Moe〜報われない僕らの恋の記録

Moe〜報われない僕らの恋の記録

▶Prologue


 彼女がフルダイブVRゲーム『SoL』にログインしたのを見届け、僕はパソコンに向かった。彼女の要望通りSoL端末の設定に細工を加えたあと、ブラッドレモンソーダでひと息つく。

「さぁて、今日も働きますか」

 すでに日常となった学校という職場に、僕はいつもと違う期待とともに向かう。なぜなら、今日は特別な日だからだ。

 小高い丘にある高等学校は、屋上にあがると街が一望できる。遥か遠くに海が見える。そのロケーション抜群の職場で、今日は早朝から人気タレント〈モエ〉を主役にした青春映画の撮影が行われているはずだった。

 いつもより早く出勤したつもりだったが、同僚たちのほうが早かった。しばらくして野次馬が校内に侵入したという報告があり、体育教師が駆けていく。僕は第一資料室に向かい、誰もいないのを確かめて授業用資料を入口の傍に置いた。

 これは、ちょっとしたサプライズのための下準備だ。

 僕はその下準備をしながら自分が高校生に戻ったように浮かれていたが、後々この時の行動をひどく後悔するようになる。が、まだ何も知らない僕はサプライズに必要な役者を探すために資料室を出て西棟玄関に向かった。

 目に飛び込んできたのは自転車で野次馬の横をすり抜けて駐輪場に向かう担当クラスのユウタ。彼ならサプライズに適任だと思ったが、この選択もまた長く僕を苦しめることになるのだった。

▶20XX/05/29(1)

 ユウタはわずかな空腹を感じながらペダルを踏み続けていた。橋の中央まで来ると立ち漕ぎをやめ、傾斜で加速するのにまかせて深呼吸する。川面は空を映し、土手はハッとするほどの緑色。気づけば五月も終わりに近づいていた。

 一台の軽自動車がユウタの自転車を追い越し、運転席で揺れたツインテールと、車体にベタベタと貼られたステッカーに彼の目がとまった。

 ユウタはふと想像する。きっとあの運転手は車の構造に詳しくなく、車はただの移動手段でファッション。自分好みに飾り、コストパフォーマンスが良ければそれでいい。――そんなふうに自分勝手に想像するのがユウタの癖だった。そしてこう考える。

 俺は免許がないから運転できないけど、運転してみろと言われたらきっとできる。アクセルとブレーキがわかっていれば十分だ。

『あなたのすべてを知らなくても問題じゃないの。それはきっと、車の構造を知らなくても運転はできるっていうのと同じなのよ。DNAがどんな塩基配列になっているか知らなくても生きてるっていうのと同じ。理屈は分からなくても私がこうしてトモヤの目の前にいるのも、たぶん同じ』

 ユウタは昨夜観たドラマのワンシーンを思い出した。台詞にある「私」とは、ドラマに出てくるエチカという名の女子高校生で、エチカは幽霊だった。

 学校の教室でフワフワと浮くエチカ。テレビで見た映像を脳内で反芻しながら、『すべてを知る』とはどういうことかと考えた。

 すべてを知るのは神様くらいだ。神を信じているわけじゃないけれど、信じたほうが楽に生きられるくらいには思っている。――ユウタの思考はそこでストップした。

 無意識にかけたブレーキ音で我に返り、ハンドルを切って土手沿いの道へ曲がった。

 香ばしいパンの匂いが鼻先をかすめ、坂道を下ると年季の入った黄緑色の看板が見えてくる。昔ながらの商店街。ユウタ行きつけのカメレオンベーカリーは今日も変わらず営業中だ。

「パンの作り方は知らないけどアンパンは好きだ」

 店の前に自転車を停めると、女店主が「おはよう」と笑顔でユウタを迎えた。母親よりもずっと年上で六十前後。

「おはよう、ユウタ君。アンパン焼けたばかりよ」

「やっぱり焼き立てが最高だよね」

 最近のユウタにとって焼き立てパンが朝の匂いだった。芥子の実がのったアンパンとウィンナーロール、ペットボトルのお茶を買って店を出る。坂道を戻って土手の桜の下に自転車を置いた。細い砂利道を歩いて土手を下り、いつも座る平たい石に腰を下ろしてアンパンを取り出す。

 数週間前までは、母親がスーパーで買った菓子パンとインスタントコーヒーがユウタの朝食だった。彼女がいなくなったのはゴールデンウィークが明けてすぐ。と言っても、連休の間も母親は出かけてばかりでほとんど顔を合わせていない。

 男のところに行ったことは明らかで、父親がその居場所を知ったうえでユウタに黙っているのだとしても責める気はなかった。どうせ訪ねていく気もないのだから。

 ユウタは母親のことが嫌いだった。考えるだけで胸が重くなり、自分の存在が薄っぺらな紙きれのように思えてくる。いっそ風に飛ばされてこの世界から抜け出せたらいいのに。

 ユウタに何があっても目の前の景色は変わらなかった。対岸の土手の奥には民家がひしめき、その上空を飛行機が白線を引いて遠ざかる。

 あの飛行機はどこに向かうのか。何人の人間が乗っていて、どんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。とりとめのない疑問が浮かんでは消えていった。

 あの人の朝食は今日もパンだろうか? 「世の中の大抵のことは知らなくても生きていける」

 手をかざして視界から飛行機を消すと、「何やってんの、ユウタ」と、背後から耳慣れた声がした。仰ぎ見ると声の主はクスッと笑い、風に揺れたスカートがユウタの首筋をなでる。

「トウカ、おはよ」

「おはよ」

 入学当初は耳が見えるほど短いショートカットだったトウカの髪は、今では肩下まで伸び、陽に透けて彼女の輪郭を飴色に染めた。

「朝ごはん? いい匂い。ひと口ちょうだい」

 ユウタの隣にしゃがみ、トウカはスカートの裾を引っ張って膝を隠した。雛鳥のように口を開け、瞬きする長いまつ毛は生き物のようだ。

 ユウタが食べかけのアンパンを差し出すとトウカはパクリとかぶりつき、パンの縁に残った朱色を指でちぎってポイと口に放り込む。トウカの朱色の口紅はこれまでも何度か見たが、そのたびに母親のことが頭を掠めて好きにはなれなかった。

 朱色はユウタの母親が好んでつけていた口紅の色だ。彼女は保護者として最低限の義務は果たしても、優先順位は常に自分が上だった。幼い息子を放って遊びに出かけるその人に、ユウタはいつしか何も求めなくなった。

 朱色の唇からユウタが目をそらすと、今度は淡い紅色のマニキュアが目に入る。

 トウカが口紅やマニキュアをするようになったのは二年に進級してからのことだ。きっかけは春に赴任して来た担任の数学教師。『高波センセってカッコいいよね』と、彼女がその教師に向ける眼差しは熱を帯びていた。

「ねえねえ、今ごろ撮影してるのかな」

 トウカは草の上にペタンとお尻をつく。

「撮影って?」

「ユウタ、聞いてなかったの? 映画の撮影にうちの学校が使われるって、昨日高波センセが言ってたじゃない。一年の教室らしいけど、有名人って誰が来てるんだろうね。センセを問い詰めたけど教えてくれなかったんだ」

 チェッというトウカの舌打ちは、片仮名の発音だった。

「トウカ、また高波のとこに押しかけてたのかよ」

「あたしだけじゃないよ」

「女子人気高いな、うちの担任」

「ユウタも似たようなもんじゃない。モテモテのくせに」

「俺のはいいように使われてるだけ。八方美人だから」

「それ、自分で言う?」

「言うよ」

「不器用なやつ」

 トウカはクスクス笑い、ユウタの心臓は一瞬だけ速まった。

 トウカが自分にとって特別だという自覚はあったけれど、恋愛という言葉で括ってしまうことには違和感があり、このあいまいな状態をユウタはむしろ気に入っている。

 トウカのすべてを知ればこの感情の正体がわかるのだろうか。そんな考えが頭を過った。

「何、ユウタ? あ、もしかしてパン顔についてる?」

 トウカは指先で口元を拭う。

「ああ、うん。とれたとれた。そろそろ学校に行くか」

「天気いいし、サボりたいね」

「サボったら高波に会えないけどいいのか?」

「それはヤダ」

 桜の下で自転車にまたがると、トウカは当たり前のように荷台に座ってユウタにしがみついた。

「レッツ、ゴー」

 押し付けられた柔らかさに意識が向かないよう、ユウタはペダルを踏む。

「トウカ、高波狙いだろ? くっついてるとアイツに見られるかもよ」

「いいの。高波センセは先生だから。アイドルみたいなもの」

 トウカ以外にも高波のファンは数えきれないほどいて、女子同士で盛り上がっているのは傍目に見ていても楽しそうだった。けれど、トウカのは他の女子とは違う気がしている。ユウタが口を挟むことではないけれど、つい勘ぐってしまうのはトウカが傷つくのを見たくないからだ。

「高波って、なんで女子にモテるんだ?」

「カッコいいじゃん」

「見た目?」

「あと、ちょっと影がある感じ」

「そうか?」

「そうだよ。笑っててもなんか寂しそうな時があるんだ。それに優しいし、オッサンじゃないし、でも大人だし、独身なんだからモテるに決まってるじゃん」

「女子高生に、だけどな」

「僻まない、僻まない。ユウタと高波センセって、ちょっと雰囲気似てるよ」

「うれしくない」

 土手道を歩くクラスメイトを追い抜き、不意にトウカの片手がユウタから離れた。

「おっはよー」

 離れていたトウカの手が戻って来ると再び背中に熱がこもり始め、ユウタは自転車のスピードを上げる。

「落ちんなよ、トウカ」

「落とすなよー、ユウタ」

 土手から外れて緩やかなカーブを曲がると、じきに正門前の人だかりが見えてきた。

▶20XX/05/29(2)

▶20XX/05/29(2)

「あっ、ユウタ。シャツに口紅ついちゃった」

「マジ?」

「ごめん。あとでリムーバーあげるから」

 高校はもう目の前だった。正門のまわりには撮影の噂を聞きつけたのか他校の学生服と私服姿の男女がたむろし、彼らと押し問答しているのは生活指導の体育教師タッペイ。トウカを荷台に乗せたまま、ユウタは自転車でその脇をすり抜けた。

「二人乗り、降りろー!」

 野太い声が追いかけて、ユウタは笑いながらラストスパートをかけた。グラウンドの隅にはトラックが何台かあり、部外者らしい姿も見える。

「タッペイ怒ってたよね」

 駐輪場に自転車をとめて鞄をトウカに渡すと、彼女は正門を見て笑っていた。野次馬はさらに増えて、大柄なタッペイが埋もれて見えなくなっている。

「俺たちのことなんてかまってられないよ」

「先生も大変だねー」

 同情しているとは思えない口ぶりで言い、トウカは騒ぎの原因に目をやった。西棟校舎と東棟校舎をつなぐ渡り廊下は屋根だけの簡易なもので、その奥の中庭は筒抜け。中庭に面した西棟校舎の一角に生徒が群がっている。一年の教室あたりだ。

「ねえ、ユウタ。撮影見に行ってみる?」

「トウカが行きたいなら……」

「あっ!やっぱり見に行くのやめにする」

 トウカは唐突に反対方向へと駆け出した。彼女の向かう先に高波の姿があり、向こうも手に持ったバインダーを振って応える。

「おはよう」

「おはよー、センセ」

 トウカは浮かれた足どりで、ピョンと跳ねて担任の前で足を止めた。百九十センチ近い高波と百六十ちょっとのトウカの身長差がユウタは気に食わない。

「ユウタも、おはよう」

「おはようございます」

「ユウタもトウカも、撮影には興味ないの?」

 トウカは高波の隣に並んで歩き、ユウタは斜め後ろをついて行く。

「見に行っても無駄っぽいからやめたんです」

 無駄っぽいじゃなくて高波がいたからだろ? とユウタは内心毒づいた。高波は「そうだよなあ」とのんきな顔でうなずいている。 「先生、撮影は順調なんですか?」

「さあ、僕には何とも。野次馬がいっぱいで近づけないよ。撮影が延びても二年生には影響ないしね」

 ユウタが「あ〜あ」と大げさにため息をつくと、高波は「当たり前だろ」と気安い笑みを浮かべる。女子に人気があるくせに男子からやっかみを受けるような気障さはなく、ユウタは案外この担任が嫌いではなかった。

「あ、そうだ」

 高波がバインダーを叩き、パシンと軽い音がする。

「ユウタ、悪いけど教室行く前に第一資料室に寄ってくれるかな。入り口脇のダンボールに配布資料が入ってるから、教室に持って行っといて」

「第一資料室? 撮影してるのって、その辺ですよね」

「さっき行ったら衝立で仕切られてたから、期待しても何も見えないよ」

「なぁんだ」

 つまらなそうに口を尖らせたのはトウカだった。高波の視線が彼女の唇を捉えたけれど、生徒がどんな派手な化粧をしても何も言わない。うるさく指導しているのはタッペイくらいだが、赴任早々「みんなオシャレだね」と感心していた高波も他の教師とは少々感覚がズレている。

