凡将 / 福内鬼外 作

福内鬼外 作

慶長五年八月二十四日、三万八千の軍勢が宇都宮を発った。信州に入り東山道を経て、美濃赤坂を目指す。総大将は徳川中納言秀忠である。譜代の武将が、若い総大将を支えていた。
 この頃、徳川内府は江戸にいた。福島正則や黒田長政らの外様の猛将を先遣させて、時を移さず、東海道を上方に向かう手筈となっている。
大久保忠隣(ただちか)は、三河以来の徳川譜代の重臣、大久保忠世(ただよ)の嫡男として生まれた。四十歳を過ぎた頃に、家康から秀忠の付家老(つけがろう)を命ぜられ、七年になる。最も近いところで、この若者を見ているのだが、今に至っても茫洋としてつかみきれないところがある。人は、覇気がないとか、暗愚ではなかろうかと噂するのだが、忠隣は若者が生来、身に備わった器の大きさであると思っている。時として、自らの感情や意思を明確にしない主人に困惑することもあるのだが。
 街道は人馬で埋め尽くされた。大河のように流れる大軍団は、戦意がみなぎっていた。「上方の軍勢、撃つべし」を決めた小山軍議の熱が残っているようである。ところが、馬上の総大将だけが重く沈んでいるように忠隣には見える。このたびの戦は、若者の初陣である。初陣となれば、心も勇み立ち、興奮が身から溢れ出るような風情が見られるものだが、彼の主人は、常と同じ様子である。石像のような体躯を、馬上に揺らせている。
 秀忠は、天正七年の七夕の日に、徳川家康の三男として生まれた。この年を、家康は終生、忘れることができなかった。家康と築山殿(つきやまどの)の間に生まれたのが、長子の岡崎三郎信康である。彼は、家中の期待を一身に背負っていた。また、その期待に十分に応える凛々しい若武者に成長した。長篠の戦いで初陣を飾ったのは十七の歳。その後も武名をとどろかせた。その剛勇と武略に驚嘆した織田信長は、「信」の(いみな)と娘の徳姫を与えたのである。
信長のもとに密告があった。信康は宿敵である武田と密かに通じている、というのである。信康の側近を詰問した上で、信長は「徳川の手で、信康を処断せよ」と命じた。徳川家中では「織田とは手切れすべし」の声がわき起こった。家康はその声をおさえ、信康を二俣城に押し込めた。そして、我が嫡男に切腹を命じたのである。これが天正七年のことであった。この時の二俣城主は大久保忠世であった。忠世は、信康の最期の言葉を聞き、服部半蔵が介錯をつとめるその場に立ち会ったのである。忠隣は父から、信康についての多くを聞くことはなかった。父は時おり、思い出したように面影の断片を語るばかりであった。
 家中の者は、秀忠を岡崎三郎の生まれ代わりと考えていた。少年は常に、非業の死を遂げた若武者の姿と重ね合わせて見られていた。そんな家中の空気が、少年にはどれほど重苦しく感じられたことだろう。岡崎三郎の名が出るたびに、少年の神経は引きちぎられるほどの緊張を覚えたことであろう。だから、忠隣は信康のことを話題にしたことはない。その名を口にしたこともなかった。
 世にいう徳川四天王とは、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の四人を指す。このうち、酒井はすでに没している。榊原は秀忠の軍に加わり、本多と井伊は家康の本隊にいる。酒井忠次の子の家次、本多忠勝の子の忠政は、秀忠に従っている。家康は、譜代の重臣の後継者を秀忠軍に配している。さらに、徳川内府の知恵袋といわれた本多正信を付けているところに、周到さがみてとれる。
 九月二日、小諸に着いた。まずは、順調な行軍である。東海道をのぼる家康の本隊とは、九月十日に美濃赤坂で合流の手筈となっている。
 小諸城で軍議が開かれた。軍議は家老職の忠隣が取り仕切った。
「宇都宮を出立して八日の間、我らに手向かう者もなく、小諸に至りました。この地から三里の西、上田城をいかがいたしましょうや。真田昌幸は兵糧、弾薬を城内に運び入れ、籠城の気配ありと、物見が申しております」
