥にあった。キャンプ場で見るような小さいログハウスだ。電線はアトリエに電気を届けて、そこで終わっている。
「こちらです。どうぞ、上がってください」
扉を開けてもらうと、中からほんのりと美術室の匂いがした。あまり好きではないけれど、これもちゃんと克服したい。
来客用のスリッパに履き替えて中に入る。よく整頓されたワンルームだった。美夜さんが窓を開けると、涼しい風が入ってくる。部屋は正面に扇風機とテーブル、左に画材の置かれたデスクと水道と流し台、右にはストーブやベッドがある。一瞬、美夜さんはここで寝泊まりしているのかと思ったけれど、よく見るとベッドにはマットレスが敷かれているだけで、枕や毛布がない。
「よく片付いているけれど……普通のアトリエは、もっと物が多いと思ってた」
率直な感想を伝えると、美夜さんは頷いた。
「おじいちゃんが亡くなったときに、ほとんど処分しちゃって。ここに残ってるのは、あたしが受け継いだものだけです」
「それじゃあ、ここはもう美夜さんのアトリエになったのかな」
わたしはすごいと思ったけれど、美夜さんは謙遜したように笑う。
「まだ、形だけですよ。夏休みにしか来ていないので。それに多分、おばあちゃんがあの家から離れるようなことがあったら、このアトリエも終わりなんです」
「そう……」
「おじいちゃんは、隠居って言うんですかね。昔のようにたくさん絵を描き続けることができなくなって、この町に引っ越したんです。それで、細々と絵葉書を作って、向こうの温泉街とかで売っていました」
「それが、この絵葉書……」
「原画が残っているんですよ。今出しますね」
わたしは背もたれのない椅子に座らせてもらって、額に入った原画を四枚、テーブルに広げて見せてもらった。どれもこの町の風景だという。夏の神社。紅葉の山並み。トンボの飛び交う畑。雪野原。繊細な筆遣いで描かれた、その場の空気の流れまで想像できるような水彩画だ。
やっぱり、わたしなんかが描いたものとは比べようもない。
また、頭が痛くなる。今度は胸も苦しい。
小学校の三年生の頃だ。わたしは夏休みに水彩画を一枚描いてくる宿題が出て、題材に迷った末、好きだったこの絵葉書の絵を全部真似して描いてしまった。もちろん、構図も筆遣いも見様見真似で。それでも、それなりに時間は掛けて、できるだけ似るように頑張った。
わたしはその絵を提出した。するとそれが先生たちに気に入られて、学年の中でわたしの絵が表彰されてしまった。ただ一人の、優秀賞だった。
その後わたしは絵について深く聞かれることになった。特に、この神社をどこで見たのかということ。わたしはそれで、クラスメイトに絵葉書の絵を写したことを喋ってしまった。そこまで悪いこととは思っていなかった。たとえ元の絵があったとしても、実際に描いたのは自分だから。でも、それを甘い考えだと知るまでは一瞬だった。
それって、雪絵ちゃんの絵だって言えるの?
絵を真似して描いたら、偽物なんじゃない?
その日のうちに大騒動になって、誰もいない空き教室で担任の先生と話すことになった。先生は確か、わたしが絵を真似して描いたこと自体は責めなかった。それは模写と言って、ちゃんとした練習の方法ではあるから。それでも、それを自分の作品だと言って提出したのはいけなかったと言う。わたしはただ宿題の絵を描いただけで、それが自分の作品だと言った覚えはなかったのに。
かくして表彰は取り消された。それと同時にわたしの絵は先生が回収してしまって、廊下にも展示されなくなった。その日から、少なくともクラスの中で、わたしは完全な悪になった。
宿題とはいえ、ちゃんとした作品だという前提があったなら、何をどのように描くかを決めるところも制作のうち。そういう意味では、確かにわたしはずるをした。だから、罰が当たったのだと思った。結局、それから小学校には通えなくなってしまったし、中学からは私立校に進んで通えるようになったけれど、絵が描けないという後遺症が残った。
だけど、わたしは絵が嫌いになったわけではない。ふと、絵を描きたくなるときがある。それでいざ画用紙を前にすると、具合が悪くなってしまう。ずっと苦しかった。
どうすれば、絵を描けるようになるのか。それを考えたとき、わたしは自分の罪と向き合わなければならないと思った。だからここまで来た。
「……雪絵さん、大丈夫ですか?」
声を掛けられたけれど、わたしは反応できなかった。涙は頬を伝い、手首に落ちていく。
「お茶、淹れてきますね」
この絵を描いた本人には会えなかったけれど、美夜さんに会うことはできた。せめて彼女にはちゃんと話して謝りたいと思う。
しばらく経って、美夜さんは水筒と二つのマグカップを持って戻ってきた。わたしはすぐに話をしようと決めていた。
「お待たせしました。熱いので気を付けてください」
「ありがとう。いただきます」
美夜さんが持ってきたのは紅茶だった。砂糖やミルクは入っていない。枯草のような、少し癖はあるけれど落ち着く香り。とりあえず一口いただく。そうしたら。
「美夜さん。聞いてほしい話があるの」
「はい。何でも聞きますよ」
「ありがとう。実は、わたしがここに来たのは……おじいさんに謝るためだったの」
「謝るため? 何を……ですか?」
美夜さんは目を丸くする。自然な反応だと思う。
「小学校の三年生の頃、わたしは夏休みに水彩画の宿題があって。そこで、自分の作品を出さないといけないところに、この絵葉書の絵を模写して、出してしまったの。それで、おじいさんに謝りたかった。本当にごめんなさい」
「雪絵さん……」
わたしは立ち上がって、背中が直角に曲がるくらいに頭を下げた。美夜さんは何も口を挟まずに、わたしの謝罪を受け取ってくれたのだと思う。
「もう、顔を上げてください」
三十秒くらい経ってから、美夜さんは優しく声を掛けてくれた。顔を上げてみても、表情はむしろ申し訳なさそうですらあった。
「そのために、こんなところまで来てくださって……雪絵さんはそれだけの長い間、おじいちゃんの絵を憶えていて、おじいちゃんの作品として大切にしてくれていたんですね。絶対、おじいちゃんも赦してくれると思います。ずっと苦しかったと思います。打ち明けてくれて、本当にありがとうございます」
「美夜さん……ありがとう。本当に、ありがとう」
また、涙が出てきた。今度は痛みはなかった。わたしは解放されたのか。これで終わったのか。今度は絵が描けるのか。嬉しかったけれど、これから絵を描くことを思うとまだ少し怖かった。
気がつくと、外は暗くなり始めていた。もう四時だ。
「そろそろ、ホテルに戻らないと」
今日は温泉街のホテルに泊まる予定で、そろそろ行かないと温泉街行のバスがなくなってしまう。
「そっか……雪絵さん、明日にはもうお帰りですか?」
美夜さんは、努めて平気そうに振舞おうとしているようだったけれど、表情には寂しさが隠しきれていなかった。
「そうね。明日のホテルは取ってないの。でもまた明日、午前中だけでも来ていいかな」
「本当ですか! 大歓迎です!」
大げさに飛び上がってから、満面の笑み。それを見ただけで、わたしもなんだか報われたような気持ちになった。
「今度は美夜さんの絵も見せてね」
「はい! それで、その、あの……」
でも、美夜さんにはまだ言いたいことがあるらしい。
「これはちょっと、あたしのわがままなんですけど……」
「なに?」
そもそも、わたしが急に来たのに美夜さんは嫌な顔も見せず対応してくれた。だから、それなりのお願いは聞くつもりだった。
「……やっぱり、やめます。ごめんなさい」
何かを言いだそうとして、それでも言えずに引っ込める。そうしたら、はしゃいでいたのも落ち着いてしまった。
「あの、そろそろおばあちゃんも帰ってると思います。挨拶していきましょうか」
「うん、そうね。行きましょう」
わたしからはもう、そのことには触れなかった。
美夜さんのおばあさんは、背中が丸くなってきているけれど、とても元気で大らかな人だった。その辺りは血筋なんだと思う。挨拶をしてから、美夜さんにはバス停まで見送ってもらった。
美夜さんにはすっかり懐かれているし、わたしも親しみを感じていた。
ここまで事がすんなりと運ぶとは思っていなかったので、もう一泊くらいできるだけの準備はしてきている。その先の予定も入れていない。まだ始まったばかりの長い夏休みだ。もし、美夜さんが良ければ……と、そんなことを考えながら寝た。
翌日。世間はお盆休みで、このホテルを取るのもギリギリだったらしい。それでも、奥の町へ向かうバスはガラ空きだった。この時間はやっぱり、向こうから来る人の流れしかない。
この町はなんだか涼しい気がする。今日も東京は三十度を超えているけれど、こちらは二十五度くらい。隠居には良い場所なのかもしれない。
とりあえず、母屋の呼び鈴を鳴らしてみる。十秒くらいで美夜さんが出てきた。
「おはようございます! 雪絵さん、本当に来てくれたんですね!」
そう言いつつ、明らかにわたしが来ることを確信して、準備万端で待っていた様子だ。
「おはよう。今日もよろしくね」
「はい、早速行きましょう!」
アトリエに向かう途中、庭でシーツと毛布を干しているのを見かけた。それはあまり気にしなかったけれど、アトリエの中でベッドの上に枕が置いてあるところを見て、繋がった。
誰かを泊める準備をしている?