「じゃあ、ユウタ。鞄だけ教室に持って行っといてあげる」

「サンキュ」

 ユウタがトウカに鞄を渡すと、高波は「じゃあよろしく」と東棟の職員玄関へ小走りに向かった。

 生徒玄関でトウカと別れ、ユウタは一年生だらけの西棟校舎の廊下を奥へと進む。西棟と東棟、渡り廊下と中央棟で囲われた中庭では創立記念の桜が葉を茂らせ、人だかりはその桜の下まで膨らんでいるが、ユウタは他人事のように窓越しにその様子をながめた。

 しばらく行くと保健室があり、その奥にある階段の先が第一資料室。高波が言っていた通り第一資料室の先には衝立が置かれ、廊下は塞がれていた。階段手前を左へ曲がった廊下は職員室へと繋がっている。

「おはよう。二年生さんがこっちに何か用事?」

 階段手すりに白衣姿の養護教諭が背を預けていた。臙脂色のネクタイで学年がわかったようだった。

「担任の高波先生に言われて、資料室に」

「野次馬じゃないのね。まあ、でも、隙間からのぞいたら見えるかもしれないわよ」

 養護教諭はからかうように顎をしゃくった。年齢はユウタの母親と同年代だが、化粧っ気のない顔と浅く焼けた肌を含め外見は正反対だ。

「撮影って誰が来てるんですか? 有名人?」

「有名人。だから教えられないのよ」

 目元にシワを寄せて笑う養護教諭に、ふとこんな人が母親なら、と思う。そして、そう考えたことに苛立ちを覚える。母親が違ってもどうせ世の中は理不尽で、大抵のことは受け止めるしかないのだ。

「先生が言うならのぞいてみようかな」

「さて、何か見えるかしら?」

 ユウタにとって相手のノリに合わせるのは苦ではなく、何を求めているのか分からない人間が一番やりづらい。興味のあるフリをして衝立の横から奥をのぞいたユウタの頭の中には、まだ母親が居座っていた。   何をやっても褒めも叱りもしなかった母親。その視線はユウタの顔を素通りし、呼びかけても返ってくるのは気のない相槌ばかり。母親の目に映るのはいつも鏡の中の彼女自身だった。

 ユウタが『自分は世界の背景なのだ』と悟りのような考えに行き着いたのは小学生の時だ。図鑑で擬態する生物のことを知り、コノハチョウやカメレオンのように、母親の世界で自分は周囲と同化しているのだと思った。

 母親だけではなく誰にとってもユウタは背景でしかなく、ユウタにとっても他人は背景だった。母親も背景の一部に過ぎず、それに囚われるなんてバカらしい。この世界はひとまとまりの風景画。土手で川をながめる時、教室の窓からぼんやり空を仰ぐ時、ユウタは今でもよくそんなふうに思うのだった。 「何か見えた?」 ユウタは振り返って肩をすくめ、養護教諭も同じように肩をすくめる。無言のコミュニケーションに満足を覚え、ユウタは資料室のドアを開けた。

▶20XX/05/29(3)

▶20XX/05/29(3)

 第一資料室にはびっしりと書架が並び、奥の窓から淡い光が射し込んでいた。埃とインクの匂いに誘われ足を踏み入れると、床がギシリと音をたてる。誰もいないはずの部屋でかすかに空気が揺らぎ、ユウタは足を止めた。

 ギシリ、ギシリと軋む音はやまず、書架の奥に影が揺らぐ。

「誰?」

 その声にユウタは息をのんだ。

「あの、担任に言われて資料を取りに来ました。暗いですよね。電気点けます」

「ダメ!」

 スイッチにかけた手を慌てて引っ込めたが、指先が震えているのに気づいてこぶしを握りしめる。声は若い女性のもので、ユウタにはその声に聞き覚えがあった。

「ごめんなさい。内緒で入ってしまったから見つかると困るの」

 深緑色の髪が揺れ、土手の草原を思い出す。

「もしかして、撮影で?」

「うん、内緒ね。怒られるから誰にも言わないで」

「言わないよ。モエが来てるなんて言ったらパニックになる」

 沈黙に彼女の警戒心を察し、ユウタは慌ててフォローした。

「本当に誰にも言わない。でも、その髪でウロウロしてたらすぐバレちゃうよ」

「あっ、そっか。そうだよね」

 ユウタからは緑の輪郭しか見えなかったけれど、彼女は小さく笑ったようだった。

 深緑の長い髪とアーモンド形をした魅力的な目を持つモデル出身の売れっ子タレント、モエ。ここ最近、メディアで彼女を見かけない日はない。

「ねえ、君は高波先生のクラス?」

「えっ?」

「……アッ、変なこと聞いちゃった。今の話は忘れて。それより君、何か取りに来たのよね? 早くしないとホームルーム始まっちゃうよ」

 モエの諭すような口調にプライドを傷つけられ、ユウタは一歩足を踏み出した。

「ねえ、遅刻しちゃうよ?」

「高波の許可はとってある。それより、モエは高波の知り合い?」

 一気に距離を詰めればモエが逃げてしまいそうで、ユウタは足音を忍ばせてゆっくりモエに近づいた。テレビで見るより幼い顔つきに、冬用のブレザーと襟元にリボン。ヒールのない靴を履いていてもユウタより目線が高かった。

「呼び捨てはダメだよ。高波センセイ、でしょ?」

「モエは高波センセイを知ってるの?」

「内緒」

「内緒になってないよ」

「知り合いといえば知り合いだけど、会ったことはないかな」

「ネットで知り合ったとか?」

「その逆。リアルの彼は知ってる」

 モエはあいまいなやりとりでユウタをはぐらかし、反応を楽しんでいるようだった。そのとき予鈴が鳴り、モエが音源を探して部屋を見回す。スピーカーのない資料室は時間の流れから取り残されたようだ。

 本当に時間が止まればいいのに――ユウタが願ったとき、モエが顔をのぞきこんできた。

「また、会いに来ようかな」

「誰に?」

「君にって言ってほしい?」

「高波に? モエは高波に会いに来たの?」

 モエは視線をそらすと不安げにドアに目をやった。その行動が、ユウタには高波を避けたがっているように見える。

「俺に会いに来てくれるのなら、いつでも歓迎だけど」

 軽口を装ってユウタは本心を口にした。が、誰からも愛される人気タレントのモエに、母親にすら見捨てられた自分が何を言っているのかと自嘲の笑みが口元に浮かぶ。きっと、数分後には自分のことなど忘れられているのだ。 「ねえ、君。名前は何ていうの? あたしはもうバレてるけどモエ」

「俺? 俺は……」

 ユウタ、と名乗ろうとしたとき、廊下からその名を呼ぶ声がし、スリッパを擦る音が近づいて来た。

「ユウタ、また会いに来るね」

 慌てた様子で背を向けるモエに、ユウタは咄嗟に手を伸ばした。が、掴んだつもりの腕はユウタの手をすり抜け、モエはあっという間に書架の奥に姿を消す。床の軋みが止まり、埃っぽい空気とインクの匂いだけが部屋に残った。

「ユウタ、早くしないとホームルーム始まるぞ」

 戸口に高波が立っていた。出席簿を脇に抱え、不思議そうに首をかしげている。

「どうした? 幽霊でも見たのか?」

 ユウタは急に現実に引き戻されたような感覚になり、モエと過ごした数分間は夢でも見ていたのではと思った。それか、いつもの妄想。

「ほら、ぼうっとしてないで行くぞ」

 ユウタはドア脇のダンボール箱を胸の前に抱え、横目で担任の表情をうかがった。

「せんせ……」

「ん?」

「いや、なんでもないです」

 内緒ね、という彼女の言葉を思い出してユウタは口をつぐんだ。言葉にしてしまえばすべてが失われてしまいそうで、願掛けでもするようにグッと唇を引き結ぶ。

「ユウタ、何か悩んでることがあったらいつでも相談にのるよ」

 担任からこんなふうに声をかけられるのは二度目だ。ユウタは前回と同じように「大丈夫です」と愛想笑いを返し、高波も前と同じように寂し気な笑みを浮かべる。

 教室の自分の席に座ると、前の席のトウカが振り返って「撮影見えた?」と聞いてきた。ユウタが肩をすくめると、彼女も同じように肩をすくめる。

「起立」

 ふと、シャツの袖口のボタンに深緑の髪が一本絡まっているのを見つけた。

「礼」

 指でつまもうとすると、その髪はどこかへ消えて見えなくなる。

「着席」

 期待しない。自分に言い聞かせたけれど、モエに会いたいという気持ちは日を追うごとに膨らんでいった。

▶20XX/06/05(1)

▶20XX/06/05(1)

 第一資料室でモエに会ったのは偶然か、必然か。ユウタはそんなことを考えていた。

 ユウタがモエを知ったのは炭酸飲料『BITTER(ビター) squash(スカッシュ)』のコマーシャルだ。緑ボトルの“ライムグリーン”と、オレンジ色ボトルの“ブラッドレモン”があり、ブラッドレモンというのは新品種。赤い果皮に赤い果肉で、黄色いレモンとは違った独特の苦味があるのが特徴だった。

 モエは太陽のような濃いオレンジ色のワンピースを着て、右手にライム、左手にブラッドレモンを持ち、川沿いの原っぱを駆けていく。そして、「太陽とグリーン!」と叫ぶのだ。ユウタがそのコマーシャルを初めて目にしてから、一年も経たずにモエは押しも押されぬ人気タレントとなった。

 モエが高校を卒業したのは二年前。ユウタより学年は三つ上で、二十歳になったばかり。中学からモデルとして活動していて、身長はユウタより五センチ高い。ネットで検索するだけでモエの情報は簡単に手に入った。

 クラスでモエのことが話題になってもユウタがファンだと公言しないのは、ファンという言葉では不十分なほどモエに対する感情が複雑だからだ。それはブラッドオレンジの色が母親の朱色に似ているからかもしれない。 ユウタが第一資料室でモエに出会って一週間。この日の朝、ユウタはカメレオンベーカリーでパンを買い、一番乗りの教室で昨夜放送された深夜ドラマを観ていた。

 スマホ画面の中で制服を着たモエが男子生徒を見下ろしている。白地に紺のラインが入ったセーラー服に、三つ編みの髪はカツラらしく紅茶色。

「まーた、ドラマ見逃したの?」

 イヤホンが引き抜かれ、「やっぱり」とトウカがユウタのスマホをのぞき込んだ。いつの間にか教室は生徒で溢れ、時計を見るとあと二十分ほどでホームルームが始まる。

「別にいいだろ。うたた寝して見逃したんだ」

「それで学校に着いた途端ドラマ? ユウタってモエのファン?」

「別にモエ目当てじゃないよ。見始めたら続きが気になるだろ」

「気になってたのに、うたた寝したんだ。宿題はちゃんとした?」

 ユウタが答える前に「してないわけないか」とトウカが先回りして言った。

 ユウタは優等生ではないけれど、宿題をせずに学校に来るなんてことはない。波風は立てず、周りに迷惑はかけない。自己主張せず何も求めない。母親のような生き方はしない。それがユウタのモットーだ。

 ユウタを八方美人だと言うクラスメイトもいたけれど、彼自身にもその自覚はあった。教師にとっても友人にとっても扱いやすい存在でいれば平穏な日々を過ごしていられる。だから、陰口にいちいち反論したりはしない。

「ユウタはモエみたいなのがタイプなんだ」

「だから、違うって」

「誤魔化さなくていいよ。モエを嫌いな男子なんていないんだから」 

 トウカの唇は今日は桜色だった。朱色の口紅は嫌いなのに、淡い色だと物足りなさを感じる自分にユウタは呆れる。そしてふと、第一資料室で見たモエがどんな口紅だったか気になった。深緑の髪と白い肌、色素の薄い瞳、唇の色は――思い出せなかった。スマホ画面のモエは化粧をしていないような自然な化粧。

 トウカはイヤホンを机に置くと、窓際の女子たちに混じった。「高波センセイが」と、浮かれた声がユウタの耳に入ってくる。

 ユウタはスマホ画面に視線を戻し、動画の一時停止を解除した。エンディング曲が流れ始め、時計を確認して冒頭から再生し直すと、幽霊に扮したモエが教室をのぞき込んでいる。

 実のところ冒頭シーンを見るのは五度目だった。昨夜の放送も全部観たし、その後オンデマンドで二回視聴した。ついさっき観終わったのが四度目。

 ユウタは動画をスキップし、16:43に合わせた。

 モエが演じるエチカの足元はぼんやり霞んでいる。エチカは成仏できないまま学校に棲みついた女子高生幽霊という設定だ。 

『あの場所で待ってるから、誰にも見つからないように一人で来てね。朝の職員会議の時間なら先生にもバレないよ』

 西日の射す二人きりの教室で、エチカの頬は茜色に染まっていた。彼女を見上げているのは男子高校生のトモヤ。

 トモヤには霊感があり、神主で教師でもある神谷の助手をしていた。さまよう魂を成仏させるための手伝いだ。神谷は幽霊エチカの存在に気づいていたが、人を害する様子がないため除霊を後回しにしている。一方、エチカに恋するトモヤは密かに彼女との距離を縮めていった。しかし、エチカはいずれ神谷によって成仏させられる運命にあり、トモヤは葛藤する。そんな話だ。

