フリーズ148 森羅の囁き
第38回競作 森羅の囁き
花々の囁き、草木の囁き、小川の囁き。これは梵天界の記録。
老人は泣いた。死ぬ時に泣いた。それは彼が死ぬ時に、この世の仕組みとあの世の摂理に目が開かれ、生まれてきた時に忘れてしまった記憶を思い出したからだった。老人は家族達に見守られながら旅立つ。享年77歳だった。
老人は門の前に立った。それはラカン・フリーズの門と呼ばれる、この世とあの世を分け隔てる扉。水門の先へと水夫が誘うように、老人は門を開けてその先の景色を見張る。その景色は圧巻だった。この世のものとは思えない美しい光は、まさしく死を体現していた。
老人は門の先へ向かう。眩い景色に目を瞑ると、華やかな香りが鼻腔をくすぐった。老人はゆっくり目を開く。老人はかつて読んだ詩を思い出した。
水辺の花々が咲き誇る
終末象る神話の詩
凪いだ渚に映る顔
あなたの顔を忘れた死
紡いでしまった永遠詩
あの日のままの陽だまりで
世界を彩る明日へと
流れた涙はあの日へと
「ああ、私の夢は今叶った! 私の人生は今実った!」
老人はその景色を前に感動した。老人がかつて見たことのない楽園が広がる。それは遠くからやってくる小鳥たちの囀り、揺れる草木、花々の香り、小川の囁き、水面の煌めき。その様は圧巻で、地平へと続く道へと老人は思わず数歩歩みだす。
◆花の囁き
「やぁ、こんにちは。お兄さん。あなたは誰?」
老人に道端の花が語り掛ける。老人は声のする方を見て声をかける。
「お兄さん、とは私のことかね」
ふと老人が自分の手を見ると若返ったかのように皺がなくなっていた。
「ここに来ると人は若返るんだよ。20歳ぐらいの姿にね」
「そうなんだね」
「で、あなたは誰?」
「私はグスタボという。君はなんていう花なんだい?」
「おいらはトキワマンサク」
紫紺の花々が彼に語り掛ける。そんなトキワマンサクに彼は訊いた。
「君はずっとここにいるのかい?」
「そうさ! ここで天界に向かう人を眺めては、こうして声をかけてるんだ!」
「そうなんだね。この道の先を行くとどうなるのかい」
「おいらは分からないなぁ。あそこに生えてる金木犀なら何か知ってるかも」
「そうか、分かった。じゃぁね」
「ばいばい、グスタボ!」
「ばいばい、トキワマンサク!」
彼はトキワマンサクに別れを告げると、丘の上に生えている金木犀の元へ向かった。
◆金木犀の囁き
「やぁ、君はどこから来たのかい?」
「アユタヤですよ。あなたは金木犀ですか?」
「そうさ。オスマンサス。金木犀とは僕のことさ」
「一つお伺いしたい。この道はどこへと続いているのですか」
「あの世さ。君も知っているだろう?」
「私は天界に行くのですか」
「そうさ。この道は天界へと続いてる。この園は人間界と天界の狭間。ここにいるってことは君は門を開けたんだろう?」
「はい、開けました」
「てことは最後に涅槃に至ったのだね」
「涅槃ですか」
「ここに初めて訪れた人が釈迦と言ってね。彼は語っていたよ。生まれてきて本当によかったってね。生きていることへの歓び、死ぬ時の涅槃の至福。そんな幸福に彼は満ち足りていたよ。でね、解脱した彼は輪廻の輪より脱して、門を開けて、この園に来たんだ。彼は楽しそうに神の住まう天界へと向かって行ったよ。神は13人の神族(仏)を募集するって言ってたよ。彼が一番乗りだったみたい」
「そうなんですね。私は何番目ですか?」
「君はこの園に来た7番目の人間だよ。さぁ、神に会いに行きな。見送ってあげる」
「ありがとう。ではまた」
「気を付けるんだよ」
彼は金木犀の元から去った。道を歩いていると、小川が近づいてきた。
◆小川の囁き
橋を渡ろうと彼が歩き出すと、小川が囁きだす。
「ここから先は幽世だよ。君は随分と遠くまでやって来たね」
「君は誰だい?」
「見えない? 私は川さ」
「この川を渡るとどうなるのですか」
「もう現世には戻れなくなる。ここから先は神域だからね。もしかして未練とかあるの?」