 しばらくの沈黙の後、本多忠政がためらうような素振りで口を開いた。
「我が三万八千の軍勢には、いかに昌幸といえども鉄砲を撃ちかけるような真似はいたしますまい。上田城などはかまうことなく、西へ進むべきと存ずる」
 本多忠政は二十七歳になる若武者である。その姉の小松姫は、真田昌幸の嫡男、信幸に嫁している。義兄である真田信幸とは昵懇の間である。忠政としては、できれば真田とことをかまえたくはない。
「しかし」榊原康政の声である。「真田昌幸は、表裏比興の者である。彼に背を見せて歩を進めるのは心許ない」
 忠隣は言った。
「昌幸は、このたびの上杉攻めでは我らに与しておきながら、治部少輔(じぶのしようゆう)からの誘いに応じて勝手に小山から陣払いをいたしました。上田に帰り、今日まで籠城の備えを進めております。その上田城の前を素通りするのはいかがなものか。信州の諸将には、我が軍勢の威を示すべきと存じますが、いかにおぼし召すか」
 父と別れ、徳川方に与した真田信幸は、この軍議の末席に座している。信幸は「真田昌幸」の名前が出るたびに、皆の視線が自分に集まり、身を刺されるような痛みを感じていた。
 忠政が、思案の末という様子で話し始めた。
「それでは昌幸に、上田の城門を開けさせることとすればいかがか。城を奪えば、我が軍勢の威も示せましょう。老獪な昌幸といえども、城を失えば抗う術もございますまい」
 列席者は、上田なんぞの小城に関わりたくはないと思っている。功名の大戦は、遙か西にある。無用な戦闘が避けられるなら、それでよい。開城勧告の使者として、本多忠政と真田信幸が遣わされることと決まり、両人はただちに小諸城を発った。
 上田城から東へ一里、千曲川に神川が合流するところに、信濃国分寺がある。会談はそこでおこなわれた。
 国分寺の一室が会見の場である。本多忠政と真田信幸は先に到着して座に着いた。そこに昌幸があらわれた。二人は、その姿に息をのんだ。昌幸は頭を丸めて、にわか坊主になっていたのである。上田の城を明け渡すべし、の勧告を聞いた坊主は、愉快そうに話した。
「私は中納言様に弓引く心は毛頭ございません。上田の城門を開いて、お指図に従う所存でございます。まずは、この旨を上田の者どもに伝え、城内の隅々まで掃き清めた上で、中納言様にお渡しいたします。しばらくの猶予をいただきたい」
「城、明け渡しの刻限はいかがか」忠政が尋ねた。
「さよう、明日の夕刻までには中納言様をお迎えできると存じます」
使者たちの遠慮がちな視線を感じた昌幸は、頭を撫でながら言った。
「これは、二心なき証でございますよ。御使者には、なにとぞ私どもの恭順の意を、皆様方にお伝えください」
 二人は昌幸に丁重に見送られて国分寺を出た。まるで狐狸にたぶらかされたような気分であった。信幸はつぶやいた。「我が父とはいえ、あの方は恐ろしい人だ」
 小諸城では使者の報告を聞き、昌幸の真意を吟味した。相手は天下第一のくせ者である。何を仕掛けてくるとも知れない。忠隣は、周辺に諜者を放った。
 約束の刻限である三日の夕刻になっても、上田城の大手門は開かなかった。昌幸は使者を遣わして言うのである。
「城内の兵糧、武器、弾薬はすべて、中納言様に献上つかまつります。そのための段取りに手間取っております。今、しばらくお待ちください」
夜が明ける。九月四日の朝、本多忠政と真田信幸は手勢を引き連れて、上田城の大手門前に馬を並べた。忠政は城内に向けて言い放った。
「約束の刻限はとうに過ぎておる。あれやこれやの言い訳は聞かぬ。ただちに、城門を開けい」
大手門の櫓に、甲冑姿の昌幸があらわれた。
「使者殿、お待たせしたな。おかげで、籠城の備えも済んだ。いつ、攻め寄せられても苦しからず。中納言殿には、このたびが初陣と聞く。初手の敵に干矛交えることなく後ろを見せるとは、人の聞こえも悪かろう。あれが内府殿の嫡男か、と天下の笑いものとなる御所存か。この口上、きっと若殿にお伝え召されよ」