 エチカはきっとトモヤの手で成仏し、笑顔でこの世からいなくなるのだろう。涙のハッピーエンド。それがユウタの予想だった。

 じゃあね、とエチカが手を振り、窓をすり抜けて飛んでいった。ユウタはもう一度16:34に合わせる。

『あの場所で待ってるから、誰にも見つからないように一人で来てね。朝の職員会議の時間なら先生にもバレないよ』

 ユウタの鼓動は速まり、何度聞いてもこれが自分に向けたメッセージのように思えてならなかった。時計を見るとホームルームまであと十分。今まさに職員会議の真っ最中だ。

 ユウタは弾かれるように席を立って駆け出した。扉のところですれ違ったクラスメイトが「おっと」と脇に避ける。

「ユウタどっか行くの?」

「ダッシュでトイレ!」 「漏らすなよ」

 笑い声を背後に聞きながら、ユウタは焦る気持ちをそのまま足に乗せた。

 エチカが口にした「あの場所」とはきっと第一資料室に違いない。そこにモエがいなければ、きっとこの気持ちに区切りがつく。無駄な期待は捨ててさっさと平穏な日常に戻ればいい。

 転げ落ちるように階段を駆け下りると、クラスメイトの顔が目に入って「っはよ」と声をかけた。

「ユウタ。どこ行くの?」

「ヤボ用」

「また一年から呼び出し?  今年に入って何人目だよ。そろそろ彼女作れば?」

「そんなんじゃねえよ」

 大声で会話して下足置き場を通り過ぎ、紺色ネクタイの一年に混じった。保健室の前を駆け抜け、階段へ向かう人波を押しのけて第一資料室のドアを開ける。すぐさま後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。電気は点けない。

「おはよう、ユウタ。やっと会いに来れた」

 モエの声だ。

▶20XX/06/05(2)

▶20XX/06/05(2)

 窓が半分開けられ、裏山の手前にあるフェンスに鳥がとまっていた。葉擦れの音が廊下の雑音を覆い隠し、日常が遠い世界になる。

 ユウタの目の前にいるモエは艶を帯びた黒髪だった。

「モエ、その髪。それに制服……」

 白いブラウスに緑色の細いネクタイ、スカートは紺と深緑のタータンチェック。似ているけれどこの学校のものではなかった。彼女は書架の間を抜けて窓を全開にする。

「学校探検するなら目立たないほうがいいでしょ?」

「それ、モエが高校のときの制服? それとも撮影用の衣装?」

 モエは質問には答えず、ヒョイと窓枠に腰かけた。スカートの裾を押さえて片足を外に投げ出すと、もう片方の足も引き抜いて顔だけユウタに向ける。

「行くよ」

 呆気にとられるユウタに、彼女は「早く」と手招きした。職員会議が終わったらしく廊下から担任と養護教諭の声が聞こえ、ユウタは壁際に身を寄せ息を殺す。ふと窓を見るとモエの姿は消えていた。

「じゃあ」

 高波の声がしてスリッパの音が遠ざかり、ユウタは慌てて窓へ駆け寄り身を乗り出す。

「モエ?」

 しゃがみこんだ彼女が頬を膨らませてユウタを見上げていた。

「ユウタがさっさとしないからバレるかと思った」

「高波はモエが学校に来てるって知らないの?」

「知ってるよ。でも、あたしが学校で何してるかは知らない。ここにいるのがバレてマズイのはあたしじゃなくてユウタでしょ?」

「じゃあ、なんでモエが隠れるんだよ」

「あたしのせいでユウタが授業サボったって疑われたくないもん。会いに来れなくなるじゃない」

 モエはパンパンと音をさせてスカートを払った。

「ユウタが行かないならいい。あたし一人で行くから」

 校舎沿いに歩き出したモエのあとを、ユウタは慌てて追いかけた。腰あたりまである黒髪がユウタを誘うように揺れている。

「モエ。その髪、カツラ?」

「違うよ」

「地毛?」

「地毛ともちょっと違うかな? 今だけ特別なの。制服とセットでお試し価格。せっかくだから学校の制服着たかったんだ。やっぱり、プレイエリアを日本に選んだ時点で髪色は黒にすべきだったのかも」

「プレイエリアって、ゲームの話?」

「さあ? 意味不明だよね」

 モエは悪戯っぽく笑う。非常階段の下で人目をはばかるようにあたりを見回し、「ここならいいか」と一番下の段に座った。

「どうぞ」

 隣に空けた一人分のスペースを手で叩き、金属が鈍い音を響かせる。ユウタはそこには座らず、校舎に背を預けて地べたに腰を下ろした。

「あたしの隣は嫌なの?」

「モエの隣なんて緊張する。それに、隣に座ったらモエの顔が見えない」

「顔が見たい?」

「そういうわけじゃないけど、やっぱりキレイだなって」

「作り物よ。こんな顔」

「整形とか?」

「整形?」

 モエが素っ頓狂な声を出し、ユウタはしどろもどろに「ごめん」と謝った。

「気に障った? 整形のことはよくわからないけど、モエの顔は昔と変わらないように見えるし」

 モエはアハハッと笑い声をあげ、うなじにこもった熱を逃がすように髪を両手でかき上げる。

「気に障るとかじゃないけど、整形かぁ。ある意味そうかもしれない。自分の好きなように作った顔だから」

「どういう意味?  それに、さっき言ってた髪の色が制服とセットだとか。染めたの?」

 モエは小首をかしげ、うっとりと自分の髪を梳く。

「黒髪って綺麗ね」

「モエは元々黒髪? 前から思ってたけど、肌も白いし日本人っぽくないよね」

「ニホンジンっぽくない、か。やっぱり視覚情報って重要なのね」

 空を見上げたモエは、遠い目をして深呼吸した。

「ねえ、ユウタ。あたし、嘘が下手だからバラしちゃうね」

「バラす?」

 あのね、とモエは唇に人差し指を当てる。

「この世界は作り物。ゲームなの」

「え?」

 ユウタが眉をひそめると、モエはまたアハハと笑った。

「アブナイ女って思ったでしょ。でも本当。あたしはゲームのプレイヤーで、この姿は自分で設定したの。あたしのアバターが〈モエ〉。この黒髪と制服はオプションで購入できるんだ。今だけキャンペーンで一週間お試し無料」

 モエはスカートに触れ、「かわいい」と無邪気な笑みを浮かべる。ユウタはその笑顔を見つめながら彼女の言葉の真偽を考えていた。嘘をついているように見えないけれど、嘘にしか思えない。ユウタの動揺をよそにモエは喋り続ける。

「あたしはタレントのモエだから、普通にプレイしてたらユウタには会いに来れないんだ。この前は撮影っていうミッションがあったから特別。今あたしがここにいるのはルール違反なの。強引なやり方で来てるからバグっちゃったみたいで、演技派のモエでも人間じゃないってバレちゃう」

「何言ってるのかわかんないよ。モエは人間にしか見えない」

「人間じゃないよ。だってほら」

 モエは腰を浮かせ、ユウタの腕を掴んだ。

「ほら、バレちゃった」

 ユウタはいくら目を凝らしても目の前で起きていることが理解できなかった。モエはたしかにユウタの腕を掴んでいるのに、圧力も、温度も、何も感じられない。五感と思考回路が一致せず、目を閉じるとまるで一人きりだった。

▶20XX/06/05(3)

▶20XX/06/05(3)

「ユウタ」

 モエの声が間近で聞こえ、草の香りが鼻先をかすめた。目を開けると何かで陽光が遮られていたが、すぐにそれがモエの顔だと気づく。

「なんちゃってキス」

 彼女は照れ笑いを浮かべたが、そのキスはまったくの無感触で本当にしたのかどうかもわからなかった。それはつまり妄想と一緒だ。ふと、幽霊のエチカが頭を過った。

 エチカはトモヤに触れることができないし、トモヤもエチカに触れられない。モエがエチカと違うのは、空を飛んだり壁をすり抜けたりできそうにないこと。

 モエはユウタの隣に座ると彼の肩に頭をのせた。長い黒髪がユウタのシャツを滑り落ちていく。

「モエは、アバター?」

「うん。あたしがちゃんとした手続きでログインしてれば、体温も匂いも感じられる。触れるし、キスもできる」

「キスはしたんだよね」

「うん。したよ」

 ユウタの頭には疑問が浮かんだ。

 モエがアバターならユウタ自身は何者なのか。その答えはモエが知っているのだろうし、ユウタ自身も想像がついていた。けれど、口にする勇気はなかった。口にしてしまえば自分の心がガラガラと音をたてて崩壊しそうだったから。

 空には薄い雲がかかり、視界を一羽の鳥が横切って、ユウタはトウカと一緒に校舎裏に来たときのことを思い出した。二年になってすぐの生物の授業で、植物採取のため二人で校内を回ったのだ。

 あのとき「つきあっちゃう?」とトウカは軽い口調で言って、ユウタが返事をする前に「冗談だし」と背を向けた。ユウタはやりきれない気持ちで空を見上げ、その時も今みたいに一羽の鳥が飛んでいたのだ。

 喉元まで出かかっていた「つきあおうか」という言葉を、ユウタは未だに飲み込んだままにしている。そして今、モエから世界の秘密を聞かされ、そこから目を背けるように自転車で二人乗りしたときのトウカの体温を思い出している。

「ユウタ」

 モエが差し出した手は空気みたいだった。

「意味が分からないよ」

「分からなくても、そういうものなの。あたし限定で感覚器官が麻痺してると思えば納得できない?」

「モエは何も感じないの? 俺以外のものはちゃんと触れるの?」

「ゲームの登録情報を元に、あたしと接触する可能性が認められる人間には触れられるっぽい。蓋然性がどうとかって言ってた。あとはプレイヤー同士ならOKみたい」

「プレイヤー同士?」

「うん。高波先生とかね」

「高波が?」

「彼とはこっちの世界で会ってないから、彼に本当に触れるのかよくわからないんだけど」

 頭がクラクラした。モエは非常階段をゆっくり上り、ユウタは彼女の手を(見せかけだけ)握った状態で後に続く。二階、三階、四階と上がるにつれ視界がひらけていった。

「ねえ、モエ。高波とはどんな関係?」

「コイビト」

 繋いだ手が離れたことに気づかないまま、モエはユウタを置いて階段を上っていく。屋上にたどり着いてようやくユウタがいないことを知り、

「ユウタ、ショックだった?」

 子どもを諭すように声をかけた。ユウタは踊り場に立ちすくんでいる。

「混乱してる。この世界でモエが高波と接触する可能性はあるけど、俺と接触する可能性はないってことだよね。可能性がない俺にわざわざ会いに来たのはどうして?」

「可能性って、信じることだって思う。ルールの外に出れば、可能性もゼロじゃなくなるかもしれない」

 信じることほど虚しく、期待することほど愚かなことはない。ユウタはうつむいて吐息を漏らした。

「実験用モルモットって、こんな気分かも」

 高波とモエが恋人なら、ユウタとのキスは好奇心からの行動に過ぎない。触れることのできない相手にキスをしたら――という、ただの接触実験だ。

 重い体を引きずるようにユウタは階段を上った。足先から伸びる影が、離れることなくついて来るのがなぜか鬱陶しく感じられる。

 モエの言葉を信じるなら、ユウタは架空の世界の住人だ。プレイヤーなら〈現実〉の記憶があるはずだが、ユウタにはこの世界の記憶しかなかった。モエにとってユウタはNPC(ノンプレイヤーキャラクター)で、プレイヤーの言動に反応するだけの存在。

 絵画の上に人形を置いてままごとをするようなものかもしれない。ユウタは絵に描かれた人間で、モエは絵画の上に置かれた人形。モエの世界とユウタの世界にはそれくらいの隔たりがある。

 ユウタがモエの前に立つと、彼女は悲しげに目を潤ませていた。

「実験用モルモットはあたしの方だよ」

 ユウタの言葉はモエの耳に届いていたらしい。 

「あたしはずっとベッドに寝たきりで、色んな機械に繋がれて、朝も昼も夜も何種類も薬飲まされるの」

「このゲームのために?」

「そうじゃない。あたし病気なの。小さい頃からずっと病院暮らしで、家にいたことなんてほとんどない。新しい治療法とか薬とか、うんざりするほど試したのに、今はもうベッドから一歩も動けなくなっちゃった。最悪だよ」

 吐き捨てるように言うと、モエは突然駆け出した。そしてフェンス際で振り返り、ユウタに向かって大きく手を振る。

「こっちが現実ならいいのに!」

 誰かに見つかってしまうのではないかと心配したけれど、彼女は気に留めず全身で笑う。ユウタも思わず駆け出し、気持ちの欲するままに彼女を抱きしめた。 「全部、嘘ならいいのに。モエはちょっとアブナイ女で、高波を頼って学校に忍び込んで、俺に会いに来た。そうだったらいいのに」

