幻惑を捉える

 今日は朝からよく晴れた。歌を口ずさみながら文章も単語も思いつくまま書き殴り、その上から線を引いたり丸で囲ったり、果ては違う余白に書いたものを結んだりしているうちに、窓の外が赤みがかっていることに気付いた。薄闇を帯びて遠くから燃え上がってくるような空は、早くも明日の晴天を覗かせているようだった。
 体調は良かった。体重も戻って来たし、身体の痛みもかなり引いた。一人で気楽に暮らすのがいいとばかり思っていたが、病院暮らしも悪くなかった。できればもうお世話になりたくないが、個室で手厚く面倒を見てもらえてよかったと思う。
 立場と相俟って融通が利く。食事制限はないので、今日はパンを差し入れてもらった。見舞客のひとりがたまたま持っていたのがきっかけだったが、気になって何個かお願いしたところ、すっかり店ごと気に入ってしまった。
美味しいものは美味しい。焼きたてでなくても構わない。パンにしろスープにしろ、最高に良い状態でないと受け入れられないなど、なんの得にも自慢にもならないことを私は知っている。
 準備も片付けもなくいつでも食事できることを思うと、もう少し構想を練っていてもいいように思えた。今はまだ私の頭の中にしかない、主軸も輪郭も弱々しい儚い世界。直に紙の上に息吹き、黒いインクを痕跡にして、それぞれが個々の感情を持って歩き回るようになる。これほど祝福すべきことはない。
 再びペンを持ったとき、ドアが鳴った。壁の時計を見やる。6時を廻ろうとしていた。
 ごく限られた関係者しか訪ねられない決まりのはずだった。夕方に、それもほとんど夜と言っていい時間に現れる顔に覚えはない。心当たりのないまま在室を示した。
「グレイです。遅くにすみません」
 背筋が伸びるような凛とした声だった。横滑りのドアの向こうで気配が揺らめく。
「バートン・グレイです。ウォーカー学園の学園長を務めております。近くを通ったものですから、恐縮ながらご挨拶にと思いまして」
 言葉が続く間に記憶を手繰り終えていた。まだ少し不自由な身体をベッドから下ろし、ドアを開いた。品の良い外套に身を包んだグレイ氏は、自分から声をかけたにも関わらず、受け入れられたことに僅かに面食らっているようだった。
「こんばんは。お仕事でお疲れでしょうに、こちらこそ恐縮です。どうぞいらしてください」
 ドア側に身体を逸らし、手のひらを向けた。
 手の甲を掲げた状態のままであることに、グレイ氏はやっと気付いたようだった。
「失礼します」
 姿勢を正し、私の前を通った一瞬、鋭い目線を突き刺してきたのを見逃さなかった。気付かないふりをして笑顔を作り、ドアを閉じる。しっかりと施錠した。
「椅子があるでしょう。楽になさってください。お茶を淹れます」
「すぐに帰りますので」
「いただきものがたくさんあるんですよ。飲んでくださると私も助かります」
「貴方の淹れたお茶など飲めないと言っているのです」
 飲んでくれると助かるのは本当だから、賭けてみたがダメだったらしい。グレイ氏の苛立ちを背中に感じる。怒気が空中に溶け込んでいるようだった。
 自分のカップを持ち、マドラーを回しながらベッドの傍に戻った。紅茶特有の甘い匂いがふわりと舞った。
「座ってもいいですか」
「私の許可が必要ですか」
「いちいち棘がありますね。急に訪ねてきたのはそちらでしょうに」
 左側から夕陽を浴びるグレイ氏は、ありがちな理想をそのまま立体化させたような端正な顔立ちをしていた。怒りや憎しみといった感情を隠そうともせず、まるで私を悪臭漂う腐敗物と見做す目で見下ろしている。奇妙なことに、顔を顰めれば顰めるだけ、彼の人間としての魅力が滲み出てくるようだった。
 グレイ氏がそこまで感情を露わにするのは、おそらく今は私だけだ。内心汚く罵られているというのに、私は愉快だった。
「ちゃんとお会いするのは初めてですね。直接お礼を言えていないことが気掛かりだったんです。この度はありがとうございました」
 グレイ氏は答えなかった。自分の鞄の中身を探っている。やがて小さな細長い紺色の箱を取り出し、両手で私に差し出した。
「食べ物はきっとたくさんあると思いましてね。お気に召すかはわかりませんが」
 受け取らないのは許さないという圧を感じた。無論興味が勝った。 
 相手がいくら礼節を欠こうと、憎まれていようと、私は作法を重んじる。お礼を言って箱を受け取り、許可を得て開封した。箱の中で更に丁寧に包まれていたのは、小人が被る帽子を裏返したような形の花をあしらった万年筆だった。
「素敵ですね。ありがとうございます」
