二〇一四
M県K市のS工業会社K支社勤務の井上諒は、高校卒業から二十年経って初めて同窓会に出席した。当時暮らした家はすでになく、ホテルをとってまでお盆の同窓会に向ったのは気の迷いだ。
同窓会の案内が届いたのは離婚成立の一週間後。単身赴任していた諒は妻と息子が出ていった後で一人マンションの片付けに戻り、その時ポストに案内状を見つけた。孤独感が募り返信用ハガキの参加に丸をつけて投函したが、離婚した途端に顔を出すのは再婚相手探しと思われないか――そんな考えが会場に到着するまでずっと諒の頭をもたげた。しかし、いざ出席してみればそれは杞憂に過ぎず、酒が入れば高校時代に戻ったような無敵感に酔いしれた。
「諒はM県にいるんだって?」
二次会で話しかけてきた男のことを、諒はすぐには思い出せなかった。
「木崎だよ、木崎友弥。雰囲気が変わったって何度も言われたけど、やっぱりおまえもわからなかったか」
「友弥? マジで?」
高校時代はそれほど仲が良かったわけではないが、情に厚く感情がすぐ顔に出るタイプだったと記憶していた。四十路間近になった友弥は酒が入ってもポーカーフェイスを保ち、値踏みするように諒をじっと見つめてくる。
「昔の友弥は二十年ぶりの再会にむせび泣くタイプだったのに、クールな雰囲気になったなあ。モテるだろう? 結婚は?」
「独身」
「マジか? 意外だな」
「他人と上手くやっていける気がしないんだ。それより、諒は今M県にいるんだよね。さっき鈴木から聞いたんだけど、O町の山中をうろついてるんだって?」
「また鈴木が適当なことを。地質調査のために土地の所有者に連絡とってる段階。七十歳くらいのおじいさんで、居住地は隣町なんだけど、しょっちゅう旅行に行ってるから何度訪問しても会えないんだ。まったく羨ましいよ」
ハハッと笑う友弥を見て、諒はやはりこいつは変わったと思った。昔は体を折り曲げ八重歯を見せて笑っていたが、目の前にいる男は口角を上げて声を漏らすだけで、その目は諒からそらさない。
「友弥、おれの顔になんかついてるか?」
「あっ、悪い。大人になってから変な癖がついちゃって、興味がある相手はついじっと見つめちゃうんだ」
「マジかよ。口説く相手を間違えてるぞ」
仕事とは無関係な場所で他人から興味を持たれることが気恥ずかしく新鮮だった。いつからかすべてを義務感と惰性でこなすようになり、学生結婚した元妻はそういう自分に嫌気がさして出ていったのだろうと諒は火照った頭で考える。その夜は記憶を失うほど酔っ払い、どうやってホテルに戻ったのかも覚えていなかった。
M県K市の諒のマンションに大判の茶封筒が届いたのは九月初旬のことだ。宛名も差出人も記載がなく直接投函されたのは間違いない。明らかに怪しいその封筒を諒が開けることにしたのは、『〈忠告〉M県O町山林から手を引け』と書かれた付箋が貼られていたからだ。
入っていたのは極秘の印が押されたA4五枚程度の綴り。表紙には『M県O町山林にて採取された黒色粘性無細胞寄生生物〈Melanos manipulatrix〉概略資料』とある。
『M県境の黃坂峠から渋尻沢方面へ下る途中には小さな祠が祀られていました。1955年、祠の周りに悪臭を放つ黒い沼が突如出現し、沼の泥に触れた小学生が狐憑きになりました。数十年かけて沼の泥は変質し、沼縁部分の泥に触れると触れた人間はその人格が消滅し、別人の意識が体を支配することが確認されています。
沼の泥は、黒い操り人形師を意味する〈Melanos manipulatrix〉と名付けられました。通称は『ブラックグー』。黒く、粘性を帯び、細胞を持たない物質で、生きた動物の体に侵入し意識を乗っ取ります。宿主が死亡すると体から出て、最初に触れた動物に侵入します』
ここまで読んだ諒は「酷すぎる」と苦笑を漏らした。某ライバル社もあの山に目をつけているという噂もあったため、差出人にまったく当てがないわけではない。