もちろん、誰かと言ったらわたししかいない。昨日の帰り際に美夜さんが言いかけたのは、このことなのかもしれないと思った。
「これが、去年描いた絵です」
まずは話していた通り、美夜さんの絵を見せてもらう。それは、夜空に向かって火の粉を舞い上がらせるキャンプファイアを描いた水彩画だった。星と火の粉の輝きが入り混じって、幻想的な光景を作り出している。
「綺麗……炎の暖かさも伝わってくるみたい」
「ありがとうございます。この絵は、高校の学校祭でやったキャンプファイアを思い出して描いたんです」
二年前の絵は、中学校の修学旅行で見たという湖上の花火の絵。三年前は、眩い照明に照らされた、誰もいないグラウンド。美夜さんは毎年、夜と光の風景を描いているらしかった。並べて見ると、上達しているのもはっきりわかった。
「三年前から夏休みに来て、絵を描くようになって。この二年前の絵までは、おじいちゃんにも見てもらえたんです」
「じゃあ、その後……」
「はい。基本的なことは一通り教わることができたので、それは良かったと思います。でも、おじいちゃんに与えられたままの課題が、一つだけあって……」
「課題?」
「人を描くことなんです」
そこでわたしは、初めて美夜さんの重く物憂げな表情を見た。
「こういう風景なら、ある程度描けるようになった。でも、本当に美術の道を進もうとするなら、それだけではダメ。特に人物はちゃんと描けなきゃならない。そう言われました」
「人を描くのが苦手なの?」
「はい。人物って、とっても難しいんです。動きもあるし、形も複雑。骨格とか、パーツの位置とか意識することも多くて、ちょっとでもバランスが崩れると気持ち悪い絵になってしまう。だから、逃げちゃってるんです」
それでも、美夜さんは課題のことをちゃんと憶えている。逃げているけれど、諦めてはいない。
「今年の絵も、結局……これで」
すると美夜さんは立ち上がり、窓に面したデスクに伏せてあった画用紙を取り上げる。それが今年の絵だった。夜の神社。蛍のような淡い緑色の光が、闇の中にその建物を浮かび上がらせる。まるで異世界への入口のような絵だった。素人目に見れば、美夜さんは自分の絵の世界観を確立しつつあると思うし、相応の技術もあると思う。しかしそれだけでは、美術の道を究めるには足りないのだろう。
「でも、その……昨日のわがまま、言うだけ言わせてもらってもいいですか」
強い葛藤を感じた。多分それは、課題から逃げないために必要なこと。
「うん」
「ありがとうございます。では、ええと……雪絵さん。もし、都合が良ければ……二日間。二日間だけ、ここに泊まって、わたしの絵のモデルになってもらえませんか。わたしが寝床も用意しますし、お料理もお洗濯もします。どうか、お願いします」
美夜さんは立ったまま、深く頭を下げた。
「おばあさんに、許可は取ってあるの?」
「はい。雪絵さんなら大丈夫だって言ってくれました」
それはまあ、寝床の準備が進んでいるくらいだから、昨日わたしが帰ってからすぐに動き始めたのだろう。本気なのだと思う。
「顔を上げて」
「はい」
真剣な表情だが、目は涙で潤んでいる。
「そうまでして、今年、その課題に向き合うことにしたのは、どうして?」
「はい。今年、雪絵さんに出会って……やっぱり、美大に行って美術の道に進みたいと思ったんです。おじいちゃんのように、誰かの心にずっと残り続けるような絵を描きたい。趣味としてじゃなくて、ちゃんと画家としてやっていきたいと思ったんです」
美夜さんは高校二年生。進路を決めて動き出すのに、来年では遅すぎる。本当の瀬戸際で、わたしとの出会いが美夜さんの背中を押すことになった。
それはもう、応援するしかないと思う。そして、わたしの罪に対するせめてもの償いにもなると思う。わたしも、美夜さんの覚悟を受け止める覚悟ができた。
「わかった。じゃあ、あと二泊だけお世話になるね」
「ありがとうございます! 雪絵さん、よろしくお願いします!」
美夜さんはお礼を言うなり、全身から喜びを溢れさせてその場で小躍りするほどだった。
「本当に嬉しそう」
「もちろんです! 雪絵さん大好きです!」
なんともかわいらしい。なんだか、最初とすっかり立場が逆転していておかしかった。
でも、これはわたしにとっても良い機会かもしれない。美夜さんと一緒なら、安心してもう一度絵を描き始められそうな気がするから。
まずは現状の確認ということで、十分間のデッサンに付き合うことになった。わたしは単純に、椅子に座って手を膝の上で重ねているだけだ。
美夜さんは左手でスケッチブックを抱えて、右手でしっかり尖った鉛筆を走らせる。表情は真剣そのもの。
扇風機が首を振りながら回っていて、たまにこちらに風が来ると心地よかった。
十分間は長いと思ったけれど、美夜さんの集中している姿を見ていると、思ったより長くは感じなかった。キッチンタイマーが終わりを告げる。
「はい! 雪絵さんお疲れ様です、ありがとうございました!」
そう言いながら、美夜さんはサインペンに持ち替えると、その紙の端に筆記体のローマ字で名前を書き入れた。わたしは固まった体を伸ばしてから、完成した絵を見せてもらう。
「すごい……自分でも、自分だってわかる」
顔立ち、髪の流れ、服の皺。十分間でもしっかり特徴を捉えて描かれている。でも、写真に撮ったように完璧かと言えば、そうではないと思う。どこかはわからないけれど違和感がある。実際、美夜さんも絵の出来に満足した様子ではなく、首を傾げながら絵を睨んでいる。
「……雪絵さん、わかりますか? 多分ちょっと、実際より細く描いちゃってるんです。首は実際より短くて、顔は小さいのに、目が離れすぎている。ごめんなさい。ダメダメですね」
反省点はたくさんあるけれど、それをちゃんと自分で見て具体的に挙げられるのはさすがだと思った。
「言われてみれば……ちゃんと自分でわかるのね」
「はい。でも、思ったより悪くはなかったと思います。人を描いたの、結構久しぶりだったので。これって多分、まだあんまり知らない人を描かないと、本当の練習にならないんです。普段よく見て知っている人だと、特徴とかもわかってるから描きやすくなっちゃうんです」
「なるほど、それでわたしを」
「はい。一旦、これはこれで。雪絵さん、そろそろお腹空きませんか?」
腕時計を見ると、そろそろ十二時だ。まだ空腹感はないけれど、お昼は食べられると思う。
「そうね。本当にご馳走してくれるの?」
「もちろんです! 昨日おばあちゃんが採ってきた山菜で、冷たい山菜そばを作ろうと思うんですけど、どうですか?」
「それは美味しそう。じゃあ、お願いするね」
二人で母屋に移動した。アトリエの照明は白い裸電球が一つで薄暗くて、外に出ると眩しかった。今日はおばあさんもいる。何日かお世話になることを伝えたら、「美夜ちゃんに付き合ってくれてありがとう」とお礼を言われた。
ただ待っていると手持ち無沙汰なので、やっぱり手伝おうかと思ったら、美夜さんの手際は思ったよりも良くて、もう下ごしらえは終わってしまっていた。
「お世話になってるし、せめて洗い物くらいは……」
「わかりました。じゃあ、食べ終わった後、一緒にやりましょう」
おばあさんが採ってきた山菜はフキとワラビ。どちらも昨日のうちにあく抜きをしてあったらしい。それらを使った山菜そばが出来上がった。三人でちゃぶ台を囲む。
「いただきます」
つゆは濃すぎず薄すぎず、山菜のほろ苦い風味を引き立てた。
「美味しい」
「良かった! おばあちゃんが採ってきた山菜で作った山菜そば、あたしも大好きなんですよ」
このような場所に毎年通っているだけあって、なかなかに渋い好みだ。それにしても、美夜さんはそんな食べ慣れたものでも美味しそうに食べる。