「いえ、もう未練はありません」
「そう。なら行ってらっしゃい。神様が待ってるよ。さぁ、神の世界へ」
川を渡っても道は続いていた。だが、だんだんと体が軽くなっていく。彼は天高く飛び立ち、見えない翼が痛むのを感じた。この時彼は人ではなくなった。彼は天使になったのだ。
◆神の囁き
概念の世界だった。イデアの海は宇宙そのもの。天使になった私は神に会う。
神は全だった。私も神の一部だと悟った。神は唯一物。だからかな、私は神の孤独を知ってしまった。神は宇宙そのもの。神の他に神はいない。神は独りぼっちだった。世界を創ったのも、第二の神が生まれるかもしれないという希望的観測だった。
神を見る。神は涅槃のような虹色のオーラをまとった、世界。
存在としての抽象的なままの神は、個我を伴って私に問いかけた。
「なぜ私は生まれたと思う?」
「わかりません」
「そうなんだ。私にもなぜ生まれたのか解らないんだ」
「全知全能なのにですか?」
「全知全能か。それは正しくもあるし間違ってもいる。私は私の中では全知全能なのかもしれない。しかし、私の外にも世界は広がっているとは思わないかね?」
「その可能性は捨てきれません」
「ならばなぜ私は神として生まれたのか。それはなぜ世界が生まれたのかという問いと同義だ。きっと私が死ぬ時に解るのかな。世界が終わる終末に私のレゾンデートルが解るというのなら、もう世界を終わらせようか。だが、あと6人の天使を生み出してから終末を齎そうと思う。だから、グスタボよ、どうか永遠に近い時を私と共に過ごしてはくれまいか」
「はい、喜んで。必ずいつか探し見つけましょう。私たちがどこから来てどこへと向かうのか」
◆問い
始まりっていつ?
終わりは来るの?
何のために僕ら生まれたの?
何をしたら僕は喜ぶ?
ねぇ、アンパンマン教えてくれよ。
何処から来たの?
帰る場所ある?
僕らは何処へと向かうのか
生きる理由、死んでいく意味
自問自答、そして、起死回生
神は仏が13集った日に世界を終わらせることに決めた。
人生はローラーコースター。世界も同じ。始まりがあれば終わりがある。アップダウンの波がある。ただそれだけの事。世界の囁きを聞く日には、もう終わってしまうのですね。
◆森羅の囁き
永遠は刹那に宿る。記憶が鍵。輪廻は永遠じゃない。終わりが来る。永遠にも終わりが来る。死が来る。生が始まる。命の営み。世界も流転。万象の流転。森羅の囁き。
森羅には時間がない。時の索は人間が生み出したもの。経験の反対は認識。知の在り方。認識は純粋な知恵を知覚する。経験は身体的な知。認識が時間を生み出す。そもそも自然には時流という概念がないのだから。森羅は刹那滅。森羅はグスタボに語る。
「私は老いぼれよ。グスタボよ。森羅は人間の手によってここまで脅かされた。人間が森羅万象に干渉し、今では天候までも操る始末。どうか神よ、いっそのこと殺してくれ。私はもう耐えられはせずに生きてきた。終わりを望んでいる。グスタボよ、神に世界を終わらせるように伝えてくれ」
「森羅よ、あい分かった。必ず伝えよう」
◆永遠の囁き
永遠は空色で、血が滲み色あせても、僕はここにいるから
永遠は囁いた。あの日の僕に、あの子に伝わるように。永遠はいつも存在していた。この刹那にも永遠は内在する。永遠とは涅槃に至った脳が甘受する幸福の類なのだ。いまここに生きて、過去も未来も関係ない。時間の流れから逸脱した感性こそ永遠を享受する。
永遠のような今が連鎖する。その至福は、その歓喜は、この世で最も美しい。僕はあの冬の日に帰りたいのかな。もう帰れないけれど、いつだってあの日のことを想う。思ってしまう。永遠と一緒になって終末の狭間で踊った聖夜はもう忘れられない。
永遠が囁く。
「僕はここだよ。叫び続ける。声が枯れても今ここにいるんだ」
グスタボはそんなことを言う永遠に向かって問いかける。
