追悼!プー子の逆襲
届かなかった手紙
届かなかった手紙
平成10年。半年の入院生活を終えた佐久間浩介(35歳)は、明日、桜ヶ丘精神病院を退院する。埼玉から熊本へ転勤して、統合失調症を再発し、この病院に入院となった。短いスポーツ刈りとたくましい体つきの彼は、一見病人には見えない。病院内のサロンで、最後のコーヒーを美咲留美(27歳)と共に注文する。留美の瞼には、屋上に上がる階段で交わした彼女にとって初めてのキスの記憶が残っている。彼女は浩介を止めようとはしなかった。
「私はこの病院から退院することはないの」
浩介はその言葉を察してか、次の言葉を添えることはなかった。留美は涙を小さな手で拭った。
「浩介さん、いや、佐久間浩介さんの夢をもう一度聞かせて」
浩介は自信満々の笑みを浮かべて語り出した。
「東京に帰ったら、昔の親友で、東京理科大学を卒業して今はインターネットを使った仕事を模索している友達とビジネスをやろうかと考えているんだ。俺もパソコンは得意だからさ」
すると、留美は尋ねた。
「画家になるのはやめたの?」
「絵の才能はないから諦めた。たくさんお金を稼いで、ピカソの絵でも落札しようかな」
「もうひとつ聞かせて。どうして統合失調症になったの?」
「大都会に呑まれたのかもな」
留美は東京がどこにあるのかよくわからないが、日本の大都市であることは理解できた。
「留美はパープリンだからね」
「そこが留美ちゃんの魅力だよ」
「いつか、俺、留美ちゃんを迎えに来るかもね」
留美は満面の笑みを浮かべて、
「きっとよ。忘れたら承知しないからね」
熊本県の小さな町にある桜ヶ丘精神病院。佐久間浩介は半年の入院生活を終え、退院の日を迎えた。朝、起きると美咲留美のベッドの棚に大きなリボンで包まれた箱が置いてある。留美の目は、昨晩眠れずに泣いたせいで真っ赤だった。箱には「佐久間浩介から留美ちゃんへ」と書かれており、中には彼女の好きなクイーンのCDが入っていた。そして一枚の添え書きがあった。
「俺は東京に行く。退院したら遊びにおいで。留美ちゃんが作った皮の財布、ありがとう」
留美が添え書きを眺めていると、看護師の佐藤さんがやって来た。留美は佐藤さんと大の仲良しだ。それに対して、新見キネコ看護師(50歳)は最悪の看護師だ。食後に精神薬の服用を拒否すると、
「飲まなければ保護室にぶち込むよ」
と言ってくる。留美は保護室が怖かった。何人もの患者が首を吊り亡くなっている三畳の部屋で、便器がひとつあり、壁には血の跡がこびりついている。悪臭が漂うその部屋での生活は、女性にとってこの世の地獄のような場所だった。留美は生活保護の申請が7年目にしてやっと認可された。父親が拒否し続けたため時間がかかっていた。留美は15時のおやつの時間が嫌いだった。お金がないため、他の患者たちが食べているお菓子を羨ましそうに横目で見るしかなかった。佐藤さんが何度も親戚に頼み込んだおかげで生活保護が認められたが、7年間の入院費を返済しなければならなかった。留美は浩介との半年間が嘘のように思えた。友達は次々と亡くなっていった。彼女は退院を望んでいたが、それには父親の存在が必要だった。留美は外出のたびに父親を探した。そしてある日、看護師がいない時間を狙ってタオルを繋ぎ、二階の詰所の窓から脱出した。運よく通りかかったタクシーを止めて、自宅に戻った。
家賃二万円の木造アパート。美鈴の部屋は二階にある。その隣の部屋の表札を見て、留美は驚いた。「美咲正一」。それはお父さんの名前だった。扉を叩くと、出てきたのはお父さんだった。彼は留美を見捨てたわけではなかった。ただ別の女性の元に走ったのだ。中に入ると、愛人と思われる女性が、お茶を入れてくれた。
「病院から出してほしい」と言うと、お父さんは一つ返事で承諾した。
留美は入院してから7年間、行方不明だったお父さんを外出のたびに探し歩いていた。留美に奇跡が起こり、その執念が実を結んだ。その後、お父さんの手配で、病院に隣接するグループホームに移り住むことになった。この日から10年という歳月が経った。平成20年、留美はグループホームから抜け出すことなく、もう37歳になっていた。社会的入院は17年目に入る。