忠政から、この言葉が伝えられた。不愉快な報告である。忠隣は思った。名にし負う古狸めが、嫌なことを言うものだ。昌幸は、こちらの柔らかな脇腹を突いてきた。
忠政は言葉をつづけた。「昌幸が籠城の構えならば、それでよし。敵の出撃に備えて、三千の兵を布陣させておけばよい。本隊は西に向かうべし」
それが兵法の常套であろう、と大方の者は思った。軍議の大勢が決した、その時である。総大将が諸将を見据えて言った。
「昌幸は、我らを敵とすると公言したのである。敵を目の前にして、戦場から逃げ出すような真似ができようか。榊原式部大輔、上様はそのような戦の仕方をなされたか。たとえ武田信玄であろうとも、挑みかかられたのが上様ではなかったか。天下が、我らを見ているのである。武辺にもとる真似はできぬ」
 忠政が言う。「我らの真の敵は、石田が率いる上方勢であります。上田城の昌幸などのことは、大事の前の小事に過ぎませぬ」
「小事ではない。我らに弓引く者には、いかなる仕置きをするかを天下に示すのである。これがために、上様はわしに采配を授けられたのである。昌幸に愚弄されて、一戦も交えず兵を引かば、諸大名の侮りを受けるものと心得よ」
 初めて見る決然とした若殿の姿に、一同は唖然となった。ただ一騎にても城に突っ込む勢いの若殿に、上田城攻めを押し切られてしまった。
 忠隣は手配りをせねばならぬ。これは難儀なことだ。戦う気のない諸将に攻撃を命ずるのは至難のことである。城攻めは、秀忠と忠隣の手勢が主軸となろう。それに、死にものぐるいで戦わねばならない真田信幸が率いる八百余の兵を使おうと思った。
 忠隣には気になることがあった。本多老人の発言がないのである。上様の影である本多正信が一言発すれば、それで決する。しかし、老人は何の意向も示さなかった。
 若い頃の本多正信は、鷹匠として家康のそばに勤めていた。ところが、三河で一向一揆が起こると、一揆方について家康と争った。家康が一揆勢を押さえ込むと、正信は三河を出奔し、全国を流浪した。三河に流れてきた彼を拾い上げて、家康への仕官を世話したのが大久保忠世であった。家康が権謀の限りを尽くして、乱世を渡ってきたのは、最も近いところに侍したこの老人の知恵に負うところが大きい。であるから徳川家中の者は、上様の意を含んでいるこの老人を恐れていた。
 千曲川がつくった河岸段丘に鍬を入れ、田畑を拓いたのが信州上田である。東から西へ階段状に平坦地が広がり、千曲川がその最底部を流れる。上田城は、千曲川の一段上の台地に築かれていた。段丘による崖と千曲川が、南面の防衛線となっている。城の東、北、西の三面には壕と石垣、長塀をめぐらせている。隅に櫓はあるが、天守はない。戦うためだけに築かれた城である。城から一里の北方には、さらに一段高くなった段丘が広がっている。染谷台である。その北には虚空蔵山(こくぞうやま)東太郎山(ひがしたろうやま)が連なっている。
上田城攻撃の本陣は、城を見下ろす染谷台に置くこととした。その前に片づけておかなければならないことがある。東太郎山の尾根には真田の出城、戸石城があった。これを落とさなければ、本陣を背後から突かれ、攪乱される。初戦となる戸石城攻略の成否は、戦の流れを決める。この一撃で、寄せ手の圧倒的な力を真田方に見せつけなければならない。
 真田信幸に戸石城の攻撃が命ぜられた。東太郎山の地形を熟知している真田の兵が最適である。また、配下の武将で最も勇猛に戦うのは真田信幸であろう。少しでも兵を引けば内応を疑われる信幸は、死力を尽くして前に進む以外に道はない。戸石城には弟の真田信繁が、兵二百と籠もっている。東太郎山は、幼い信幸と信繁の遊び場であったことも、忠隣は諜者から聞いていた。
