惑星生成論

                               
                                       

               一日目

 島のホテルにトシオが滞在して二週間が経った。陽射しが強烈な日中は、屋根のあるテラスで書き物をしたり、本を読んで過ごした。陽が沈む頃に浜辺を散歩した。海のうねりは沖の珊瑚礁が消し去り、渚を歩く足元で小さい波がたわむれた。心身ともに不調気味だったトシオだが、島へ来てから徐々に回復した。鏡に映る自分の顔も明るくなったようにトシオは感じた。

 テラスに差し込む夕日がテーブルまで伸びてきていた。急いで大学ノートに鉛筆で走り書きをした。掌編小説の導入部を思いついたのだ。気をよくして冷めたコーヒーを一口すすり、数行書き進めた。不意に人影が夕日を遮った。
「あの…、ごめんなさい」
 トシオは顔を上げた。ドリンクを持った若い女性だった。テーブルの上の本を指さした。
「ホーキングの本ですね」
「はい」トシオはうなずいた。
「それと…」女は顔を傾けて、下に重ねた本の背表紙を読んだ。
「宇宙の7大テーマ」と言って微笑みながら「宇宙に関心がおありなんですね」と女は言った。
「ええ、まあ…」トシオは曖昧に答えた。
「お邪魔でなければ、少しお話してもいいですか?」
「はあ、どうぞ」
 女は右手のドリンクをテーブルに置き、椅子を引いてトシオの向かいに座った。
「私、宇宙や天文にすごく関心があって、高校時代は天文クラブで月や火星や木星を学校の望遠鏡で観測してました。彗星や天の川、アンドロメダ星雲なんかも肉眼で見てました」と女は一息に喋り、グラスのドリンクをストローで一口飲んだ。
 トシオは少し呆気に取られて「宇宙ファンですね」。
「そうなんです。私、ランと云います。花の蘭」
「ぼくはトシオと云います。趣味で小説を書いています」
「どんな小説ですか?」
「SFものですね」
「ああ、それで宇宙の本を読んでるんですね」
「勉強のためにね」
 ランは少し考えていた。
「ではトシオさん、この宇宙に人類以外の知的生命は存在すると思われますか?」
 いきなり難しい質問を発した。
「存在すると思いますね」
「私は絶対存在すると信じています。でも、どうして我々の前に現れないのかしら」
「彼らは人類よりはるかに進化しているので、姿を現さないのだという説がありますね」
 ランは「レベルが違いすぎて人類にとってマイナスになるからとか…」。
「そうですね」トシオはうなずいた。
「他に、たんに関心が無くて、地球人から探知されないように、何らかの方法で電波とか人工物とか証拠になるものを隠蔽しているという説もあるようです」
「宇宙文明のレベルというのがありますね」とランは言った。
「えーと…、カルダシェフの尺度ですかね。確か地球は1未満だったかな」
 ランは「レベルが1から7まであるとか…」。
「よくご存じですね」トシオは感心した。
 つづけてランが何か言おうとしていた。その時大柄な男性がランに近づいてきた。ゆっくりした足取りでランの横に立った。ランはちらと見やり「すぐ行くから」と小声で言って椅子から立った。ランはトシオに向かって、「兄の武です。タケさんと呼んでます」と言い、「タケさん、こちらトシオさん。ご挨拶して」
「こんにちは。タケシです」
 タケシがぺこりと頭を下げた。つられてトシオも「こんにちは。トシオです」と頭を下げた。
 ランは「機会があれば、また宇宙のお話をしたいです」と言った。去り際にトシオの耳元に顔を寄せて「タケさんは障害があります」とだけ言って、タケさんを促してホテルの中に入っていった。