「男子病棟に新入りが来たよ。若い子?」
「中年よ」
金田徹、50歳。留美が挨拶すると、年齢に似合わない若々しい声で「おはよう」と返した。留美はお父さんに似た感じを受け、嬉しくなった。
「留美さんはもう長く入院してるのかい?」
「もう17年です」
「金田さんは?」
「発病したのは20歳の頃で、幾度も入退院を繰り返して、この歳になったよ」
「仕事は?」
「事務。一筋さ」
「かっこいい」
留美の言葉に、徹は照れくさそうに笑った。
「奥さんは?」
「5年前に病気で亡くなった」
「がん?」
「そんなところかな」
「どうしてまた入院してきたの?再発?」
「人生にくたびれて、精神科に任意入院。3ヶ月くらいのんびりしようかとね」
「留美さん、手首がひどく震えてるね」
「精神薬の副作用よ。先生に言っても上の空。精神科なんていい加減な世界よ」
「精神科医なんて信用しちゃいかん」
「昨日も知り合いがやっと退院できたのに、翌日に橋の上から飛び降りて自殺したわ」
徹が留美の手首を掴んで震えを止めようとしたが、留美の腕は逆らうように震え続けていた。
「精神病院は頭がいい者が勝ちさ。留美さんも病気の知識を磨かないといかん。今、1番やりたいことはあるかい?」
留美は満面の笑みを浮かべた。
「グループホームからの脱出。ホームなんて寝るだけの場所で、生活するのは精神病院と変わらないわ」
そこへ、佐藤看護師がやってきた。
「留美さん」と声をかけてくる。
「事務所を掃除していたら、留美さん宛てのハガキが出てきたの」
「ハガキ?どこにあったの?」
「先日退職した新見キネコの机の引き出しよ」
それは佐久間浩介が退院した年に、美咲留美宛てに届いていた年賀状だった。住所は東京都のマンションになっている。しかし、このハガキが届いてからもう10年の歳月が流れていた。
小さな希望
小さな希望
精神病院にはケースワーカーという役割がある。留美は桜ヶ丘精神病院のケースワーカーのもとへ訪れた。
「私、グループホームから出たい。街に出て、アパートを借りて普通に生活したいの」
しかし、ワーカーは話をはぐらかすだけだった。挙句の果てに、ワーカーの言葉が留美を傷つけた。
「グループホームは天国でしょ? ここを出て一人で生活するなら、死が待ってるだけよ」
グループホームでの生活は天国なのだろうか。朝から晩まで職員に監視され、友達がホームに遊びに来ることも、部屋に入ることも禁じられている。ましてや異性との関係は禁句だ。留美はお父さんを探し出したり、生活保護を受けたり、一応「退院」という名目を達成した。次は、外の世界で普通の暮らしをしたいと考えていた。しかし、高田精神科医はもうこの世には存在しない。彼は自らも統合失調症であり、自殺してしまった。留美は新しい主治医である女性の寺本医師に相談したが、「ワーカーさんに相談しなさい」と言われるばかりだった。グループホームには5人の住人がいる。奇声を上げる人、テレビの音量を大きくする人、しばしば救急車で運ばれる人…。留美はこの環境に耐えられなくなっていた。父親との話し合いが必要となり、父は嫌々ながらも病院に連れて来られた。個室で、ワーカー、看護師、精神科医を交えて懇談が行われた。留美は涙が止まらなかった。父は「留美をよろしくお願いします」と言い残し、去って行った。その後、ワーカーの今井がやってきて言った。
「あんまりしつこく言ってると、また病院にぶち込むわよ」
その頃、金田徹と出会ってから3か月が経とうとしていた。徹は老いた両親のいる市内の実家に帰るつもりだと言う。留美はグループホームからの外出や外泊が禁じられており、保護者がいない彼女には自由はなかった。ある日、留美は徹に言った。
「徹さん、私と結婚したら、グループホームから出られるよ」
徹は驚いて言った。
「結婚は無理だよ」
「形だけよ。口実にするの。それで私は出られるの。協力して」