「こんな子ども騙しに、ご丁寧にでっちあげの研究資料までくっつけてご苦労なことだ」
二枚目の資料には祠までの地図と祠周辺の写真が載せられていた。沼をアップで写したものは無数の黒いミミズが蠢いているように見える。三枚目には「寄生前段階」として背に黒斑のある蜥蜴が載せられていた。上司に報告すべきかと思ったが、こんなふざけたものを見せて自分がとばっちりを食らうのは御免したい。諒は『極秘』の文字を指ではじき、宅配ピザのチラシの上に放り投げたのだった。
諒がようやく土地所有者と接触できたのは師走も半ば。「調査くらいなら勝手に入ってもらっても構わない」とその好々爺は言ったが、山にはすでに雪が降り始めており、こんな時期にOKを出されても実際に地質調査ができるのは雪が解けてからだ。地質調査は採石を目的としたものだが、のらりくらりと接触を避けてきた土地所有者がこの話に乗り気でないことは明らかだった。
「とりあえず見て来い」
上司に言われ諒は地図を片手に現場に向かった。K市からO町までは一時間もかからない。隣県へと続く山間の旧国道を走り、何箇所かポイントを回って戻るつもりだったが、諒は黃坂トンネルを通った時その予定を変更した。トンネル近くの路肩が広くなっている場所に車を停めたのは、〝極秘資料〟にこの周辺の地図があったのを思い出したからだ。
うろ覚えだったが、あの地図では黄坂トンネルの傍から渋尻沢方面に道が続いていた。その途中で脇道に入ると祠にたどり着く。会社から持ってきた地図にそんな道はないが、諒が車を停めた場所から軽自動車一台なら通れそうな道が林の方へと続いている。舗装されておらず、タイヤ痕がうっすら見えていた。
空は雲ひとつない快晴で、記憶が確かなら祠までは十分か十五分程度の距離だろう。諒は好奇心に駆られてその道に足を踏み入れた。夏の同窓会以来、木崎友弥と近況報告や他愛ない雑談をLINEで交わす仲になっており、年末に会いに来るという彼にささやかな冒険譚を話してやろうと考えたのだ。
五分ほど歩くと車が方向転換できるくらいの広さの場所があったが、そこから伸びる二本の道はいずれも幅三十センチほどの獣道だった。道は正面と十時方向。渋尻沢へと向かう正面の道は右側が急斜面になっており、落ちたら無事では済まない。諒は迷わず十時方向の道へと歩を進めた。
落葉の季節ということもあり時々道を見失いそうになるが、頭の中には昔やったRPGのテーマ曲が流れている。十分ほど歩くと道の右手に大きな岩が目立つようになり、不意に悪臭がした。諒はネックウォーマーを上げて鼻を覆ったが、生臭いような、泥が腐ったような何とも言えない臭いはそんなものでは防げない。それでも踵を返すことなく前進したのは、木々の合間に祠が見えたからだ。祠は岩の上にあり、じきにその岩を囲う黒い沼が諒の眼前に出現した。
「マジか」ひとり言がこぼれた。
極秘資料にあった黒いミミズが蠢くような沼の写真。こんなものあり得ないと鼻で笑った光景が、今目の前にある。
「なんだっけ? 黒い、粘性の、無細胞生物だっけ?」
道があることから考えて参拝者はいるようだから、悪臭が人体に影響を及ぼす可能性は低い。諒はネックウォーマーの上から手で鼻を抑えて沼のほとりにしゃがみ込んだ。しかし、直に目にしてもそれが生物だとは思えない。むしろ、見慣れない沼表面の動きに諒は興味をそそられた。
資料にあった通りこの沼が突然できたのなら、何らかのきっかけで地中に溜まっていたものが噴き出したと考えられる。諒は服のポケットを全部漁ってビニール袋を見つけると、手袋をはめてその袋に沼の泥を採取した。顔を近づけてみると、意外にも中で動いているのは普通のミミズのようにも見える。そのミミズ様のものに黒いネバネバしたものがまとわりついていた。
