ひらめいた曲 61〜65

ひらめいた曲 61〜65

61 放送禁止用語だから

 某サイトのお題『天才エンジニアの苦悩』で思い出した。

 戦後の復興期の貧しい少年は、苦悩しながら高度成長期にエンジニアへと成長した……

 天才かどうかはわからないが、エンジニアで思いつくのはあの歌。

 〜〜
 今じゃ機械の 世の中で
 おまけに僕は エンジニア
 〜〜

 発表後間もなくして歌詞の中に差別用語が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲に指定された事でそれ以降原則として民放では放送されなくなった。
 この制度自体は1988年に効力を失ったが、影響を受け続けることになる。

 1998年に泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが『ニュースJAPAN』で流れたことで久々に民放の電波に乗った。


泉谷しげる&Char よいとまけの唄
https://youtu.be/vu-ntWkRrm4

 
 更に2000年には桑田佳祐が自身の番組でこの曲を歌ったことにより大きな反響を得る。

 この際、テロップで、
「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」
との説明が付されていた が、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。

桑田佳祐 よいとまけの唄
https://youtu.be/zii9zP4QOTw


 一方、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、様々な歌手によるカバーも放送されていた。
 デビュー60年を迎えた2012年には美輪が『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場、本曲をほぼフルコーラスで披露した(楽曲はやや短くアレンジされた)
 発売から半世紀も経っていたが、SNS上でも若年層を中心に大きな反響を呼んだ。

 作詞作曲を開始した切っ掛けは、興行主の手違いで行うことになった筑豊の嘉穂劇場のコンサートである。
 当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、
「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」
と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという。

 初めて発表したのは1964年、リサイタルにて歌唱。
 1965年、NETテレビ『木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ、非常に大きな反響を呼び、異例のアンコール放送となった。同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪が、この歌がきっかけで再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場した美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。(Wikipediaより)


美輪明宏 よいとまけの唄
https://youtu.be/8NK9jtPyQdk

62 朝焼け もうすぐ来る

【お題】 にがい朝焼け
 
 朝焼けといえば、この歌。

 いつかあなたは朝焼けが来る前にいってしまう。

 残された私は、ひとり苦いコーヒーを飲んでいるかしら?

 窓には真っ赤な朝焼けが。
 ふたりでゴルフに行く時、何度も見たわね。

 車の中でかかっていたのは、いつも尾崎紀世彦のデビュー曲の『別れの夜明け』だった。

 空よ、ひとりだけで生きるおまえのため
 青く輝けよ
 愛を込めて唄え
 

 朝よ、ひとりだけで生きるおまえのため
 いつも喜びと
 愛を込めて唄え 

尾崎紀世彦 別れの夜明け
https://youtu.be/F27GbjEeNOI


Subito l'alba spuntera
Io devo andare senza te
Addio,
Addio amore Ti amo amore.
Addio!!