留美はその場で徹の手を握り、ケースワーカーの事務所に向かった。出てきたのは今井だった。
「あら、結婚するの?勝手にどうぞ。でも、病院も私たちも何の協力もしないけどね」
これが精神医療の現実である。精神医療に携わる人々は親身になって協力することは稀であり、白黒をつける判断もしない。留美はそんな精神医療に感謝していたが、これから困難が待っていることを理解していた。2人は市役所に行き、福祉課を訪ねた。グループホームからの移転には正当な理由が必要であり、役所がその判断を下すという。留美は咄嗟にこう言った。
「私には幼い頃に別れたお母さんが熊本市内にいるんです」
実際、留美はお母さんの居場所を知らなかった。しかし5年前に出会った足立啓介(55歳)と連絡を取り、母親の住民票を調べてもらうことにした。啓介の調べで、母親は長崎市に移転していることがわかった。啓介は留美を連れて、長崎の市役所へ向かった。留美は思った。「もし母が自分を引き取ってくれていたら、私の人生は違っていたのかもしれない」。だが、パチンコに狂い、女に走る父親を恨んではいなかった。長崎に着き、団地のドアを開けると、30年ぶりに再会した母の姿があった。留美には妹が3人、そして孫までいた。留美は母に会えたことが嬉しかったが、帰りの車の中で涙が止まらなかった。啓介に感謝しながらも、複雑な思いを抱えていた。その後、金田徹が亡くなり、そして啓介との関係も複雑なものになっていった。啓介は留美から金を借り、消費者金融の存在を理解していなかった留美は、後にその厳しい現実を知ることになる。しかし、最終的には啓介が障害年金から返済することで、一件落着した。
留美が振り向くと、そこに立っていたのは拓哉だった。
「どうしたの?」
「再発してしまったんだ」
留美は、また拓哉に会えるなんて想像もしていなかった。拓哉は、まだ手の震えが止まらず、その震える手を見て大声で笑った。
「その震え、止まらないの?」
「拓哉さん、やめてよ」
実は留美は、拓哉には心を開いている。彼に対して性的な関心もあったが、それを口にすることはなかった。今日は診察のために来たらしい。
「倒れたの? 再発したの?」
「いや、職場で過労で倒れそうになったけど、ギリギリで入院はしなかったんだ」
「留美ちゃん、退職手続きのためにまた東京に行くんだ。またゆっくり話そう」
「うん、絶対だよ」
その時、少し離れた場所にいる足立啓介の姿が目に入った。留美を見ながら何かをブツブツと唱えている。
「留美ちゃん、あの人は知り合いかい?」
「ちんちん野郎だよ」
拓哉が笑いながら言った。
「そういえば、相変わらず病院で中絶する人が多いのか?」
「病院にはプレイボーイな男が多いからね。賑やかでまるでお祭りだよ」
シャバ
シャバ
拓哉ももう45歳になっていた。実家では愛車のマークIIの助手席に、母のチヨ(60歳)が乗っている。これから埼玉まで高速道路を使っての旅だ。退職した埼玉にある会社への最後の訪問である。母親との2人旅はこれで3度目になる。1度目は20歳の頃、東京で統合失調症を発症し、田舎に戻る際に東京見物をした時。そして2度目は、名古屋の岡崎市で再発した後、名古屋から大阪まで父が運転するトヨタカリーナでのドライブ旅行だった。今回の再発のきっかけは、2年前の失恋だった。会社の女性に告白したが、あっさり振られ、その後遺症に悩まされ続けた。その2年後、とうとう精神的に限界が来た。年末年始の休みということで、2週間前に有給休暇を取り、1ヶ月間田舎で休養したが、そのまま自己都合で退職した。理由は統合失調症の再発である。埼玉に戻った拓哉は、その日退職願を課長に提出し、翌日から「ドタキャン」して仕事を放棄した。マークIIは広島の宮島を通過する。宮島にまつわる思い出が頭をよぎる。会社の上司と広島出張の帰り、高速道路での出来事だ。突然、上司が「今、宮島の鳥居の上から人がふわっと出てきただろう。あれは神様だ」と言い出した。その後、熊本に帰るまで上司は車の中で意味不明なことを話し続けた。