わたしは食べながら、午後からのことを考えていた。やっぱり一度、絵を描いてみたいと思う。何でもいい。とにかく描いてみたい。
洗い物を手伝いながら、美夜さんに絵のことを話してみる。
「美夜さん。わたしも、絵を描いてみたいの」
「いいですね! そう言えば美夜さん、初めて会ったときにあの神社で絵を描いてましたよね。あの絵は、完成してたんですか?」
「そう、それなんだけど……」
わたしのスケッチブックは、未だ白紙しかない。
「実は、小学生の頃から、絵を描こうとすると具合が悪くなってしまうの」
「そんな。だからあのとき……」
美夜さんも、わたしがあの神社で何をしていたかを理解してくれたようだ。
「模写した絵を学校に提出して……その絵が、学年の中で表彰されてしまったの。でも、本当のことを話したら、表彰は取り消された。そのときに周りの人からも責められて。それ以来、絵を描こうとしても描けなくなった。トラウマみたいなものなんだと思う」
「そうだったんですね……じゃあ、美術の授業とかも?」
「中学の美術の成績は、五段階で二とかだった。辛うじて、鑑賞とかテストとかはできたから」
「悲しい……」
それから、美夜さんは泣きそうな目をして、時折何かを呟きながら洗い物を続けた。
「雪絵さん」
洗い物が終わってアトリエに戻ろうとしたところで、名前を呼ばれた。
「どうしたの?」
その表情は、絵を描いているときのように真剣だ。
「雪絵さんと一緒に、絵が描きたいです。一緒に描きましょう!」
それは美夜さんなりの、力強い励ましなのだと思った。
「うん。ありがとう、わたしも頑張る」
アトリエに戻るとき、美夜さんは母屋の玄関から梨を一個持ち出してきた。
「リハビリみたいなものなので、簡単なものを描いて、少しずつ慣れていければと思うんです」
「考えてくれてありがとう。やってみるね」
テーブルにややくすんだ白のテーブルクロスを敷いて、その中央に梨を置く。ずっと描いていなかったとはいえ、元々わたしは絵が苦手というわけではなかった。技術的にはこのくらいなら描けそうな気がする。
でも、椅子に座って鉛筆を白い紙に向けた途端、手が震え始めた。
「ううっ、やっぱり……」
「雪絵さん!」
すかさず、美夜さんがわたしの肩を揉んでくれた。しなやかな指で緊張していた部分が柔らかくほぐされて、肩の力が抜ける。
「大丈夫ですよ。絵は怖くありません。自分のペースで、もう一度……」
そう、もう一度。
でも、頭が痛くなってしまう。美夜さんの優しい声を掻き消すように、呪いの言葉が頭に響く。
「やっぱり、ダメっ……」
呼吸が荒れる。鉛筆を取り落とした。
「雪絵さん! すぐに戻ってきます!」
床に座ってうずくまってしまったわたしを見て、美夜さんはアトリエから飛び出していく。干していたシーツを持ってきて、ベッドに敷いてくれた。
「どうぞ、横になってください。動けそうですか?」
「ありがとう……」
手を貸してもらって立ち上がり、そのままベッドに横になる。ベッドは硬めだったけれど、横になるだけで幾分楽になった。
「ごめんなさい。無理だったみたい」
「仕方ないですよ。ナイスファイトだったと思います。次に繋げていきましょう」
美夜さんは励ましてくれる。確かに、そう簡単に克服できるものではないのだろう。だから、諦めないことが大事だと思った。
体調が落ち着いてきた頃、美夜さんはナイフを持ってきて、さっきの梨を切り分けてくれた。歯ごたえがあってみずみずしく、ほんのり甘い。それで気分はかなり良くなった。
「食べたら、散歩に出てみませんか」
「散歩?」
「外で聞こえる音とか、風や雲の流れとか……頭を空っぽにして、そういうものに意識を向けてみると、気分転換になるかもしれません。これ、おじいちゃんに教わったそのままなんですけどね」
「わかった。わたしも行く」
外に出てから、言われたように目を閉じて耳を澄ませてみる。両腕に涼しい風を感じた。木の葉の擦れる音が聞こえる。その奥で、蝉が鳴き続けていた。
目を開く。
「どこに行くの?」
「あの神社まで!」
二人で一緒に歩き出す。今度は空を見上げてみた。山の向こうに入道雲が見える。空は鮮やかな青色。ちぎれた雲がいくつか、ゆっくりと流れていく。
ここに来て初めて、本当に心が休まったような気がした。温泉街では絵葉書のことを聞き込みするのに集中していて、景色を見る余裕もなかったから。
神社への階段も、五十段くらいあって少ししんどいけれど、無心になるには良かった。
「到着! 雪絵さん、気分転換になりましたか?」
多分、美夜さんは気を遣ってここまで喋らずにいたのだと思う。
「そうね。だいぶ、さっぱりしたかも」
「良かった!」
境内に休めるところはないので、その場でお社に一礼して踵を返す。
「あたしも天気がいい日は、だいたい毎日来るんですよ。運動にもなるので」
「確かにね」
「戻ったらまた、描かせてもらえませんか。次はもう少し上手に描けそうな気がします」
「うん。何度でも付き合うよ」
美夜さんも、ちゃんと気分転換ができたようだ。帰り道は来るまでに喋らなかった分、お喋りが止まらなかった。
今度は本を読んでいるところを描きたいと言われて、アトリエにあったハードカバーの本を渡された。美夜さんのおじいさん、柄目征爾の画集だ。
「ポーズを大きく変えなければ動いても大丈夫です。その本、読んでみてください」
「わかった」
とりあえず、最初から本を開いてみる。美夜さんの鉛筆の音が聞こえ始めた。おじいさんの現役時代の絵は、絵葉書のような水彩の風景画はほとんどなく、油絵の抽象画がメインだった。本には解説文が載っているけれど、読んでも絵を理解した気にはなれない。
本を読んでいると、十分間はすぐに終わった。
「終わりです! ありがとうございました!」
もう少し頑張って読んでみたい気はあったけれど、一旦本を開いたまま手元に置く。
「おじいちゃんの絵、どうでしたか? 絵葉書の絵と全然違いますよね」
「うん……正直、わたしにはちょっと難しかった」
「大丈夫ですよ、あたしもあんまりわからないので……いや、本当はわからないとダメなんですけどね」
美夜さんは苦笑いしていたけれど、表情はどちらかと言えば嬉しそうだった。おじいさんの絵をあまり理解できていないことを、なかなか他人には話せずにいたのかもしれない。
「それはさておき、絵ですね。さっきよりはちゃんと描けたと思います」
描いた絵を見せてもらう。美夜さんが言うように、さっきよりは違和感がない。特に顔。さっきの絵と見比べさせてもらうと、違いがはっきりわかった。
「ちゃんと、さっき悪かったところを修正できてる」
「はい。頑張りました。本当はこれを、初見でできないといけないんですよね。今はもう雪絵さんの描き方、だいぶ慣れてきちゃったので」
「でも、一つの対象をちゃんと描けるまで練習するのも、無駄にはならないんじゃない?」
「そうですね。次はまた、別のポーズで描かせてください」
「うん」
美夜さんの課題は、対象に慣れるまでに掛かる時間を短くすること。つまり、初めての対象でもできるだけ早く特徴を捉えて、バランスよく描けるようにすることだと思った。それは自分との戦いであって、わたしに手伝えることは基本的にない。ただ、応援することくらいだ。
夕飯は豚汁を作ると言うので、今度は最初からわたしも手伝わせてもらった。台所では、美夜さんにわたしの大学のことをいろいろ聞かれた。進路をどう決めたのか、受験勉強はいつから始めたのか、合格したときどのくらい嬉しかったか、などなど。
それからお風呂にも入らせてもらって、アトリエに戻る頃には外もかなり暗くなっていた。中は、電球だけだと絵を描くには暗すぎる。それでも明るいデスクライトと母屋から持ってきた電池式のランタンがあって、それらを使えば夜でも絵を描けると教えてもらった。