「そうだよね。ほんと、生きてるとままならないことばっかり。自分の意志なんてない。まわりのみんなは優しいけど、比べちゃうんだ。みんなにできることがあたしにはできない。あたしはあたしって励ましてくれるけど、本当にわかってくれることなんてない。体が動かないのはあたしのせいじゃないけど、でもそれがあたし。あたしって何だろう。たまに、神様があたしを実験台にしてるんじゃないかって思う。神様が作ったゲームの中で、それを現実だと思い込まされてるだけなんじゃないかって。でも、それでいいんだ。――世界のすべてを知らなくても、あたしはあたし。それはきっと、車の構造を知らなくても運転できるっていうのと同じ。DNAがどんな塩基配列になっているか知らなくても生きてるのと同じ。理屈は分からなくても、あたしがこうしてユウタの目の前にいるのとも、たぶん同じ」

 モエの言葉はエチカの台詞を真似たものだった。

「俺は何を信じたらいい?」

「世界を」

「壮大だね」

「壮大なもののほうがいいのよ。信頼が揺らいでもどこかで吸収されるから」

▶20XX/06/05(4)

▶20XX/06/05(4)

 ユウタはグラウンドから聞こえるホイッスルの音を聞いていた。一時間目は体育。耳に届くのはクラスメイトの掛け声、ホイッスルを鳴らすのは体育教師のタッペイ。

「ユウタ、一時間目サボっちゃったね。高波先生になんて言い訳するの?」

「適当に言うよ。ねえ、モエは高波のことなんて呼ぶの?」

「内緒」

「じゃあ、モエの本当の名前は? モエじゃないよね」

「あたしはあたし。この世界のあたしはモエ」

 ユウタが見つめるとモエはふいと視線をそらした。

 実際のモエはどんな顔で、どんな髪型をして、瞳は何色なのか。現実の彼女とのキスはどんな感触なのか。ユウタはモエの住む〈現実〉に想いを馳せる。

 ――ベッドに横たわるモエ。酸素マスク、点滴、バイタルチェックに来た看護師が何か記録し、ベッド脇には安っぽいスツール。そこに座る男は恋人。目を閉じたモエの青白い頬に、高波の手が触れる。

 ユウタは首を振って妄想をかき消した。

「モエの現実が知りたい。俺がいるこの場所、この世界、俺自身も幻なんだよね? ゲームを作ったやつの気まぐれで簡単に消えてしまう」

「そんなことないよ。むしろ消えるのはあたし。たぶん、そんなに先の話じゃない。あたしの現実とユウタの現実は違うけど、でも同じなんだよ。いつかあたしもユウタもいなくなっちゃう」

 モエはかすかにほほ笑んだ。

「あたしね、いつも想像するの。本当は、神様も世界を好きなようにできないんじゃないかって」

「神様なのに」

「そう、神様なのに。あたしは神様のほっぺにできたニキビみたいなもの。何かの不具合でポツンとできちゃって、そのうちなくなる。なんてね。ニキビなんてないほうがいいのに、勝手にできちゃうんだ」

「よくわからないけど、モエは神様の気まぐれで消えちゃったり、生まれたり、死んだりするわけじゃないってこと?」

「そうだといいなって思ってるだけ。神様でもどうしようもないんだって思った方が、諦めがつくから」

「諦めるとか、言うなよ」

「諦めなかったんだよ、ずっと、長い間」

 モエの寂しげだけどさっぱりした表情がユウタの胸を詰まらせた。

 ユウタは他人に諦めるなと言えるような生き方をしていない。いつも傷つかないように先回りして、モエのことも今日会えなかったら諦めるつもりでいたのだ。

「もしモエの言う通りだとして、この世界がゲームなら制作者がいるんだよね。この世界を書き換えられる神様がいるってこと。プレイヤーのモエは無理でも、NPCの俺はパッと消されるかもしれない」

 モエは首を振ってユウタの推測を否定した。 

「このゲームはちょっと特殊で、ユウタが最初からいなかった世界を作ることはできても、ユウタが存在するこの世界を消すことはできないと思う。両方存在することになるの。データは時系列に沿って繋がってるから書き換えはできないんだって。あ、これは高波先生のウケウリね」

「パラレルワールドみたいな?」

「うん、それ。そもそも、このゲームは研究のために開発されたものらしくて、実際に人口予測や環境予測とかにも使われてるらしいの。スポンサーに名乗りを挙げたのがゲーム開発やってる会社だったから、こんなふうに入り込むことができるようになったみたい。職業体験ゲームとしてね」

「じゃあ、俺が突然ここからいなくなったりはしない?」

「たぶんね。わかんないけど」

「でも、この世界がゲームだなんて知りたくなかった」

 強い口調で言うと、そっか、とモエはため息をついた。

 自分が頑なになるのは高波への嫉妬かもしれないとユウタは思う。自分が惹かれているのがタレントのモエなのか、ドラマの中のエチカなのか、腕の中にいるアバターか、そんなことをぐるぐると考えてしまう。本当のモエはそのどれでもなく〈現実〉の世界でベッドに臥せる顔も知らない女だというのに。

「ユウタが知らない方が良かったって言うなら、そうしてもいいよ。でも、あたしはもう君には会いに来ない」

 モエはまっすぐユウタを見つめた。

「それは、モエがもうこの学校に来ることはないってこと?」

 モエは首を振り、フェンスに手をかけるとグラウンドをながめる。

「学校はあたしの憧れ。だからここにはまた来る」

「学校には来るけど、俺には会わないってこと?」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。やり直すの。ユウタにこの世界のことを喋っちゃう前に戻って、そこからリプレイする。あたしは何も喋らない。ユウタにあたしがアバターだってバレないようにする」

「いま一緒にいたこの時間はリセットされるってこと? 俺の記憶はなくなるの?」

「君の記憶は残るし、あたしと一緒にいた時間も消えないよ。ただ、この後に続く世界にあたしは来ないってこと。さっき言ったでしょ、パラレルワールド。このゲームにはいくつものパラレルワールドが存在してるの」

 ユウタの口からは「パラレルワールド」と、オウム返しの言葉が漏れた。

「非常階段の一番下で、あたしはこの世界の秘密をユウタに喋った。あの時に戻って、そこから世界は分岐する。……なんて偉そうに言ってるけど、本当はあたしもよくわかってないんだ。それに、ゲームの時間は一方向にしか進まなくて、巻き戻してリプレイするっていうのは基本できないの。でも、高波センセイが色々試してるみたいなんだ。本当はダメなんだけど」

「教師のくせに、犯罪じゃないの?」

「だから内緒。彼が色々やってくれるのは全部あたしのため。もし上手くリプレイできたら彼のおかげ。あたしはここではない別の世界線に行って、そこで君とは違う別のユウタに会う。そのユウタにはこの世界の真実は話さない」

「俺は取り残されるの? 記憶を残されたまま?」

「ひどい女だって思っていいよ。でも、あたしはユウタに会いたいし、ユウタがこの世界の真実を知らない方が良いっていうならそれも叶えたい」

「もし、リプレイに失敗したら?」

「どうなるんだろう。ユウタの記憶がなくなっちゃうかもしれないし、見つかったら登録抹消されちゃうかも。わからないけど」

「わからないことだらけだね」

 ユウタがつぶやくと、「それが普通でしょ」とモエは悪戯っぽい目で彼を見た。

 ユウタは〈この世界がゲームだと知らないユウタ〉を想像し、そのユウタの前にモエが現れるシーンを思い描く。嫉妬と同時に同情心を抱いたのは、そのユウタもモエに触れることができないからだ。 「ねえ、モエ。モエがアバターだってことを隠しても、俺はいつかきっと知ることになると思う。モエがいくら気をつけても、俺は」

「俺は?」

「こうしたいと思うから」

 手を伸ばし、ユウタはモエの手首を掴んだ。

「モエに、触れたい」

「生徒と教師と、不法侵入者の三角関係?」

 はぐらかそうとしているのか、モエはクスッと笑う。

「モエ。この世界での恋人は募集してないの? それとももういる? モエはモテそうだもんね」

 冗談めかして聞いたけど、モエはその質問には答えなかった。

「集合!」

 タッペイの声がかすかに聞こえ、モエはグラウンドに目をやった。ユウタは小さな人影の中にトウカの後ろ姿を見つける。

「ねえ、あたしもユウタに触れたいよ」

「俺に? 高波じゃなくて」

「高波先生には、触らない」

「恋人なのに」

「彼が待ってる。だからあたしは現実に帰るの。高波先生は、彼じゃない」

 ユウタには彼女が怯えているように見えた。モエはあとどれだけの時間を〈彼〉と過ごすことができるのか。幽霊のエチカのように、モエは自分が世界からいなくなることを覚悟しているようだった。

 ドラマの中でトモヤとエチカが互いに触れ合うことができないように、モエとユウタも触れ合うことはできず、そしてエチカもモエもいつか消えてしまう。トモヤの恋も、ユウタの恋も報われることはないのだ。

「モエ、俺が待ってる。だから、またここに来て。モエのことをアバターだって知ってる、この世界がゲームだって知ってる俺のところに」

「うん」

 モエの潤んだ目を見て、NPCの自分にはやはり意思などないのだとユウタは思った。傷つくだけだと分かっているのに、モエに惹かれるのをどうすることもできない。きっと、この世界に生まれた時からモエに惹かれるよう設計されていたのだ。この気持ちがバグだとしても、ユウタ自身がそれを修正することはできない。

 見上げた空を飛行機が過ぎっていった。あの飛行機はどこに向かうのか。何人の人間が乗っていて、それはどんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。

 ユウタは手をかざし、視界から飛行機を消した。隣で、モエが同じように手をかざしていた。

▶20XX/06/05(5)

▶20XX/06/05(5)

 教室の自分の席でユウタは高波の後ろ姿をながめていた。

 高波がアバターならば彼の容姿が整っているのも女子にモテるのも納得できる。数学教師としてプレイする高波にとってこの世界はゲームで、ログアウトすれば恋人が待っていて、そこに彼の日常がある。高波が単なる娯楽としてこの世界に来ているのか、それともモエのためにゲームをしているのか、本人に聞いてみたいけれどさすがにそれは無理だった。

 高波の目を盗んで振り返ったトウカが、ユウタの机に小さな紙を置いた。そこにはこんなことが書かれている。

『もしかして彼女できた? 体育サボって屋上いたよね。一緒にいたのって一年?』

 トウカに見られたのはどの瞬間だろう。ルーズリーフの端を四角くちぎり、ユウタはトウカに宛ててメッセージを書いた。椅子を蹴って合図を送ったときチョークの音が途切れ、トウカは振り返らずに背筋を伸ばす。

 高波がカンカンと音をさせて黒板の文字『i』を指した。

「アイがある部分を虚部と言います」

 高波の声を、ユウタの脳は誤変換する。――愛がある部分は、虚部。

 クラスの半分くらいが黒板の文字を見つめ、残りの半分は下を向いていた。ユウタはルーズリーフの端に『ゲームを終了する』と書いてペン先でタップしてみたが、当然ながらログアウトできない。

 高波が説明するiがこの世界で何の役に立っているかわからないけれど、数学が高波の世界と共通しているのは確かなようだった。iを理解すれば、この世界を包摂する彼らの世界のことも理解できるだろうか。モエとの間にある隔たりを取り払えるだろうか。

 トウカがタイミングを見計らってサッと振り返り、ユウタはメモ書きを渡した。そこにはこう書かれている。

『人ちがい 土手でアンパン食ってねてた』

 トウカは疑わしげにユウタを一瞥し、背を向ける。その背中を見つめながら、ユウタは屋上でのことを思い返した。

「もうそろそろ帰ろうかな。疲れちゃった」

 モエはそう言って屋上のコンクリートに寝転がった。傍で見下ろすユウタに「またね」と微笑んで目を閉じる。

「一人にならないとログアウトできないの」

「モエ、今度はいつ会える?」

 返事はなく、ユウタは非常階段の踊り場まで降り、十数えて屋上にあがるとモエの姿は消えていた。

 ユウタはモエがいた場所に寝転がってしばらくぼんやりし、そのあと教室には戻らず、自転車に乗ってカメレオンベーカリーへ向かった。アンパンを買って土手で食べ、学校に戻ったのは午後の授業が始まる直前だ。教室に入ってきた高波が「あとで職員室に」とユウタに耳打ちし、いつも通り授業が始まったのだった。

 スリッパを擦る音が机の間を移動している。顔を上げると高波と目が合ったが、ユウタが顔をそむけずにいると彼は真顔のままわずかに視線を移動した。そして不意に笑みを浮かべる。トウカが高波に向かって小さく手招きをしていた。

「センセ。ここはこれでいいんですか」

 トウカの声を聞きながら、ユウタはノートの端にiと書き、四角で囲んだ。愛の四角関係かもね、と頭の中でモエに話しかける。

 ユウタの心をかき乱す彼女はこの世界に存在しない。思考と戯れてばかりいるユウタは自分に実体があることをもどかしく感じることがあったけれど、本当はいつもあたたかな腕で抱きしめられることを求めているのだ。