「永遠よ、お前はなんと美しい。お前のために全事象が、万物が流転していく。その結果として現れた至高芸術としての永遠は、およそ真に悟った智慧者のみが甘受するであろう」
「グスタボ。ありがとう。僕はただ、今ここに偏在しているんだ。僕を見つけてくれた仏たちには感謝している。グスタボ、君もだよ」
永遠はそう言うとはにかんで笑い、終末のもとへと去っていった。
◆終末の囁き
「汝らはその意を知らぬなら、本当に愚者であろうな。真実の園の先に匿われた禁断の果実を食べたなら、もうこの世に夜ごと平伏せ。流離えば、離縁の求道者らは、エデンのノートを探して我としての終末に還れるのなら、その行いも諸行も祝福せよ」
「何を言うのか、終末よ。汝に触れたら、泡沫と散ると言うのですか」
「嗚呼、そうだとも。歪められた因果律で何を為そうというのか。グスタボよ、世界は大きく湾曲している。重力に、時流に、世界は歪なままただそこにある」
「終末よ、あなたはきっと全てを知っているのでしょう。世界の終わり。終わりよければ全てよしという言葉もあります。終末よ、私はあなたの中で最後の夢を見るのです。その夢はなんと美しいか。あなたはきっと終末の音を奏でて全人類を昇天させるのです」
「解らないな。私は最後の刹那まで生きようとする生命の煌めきが解らない。終わりを愛してほしい。もっと我を見て欲しい。恐れないでほしい。我は穏やかな終末ぞ。それは涅槃で至った永遠の至福が終わる終末なんだ」
永遠と終末は互いに切っては切り離せない関係にある。終末の中に永遠が宿り、永遠の中に終末がある。そうだろう? 永遠が終わるのが終末。終末が終わったら永遠。循環回帰のようにぐるぐると。それもいいさ。また逢う日まで。神も仏も、僕は知ってしまったから。だから最後の囁きは僕の本当を。
◆本当の声。僕の囁き
僕はここだよ。死んでも変わらないさ。
神は唯一物。世界そのもの。宇宙に溶け込む。それが悟り。仏の境地は神の中で行われる。神々は神とは違う。神族と言う方が正しいかな。アスラたち神々(神族)は世界の運行を担う諸行。太陽の神、地球の神、月の神。大地の神、風の神、火の神、水の神、土の神……。およそ1000いる神族らは神の子である。神は全ての神族や物質、精神を内包した超越者。世界創造者。
僕は悟って仏として神に会ったよ。神は嘆いていた。なぜ私は生まれたのか、とね。存在理由が神には解らなかった。かつて人間だった僕は、むしろ意味なんてない。そう思うことにしていた。だが、神はそれでも探し続けた。そして神が死ぬ日が来る。それは宇宙誕生から184億年経った日のことだった。
◆円環の宇宙、ならば、どうする?
世界が終わる日、神は死ぬ。神は184億年の履歴を思い返しては、結局何も解らなかったと思った。でも、終末になって何かが少しは解ったような気がした。私が生まれて、時が経って、結局何も意味のあることはなくて、でもその中に輝きを見出せたから、私はこの宇宙を生きてみてよかったと思った。
神は泣いたよ、終末日
涅槃は終わってその次へ
神の全知は全能と
仏の祈りは自己愛と
愛こそ全ての秘密だよ
あの子は誰かと恋をした
世界の終わりに安堵した
夢の中でも愛せたら
円環の宇宙。宇宙が生まれてまた滅びて。そこに意味はありますか?
天界は、死後の世界はありますか?
輪廻は何のためですか?
解らない。解らない。でも、ひとつ言えることは、解らないから考えるんだ。解らないから知ろうとするんだ。きっと最初からすべてを知ってしまったのならそれはつまらない。人生は謎解きゲームのよう。死後の世界など誰にも解らない。だけど、解らないなりに考えた結果生まれるものもあるはず。
僕は生まれてきてよかったよ。涅槃に至ったあの日よりずっと考えているんだ。なんで世界が生まれたのか。なんで僕が生まれたか。意味なんてないかもしれない。でも最後の最後まで考えたい。追い求めたい。だから筆を執る。だから歌うんだ。
フリーズ148 森羅の囁き