「泥の中でミミズが大量発生したのか? そんなことがあるのか?」
首を傾げながら右手だけ手袋を外し、ビニール袋を縛ろうとしたとき泥が手に付いて思わず「オエッ」とえづいた。弾みで袋を地面に落とし、採取した泥は袋からこぼれ出す。それはまるで意思を持っているかのように、自ら沼の方へとゆっくり移動し始めた。それを見た諒は後退りし、泥のついた手を傍にあった岩に擦り付ける。そのあとハンカチで拭ったが、臭いはマシになったものの黒い色が手のひらに付着していた。車に戻ってペットボトルの水で洗い流してもまったく落ちる気配はなかった。
「マジかよ……」
不快感が不安感を煽り、諒の脳裏をとある蜥蜴の姿が過った。『寄生前段階』という注釈文字と、背に黒斑を背負った蜥蜴の写真。
『沼縁の泥に触れると人格が消滅し、別人の意識がその体を支配することが確認されています』
その一文を思い出したとき、寒さではなく恐怖で震えた。「まさか」と声に出して笑ってみたが、押し寄せる不安は消えるどころか増すばかりだ。その日、急いで帰宅した諒が最初にやったのは郵便物の籠をひっくり返すことだった。宅配ピザのチラシと生命保険の提案書の間に見つけた『極秘』の赤い文字。
『……は動物に接触すると体表面(皮膚,体毛)を黒色に変化させる。この黒斑は時間の経過により移動する場合もあるが理由は不明。黒斑は一週間前後で消滅し、人間の場合はそれと同時に本来の人格が失われる。その後は別人格となるが、宿主の記憶を引き継いでおりそれに応じた行動をとる。動物の場合は刺激への反応が極度に薄くなる。(中略)全ての宿主に共通する特徴は〝観察する眼差し(Observational Stare)〟である。宿主の身近にいる人間が凝視されることによって人格変化に気づくことが多く……』
極秘資料四枚目に目を通していた諒は、ふと友弥の顔を思い出した。同窓会で諒が友弥に覚えた違和感――それはまさに〝観察する眼差し〟ではなかったか?
『大人になってから変な癖がついちゃって、興味がある相手はついじっと見つめちゃうんだ』
友弥自身がそう言っていた。
学生時代に仲が良かったわけでもない自分に友弥が話しかけてきたのは、諒が仕事でO町の山林に行くことを鈴木から聞いたから。あの日、諒はいつ友弥とLINE交換したのか覚えていない。
――もしかしたらあいつに住所まで教えたのか? まさか、あいつがこれを送ってきた?
自分が相談相手欲しさに都合のいいことを考えているだけかもしれないと思ったが、そんな諒の頭に同窓会で耳にした隣席の会話が過る。
『Nature誌に載ってリケジョだ何だって持て囃されてたのになあ。あっ、そう言えば木崎も似たような研究してるんじゃなかったっけ? おまえ、偽装なんかすんなよ』
『おれが研究所にいたのは三年前まで。今は科学ジャーナルの編集者だよ。超マイナーな出版社だけど』
『へえ。Nature側の人間になったってわけか。偽装は見逃さないように気をつけろよ』
諒は手汗をズボンに擦り付けた。この資料の送り主が友弥なら、LINEで定期的に近況を聞いてくるのも、年末にわざわざここまで諒を訪ねて来るのも、すべてこの資料の内容と関係しているはずだ。友弥の意図は――、
『〈忠告〉M県O町山林から手を引け』
封筒と一緒にゴミ箱に捨てた付箋の文字を思い出した。その忠告が諒を沼から遠ざけるためのものだったのは間違いない。
黒斑ができた手のひらをスマホで撮影し、諒はそれを友弥に送った。メッセージを打ち終わる前に着信があり、「そのシミ、いつできたの?」と友弥の声がした。口調は普段通りだったが、いつにない反応の速さが諒を不安にさせる。
深夜まで話し込んだ翌日、諒は二日間休暇をとり友弥の住む某県某市郊外の一軒家を訪ねた。友弥は玄関先で黒斑を確認すると、諒を車に乗せて市中心地から離れた山林へと連れて行く。