 ホテルでは、毎週金曜日にビュッフェ式の夕食パーティーが開かれた。ドレスコードはなかったが、暗黙のうちにマナーが守られていた。トシオはポロシャツとチノパン、白のスニーカーで通していた。会場を見渡すと、紺のワンピース姿のランが料理を載せたトレイを運んでいた。彼女の行く先にタケさんがいた。タケさんはテーブル席の椅子にぽつねんと座っていた。タケさんに限らず、逗留客は中高年が多かったので、大半の客は壁際のテーブル席で食事をしていた。ランはタケさんの前にトレイを置くと、自分の料理を取りに戻った。
 トシオはハイボールを飲みながら、顔なじみの元船乗りと談笑していた。彼は貨物船で世界中を回ったそうで、今夜も南米の艶笑談に引き込まれた。ふと気がつくとランもタケさんも席にいなかった。早々に食事を終えて部屋に戻ったのだとトシオは思った。元船乗りは食事をしたいと話を切り上げて連れの席に戻った。トシオも適当な料理を取り、手近な席を見つけて座った。食べ終わるころにランが目の前に来た。
「テラスでお酒を飲んでいます。ご一緒しません?」
「喜んで。すぐ参ります」
 トシオは食事を終えるとテラスに出た。ランとテーブルに向かい合って座る。
「島の素敵な夜に乾杯」とラン。グラスを合わせた。
「タケさんは?」トシオが問うた。
「部屋で絵を描いてます」
「ほう、絵がお好きなんですね」
「特に星の絵を描くのが好きで…」
「星、ですか?」
「ええ、惑星の絵。いろんな惑星の風景を描いてます」
 ランは一呼吸おいて、
「タケさんは知的障害者ですが、特異な能力を持っていて、自分が関わった人の惑星を描くのが得意です」
「関わった人の惑星?」
「その人の持つ惑星の風景というか…人は皆、各々の理想の惑星、というか棲みかのイメージを持っていて、タケさんはそのイメージに触発されて絵で表現するのです」と言ってランは席を立った。
「お酒をお替りしてきますね」。
 自分の理想の惑星とやらのイメージはどんなものなのかとトシオは思った。想像もつかないが、タケさんがどんな絵を描くのか見たいと思った。
 ランが両手にグラスを掲げて戻ってきた。レモンの輪切りを添えた淡紅色の泡立つ液体。
「どうぞ」
ランがグラスを差し出した。
「あ、どうも。ありがとう」成行きに驚きながらトシオはグラスを受け取り一口飲んだ。
「口当たりがいいけど強い酒ですね」
「テキーラがベースだから?」とランが首を傾げた。
「お酒強いんですね」
「そんなことはないです」ランが笑った。
「台風が来てますね」
 ランが頷いて「明日の夜、南西諸島に最接近するらしいです。ここは大丈夫かしら」。
「このホテルのこと?」
「ええ。島を直撃するコースじゃないかって、ホテルの人が心配そうに言ってました」
「このホテル古そうだから、ぼくもちょっと心配だ。今晩から台風の影響が出そうです」
 ――と、ホテルの上空を、先触れのように強風が吹き抜けていった。たぶん海は大きなうねりが次々と押し寄せているに違いなかった。しかし目の前の海岸は、沖の珊瑚礁が防波堤となって、渚に寄せる波は穏やかだった。
 少し間が空いた。
「トシオさん、ずっと滞在してらっしゃるんですか」
「療養というか…今はもう回復しましたが」
「ご病気だったの?」
「体調を崩しまして」
「もうよくなられたんですね」
「ええ、すっかり」トシオは笑った。
「ランさんたちは観光でいらしたんでしょう?」
「せっかく休暇を取って来たのに、台風でツアーが全部中止になって」
「それは残念」
「そうなの」とランはうなだれた
「時間は大丈夫?」
 ランは腕時計を見た。
「そうですね。そろそろ部屋に戻ります」
「しばらくこのホテルにいらっしゃる?」
「台風が通り過ぎるまで島を出られません」とランが肩をすくめた。
「あ、そうか。タケさんが描いた惑星の絵を見てみたいです」
 ランは大きくうなずいてテラスを出た。

               二日目

 夜半から風が強まり、窓ガラスに当たる雨の音で何度か目が覚めた。トシオはいつものように昼近くまで寝た。
 昼食のあとトシオは海岸に出てみた。雨はやんでいたが、強風で砂が顔に当たり、早々にホテルに戻った。
 ――トシオはホテルのカフェでコーヒーカップを傍らに、大学ノートを開いたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ビロウの葉が大きく揺れている。台風は予想された進路を進んで、島は暴風圏内に入ったらしい。ランがカフェに入ってきた。トシオの向かいに座り、カフェオレを注文した。
「ここにいるとよくわかったね」
 ランは笑いながら
「トシオさんが執筆してる場所って、今日はこちらでしょ」。
「そうです」トシオも笑った。外のテラスは閉鎖されていた。
「タケさんは夜中に絵を描いてて今寝てるわ。3時頃に起きて来るからその時は私たちの部屋にご招待します」
「楽しみだ」
「昨夜テラスでお話しした続きですけど…」
「何だったっけ?」
 強い風雨が窓に当たって二人は外を見た。ホテルの敷地沿いのビロウの木が激しい雨で霞んで見える。