わたしがベッドに座ると、美夜さんは近くに椅子を持ってきて座った。窓は半分開いている。程よく風が入ってきて、過ごしやすい。
「雪絵さんは、普段何時くらいに寝ますか?」
「十二時くらいが多いかな。アルバイトから帰って、シャワー浴びて、夕飯食べて、いろいろやったらそのくらい」
「意外と早いなって思いました。大学生って、もっと夜更かししてるイメージです」
「まあ、家で友達とか誘って夜通し遊んだりする人もいるよ」
「そうなんですね。あたし、飲み会ってちょっと怖いんですけど、美夜さんは行ったことありますか?」
「まだない。サークルに入ったりしたら、あるかもしれないけど。怖そうな人について行かないようにすれば大丈夫だと思う」
「頑張ります!」
わたしも高校生のときは、大学生活がどうなるのか想像できなかった。卒業生の話を聞く機会はあったけれど、それもやっぱり人それぞれだと思っていたし、自分にどんな選択肢があって、実際にどれを選ぶのかには、どうしても考えが届かなかった。だけどわたしは、美夜さんの参考に少しでもなればと思って話している。
あるとき、美夜さんが立ち上がった。
「あっ、すみません。ちょっとお手洗いに……雪絵さんも、大丈夫ですか?」
ちらり、ちらりとこちらを見て。夜は大変だと言っていた。それは主に、美夜さんが。
「そうね。行きましょう」
二人で外に出る。さらに暗くなって、信じられないほどたくさんの星が見えた。
「すごい星……」
「そっか、そうですよね! あたしも初めて見たとき、感動したんですよ。天の川もここで初めて見ました」
確かに、夜空にはうっすらと白い光の帯が走っている。その辺りにひときわ明るい星が三つあった。あれは都会でもなんとか見える夏の大三角。ここではそれらの属する星座までちゃんと見える。
美夜さんがランタンを持って先導してくれた。でも、山の中だけあって虫が光に寄ってくる。あまり刺されないことを祈る。
お手洗いにはわたしが先に入らせてもらった。その実、中の様子を見て殺虫剤を撒く係だ。蚊や蠅くらいならこれでどうにかなる。今回もそうだった。ひどいときには蛾や蜘蛛や、もっと嫌な虫も出るらしい。そういうときには叫びながらほうきを振り回して、ご退室願うのだとか。
「お待たせ。中は今なら安全だと思う」
「ありがとうございます……あの、戻ってて大丈夫ですので。ランタンも使ってください」
「本当に?」
「本当です!」
それはまあ、いつもは一人だから、大丈夫ではあるのだろう。わたしもあまり外にいる意味はないので、アトリエに戻ろうとする。そうしたら、お手洗いから美夜さんの歌声が聞こえてきた。気を紛らわすためとは言っていたけれど、かなり音の外れた力任せの歌声だ。わたしは笑いをこらえながら歩いていった。
アトリエに戻ってルームウェアに着替えたところで、美夜さんも戻ってきた。ちょっとからかってみる。
「美夜さん、歌はあまり得意じゃないみたいね」
そうしたら、美夜さんは両手で頬を押さえて、顔を真っ赤にした。
「ゆ、雪絵さん……言わないでください……」
「ふふ、ごめんね……美夜さん?」
最初はかわいらしい反応だと思ったけれど、美夜さんはそのまま両手で顔を覆って、何かを呟き始めた。
「わかってるんです、音痴なの……友達に楽しく歌えればいいってカラオケに誘われて行ったら、あたしが歌った後すっごく微妙な空気になっちゃって、次からカラオケには誘われなくなったんです……」
「わかった、ごめん、もう言わないから」
そのうち本当に泣き出してしまったので、わたしは慌てて美夜さんを抱きしめてなだめた。歌のことは本気でコンプレックスだったらしい。これは悪いことをしてしまった。
一分くらいで美夜さんが落ち着いたので、ベッドで並んで座った。
「さっきは、本当にごめんなさい」
「いえ……あたしこそ、取り乱しちゃってごめんなさい」
すると、美夜さんはゆっくりともたれかかってきた。肩が触れ合う。
「あたし、雪絵さんに出会えて本当に良かったです。ちょっと変な話ですけど、お姉ちゃんみたいだなって思ってます。一人っ子なんですけど、お姉ちゃんがいたら……」
知れば知るほど、美夜さんは甘えん坊なところがあると思う。本当はこのアトリエに来るのも寂しいのかもしれない。それであってもここで絵を描きたいのだろう。おじいさんや、自分の将来のためには。
「わたしも、美夜さんに出会えて良かった」
「一緒ですね。だからあたし、絶対、雪絵さんの助けになりたいです」
「ありがとう。頼もしいよ」
そのままなんとなく落ち着いてしまって、しばらく二人でそうしていた。
やがて美夜さんが大きなあくびをして、それが終わりの合図になった。そこから母屋に帰るときまで、美夜さんはまた少し恥ずかしそうだった。
「雪絵さん。おやすみなさい」
「おやすみなさい。美夜さん」
一人でベッドに入ってから、改めて考えた。わたしを押さえつけるものは何なのか。今はもう、正々堂々と絵を描こうとしているだけなのに、どうして責めるような声が頭に響いてしまうのか。
せっかくここまで来たのに、絵が描けないままで終わりたくはない。でも、また絵を描くのを怖いと思う気持ちがあった。それはどちらかと言えば、体調が悪くなって美夜さんに迷惑を掛けるのが嫌だった。
迷惑を掛けたくない気持ちは、中学生の頃からあった。最初の美術の授業でいきなり三分間のクロッキーをすることになって、わたしは線の一本も引けずに、その場でめまいを起こして保健室へ行くことになった。
幸い、先生やほとんどのクラスメートはわたしが絵を描けないことを理解してくれた。それでも、美術のほとんどの時間を欠席するわたしを「ずるい」と言う人はいたし、わたしも小学生の頃の話は誰にもしなかったから、常に後ろめたさがあった。なるべく目立たないように、三年間をやり過ごすようにして、中学生活は終わった。
小学校に通えなかった期間も、中学校で透明人間のように過ごした期間も、わたしは自分への罰だと思っていた。だけど、それが高校でも、大学でも、あるいは社会に出てからも続くと思ったら、さすがに理不尽だと思った。高校では美術が選択科目で、絵が描けないことがハンデになることもない。それを機に、わたしは少しずつ、その罰のために失ったものを取り戻そうとしてきた。
そして今。わたしは本当に、自分の過ちを乗り越えようと思っている。絵を描くのは好きだった。これからは、好きなことを堂々とできるようになりたい。
わたしはもう卑怯者ではないし、絵を描こうとしても、周りに迷惑を掛けたりはしない。
自信を持って、そう言えるようになれたなら――。
七時くらいに目が覚めて、身支度をしてから母屋に向かった。すると、母屋の玄関先で美夜さんに会った。
「雪絵さん、おはようございます!」
「おはよう」
「朝ごはんできたので、上がってください」
「早いのね。ありがとう」
ちょうど、わたしを起こしに来るところだったようだ。二人で母屋に上がった。味噌汁の匂いがする。おばあさんが盛り付けをしているところだったので手伝った。
「いただきます」
大根の葉っぱの味噌汁、里芋の煮物、そして卵焼き。一人暮らしで時間もない中では難しい、品数の揃った朝ごはんに心が温かくなった。卵焼きは甘めの味付けだった。
「雪絵さん。温泉街の近くの商店まで買い出しに行くんですけど、一緒にどうですか?」
「わかった。行きましょう」
「ありがとうございます!」
美夜さんの手元には、買い物のメモが置いてあった。お店が遠いのは大変だと思う。美夜さんがいるときは、おばあさんの代わりに買い出しをしてあげているらしい。
「お金多めに渡すから、お菓子でも買ってきなさい」
「ありがとう。お菓子もいいけど……雪絵さん、スイカ食べませんか? 普段は重くて、なかなか買えないんですよ」