 花は煌びやかな金色で縁取られており、一層上品に感じる。金持ちの金持ちらしい態度は嫌いだが、こういうのは良い。ごく一般的な暮らしの中の、密やかな贅沢。或いは自分にとっての可視化された価値。他の人には些細でも、その人だけの特別になり得るようなもの。
 でも、この花。思わぬプレゼントに心躍るふりをして、グレイ氏を盗み見た。
 グレイ氏もまた、私の心理を探っているようだった。視線がぶつかっても、私を視界の中心に据えたままだった。
 ここは譲ることにする。ペンを箱に戻し、座り直した。
「それで、ご用向きは」
 歪めていた眉がもっと歪んだ。座っている私を見下ろすというより、むしろ見下していた。ここだけを切り取ってれば、きっと誰も彼が教職であることを信じない。
「近くを通ったなんて嘘でしょう。そんな理由をつけなくても、通報した貴方が関係者だということは、病院も警察も把握していることです。挨拶というのも妙ですね。挨拶するならお世話になった私のほうです」
 箱を手に取り、二、三度揺らした。
「これは本当に嬉しいです。良い文章が書けそうですから」
 浅く吐き出された息に、たまらない苛立ちが混ざっていた。
 陽の色が差し込まれた瞳が閉じられ、再び開いた。私を冷たく見下す目は変わらなかった。
 理由を嘯いて人の少ない遅い時間を選び、ウォーカー学園から近くないこの場所にひとりでやって来る。そうまでして私に言いたいことなんて最初からひとつしかない。それが想像できないほど間抜けではないつもりだった。
「これで終わりと思われてはたまらない」
 ようやくグレイ氏が声を発した頃、重たい空気が沈殿していた。
 包み隠さない態度が本当に好もしい。うっかり片頬を緩めてしまう。取り繕おうとしたが遅かった。
「それだけ露骨だと清々しいですね。その純真さなら、トニーも信じられたということでしょうか」
「なんの話です」
「またそんな。すべて知っているでしょう。私はあの子と話したいばかりに、顔を変えてしまったのですよ」
 あからさまに舌打ちされた。立場を差し引いても、明らかに人と会う態度ではなかった。私は本当に人と思われてはいないようだ。
「わかっています。終わりだなんて思っていません」
 甘く香り立つ紅茶は、ここが病院であることを忘れさせるようだった。話しているうちに、一息で飲めてしまうくらいに温度が下がっている。
 不遜な振る舞いをされても、怒りや苛立ちといった感情は一切湧いてこなかった。私がそこに腹を立てるのは道理ではない。それだけのことをした自覚はある。後悔していることがひとつもないかと言われれば頷けない。
 ただ、踏み越えた一線はいくつもあるが、踏み越えていない一線もあるつもりだった。その踏み越えていない一線が作用して、結果的に助かったのだと自分では思っている。だから不思議だった。
 なぜ助かっているのか。
 命がどうと言うのではない。
 なぜ飛ばした打ち合わせの日程が組み直されたのか。なぜ新たに原稿の依頼をされるのか。なぜ新作の構想を練っているのか。なぜ私は日常に戻ることを許されているのか。
 それらすべての答えは、私を救出する判断をしたグレイ氏の中にしかない。
「是非伺いたかったのです。私もずっと気になっていたので」
 自由に外出できるようになったら、ウォーカー校を訪ねてみようと思っていたところだった。連絡しても通してもらえるはずがないので、無礼を承知で突撃するつもりだった。が、実際に突撃してきたのはグレイ氏のほうだった。
 いろいろ考えた末に自分から出向いたということなのだろうが、手間が省けたと思うことにする。
「なぜ私を告発しないのですか。あのノートだけでは証拠として不十分でしょうが、その気になれば、元にしていろいろと洗い出すことはできると思いますよ」
 グレイ氏の視線は変わらず温度がないまま、一直線に私を貫いている。埒が明かない。
 話を進めるため、心にもない思ってもないことを口にする。
「もしかして、何かしたところで揉み消されるとでも? 嫌ですね。私はそんな兄のような汚い真似は」
「寄付を」
 鋭い一声が飛んだ。
 氷のような静寂だった。グレイ氏は長く息を吐き出した。私と向き合っているのがよっぽど苦痛のようだ。
「寄付をされていますよね。孤児院や病院に。一年に何度も」
「……」
 つい黙ってしまった。なるほど、そこか。グレイ氏のことを特に調べているわけではないが、慈善事業に名乗り出る資産家は多い。そしてその資産家や貴族にもグレードがある。
 ロビン・ローエンが行ってきたことは、可能な限りそのまま引き継いできた。やってきた所業とは裏腹に、経営の傾いた孤児院や子どもの多い病院への援助は惜しまなかったようだ。だから私もその通りにしていた。テイラー家にもそういう謂れは存在していたので、抵抗はなかった。