 ランが静かに口を開いた。
「銀河系の中で高度な文明の数を推定する計算式がありますね」
「ああ、ドレイクの方程式だね…」
「2万ぐらいあるって何かで読んだことがあります」
「最近の説で1というのもあるよ」
「えーっ。1って、それ地球文明のことですよね」
「そう、地球だけって話」
「何てこと。でもそれって直感的におかしいと思う」
「だよね。でも仮にさ、銀河系で文明を持つ恒星系が1個だけとしても、この宇宙には何千億って銀河があるから、銀河の数だけ文明がある、もしくはかつてあったということになる」と言い、トシオは続けた。
「我々の銀河系に限定しても、ここ数万年で宇宙に進出できるレベルまで進化した地球文明なんて、138億年の宇宙の歴史から見たら新参者で、かつて銀河の隅々まで広がっていた異星人の文明が幾つもあったと考えるのが自然だ。ただ、宇宙の歴史の時間軸から見たら、それらの文明が重なりあう確率はごく低かったと思うんだ」
「そうですよね」とランはうなずき、「この宇宙だけでなく、他の宇宙も無限にあるマルチバース説とか…」。
「仮説だけど、一つ一つの宇宙が泡のように無限にあるとするマルチバースでは、それこそ知的な文明は無数に存在することになるよね。先行する知的な種族などは、進化の果てに神のような存在になっていて、5次元や6次元の世界にいるんじゃないかな」
「すでに人間のような生物の形態ではないでしょうね」
「うん。精神だけの存在になってるのかもしれない」
「彼らからすれば、私たちはアリみたいな存在?」
「そうだね」
 ランはふーっとため息をついた。ドレイクの方程式から始まった宇宙の知的文明の話が極限まで行った。
 ――却ってむなしい気持ちになったかもしれない
 トシオもランも黙って窓の外を眺めた。風雨が強くなっている。テラスの端から海岸が見えるが、珊瑚礁を乗り越えてくる波がビーチまで押し寄せている。

「宇宙が無限だとすると、タケさんが描いている惑星も実在するのかもしれない」とランがつぶやいた。
「私たちの思考や思い描くイメージが実体化するということだね?」とトシオが言った。
「そう。宇宙も創り出せるような万能の存在者は、宇宙のすべての事象を知ることができるんじゃないかしら」
「僕らが自由気ままに思い描いたりするイメージまでも?」
「神だとしたら…」
「その都度、マルチバースのデータベースにしまい込まれて、必要な時に創り出すとか…」
「そうなんじゃない。きっとそう!」とランが大きくうなずいた。
 そこへタケさんがゆっくりした足取りでやってきた。
「お昼ごはん食べた?」とランが聞く。
「ああ」タケさんは立ったままうなずいた。
「ルームサービスでランチを頼んでおいたの」ランがトシオに説明した。
「タケさんが描いた絵をトシオさんに見てもらっていい?」
「ああ、いいよ」
「じゃ、トシオさんを私たちの部屋へご招待しましょう」
 
