プラスとマイナスな関係の彼女

プラスとマイナスな関係の彼女

プラスとマイナスな関係の彼女

出逢い

「四方寄町。これ読んで」
そう言いながら、真子が私に渡した紙を指さした。
「しかたよりまち……?」
自信のない私の答えに、真子は笑顔を見せた。そしてもう一つ指さし、こう言った。
「じゃあ、これも。九品寺」
「くもんじ……?」
それを聞くと、真子の白い肌がほんのり赤くなった。その様子に気づいた私は、思わず聞き返した。
「難しいね。これ、何かの宿題?」
「そう。宿題。ついでに『本能寺の変』も調べてきて」
そう言われ、私はどこか使命感を覚えた。
「任せて。でも、平家の壇ノ浦の話なら得意だよ。祖父母が天草の隠れキリシタンだったって知ってた?」
これが私と真子の最初の出逢いだった。彼女は進学校を卒業し、国立大学に進学したものの中退したと聞いた。一方、私は工業高校の化学科卒業。学問の深さや人生経験では真子に遠く及ばない。彼女との会話の中で、自分の無学さを痛感することも多かった。例えば、卒業後の実習について彼女に聞いたときのこと。
「卒業実習って何やるの?」
「実験とか……じゃない?」
「いや、俺の学校では甘露飴を作ったんだよ」
「甘露飴? それって何?」
「昭和時代の飴玉だよ」
そんな答えに真子が呆れるのを見て、私は苦笑いするしかなかった。甘露飴なんかで化学工場に勤められるわけがないと自分でも思っていたし、案の定、三ヶ月で退職する羽目になった。真子はいつもどこかそっけなく、私はそんな態度に戸惑いながらも彼女を想うようになっていった。LINEでたわいのない相談を送る日々が始まり、彼女も週に2日はデイケアに顔を出すようになった。しかし、顔を合わせても交わすのは表面的な会話ばかり。誘うべき勇気もない自分に苛立ちながら、日記に彼女との出来事を書き留め、小説風に書き直すことだけが心の支えだった。ところが、それは次第に私自身を追い詰める行動へと変わっていった。真子のことを考えすぎて、思考がぐるぐると回り始める。やがて、それは統合失調症の再発という形で現れた。しかし、これは妄想ではないと自分に言い聞かせた。ただの恋の病だと。そして、そんな私の葛藤を知る由もなく、真子はLINEに既読すらつけなくなり、デイケアにも現れなくなった。それでも私は毎朝、彼女の働く会社の前を通り、駐車場に停めてある彼女の愛車を見つめる日々を続けた。忘れようとしても忘れられない。それは偶然なのか、運命なのか。その頃から、スピリチュアルな世界や「潜在意識」という言葉に引き寄せられていく自分がいた。
ある日、デイケアの駐車場でタバコを吸う女性たちを見かけた。その中に真子の共通の友人がいたことに気づき、私は思い切って近づいた。
「タバコ、吸うんですか?」
そう声をかけると、思いがけず会話が弾んだ。その会話の中で、真子の近況が話題に上った。それをきっかけに、私は自分の感情を少しずつ整理し始めた。そして小説を書くことが心の拠り所になっていった。私にとって、真子との出逢いは運命の相手との邂逅だったのかもしれない。過去に出逢った女性たちと同じように、彼女もまた、物語の中で生き続ける存在になるのだろうと感じていた。私の小説のモチーフには、いつも彼女の面影が潜んでいる。それがどんなに儚く、消えそうな影でも。

