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フリーズ161 レポート『涅槃寂静とは何か』
まとめ
1タイトル
涅槃寂静とは何か。他の宗教との比較的な視点や私的な経験的視点から論じる。
第一部 神と仏と神々と
2宗教比較
キリスト教、イスラム教、仏教を合わせて「世界三大宗教」と呼ぶ。アブラハム系の宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教など)の思想は次のようにまとめることができる。
• 神様は一人だけしか存在しない。神様は絶対的な存在であり、基本的に神様は偶像などを持たず姿形はない。
• 死後には人々は最後の審判を待ち、最後の審判の日に天国か地獄のどちらに行くかが決まるとされる。
• 聖書やコーランなどを重んじている。
インド(ヴェーダ)の宗教の思想は次のようにまとめられる。
• 輪廻思想
• ヨガを通して宇宙と一体化することを目指す
• 多神教
• カースト制度により、生まれながらに身分が定められる。
インド系(非ヴェーダ)の宗教の思想は次のようにまとめられる。
• 仏教やジャイナ教などにおける輪廻思想
• カースト制度への批判
• ヴェーダの一部を批判
土着・民族系の思想は次のようにまとめられる。
• 火を信仰するゾロアスター教
• 論語を記した孔子の説いた儒教
• 老子が説いた道教
• 日本土着の神道
ここまで世界の宗教を個々に見てきたが、これらの全ての宗教は信仰対象の違いにより三つに大まかに区分できると考える。つまり、絶対神を信仰する一神教の宗教と、悟りや仏を目指し、輪廻から去り、解脱しようとする仏教やジャイナ教などの宗教、そしてバラモン教や神道などに代表される多神教の宗教の三つに分けられる。まとめると、神(唯一神)、仏、神々の三つの信仰対象がある。ここからはこの違いと私の個人的な経験から真理は何かについて考察する。
第二部 個人的な経験としての涅槃寂静
3序論
私はかつて二度、涅槃寂静のような悟りを経験したことがある。それは2021年1月7~9日と2023年9月11~16日の二回だ。私は一週間程の期間に渡って断眠と断食をした。というのも夜に眠れなくなる病気を持っていて、結果として断眠してしまうのだ。
一週間程断眠すると、とても不思議な境地に至った。まるで自分が世界の中心にいるような、自分が神様になってしまったかのような、全知全能になってしまったかのような感覚がした。それはあまりにも美しい体験で、私が今まで生きてきた中で一番幸福な経験だった。見張る景色はこの世のものとは思えないほどに美しく、聴く音楽は今までで一番美しく聴こえた。それこそ涅槃寂静だった。その時、自他の区別がなくなったのだ。全ては私、全ては宇宙、全ては神、きっとそれが悟るということで、仏の境地というものなのだろうと思う。
この経験を掘り下げる前に、先ず私の世界観、宇宙観、宗教観について記そうと思う。
4宗教比較。キリスト教と仏教と神道と(一神教、仏を信じる宗教、多神教)
キリスト教の神とは宇宙そのものなのではないかと考える。全は主という言葉のように、全ては神の一部であり、その点で私たち人間は神の子なのではないか、と考える。宇宙が始まる前は神だけだった。神から流出して世界が生まれた。それは世界そのものの神が自身を知るために、自分は何者であるかを理解するために行った増殖だ。それにより相対性という最も素晴らしいプレゼントを神は自分自身に与えることに成功した。その結果として今の世界があるのではないかと考える。私はキリスト教的な神に関してはこのような持論を持っている。
一方仏教ではそんな一者はないとする説もあるが、説一切有部などは一者から流出したとする説を唱えている。だが、私はこう考える。仏とは神に、つまり宇宙に脳が通じた状態のことではないか、ということだ。仏とは一神教の言う神としての宇宙=大宇宙(マクロコスモス)と、脳=小宇宙(ミクロコスモス)が本質的に同じであり繋がっているということなのではないか。その点でウパニシャッド哲学の梵我一如が正しいのではないかと考える。だが、仏教は梵我一如を否定する立場だ。アートマンもないとするのが仏教だからだ。脳がアートマンなのか、否かはまだ分からないが、能所不二、自他の境界がなくなる状態が悟りであり、解脱であり、涅槃なのではないか。それが宇宙に溶け込むということ、神と繋がるということ、なのではないかと考える。
また、多神教は宇宙としての神を細分化する行為なのではないかと考える。例えば月の神や太陽神、地球の神、大地の神、火の神、水の神など、神としての宇宙をその概念毎に分けて名前をつけて信仰しているように思う。その点で多神教は一神教にも仏教にも似通う点があるのではないかと考える。
このように見てみると、世界中の宗教は根底で繋がっているのでなないかと推察できる。一神教の神、神に通じた仏、神を細分化した多神教。もし世界中の宗教が融合したらどうなるのか考えてみるのも面白いと思う。
これから先は私の個人的な悟り、解脱、涅槃寂静の体験について記そうと思う。
5私の経験①2021年1月7~9日(終末、永遠、神愛、涅槃)