「ええ。でも、お金は足りる?」
お菓子を買うくらいのお金だったら、スイカは買えないかもしれないと思った。
「おばあちゃん、大丈夫だよね?」
「もちろん。好きなもの買って来なさい」
そうしたら、おばあさんは美夜さんに追加のお金を渡した。
「スイカ、みんなで食べようね」
「ありがとうございます」
わたしもおばあさんに頭を下げた。でも、おばあさんは何も気にしていない様子でほほ笑んでいた。
「いいのよ」
スイカなんて、長らく食べていなかった。今日は昨日より暑そうだから、食べたら気分がいいと思う。
片づけを終えてから、二人で買い物袋を何枚か持って出かけた。バスの時間が近いので早足で向かう。待合所に着いたときには、定刻の三分前だった。
ちょっとした、手持ち無沙汰な時間。
「美夜さん」
決めたことは、早く言葉にしておきたかった。
「どうしましたか?」
「後でまた、あの神社に行きたい。始まりはあの神社の絵。あの神社を自分の力で描いたら、わたしを押さえつけているものを、振り払えるかもしれない」
「なるほど、わかりました。一緒に行きましょう!」
「ありがとう」
バスは時間通りに来た。誰も乗っていない。美夜さんを窓側にして座った。
「雪絵さん」
美夜さんも何か言いたいことがあるらしい。
「なに?」
「明日、帰っちゃうんですよね。またいつか、会いたいなって……」
「うん。絶対にまた会いましょう。連絡先、教えるから」
「ありがとうございます! あたしも……」
互いに今の住所とメールアドレスを教えあった。もし住所が近かったら嬉しいと思っていたけれど、会いに行くなら新幹線を使うようなところだった。
「雪絵さんはメールとお手紙、どっちが好きですか?」
「まあ、好き嫌いというか……手紙って、書いたことないかも。みんなメールとかあるし」
周りもみんな、手紙なんて書かないし、最近はもっと簡単な連絡手段もあるから、メールだって書かなくなってきている。
「美夜さんの周りもそうじゃない?」
「はい。確かにそうなんですけど……雪絵さんと、文通したいなと思って」
美夜さんは少し恥ずかしそうに、上目遣いにわたしを見ながら打ち明けた。
「手紙ってこと?」
「はい。昔、おじいちゃんともお手紙でやり取りしていて。それしか方法がなかったのもあるんですけど、いいなと思ったんです。大切な人のために、時間を掛けて文章を考えて書いて。なんか、メールだとついお互い、返信を待っちゃうじゃないですか。でも、お手紙だとどのみちすぐには届かないし、ゆっくりやり取りできるんですよ」
手紙の良さを語るときは、とても楽しそうな調子で。おじいさんと手紙でやり取りをしたのも、本当に良い思い出なのだろう。
「だから……離れているからこそ、お手紙でやり取りできたら嬉しいです」
離れているからこそ。美夜さんの気持ちはわかるような気もしたけれど、自分もそう感じるかはわからなかった。でも、一緒にやってみたらわかるかもしれないと思った。
「わかった。いいよ」
「ありがとうございます! 今度、お手紙書きますね」
「うん。楽しみにしてる」
美夜さんはもう、座ったまま大はしゃぎだった。わたしまで嬉しくなった。単に文通ができることだけではなくて、もっと大きな嬉しさがあったような気がする。
バスを降りると、商店は見えるところにあった。
「あっ! 雪絵さん、花火ですよ」
入るなり、美夜さんが声を上げる。入口の脇の棚に手持ち花火のセットが並べられていた。その目はもう、「やりたい」と訴えかけている。
「一緒にやる?」
「やりましょう! 今日はスイカに花火に、盛りだくさんですね」
「うん。夏の思い出になるね」
花火も、本当に小さい頃にキャンプで一回やったきりだと思う。夏の思い出なんて、あの夏休み以来作る余裕もなかった。
それは、わたしが失ったものだと思った。初めてだ。今まではそれが罰だと思っていたから、失ったなんて考えることもなかった。
でも、今なら取り戻してもいいのかもしれない。これからはもっと、やりたいことをやっていいのかもしれない。なんとなくそんな考えが浮かんできた。
スイカも買って、花火も買って。帰りにはスイカを持つのを手伝った。楕円形の、三人で食べきれそうな大きさのスイカだ。
帰りのバスはすぐには来なくて、そばに置かれたベンチで二十分くらい待つことになった。
「美夜さんは、あの家で花火もしてたの?」
「はい。花火もしましたし、昔はビニールプールもあったんですよ。あとは、川で魚釣りもしました。お魚は触れないんですけど……」
たくさんの思い出があって、単純にうらやましく思った。美夜さんはわたしの何倍も、楽しい夏の過ごし方を知っている。でも、今はわたしも一緒に楽しい夏を過ごせている。
暗いばかりだった記憶が、思い出に塗り替えられていく。そんな気がした。
「ねえ、美夜さん。あとでまた、あの神社に行っていいかな」
「もちろんです。絵を描くんですよね、一緒に行きましょう」
「ありがとう。今日は、描けそうな気がする」
「本当ですか! 応援、しますからね」
一緒なら、塗り替えられる。
お昼を食べた後、二人で神社へ向かった。
わたしは自分のスケッチブックと、鉛筆だけを持っていった。美夜さんは画用紙と画板を小脇に抱えて、ズボンのポケットにペンケースを入れている。
また、その神社と向き合う。最初と同じように木の下に座って鉛筆を構えた。
「雪絵さん、頑張ってください!」
「ありがとう」
絵は怖くない。わたしはもう、堂々と絵を描いていい。悪いことではない。誰にも迷惑を掛けない。
心の中で繰り返し唱えながら、わたしはいよいよ、鉛筆の先を紙に向けた。
それでも、手は震える。
一度、目を閉じて深呼吸をする。
取り戻したい。塗り替えたい。
目を閉じたまま、鉛筆の先を紙の上に置いた。
もう少し。まだいける。
目を開いて、神社の輪郭を確かめる。屋根の斜面を見て、引こうとする線をイメージする。
大丈夫。
そのとき、手の震えが少し弱まった。
今なら。
わたしは指先でしっかりと鉛筆を持って、刻み込むように一本目の線を引いた。
「……引けた」
手の小指くらいの長さの、ほんの少し曲がった線が引けた。
「やりましたね! 大丈夫ですか?」
「うん!」
それで、完全にいけると思った。
無我夢中で線を引く。少しくらい間違えても気にしない。
その神社の姿を、自分の目で見たままに紙の上へ描き出していく。
あのときは、方法を間違えてしまったけれど。今は自分の力で描いている。
誰もわたしを止められない。完成するまで止まらない。
一本、また一本と線を描く。
そうしたら、だんだんと紙の上にも、あの神社だとわかる形が浮かび上がってきた。
力の加減をしたり、鉛筆を持ち替えたりして陰をつけてみる。地面に伸びる影も描く。
立体感が出てきた。
神社の細部を描き込んだら、背景の木はもう大雑把に描いてしまう。
「できた!」
いつ以来かわからない、自分自身で描いた絵だ。わたしはすぐに美夜さんに見せた。
「おお、十年くらい描いてないんですよね? とっても上手です!」
確かに、自分でも不思議なくらい上手に描けた。線の引き方は乱暴だし、形も歪んで見えるけれど、神社の絵だとはわかると思う。美夜さんも認めてくれた。
「ありがとう。本当に、美夜さんのおかげ」
「いえいえ。一番は、雪絵さんが頑張ったからですよ」
そう言ってほほ笑む美夜さんは、まだ画板を膝に抱えている。
「そっちはどんな感じ?」
立ち上がって覗きに行こうと思ったけれど、腰が動かなかった。思ったより体力を使ってしまったらしい。
「せっかくだから、水彩画にしようと思って。これは下絵です」
「そうなの」
描いたものを見せてもらうと、そこには断片的な輪郭しか描かれていなかった。神社と、背景の森。そして手前に人のような形がある。