昨夜の電話で友弥が資料の送り主であることは確認済みで、黒斑ができた経緯も説明してあったが、諒にはまだひとつ確認できていないことがあった。
「なあ、友弥。おまえは、その……」
諒は言い淀んだが、友弥は意図を察したようだった。
「諒が知ってる高校時代の木崎友弥ではないよ。友弥の記憶はあるけど、他の人間の記憶もある。友弥の体に入ったのは大学の時。その前は澄田樹という名前だった。澄田樹の出身はM県S町」
「S町って、O町の隣のか?」
「うん、そう。澄田って名前に覚えがない? O町山林所有者の隣の家だよ。あそこが澄田樹の実家」
自分が何に巻き込まれたのか理解が追いつかず諒は言葉を失った。
車はじきに平屋の倉庫の前に停まり、友弥は車を降りるとシャッター脇の通用口の木戸をくぐる。すると目の前にガラス扉があり、彼は虹彩認証でそれを開けた。
照明が点灯し内部の様子が露わになると、諒は思わず「マジか」と声を漏らした。無機質な通路の両側は一部がガラス張りで内部の様子が見られるようになっているが、ここが最新機器を揃えた研究施設であることは疑いようがなかった。通路を行くうち、諒はガラス窓の奥に〝観察する眼差し〟を持つ動物の姿を見つけた。
「友弥、あの動物は元に戻らないのか?」
「黒斑が消えたら戻ることはないよ」
じゃあ自分はどうなのかという質問は諒の喉元に留まった。聞いてしまえば自分が絶望に飲まれることはわかっていたからだ。
友弥は突き当りの扉を再び虹彩認証で開け、諒を中に招き入れた。棚に並んだガラスケースには諒が採取し損ねた黒い粘液まみれのミミズ。状態はケースごとに異なり、順を追って見ていくと徐々にミミズは粘液と一体化し、最終的には黒いナメクジのようなものになっていた。
壁には極秘資料の最終ページにあったのと同じ顕微鏡写真がパネルに入れて掛けてあった。生物というより星雲を写したような写真。
「これを見て。綺麗だろう?」
友弥がパソコンを立ち上げて見せたのは、その〝星雲〟が心臓のように脈打ち、ゆっくりと移動する様。ディスプレイに映し出された〝星雲〟はヒトの眼球のようでもあり、その目に観察されているような気がして諒は顔をそむけた。
「諒。動物実験では黒斑部を切断すればブラックグーが排出されることが確認されてる。人間で試したことはないけど、友弥は黒斑ができて間もないから右手を切断すれば人格の消滅を防ぐことはできると思う」
「切れって? そんなことしたら仕事が……」
「右手がなくなるか人格がなくなるか、どっちかだよ。他の方法では寄生回避は成功していない。ところで諒、臭いは気にならない?」
友弥に問われ、かすかに泥の腐った臭いがするのに気づいた。しかし、今の諒はその臭いに蠱惑的な、淫靡なものを感じる。
「臭いはするけど鼻がおかしくなったみたいだ」
「魅力的に感じるんだろう? ブラックグーを宿した人間はみんなそうなる。おれもそうだ。そして異界の使徒に操られることになる」
「異界? 使徒?」
「使徒というのは祠の土地の所有者だよ。1955年に沼ができた時に祠にいた少年が異界の者の宿主となり使徒になった。ブラックグーを宿した動物はみんな使徒を求め、この臭いのように彼にも惹かれる。そして彼の言葉に従うことを欲する。だから、おれは沼からも使徒からも離れたこの場所を拠点にした。その影響を受けないように」
「……友弥の記憶があるからか?」
「自分でもよくわからない。ただ、澄田樹の本来の人格は自分が消えることを恐れていた。澄田樹に入ったおれは、元の人格が使徒から逃れたがっていると知っていたから、使徒の目を誤魔化すため自殺してこの体に入った。木崎友弥は大学時代のおれの友達だ」
自分のことを「木崎友弥」と呼び、他人のように口にする友弥の姿は、諒の目には奇異なものに映った。
――友弥の前に澄田樹だった彼は、その前は誰に寄生していた? 元をたどればあの黒い沼にたどり着くのだろうか?