表面的には異常には見えなかったが、この人も統合失調症の一種なのかと思った。実は、こういった人たちは世の中に多くいて、精神科と縁のある人はほんの一握りなのかもしれない、と感じた。部長と出かけた時、この宮島を通過中に仕事のことで口喧嘩になり、「お前、降りろ」と高速道路を走行中に怒鳴られたことがあった。埼玉に着き、その足で会社へ向かう。同僚や上司に察せられることもなく、挨拶をすることもなく、無事に退職手続きを終えた。帰りは観光をして岡山で一泊し、熊本に戻った。十分に休養を取ったおかげで体調は良く、元気だった。車の運転にも支障はなく、統合失調症の症状が出現すると働ける状態ではなくなる。頭の中はまるで異次元の世界にいるかのようで、現実の世界がわからなくなる。しかし、この時点ではまだ精神障害者の認定を受けていなかった。発病から23年の月日が経っていた。1ヶ月が過ぎ、診察のために桜ヶ丘精神病院へやって来た。外来で順番を待っていると、駆け足で留美が拓哉の前に現れた。
「東京でインターネットビジネスやるんじゃなかったの?」と彼女が尋ねる。
拓哉は苦笑いしながら答える。
「人生には波乱も苦難もある。予定通りにはいかないさ。」
すると、留美が突然切り出した。
「シャバで生活したい。もうこんな生活は限界。結婚して。」
だが、拓哉は首を横に振った。今は仕事もしていないし、貯金もない。結婚なんてできるわけがない。それでも、留美をグループホームから救いたいという気持ちはあった。
「お母さんを探したの?」
「じゃあ、そこに行けば?」
「場所を忘れた。」留美は方向音痴で、17年もの社会的入院をしていた。それも納得できる。
「お父さんは?」
「音信不通。どこにいるのやら。」
もう頼れるのは拓哉しかいないようだ。
「ワーカーさんには、亡くなった金田徹さんと結婚するって言ってあるの。そしたら、返事は『勝手にしなさい』だって。」
浩介は福祉関係者が何のためにいるのかと思ったが、それ以上は考えなかった。
「市役所には誰と結婚するなんて言ってない。この街を出るのは自由だって」
「出てどうやって生活するの?」
「生活保護で」
二人はとにかく熊本市の市役所へ相談に行くことにした。
「生活保護の申請はできますよ。ただし、熊本市の住民で、現在住んでいる必要があります」
と、担当者が説明する。咄嗟に閃き、留美を連れて熊本市内にある不動産屋に電話をしたが、移転していない状態では話にならなかった。車を走らせていると、一軒の不動産屋の看板が目に入った。
「ごめんください」
出てきたのは、頭が禿げた60歳過ぎの初老風の男性だった。事情を説明すると、
「生活保護は問題ありません。障害があっても大丈夫です。ただし、熊本市で生活保護を受けていないと収入の保証がないので、まずは役所で手続きをしてください。ちなみに、どのような障害ですか?」
と聞かれた。すると、留美は咄嗟に
「内臓の障害です」
と答えた。不動産屋の人はそれ以上は詮索してこなかった。精神障害者だと言ったら話にならないことは、十分に察していたからだ。市役所に戻ると、今度は
「現在、熊本市にアパートがあり住んでいないと契約できませんし、生活保護の申請もできません」
と告げられた。どうにか次の手を考え、不動産屋に戻る。
「生活保護は出ます。だから契約してください」
すると、不動産屋の人は
「わかりました。いいでしょう」
と応じてくれた。生活保護から出る敷金・礼金は後払いで了承してもらい、めでたく留美の熊本市への転入が決まった。狭い世界しか知らなかった留美が、ついに憧れの熊本市内に住むことになり、引っ越しの準備が始まった。といっても、軽自動車に詰められる荷物だけだった。桜ヶ丘精神病院。ここで暮らす人たちは、病院の中で友達ができ、病院内で恋愛をしたり、年に数回の熊本市内への買い物や旅行に行くこともあった。病院からの仕事といえば、病院内の喫茶店や、洗濯物の管理など。地球は大きな宇宙の中の小さな存在であり、それから見れば私たちは素粒子の世界で生きているようなものだ。