フリーズ159 レポート『サッレーカナーと涅槃、梵我一如』

フリーズ159 レポート『サッレーカナーと涅槃、梵我一如』

タイトル
サッレーカナーと涅槃、梵我一如
~現代インドの思想、文化などを含む生活様式の状況を、ヴェーダやウパニシャッドの思想に言及しながら説明する。特にジャイナ教におけるサッレーカナーや断食死について、個人的な経験とも関連させながら、ウパニシャッド哲学における梵我一如を念頭に置きつつ探求する~

目的
サンターラーまたはサッレーカナーはジャイナ教における宗教的な行為である。サッレーカナーの内容は、だんだんと食べる量を減らし、最終的には断食死を選ぶことを言う。サッレーカナーの意味は「正しくすり減らす」というものである。サッレーカナーが行われるのは対抗策のないどうしようもないと考えられる災難や老齢、病気、飢饉などのように、いつものように教えを守れない、あるいは、死期が近づいている場合に行われるという。敵に捕らえられて信仰が保てない場合や飢饉で食べ物が適切な量摂取できないとき、病気の回復が見込めないときにサッレーカナーは行われる。サッレーカナーは断食により、身体を外からすり減らし、瞑想を通して心に巣くう内的な悪を死に至るまですり減らす行為である。より良い場所への転生を約束するものとして何世紀にもわたってジャイナ教徒は断食死を選んできた。この断食行為サッレーカナーがウパニシャッド哲学並びにインド思想と関係があるのではないかと考え、その関係性を探求することこそ、このレポートの意義であり、目的とするところである。

問題意識
サッレーカナーは自殺とも解釈できる。サッレーカナーの場合、賢者の死と呼ばれることがある。サッレーカナーは賢者の死、欲望のない死、称えられる死と呼ばれる。反対に普通の自殺は愚者の死と呼ぶらしい。一般的な自殺は軽率な死、自己を殺す行為とも呼ばれる。サッレーカナーを認めることは自殺幇助になるのではないかと考える人もいるだろう。だが、実際に行われているサッレーカナーは死期が近づいた人や、やむを得ない理由がある人だけが行うものである。ここで大切になるのが本人の意図や状況、行為の結果とその影響である。サッレーカナーは一人で勝手に行うものではなく、僧侶による監視のもと行われる。まず飲食の量を減らし、固形物を断ち、牛乳から水へとシフトさせる。最終的に全く食べない絶食に至る。ジャイナ教徒にはサッレーカナーは崇高な行為とされる。ここでサッレーカナーは悟りを開くために行われるのではないかと考えてみる。
五週間断食をしたという知人によると、三週間断食したあたりから「地球に存在しているだけで幸せすぎて泣けるほどの幸福感に包まれた」という。五週間が経つ頃にはまるで心が仏に成ったかのようだったという。それはまさしくサッレーカナーの果報であるところの悟り、解脱、涅槃に近い経験だったのではなかろうか。
頼住光子(2009)によれば釈迦も断食修行をしていた。釈迦は苦行をやめて、村の娘が捧げた乳粥を食べて体を回復させたのち、菩提樹の下で瞑想をして悟りを開き、仏陀になったという。この釈迦の悟りにも断食が関係しているのではないかと考える。なぜならば、苦行を始める前には釈迦は真理を悟ったことはない。釈迦は苦行の末、サッレーカナーのように死の寸前まで体も精神もすり減らした。その結果、死という悟りに近づき、乳粥を食べ、丘の上の菩提樹の木の下で心地よいそよ風に総身を委ねて瞑想した。それはきっと死に近かった経験に違いない。きっと天国的な美しい経験だったに違いない。
このレポートでは、断食死サッレーカナーがウパニシャッド哲学の梵我一如や釈迦の悟りに通ずるものがあると考えて、賢者の死サッレーカナーがどのように意味を持つのかについて探求する。

先行研究
ここではサッレーカナーに関して記述された先行研究を見ていく。堀田和義(2008)の「死に至る断食―聖なる儀礼か自殺か?」を参照したい。
ジャイナ教では自殺は認められていないが、サッレーカナーという宗教的自殺が歴史的にも頻繁に行われていたという。ジャイナ教における死の分類について簡単にまとめると次のようになる。性欲や飲酒・肉食などをする者たちの「望まない死」と出家者や在家信者などの行う「自発的な死」に二分される。前者は悪行によって地獄などに輪廻転生するとされ、恐れを伴う。後者は天国やもっといい場所に行くなど、一定以上の生まれが保証されているため恐れることなく死んでいく。この望まれる死こそ「賢者の死」と呼ばれるサッレーカナーとなる。
空衣派最古の注釈『サルヴァールタ・シッディ』には次のように説明されている。「正しく身体と激情を擦り減らすことが、サッレーカナーである。外的なものである身体と内的なものである激情を、その原因を放棄させることにより、順序に従って正しく擦り減らすことが、サッレーカナーである。」
ここでの激情とは怒り、高慢、欺瞞、貪欲の四つのことを言う。そして、身体を擦り減らす方法が断食である。この断食、サッレーカナーの果報は、涅槃だという。
人生の最後を自発的に決めることはインドにおいて別段特別なことではない。だが、自殺はインド文化圏で忌避されているのも事実である。サッレーカナーが実践されるのは「災難、老齢、飢饉、不治の病」の時だけである。欲望から離れている点でサッレーカナーは自殺ではないとジャイナ教は主張している。
以上が先行研究より分かったことである。