 九月五日。夜明けとともに、真田信幸が率いる八百余の兵が、東太郎山を攻め上る。尾根に連なる城壁には六文銭の旗がひらめいている。しかし、城からは矢、鉄砲が放たれない。信幸の兵が城門を破り、喚声とともになだれ込んだ。城内は森閑としている。空であった。昨夜のうちに信繁は城を捨て、山を下りて、上田城に入っていたのである。まずは、戸石城を手に入れた。幸先よし、と言って良いものか。真田の者は薄気味悪い、と忠隣は思った。
 秀忠配下の兵を中心とした軍勢、約二万が小諸城を発った。戸石城を押さえて、背後を固めた上で、染谷台に陣を敷いた。
 九月六日の朝、総大将は出撃を号令した。万余の兵が上田城を囲い込んだ。諜者の報告では、籠城の備えは万端に整い、兵糧は十分に蓄えられている。力攻めするよりほかはない。城に籠もる兵は二千。その内、数百は百姓を集めたもので、戦闘に耐えうる兵は千数百ほどであろう。敵の将兵を城外に誘い出し、一気に揉み潰す。そのため、城外に広がる田に、兵を入れた。間もなく収穫をむかえる稲を、上田の者の目の前で次々と刈り取らせた。堪りかねて大手門が開かれた。騎馬、数十騎があらわれた。一団の先頭を駆けるのは真田昌幸、その後を信繁が随っている。包囲の大軍は呆気にとられた。功名、恩賞が約束された首が、目の前を駆けているのである。昌幸、信繁の首級を挙げんと、騎馬団に襲いかかる。大手門の前の隘地に、軍勢が殺到する。騎馬団は鉄砲を撃ちかけつつ、引いていく。さらに、城門から矢、鉄砲が放たれて、功に焦る大軍の出鼻を挫く。騎馬団は間合いを計っては、進退を繰り返した。
 忠隣が配した城攻めの陣立ては、いびつに崩れていた。忠隣の頭には、危険を告げる早鐘が鳴っていた。敵は何かをたくらんでいるのだ。はめられたのではないのか。陣の備えを立て直さなければならない。しかし、奔流のように動き始めた大波を止めることはできない。
 虚空蔵山の麓から、一点が現れた。見る間に一団の騎馬隊となって、突っ込んできた。大手門前に群がる大軍の背後を、疾風のように駆け抜ける。目指すは秀忠の本陣である。総大将を守るべき旗本は、十騎余りを数えるばかりである。忠隣は昌幸の魂胆を知った。狙うのは秀忠の首級、一つである。秀忠は馬首を回らし、一散に逃げた。旗本がこれを守る。真田の騎馬隊が追う。忠隣は、手勢を率いて刺客に追いすがろうとするが、引き離されるばかりである。騎馬隊は、獲物との間をじりじりと詰めていく。狩りをする狼を見るようである。忠隣は総身が粟立った。
 はるか行く手に、土煙が見える。それは、遅れて小諸城を出た一万数千の軍勢であった。上田城攻撃には気の進まない武将たちが、ようやく神川を渡って来たのである。秀忠の一命は、彼らに救われた。一殺の命を受けた騎馬隊は、瞬く間に霧散した。
 城門の前では、昌幸が率いる騎馬団は大軍の攻撃を引き受けつつ、いなしていた。それが、大軍を嘲るように大手門の内に消えた。忠隣は、引き鉦を打つように命じた。寄せ手の大軍は、ようやく狂騒から醒めた。そして、ゆっくりと本陣に戻っていった。それは、潮の引くような様であった。

 九月七日となった。全軍が染谷台(そめやだい)に結集した。秀忠の本陣に、武将が集められた。上田城攻略の方策を決定しなければならない。軍議に列する者どもは、上田城攻めには冷ややかである。余計なことには関わりたくはない、という空気が満ちている。とりとめもなく時間が流れた末に、ようやく口を開いたのは本多忠政であった。
「東海道を進む本隊とは、九月十日に美濃赤坂で落ち合う手筈と聞き及んでおります。上田城攻めはこれまでのこととして、すみやかに西に向かうべきと存ずるが、如何か」
 多くの者が頷き、大方の意志がそこにあることが感じられた。一同は、榊原康政の様子をうかがっていた。歴戦の猛将の一言を、皆は求めていた。しかし、康政は押し黙ったままである。沈黙を吹っ切るように、忠隣が言った。
「上様の江戸出府は遅れております。九月一日に発たれた、と聞いております。今頃は浜松の辺りではなかろうかと存ずる。さらに、行く手を流れる木曽川、長良川を渡らねばなりませぬ。また、難攻の岐阜の城を攻め落とさなければ先には進めませぬ。本隊が美濃赤坂に到着するには、まだ二十日やそこらはかかるでありましょう」
一座の中に真田信幸もいた。端の方に、消え入るような姿である。味方をかくも苦境に陥らせたのは、彼の父の仕業である。
親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのは、戦国乱世の習いで、致し方のないことである。勝敗は時の運。しかし、勝負の機会は一度だけではない。生き残るためには、先途の時に備えて、あらかじめ手段を講じておく。昌幸と信繁は石田方に与しながら、信幸は徳川に付ける。これで、真田は次の機会を確保した。真田昌幸は冷徹である。その冷徹さがなければ、乱世を生き残れない。しかし、彼のような父をもった子は苦しいものだと忠隣は思うのである。
 徳川の軍勢が上田城を囲んだのは、今回が初めてではない。十五年前のことである。この時、真田昌幸は徳川の傘下にあった。ところが、家康は北条と同盟を結ぶため、真田が知行する沼田領を北条に譲り渡すことを約した。沼田領を譲渡せよとの家康の命を昌幸は拒絶する。ただちに、普請を終えたばかりの上田城に、兵二千と籠もった。これを徳川の軍勢八千が包囲した。昌幸は奇策を繰り出して、四倍の包囲軍を翻弄した。二十日余の攻防の末、徳川勢は千三百の死傷者を出しただけで、得るものもなく撤退した。徳川の戦歴に残る汚点のような、忌まわしい天正の上田合戦であった。榊原康政は、その時の思いが蘇ったのであろう。今ここで上田城の包囲を解いて西進すれば、またも昌幸にあしらわれて敗北した事実が残る。それは受け入れがたいとの思いが榊原にはあったのであろう。
 九月八日をもって上田城総攻撃と定めた。包囲の布陣を指図された武将は、それぞれに本陣を出て行った。
 忠隣は前線に立って、上田城を眺めた。城とも呼べない、ひと揉みすれば握り潰せるほどの砦である。このような小城が、大軍の攻撃を幾度も撥ね返すとは信じられない。あの城は徳川と戦うために築かれたようなものだと、忠隣は思った。十五年前には父も、このようにあの城を眺めていたのだろうか。天正の上田合戦の指揮を執ったのは、大久保忠世であった。
 翌朝である。上田城を囲んだ陣営から、寄せ太鼓が響いた。三万余の軍勢が、ひたひたと城を包み込んだ。大手門が開き、真田の騎馬隊があらわれる。寄せ手の一隊が、これを追った。騎馬隊は頃合いを測って鉄砲、矢を放っては、門の内に消えた。これを追撃する寄せ手が城門に取りつくと、守兵は櫓から鉄砲、矢を降り注いだ。城の西北東の三面で、同様の攻防が幾度も繰り返された。包囲軍は鉄砲玉を打ち込み、矢を射込むばかりで、渾身の一槌を加えることができない。攻撃側は腰が引けているのである。こんなところで無駄死なぞできるか、という内心が見て取れる。さらには、虚空蔵山や東太郎山、神川のあたりから、不意に狼煙があがる。真田の伏兵が、背後からこちらの隙を窺っているようで、なんとも薄気味が悪い。一迅の旋風のように、騎馬団が本陣を急襲するのではないかとの不安をあおり立てた。そんな攻め手の心底を、表裏比興の老将は見透かしているのだ。
 忠隣は焦っていた。速やかに、攻城戦の決着をつけなければならない。しかし、一撃で上田城を落とすことなどはできない。撤退のための形をつけなければならないのだが、その算段がつかない。時間ばかりが消耗していく。
 日が西に傾きはじめた頃、榊原康政からの伝令が来た。
「ここは一旦、小諸城に入るべきである。矢玉の費えが甚だしく、補給の要あり。また、日が没して野陣を張れば、彼が夜襲を仕掛けてくることは必定である」と、榊原は言うのである。忠隣は諸隊に伝令を出した。染谷台まで軍勢を引かせて、夜襲に備えさせた。そして、秀忠の本隊を小諸城に入れた。
 九月九日の朝である。東海道を進む家康からの使者が、小諸城に着いた。使者は次のように家康の言葉を伝えた。
