ヒトとして生まれて・第15巻
はじめに
当時、私が「俳句入門」するきっかけとなった大手町本社部門への
異動と大恩人「川合部長」との出会い、および、当時の緊迫した状況
などについて記述しておくことにしよう。
1990年7月2日(火曜日)の1週間
7月1日(日)付けで武蔵野事業所から大手町(本社)に人事異動
となり、実質的には7月2日(月)から、航空宇宙事業本部の企画部
に出勤することになった。
武蔵野事業部門に配属となったのが1961年(昭和36年)であるので
武蔵野事業部での勤務は約29年間ということになる。最初の配属先
は、航空機用の純国産ジェットエンジンの設計部門であり5年後には
純国産ジェットエンジンの量産化のために、生産事業部の製造部門で
約5年間にわたって設計部門の立場から製造支援に携わった。
その後、1970年(昭和45年)の瑞穂工場の操業開始に伴い組立と
総合運転試験場の部門が大移動を果たし、ジェットエンジン完成工場
として、エンジンの新規製造は勿論、エンジンオーバーホール工場と
しても本格的な操業を開始した。
田無工場から瑞穂工場への工場丸ごと移転の際は、若手メンバーの
代表として「引っ越しプロジェクト」に参画、プロジェクトの遂行に
おける醍醐味を体得、以降は「インダストリアル・エンジニアリング」
(管理工学)の技術者として、工場内のレイアウトや物流システムの
構築などに従事、当時は生産管理部門のスタッフも兼務していたので
純国産ジェットエンジンの生産計画や全日空からのエンジンメンテの
日程計画やオーバーホール期間の大幅な日程短縮なども遂行、幅広な
業務推進の中で「生産性向上運動の旗振り」や「瑞穂工場の人員計画」
など若手ならではの意欲的な業務展開を推進してきた。
私にとっての瑞穂事業所における卒業研究は「自動倉庫の総合計画」
であったが、IHI物流事業部との共同事業で、建設および運営開始
に成功、顧客である防衛庁の施設部にも同規模の施設導入を物流事業
部に協力する形で成功させた。
その後は、田無地区の生産事業部の統括部門に異動して、棚卸資産
の圧縮運動などにも携わり、航空宇宙事業部門のTQC運動を統括す
る部門に異動、社外との異業種交流の活動にも参加、1990年7月1日
付けで、大手町本社部門に異動となった。
瑞穂工場における生産性向上運動においては、一貫して、日本IE
協会(日本インダストリアルエンジニアリング協会)を通じて異業種
間でのIE実践交流を通じて切磋琢磨を重ね、私が独自開発してきた
「ビデオIE」による生産性向上の技法は関東地区のIE活動に限定
することなく、IE分野ではトヨタが席巻していた中部IE協会にも
召喚されて、生産性向上運動の交流を継続させていただいていた。
しかし、今回、大手町本社に異動を命じられた課題は全社全本部的
に、生産事業部門は勿論、ホワイト部門にあっても「総コスト半減」
の命題であり、今までとは、まったく勝手が異なるアプローチであり
従来の経験則は通用しないと思われる点において、勝手がまったくと
云って良いほどに違っていた。
ところで7月2日(火曜日)に最初に支持された業務は・・・
〇 V50運動の立ち上げ
具体的には(V50運動の旗振り役として)
〇 シンボルマーク表彰式の準備
〇 V50運動の社内報への掲載
〇 広報ステッカーの手配
〇 V50運動についての本部長からのインタビュー記事の手配
〇 V50運動用Tシャツの見積もり
〇 V50運動についての週報のフォーマットの設定
などであった
どうやら航空宇宙事業本部長として就任した大慈弥GMの脳内には
運動開始にあたってのイメージは、既に構築されており首脳部内でも
コンセンサスは得られており、実際の旗振り役を待つばかりの状態に
スタンバイとなっているようだ。
ところで、ここで「V50運動」という命名についても、その心を
理解しておく必要がある。
〇 当時、航空宇宙事業本部が置かれた経営環境は、従来の国内官需
を主体とした防衛産業におけるジェットエンジン主体の製造から海外
民需に向けたジェットエンジン開発・生産への拡販から、事業体質を
大転換しないと、事業本部として「大幅赤字への転落」が予測されて
いた
〇 その背景にある事情としては、当時の「円高の基調」にあって
航空機用エンジンおよびエンジン部品の輸出にあたってはざっくり
コストを半減させないと大幅赤字への転落は避けられない
〇 これはエンジンやエンジン部品と云った「ハード面に限らず」
オフイス部門におけるコストに関しても半減しないと、大幅赤字
への基調は避けられない状況にある
そこで「V50運動」としたのは、あらゆるコストを半分にして
勝利(ビクトリーのV)を勝ち取りたい、と、いう考え方である
それでは、何故、私が急遽、大手町本社に呼ばれたのか?
(仔細は分からないが)
〇 かつて、瑞穂事業所の瑞穂工場において「生産性向上運動」の
旗振り役を担っており、即戦力として期待出来る
〇 実践的な面からは、瑞穂事業所で管理工学の技術者として生産
管理部門の工事面(官需)を主導していた立場から、急遽、民需で
あるANAからのエンジンオーバーホールの大幅短縮において当時
の改善状況がかんばしくないことから、ANA社との緊急会議にお
いて、突然、生産管理部長(大慈弥氏)に、会議室に呼び出されて
緊急メモを2冊に渡って記述、その日からの緊急取り組みで30%
の工期短縮に成功、ANA社からも出世払いというジョークも加え
て、新橋の料亭でご馳走になったことがあるが、その時の経験則が
大慈弥本部長の記憶に蘇って大手町本社によびだされたことも否定
出来ない
〇 そして、これは想定外の思いであるが、当時、私が、近い将来
のIHIの不況による退職などを想定して「ビジネスコンサル」と
しての力量を向上させるため 「経営戦略の在り方」などの勉強を
続けていたことが察知されてしまった
などが、考えられるが私としては「幸い準備は出来ていた」という
状況にはあったが、実際に大手町本社に通ってみて、通勤時間に
約2時間を要することには辟易とする思いであったといえる。
(続 く)
ヒトとして生まれて・第15巻