「もしかして、わたし?」
すると、美夜さんは少し顔を赤らめて。
「はい。いいですよね? 今年の絵は、雪絵さんを描きたいと思ったんです」
それは大切な決断だ。
「うん。楽しみにしてる」
自然に、応援したいと思った。
その絵に描かれるわたしの姿はどんなだろうか。あの絵の世界に入ることを想像すると胸が躍った。そうして座ったまま、美夜さんの絵の仕上げを待っていた。
外では汗もかいて、帰る頃には冷たいものが恋しくなっていた。でも、美夜さんがおばあさんに準備してもらっているものがある。
二人で流し台を覗き込むと、水を張ったタライに縞模様が浮かんでいた。美夜さんがそれを両手で取り上げる。
「よく冷えてますよ! 触ってみますか?」
「うん」
指先で、その濡れた表面に触れてみた。冷たすぎず、ぬるくもない、心地よい温度だ。
「切り分けて持っていくので、向こうで待っていてください」
気遣いはありがたいけれど、ただ待っているのではつまらないと思った。
「ねえ、切るところ見せてもらっていい?」
「いいですよ! 頑張りますね」
美夜さんはタオルで拭いたスイカをまな板の上に横倒しにして、包丁を握った。
「気を付けて」
「任せてください。三人だから……まずはこうですね」
玉の底をこちらに向けて、縦に包丁を入れる。皮は薄くて、意外とすんなり切れた。そのまま刃を入れて、スイカをまっぷたつにする。果汁がまな板の上に広がり、ぎっしりと詰まった真っ赤な果肉が露わになった。
「すごい……」
「いいスイカですね! 次は、こんな感じで……」
玉の半分をさらに半分、半分と切って、八分の一の大きさが四つ。両手で持ってかぶりつくにはちょうど良い大きさだ。
「雪絵さんも、この大きさで大丈夫ですか?」
「うん」
「それじゃあ、これは出来上がりです」
二枚の皿を出して、わたしたちの分が盛り付けられた。わたしは一旦それを居間へ運ぶ。戻ってくると、美夜さんは残りの半分をまた半分にしていた。
「こっちは後に残しておきましょう。こっちはおばあちゃんの分です」
おばあさんの分は、食べやすいよう小さめに切り分けられた。残った四分の一は、ラップを掛けて冷蔵庫に入れる。昨日から思っていたけれど、美夜さんは手際が良い。家事に慣れているのだと思う。
おばあさんの分のスイカも出して、わたしたちは縁側で外を見ながら食べることにした。アニメとかドラマで見た、田舎の光景そのままだ。
「あっ、塩とかいりますか?」
「大丈夫。ありがとう」
わたしはたまに塩を掛けるけれど、今回はいらないと思った。
「いただきます」
真ん中から、思い切り一口。果汁を吸いながら。
濃い。
甘く冷たい感覚が口いっぱいに広がる。
「美味しい!」
その間、美夜さんはわたしの様子をまじまじと見ていた。わたしの感想を待っていたらしい。
「雪絵さん、いい笑顔です! それじゃああたしも、いただきます!」
いい笑顔。そんなことを言われたのは何年ぶりかもわからなくて、最後に誰に言われたのかも憶えていなかった。でも、美夜さんはもっと美味しそうにスイカを食べている。それを見ていたら、わたしもスイカをさっきより美味しく感じるようになった。
「雪絵さん、種取るのにフォークとかいりますか?」
少し食べ進めると、種の多い部分が出てくる。そこで美夜さんが気を利かせてくれた。
「フォーク、あったほうがいいかもね」
「持ってきます!」
わたしも種を飲み込む派ではないけれど、おおっぴらに種を吐き出すのも恥ずかしかった。でも、美夜さんはそれに気がついたというよりは、自分でもフォークが欲しくなったのだと思う。
「はい、使ってください」
「ありがとう」
フォークを二本持ってきて、一本をわたしにくれた。その後、美夜さんは小声で付け加える。
「その……普段なら庭に向かって種飛ばしとかしちゃうんですけど、ちょっとはしたないかなって」
種飛ばし。思いもよらない響きだった。
「種飛ばしって……どうするの?」
「えっ?」
わたしは本当にそういう遊びがあることを知らなかった。それでも美夜さんは信じられなかったようで、きょとんとしてしまう。
「あの……種を口に含んで、吐き出すときにどれだけ遠くに飛ばせるかっていう遊びです。やったこと、ないですか?」
「知らなかった」
とはいえ、美夜さんが言ったようにちょっとはしたない遊びではあるかもしれないと思った。他人の家でもあるわけで、ここでやるのはやっぱり気が引ける。
「確かに、普通の家の中とかだとやらないですよね」
話しながらお互い、フォークで種を取り除いている。
「……でも」
目が合う。
「見せてもいい、ですか?」
心の中では、美夜さんは種飛ばしをしたいのだろう。もしもわたしが許すなら。
「やりたいのね。いいよ」
「えへへ」
わたしが頷くと、美夜さんは照れくさそうに笑った。
「あたし、得意なんです」
そう言って、スイカの黒い種があるところを小さくかじる。
わたしは手を止めて、静かに美夜さんの様子を見ていた。
縁側に座ったまま、反り返り気味に背筋を伸ばして、斜め上を向く。その唇の間に種がくわえられていた。
次の瞬間、ふっ、と。
種は放物線を描いて、一メートルくらい先の土の上に落ちる。
美夜さんは頬をほんのり赤くして、それでも気持ち良さそうな笑顔だった。
「座ってたら、こんな感じですね」
「……かっこいい」
ほとんど考えずに、感想が口からこぼれた。
「そんな、かっこいいなんて……」
美夜さんは冗談だと思ったかもしれないけれど、心からそう思った。
だから、自分でもやってみたいと思う。こんなこと、ここ以外ではできないし、今しかない。
「ねえ、わたしもやっていいかな」
「おおっ! いいですよ!」
一緒にやれば、もう恥ずかしくない。わたしは種を口に含んで、見たまま真似しようとしてみた。
「湿ってると重くなって飛ばないので、なるべく乾いたところでくわえて、空気で飛ばすといいですよ。向きは、上に四十五度くらいです。お腹にぐっと力を入れてください!」
美夜さんもアドバイスしてくれる。わたしが見た動きと同じだ。
青空に向かって、思い切り息を吹く。
飛んだ。
種はちゃんと前に飛んで、雑草の合間に落ちて見えなくなった。飛距離は美夜さんと同じくらいだと思う。
スイカの匂いが鼻に残っていて、やっぱりほんの少しの恥ずかしさもあって、体がむずむずした。
「雪絵さん、上手ですね!」
「お手本、見せてもらったから。ありがとう」
スイカを食べ終わってから、二人で片づけをしてアトリエに戻った。夕飯の準備を始める一時間くらいの間は、またそれぞれ絵を描くことにした。
わたしはテーブルの上に本とランタンを置いて、鉛筆でスケッチをした。一度ちゃんと神社の絵を描けたのは大きかった。だんだんと、絵を描くことが何でもないことだと感じ始めている。
美夜さんはさっきの下絵に色を付けるのではなく、またスケッチブックに鉛筆で何かを描いている。
「美夜さんは、また違う絵?」
「はい。あの……また、雪絵さんを描かせてもらってます」
「今のうちだからね」
それでてっきり、絵を描いているわたしの絵でも描いているのだと思ったけれど、出来上がったのはまた違う絵だった。
「完成です!」
「あっ、これって」
そこには、種飛ばしをするわたしの姿が描かれていた。口をすぼめて、両手を床に置いて、ちょっと前のめりになった姿勢。髪やTシャツの動きから、今まさに種を飛ばそうとしているような勢いを感じる。
「種飛ばしをする雪絵さんです。目に焼き付けておいたんですよ」
「どんどん上手になってる。動き出しそうな絵」
「ありがとうございます! もう、離れていても雪絵さんのことを描けそうです」
それは、美夜さんがモデルとしてのわたしを理解できたということだろう。今年の水彩画にも活かされるはずだ。