当時、私は死を感じていた。高校三年生、受験が近づくにつれ、同時に死が近づいてきている気がして、冬になるにつれて心と背中が痛んだ。私は宇宙の中心にいるような気がしていた。物語の主人公のような気がしていた。寝不足が祟って、日に日に自己が壊れて行った。精神が壊れていった。
2021年1月1日からは寝なかった。私の病気は眠れなくなる病気で、眠らなくても元気なのだ。だがだんだんと自分が自分ではなくなっていって、もっと高尚な何かになるようであった。それは神様になったかのような、天に近づくような感覚だった。
そして、1月7日の夜はまるで聖夜のようだった。終末の前夜、世界創造前夜、Eveのようであった。私の脳はもう神にも等しくなり、時流を超えた。私は悟った。『時流はない』と。そしてベートーヴェンやシラー、ショパン、グスタフ・クリムトなど、様々な歴史上の人物と語らう機会を得た。亡くなった母と話して涙を流した。私はその夜、自己愛としての女性性(名をヘレーネと言った)と愛を成した。それが原罪だと思った。その幻想も幻聴も、その時は全てだった。全てのキスやセックスは原罪と繋がっている、そんな気がした。歴史の、世界の中心にいる気がしてならなかった。あらゆる霊魂が暗い部屋に集って、私の覚醒を祝福してくれた。
1月8日の朝、ヘレーネは幻想として儚く散っていった。いや、まだその時の私の中に彼女はいた。私はピアノで『歓喜の歌』を弾いた。正しく天上の歓びだった。生まれてきてよかったと思った。これが私の生まれた意味だと悟った。私はヘレーネへ歌を届けるためマンションの屋根の上に登った。天上楽園にいるヘレーネに届くように私はカーペンターズの『トップオブザワールド』を高らかに歌った。その頃私の父が私の異常性を疑い始め、私は翌日に病院に入院することになった。
1月8日は全能のような日だった。思索の末、私は悟った。全知は全能だと悟った。それは全てを忘れ、また悟ることだと。その日の夕刻、私は眠った。その眠りは安らかで、まるで涅槃寂静のようだった。穏やかな眠りは、最期を迎えるに相応しい永遠の愛だった。
これが私の2021年1月7~9日の経験だ。この経験が不思議で堪らなくて私はあらゆる学問を学んだ。図書館に通って様々な分野の本を読んだ。そして辿り着く。仏教やウパニシャッド哲学が正しいと。そして、信仰としても真理探求としても仏教を学び始めた。
6私の経験②2023年9月11~16日
2023年の夏、私は薬を飲むのを怠り、眠らずに超える夜が続いた。断眠の末、私は大日如来だという妄想を抱くようになった。宇宙の名前は『妙法蓮華』だと悟った。私の祖母が法華経系統の仏教徒で、『南無妙法蓮華経』と祈れと言われた。妙法が宇宙を貫く根本法で、蓮華は原因と結果の因果の法則を指す、と学んだ。それ故に、私は自分のことを大日如来と悟り、妙法蓮華という宇宙そのものなのだという妄想に駆られた。
入院中に不思議な出会いがあった。病院で出会ったある女性の患者に「あなたは太陽神だね」と呼ばれた。病院で出会った老婆に「君は神族だよ。神族は世界に1000人くらいいるよ」と告げられた。今でもその言葉たちは不思議と私を突き動かす。
7二度に渡る悟り、解脱、涅槃の振り返り
私の個人的な悟り、解脱、涅槃の体験は恣意的なもので、学術性に欠けるものかもしれないが、私は経験としてこの二度に渡る涅槃寂静の経験を人生の宝としている。私の関心は断食や断眠と悟りがどう関係しているかである。私は次の春休みにもう一度断食と断眠をするつもりである。そうしてまた涅槃に至って、真理を考察したいと考えている。
ジャイナ教における宗教的儀式であるサッレーカナー(断食死)をしてみるのもいいかもしれない。涅槃寂静は人生観が根底から覆されるような至福なのだ。それ故に私は寿命の長さよりも、その歓喜、愛、真実を大切にしたい。私が次の涅槃への挑戦で命を落とすことになっても本望だと考える。だが出来れば生きて帰って、思索して見たいとも思う。
中道として苦行をしない思索の道もあることは知っている。だが、今も昔も断食やその他の宗教的苦行が行われていることからも、苦行には悟りへと人を導く効果があるのではないかと推察する。次の挑戦は三度目だ。二度あることは三度ある。三度目の正直。仏の顔も三度まで。再びあの冬の日のような涅槃に至りながらも、自我を喪失しない方法で、入院しない方法で、過ごせることを目指したいと考えている。
8科学的な分析~量子脳理論と仏教~
量子脳理論という学説があるが、それによると正しく脳は宇宙と繋がっていると考えられている。量子脳理論では脳にある微小管と呼ばれる組織が量子もつれ状態にあり、それが意識なのではないかと主張される。量子もつれとは素粒子が無限遠同士にあっても瞬時に影響し合うもので、私は脳の量子もつれ状態にある素粒子達が波として、宇宙の根幹としての神と繋がっているのではないか、と考える。
正しく仏の悟りは脳が死ぬ時に宇宙に溶け込むことと通じていて、涅槃寂静は脳が死にかけている時なのではないかと考える。それは例えば断食や断眠で脳が死にかけると、脳が宇宙と繋がって宇宙と一体となり、それが涅槃寂静のような境地なのではないかと考える。
9涅槃寂静とは何か(結論)
涅槃とはつまり、断眠や断食などによる苦行で脳が死に瀕して、宇宙と繋がり、梵我一如のように世界と一体となり、自他の境界がなくなった状態を指すと私は考える。
フリーズ161 レポート『涅槃寂静とは何か』