 私が拘束されるということは、その支援が止まるということだ。その穴を埋めるだけの財力はグレイ氏にはない。だから歯噛みする思いで私を自由にさせている。合理的な判断だった。私自身、誰かが助かっているなら、誰も助からないよりは良いと感じる。
「オリバー・テイラー……」
 小声で呟き、グレイ氏は片手で顔半分を覆った。手袋越しのその手は小刻みに震えていた。
「本当に歯痒いです。そんなつまらない名前に敵わないことが」
 万年筆が入った箱を追った。箱の下に模様が透けて見える。縁取りが金色だったから、きっと黄色を模している。
 黄色のカサブランカは、大きな花と強い香りで人の心を惑わせる。何かで見かけた花言葉の説明には、確かそんなようなことが書いてあった。
 花は好きだが詳しい名前までは知らなかった。気にしたことがなかっただけに、黄色のカサブランカは気に入っていた。グレイ氏の皮肉を意図せず弾いてしまったことを、少しだけ申し訳なく思った。
「オリバー・テイラーではありません」
 グレイ氏の肩が揺れた。指の隙間から鬼のような目が垣間見えた。「今の私はロビン・ローエンです。散々利用させてもらいましたが、テイラー家とはもうなんの関係もありません。とは言え、弟のことは気になりますけど」
 グレイ氏には、耐え難く腹の底が煮え立つと、肺の空気を出し切るほどに息を吐く癖があるようだ。例に漏れずの何度目かの溜息が落ち着くのを、私は待った。
 姿勢を正したグレイ氏は、やはり露骨に眉間を狭めてはいたが、幾分怒りを鎮めたようだった。
 凍てついた視線が突き刺さる。痛いとは思わない。冷えた紅茶を一口飲んだ。
「すみません。話が逸れましたね」
「楽しいですよ。今度ゆっくりお会いしたいくらいです」
「ええ。機会があれば是非」
「それも皮肉ですか」
 その返事はなかった。今度はグレイ氏の表情は変わらなかった。
「お話を伺いに来たのです。貴方の」
「何の?」
「貴方の話です。貴方が見てきたものについて教えてください」
「私の話で、私が見てきたものですか。なんだかちぐはぐなようですけど」
「すべて知っているでしょう、と私に言ったのはそちらですよ」
 発言を返されてしまった。やはり楽しい。食えない相手は大事にしたい。グレイ氏が私を見逃している理由はわかったが、この口ぶりだと続きがありそうだ。終わりと思うなという宣告とも合致する。
 好奇心が疼かないはずがない。カップを置いて、グレイ氏を見上げた。
 相手がすべて知っていると前提した上で、私の話で、私が見てきたもの。私が顔を変える前、ロビン・ローエンの屋敷で見たもの以外にない。
「イヴァンは自分が買われたことに気付いていたようですね」
 出そうになった声を、グレイ氏は飲み込んだ。
 驚くことはない。だが、グレイ氏にしてみれば、予測はしていたが確定はしていなかった悲惨な事実があっさり確定したことになる。
「おそらく最初から。ご主人様に意外によくしてもらえるものだから考え直していたようですが、例のことになってから思い直したようです。だから金額を知りたがっていました。自分を買い戻そうとして」
 ローエン邸で暮らしていたイヴァンはほとんど正気ではなかったが、正気でなくなる前の時間だって存在している。そのときのことだった。いつものように書斎に呼ばれたイヴァンは、ベッドの傍で俯いていた。
「結局教えてもらえませんでした。むしろ諭されていましたね。どうして使用人ということにしているのか。そうしないとあまりにも可哀想だろうって」
 不用意に刺激する必要はないし、十分伝わる。わざと隙間を話した。それでもグレイ氏の背後では、見えない暗い炎が噴き上げていた。
 本当に可哀想だった。ロビン・ローエンがシャワールームに消えた後、よく泣いていた。電話に手を伸ばすこともあったが、受話器を耳に当てることはなかった。誰か助けてくれる人間がいるなら、とっくに助けてくれているはずだと思っていたのかもしれない。この時点でまともな発想ではないが、そのうちにすぐ寝てしまうようになったのは、精神に看過できない問題を抱えつつあったことがより深い原因だと私は思う。
 あとはもう、胸の悪くなるような話ばかりだ。可哀想だった。土砂降りの夜に追い出されることを怯える様も、虚ろな仕種でボタンに指をかける様も、微笑みさえ浮かべて全身で受け入れていた様も。見ていられないと思えば思うほどに、魅入ってしまった。
 微弱な電流が身体を駆ける感覚に、却って理性が芯を持った。どこまで話しただろうか。
「わかりました。もう結構です」