 高波がトウカの席から離れ、ユウタはからかうつもりで前の椅子を蹴った。トウカは反応することなく、ノートに鉛筆を走らせている。

▶20XX/06/05(6)

▶20XX/06/05(6)

「ちょっと職員室で話そうか」

 数学の授業のあと、ユウタは高波に連れられて教室を出た。後ろ頭を見上げる顎の角度が上向きなのを悔しく思いながら、大人しく後ろをついて行く。薄い水色のストライプのシャツを着たアバターからは、かすかに柑橘の香りがした。

 職員室に入ると高波は自分の席に座り、ユウタを見上げて指でコツコツと机を叩く。

「ユウタ、何かあった?」

 その瞬間、苛立ちがユウタの胸の中で弾けた。アバターのくせに。モエの恋人のくせに。

「家のことでちょっと」

 ユウタは愛想笑いではぐらかしたつもりだったが、隠しきれない本心がぶっきらぼうな言い方になった。

 ユウタの家の事情は一部で噂になっていて、母親が家を出ていったことは高波も知っている。少し前にもその件で呼び出されたが、根掘り葉掘り聞くわけでもなく、ユウタはその淡白さに好感を覚えたのだった。しかし、高波がアバターならあの態度の意味は変わってくる。

 不意に、母親もアバターではないかという考えがユウタの頭を過ぎり、サッと血の気が引いた。

 職業体験ゲームのアバターなら、職業と無関係の息子に関心がなくてもおかしくない。家をあけてばかりだったのも納得がいく。父親はNPCで、自分と同じようにアバターに惚れたのだろうか。でも、職業体験でアバターが子どもを産むなんてあり得ない。

「そうか。家のことか」

 高波の声でユウタの思考は途切れた。

「先生とは関係ないことなので放っておいて下さい」

「そう言うな。僕が口出しすることじゃないのは分かってるけど、話くらい聞くから」

 高波は励ますようにユウタの腕を掴んだ。モエには触れられないのに、高波の手を知覚するのが腹立たしい。振り払いたい衝動を我慢していると、予鈴が鳴って高波の手が離れた。

「次の授業は世界史だっけ。遅れるなよ、ユウタ」

 高波は椅子を回し、ユウタが「先生」と呼びかけると顔だけこちらに向ける。

「先生、歴史を勉強する意味って何ですか?」(どうせ、歴史も過去もゲームの設定なのに)

「ユウタは歴史に興味ない?」

「それが本当にあったことなら知りたいです。歴史って、本当にあったことなんですか?」

「あったとされていること、かな。新たな発見で史実が覆されることもあるし。なんにせよ、昔を知ることは大事だよ。温故知新。過ちを繰り返さないように過去から学ぶんだ」

「過ちって、後の人間がそう決めつけたものでしょ」

 ユウタの言葉に高波は肩をすくめ、腕時計をチラと見た。

「これ以上は世界史の先生に聞いて。ほら、急がないと。午前サボり、午後も遅刻じゃマズイだろ」

 会話を打ち切るように高波は椅子から立ち上がった。

 本鈴が鳴り始め、高波は「廊下は走らずに急げ」と念を押して第一資料室のドアを開ける。ログアウトするのかもしれないと閃き、ユウタは心の中で十数えてから資料室のドアを開けた。

「先生?」

 返事はなく、書架の間をくまなく歩いても担任の姿はなかった。

 高波やモエがいなくても世界は続いている。それは彼らの他にもプレイヤーがいるからなのか、それとも、この世界においてゲーム要素は副産物で主目的が研究だからか。

 プレイヤーがいなくなっても思考し続ける自分の脳が、ユウタには奇妙に思えた。自分がこうして廊下を歩いているのも、実際にはコンピューターの中で電気信号が流れているだけのこと。そう考えると真面目に授業を受けるのがバカバカしくなり、遠回りして教室に向かった。

「遅刻!」

 鋭い声を飛ばしてきたのは胡麻塩頭の中年教師。

「すいません。担任に呼び出されてました」

「なら仕方ないな。早く席につけ」

「はい」

 トウカが「おかえり」と囁き、ユウタは「ただいま」と返す。モエと高波の間でも同じようなやりとりがあるのかもしれない。

『おかえり』『ただいま』

 ユウタの想像は止まらない。ベッドに上半身を起こしたモエが、VRゴーグルを外した高波に声をかける。

『お仕事お疲れさま。仕事って言ってもゲームだけどね』

『そっちこそ、疲れてない?』

『平気。あなたに会うために現実に帰ってきたのよ』 

 二人が重ねる唇はユウタとモエのキスのような「なんちゃって」ではなく互いの体温を伝えあう。妄想の中の二人の姿はモエと高波のままで、容姿端麗な二人のキスシーンはどこかリアリティがなかった。

 ユウタは小さくため息をつき、教科書のパルテノン神殿をながめた。紀元前に建てられたこの世界遺産は、彼らの〈現実〉にもあるのだろうか。ゲーム設計者が作ったのか、この世界のNPCが勝手に建造したのか。

 パルテノン神殿のように、このゲームにはいつまでもユウタのデータが残るのかもしれない。不思議なのはモエや高波のようなプレイヤーの存在だった。彼らがログアウトしてもこうして時間は進み、彼らはこの世界で連続して存在していない。ログインすればそこからスタートし、ログアウトすれば消える。

 明日モエが会いに来たとしても、それは一週間後の彼女かもしれないし一年後の彼女かもしれない。一週間後にモエが現れても、ついさっきログアウトした直後にログインしたという可能性だってありうる。たとえモエがずっと現れなかったとしても、ユウタは死ぬまでモエを待ち続ける気がした。

 教室にはチョークの音が響き、生徒の三割がコクリコクリと船を漕いでいる。ユウタは机の陰でスマホを操作し、音を消してドラマを再生した。

 トモヤがエチカに手を伸ばし、その手がエチカの体をすり抜ける。そして彼はじっと自分の手を見つめる。

『なにがちがうんだろう。ぼくとエチカは』

『からだがあるか、ないか。かな?』

 音声がなくてもユウタは台詞を覚えていた。トモヤとエチカの違いが体の有無ならば、彼ら二人に共通するものはなんだろう。

「……ウタ、ユウタ」

 トウカの声で顔を上げると、いつの間にか授業は終わっていた。すでに教師の姿はなく、トウカが怪訝そうに首をかしげている。

「ユウタ、やっぱり今日変だよ。もしかして彼女できたんじゃなくて、フラれた?」

 ユウタが口ごもると、傍にいたクラスメイトが反応した。

「ユウタ君が? じゃあ、わたし立候補」

「ダメだよ。ユウタはみんなのユウタなんだから」

「こらこら。傷心のユウタをからかわないで。ね、ユウタ」

 トウカがクラスメイトを諌める。

「いや、フラれてないから」

「じゃあ、上手くいったの?」

「だから、そういうんじゃないって。からかってるのはお前だろ、トウカ」

 友人たちは「なあんだ」と期待はずれの顔で帰っていった。女子二人が「センセのとこ行ってみよ」とトウカに声をかけたが、彼女は「ごめん」と手を合わせる。

「今日用事あるから、あたし先に帰んなきゃ」

「そっか。じゃあ、あたしたちがしっかり聞いといてあげる」

 思わせぶりな笑みを交わし、女子二人はパタパタと廊下を駆けていった。

「ユウタ、帰ろっか」

「用事あるんだろ。先帰っていいよ」

「土手まででいいから送ってよ。自転車で」

「俺は無料タクシーではありません」

「とか言いながら送ってくれるくせに」

 ユウタの返事を待たず、トウカは軽い足どりで教室を出て行く。帰る前に屋上をのぞいてみるつもりでいたユウタは、ため息を吐いてトウカの後を追った。

 トウカは自転車の荷台に座ってユウタの体に腕を回し、ユウタはその手がモゾモゾと動くのを腹のあたりで感じた。もしこれがモエだったらと想像したが、それはトウカの声で遮られる。

「ユウタ、屋上のあの子に見られたらヤバいって考えてる?」

「まさか」

 ユウタはペダルを踏み込んだ。トウカはそれ以上〝あの子〟の話題には触れず、クラスメイトを見かけるたびに「バイバーイ」と手を振る以外は黙ってユウタにしがみついていた。

▶20XX/06/05(7)

▶20XX/06/05(7)

 川を右手に見ながら土手道を走ると、じきに橋が見えてくる。トウカの家はさらに上流にあったが、ユウタの家は橋を渡った対岸の住宅地。

「トウカ、どこまで乗ってく?」

「止めて。ここでいい」

「えっ?」

 ユウタが慌ててブレーキをかけると、ちょうど桜の下に自転車は止まった。体に巻きついていたトウカの手が離れ、ユウタの背を風がなでる。

「ここでいいのか?」

「うん」

 トウカは自転車のカゴから鞄を取って肩にかけた。ユウタはふと思い立ち、桜の木に自転車を寄せて鍵をかける。

「ユウタ、どっか行くの?」

「ちょっと土手をブラブラするだけ。じゃあな」  

 トウカに背を向け、ユウタはいつものように土手を下りていった。砂利道は橋の方に向かって斜めに続き、ずっと下で川べりの遊歩道に出るようになっている。

 草の擦れあう音にユウタはモエの髪を思い出した。立ち止まって目を閉じると草の香りで肺が満たされ、車の排気音やどこかの工事の音、鳥のさえずりが聞こえてくる。しばらくすると背後から足音が近づいてきて、振り返るとトウカが立っていた。彼女は鞄の持ち手を握りしめ、唇を固く引き結んでいる。

「トウカ、用事があったんじゃないの?」

「ユウタに、用事」

「俺に?」

 ユウタを追い越し、トウカは大股で砂利道を下っていった。三本線の入ったスニーカーは一年の頃からずっと変わらない。ユウタの三歩先にトウカの背中があり、その背中はユウタを拒絶するように先へ先へと進んでいく。川べりの道を上流方向へ向かい、橋で日差しが遮られると、唐突にトウカは足を止めた。

「おっと」

 慌てて立ち止まったユウタに、トウカは挑むような眼差しを向けてくる。

「屋上で抱き合ってたの、誰?」

「だから、俺じゃないって」

「じゃあ、つきあっちゃお」

「え?」

 トウカはユウタのシャツを掴んで引き寄せ、強引に唇を重ねた。

 ユウタの頭は「なぜ」で埋め尽くされ、宙ぶらりんになっていた手でトウカの背に触れ、背中、髪、腕、手首、そしてシャツを掴んだ指先へとたどり着く。ぬくもりと湿り気と、汗と、花のような匂い。この感覚がなくなってもトウカの存在を感じられるのか――ユウタはそんなことを考えた。

『接触実験』

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ユウタはトウカの体を引き離した。視線がぶつかり、目をそらすと急に心臓が騒ぎはじめる。

 ――俺はゲームのモブキャラで、システムに従って動いているだけだ。

 気持ちを静めようとそんなふうに考えても、すべてが生々しかった。この世界の現実感が増し、反対にモエの存在が薄らいでいく。この先ずっとモエに会えなかったら――そう考えると、本能がトウカを求めた。

 しかし、ユウタがトウカを抱き寄せようとすると彼女は拒むように身を固くする。

「ユウタごめん、冗談。さっき言ったこと忘れて」

 ユウタはうんざりし、放り出すように手を離した。

「勘弁してよ。冗談でキスするとか意味わかんない」

 日が傾いて陽光が橋の下に差し込み、トウカはまぶしそうに目を細める。

「……キスするまでは、そのつもりだったの」

「そのつもりって?」

「だから、ユウタと。でも、キスしたら、なんでセンセじゃないんだろうって」

 トウカの目から涙がこぼれた。

「トウカ、高波に告白したのか?」

「恋人がいるんだって」

「恋人がいるって、高波が自分で言ったの? いつ?」

「お昼。数学の授業の前にみんなでセンセのとこに行ったの。その時、サプライズでプロポーズしたいけど何かいいアイデアないかって聞かれたんだ。センセの恋人、入院してるみたいで、早く結婚して近くで支えてあげたいんだって」

 ユウタは自分が感じている同情がトウカへのものなのか高波へのものなのかわからなくなりひどく虚しい気分になった。

「けっこうマジだったんだ、トウカ」

「そんなつもりなかったんだけど、なんか自分でも意外」

 ユウタは泣き笑いのトウカを抱きしめ、彼女は抵抗することなく腕の中でしゃくりあげた。

「トウカは諦めるの?」

「他に、どうしろっていうの?」

 トウカの恋愛が成就する可能性はない。先生と生徒だからとか、高波に婚約者がいるとか、トウカが考えているような理由ではなく、トウカと高波は生きている世界が違う。ユウタとモエのように。

 ――ああ、でも俺よりマシか。

 高波はアバターだけれど、トウカは生徒役として教師役の高波と接触できるのだ。

「ユウタはフラれてないんでしょ。いつか紹介してね」

 いくらか和らいだ表情でトウカが言った。ユウタは否定しかけたけれど、意味がないような気がしてやめる。 「フラれたようなもんだけど、諦められないみたいだ。たぶん、トウカとつきあった方が傷つかないんだけど」