「あの神社の絵も、完成したら見せて」
「はい。絵葉書にして送ります」
「ありがとう」
今度の絵葉書は、正真正銘の宝物になる。それが素直に嬉しかった。美夜さんにとっても、夢に向かうための大切な意味を持つ絵だ。
「雪絵さんも、すっかり描けるようになりましたね」
「まだ、まっすぐ線も引けないけど……心の問題は、もう心配ないみたい」
わたしの絵も、間もなく完成した。本とランタンの材質の描き分けができていないとか、技術的なことを言えばきりがない。でも、今は描けるだけで楽しいと思う。
「まだ時間ありますね。もうちょっと描きましょうか」
「うん」
失くしていたもの。忘れていたもの。それらを確かに取り戻しつつある。
夕飯の冷やし中華と、残ったスイカを食べたら、次のお楽しみの花火の時間だ。明日は早朝から雨予報で、今もさっきより湿度が上がっている気がしたけれど、空にはまだ星が見えた。
「マッチとろうそく、持って来ましたよ」
二人で玄関から外に出て、縁側の前に向かう。そこで美夜さんは、平らな土の上にろうそくを立てた燭台を置いた。わたしは縁側に置いておいた水入りバケツを運んでから、花火セットの袋を開ける。
「美夜さん。どれからやる?」
「線香花火は最後にして、それ以外は適当にやっちゃいましょう! 何が出るかはお楽しみです」
「わかった。色々開けておくね」
小袋を開けたり、セロハンテープでまとめられているものを剥がしたりして、一本ずつにした手持ち花火を縁側に並べておいた。
「よし。火の準備もできました!」
ろうそくは書道の筆くらいの太さがあって、火もなかなか大きかった。強い風でなければ消えなさそうだ。
わたしたちはとりあえず一本ずつ花火を持って、火の近くに立った。
「雪絵さん、お先にどうぞ!」
「じゃあ、始めるよ」
花火をした記憶はほとんどない。火をつけたら何が起きるのかほんの少し怖くて、花火の先端を恐る恐る火に近づけた。
ようやく火がついたと思ったら、音とともに筒の先から青白い炎と火花が飛び出した。わたしはとっさにそれをろうそくから離す。
「出た……」
「あたしもやります!」
美夜さんの花火は、激しく弾ける火花を出すものだった。その火花は手まで届きそうなほど激しくて、わたしが持ったらびっくりしてしまいそうだ。
「それ、熱くない?」
「ちょっと暖かいくらいですよ」
「そう……」
「怖いですか?」
「花火、全然やったことないし、すごく久しぶりだったから。昔は平気だったから、多分すぐ慣れると思う」
「じゃあ、穏やかめのものに当たるといいですね。色が変わるものとかあったらおもしろいですよ!」
それにしても、袋を全部開けてしまったから何の種類なのかはもうわからない。こうなれば度胸だ。
美夜さんが持ってきてくれた二本目を、思い切って火にかざしてみる。
今度は緑色の丸い炎が出た。美夜さんも同じ種類だ。
「雪絵さん、花火で絵を描いてみましょう。こうです!」
美夜さんは二歩くらい離れて、その炎で宙に大きな渦巻きを描いた。それから、その外側に半円の軌跡を描いていく。花丸だ。しかも、花びらを描くときにちょうど炎の色が赤っぽく変わって、本当に花が咲いたかのように鮮やかな色合いになった。わたしも手元で星形を描いてみようとしたけれど、その途中で花火が終わってしまった。
それでも、だんだんと楽しくなってきた。
「多分これが同じ種類ですよ」
「ありがとう」
今度はいきなり赤い炎が出たけれど、炎の形は同じだった。そこでわたしは、なんとなく思いついたハート形を描いてみる。
「あっ、ハートですね。かわいい!」
できた。かわいいと言われたのは少し恥ずかしかったけれど、喜びのほうが大きかった。
その後もお互い、色鮮やかな花火に当たるたびに絵を描いた。途中からはもう決まりきった形ではなく、自由な線を描いているだけだった。それが何に見えるかを話し合ったりして、花火はあっという間になくなっていった。たまに弾ける花火にも当たったけれど、もう怖くなかった。
「あっ、もう線香花火しか残ってないですね。ちょっと一息入れましょうか」
「そうね」
なんだかんだで夢中になって動き回ったので、汗もかいて程よい疲労感があった。美夜さんが持ってきてくれた冷たい麦茶が染み渡った。
一休みしてから、ろうそくとバケツを縁側に近づけた。
「雪絵さん、線香花火はわかりますか?」
「どんなものかは知ってるけど……本当にすぐ落ちちゃうの?」
「静かに持っていれば長持ちしますよ。一本一本、個性があるのも見どころです」
果たして、線香花火の個性とはどんなものだろう。早速やって確かめることにした。
二人で一本ずつ花火を持って、ろうそくを囲んでしゃがむ。
「最初、ちょっと火花を出して暴れるので、そこを乗り切れば落ち着いてきます」
説明しながら、美夜さんが花火に火をつけた。
花火の先に火の玉ができて、小さく音を立てながら火花を出し始めた。ところが、三秒くらいで火の玉は突然、音もなく落ちて消えてしまう。
「ああ……短かったですね。雪絵さんもどうぞ!」
「うん」
思ったよりも、長持ちさせるのは難しいのかもしれない。わたしは慎重に花火に火をつけてから、火の玉ができる前にその手を体の前に持ってきた。
手は動かさないように気を付けていたけれど、勢いよく火花が出ると、それだけでも火の玉が揺れてしまう。確かに暴れているようだった。こうなったら、落ちないように祈るしかない。
幸いにも、わたしの花火は耐えきった。火花が徐々に小さく落ち着いてきて、火の玉は相変わらず残っている。
「頑張ってますね」
美夜さんも小声になって、一緒に火の玉を見守った。それは最後には、すっと色を失いながら落ちていった。
「上手くいったかな」
「その調子です!」
なんとなく、長く続いたほうが嬉しいと思った。短く終わるものがあるから、その嬉しさも大きくなるのだと思う。
ところが、次に手に取ったものは火花が弾けている途中で落ちてしまった。
「これって、また火をつけたらどうなるのかな」
「この紙が燃えるだけで、花火にはならないんですよ。本当に一度きり、まさに命です」
本当に試したことがあるかのように、美夜さんは淡々と答えた。
「命……」
「でも、命って言うとなんだか怖いですね。ごめんなさい」
命もなんとなく、長く続いたほうが嬉しい。でも、短く終わるものも含めて尊い。
そう思って見ると、線香花火の一本一本の個性が、より細かに感じられるような気がした。
火の玉の大きいもの、小さいもの。火花の激しいもの、穏やかなもの。火の玉が大きくなりすぎて、すぐに落ちてしまうもの。あまり元気が出なくて、火花を出さないうちに消えてしまうもの。
わたしには美夜さんがどんな気持ちで謝ったのか、あまりわからなかった。線香花火に命を見出すことには、純粋に説得力を感じていたから。
最後の一本を持ったのは美夜さんだった。それは静かに火の玉を作って、強すぎず弱すぎない火花を出した。ところが、そのまま長く残りそうだと思った矢先にあっけなく落ちてしまう。
美夜さんは落ちる火の玉を見届けた後、笑顔を作って言った。
「終わっちゃいましたね」
「うん。でも楽しかった」
どちらからともなく立ち上がって、片付けをした。美夜さんは心なしか寂しそうだったけれど、わたしには掛ける言葉が見つからなかった。
お風呂に入ってから、一人でアトリエに戻った。
だんだん、室内の匂いも心地よく感じ始めている。今日で最後なのが惜しかった。
描いた絵を見返したり、おじいさんの本を読んだりして過ごしていると、美夜さんが来た。
「雪絵さん。上がっていいですか」
花火を片づけたときと同じ、無理をしたような作り笑いで。
「もちろん」
アトリエに入ると、美夜さんは机の引き出しから一冊のスケッチブックを出した。
「これを見てもらいたくて……」