 ランたちの部屋は、ツインの部屋2つのコネクティングルームだった。三人はタケさんの部屋に入った。ランはデスクの上のランチのトレイを廊下に出し、ベッドの上に脱ぎ散らかした寝間着をたたんで掛布団を直した。
 タケさんはデスクの椅子に、ランとトシオはソファに並んで座った。絵はテーブルの上に無造作に置いてある。数十枚はあるだろう。ランはその中から一枚の絵を取り出してトシオの前に置いた。鉛筆だけで描いた精緻な風景画だった。
「これがタケさんの惑星の絵。ロボットだけが棲む惑星です」
 その絵は一見ごく普通の風景のように見えた。手前に広大な遊園地。無数の子供たちがいろんな遊具で遊んでいる。その向こうにシンデレラ城のような純白のお城。そして彼方に森が見え、森の間に海。鉛筆だけで濃淡を巧みに使い分けて風景を描いている。
「この子たちはみんなロボットなのかな」トシオがつぶやいた。
「そうなの」とラン。タケさんがしきりにうなずく。画面中央の子供を指してタケさんがぽつりと言った「これ、ぼく」。
 確かによく似ていた。絵の中のタケさんは、子供のサイズまで小さくなり、ジェットコースターに乗って手を振っていた。
「このお城は食べられるよ」とタケさんがシンデレラ城を指さした。
「へー、どんな味なの?
「ショートケーキの味」
「おいしそうだね」と言うとタケさんが小声で笑った。
「タケさんがお客さんの前で笑うなんて…滅多にないわ」とランがつぶやいた。
「次は私の惑星の絵を見せてあげて」
 タケさんが二枚目の絵を取り出してテーブルに置いた。
 雪の斜面。紙の白と鉛筆の陰影を巧く使い分けて、雪のスロープを表現している。靄のように薄くたなびく雲。雲の切れ目に見える大きな月。斜面を疾走する流線型のそりのような乗り物。乗り物の窓からランが見える。
「これ、ランさん?」
「そう」ランが笑った。
「いいね」とトシオ。
 次にもう一枚、タケさんが絵を出した。一転して海の中である。魚の群れが泳ぎ、海底の海藻が揺れている。光り輝く海底都市に向かう流線型の乗り物。先ほどの絵の乗りものと同じである。窓からランが見える構図も同じだ。
「これもランさんの惑星なの?」
「そうよ」
「なんか地球みたいだけど」
「私の星ではね、雪山から滑り降りるときはそりで、海に入ると潜水艇になる。そんな乗り物は地球上にはないでしょ」
「そういえばそうだ。でも地球とよく似てるね」
「私たち地球人が夢見る星は、どこかしら地球に似てるわ」
「トシオさんの惑星だって同じよ」
 タケさんが一枚の絵を取り出して、トシオの目の前に置いた。それは夜の惑星だった。海岸と海。渚を洗う波。静かな海である。海岸が右手から前方に湾曲している。海岸の背後には鬱蒼とした亜熱帯風の樹木が続いている。空に二つの月。小さな月と巨大な月が懸かっている。小さい月は少し欠けていて、大きな月は円盤状の薄っぺらな感じだ。線描だけで二つの月の色が違うように細かく描き分けられている。しんとした夜の海で、砂浜に寄せるさざ波の音だけが聞こえてきそうだ。
「誰もいないね」トシオがつぶやいた。
「深夜の海岸。それで人がいないのよね」とランがタケさんに問う。
「もともと誰もいない星なんだ」ぽつりとタケさんが言った。
「ふーむ」
『誰もいない星』というタケさんの言葉をどう解釈していいのか、トシオは分からなかった。
「この絵はトシオさんに差し上げるのよね」とラン。タケさんがうなずいてトシオに差し出した。
「どうも、ありがとう」とトシオは受け取った。

 日が暮れて本格的な暴風雨になった。ホテル支配人から、停電対策でレストランの営業を早めに終了するというアナウンスがあり、客らは早めに夕食を済ませた。
 トシオは夕食の後、カフェでコーヒーを飲みつつ、思いついたストーリーとも言えない小話をノートに走り書きしていた。他にも数組の客が談笑していたので安心して過ごしていた。が、突然明かりが消えた。すぐ自家発電の照明に切り替わったが、営業を終了しますと従業員から説明があり、皆カフェを出た。
 客室は最低限の照明と空調のみで、テレビは見られなかった。トシオはシャワーだけしてベッドに横になるしかなかった。時刻はまだ8時だったが…。