 声音は至って冷静だった。が、有無を言わせぬ迫力だった。例に倣って息をつき、グレイ氏は顔を背けた。
「貴方が最低なクズ野郎だとわかってよかった。それを確認しに来たので」
「なるほど。差し支えなければ、理由をお聞きしたいのですが」
 深呼吸をともに視線を動かし、グレイ氏は再び私を見据えた。私は敵視する目は、どこまでも変わらなかった。
「貴方くらい余裕があれば、多額の寄付なんて無意識のうちにできるのでしょうね」
「まあ、否定はしません」
 資金援助の手続きからときどき届く感謝状の保管に至るまで、関係企業に一任していた。細かい金額までは把握していない。これはロビン・ローエン本人の意思を引き継いだに過ぎず、だからこそグレイ氏の思惑を見逃していた。
「だからふたつめの理由です。自分にはなんの得もないのに、あの子たちの罪を被ったこと。より端的に言うなら」
 グレイ氏は不自然に言葉を切ったが、すぐに継いだ。
「良くも悪くも、トニーの心を絆したのは貴方だということです」
 冷めた紅茶が喉を流れた。成り上がりの金持ちなら床に投げ捨てるような温度だ。グレイ氏はどうだろうか。一言断って立ち上がり、紅茶を淹れ直した。一応グレイ氏にも勧めてみたが、やはり拒否された。目の前でやっているのだから、妙なことはしようがないのに注意深い。注意というより警戒か。
 湯気の立つカップを持ち、グレイ氏の前に戻った。さっきとは違う茶葉を使ってみた。香ばしい香りが目と頭を冴えさせるようで、心地良かった。
「あの子は自分の意思で貴方を頼り、すべて打ち明けたのでしょう。なら、トニーの心を絆したのは貴方だと思いますが」
「私ひとりでは無理でした」
「ご謙遜を」
「謙遜ではありません。私はあの子の苦しみに気付けなかったのですから。何か隠しているとは思っていましたが、詮索する気はありませんでした。穏やかな時間を過ごして、ゆっくり落ち着いていくことが最優先だと判断して」
 ふたりで住み込みで働けるところを探して欲しいというトニーの要望に沿い、勤め口を探していた役所に名乗りを上げたのがグレイ氏だった。
 トニーにとってグレイ氏は特別だ。久しぶりか、もしかしたら初めて本当に本気で信じてもいい大人に見えたかもしれない。それでも、真実を伝える選択は、あの時点では到底ありえなかったとは思うが。
「早いか遅いかだけの違いでしょう。先程も申し上げましたが、トニーは純真な貴方に心を開いたのですよ。少しだけ私が影響してしまったところはあるかもしれませんが、そもそも自分のやりたいことをしただけですし」
「そうだとしても、苦しむ時間は短いほうがいい」
「必要のない苦しみまで味わったとしても?」
「今は楽になっています」
 随分食い下がる。一時的にでも私を見逃す判断をしたことが、どれだけ妥協に妥協を重ねたものか、暗に示されている。
「訂正します」
「なんでしょうか」
「私ひとりでは無理だったのではなく、私では無理だったのですよ。貴方がトニーの心に入り込み踏み散らかして追い詰めたから、私もまた入り込む余地ができたに過ぎません」
「前向きとは言えませんね。もっと自分を肯定しましょう。あの子がやっと自分を頼ってくれた、で済むではありませんか」
 試すように私を睨んでいた目線が、ふつりと途切れた。
 ゆっくりと肩が上下する。そう苛々しては身体に悪い。

 閉じられていた瞼が開いた。この淡い緑色の瞳はこの地方の血だろうか。
「まあ……つまり、こういうことですね。トニーに関しては恩義を感じる部分があるので、すべてを喋るつもりはない」
「そういうことになりますね。実に忌々しいですが」
「しかし、すべて喋らないつもりもない。トニーやトニーの影響を受けたイヴァンが結果的に明るいところに出られたとしても、そんなことは既に犠牲になった子には関係ない、どうでもいいことだから」
 途端に空気が冷え込んだ。喉を塞がれたような気迫。首に触れそうになったが耐えた。やはり話の核はここだった。こんなに楽しい時間が、まさか入院生活の末に待っていたとは思わなかった。
 最初から妙だった。まず挨拶と嘯く必要もないし、終わりと思われてはたまらないなどと凄む程度に何か考えているなら、私に過去の話をさせるのもおかしい。トニーを無駄に苦しめたことさえ肯定し、しかも恩義を感じる部分に免じて口を噤むというほとんど暴論にも乗るときた。
 支離滅裂とも言える言動の中、グレイ氏が一貫させていたのは、人間外の畜生を見下す視線だけだった。
 定位置からの視線の意味は、対象を見張ることに他ならない。観察だ。では何を目的に、私の何を観察しているのか。ここで要になるのがグレイ氏の理念だった。