諒の頭には次々と疑問が湧き上がったが、それを口にすることはなかった。友弥は部屋の隅にある金庫を開け、一冊の古びたノートを手に戻って来る。
「これは、おれが澄田樹の体に入る前に、澄田樹本人が長年かけて記録したものだ」
渡されたノートの表紙には拙い文字で『調査報告書』と書かれていた。それは、小学生の時から高校三年でブラックグーに体を乗っ取られるまで隣人を観察し続けた澄田樹による日記のような記録だった。
記録によると、隣人の飯塚康夫とその飼い犬は〝観察する眼差し〟を持っていたようだ。飯塚の祖父母や過去のペットもその目をしており、近隣住民が気味悪がっていたと書かれている。樹は長年の観察から黒斑と人格変化の関係にも気づいており、ここまで詳細に書かれると〝観察する眼差し〟はむしろ澄田樹が持っていたのではと思うくらいだったが、日記の様子が高校三年の途中で一変した。
ある夜、樹の勉強部屋の窓に隣家のオウムがぶつかって変死した。樹は屋根に落ちた死骸を撤去しようとしたが、死骸から這い出た黒いものが樹の手に付着して黒いシミになる。シミの意味を知る樹は狂乱して「腕を切って」と両親に懇願し、紐で縛って壊死させようとしたり、カッターで抉ろうとして精神病院に連れて行かれた。文字は乱れ、意味をなさない部分も多々あり、最後のページは平仮名ばかりで次のように書き殴られている。
『いつか死んで呪いのバトンをわたすとき、きみがぼくとして生きた日々も受けつがれるなら、このノートも次のだれかに届けてほしい。もし人ではなくイヌやネコだったとしても、いつか人に戻ったときには、このノートを、ぼくの調さほう告書を書きつづけてくれ。
やつが見てる。
カーテンをあけて、ぼくが消えるのをまっている。ぼくが自分のいいなりになるとおもっているのだ。ばかめ! ぼくはおまえのいいなりにはならない!
きみは自由だ!
きみはぼくだ!
いやだ! いやだいやだ!!!
消えたくないきええたくない!!! ぼくはぼくだぼくだぼくだ!』
読み終えたあと呆然とページを眺める諒の肩に、友弥が励ますように手を置いた。
「諒、おれはブラックグーだ。友人の君がおれの仲間になるのはやぶさかではないけど、人間が人格の消滅を恐れるのは知ってるから君に選んでほしい。右手か、人格か。
ただし、飯塚は泥の品質改良を続けているから、これまで通り一週間の猶予があるかどうかわからないよ」
諒はディスプレイ上のそれに目をやった。眼球のような星雲は、蠱惑的な臭いと違って諒の不安を掻き立てる。諒は縋るように一冊のノートを胸に抱いた。
「……消えたくない。おれは、おれだ」
諒はその日施設に留まり、翌日訪れた覆面の医師によって右手を切断された。そして、切り落とした自分の手から黒いものが這い出たのをその目でハッキリと見た。
その後、S工業会社には事故で右手を失ったと連絡を入れて退職した。再就職先は黄色い熊がロゴマークの『Flavo Urso Publishing』。友弥が勤めている出版社だが、実際はブラックグーの研究調査機関だ。敷地が国有地であることから、政府が何らかの形で関与していることは間違いない。
離婚に始まり寄生生物との遭遇に終わった井上諒の二〇一四年。翌二〇一五年の春先、黄色い熊の描かれた扉を開けて出社した諒は、今日も複数の〝観察する眼差し〟に晒されていた。
「そろそろ見飽きませんか?」
向かいのデスクからは「全然」と言う返事と不躾な視線。その隣の〝人間〟の同僚は目もくれず「じきに慣れるわよ」とヒラヒラと手を振った。
諒はこの光景が以前生きていたあの世界と同じ地平に存在することが未だに信じられなかったが、失った右手が戻って来ることはない。その手から排出されたブラックグーは現在研究所のオウムに寄生しているが、友弥の話によると、オウムの口癖は「マジか」だそうだ。
二〇一四
※イラストはMicrosoftCopilotで作成