「誰かの代わりは嫌だよ。ユウタだって、高波センセの代わりは嫌でしょ?」

 母親のことが頭に浮かんだ。母にとって父は誰かの代わりだったのか、それとも唯一の存在だったのか。

「いつまで抱きついてるの」

 トウカがいつもの軽い口調で言い、ユウタの胸を両手で押す。明るく振る舞おうとするトウカをユウタは好きだと思った。もしモエと会っていなければ、今この場で「つきあおう」と口にしたかもしれない。

 ユウタが何人かの女子から受けた告白を断ってきたのは、トウカのことが頭にあったからだ。高波を追いかけるトウカをながめながら、一番近くにいるのは自分だと思っていた。

「トウカ、これからも高波の追っかけするの?」

「たぶんね。だって、センセはアイドルだから」

「さっき俺にしたみたいに、強引にキスしちゃったら?」

「やだよ。そんなのできない」

 トウカはユウタの腕を小突いた。その感覚は心地良く、ユウタはここにいることを許されているような気分になった。

 翌日、学校で会ってもトウカとの関係は変わらず、高波とトウカの距離も変わらないようにユウタには見えた。高波が担任として毎日教室を訪れる中で気になったのは、目の前にいる高波は〈彼〉自身がログインしてプレイしているものかということ。

 似たり寄ったりの日々の業務を繰り返しプレイしているとしたら、〈彼〉のゲームはいつまで経っても終わらない。〈プレイ中〉の高波と〈オートモード〉の高波がいると考えるべきだろう。

 しかし、本人なのかと高波に聞いたところではぐらかされるに違いなかった。それに、ユウタが〈現実〉を知っているということが高波にバレたらモエに迷惑がかかるかもしれない。

 ユウタは毎日高波と顔を合わせ、そのたびモエのことを考えた。高波に会わなくてもモエのことを思い出した。

 モエがようやくユウタの前に姿を現したのは一週間後。

『トモヤ。アンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』

 エチカの台詞を四回巻き戻して確認したユウタは、翌朝カメレオンベーカリーに寄って学校に向かったのだった。

▶20XX/06/12(1)

▶20XX/06/12(1)

 いつも通りの平日だった。朝起きると父親は仕事に出かけていて、ユウタは一人身支度を整えて家を出た。空は晴れ渡り、気温はぐんぐん上昇している。通勤ラッシュ前の国道を走りながら、ユウタの鼓動は速まっていた。頭にあるのはモエのことだ。

 カメレオンベーカリーでパンを四つ買い、土手でアンパンとウィンナーロールを平らげ、残りは袋に入れて学校へ向かう。教室に着くとスマホでドラマを再生した。

「ユウタってば、完全にモエのファンじゃん」

 トウカの声はオープニング曲にかき消されたけれど、表情から何を言われたのか分かった。今日のトウカの唇は朱色だ。

 スマホ画面ではエチカが地面から十センチほど上に浮かんでいた。暢気な彼女とは対照的に、トモヤは身を隠すようにあたりをうかがっている。校内で起こったある事件――女子のスカートが無差別に切り裂かれるという悪質な悪戯の犯人として、神谷が疑いの目をつけたのがエチカだったのだ。

『エチカ、しばらくどこかでおとなしくしてたほうがいいよ』

『トモヤは心配性だね。それより、あたしアンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』

 絶対よ、とエチカはトモヤの鼻先で人差し指を立て、サッと姿を消してしまった。トモヤの手が虚しく空を掴むのはいつものことだ。

 不意に画面が手で覆われ、ユウタが顔を上げると「時間切れ」とトウカの唇が動いた。ユウタは大人しくイヤホンを外し、スマホを机の下にしまう。

 高波は教卓の上で出席簿を開いていた。彼の存在はこの世界がゲームであることの証拠のように思え、ユウタはモエに会える期待感と同時に自分の存在が揺らぐのを感じる。

『アンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』

 これがモエからのメッセージかどうか、確認しなければ気が済まなかった。

 正午を過ぎてチャイムが鳴り、高波は「じゃあ今日はここまで」と教科書を閉じた。ガタガタと席を立つ音が教室を満たし、日直が黒板の数式を消していく。何人かの女子が高波のまわりに集まり、その中の一人がトウカに手招きした。

 ユウタはリュックからカメレオンベーカリーの袋を出して席を離れる。

「あれ、ユウタ。今日はどこで食べるの? また三組?」

 トウカの手には弁当とファッション誌。唇の色は雑誌の表紙モデルとそっくりだ。深緑の髪のモデルは顎をわずかに上げ、読者を見下ろすような物憂げな眼差しをしている。右肩を露出し、髪と似た色をしたワンショルダーのワンピースは爬虫類のような鈍い光沢を帯びていた。朱に塗られた唇は捕食対象をおびき寄せる罠のようだ。

「今日は部室で食ってくる」

「人気者は体がいくつあっても足りないね」

 じゃあね、とトウカは女子の群れに混じった。教室を出る間際にユウタが教壇に目を向けると、高波の視線がトウカの存在を確認するようにチラリと動く。

 高波はトウカの気持ちに気づいているに違いなかった。トウカの前で意図的に恋人の存在を口にしたのなら、教師の立ち回り方としては正解なのだろう。

「ユウタ、学食行かねえ?」

 下足場へ向かっていると友人たちが声をかけてきた。

「今から行くとこあるんだ」

「ユウタ、この前の借り。何かおごるから購買部行こうぜ」

「サンキュ。気持ちだけもらっとく」

「ユウタ君、これおすそわけ」

「ありがとう。今度お礼するよ」

 受け取ったミルキーをポケットに突っ込むと、ユウタは気持ちを抑えきれず廊下を駆け出した。

 昨日ドラマがなければ友人と一緒に学食でカレーを食べ、ついでに購買部で何か買ってミルキーをくれた友人にお返ししただろう。けれど、今のユウタの頭にはモエのことしかなかった。

『部室裏』

 その言葉が頭の中を回り続けている。

 校舎を出て坂道を上がり、生徒が行き来する部室前を素通りし、建物の裏手にまわって壁を背に座りこんだ。目の前には車二台分ほどのスペースがあり、剥き出しの土にはところどころ雑草が生えている。

 張り巡らされたフェンスの向こうに草が生い茂っているが、小高い丘の上にあるこの場所からは街並みが見下ろせた。線路が街を横切り、遠く空の下で青い海が陽光を反射している。

 パンの袋を傍らに置き、ユウタが動画配信サイトにアクセスするとファッション誌のモデルが制服に身を包んで飛んでいた。

「ユウタ。今日は授業サボらずにちゃんと受けた?」

 黒髪が風になびいていた。モエは髪を片手で抑え、ユウタの隣にしゃがみこむ。

「本人が目の前にいるのに、こんな小さな画面で見ることないでしょ?」

「本人とドラマの役は別物だよ。この中の人はエチカ、君はモエ」

「ユウタはエチカとモエどっちが好き?」

 モエの指が画面に触れ、エチカはトモヤに笑顔を向けたまま静止した。モエは顔をあげると、街の景色に目を細める。電車が右から左へと進んでいき、かすかにその音が聞こえ、青い空に飛行機雲が筋を引いた。

「そんなの聞くまでもない」

「エチカの方が好きなの?」

「まさか」

 モエは楽しそうにアハハと笑い、脇に置いてあった袋に気づいて中をのぞきこむ。

「このパン屋さん気になってたんだ。あたしに買ってきてくれたんでしょ。あ、これこれ」

 彼女が袋から取り出したのは、芥子の実がのったごく普通のアンパン。見た目は普通だが、味は絶品だ。

「食べてみたかったんだ、アンパン。日本の伝統食。アニメのヒーローにもなってるよね」

 パンにかぶりついたモエは、鼻息荒く「ふんふん」とうなずいている。その仕草がおかしくてユウタはクスクスと笑った。

「モエ、満足した?」

「うん、最高においしい。ユウタの知ってる味とあたしの感じてる味が同じなのかよくわからないけど、あたしにはおいしいよ」

 彼女の口元に粒あんがくっついていた。ユウタは無意識に彼女に手を伸ばしたが、そこにあるのは小豆の粒だけだ。

「モエは今日も黒髪なんだね。制服だし」

「うん。期限までもう少しあるんだ。サラサラストレートの黒髪ってニホン的でいいよね。懐古趣味のゲーム会社に感謝しなきゃ」

「緑の髪も似合ってるよ。どこに行っても目立つけど」

「あたしのやってる仕事ならあれもアリだよ」

 モエはスマホ画面に触れて動画を再生した。ユウタはサンドイッチを袋から取り出して封を開ける。

「ねえ、エチカとトモヤの関係って、あたしとユウタに似てると思わない?」

 モエは画面を見つめて言った。

「それはどういう意味で?」

「どういう意味だと思う?」

「エチカは、トモヤをどう思ってるのかな。トモヤはエチカが好きなんだろうけど」

「好意のようなものは感じてるよ。それが恋愛感情なのかどうかはわからない。でも、ちょっとだけ距離をおいてるんじゃないかな。だって、エチカは予感してるから。自分が消えちゃうって」

「モエも、そうなの?」

 ユウタの手がパンの袋を潰し、クシャリと軽い音がした。モエは長い髪を片側に寄せ、そっと顔を近づける。唇は赤ちゃんの頬のような淡い紅色をしていた。

「ユウタ、一般的な高校生ならここで目をそらすものじゃない?」

「俺はモエに近づきたいし、触れたい」

「無理だよ」

「そう、無理なんだ。モエがアバターだってことを俺は知ってるし、俺が単なるゲームのモブキャラに過ぎないって教えてくれたのもモエだ。そう思えば少しくらい大胆になってもいい気がしてる」

 モエは小さく笑い声を漏らし、ユウタは彼女の唇のありかを確認してキスをする。目を閉じると草の香りがした。

 瞬きほどの時間でユウタが目を開けると、モエはじっとユウタを見つめている。照れ臭さを覚えてそらした視線は、モエの襟元からのぞく白い肌に惹きつけられた。

「やらし。ユウタどこ見てるの?」

「不可抗力だよ。モエのやってるのがエロゲーなら良かった」

「これは職業体験ゲーム。エロゲーだとしてもどうせ触れられないのに」

 ふれられない、とモエは釘を刺すように口にする。ユウタはそのことに不満と不安を覚えた。

「モエは職業体験でタレントやってるんだよね。ちなみに高波の〈現実〉での仕事は何?」

「彼はセールスエンジニア」

「セールスエンジニア?」

「医療関係のシステム開発してる会社にいるんだけど、開発する人じゃなくてセールスする人。ホントはね、学校の先生になりたかったんだって」

「なれば良かったのに」

「ちょうど教員の採用が減らされた時期だったって。あたしは就職活動とかしてないからわかんないけど」

「モエはタレントになりたかったの?」

 ユウタの質問にモエは「うーん」と唸った。

「あたしは自分と一番離れた場所にいる人になってみたかった。綺麗な服を着てニコニコ笑って、歌って踊るの。それで、ドラマで色んな役を演じる」

「高校生になれば良かったのに」

「学生は職業じゃないもん。それに、勉強はもうたくさん」

「俺も。ねえ、モエ。学校の外には出られないの?」

「うん。高波先生が色々試してくれてるんだけど、これまであたしが関わった場所しか行けないって。そこのフェンスから向こうは無理。行ったら……」

「行ったら?」

「たぶん不正がバレちゃうからダメだって」

「高波がそう言ったの?」

「うん」

「そっか。海、見せたかったんだけど」

「あ、あたしも海好き。撮影で何度か行ったんだよ」

 モエは屈託なく笑う。ユウタは自分が彼女に何をしてあげられるのか考えたけれど、思いつくのはできないことばかりだった。

 ニャアと鳴き声がして顔をあげると、塗装の剥げたフェンスの上を黒猫がのんびり歩いていた。二人を見ると草むらへ降り、モエはそろりそろりとフェンスに近づいて「なぁん」と猫なで声を出す。

 モエと猫との間で「にゃあ」「ニャア」というやりとりが何往復か続き、ユウタはサンドイッチを半分にちぎってフェンスの向こう側に手を伸ばした。

「ユウタ、ずるい」

「おびき寄せてみるから、ちょっと待って」

 人馴れしているのか、猫は恐れることなくユウタの手元に近づいて匂いを嗅いだ。その仕草がモエに似ていて、ユウタが気を緩めた隙に猫はサンドイッチを奪い、ハムだけ取り出して食べてしまう。よく見ると、首元に紺色のリボンが付いている。

「あたしも触りたかったのに」

「ごめん。もうちょっと近づいて来たら捕まえられると思ったんだ」

 モエの落胆を知ってか知らずか、ペロリと口元を舐めた黒猫は優雅にフェンスを乗り越えてこちら側にやって来た。ユウタの手の匂いを嗅ぎ、顔を擦り付けてくる。

 モエは残っていたサンドイッチを猫の鼻先に近づけ、ハムをくわえた隙に抱き上げようとした。すると、するりと身を翻してフェンスに足をかける。

「あっ」

 モエが反射的に手を伸ばし、その手はフェンスを越え――……

▶20XX/06/12(2)