 「子どもの教育と救済に熱心」。玩具にされて打ち捨てられて海の底で朽ちるのを待つだけでなく、架空のキャラクターにされた少年たちに救いなどあるはずがない。
 シンプルに称賛したいと感じた。グレイ氏の理念は生死の概念を飛び越える。せめてもの手向けと供養を終えて区切りをつけ、生きているトニーとイヴァンにより愛情をかけることだって選択肢のひとつで、しかもそのほうが現実的なことは想像に難くない。だがグレイ氏はそれを選ばなかった。
「最低なクズ野郎とわかってよかった、と仰いましたね」
「ええ」
「どの部分をどう話すか、それを考えているということですか」
 おそらくグレイ氏の中には既にいくつかのパターンがある。そのどれを取るか、或いはどう調整するかを決めるために、私の観察をするべくやって来たというところか。確認しに来たと言っていたあたり、方向性自体は固まっていたらしい。
「少し違いますね」
 普通に考えれば逃げ場はないな、と他人事のように思っていたときだった。傾けかけたカップを止めた。もう少し角度がついていれば、零すところだった。
「貴方がもし後悔して、生き直すことを考えていれば、黙っているつもりでした」
「後悔?」
「そうです。死んでしまった子たちを放置するつもりはありませんが、貴方にも良心があるのかもしれないと思って」
 弟の顔が思い浮かんだ。
 痛みを忘れたふりをして、隠し牢でトニーと向き合ったことを思い出した。
 違うなと思った。私は私の感情を最優先しただけに過ぎない。トニーを助ける形になったのも、結果がそうなっただけだ。これを良心と結び付けるなら、ちょっとグレイ氏に期待しすぎた。
 まあ、それも含めて私の勝手な感情である。
 話はわかった。大盤振る舞いな提案を棒に振ってしまった。逃げ場はないか、と思考が最初に戻った。
「良心などないことがわかって安心しました。誰でも持ち合わせているような些細な良心ひとつに希望を持って、自分を殺した人間を見逃すなんて。やっぱり私だったら祟っても祟りきれませんし」
「話が飛んでいるのでは。殺したのは私ではないです」
「貴方が決めた事実ではそうなっているはずです」
 鏡でも使って跳ね返されているようだ。そうですね、と応じておく。
 急に昔読んだ小説を思い出した。滑らかで柔らかいと思って安心して抱いていたクッションが、突然不気味に蠢き始める。足を何本も突き出し、蜘蛛のように変貌し、かさかさと辺りを這い始める。あれはロビン・ローエンの小説ではなかった。私も小さかったから、ロビン・ローエンが名を轟かせるのは何年も後のことだ。
「あのノートを元に、その気になれば、いろいろ洗い出すことができるのですよね」
「ええ、その気になれば。関係機関の方々にその気になってもらえるかは、正直なところ微妙だと思いますが」
「お兄さんのような汚い真似はしないというのは」
「さすがにもう、そこまでの規模のお金の自由はありませんから」
「確かに聞きましたよ」
 本当の事実が事実で通るなら、逃げられないのは私のほうだ。だがそうはならない。今この瞬間だって、嘘の事実が重なってできている。ことの一端を間近で見ていたグレイ氏なら、理解しているはずだった。
 そうだというのに、グレイ氏の双眸には少しの翳りもなかった。必ず自分の思い描く未来が現実になる確信を持っているような。
 考えられるのは、既に有利な証拠を得ていることだ。ノートを元に洗い出せるかと改めて確認したのは、そこと結び付ければ辻褄が合うと証明できるものを持っているから。しかしそれがなんだと言われると、ぴんとこなかった。
 もったいぶるのだから海水塗れの死体そのものではないことは確かだし、裕福とは言え一教師のグレイ氏個人が探そうとして探し出せるものでもない。百歩譲ってその一部でも所持していたとしても、ロビン・ローエンが捨て去った少年は戸籍があったかさえ怪しいのだから、この短期間で特定するのは不可能なはずだ。
 思いつく可能性は、思いつくと同時に潰えた。そうしているうちにそれに思い当たり、すぐには潰れなかった。
 河原でたまたま目についた、やたらと綺麗な形の石を拾いあげたようだった。埃を払い、撫でていくうちに、何か特別なもののように思えてくる。そうしているのは自分なのに、鏡に反射したそんな自分を更に側面から見ているような、奇怪な夢のようだった。
 そして私は、それをやはり愉快だと感じた。
「証拠を作る気ですか」
 グレイ氏はじっと私を見ていた。肯定しているのと同義だった。笑いが込み上げてきた。
「いいですね。トニーは貴方を金持ちには希少な本物の善人だと思っているのですよ。知ったらどう思うでしょう」
 期待しすぎたと思ったが、そうではなかったかもしれない。本気ならかなりぶっ飛んでいる。現状でも砂漠で砂一粒探すようなことなのだ。そこで信用に足る証拠を捏造するなんて、それこそ骨や身体の一部を偽装するしかない。長い時間の末に海から出てきたとすれば子どものものでなくても良いのかもしれないが、そのあたりはどうなのだろうか。そういった知識がなければできることとは思えないが、自分でやるにしろ人を雇うにしろ、グレイ氏がそんなことを考えているとは。それに、もしその方法を実践するなら、実際に被害に遭った少年以外の、無関係な誰かの遺体を利用することになる。それは死者の尊厳を踏み躙ることに他ならない。
 トニーを想像すると胸が閊えた。ショックを受けて呆然とするか、悲しげに顔を伏せるか。どちらにしても可哀想だった。
 だがこの発想には穴もある。これだと終わらないのだ。面白くなる最中、その矛盾も頭の隅に渦巻いたままだった。
 顔も名前も知らない誰かのために、顔も名前も知らない誰かを利用する。犯罪により命を絶ち切られた少年を痛ましく思ったとしても、遺族の許諾を得たとしても、それを理由に他人の死体を使うのは倫理的とは言えない。それではまるで消耗品だ。顔も名前も知らないという点ではまったく同じはずなのに、打ち捨てられた少年だけに固執するのもわからなかった。
「聞いてはいましたが、よく頭が回るようですね。妄想癖とも言えますか」
 グレイ氏は面倒そうに肩を解していた。私相手だからか、全体的に一言多い性格のようだ。
「現実的ではないところが頭の痛い部分ですね。死んでいようが生きていようが私にとっては同じですから。よく極論だと言われます」
「私もそう思います。でも、素敵だとも思いますよ」
 本心なのだが、グレイ氏はそうは捉えなかったらしい。弁明する気はない。話題を変えた。
「それに、私を捕まえてしまっては支援が止まりますしね。どうにかして一気に多額を寄付することはできたとしても、こういうのは定期的に行うのが大事でしょう」
「仰る通りです。だから現実的ではないのですよ。まったく息巻いてみっともない」
 何度目かわからない溜息を吐き、グレイ氏は窓の外を見やった。つられて私も視界をずらした。郊外ののんびりした街並みと、さっきより色濃くなった夕焼けが窓の外に広がっているだけだ。
 不意にグレイ氏はその前に立った。綺麗な顔が窓ガラスに薄く反射していた。
「納得いきませんよ。オリバー・テイラーにもロビン・ローエンにも、私の名前は到底敵わない。自分の無力ぶりが嫌になります」
「貴方が無力ということにはならないでしょう」
「励ましてもらったと受け取っておきます。とにかくこれで貴方を庇う理由はなくなりました。いろいろと策を講じさせていただきます」
「策?」
「まったく当てがないわけではありませんから。細かいことはこれから考えます」
 本当にグレイ氏の計画通りに進んだとして、トニーも、まさかイヴァンも私を庇おうとはしないだろう。特にトニーはグレイ氏を引き込んだ張本人だから、どうしても引け目を感じていそうだ。言い聞かされたら黙るしかない。そこに期待はしていないし、大衆を騙せるかもわからない証拠を添えて告発されたからと言って、即座に両手首を差し出すつもりはなかった。
 だが、策とは。やっぱり何か考えているということか。
 紅茶を飲み残したままにしていたことに気付いた。ここまで会話に熱中したのは久しぶりだった。
 話は終わったとばかりに身を翻したグレイ氏を呼び止めた。こんなに楽しいことはそうそうない。そちらの話が終わったなら、こちらの話をさせてもらう。
 訝りながら振り返ったグレイ氏を、今度は「グレイ先生」と呼んでみた。グレイ氏はやはり渋面だった。
「そう顔に出してはいけませんよ。生徒が驚いてしまいます」
「貴方は生徒ではないので。私は貴方を軽蔑していますし」
「それはわかっています。でもそれだけではないですよね。私の前では善人面をする必要がないから。世間に対してとんでもない嘘を吐こうとしていることを明かしているから」
「……黙っていてもよかったことなのに、打ち明けたところに親切心を感じて欲しいですよ」
「では、貴方は善人なのですか?」
 グレイ氏の苛立ちは、最早憎悪に変わっているようだった。そうなると思っていたので構わなかった。
「善人ではないですよね。トニーとイヴァンにも言い聞かせるつもりなのですから。必然的に、お嬢さんにもそうなりますかね」
「聖人と履き違えていませんか。必要な嘘ですよ。貴方は子どもの世界にいていい大人ではない。だから完全に切り離してしまいたい。おかしいですか」
「いいえ。おかしくありません。私だって逆の立場なら子どもに関わって欲しくない。できることなら永遠に檻の中にいてもらいたいと思うでしょうね」