繋がり

ドキッとするような言葉を、友達が私に投げかけた。
「ねえ、小説に私を実名で書いたでしょ?」
その一言に、私は心の中で動揺したが、表には出さなかった。しかし、それ以上に衝撃を受けたのは、その後のことだった。真子が、私のLINEのトーク画面には既読をつけないまま、タイムラインを見ていることを知った瞬間だ。その行動に、私は胸の奥が締めつけられるような気持ちになった。思い切って、LINEのタイムラインに「明日の朝、会える?」とメッセージを送ってみたが、それはさらに波紋を広げることになった。別の友人から、こんなことを言われたのだ。
「真子ちゃん誘ったんでしょ? 真子ちゃん、慌ててたよ」
私はその言葉にすっかり混乱し、再会を約束しようと送ったメッセージをすぐに削除してしまった。なぜそんなにも躊躇してしまうのか、自分でもわからなかった。ここ1年半、真子のカラオケや食事の誘いを断ってばかりだった。距離を縮めるチャンスを何度も見送っていたのだ。自分の気持ちを理解しようとしても、答えは出てこない。ただ、心の中では何かが燃え上がっているのを感じていた。ある日、夢に真子がリアルに現れた。明晰夢というのだろうか。夢の中で彼女がネクタイを直したり、空港で「待って!」と走り寄ってくる姿が、あまりに鮮明だった。二度寝の早朝、5時頃に見るその夢は、スピリチュアルな世界でいう「魂の繋がり」を表しているのかもしれない。そう思わざるを得ないほど、それは現実味を帯びていた。そして、現実世界でも大きな出来事が起こる。半年間、音信不通だった真子から突然メッセージが届いた。
「スマホを見てたら操作を間違えて、あなたのトーク画面に既読をつけちゃったの」
その偶然の一言に、私は思わず食事に誘うメッセージを送った。しかし、その日は返信が来なかった。次の日、病院の駐車場で真子の愛車を見かけた。いてもたってもいられず、私はその場を離れたが、途中で引き返し病院に戻った。外来に行くと、彼女の姿は見えなかったが、ロビーを通り過ぎるショートカットの女性が目に留まった。それが真子だと気づいた瞬間、不思議なことに心がスッと落ち着いた。次の日、さらに驚きの出来事が起こる。受付で聞こえた彼女の明るい声。その直後、目の前を真子が走り抜けていった。声をかけられなかった自分に歯がゆさを感じながらも、その夜、奇跡のようなメッセージが届いたのだ。
「いつも返さないけど、返事書いてます。話を聞くためにご飯に行ってもいいけど、1人じゃ嫌だな」
そして、次の日にはこう続いた。
「昨日はバドミントンに行ってたから返信できませんでした。ごめんなさい。いっぱいお話ししましょう」
そのメッセージに、私は胸が熱くなった。真子が自分に心を開いてくれる瞬間を感じ、彼女への感謝を形にしたいと思った。ティファニーのプレゼントを考えたが、彼女は笑いながら「そんな高価なものいらないですよ」と言った。それは、まるで私の懐事情を見透かしているかのようだった。翌日、私は再び真子を食事に誘った。これまでの迷いや躊躇を振り払うかのように、彼女と向き合う勇気が湧いてきたのだ。

真子「いつ行くんですか?」
突然の電話に戸惑いながらも、「明日」と答えた。
すると真子が、「明日は用事があります」と返す。
私は仕方なく、「また電話します」と言って電話を切った。ニュースでは、未知のウイルスが猛威を振るい始めたと報じている。そんな時、真子からメールが届いた。
真子「友達が、ウイルスが鎮火するまで待ったほうがいいと言ってます。」
私は強引に押し進めることはせず、真子の意見に同意した。だが、その後の1週間、真子への連絡を控えた。いや、正確には控えざるを得なかった。その後も彼女は電話に出ることはなく、LINEのメッセージにも既読がつかない。ここでまた、私は強引に行動を起こさなかった。会うことが叶わなくても、彼女の友達に私の気持ちを伝えることもできる。だが、そんな策さえ思いつかなかった。そして、あの日から1ヶ月が過ぎた今、私はもがき始める。心の中で、「何かができたはずだ」と責め続ける。ネガティブな考えがまた別のネガティブな行動を引き起こし、出口の見えない迷路に迷い込む。一方、真子は私が行動を起こさないことに戸惑いを覚えていた。顔を合わせていた頃の私は、普通に会話もできるし、コミュニケーションを楽しめる人間だった。しかし、LINEでは一方的に言葉を送るだけ。彼女には私の振る舞いが理解できなかったのだろう。そんな中、真子がふと鏡の前で自分の顔を見つめる場面を想像する。額には少し深まったシワが見え、私に年齢を5歳も下に見られていることを思い出し、苦笑いしているかもしれない。私は真子には最低な自分しか見せていない。それは15年前に私が倒れた時も同じだった。当時、真子が神経症を患ったと人づてに聞いたことがある。彼女の髪は、私が一度見たときには滑らかで柔らかそうだったが、病の影響なのか、白髪が混じっていたことを覚えている。この15年間、私は陰性症状のようなものと格闘しながら、それでも仕事に挑み続けた。だが、正社員の座を失い、今やただの落ちこぼれ。そんな私が真子と再び出会ったことで、少しずつ自分の内面が変化していった。同じ道を歩まないと心に誓い、私は作家を目指すことにした。そして二度目の挑戦。バレンタインデーに発表される文学賞を待ちわびていた。結果はおそらく落選だと分かっている。だが、その間も、真子の症状は悪化しているようだった。彼女の強迫性の動作は止まらず、このままでは自立することなど到底無理だろうと思えた。一方で、私自身の妄想も悪化の一途をたどっていた。そんな時、私はふと「潜在意識」という本を手に取った。そしてその隣に「ソウルメイトのあなたへ」というタイトルの本が目に入る。初めて耳にする言葉だったが、なぜか気になり、スマホで検索してみると、関連情報が次々とヒットした。「普通じゃない恋愛」と形容される関係性。読み進めるうちに、普通ではない恋愛にはいくつかのパターンがあることを知った。私は思わず、真子との関係を振り返る。2019年に出会い、2020年には未知のウイルスによる混乱が始まった。この奇妙なタイミングの重なりは、ただの偶然なのだろうか?それとも、目に見えない何かに導かれているのか。これはスピリチュアルと呼ばれる領域なのかもしれない。真子との関係を振り返ると、タイミングやすれ違いが本当に多い。それでも、何か特別なものを感じてしまう。私たちが精神疾患に苦しむのにも、もしかしたら何か意味があるのだろうか。私は統合失調症、真子は神経症。お互いにどこか似たものを抱えながら、それでもどこかで引き合うような感覚を覚える。それでも、年齢差がひっかかる。普通の恋愛とは違うこの関係が何を意味しているのか、私はまだ答えを見つけられないでいる。ただ一つ確かなのは、真子との出会いが私に変化をもたらし、その変化が今も私を動かし続けているということだ。

とって何かを伝えたかった気持ちが、真子の中で再燃しているのではないかと勝手に期待してしまう。鏡を見つめる彼女のその姿が、私の頭の中に鮮明に浮かび上がり、まるでその瞬間を共有しているような錯覚を覚えるのだ。しかし、そんな淡い希望は次第に現実の冷たさに押しつぶされていく。既読のつかないメッセージ、返事のない電話、そして薄れていく記憶の断片。それでも私は彼女を追いかけた。もはや自分が何を望んでいるのかさえ分からない。ただ、真子と交わした些細な言葉や、彼女の笑顔を思い出すたび、もう一度だけでも話したいと思うのだった。
そんなある日、私は仕事帰りに、偶然真子の愛車とすれ違った。その瞬間、抑えきれない衝動に駆られ、車をUターンさせた。彼女の車が向かった先は、街外れのカフェだった。駐車場に車を停め、店内を覗くと、真子が窓際の席で本を読んでいるのが見えた。胸が高鳴り、足がすくむ。だが、ここで逃げてはいけないと自分に言い聞かせ、意を決してカフェのドアを押した。
「真子さん…?」
驚いた表情で顔を上げた彼女は、一瞬戸惑いながらも笑顔を見せた。その笑顔に、ずっと閉ざされていた扉が少し開いたように感じた。
「偶然だね。ここで何してるの?」
「ただの偶然じゃないよ。君に会いに来たんだ。」
その一言に、真子の表情が少し曇ったように見えた。だが、私はその先を続ける勇気がなかった。ただ、彼女の向かいの席に腰を下ろし、静かにコーヒーを頼んだ。短い会話の中で、真子の近況を知ることができた。彼女は最近、家族の問題で忙しくしており、自分の時間を持てないでいたという。そして、私が何度もメッセージを送っていたことについて、少し申し訳なさそうに謝ってくれた。
「ごめんね。返事しなくちゃって思ってたんだけど、なかなかタイミングが合わなくて。」
その言葉に、私はほんの少しだけ救われたような気がした。真子との会話が続く中で、私はこの瞬間を大切にしようと思った。彼女がまた遠くに行ってしまうかもしれないという恐れがあったからだ。
「また会えますか?」
気がつけば、その問いが口をついて出ていた。真子は少し考える素振りを見せた後、微笑みながらこう答えた。
「うん。また今度ね。」
その日、カフェを出るとき、彼女の後ろ姿を見送りながら、私は自分に誓った。彼女と向き合い続ける勇気を持つことを。たとえこの先、何度も拒絶されることがあったとしても。それが、プラスとマイナスな関係を乗り越えるための第一歩になると信じて。