▶20XX/06/12(2)

 その日の授業が終わってユウタが帰り支度をしているとき、トウカがひそめた声で聞いてきた。

「今日のお昼、例の子と一緒だったの?」

 例の子、とはモエに違いなかった。ユウタが「違うよ」と答えると、トウカは「そうなんだ」と拍子抜けしたように言う。

「ユウタ、浮かれてたし、絶対そうだと思ったんだけどな」

「部室裏で猫にサンドイッチやってた」

「猫?」

 昼間の出来事を思い出してユウタは気分が沈んだ。モエがいるかもしれないと期待してアンパンを手に部室裏を訪れたものの、一人でサンドイッチを食べるはめになっただけ。ドラマの台詞で勝手に期待した自分が間抜けだった。

「あー、なんか海見たくなった」

 まだ海水浴シーズンでもないというのに、ユウタの口からはそんな言葉がこぼれ出た。部室裏から海を見たからかもしれない。

 そういえば、サンドイッチを食べた後あの黒猫はどうしたのか。モエに買っていったアンパンは半分だけ残って地面に落ちていた。猫にやった記憶はないけれど、いつの間に食べられてしまったのだろう。記憶がはっきりしないのはきっとモエのことばかり考えていたせいだ。

 ユウタはとめどない疑問を振り払うように首を振った。

「急に海に行きたいなんてどうしたの、ユウタ。センチメンタル?」

 トウカはおかしそうにユウタの顔をのぞきこんだ。

「天気いいし、なんとなく」

「海行くならあたしも乗ってく」

「乗ってくって、勝手に決めるなよ」

「気分転換しようよ、お互いさ」

 お互いさ、という言葉にユウタは少し救われる。

 トウカはもう行くつもりで立ち上がっていた。父親が帰って来るのは遅いから、それまでにご飯を炊いて、おかずはスーパーで買って帰ればいい。

「じゃあ、海までドライブするか」

「ドライブって」

 トウカを自転車に乗せ、ユウタは通学路と逆方向へ土手沿いの道を走った。見えてきた橋はいつもの橋よりも長く、二人はその手前でコンビニに寄った。ユウタはビタースカッシュのライムグリーンを、トウカはパピコを買って半分をユウタに渡す。並んでパピコを食べながら自転車を押して橋を渡ったが、河口近くで川幅が広く、橋の終わりはなかなか来なかった。

「ユウタの好きな子って、一年?」

「違うよ」

「じゃあ同級生?」

「このガッコの子じゃない」

「そうなんだ。どこの学校?」

「違う世界のヒト」

 なにそれ、とトウカが笑う。

「違う世界のヒトって、身分違いの恋みたいな?」

「そんなもん。触ることもできない」

「お嬢サマ? ユウタ、そんな人とどうやって知り合ったの」

「映画の撮影の日に学校に忍び込んでた」

「ほんとに?」

 質問攻めで聞き出そうとするトウカに、ユウタは撮影の日に第一資料室であったことをほぼそのままに話した。相手が芸能人であることは伏せたから、制服の似ている市内の有名高校の女生徒と勘違いしたようだった。

「ねえねえ、もしかしてユウタの一目惚れ?」

「さあね。そっちこそ、高波には一目惚れだったの?」

 ボロがでないうちにと、ユウタは話をトウカに向ける。

「あたし? 一目惚れじゃないよ」

「何かきっかけがあったの?」

「そういうのでもない。みんなでワイワイ言い合ってセンセのとこに押しかけてるうちに、思ったよりハマっちゃってたみたい」

 空になったパピコの容器を口に咥え、トウカはペコポコと音をさせた。

「あのさ、あたしがユウタにつきあおうって言ったの、この前だけじゃないじゃん?」

「生物のときの、あれ?」

「うん、あれ。あれ、半分アリかなって思いながら言った」

「残り半分は?」

「センセのこと考えてた。だから冗談ってことにした」

「俺は翻弄されただけか」

「本気にしてなかったくせに」

「時効だから言うけど、俺もあのとき半分くらいアリかなって思ってた」

「つきあうの?」

「うん」

「じゃあ、あたしたちつきあうタイミング逃しちゃったんだ。今はお互い違う相手のこと考えてるわけだし。もし両方ともダメになったらつきあう? あたしはほぼ確定だけど」

「俺も、ほぼ確定だけどね」

「ってことは、いつかつきあうかもね。その前に二人とも失恋しちゃうんだ。あたしと違ってまだチャンスあるんだからがんばりなよ、ユウタ」

 トウカはずっと冗談交じりの軽い口調だった。橋を渡り終えてパピコの空容器をコンビニのゴミ箱に捨て、ユウタはペットボトルをトウカに渡す。彼女は一口飲んだあとハンカチで飲み口についた口紅を拭き、キャップを閉めた。

「あとどれくらい?」

「十分くらいかな」

 土手を外れ、埠頭へと続く道を途中で逸れて海岸へと向かった。潮の香りが濃くなり、向かい風に逆らって自転車を進めるとしばらくして海が見えてくる。

 小さな漁船が波に揺られていた。道沿いには民宿と料亭が並び、奥には駐車スペースがある。そこに自転車を停め、二人は砂浜へ足を踏み入れた。

 潮風が耳元で唸り、波音は時を刻む振り子のようだった。これが現実ではないということが信じられず、靴を脱いで裸足になり海に足を浸すと、引き波がユウタの足裏の砂をさらっていく。

 トウカが水面を蹴り上げ、ユウタも真似て波を蹴った。

「恋人同士に見えるかも」

 トウカの言葉で砂浜を見渡したけれど、誰の姿もなかった。

 モエに恋しながら、ユウタは変わらずトウカを意識している。トウカへの気持ちはモエに向かうほど激しくないけれど、一緒に過ごした時間が多い分だけモエへの気持ちより複雑だった。

「トウカ。恋人と友達の違いってなんだろう」

「恋人と友達?」

 トウカはフッと吐息とも笑いともつかない声を漏らした。

「もし、あたしとユウタがつきあったとして、何も変わんない気がする」 

「何も?」

「キスとか、するかもだけど」

「したくせに」

「だから、変わんないって言ってるじゃん」

 トウカの足は踝まで浸かり、濡れないようスカートの裾を持ち上げていた。光の加減で揺れる足の爪が桜貝のようだ。

「トウカは、高波に触りたいと思わない?」

「思うよ」

「恋人と友達の違いって、そこらへんじゃないの?」

「そっか。ユウタは例の彼女には触りたいけど、あたしはそうでもないんだ」

「変なこと聞くなよ」

「ユウタが先に言ったんじゃない。あたしはセンセじゃなくても、寂しくて誰かに抱きしめてほしいって思うことあるよ。寂しくなるのはセンセのこと考えてるとき。だから、ユウタにもキスした」

 トウカに触れたいという衝動がユウタの内側に芽生えた。それが寂しさを埋めるためなのか、純粋にトウカを求めてなのかはわからない。迷いながら手を伸ばそうとしたときポケットの中でスマホが鳴り、取り出してみると『母親』と表示されていた。

「誰?」

「母親」

「出ないの?」

 スマートフォンの向こうにいるのはアバター? それともNPC?

 着信音は切れる気配がなく、トウカの声に背中を押され電話をとった。トウカは電話には興味ありませんと主張するように波打ち際へ歩いていく。

「……もしもし」

「もしもし、ユウタ? 元気にしてる?」

「別に。何も変わらないよ」

「そっか、そうだよね。あたしがいないのはユウタにとっては日常だよね」

 俺の景色からログアウトした人。それなのに、声だけをこうして寄越してくる。その理由は?

 スピーカーから聞こえる声は以前と変わらず、甘さと気怠さですべてを包み込んでしまう。アハハと母親は笑い、ユウタが踏みしめた砂を波がいとも簡単にさらっていった。

 ユウタの記憶にある母親は、何が楽しいのかいつも笑っていた。声を荒げたことはなく、軽やかな足どりで「行ってきまぁす」とユウタの視界からいなくなる。

「いい母親じゃなくてゴメンね。なんとなくそれだけ言いたくなったの。じゃあね」

 自分勝手にかかってきた電話は、自分勝手に切れてしまった。「じゃあね、また」なのか「じゃあね、バイバイ」なのか。

「ユウタ」

 トウカは首をかしげ、何か言いたげに口を開いたけれど何も言わなかった。スカートの裾をたくし上げると無言のままユウタに近づき、手をとって海から上がる。

「捨て犬みたいな顔してたよ」

「知ってるだろ。うちの母親のこと。捨て犬みたいなもんだよ」

「電話、かかってきたじゃん」

「自分が言いたいこと言ったら切れた。まあ、あの人の人生に俺が口出しできるわけじゃないけど」

「口出ししてもいいんじゃない? お母さんがいなかったらユウタはここにいないんだもん。言うだけでもスッキリするかも」

「今さら言えるかよ」

「じゃあ、海に向かって叫ぶとか」

 トウカの手が離れ、彼女は両手でメガホンを作って叫んだ。

「センセー!」

 得意げな顔で、トウカはユウタに向き直る。

「トウカ、続きは?」

「……バイバイ」

 虚を突かれ、ユウタは動揺する。トウカは笑っていたけれど泣いてしまいそうに見えた。

「次はユウタの番」

「嫌だよ。おかあさーんとか、バカだろ。どうせあの人には聞こえないのに」

「じゃあ、ユウタがしたいようにしなよ。ユウタのことなんだから」

 トウカの右足が砂を蹴り、ユウタの足先にかかった。

「トウカは少し似てる気がする。うちの母親に」

「お母さんに? どこが?」

「口紅の色」ユウタが言うと、トウカは苦笑する。

「ちょっとフクザツ。これ、センセに褒められた色なんだ。キレイだねって」

「教師のくせに」

「そう。教師のくせに」

 トウカはポケットからハンカチを取り出し、グイっと唇を拭った。完全には落ち切ってない淡い色の唇に、色のないリップクリームを塗る。

「あたしはお母さんじゃないから、言いたいことは直接お母さんに言ってね」

 トウカの唇は赤ちゃんの頬のような淡い色をしていて、ユウタはそこに触れたいと思った。

■Logout1

■Logout1

 ベッドに横たわる彼女の唇には穏やかな笑みがあった。下ろしたブラインドの隙間をぬって日差しがシーツに縞模様をつくり、医師の白衣も縞々になっている。

 彼女の鼓動は時おり乱れながら、それでもどうにか一定のリズムに戻った。無機質な電子音、廊下を行き交うスリッパ、キャスターを引き摺る音、僕の座る椅子が軋む音。そして、風の音が聞こえた。

 簡易スピーカーを通して聴こえる風音は雑音にしか感じられない。目の前で眠る彼女は、あの世界でこの風音を心地よく聞いているのだろうか。

 学校は森の近くにある。部室裏は緑の香りが充満し、空気は澄んで、日差しは心地いい。

『ユウタ』

 スピーカーから〈モエ〉の声がした。と同時に彼女の口元がわずかに動いたようだった。

 ヘルメット型のゲーム端末を被った彼女は、唇だけが辛うじて見えている。そして、ゲームの世界で自由に手足を動かしている。現実には体が動かなくても、目を閉じていても問題ない。ただ考えるだけ。風が吹いているのは、ゲーム会社が作り出した架空の世界。

 僕はシーツに手を入れて彼女の手を握りしめた。

『俺はモエのその髪好きだよ』

 ゲーム端末に接続したディスプレイにはモエの視界が映し出され、そこにユウタの姿がある。彼が存在しているのは脳波連動型のフルダイブ職業体験ゲーム『SoL〈ソル〉』の中だけだ。

 彼女は自分のアバターを〈モエ〉と名付け、深緑の髪と白い肌を選び、プレイエリアに〈日本〉を指定した。

 一度SoLでプレイすると、脳はそれを現実と認識する。あの世界の全ては生々しく五感を刺激し、彼女がユウタに触れたいと願ったのも仕方のないことだった。彼女は今いるこの現実で僕を感じることができないのだから。

『せっかく来てるんだから、あたしを見て』

 画面に深い緑色をしたモエの髪が映った。 『ユウタ、一般的な高校生ならここで目をそらすものじゃない?』

 モエが着ているのは初期設定にある白くシンプルなローブ。風が乱した裾の内側にユウタは何を見ているのか。ディスプレイに映るその顔を見て、強制終了したい衝動に駆られる。

『そうかも。でも、俺はモエに近づきたいし、触れたい』

『……触れて』

 スピーカーの音にノイズが混じった。心拍を示す電子音が速まり、医師が彼女の首に触れる。最期にSoLの世界を彼女に見せてあげたいと医師に頼み込んだのは僕だった。それがきっと彼女の願いだから。

『ユウタ』

「ユ……ウ……」

 モエの声に掠れた彼女の声が重なり、医師が酸素量を上げた。

 僕はまだ覚悟ができていない。彼女のいない世界に取り残されてしまうということを、僕の心は拒否し続けている。なぜ今、彼女の目に映るのが僕ではないのか。

 彼女の名を呼ぶ僕の声が虚しく部屋に響き、映像は静止し、モニターの数字がゼロになった。ディスプレイには『error』表示が点滅し、その文字の奥にユウタの唇がある。ユウタの露出した粘膜は血の色を透かした淡い紅色をしていた。

「十五時九分」

 医師が死亡時刻を告げた。ユウタが彼女の死を知ることはなく、僕が愛した彼女の肉体は僕の腕の中にある。――では、彼女の意識は?