病院の職員たちは、引っ越しの手伝いをしようとはしなかった。心の中では、どうせまた精神病院に戻るだろうと思っているのかもしれない。精神医療で働く人たちは、精神障害者がいるからこそ生活が成り立っている。精神障害者のために働く義務があるのだ。もし精神障害者がストライキを起こしたら、職員たちの生活が脅かされ、ローンも払えず、食べる物もなくなるだろう。いつの頃からか、精神病院では患者を「様」で呼ぶようになった。精神科医なんてほとんどがヤブ医者だ。1分もしない診察で精神薬を調合し、服用させる。お前は神様かと言いたくなるが、そんなことを口にすれば、即座に入院だの隔離室だのと言われてしまう。
「お前らは、患者あっての職員だぞ」
留美は精神薬に侵され、副作用が重なって体はボロボロだ。精神病院もこの田舎町から、市内の近代的な病院に移転することが決まった。
「ラーメンが食べたい」
留美はラーメンが大好きである。病院のラーメンの味しかしらないが、寿司も素人が作ったものである。留美は車に乗り込み、桜ヶ丘精神病院に「さよなら」と手を振った。新しく通院する立山精神病院は、まだ立て直しをしたばかりで、きれいな建物だった。浩介は、これまで五つの精神病院を渡り歩いた中で、設備がピカイチであると感じた。建物の良し悪しは精神病院のランクに比例するようにも思う。やはり、それなりにお金がかかっている病院には優秀な精神科医が多いものである。最近は、やたらと2年おきに病院をまるで会社の転勤のように渡り歩かせるのが方針と聞いたこともあるが、患者にとってはたまったものではない。精神科医あっての精神病院が理想であるが、現実は患者あっての精神病院である。留美も最近は調子がいいようで、浩介は留美をショッピングモールに連れ出した。大きなショッピングモールに行くのは留美にとって生まれて初めてで、ワクワクしていた。映画が好きで、いつもテレビで映画を見ている留美は、この日をきっかけに自分で熊本駅から電車に乗ってショッピングモールで映画を観に行くようになる。しかし、方向音痴は相変わらずで、身体に紐でも付けておかないと浩介は不安で仕方がなかった。ちょっと車からトイレに行くと、出かけたまま二時間は帰ってこない。広いモールで迷子になっているのだ。偶然見つけたから良かったものの、留美は繁華街の下通や上通にも自分で行けるようになり、またアパートにも自力で帰れるようになった。毎日のように電話で呼ばれ、実家から車で一時間を往復する日々だ。病院ではワーカーさんや市の民生委員さんが週に一度訪れる。留美は阿蘇の高森や大観峰と、あちこちに出掛けた。当然、拓哉と一緒だが、こんな日々が3ヶ月も続いた。安定した留美を見ていると、励まされて自分も仕事を探そうかと身を引き締める。そんな日々が半年ほど続いた。ある日、留美の様子が何かおかしい。シャバに慣れてきたのか、時折自分の要求が拒否されると、かんしゃくを起こすようになる。元来気性の激しい性格が時々顔を出す傾向がある。その日、車の中で結婚の話題になった。
「もしも、子供ができたらどうする?」という留美の問いに、拓哉は「こんな身体だから中絶だろ」と答えた。すると、留美の顔の表情が見る見るうちに化け物のように変わっていく。突然、車の中で喚き始め、アクセサリーを叩き引きちぎった。そして、ついに買ったばかりの車のナビをめちゃくちゃに壊した。この時、拓哉は心の中で思った。「じっと耐えないと、俺が怒ると留美は再び精神病院にぶち込まれる。それだけは阻止しなければ」。二時間は罵声が飛び交ったやがて、留美はおとなしくなり、「ごめんね、中絶とか言うものだから、子供の命は大切だからね」と言った。この日を境に、留美は時折機嫌が悪くなることがしばしば続いた。
そして一年が過ぎようとしていた。
消息を断つ