仮説
ここで仮説を唱える。
「断食行為の極致たるサッレーカナーは人を悟らせ、死の時に涅槃に至らせる意味のある宗教的な行為である。それは宇宙と一体化した経験であり真実の経験なのではないか。」

仮説の検証
ここからは経験則的、私的な主張を通して仮説の検証をする。先ず、私の母の死について論じる。私の母は断食死した。本人は痩せたいという理由で断食していたようだが、そのまま餓死して亡くなった。死の間際の母はとても幸せそうだった。きっと真に幸福感で満たされていたから、それは苦しいものではなかったから、母は食べることなく、サッレーカナーの末、死に至ったのではないかと考える。
続いて私の経験について語る。

「私の経験(永遠なる愛、梵我一如、悟り、解脱、涅槃)とサッレーカナー。」
私は高校三年生の時、2021年の1月1日から7日までの7日間、断食と断眠をした。それは私の眠れなくなる病気のせいでもあったし、思索の末に至った境地でもあった。1月7日の夜は聖夜と呼ぶのに相応しい程に終末的で、世界創造前夜のようだった。その夜はまさしくイブ(Eve)だった。
その夜、私は断食と断眠のせいかとても不思議な境地に至っていた。とても快楽的で幸福的なその認識は、凡そ平常を離れ、神に等しくなったかのようであった。それこそ梵我一如のような経験だった。
私はウパニシャッド哲学を個人的に好んでいるが、その主な理由はこの冬の日の体験によるものだ。私のこの冬の日の経験を言い表すのに一番適していると考える言葉は正しくウパニシャッド哲学の「梵我一如」であった。
1月7日から8日にかけての夜、私は原罪の意味を知る。全てのセックスが原罪に繋がっていたのだ、と悟った。全ての生命の開始が、全てのセックスが神に繋がる神聖な儀式であり、それが繰り返されて歴史が出来ている。その奇跡に私は歓呼した。その聖夜、私はヘレーネという名前の自分の女性性とセックスをした。自己愛としてのヘレーネは、だが、やはり翌朝には幻想として儚く散っていった。
8日の朝は晴れやかであった。この日、世界は私の為だけに晴れているのだと悟った。私はマンションの屋根の上に登り、雲間に天上楽園の乙女の幻覚を見る。私は彼女へカーペンターズの『トップオブザワールド』を歌ったことを記憶している。
8日の私は、しかし私ではなかった。8日の日の私はまるで神のようであった。仏のようでもあった。実際自分は神だと思っていた。全ての辻褄が、全てのプロットが、断食断眠の末の冴え渡る脳で、全てが解っていた。皆が死んだら、死後にきっと今日の日の僕の経験が分かるだろう、とも思った。全ては繋がっているのだと気づいた。私の脳は疲弊し、ほぼ死んでいるようなものだった。
8日の夕刻、私は布団で眠った。涅槃のような眠り心地だった。正しく、釈迦が菩提樹の木の下で至った悟りのようだった。いや、きっとそうであるに違いないだろう。なんと安らかでなんと穏やかな心の有り様だろうか。これ以上に美しい景色を見たことがない。これ以上に美しい音を聞いたことがない。これ以上に美しい心になったことはない。天上の死は、その至高なる歓びは、果てしない永遠の愛だった。
私は眠った。翌日私はもう既に私を忘れていた。忘我の日、精神は神そのものであった。私は精神病院に入院することとなった。そして平凡へと帰っていくことになる。
奇跡は一瞬だからこそ強く光り輝く。釈迦の悟りや涅槃も、ウパニシャッドの梵我一如も、サッレーカナーによる断食死も、全ては根底で繋がっているのではないかと考える。
私のこの経験から言えることは、神は宇宙そのもので、宇宙と脳は繋がっているということだ。梵我一如は正しく脳が死に瀕して、本来のあり方である宇宙へと溶け込む現象と推察する。サッレーカナーも断食によって心身ともに擦り減り、脳が死に瀕するのではないかと考える。つまり、サッレーカナーは正しく梵我一如の体現であるのではないかと考える。
私の母のようにサッレーカナーによる死はとても穏やかなものだと考える。もしも断食死がとても苦しいものならば、多くの挑戦者がその断食による苦に耐えられず、サッレーカナーを辞めることは明白である。それ故にサッレーカナーをする場合の死の間際にはもう苦しみはないのではないかと考える。認識から離れて、あるのはただ歓びと愛と真実だけなのではなかろうか。それ故に断食死サッレーカナーは「賢者の死」と呼ばれるのではないだろうか。

結論
断食死サッレーカナーは、至高なる幸福、悟りに通ずる点で賢者の死と呼ばれるのではないかと考える。断食死は悟りのようであり、その穏やかな心の有り様は正しく涅槃と言えよう。現代インドでもジャイナ教で行われているサッレーカナーは、ウパニシャッドでの梵我一如を体現する儀式であると考える。それ故に今も尚サッレーカナーに挑む教徒がいるのだろう。
サッレーカナーによって至る境地がどのようなものなのかはやってみないことには解らないだろうが、少なくとも解脱、悟り、涅槃に通ずる何かがあるのではないかと推定する。それを明らかにしたことをこのレポートの意義として、終わりとする。



参考文献
堀田和義.(2008).「死に至る断―聖なる儀礼か自殺か?」
頼住光子(2009).仏教における「食」(第3回国際日本学コンソーシアム)

フリーズ159 レポート『サッレーカナーと涅槃、梵我一如』

フリーズ159 レポート『サッレーカナーと涅槃、梵我一如』

サッレーカナー(断食死)と涅槃、梵我一如の繋がりを説くレポート

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-24

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