(和訳)
もうすぐ夜明けが来る
私はあなたを残して行かなければならない
さようなら
さようなら愛しいあなた
さようなら

[追悼]尾崎紀世彦さん
投稿日時: 2012年6月3日

 歌手の尾崎紀世彦さんの訃報に大きなショックを受けています。
仕事帰りの車中でのNHKニュースで知りましたが、余りの衝撃で思わず声を上げてしまったほど驚きました。
 実は、私は尾崎紀世彦さんこそ日本人で最も歌のうまい人物ではないかと思い、長年にわたり敬愛・愛聴してきました。
 奇しくもNHKニュースでジャズドラマーの重鎮の方が、「後にも先にも出現しないオンリーワンな歌手だと思います」とインタビューで評されていましたが、私も本当にそう思っていました。
「豊かな声量」「広い音域」「モミアゲ」などのメジャーな印象に加えて、「外国語発音の素晴らしさ」 (英国人とのクォーターなので英語はもちろん、デビュー曲「別れの夜明け」でのイタリア語セリフも素晴らしい!!)、 そしてコンサートやショーでの「舞台での立ち振る舞い」に、オペラ人=舞台人のはしくれとして大きな感銘を受けました。
”『ウルトラマン・セブン』主題歌冒頭の「♪セブン、セブン、セブン……」の3番目の声”、”コーラスの一員で若かりし頃のいかりや長介さんと同じバンドで演奏していた”、”グループサウンズ時代はレコード録音時にメンバーで一人だけマイクから後ろに下がって収録した (声量が大きすぎたので)”など、エピソードを振り返るだけでも色々思いを馳せることができて、その早い死をより残念に感じます。
 70代、80代の歌もきっと素晴らしかったことでしょう、心からお悔み申し上げます。
「また逢う日まで」「ゴッドファーザー~愛のテーマ~」ももちろんですが、個人的には今でも彼の歌う「マイ・ウェイ (英語)」は本家のF.シナトラより誰よりも一番”イイ!! (良い!!)”と感じますし、「さよならをもう一度」の指笛の粋なパフォーマンス (発売当時は普通に歌詞を歌っていたリフレインのフレーズを、後年コンサートやショーのライブで人差し指を加えて素晴らしい指笛を披露するバーションになっています)は音楽家としての楽器演奏への適応性 (デビュー前はバンドでウクレレ担当、またカントリー・ギターの弾き語りの技術は本当にすごい思いました)と尾崎さん特有の”さりげなさ、洒脱感の中の確かなプロフェッショナル (卓越した技術・能力などの披露)”を強烈に感じさせてくれました。
 ニュースでの「聴く人に歌を”白紙で”届けて、自由に感じ取ってもらえるよう歌っています」という尾崎さんの言葉が印象的でした。
 ご冥福をお祈りしながら、カラオケでまたいつか尾崎紀世彦さんの曲を全力で歌おうと思っています。
”さようなら、さようなら我が愛しの人よAddio,addio amore”
(「別れの夜明け」イタリア語セリフより)

テノール歌手 中井亮一氏のコメントを一部、引用。

さよならをもう一度 指笛の動画
https://youtu.be/pGUJ9Ho_L0w?si=MCEL42Zjr0gBZG7D


『別れの夜明け』のB面の曲『おす犬』
https://youtu.be/UF0vCgnMWwo


 デビュー後交通事故に遭い『別れの夜明け』はヒットしなかった。
 怪我が回復したあとの『また逢う日まで』がスーパーヒット!

63 セクシーな歌詞だから フェイセスとロッド・スチュアート

【お題】 Stay with me.  
なので……

Stay with me フェイセス
https://youtu.be/Xwyyrq8Jb_U

『ステイ・ウィズ・ミー』は、イギリスのロック・バンド、フェイセスが1971年に発表した楽曲。

 1965年スティーヴ・マリオット(vo,g)が中心となって、前身となるスモール・フェイセズを結成。
 R&Bをベースにしたサウンドで人気を集めたが、69年にマリオットが脱退。後任としてのちにローリング・ストーンズで活躍するロン・ウッド(g)と、シンガーのロッド・スチュワート(vo)を迎え、バンド名も“フェイセズ"に改める。
 70年に『ファースト・ステップ』でデビューし、ロンとロッドが持っている華やかなエンタテインメント性を軸としたグループにシフト。
 他のメンバーはロニー・レイン(b)、ケニー・ジョーンズ(ds)、イアン・マクレガン(key)。
 翌71年に発表したシングル「ステイ・ウィズ・ミー」が全英で大ヒットを記録するなどの圧倒的な人気を得たが、ロニー・レインが脱退。
 73年、ロック・バンド、フリーに参加していた日本人ベーシストの山内テツを迎えて活動を続けたが、75年に解散した。

 でも、ひらめいたのは『Stay with me』じゃなくて……ソロになってヒットしたロッド・スチュワートの
『Tonight’s The Night』今夜きめよう

 スチュワートはフェイセズのメンバーとしての活動と並行してソロ活動を行ない、他のメンバーは彼のソロ・アルバムのレコーディングにも参加した。
 しかし彼のソロ活動がフェイセズの活動よりも大きな成功を挙げるようになったので、マネージャーはフェイセズのツアーで、より大きな収益を上げるためにも、必然的に看板をロッド・スチュワート・フェイセスとせざるを得なくなった。
 1975年にはウッドがローリング・ストーンズと活動を始め、スチュワートと他のメンバーの相違が明確になった。その結果、彼等は同年に解散した。
 同じ時代のバンドであるローリング・ストーンズやザ・フーと比較すると、フェイセズの成功は若干地味であるが、彼等はパンク・ロックの誕生に重大な役割を果たしたと言えよう。
 スチュワートはソロ・シンガーとしてさらに大きく成功した。