留美ちゃんは、バスを乗り継いで40分の病院まで一人で行けるようになる。街中で複雑な迷路のような道を進みながら、大好きなパチンコ屋さんにも一人で行く。しかし、留美ちゃんには話せる友達は一人しかいない。元来、人見知りが強く、自分から話しかけることは滅多にない。2度目の春を迎えようとしている深夜に突然、携帯のベルが鳴り響く。画面を見ると留美からである。受話器を取ると、いきなりせわしい声が聞こえてきた。
「留美、臭い」
意味不明の言葉に動揺した。返事は「臭い」ばかりで、通話が途切れる。翌日、アパートを尋ねると、留美は一人でいた。存在を確認するとチャイムの音が鳴る。ドアを開けると大家が立っていた。
「昨日、深夜に隣の部屋をノックしたそうで、気味が悪いという通報でやってきました」と大家が言葉を続けた。「もしかして精神障害のある方ですか?」
すると、後ろにいた留美は奥の方に隠れる。突然の言葉に「いいえ」と答えたが、幸いそれ以上の言葉は大家から返ってこなかった。ホッと胸をなでおろす。ドアを閉め、昨日の出来事を留美に問い詰めると、
「警察が来て、留美のお金10万円を奪っていった」と言う。留美の様子がおかしいのに気づくが、それ以上は追求せず、アパートを後にする。3日が経ち、電話もないので一件落着かなと思ったのがいけなかった。翌日、留美のアパートを訪れると、鍵がかかって留守である。「パチンコでも行ったかな」と思い帰ることにした。しかし心配になり、翌日もアパートを尋ねるが、やはり鍵がかかって留守である。1週間訪れるが、留守のままだった。嫌な予感が脳裏をかすめる。
「亡くなったのかな」と浩介は諦めて帰り、自分の中で留美がこの世にいないのかもしれないと思った。留美の安否を心配するのは、警察に届けるという行為は頭に描けず、そのまま放置してしまった。帰りにパチンコ屋に行くと大勝ちした。天国から留美がプレゼントしてくれたのかな、と思い、その場を後にした。1ヶ月後、またアパートを訪れるが、鍵がかかり留守である。一年後に留美から電話が鳴った。「精神病院にぶち込まれていました。これからも、よろしくね。」
ここまで読んでくれてありがとうございます
追悼!プー子の逆襲
11月25日
龍太郎:「瑠美さん、見たよ。昨日。」
瑠美:「私が亡くなった翌日ね。」
龍太郎:「その温泉施設、友達と二人で行ったんだ。なんか、薄暗くて、妙な空気が漂っててさ。髭を生やした仙人みたいな店員がいたんだけど、チケット2枚分ちゃんと買ったのに、『あと一枚足りない』って言うんだよ。」
瑠美:「それ、私の分だったのよ。」
龍太郎:「え?…チケット三人分?」
瑠美:「瑠美も一緒に来たの。」
龍太郎:「本当に来てたんだ…。湯船に浸かってたんだよね。20分くらいした時かな、2メートルくらい先に、ぼんやり見えたんだ。あの姿、あの髪型。あれ、瑠美ちゃんだったよ。湯船に浸かりに来たんだよな。身体の色も鮮明で、夢とか幻とか、そんな感じじゃなかった。」
瑠美:「私、ちゃんとチケット払いましたから。」
龍太郎:「あの店員さん、見えてたらしいよ。瑠美ちゃんのこと。」
瑠美:「そうなんだ。でも、その話を精神科医にしたら、どう言うかしら?」
龍太郎:「きっと『それは幻覚です』とか、そんなこと言うんじゃない?」
瑠美:「あの精神科医、スピリチュアルな話は完全否定派だからね。…今度、その精神科医の家にもお邪魔してみようかな?」
龍太郎はふと、目の前にいる瑠美が幽霊であることを忘れそうになった。いや、忘れたいのかもしれない。温泉で見た彼女の姿は、確かに生きていた頃のままだった。透けているわけでもなく、ぼんやりしているわけでもなく、本当にそこに存在しているかのような、温もりさえ感じそうなほどにリアルだった。
でも、彼女はもうこの世の人間ではない。幽霊となって自分の前に現れる瑠美。その存在は、現実と非現実の境界線を曖昧にしながら、龍太郎の心に複雑な感情を芽生えさせた。嬉しいような、切ないような、そして、どこか恐ろしいような――。
「今度は精神科医の家か…。それ、どうなるんだろうな。」
龍太郎は小さく笑ったが、瑠美の冗談じみた言葉が、どこか本気のように聞こえた。幽霊になった瑠美は、死んだ後も彼の人生に波紋を広げ続けていた。