「では何が気に入らないのです。もう帰りたいのですが。子どもたちが待っていますので」
「グレイ先生。逆ですよ。もっと話してみたいのです。先程も申し上げましたが、掲げる理念に生死の概念がないというのは極論だと思います。同時に本当に素晴らしいとも思うのですよ。だけどそれを地で行くのは、ちょっと度を越していませんか」
 グレイ氏はこちらに身体を向けた。引き止めることに成功したようだ。敢えて先生と呼ぶからか、ただでさえ鬱陶しそうだった視線がより尖っていた。
「理想と現実のすり合わせが、まったくできていないように思うのです。そう思うくらい、という例えではなく、本当にそう思っている。こう言ってはなんですが、見ず知らずの顔も名前も知らない誰かに対して、貴方はそうなっているわけですよね。自分の子どもが殺されたならともかく」
「私は教師ですよ。子どもに順番なんてつけません」
「それだけですか? 貴方を異様に駆り立てる何かがあるのではないですか。例えば」
 罪悪感とか。
 例え話として出したその単語に、グレイ氏が一瞬奥歯を噛んだのを見た。
「気になっていたのです。こうして向かい合っている短時間のうちに、自分の名前では敵わないと2回仰ったこと。名前にこだわりがあるようですね。貴方が貴族であり資産家であることは間違いないのに。もしかして、実は経営難だったりしますか? それなら新たに学校を作る計画など持ち上がらないですよね」
 身体に不自由のある子が通う学校なら、予算は通常より多く必要だろう。兄がある程度は用立てたとしても、今まさに傾いているというのなら、新規で建造を考えている場合ではない。経済的に困ってはいないということだ。
 だいたいその話自体、兄同様、グレイ氏にとっても打算的だったのではないか。金持ちには金持ちの情報網がある。グレイ氏はテイラー家の芳しくない噂を知った上で、利用できるところを利用するつもりで話に乗っている。トニーの無垢な感性ならこの時点で善人とは言えないかもしれないが、これはわざわざ見せない大人の世界というだけに過ぎない。そういった分別は私も大賛成だ。
 この程度の表層が罪悪感に繋がっていたら、経営者として身が保たない。だから別のところに取っ掛かりを探した。グレイ氏は名前にコンプレックスでもあるのかと思っていたが、二度目には自分の無力が嫌になるとも言っていた。それは名前そのものより、名前が位置付ける身分を悔やんでいるということだ。
 どうせなら、もっと力のある血筋に生まれたかったということか。若しくは、こんな半端な立ち位置で燻るくらいなら、いっそのこと庶民に生まれて凡庸な幸せを掴みたかったということか。
 そうではない。どう生まれるかなんてどうにもできない。だがもし、どうにもできないことを、どうにかしようとしていたら? 私はそれをしたではないか。無意識に頬に触れた。私とグレイ氏の違いは、罪悪感が伴ったかどうかだけだった。
「グレイ先生。これは私の妄想です。なんの根拠もないのですけど」
 私にはないその強烈な罪悪感なら、生きてすらいない他人の子どもに生涯をかけようという自我に化けるかもしれない。そこに、バートン・グレイという名前に、思うほどの力はなかったことがより追い打ちをかけたとする。名前にこだわる発言の意味が変わってくる。
 侮蔑に染まりきっていたグレイ氏の表情から、すっと色が消えた。
 瞳孔が開く。何を言うか予測がついたような。だが息を呑んだ気配なかった。今更失礼と言うこともない。私は口を閉ざさなかった。
「貴方は本当に、バートン・グレイ卿ですか?」
 例え図星だとしても、当然グレイ氏が見苦しい姿を晒すとは思っていなかった。想像通り、目に見えた反応は何もなかった。
 私のように顔まで変えたかはわからない。名前が持つ力の程度を正しく把握しきれていなかったと仮定するなら、まだ知識も経験も生きた年数そのものも、かなり浅いうちになり替わったと考えても不自然ではないからだ。そうするに至った事情や状況は不明だが、幼いうちなら、証拠さえ残さなければ名前だけを乗っ取れる。誰かが怪しいと思っても、確かめる術がない状態に持ち込めば良い。誤算だったのは、せっかく奪ったその名前が、思ったよりも強大ではなかったということだけ。
 そんな前提を組み立ててみると、グレイ氏がより若く見えてくるから勝手なものだ。一人娘が十四歳というのは嘘ではないだろうが、本当に血の繋がった親子なのかは怪しい。奥さんはいないらしいことも拍車をかける。
 ふ、とグレイ氏が薄く笑った。色のなかった瞳に再び蔑みが滲んでいる。形のよい唇が動いた。
「面白いですね。よければ次作の構想にでもいかがです」
 その視線が、机に置かれた万年筆の箱に注がれた。
 グレイ氏は改めて踵を返し、少し振り返った。
「今度こそ失礼します。遅くにすみませんでした。お身体、大事になさってくださいね」
「また話せますか」
 背中に声をかけると、動きが一瞬止まった。
「よかったら、また機会があれば。とても楽しかったので」
「……」
 何故かグレイ氏は首を上向きがちに擡げていた。淡く斑模様のかかった白い天井に目線を投げ、やがて私へとスライドさせた。
「そうですね。私も意外と楽しかった気がします」
「トニーとイヴァンにもよろしくお伝えください。もしよかったらお嬢さんにも。それから、図々しいようですが、私の弟と関わる機会があれば」
 最後はダメ元だった。
 グレイ氏は測るように私の目を見つめた後、すっと背けた。
「手紙をやり取りしているようです。申し伝えます」
「ありがとうございます」
 グレイ氏の気遣いとトニーの心根に、知らず胸が綻んだ。
 思いがけない一言が飛んできたのは、そんなときだった。
「こちらこそ。子どもたちを助けていただいて、ありがとうございます」
 言い捨てたも同然の口調ではあったが、突然のお礼に虚を突かれた。聞き違わなかったか確認する前にグレイ氏は鍵を開けて病室を出てしまい、ドアの向こう側に消えてしまった。磨りガラスを挟んで見えていた影が遠ざかったのも一瞬のことだった。
 濃い闇に、しんと閑静が広がる。カートの車輪が回る音と足音が同時に近くなり、遠ざかった。
 小さな細長い箱を手に取り、中を覗いた。カサブランカの輪郭が刻まれた万年筆。よくこんなものを見つけてきたと思う。いや、特注で仕立てたのか。あの洒落込んだ性格ならやりそうだ。
 妄想癖か。穏やかな単語とは言えないが、言われても仕方ない。愚直な私の頭は、グレイ氏が吐き捨てた感謝の言葉にも引っ掛かった。過去形ではなかった。トニーとイヴァンの生活や精神状態が結果的に好転したことだけに繋げたのではなく、今後も見据えたからそんな言い方になったのだろうか。確かにグレイ氏が何某かの行動を起こすまでは、私は無意識に誰とも知らない子どもたちに手を差し伸べる――とまで言うと大仰だが、子どもたちの世話をする誰かに力添えすることになる。グレイ氏の前後背景に関係なく利用できるところは利用するところは、トニーに通ずるものがありそうだった。
 そうだ。できるものなら、もっとトニーの話をしたかったなと思う。
 イヴァンのことはだいたいわかる。ロビン・ローエンが買い付ける前に調べ尽くしたのを覗き見しているし、私自身も観察してきた。
 異質なのはトニーだった。仲間を作らずに一人で生きてきたようなことを言う割には、異常にイヴァンに執着していた。読み書きの履修を得られたことがよっぽど霹靂だったとしても、それだけが殺人までもを許容し、あまつさえ隠蔽の主犯を担う理由になるかは疑問が残る。人格を守るために心に穴を開け、知恵も恥も捨てて従うままの悲しい末路に思うことがあったのかもしれないが、それだって腑に落ちなかった。トニーには家も親もなかったはずで、周りにもそんな子はたくさんいたと聞く。悲劇的な結末にまったく覚えがないとは思えなかった。
 トニーの姿を思い浮かべた。通った鼻筋と青い目の顔立ちは一見この地域らしいが、浮いた肌の色や真っ黒な髪の毛から複数国の血が混ざっていることは明らかだった。
 イヴァンに会うまで、馴染んだ名前であるはずのトニーの綴りも知らなかったという。それはこの一年ちょっとの間のことなのだから、路地裏で暮らし始める前はどうだったのか、想像できるパターンはいくつもない。どれにしろロクな話ではなさそうだった。
 自分だけを優先していればよかったのに、どうしてあそこまでイヴァンに執心していたのか。教師としてのグレイ氏の見解に興味があった。
 残った紅茶を片付け、すっかり暗くなった病室に灯りを灯した。机の端に追いやっていた構想メモを引っ張り出し、浮き足立つ思いで箱から万年筆を取り出した。
 頭の中で始まりかけている物語を転がしながら、片隅で考えてしまうのは、グレイ氏ともう一度会えたときのことだ。きっとまたある次の機会を夢想しながら、私は歌を口ずさんだ。

幻惑を捉える

オリバーは我ながら中二要素が詰まってる感じがしてます。

幻惑を捉える

1.とある青年作家を告発する 2.事実は後で決まるもの 3.再度名を知る その後のおまけ。 別に読んでなくてもミステリー仕立てにはなっています。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted