柱時計
昨日、二〇二四年が終わった。良くも悪くも、私にとっては良い一年だったと思える、そんな年だった。これも親をはじめ、私の周りの親しい人々が何事もなく何とか元気でいてくれたから、そのおかげである。
我が家には長年、私たち家族を見守ってきた柱時計がある。毎日、時間になると一時なら一回、三十分に一回、六時なら六回と時を刻んでくれている。そんな柱時計はゼンマイ式だから、うっかりするとゼンマイが切れ、振り子が止まり時を止めてしまう。
毎月、月末になってくると、ボンボンとその時を知らせる音も、ノロノロと頼りなく何だか草臥れ始めて来る。もうそろそろゼンマイを巻けという、柱時計からの合図である。そのゼンマイを巻くのは私の仕事である。年に十二回、私はこの柱時計のゼンマイを巻くのだが、去年程、この柱時計の針を止めたいと思ったことはなかった。
この時計の針を巻き戻せるものなら巻き戻したい。そう思う時も、二〇二四年には何度もあった。まだ手遅れにならなかっただけ良かったが、柱時計の針を見つめて恨めしく思う、そんな時もあった。
人の心を置き去りにして、柱時計の針はどんどんと容赦なく時を刻んでいく。感傷に浸れる程、時の流れは穏やかではない。ちょっと待っててと言っても待ってはくれない。柱時計の身としては、正確に時を刻めなければ、時計としての本来の役割を果たせない。そうなってはお払い箱である。柱時計にとっては死活問題である。融通が利かないのは当たり前である。
もし、なんてことを考えたところでバカバカしい話だが、時計の針を巻き戻せるのなら、私はどこまで時を巻き戻すのだろう。巻き戻せたとして、果たして同じ失敗を繰り返さずに済むのだろうか。
そんな、どうにもならない過ぎ去った過去に思いを馳せて、ゼンマイを巻く手を止めて、ふと今年もまたこの柱時計のゼンマイを十二回、皆が々、笑顔で楽しい時が刻めるように、何事もなく巻くことができたらいいなと思っていた矢先。
テレビのカウントダウンに気を取られていた私は、初風呂に入り、床についたところで、まだ柱時計のゼンマイを巻いていないことを思い出した。朝起きて、時計が止まっていては、新年早々、何だか幸先が悪い。素足のまま、冷たい床を爪先立ちで足早に歩きながら、私は今年初めて真夜中にギイギイと柱時計のゼンマイを巻いた。
二〇二四年の締めくくりには間に合わなかったが、良い年だったと思える旧年の名残をそのまま今年に引きずって、また良い年になることを祈りながら、私の二〇二五年が真夜中から始まった。
柱時計