                 三日目
 
 ベッドで横になりながら、この風雨の音でとても寝付けないとトシオは思ったが、いつの間にか眠っていた。ふと時計を見ると午後11時50分だった。中途半端に寝てしまった。却って眼が冴えて眠れないと思った。自販機の酒を買いに行こうとトシオは思い立った。寝間着のまま部屋を出た。エレベーターが停止していた。階段で二階へ降りた。悪い予感がした。自販機コーナーも照明が消えていた。一階のロビーに稼働している自販機があるかもしれない。
 一階に下りた。ロビーは限られた照明だけで薄暗かった。自販機は無い。レストランやカフェに自販機を置いていないことはわかっていた。
 ロビーの大時計が午前0時を指した。その時ロビーに面した部屋のドアの上の誘導灯がぼんやり灯った。明かりに誘われるようにトシオはドアを開いた。会議室のようだった。暗がりの向こうにもう一つ、頑丈そうな扉があり、その扉の上の誘導灯も灯った。後ろ手でドアを閉めて会議室を横切り、奥の扉をそっと開けた。
 
 ――生暖かく湿った空気が顔を撫でた。トシオはホテルのテラスに続くコンクリートのたたきの上に立っていた。
 目の前に静かな夜の海があった。
 ――ちょっと待て。今は暴風雨の真っ只中のはず。トシオは振り返った。扉は開いたままだ。トシオは急いで部屋に入り扉を閉めた。会議室を横切り、ドアを開けてロビーに出た。暴風が吹きすさび、雨が激しく玄関の天窓に当たっている。
 ――これが現実のはず。
 トシオは引き返して、再びホテルの外へ出た。ひっそりとした夜半の海岸である。穏やかに寄せては引く波の音。
 月が出ているようだった。曇った空の一角から、淡い光が海岸をひっそりと照らしている。右手に弓のように孤を描いた長大な渚の先端が海に突き出ている。亜熱帯の鬱蒼とした樹木が黒々としたシルエットを描いていた―。
 トシオは砂浜に下りた。スリッパに砂がかかる。歩くたびにさらさらとした感触の砂が左右に飛び散った。波打ち際まで距離があった。引き潮で渚が後退していたのだ。次第に砂が湿り始めた。やがて、今し方まで波に洗われていた砂の固く締まった渚に出た。珊瑚礁に囲まれた遠浅の海の波が穏やかにたゆとうている。波頭の泡が白いレースのように繊細にはじけていた。