 Stay away from my window.
 そんな窓のところにいないで

 ーーーー

 Kick off your shoes and sit right down.
 靴を脱いでここに座って

 Loosen off that pretty French gown.
 可愛いドレスはゆっくり脱いで

 Spread your wings and let me come inside.
 ーーーー

 あんまりセクシーでエッチな歌詞なので、BBCでは放送禁止に。
 その後、ファンの要望により禁止は解除され、イギリスでヒットし、後に全米ナンバーワンになった。

『今夜きめよう』(1976年作品)
全米チャート7週連続No.1ヒット
https://youtu.be/IZr6AE-u2UM

 当時のロッドのガールフレンドだったブリット・エクランドのフランス語のセリフがつぶやかれます。

J’ai un peu peur
Je que c’est que va dira maman
Mon amour, viens plus près, embrasse-moi
Oh, Je t’adore beaucoup
Cette nuit, mon ami
Oui, cette nuit, mon ami
Je t’aime, je t’aime, je t’aime

ちょっと怖いわ
ママが何て言うかしら
愛しい人、もっと近くに来て、キスして
ああ、大好きよ
今夜、あなた
そう、今夜、あなた
愛してる、愛してる、愛してる

64 帰れない

 出不精で旅行もほとんど車の移動。
 ひとり旅などしたことがない。  
 ひとりで出掛けて帰れなくなる夢をよくみる。

 片道切符を持たされて、行って来い、なんて言われたらどうしようか?

 今、地方の娘の家に来ている。産後のお手伝い。バスと電車でひとりで行けるようにならなきゃ、とは思うのだが。
 パスモもしばらく使っていない。使えるのかしら? いくら残があるかもわからない。

【お題】 片道切符を手にして
から連想してしまいました。

 片道切符ならいいけれど……

 片道の燃料しか積んでいなかった特別攻撃隊というのがあったんです。

 ドラマや漫画でしか知らないけど。

 ちばてつやの『紫電改のタカ』は何度も読んだな。
 ーーーーーー

ちばてつや 紫電改のタカ
https://youtu.be/5WBvoACupWg



 10年以上前、義理で観に行くことになった劇団の公演。
 
 演目は? 

 もう、こういうのはいいんじゃないの?
 もう……忘れられていいんじゃないの?


 特攻隊の若い青年。愛する女性がいるのに、明日は出撃。

 戦争を知らない青年たちが演じていた。
 完全に過去のこと。2度と起こらないこと。

 舞台の近くで観た演技は迫力があった。
 母は、行くなとは言えない。


 アメリカの若者はホロコーストを知らないものも、多いという。
 知らなくていいなら永遠に知らなくてよかったのに。
 なぜ、ここにきて立て続けに戦争が?

 老年のバカ夫婦は話した。
 ゴルゴ13に暗殺させろ、と。
 私はもっとマシなことを。
 確かロシアにいるはずよね、誰だっけ? あの凄まじく強いジャック・バウワー……
 なんて、ろくでもない話。

 調べたら現在継続中の紛争、戦争がかなりある。
 通販生活のトップの記事も戦争だ。
『いますぐ戦争をやめさせないと』

『戦争を知らない子供たち』は終戦から25年が経った1970年に生まれた。
 もともとは大阪万博のイベントステージで歌うために作られた楽曲で、クレジットには作詞:北山修、作曲:杉田二郎と記されている。
 歌詞を書いた北山は、万博のステージのフィナーレでこんな“語り”を入れて曲を紹介した。

「僕らは、戦争を知らない子供たちと自分たちを呼ぶことができます。ですが、完全に“戦争を知らない”と言えない面もあります。よその国では“戦争を知っている子供たち”もたくさんいます。
 願わくば、100年後、200年後、僕たちの子供たちが、またその子供たちが“戦争を知らない子供たち”というこの曲と同じタイトルのもとで世界中のみんなが同じような音楽会をひらけることができれば、凄く幸せだと……」