「本隊は手筈の通り、九月十日には美濃赤坂に到着の予定である。上田城などにかまうことなく、直ちに出立せよ。急ぎに急ぎ、東山道を駆け通して軍勢を美濃まで率いるべし」
 血の気の失せた総大将は、使者に尋ねた。
「上様は、どのあたりまで進まれたのか」
「今頃は尾張に入られて、熱田に着かれたことと存じます」
忠隣は、臓腑を握り絞られるような後悔を感じていた。大局を見誤った。天下の形勢は大きく動いていた。我らばかりが、時流に取り残されてしまっていた。ここに至っては、なんとしても三万八千の軍団を、時流に戻さなければならない。それが彼の責務である。
忠隣は、美濃まで八十里の強行軍の手当を考えた。まずは街道沿いの百姓に命じて、宿場で飯と水を供させる。さらには街道の要所に篝火を焚かせる。これで昼夜を分かたず、美濃まで駆け抜けることができる。これらの手配のために旗本を早馬で発した。
 九月十日の早朝、秀忠の本隊は小諸城を発った。染谷台を通り過ぎる。上田の砦を左に遠望する。上田平を抜けるまでは、ゆっくりと進む。真田のにわか坊主には、こちらの思惑を悟られないように心配りしなければならない。昌幸は、どのような妨害の手をうってくるとも知れない。上田城の囲みは残した。真田が追撃に打って出るのに備えて、後詰めとして残す。本隊が善光寺平に入る頃に、足の遅い荷駄隊とともに、殿にして西進させることとした。
 秀忠の本隊は上田平を抜けると、後は駆けた。息の続くまで、力の限りに駆け続けた。五日もあれば美濃赤坂に到着する心づもりである。ところが、雨に苦しめられた。泥濘に足を取られた。川が増水したために、渡河地を探して廻らなければならなかった。
 九月十三日、秀忠は諏訪に着いた。まだ行程の三分の一を過ぎたばかりである。一息つく間もない。さらに強行軍は続く。
 九月十六日、馬籠に到着する。十七日の早朝、あわただしく軍議が開かれた。その知らせをもたらしたのは本多正信である。彼の子、本多正純(まさずみ)は家康の側近として本隊にいた。正純からの至急の手紙には、次のことが記されていた。
「九月十五日、美濃の国 関ヶ原に於いて、大戦あり。お味方、石田治部少輔が率いる上方軍を破る……」
 その後には、能吏の筆で戦の様子が描かれているのだが、皆にはそれを気にとめる気力も失せていた。天下分け目の戦は終わってしまった。三万八千の大軍は、天下に身を置くところを失い、無用のものとなってしまったのである。重く澱んだ空気のなかで、声を発する者はいない。無為に時間ばかりが過ぎていく。我らは何をなすべきか。方針を早急に決して、ただちに行動しなければならない。この軍議を仕切るのは忠隣の役目である。忠隣が声を発しようとした刹那である。
「上様に、お目にかからねばならぬ」と声が響いた。誰か。一同は声の主をさがした。それが総大将の言葉であることを知るのに、しばらくの間があった。
 本多老人が口を開いた。
「それが上策と心得る。ここに至れば、我らが軽々しく裁量すべきではない。上様のお指図に従うほかに道はないと存ずる」
 榊原康政が続いた。
「わしも、上様に拝謁することが、今一番の肝要のことと存ずる。ことは急ぐ。若殿は単騎なりとも駆けに駆けさせて、一刻も早く上様のもとへ参られるように」
足下の大地が崩れ落ちる心地がして、身の震えが止まらぬ面々であったが、今、やるべきことは決まった。
本多老人が言った。「これからが、われらの戦でございますぞ」
 忠隣は家康のもとへ急行する部隊の手配をした。秀忠には、自らと榊原康政が従うこととした。それに旗本が警護に付き従う。これが一団となって、東山道を駆け抜けるのである。三万余の本隊は、本多忠政が上方まで率いることとした。
 関ヶ原でのお味方大勝利の報とともに、次のような噂も伝えられた。合戦の日の早朝である。桃配山に着陣された上様は、ただちに諸将の手配を指図された。大方の布陣が終わったところで、大きなため息とともに言われた。