 水平線の上にネオンサインのように派手なオレンジ色の円弧が現れた。それは見る間に巨大な半月となり、目で確かめられる程の動きで悠々と夜空を上っていく。斜め上には雲間に先客の月があった。こちらは見慣れた月のはずだが、その月は青く、見慣れたウサギの模様はない。そして今ぐんぐんと天頂を目指して上っていく第二の月は、もう一つの月の三倍はあろうかという大きさだった。
 ――ここはいったい何処なんだ。
 トシオは振り返った。五十メートルほど離れたところにホテルがあった。今し方まで自分がいたホテルとは思えなかった。と言うのも、一切の明かりが消え、建物の輪郭だけが夜空を画していたからだ。
 トシオは夜の海と陸の暗いホテルを見比べた。さっきまで自分がいた元のホテルに戻れるのだろうか。トシオは不安を感じた。ホテルへ引き返そうと歩き出したその時だった。こつ然と扉が開き一人の女が現れた。
 女が自分の方へやってくるのをトシオは茫然と見ていた。トシオは思考が停止していた。女がトシオの目の前で立ち止まった。石鹸のような匂いが漂った。自分以外の人間が出現したことでトシオは安堵した。自分だけがここで孤立しているわけではないのだと。
 暗がりで女の表情はよく分からなかった。トシオを見つめる二つの瞳の中に、オレンジ色の光点が浮かんでいた。二番目の月が映っているのだ。
 女が口を開いた。
「あなたが望んだ惑星」
 硬いややかすれた声だった。
「居心地はいかが?」
「君は誰?」
「私はミツコ」
「おれはトシオ」
「おれが望んだ惑星って…」
「あなたが心の中で行きたいと思っていた理想の惑星」
 トシオは振り返り、二つの月が行き交う空と海を見た。
「この海は」
「地球の海じゃない。あなたの知っているような生き物はいない」
「あの月は」
「青い月はこの惑星が出来た三十億年前に一緒に出来た兄弟星。オレンジ色の方は、一億年前に惑星の引力で捕まって衛星になった」
「ここはどこかな。太陽系ではないようだ」
 ミツコは首を傾げた。
「よく分からない。銀河系の中としか……」
「たぶん、これは現実じゃない」
 トシオはつぶやいた。
「それはどういう意味?」
 ミツコが訝しげな眼でトシオを見つめた。
「おれは幻想を見ているんだと思う。いや、夢の中かもしれない」
 この女も実体ではないのだろうとトシオは思った。海からの風が心地よい。波の音が静かに聞こえてきた。ミツコが見つめている。トシオは幻影だと思い込み始めていた。
 ――と、ミツコが不意に喋った。
「さっきまであなたがいたホテルが属する惑星とは違うわ。ここはあなたの隠れた欲望が実現された惑星。望みさえすれば何でも叶うでしょう」
 刺激的なことを言うと思った。が、幻想の中なら何でもあり得るのだろう。
 少し試してみることにした。
「すこし腹が減ったな」
とトシオは言った。すると、ミツコが右手を高く伸ばした。次の瞬間、トシオの目の前にオレンジ色の円盤が差し出された。甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐった。
「どうぞ、マンゴーのような味です」
「何だよ、これ」
「月。取っちゃった」
 天頂にあった月が今、無かった。明るい月が無くなり周囲が暗くなった。
「これじゃ暗すぎるだろ。君の顔も見えない」
「そう」
ミツコは円盤を空に向けて放り上げた。するとオレンジ色の月は元の位置に収まった。明かりが戻った。
「それじゃ……残り物でよろしければ」
 ミツコは背中に腕を回し、背後の暗がりから手品のように一個のバスケットを取り出した。クラッカーにチーズ、ワインの小瓶などが入っている。今夜のディナーの残り物らしい。
「こんなところで立ったまま?」
 トシオが苦情を言った。
「そうですね。ジャグジーなどはいかが?」
 冷たい風が陸から吹き始めてトシオは寒さを感じた。
「悪くないね」
 ミツコがにっこりうなずいた。
「あそこへ」と指さした。
「ホテルには戻れるのかな?」
「あのドアから入って緩衝を通過すれば、元の世界に戻れます、心配しないで。それとも、もう帰りたいのですか?」
 年少の弟を諭すような響きがあった。
「いや、そういう訳じゃないが……。緩衝って何?」
「ここへ来るときに最後に通った部屋があったでしょう。二つの世界をスムースに行き来するための転換機能を備えています。……さあ、話している間にジャグジーまで来たわ」
 プールの脇に三人位入れそうなジャグジーがあり、水面が気泡で泡立っていた。トシオが手を浸した。適温の湯だった。
「どうぞ、お入りください」と言って、その場でくるりと後ろ向きになった。
トシオは寝間着を脱いで湯に入った。ふーっと息を吐いた。首の付け根まで湯に浸かった。耳元で泡が音を立てている。
「湯加減はいかがですか」
ミツコがしゃがんでトシオに聞く。
「ちょうどいい」
 トシオは湯の中で四肢を伸ばし、首をゆっくり回した。目の前には、夜の海と空に架かる二つの月。
 ミツコが飲み残しのシャンパンをグラスに注いだ。トシオは一口飲んだ。
「君も湯に入ったら?」
「私は入れないのです」
「どうして?」
「無理なんです」
 ミツコは首を横に振った。
「ここはおれの惑星だと君は言った。おれが望めば何でも叶うはずじゃなかったの?」
 ミツコは何か考えているようだった。
「一緒に入ろう」
 トシオが促した。
「湯に入ることによって、機能的な問題が発生するかもしれませんが、その時はその時」
と言いながら立ち上がった。手早く衣服を脱いで裸になり、泡立つ湯の中に体を沈めた。
「いい湯だろ」
「そうですね」
 気乗りしない返事だった。トシオは気にとめず両手で顔をぬぐっていた。
「機能的な問題って何?」
 ミツコは言い難そうに身じろぎした。
「人間じゃない、とか」
 とトシオは軽口を言って一人で笑った。ミツコと一緒に風呂に入れて上機嫌だった。内心わくわくしていた。次ぎの展開を期待していたのだ。だがミツコは笑わなかった。それどころか、
「確かに、人間ではないのかもしれない」
「冗談だよ。それとも本当はロボット、いやアンドロイドなんて言うのかい」
 これが夢だとしたら、ずいぶん込み入った夢だとトシオは思った。 
「あなたの理想化された女性像を合成したもの。人間として実体化されているけど、機能的な制限があるらしいの。だからお湯に浸かることは保証されてなく、問題が起きるかもしれないってこと。短時間なら大丈夫でしょうけど」
「湯がだめだとしても、水なら問題は起きないとか」
「水温が低ければ保障の範囲です。例えば――」
 ミツコが一瞬無表情になり、途端にジャグジーの湯が水に近い温度に下がった。トシオは急激な水温の変化に「冷たい、これはたまらん。湯にもどして」。
 ――と、また元の湯に戻った。
 するとミツコの体の輪郭が少しぼやけてきた。ミツコは「機能停止します。さようなら」と言うと、すーっと消えていった。後には何も残らなかった。
 トシオは呆然としていた。が、慌てて湯から上がり、脱いだ衣類を抱えたまま、ホテルのドアを開けて中に入った。ミツコが言った緩衝の効果だろう、濡れていたはずの体や衣類が元通りに乾いて、トシオは暗がりの中で衣類を身に着けた。
扉の上の誘導灯も消えていた。その扉を開けようとした。が、風圧で扉が開かない。風雨が激しく扉を打ち付けている。緩衝が無くなったのだ。つまり、扉の向こうはこちらの世界だ。開けてみるまでもない。会議室を出てロビーの大時計を見た。午前0時を僅かに過ぎていた――。
 トシオは部屋に戻り、ベッドに横になった。
 