戦争を知らない子供たち ジローズ ライブ
https://youtu.be/uY43S56vNAc


 当時はベトナム戦争の真っ最中で、憲法上の制約があった日本は、アメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。
 日本国内ではフォーク歌手や若者たちを中心に安保闘争や反戦運動が盛んだった頃で、この歌は戦後世代による“新しい反戦歌”として広く知られることとなる。

 こうして誕生した『戦争を知らない子供たち』に対して当時は賛否両論が巻き起こったという。

「今の若者は戦争にも行ってないくせに生意気なことを言うな!」
「そんなあまい歌を歌ってる場合じゃないだろう!」
「戦死者を屈辱するな!」


 まだ大正や昭和初期生まれの戦争体験者がたくさんいた時代。
 曲が初めて歌われた万博のステージに関わったスタッフは皆、戦後生まれだった。
 世代間ギャップや戦争に対する意識や解釈の相違などから、厳しい言葉が寄せられたのだ。
 作曲を担当した杉田は当時の心境をこう語る。

「なんでこんな騒動になるんだろう? と思いました。この歌には“世界をもっとよくしよう”という意味合いがあるのに……。でも、この1曲で多くの人が議論してくれている。“すごいことになったな”と思ってました。」

 北山はしばらくの間「ブーイングを浴びてまで詩を書きたくない」と言って創作意欲を失い、杉田も「もう歌うのは嫌だ」と感じていたという。
 そんな“騒動”を引きずりながら4年の月日が流れ……1975年、杉田にとって“気持ちに決着をつける”機会が訪れる。
 場所は沖縄だった。
 日本に返還されてから3年が過ぎた沖縄でのステージ。
 万雷の拍手と共にアンコールのステージに戻った杉田を迎えたのは、観客たちによる『戦争を知らない子供たち』の大合唱だった。

「涙が出ました。これでようやく、みんなのところにこの楽曲が届いた! と思ったんです。」

 
「いつまでも、この曲を歌える国でありますように願いを込めたい。これからも気持ちが続く限りギターを持って、この街、あの街で歌えたら幸せです。」

65 天国への扉

 娘の産後のお手伝いから帰って来た。
 早朝バイトで夫はいない。20日も留守にしていた我が家はどうなっているか? 
 汚部屋か?
 
 リビングのドアを開けた途端、目に飛び込んできたのは朝の日差し。レースのカーテン越しの日差しは天国にいるようだ。
 以前東北の雪国に住む義父が訪れた時、
「天国だなあ」
と言ったことが忘れられない。

【お題】Knocking On The Hell’s Door

 すぐに連想したのが
『Knockin’ on Heaven’s Door』
 ボブ・ディランの楽曲です。


天国への扉 ボブ・ディラン
https://youtu.be/An0Hz4Rq_V0


 私たちは癌で亡くなった義父の年を超えた。
 この40年、

 極楽見えたこともある。
 地獄が見えたこともある。(黒の舟唄より)

 
 やがてひとりになり、最期の時はここで逝きたい。
 でも、それはわがままで迷惑なこと。

 孤独死は、もっと迷惑……

 西部劇映画
『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年、MGM、監督: サム・ペキンパー)への楽曲提供であることから、歌詞は米国西部開拓時代のガンマンが
「視界がだんだん暗くなり、今まさに天国への扉をノックしている。バッジや銃はもう使えない」
と、死に行く際の心境を歌っている。

 この曲がリリースされた当時の時代背景として、ベトナム戦争の終結がある。
 帰還兵は壮絶な戦争の体験と母国でのバッシングにより精神を病んだ者も多く、彼らの自殺が社会問題化したともいわれている。
 彼らの悲劇的な運命と、この曲を重ね合わせて考える事もある。

ひらめいた曲 61〜65

ひらめいた曲 61〜65

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-21

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  1. 61 放送禁止用語だから
  2. 62 朝焼け もうすぐ来る
  3. 63 セクシーな歌詞だから フェイセスとロッド・スチュアート
  4. 64 帰れない
  5. 65 天国への扉