表紙にはおじいさんのサインと、『アルバム』の文字があった。
「これは?」
「おじいちゃんの遺品の中にあった、最期の作品です。多分、未完成の……」
二人でベッドに腰掛けて、それを一緒に見ることになった。美夜さんは表紙を開いてページをめくる。最初の絵は、鉛筆で描かれた幼稚園くらいの女の子が草の上を走っているところだった。
「もしかして、美夜さん?」
「はい。まだ続きがあって……」
美夜さんは、ゆっくりと一定のペースでページをめくっていった。ページをめくると、絵の中で女の子が大きくなっていく。川で釣りをしたり、スイカの種飛ばしをしたり、美夜さんが話していたここでの思い出にも一致する。ページの隅には二年前の秋の日付が入っていて、だいたい一日に一枚描いていたらしいことがわかった。
あるとき、日付の入っていない絵が出てきて、その次のページからは白紙になっていた。それが、美夜さんの言った「未完成」の部分なのだろう。その絵は今とほとんど変わらないほど成長した美夜さんが、絵筆を持ってイーゼルに向かっているところだった。しかし、他の絵よりも描き込みが粗いこともわかった。
それで終わりと思ったけれど、美夜さんは黙ったままページをめくり続けた。気になって顔を上げると、美夜さんは目を閉じていた。
「美夜さん? もう、絵は終わったけど……」
「あっ……ごめんなさい。見られましたか」
「ええ。全部、美夜さんを描いた絵だった。それも、美夜さんの成長を思い返して描いた絵。でも、最後の絵を描いているところの絵が、きっと未完成なのね」
本当に美夜さんがこの絵をわたしに見せたかったのかがわからなくて、とりあえず見たものを伝えた。そうしたら、美夜さんは静かに一度頷いた。
「本当のことは誰にもわからないんですけど、この絵は、おじいちゃんがあたしのために遺そうとしてくれたものだと思うんです。人物が描けないあたしのために、参考になるように……」
確かに、どの絵も美夜さんの体の描き込みはお手本のように細やかで丁寧だった。背景や小道具は伝われば良いというくらいのレベルで、喩えるなら意図的に背景をぼやけさせた写真のようだった。
「でも、美夜さんは今、目をつぶって……」
「はい。実は、恥ずかしい話なんですけど……怖いんです」
怖い。その簡単な表現に、わたしもどきりとさせられた。
「この絵を見ていると、おじいちゃんとの差の大きさが感じられてしまって。人物を描く課題も、こんなレベルにまではなれそうにない。そうしたら、今まであたしが描いてきた絵は、遊びのようなものだったと思えて……」
確かにそうだ。おじいさんの課題を本当の意味で認められるのはおじいさんだけ。でも、その手掛かりがこのお手本しかないのだとしたら。
「今まで逃げちゃっていたのは、この絵や、おじいちゃんも少し、怖くなってしまったのもあって。でも、今なら向き合えると思うんです」
これから夢に向かうため。
美夜さんが座ったまま右手を差し出したので、わたしは左手で応じた。そうしたら、美夜さんの表情はきゅっと引き締まった。
「もう一度、最初から」
今度は、二人でページをめくっていく。これは幼稚園のとき。これは二年生のとき。おじいさんが美夜さんの姿をこのときまで憶えていたように、美夜さんもそれぞれの場面をちゃんと思い出せるようだった。
そして、最後の一枚。
美夜さんはその未完成の絵をしばらくじっと眺めた後、神妙な面持ちで語り始めた。
「これは、二年前……おじいちゃんが生きていた、最後の夏だと思います。この絵だけ、細部が描かれていなくて、日付も入っていないですよね」
「そうね」
だから、わたしたちはこの絵を未完成だと思っている。
「でも、前の絵の日付と、おじいちゃんの命日は……一週間くらい離れているんです」
「そうなの」
「最期は、母屋で朝食を待っているときに突然、息を引き取ったのだと聞いていて。前日までは自分で歩くこともできて、元気だったんですね。つまり、この絵をちゃんと描くこともできたのかもしれない。そのことに、今気がつきました」
「つまり……この絵は、敢えてこの状態で止められている?」
美夜さんは頷いた。
「想像の一つですけどね。でも、これがおじいちゃんの意図したものなのだとしたら……どう思いますか?」
簡単には答えられなかった。それでもヒントはいくつかある。大きいのは、これが二年前の美夜さんを描いた絵だということ。過去からたどってきて、もうその年の夏まで来ている。だから、いずれにしてもこの絵はこの『アルバム』の最後の絵になるのだと思う。
「この作品は未完成ではなくて……未完成に見えることにも意味がある。例えば、美夜さんへのメッセージとか」
「そう、ですよね。あたし、間違ってないですよね?」
繋いでいる手が、少し強く握られた。
「大丈夫。美夜さんの考えていること、わたしにもわかる」
おじいさんに憧れて画家になりたいとは思うけれど、実力は追い付かないし、おじいさんの絵も理解できるわけではない。それで逃げてしまっていた。
だけど、もう逃げない。
「本当に、ありがとうございました。雪絵さんのおかげで、あたしも大切なことに気づけました」
「力になれて良かった」
その後は、またしばらく肩を寄せ合った。お互いの存在に、そしてこの出会いに感謝するように。
名残惜しさもあったけれど、翌朝は朝食だけいただいて、早いバスで帰ることにした。そのときには、美夜さんが待合所まで見送りに来た。
「お手紙も書きますので。絶対、また会いましょうね」
「うん。美夜さんのことは忘れない」
「あたしもです。来年は受験で忙しいかもしれないですけど、大学生になったらでも!」
「そうね。ここにまた来てもいいかな」
「おばあちゃんが元気なうちなら、きっと!」
少し言葉を交わしたところで、バスが近づいてきた。それに気づくと、美夜さんの目から一気に涙があふれ出した。
「あっ……雪絵さん、お元気で」
抱きついてきた美夜さんに、わたしは頭を撫でてあげた。
「美夜さんも。ありがとう」
バスのドアが開いたので、わたしは踵を返して乗り込んだ。間もなくドアが閉まり、バスが動き出す。
窓から見ると、美夜さんは大きく両手を振っていた。わたしも美夜さんから見えるように、なるべく大きく手を振り返した。
***
大学の夏休みが終わる頃、美夜さんから絵葉書が届いた。
夏の陽射しに、深い陰影を刻まれた神社。その手前で体育座りをして、右手に鉛筆を構えるわたし。
夜の絵にはなかった明るさや温かみ、そして何より活気のある絵だった。
それから二年後、大学生になった美夜さんから、久しぶりに絵葉書が届いた。
同じような、夏の神社の絵。今度はその前で、手を挙げてこちらに呼び掛けているような様子の女の子。
あの夏からの招待状だと、すぐにわかった。
石段を上りきって鳥居をくぐると、彼女はそこにいた。
芝生の上にござを敷いて、猫のように丸まってお昼寝中。頬が蚊に刺されている。傍らには、閉じたスケッチブックとペンケース。
「美夜さん」
声を掛けると、スイッチが入ったように目が開いた。
「ひゃっ、ごめんなさい!」
その場で十センチくらい飛び上がる勢いで起きた。わたしは笑う。
「気持ちいいよね」
「はい……雪絵さん、お久しぶりです」
恥ずかしそうに、頬の虫刺されの周りを掻きながら。
「久しぶり。元気そうで良かった」
「おかげさまで」
文通は季節に一度くらいのやり取りで続けている。今は地元を離れて、第一志望の美術大学に通っていると聞いていた。
「じゃあ、早速やりましょうか」
「ええ」
わたしもリュックから、自分の画材を取り出す。今日のために三種類の鉛筆を二本ずつ削ってきた。
「夏のお絵かきツアー、熱中症には気を付けて、スタートです!」
描いていく。今日も、これからも。
償いと夢の絵葉書