 目が覚めると正午過ぎだった。カーテンを開くと眩しい日の光が部屋に差し込んだ。台風は去ったようだ。テレビを点けると電源が入った。ニュースは台風の速度が速まり、東シナ海を北へ進んでいると報じた。トシオはシャワーを浴びて髭を剃り、服を着替えてカフェへ行った。ノートと鉛筆をテーブルに置く。コーヒーとランチを注文した。いつものルーティンである。唯一違うのは、タケさんがくれた惑星の絵を持ってきたことだ。
 ランチを済ませて、残りのコーヒーを飲みながらぼんやり絵を眺めていた。
 ふと気が付くとランとタケさんがカフェの入り口にいた。手を上げて合図している。トシオは席を立ち、彼らの方へ行った。スーツケースが2個傍らにある。
「お別れを言いに来ました」とラン。タケさんがうなずいた。神妙な顔だった。
「午後から飛行機が飛ぶので、この島から離れます。わずかな日数でしたけど私たち兄妹とお付き合いしていただきありがとうございました」とランが頭を下げた。タケさんも続いた。
「いや、こちらこそありがとうと言いたいです。タケさんの絵も含めて」
「トシオさん、ご自分の惑星に行かれました?」ランが聞いた。
「はい。夕べ」
 ランは「もう二度とその惑星へ行くことはできません」と言った。
「え、そうなの?」
「私たちも、あの絵の惑星には行けないの」
 横でタケさんが寂しそうにうなづいた。
「別の新しい惑星が生成されるまでは、ね」
 タケさんがうっすら微笑みながらうなづいた。
「タクシーが来たみたいなので行きます」
 兄妹はスーツケースを引きながら慌しくホテルの玄関へ向かった。トシオはタクシーに乗り込んだ兄妹に手を振った。
「ごきげんよう」とランが窓を開けて叫んだ。トシオはタクシーが見えなくなるまで手を振り続けた。

 カフェに戻るとテーブルはそのままだった。ランチのトレイは片付けられて、半分残ったコーヒー。ノートと鉛筆とあの絵。トシオは冷めたコーヒーをすすりながらノートに記した。
 ―夕べ旅した惑星は裏寂しい惑星だった。私と、ヒトであるようで、そうではないミツコの二人きり。最後は一人になって幕を閉じた。それが私の惑星だった。二度と造られない惑星だ。そして別の新しい惑星のイメージはまだ生成されていない。
 つまり、これから新しい生き方を選べば、新しいイメージの惑星が造られるのかもしれない―
 トシオは島を出ようと決心した。そろそろ潮時だと。職場に復帰して仕事を続ける。そしていつの日か、ヒトである彼女を見つけよう。その時新たに生成された惑星へ行けるだろうか…。
 ―いつかあの兄妹と再会するかもしれない。そんな予感がした。
              (了)

惑星生成論

惑星生成論

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-12-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted