ふぇーどあうと

たった一枚の年賀状で差出人の人柄が分かる、そんなエピソード。

 ここ数十年の間に、日本のお正月というものがどんどんと変わってきている。これを掲載する頃には、もうお正月もとっくに過ぎて門松も取れ、あっという間に人も街も日常の生活に戻っていることだろう。

 私は昨年から、お正月に送る年賀状を一切書くことをやめようと、密かに思い始めていた。数年前から 「年賀状は卒業します」という文句が流行っていたが、私はわざわざそんな宣言をすることもなく、計画を実行した。それまでも頂いた年賀状に対しての返事は寒中見舞いという形を取っていたので、そのままそれで挨拶をすることにした。

 相変わらず私に届く年賀状といえば、会ったこともなければ抱っこしたこともない、遊んだこともない何の情もない子供の写真をプリントして、その横に「謹賀新年」と、これまたプリントしてあるか、もしくは義理のように、私に「元気か?」とたった一行、書いてあるような、大して嬉しくもないものばかりである。
 私がいちばん知りたい年賀状の差出人である張本人の近況が「何一つ」分からない。私が付き合いをしているのは、そこにプリントされている見も知らぬ差出人の子供ではない。差出人である「あなた」なのだということを、差出人はいつから忘れてしまったのだろうかと、毎年、面と向かって問い質せないのをいいことに、やりたい放題である。

 去年も確か「首の皮一枚」というタイトルで、年賀状についてのエッセイを書いたが、相手は毎年、全く私の気持ちなど汲み取る気配もない。
 しばらく会っていないその差出人が、今現在、どんな姿になっているのか。会って話ができない分、写真でもいいから一目顔を見てみたい、近況を知りたいと思うのが人情ではないだろうか。会ったこともない子供の写真や成長報告は、その次で十分なのである。

 そんな中、毎年元日にきちんと届くように、私に年賀状を寄越してくれる人に、友人の今井くんがいる。今井くんも親バカなのだろう。毎年ではないが、気が向いた年には我が子の成長を私に報告するべく、子供の写真をプリントして送って寄越すこともあるが、今井くんの見上げたところは、必ずその横に直筆で子供のことだけではなく、自分の近況をきちんと書き、最後に私の健康や近況を気にしていることを、忘れずに書いて寄越すところである。
 そんな今井くんに昨年、第二子が誕生したという。まだ一歳にも満たないかわいい子供の写真を送ってきたが、不思議と何の抵抗もなく、初めて見る子供の写真を見て、今井くんに似ずかわいいとさえ思った。
 毎年、年賀状をいただいていて、嬉しくない筈はないのだが、年下の今井くんが年上の私に要らぬ気を遣ってはいないだろうか、今井くんの負担になってはいないだろうかと、独り身の私はそんな心配をしたりする。
 こういった、私がほしいと思っている本来の形である年賀状をいただくと、新年早々、酷く心が温かくなり、感謝の気持ちを持たずにはいられなくなるのである。そんな忘れかけていた感謝の気持ちを、一年の始まりである新年に今一度思い出させてくれる今井くんは、私にとって貴重な存在なのである。
 来年の話をしては鬼に笑われるが、今井くんからまた年賀状が届いたら、私もまた今井くんに一年の出来事を選りすぐって書くだろう。何とか良い報告ができるように、また一年頑張らなければと、私を奮い立たせる今井くんからの年賀状だった。

ふぇーどあうと

私はひねくれ者でしょうか?

ふぇーどあうと

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-01-08

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