届かない声

「真子が、来なくなったんだよ」
デイケアの共通の友人から聞いたその言葉に、私は頭が真っ白になった。理由を尋ねることもできず、ただうつむいていた。その夜、彼女とのやり取りを思い返しながら、自分の行動がどれだけ彼女を遠ざけてしまったのかを考え始めた。LINEの既読スルーや、届かない言葉。それでも心のどこかで「まだ繋がっている」と思い込んでいた自分に気づく。だが、現実は違う。私の一方的な想いは、彼女にとっては重荷でしかなかったのかもしれない。その夜、夢の中に真子が現れた。夢の中で、彼女は静かな湖のほとりに立ち、私に背を向けていた。声をかけようとするが、声が出ない。ただ遠くから見つめることしかできなかった。目が覚めたとき、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。夢とはいえ、彼女の背中がこんなにも遠く感じたのは初めてだった。
「自分のせいだ」
その言葉が頭の中を巡る。真子がデイケアに来なくなったのも、連絡を返さなくなったのも、すべては私のせいなのだと思った。私の思いは「プラス」のつもりだったが、彼女にとっては「マイナス」だったのではないか。その考えがどんどん膨らみ、自分を追い詰めていった。ある日、意を決して真子の愛車がいつも停まっていた駐車場に向かった。だが、そこに彼女の車はなかった。まるで彼女そのものが、この街からいなくなってしまったかのように感じた。その夜、久しぶりに日記を開いた。書くことは唯一、私が自分を保つための手段だった。
「彼女のいない世界は、こんなにも冷たいものなのか?」
そう書いたとき、突然涙があふれて止まらなくなった。自分の無力さに腹が立ち、どうして彼女をもっと理解しようとしなかったのかと自問した。そんな折、デイケアのスタッフからふいに声をかけられた。
「最近、真子さんが元気ないみたいなんです。何かご存知ですか?」
その言葉にハッとした。私は彼女の気持ちを知るどころか、自分のことばかり考えていたのだ。真子もまた、何かを抱えながら生きている。それなのに私は、彼女の心に触れるどころか、自分の孤独を埋めるために彼女を求めていたのかもしれない。夜、再び彼女のLINEを開いた。けれど、何を書けばいいのか分からない。過去のやり取りを遡りながら、心が重くなる。彼女に言葉を伝える自信も勇気も、もう残っていなかった。代わりに、彼女の幸せを願う短い祈りのようなメッセージを書き、送ることはできなかった。スマホの画面を閉じ、私は窓の外に目をやった。月明かりに照らされた静かな街並みを見ながら、ただ自分の無力さを噛みしめていた。
「もし、もう一度だけ話せたら」
その想いが、胸の奥で何度も何度も反響していた。
翌朝、意外な電話がかかってきた。真子の母親からだった。突然のことで驚きつつも、私は慌てて電話に出た。
「康二さん…真子のことでお話ししたいことがあります」
その声はどこか冷たく、重苦しい沈黙が流れる。彼女は深呼吸をしてから、こう続けた。
「実は真子は先週、入院しました。精神的に不安定になっていて…。あなたの名前を時々出していましたが、詳しいことは話してくれなくて…」
耳を疑った。真子が入院?あの明るい笑顔の彼女が?私は動揺し、言葉が出ない。
「病院にお見舞いに来てほしいと本人は言っています。ただ、会って話すことが、今の彼女にとってプラスになるのかどうか、私たちも判断がつかなくて…」
私は「もちろん行きます」と答えたものの、不安と罪悪感が押し寄せてきた。彼女の心の負担に私が関与しているのではないか、という疑念が頭を離れない。数日後、病院を訪れた。白い壁と消毒液の匂いに包まれたその空間は、彼女の住む世界が私とまったく違う場所にあることを思い知らされた。ナースステーションで名前を告げると、病室に案内された。
部屋のドアを開けると、そこには見慣れた背中があった。窓の外を見つめる彼女は、何か遠い景色を追い求めるように無言だった。
「真子…」
震える声で名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。しかしその顔には、見たことのない冷ややかな表情が浮かんでいた。
「康二さん…どうして来たの?」
予想外の言葉に、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。言葉に詰まりながらも、何とか答えた。
「君に会いたかった。君が辛い時に、少しでも力になれればって思ったんだ…」
すると、真子はかすかに笑い、首を振った。
「康二さんには、分からないよね。私がどんなに怖かったか…どれだけ声をあげても、誰にも届かないって感じることが」
彼女の言葉は刃のように鋭く、私の胸に突き刺さった。何か言い返したかったが、その声もまた届かない。その時、彼女はポケットから小さな紙片を取り出し、私に手渡した。そこには短い文章が書かれていた。
「君に会うと、自分が壊れていく気がする。でも、君に会えないと、自分が消えてしまいそうで怖い」
その言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。私は彼女を支えたいと思っていたが、同時に私の存在そのものが彼女を追い詰めていたのかもしれない。その日、病室を後にした私は、自分が何をすべきなのかを考え続けた。そして一つの結論にたどり着いた。
もう彼女に近づいてはいけない。彼女の心が本当に回復するには、私がそばにいてはいけないのだと。
それから私は、彼女の母親に「二度と連絡をしない」という約束を伝え、真子の回復をただ祈ることにした。しかしその夜、夢の中で再び彼女の背中を見た。湖のほとりで、彼女は振り向きもしない。ただ立ち尽くすその姿が、今まで以上に遠く、そして届かないものに感じられた。目が覚めると、彼女のことを思い出すたびに声が出なくなっている自分に気づいた。まるで、夢の中で彼女に奪われたかのように。

ゼロの空間

夜の静寂が、彼女と僕を包み込んでいた。雨上がりの公園には、湿った土の匂いと微かな草の香りが漂っている。月明かりが、真子の横顔を照らしていた。
「康二さん、本当に来るなんて思わなかった」
彼女の声は冷たいが、その奥には微かな震えがあった。
「真子に会いたかったから」
シンプルな答えだった。だけど、言葉にするのは難しかった。僕は、この関係がどう転ぶのかも分からず、ただ目の前にいる彼女をじっと見つめていた。
「会いたいなんて言わないで」
真子は小さな声でつぶやいた。「そんなの、私には重いだけ」
その言葉に、一瞬息が詰まる。僕の「プラス」の感情が、彼女にとっては「マイナス」なのだと、彼女自身がはっきり言った瞬間だった。それでも僕は、逃げたくなかった。
「重いって思うのは分かるよ。でも、それが俺の気持ちなんだ。消したくても、消せないんだ」
真子は何も言わず、視線を落とした。足元に転がる小石をつま先で蹴るように動かしながら、呟くように言った。
「康二さん、私…本当に疲れちゃったんだ。何もかも。デイケアも、周りの人の言葉も、自分の気持ちも。どれが正しいのかも分からないし、どうして生きてるのかも分からない」
「分からなくてもいいんだよ」
僕は思わず口を挟んだ。「誰だって、分からないまま生きてる。俺だって、何が正しいのかなんて分からない。ただ、こうして君と話してる時間が、俺には意味のあることなんだ」
真子は驚いたように僕を見た。その目には、何か言いたげな言葉が浮かんでいるようだったが、すぐにまた視線を逸らした。
「意味なんてないよ。誰といても、何をしてても、何も変わらないんだよ。だから、康二さんと話してても、きっと何も…」
言いかけた彼女の声が震え、そこで止まった。僕はそっと一歩近づいた。彼女は後ずさりもしなかった。ただ、肩が小刻みに震えている。
「真子、俺も分からないことだらけだよ。でも、君と一緒にいると、不思議と自分がゼロになれる気がするんだ」
「ゼロ?」
「そう、ゼロだよ。プラスもマイナスもない。ただ、何もない場所に戻れる気がするんだ」
僕の言葉に、彼女は少しだけ顔を上げた。
「私も、ゼロになりたい…」
その声は、どこか遠くで響くような静けさを帯びていた。
「じゃあ、一緒にゼロになろう」
僕は手を差し出した。「今は何も考えなくていい。ただ、この瞬間だけ、何もない場所に行こう」
彼女は僕の手を見つめた。その目には、ためらいと戸惑い、そして僅かな希望が入り混じっていた。やがて、彼女の細い指がゆっくりと僕の手に触れた。
その瞬間、何かが変わった。僕たちの間にあった隔たりが、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。彼女の手は冷たかったが、確かにそこにあった。その感触が、僕にとって何よりも現実だった。
「…怖いよ」
真子は小さな声でそう言った。その声は震えていたが、どこか真剣だった。
「怖くても大丈夫だよ。俺も怖い。だから、二人で怖がろう」
彼女はかすかに笑った。ほんの一瞬だったが、その笑顔は、僕にとってどんな言葉よりも力強いものだった。
「ありがとう」
彼女がそう呟いた時、初めて僕は、自分の想いが少しだけ届いたような気がした。
その夜、僕たちは長い時間をかけて、言葉を紡ぎ合った。プラスとマイナス。違う方向を向いていた二つの気持ちが、少しずつ重なり合ってゼロの空間を作り上げていくようだった。真子の痛みも、僕の不安も、すぐには消えない。それでも、手を繋いだこの瞬間だけは、確かに一つになれた。
月明かりが静かに僕たちを照らす中で、僕は彼女の隣に座り、ゼロという名の温もりを感じていた。

夜の公園は、いつもと同じ静けさを保ちながらも、僕たち二人だけの特別な空間に変わっていた。手を繋いだまま、言葉は途切れがちだったが、何かが確かに流れ始めていた。
「康二さん」
真子が小さな声で呼んだ。
「うん?」
「私、ずっと自分の中のマイナスが嫌だった。何をしても埋められない穴みたいで、誰かに助けてもらう資格なんてないって思ってた」
僕は真子の手を少しだけ握り返した。それでも彼女は話を続ける。
「でも、康二さんと話してると、そのマイナスが全部悪いものじゃないのかもって、ちょっとだけ思えた。こうやってゼロになれるなら、それも意味があるのかなって」
彼女の声は弱々しいけれど、そこには確かな意思が宿っていた。
「俺も、プラスばかりじゃないよ。真子が思ってるほど強くも正しくもない。ただ、真子の隣にいたいって気持ちが、俺のゼロなんだ」
その言葉に、彼女は少しだけ微笑んだ。
「それなら…怖がるのも、きっと悪くないよね」
僕は頷き、肩を並べて座った彼女の頭にそっと手を伸ばした。髪の感触は柔らかく、どこか儚さを感じさせるものだった。
「真子、これからも色々あるだろうけど、俺が一緒にいるよ。何かを解決できるわけじゃないけど、ゼロの場所にはいつでも戻れるからさ」
彼女は黙って頷いた。その横顔を月明かりが優しく照らし、まるで過去の痛みや恐れを包み込むようだった。夜が明け、東の空がほんのり明るくなったころ、僕たちはゆっくりと立ち上がった。結局、一晩中語り合い、泣き、笑い、そして静かに過ごした。真子の目には少しだけ疲れが残っていたけれど、どこか穏やかさも漂っていた。
「帰ろうか」
「うん。でも、またゼロになりたくなったら、ここに来てもいい?」
「もちろんだよ。俺もいつでも付き合う」
二人で公園を後にしながら、僕たちは初めて同じ方向を向いて歩き出したような気がした。道はまだ長い。彼女の中のマイナスが消えるわけでも、僕のプラスが完璧になるわけでもない。それでも、一緒に歩けるという事実が、ゼロという奇跡を作り出しているのだと、僕は信じていた。その日から、僕たちは少しずつ「ゼロの空間」を共有する時間を増やしていった。真子は時に涙を見せ、時に笑顔を見せた。僕もまた、自分の弱さや迷いを隠さず、彼女に打ち明けることができた。そして、ある日、真子はそっとこう言った。
「ゼロって、何もないって思ってたけど、本当は何でもある場所なんだね」
その言葉に、僕は大きく頷いた。
「そうだよ。だから、これからも一緒に何でも作っていこう」
プラスとマイナス。それぞれ違う方向を向いていた二つの感情が、ようやく一つの線上に並んだ瞬間だった。真子は僕の手をもう一度しっかりと握り返した。その温もりが、これからも続いていく未来を確かに感じさせてくれた。僕たちはゼロの空間から、何かを生み出すための新たな一歩を踏み出していた。

ここまで読んでくれてありがとうございます

プラスとマイナスな関係の彼女

プラスとマイナスな関係の彼女

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-30

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