「この年になって、このような大戦をせねばならぬとは、難儀なことである。せめて倅が生きておれば、少しは楽ができたものを」
そばの従者が尋ねた。「上様には若殿がおられるではありませぬか」
「あれのことではない。信康のことを言っておるのだ」
この話は、あの御方の耳にも届いたであろうか、と忠隣は思った。若者の心情を慮ると、なんとも痛ましく思われるのである。
 出発の間際に、本多正信が忠隣を訪ねてきた。
「わしも、若殿の一行に加わりたい。老体のために足手まといになるやも知れぬが、上様には若殿のことを、とくとお話し申そう」
正信の突然の申し出に戸惑いを感じた。しかし、知恵袋の口添えは頼もしいものに思えたので、忠隣は礼を述べた。
 秀忠一行は、馬籠を発つと、駆けに駆ける。脱落する旗本は捨て置いた。替え馬を乗り潰しながら、日に二十里、西に向けて駆け通した。
 九月二十日、家康は大津城に入った。遅れて、泥人形のような秀忠一行が大津に到着した。彼らは、眼ばかりをぎらぎらと光らせた亡者の姿であった。近づくのもはばかられるほどに、その一団は鬼気迫るものがあった。
 忠隣らは旅装を解くのももどかしく、大津城にのぼり、拝謁を願い出た。側近は上様の言葉として、次のように伝えた。
「明日、装束を改めて大津城にのぼるべし。大久保相模守と榊原式部大輔は、大広間にて拝謁を許す。中納言は登城に及ばず」
 忠隣は本多正信を介して、正純から上様の心中を探った。正純は言う。
「この件につきまして、上様は大変に御不興であります。周りの者が何ぞ申し上げることも許されぬほど、厳しいご様子でございます。中納言様には、当分お目通りはかなわぬものと存じます。暫くは謹慎をされて、上様のお心がほぐれるのを待つよりほかに術はないと心得ます」
 大久保の一族の者からも、上様の様子を聞き集めた。いずれも、その怒りの激しさを伝えるものばかりである。中には「中納言様の廃嫡を口にされた」という話も出てきた。
 翌日である。大津城の大広間には、関ヶ原の凱旋の猛将が居並んでいた。忠隣と榊原康政は、そのただ中にいた。忠隣は、遅参の釈明をするために声を発した。それを遮って、徳川内府の脇に控える本多正純が言った。
「信州上田でのこと、そのほか委細承知しております。改めての説明は無用でございます。上方勢との大戦に、一翼を担うべき四万の兵を遅参させた罪は軽からず。中納言様の拝謁も許されませぬ。これが、内府様の思し召しであります。即刻、立ち返り、中納言様にお伝え召されよ」
「なれど、今一度、我らの言葉をお聞きくだされ」
「無用である」。上段から内府の声がした。怒気を含んだ声である。
「福島左衛門大夫殿、黒田甲斐守殿ら、あまた外様の方々が、泥にまみれ、命をかけて戦っていたとき、あの者は一体何をやっておったのか。中納言に伝えよ。我が面前に出るを許さぬ。己が所行の愚かさを、よく悟るべし」
 それは、一切の抗弁を許さぬ宣言であった。一座の者は同情と哀れみの眼で、二人を眺めていた。惨めさに押しつぶされそうである。そこには、もはや身を置く場がなかった。
 秀忠は大津の街はずれにある寺に身を寄せていた。忠隣は会見の有様を、希望的な予断と励ましの言葉を交ぜながら語った。若殿の反応は鈍かった。いつもの石像のような様子である。
 忠隣は、心に小さなしこりを感じていた。若殿を説き伏せても、上田城攻撃を翻意させるべきではなかったか。しかし、自分にはできぬ、と思った。若殿のそばに長くいてしまった。神の如き深慮をもった一世の英雄を父に、衆望を一身に集めながら早世した若武者を兄にもつ若者の心情を知りすぎていた。「上田城は捨て置いて、西に進むべし」とは、自らの無能と怯懦を天下に公言するに等しい。「わしにはできぬ」と、忠隣は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。
 忠隣には、やるべきことがあった。一族の者、知己を頼り、あらゆる方途を尽くして、上様の勘気を解かねばならない。本多正信、榊原康政も、それぞれに動いているようである。
 徳川家中の者どもの間を奔走するうちに、あわただしく一日が過ぎた。日没の頃である。大津の城から、使いが来た。夜半に、忠隣一人で登城せよとの上様の命であった。忠隣は忌まわしい思いが心によぎった。若殿の廃嫡、配流、そして自裁である。思慮深い上様がそこまでのことは、とも思う。そんな疑念を胸に押し込めて、大津の城門をくぐった。
 寝所近くまで通されたことに、忠隣は訝しく思った。上様は何を告げる御所存なのか。忠隣は、一切の責めを負うても、若殿を守らねばならないと思った。一身に代えても、若殿の赦免を訴えるつもりである。
 廊下に人の動く気配がした。忠隣は平伏した。障子が開く。その人が入ってきた。一層、深く頭を沈めた。
「忠隣よ」
「上様。上田のこと、誠に申し訳なく、お詫びの言葉もございません。なれど」。一気に言い放った。
「なれど、それは我ら譜代の者どもが、若殿をお助けいたすべきことであって、若殿には」
「よいのだ。承知しておる」
「我らの力が及ばぬところのもので、若殿への御勘気を何卒」
「もうよい。康政も、よう働く。うるさくてかなわぬ。もう、よいのだ」
 忠隣は思った。「もうよい」とはいかなる意味か。本多老人や榊原の働きかけが功を奏したのだろうか。それならばよい。さらに、最も気にかけていることを問うた。
「若殿への御処分は、どのように思し召しますか」
「二十四日には、大津を発って伏見に向かう。伏見で待つと、若殿には伝えよ」
 緊張がほぐれ、総身から力が抜けるようであった。心定まらぬままに退室し、城の外に出ていた。

 家康の寝所である。灯りが一本ともるだけの薄暗い部屋に、二つの影があった。言葉を発することもなく、二人は向き合っていた。大きな影が言った。
「先ほどまで、忠隣がそこに居た。今しがた、下城したという」
 忠隣は夜中であっても、彼のところへ行くだろうと思った。
「康政からも赦免の願いが出ておる。譜代の者どもも、気づいてはおらぬようだ。それでよい」
 誰に話しているのだろうか、と家康は思った。目の前の影は息づいている気配もない。
「お前には、済まぬことをした。せっかくの初陣であったものを」
 影は凝結して、岩のように見えた。
「わしを恨むか」
「上様の思し召しに、露ほどの誤りはないと存じます」
 風が流れると、影が揺らめいた。二人が動くのは、その時ばかりであった。
 家康は、若者にかける言葉が見つからなかった。若者に重い荷を背負わせてしまったのである。後世の者どもは、わけ知り顔に、彼の凡庸、無能ぶりをあげつらうことであろう。そのような徳川秀忠になることを命じたのは、父であった。
「上様。岡崎三郎とは、どのような人でありましたか」
 若者から、初めて生身の人の声を聞く思いがした。三郎が一期としたのも、目の前の秀忠と同じ年ごろであったな。三郎なら、このような役回りは絶対に受けないであろう。この若者は、すべてを承知した上で、宇都宮を発ったのか。とすれば、三郎を越える大器なのかも知れぬ。いや、わしは、この若者のことを何も知ってはおらぬのだ。
 そしてまた、長い沈黙。
 父は息子を、ねぎらうように声をかけた。
「それで、よいのだ」
 風が流れ、二つの影が大きく揺れた。

凡将 / 福内鬼外 作

凡将 / 福内鬼外 作

【八つ裂きにして、喰らう。】手紙が届いた。 永劫を生きる英雄からの手紙。 あいつからの、最後の手紙。 【御伽話リメイク:桃太郎&浦島太郎】

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-12-11

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