 彼女がSoLの世界で目にしたもの、触れたもの、香り。〈モエ〉のデータはあるけれど、彼女の意識はもうどこにもない。

 僕は彼女の代わりにSoLからログアウトし、ディスプレイからユウタの顔が消えた。コードを引き抜き、看護師に手伝ってもらってヘルメットを脱がせ、ようやく彼女の顔を目にする。

 モエとは似ても似つかないその姿が僕は愛しくてたまらない。と同時に、これから先SoLにログインしても彼女の意識がそこにないことが苦しかった。僕は彼女の意識を持った〈モエ〉に触れたことがない。そうしようと思えばできたはずなのに、そうしなかった。最善の道を選んでいるつもりで、いつも後悔ばかりだ。

 彼女の目尻に涙のあとを見つけた。彼女は何を思って泣いたのか、思考の向かう先はあの世界で、僕の意識は彼女とともにそこに囚われる。すべてが繊細で、鮮やかな色をしたSoLの世界に。

▶REPLAY_1/20XX/06/12

▶REPLAY_1/20XX/06/12

 いつも通りの平日だった。朝起きると父親は仕事に出かけていて、ユウタは一人身支度を整え家を出た。空は晴れ渡り、気温はぐんぐん上昇している。通勤ラッシュ前の国道を走りながら、ユウタの鼓動は速まっていた。頭にあるのはモエのことだ。

 カメレオンベーカリーでパンを四つ買い、土手でアンパンとウィンナーロールを平らげ、残りは袋に入れて学校に向かった。教室に着くとスマホで昨夜の深夜ドラマを再生する。

「ユウタってば、完全にモエのファンじゃん」

 トウカの声はオープニング曲にかき消されたけれど、表情から何を言われたのかは分かった。朱色の唇の端がわずかにあがっている。 『それより、あたしアンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』

 イヤホンからモエの声が聞こえる。絶対よ、とエチカはトモヤの鼻先で人差し指を立ててサッと姿を消し、トモヤの手が虚しく空を掴むのはいつものことだ。不意に画面が手で覆われ、ユウタが顔を上げると「時間切れ」とトウカの唇が動いた。

 高波は教卓の上で出席簿を広げている。ユウタが彼を見て心許なさを覚えるのは、彼の存在が自分の不存在の証明に思えるからだ。プレイヤーは高波で、ユウタはNPC。モエは高波側の存在。モエが『ドッキリ大成功』と書かれたプレートを掲げて現れたらいいのに。

 彼女の〈現実〉に想いを馳せていると、あっという間に時が過ぎる。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、日直が黒板の数式を消していく。何人かの女子が高波のところに集まり、一人がトウカに手招きした。ユウタはリュックからカメレオンベーカリーの袋を取り出し、席を離れる。

「あれ、ユウタ。今日はどこで食べるの? また三組?」

 弁当を片手に持ったまま、トウカはファッション誌を机の上に置いた。表紙を飾る深緑の髪のタレントは顎をわずかに上げ、読者を見下ろす物憂げな眼差し。右肩を露出したワンピースは爬虫類のような鈍い光沢を帯び、朱に塗られた唇は捕食対象をおびき寄せる罠のようだ。

「今日は部室で食ってくる」

「人気者は体がいくつあっても足りないね」

 じゃあね、とトウカは女子の群れに混じった。教室を出る間際にユウタが教壇に目を向けると、高波の視線がトウカの存在を確認するようにチラリと動く。イケメンのアバターはトウカの気持ちに気づいているに違いなかった。

 下足場へと向かっていると「学食行かねえ?」と友人たちから声をかけられ、ユウタは逸る気持ちを抑えて「行くとこあるんだ」と返事をする。別の友人から「おすそわけ」と手渡されたミルキーをポケットに突っ込んだところで、衝動を抑えきれなくなって廊下を駆け出した。

 校舎を出て坂道を上がり、部室前を素通りして建物の裏手にまわる。壁を背に立つと目の前には車二台分ほどのスペースがあり、張り巡らされたフェンスの向こうに草が生い茂っていた。

 小高い丘の上にあるこの場所からは街並みが見下ろせる。線路が住宅地を横切り、遠くで青い海が陽光を反射していた。

「ニャア」

 不意に猫の鳴き声がしたが姿は見えない。

 このあたりで黒猫を見かけたことがあったけれど、それがいつのことか思い出せなかった。紺色のリボンをつけた人懐こい猫で、その猫を見かけたとき誰かと一緒にいた気がする。トウカだろうかと記憶をたぐっても頭の中に霞がかかり、考えるのをやめて腰を下ろした。

 パンの袋を傍らに置き、動画配信サイトにアクセスする。ファッション誌の表紙を飾っていた女が、制服に身を包んで宙を飛んでいる。

「会いに来たよ」

 ユウタが顔を見上げると深緑の髪が風になびいていた。モエは髪を片手で抑え、ユウタの隣にしゃがみこむ。

「本人が目の前にいるのに」

「本人とドラマの役は別物だよ。この中の人はエチカ」

「あたしはモエ。せっかく会えたんだから、あたしを見て」

 モエの指が画面に触れてエチカが静止する。

 風が草を揺らし、青い匂いを運び、モエの髪も、肌も、着ている白いローブさえ景色に溶けてしまいそうだった。

「ユウタ、アンパン買ってきてくれたんでしょ」

 モエは袋をのぞきこんでアンパンを取り出した。

「この前は半分しか食べられなかったんだ」

 満面の笑みでかぶりついたモエは、これだよこれ、と幸せそうに頬を緩める。鼻息荒く「ふんふん」とうなずく仕草がおかしくて、ユウタはくすっと笑い声を漏らした。

「モエ、この前っていつの話?」

「いつだっけ。あたしも頭が混乱しちゃって、いつなのかよくわかんない。体調悪くて、なかなか会いに来れなかったんだ」

「調子悪いの?」

「いいのか悪いのか、それもよくわからない。でも、こうしてユウタに会いに来れて良かった。後悔してたんだ」

「後悔って?」

「実はね、この場所でユウタに会うのは二回目。前回もユウタがアンパン買って来てくれて、でもあたしがうっかりエリア外に出たから強制終了になっちゃったんだ。それで、ユウタにはあの時の記憶は残ってないみたい。憶えてるのはあたしだけ」

「ねえ、もしかしてそれは、俺じゃないユウタ?」

「……たぶん」

 モエは小さくうなずいたあと、「ごめんね」と上目遣いでユウタを見た。

「ここにいるユウタに謝っても仕方ないんだけど、多分もう時間がないんだ。だからあたしはここに来たんだと思う。ユウタはちゃんとあたしが会いに来たって憶えててね」

 空を見上げたモエは、「ありがと」とつぶやいたようだった。〈彼〉に話しかけたのかもしれない。

「モエ、口のとこにあんこ付いてる」

 ユウタは手を伸ばし、指先に感じた小豆の感触に既視感を覚えた。それは既視感というよりも記憶に近い感覚だった。

「モエ。ここで俺に会ったとき、黒猫がいた?」

「憶えてるの?」

 彼女は驚いたらしく目を瞬かせる。そのときニャアと鳴き声がし、振り向くとフェンスの奥に黒猫がちょこんと座っていた。モエの顔からサッと血の気が引いたようだった。

「モエ?」

「あのとき、猫を追いかけてフェンスの向こうに手を伸ばしたの。で、強制終了」

 モエはおどけるように言って肩をすくめる。

「あたしはあのフェンスの手前までしか存在できない。不正ログインがバレて登録抹消とはならなかったけど、なんかバグっちゃったみたい。彼に説明しろって言われてユウタとここで会ったこと話したんだけど、その後すぐ体調崩しちゃって。だから制服の使用期限も切れてこんな格好。黒髪、気に入ってたのに」

「俺はモエのその緑色の髪、好きだよ」

 ありがとう、とモエは悲しげに笑った。

「やっぱりエチカとトモヤの関係って、あたしとユウタに似てる」

「それは、どういう意味で?」

「どういう意味だと思う?」

「トモヤはエチカが好きだってこと。俺がモエを好きなのと同じ」

「エチカもトモヤが好きだと思うよ。でも消えちゃうんだ」

「モエも?」

 ユウタの手がパンの袋を潰してクシャリと軽い音をたてた。モエは長い髪を片側に寄せてユウタに顔を近づける。

「ユウタ、一般的な高校生ならここで目をそらすものじゃない?」

「そうかも。でも、俺はモエに近づきたいし、触れたい」

「触れて」

 顔を近づけるとモエが霞んだ。画像にノイズが入るように、彼女は不規則に背景と混じり、モエ、そう呼び掛けようとしたとき唐突にユウタの意識は途切れた。

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 瞼を持ち上げると天色の空が目に入った。フェンスの向こうに黒猫、草むら、街並み、線路、青い海、飛行機雲が世界を切り裂いていく。そこにモエの姿はなかった。

「海、見せたかったのに」

 もう叶わない願いだとユウタはぼんやり確信していた。きっと、モエはもうこの世界には来ない。ふと、モエの返事が聞こえた気がした。

『あ、あたしも海好き。撮影で何度か行ったんだよ』

 ユウタの頭の中で笑うモエは黒髪だ。

「ニャア」

 塗装の剥げたフェンスの上で黒猫が首をかしげ、ストンと飛び降りてユウタの手に顔をこすりつけた。ユウタはサンドイッチを袋から出し、半分にちぎって猫の鼻先に差し出す。匂いを嗅ぐ仕草がなんとなくモエに似ていて、ユウタの目から思わず涙がこぼれた。猫は強引にサンドイッチを奪い、中身のハムだけを食べる。

『ユウタ、ずるい。あたしも触りたかったのに』

『ごめん。もうちょっと近づいて来たら捕まえられると思ったんだ』

 頭の中で頬を膨らませるモエ。想像というにはあまりにも明瞭で、きっとどこかの世界に存在する別のユウタの記憶に違いなかった。

「ずるいよ、モエ」

 黒猫はフェンスを乗り越えて草むらに姿を消したが、ユウタはそれをモエと一緒に見ているような気がする。これから先も、何気ない日常の風景にモエを探してしまうのだと思った。自分ではない別のユウタの記憶を探して、この世界に残った彼女のデータを探し続ける。

 ユウタはフェンスの向こうに手を伸ばした。目を閉じると緑の匂いに包まれ、風が手のひらをなでていった。

■Logout2

■Logout2

「不毛だろ?」

 心配と不安の表情は似ている。窓辺に立つ十年来の親友は眉をしかめ、呆れと哀れみを顔に浮かべて僕を見下ろしていた。

 彼が窓を開け、初夏の埃っぽい風が部屋に入り込んで、ぬるく澱んだ空気が押し出されるとそれが僕には心許ない。グラスに残っていた酒を一気に喉に流し込むと、それを見ていた彼は深いため息をついた。

「顔色が良くない。ちゃんと食ってるのか?」

 僕は笑ってみせたけれど、上手く誤魔化せた自信はない。彼女が死んでから、僕はSoLの世界に引きこもったままだった。

「悪いな、心配かけて」

「謝ってほしいわけじゃない。心配かけてると思うならゲームはやめろ」

「わかってる」

「わかってない。SoLにのめり込む気持ちはわかるし、四六時中徹夜してやってるやつだってザラにいる。だが、それが問題視されてるのは知ってるだろう?」

「……ああ」

「SoLに頼り過ぎるのは危険だ。現実逃避してゲームと酒で体調を崩せば余計に依存度が高まる。悪循環だ」

 言われるまでもなく、依存症に陥りかけている自覚はあった。フルダイブVRゲームは他にもあるが、圧倒的に没入度の高いSoLは依存症が社会問題となりつつある。専門家による治療プログラムや自助グループもでき、親友は何度かそういった場所を僕に勧めたが、僕は自分がまともな状態に戻ることのほうが恐ろしかった。日常を取り戻し、彼女のいない〈現実〉で笑う自分を想像すると、この体を跡形もなく消し去ってしまいたくなる。

 そして気づけばヘルメットを装着し、SoLの中をさまよっているのだ。酒の味を口に残したまま教室へ向かい、僕はあの世界で数学教師として教鞭をとる。そして〈彼女〉と〈モエ〉のことを考える。

 僕が彼女に初めて会ったのは夏のフリーマーケットだった。

 日差しの強い日で、涼しげな氷の音に誘われテントの前で足を止めると、看板に『フルーツソーダ・バー』とあった。籐籠に果実が盛られ、氷水の中にはソーダ水の瓶が浸かっている。店先には中年夫婦が立っていて、カウンターの奥に僕と同い年くらいの女性がいた。彼女の笑顔に目を奪われていたから、座っているのが車椅子だと気づくのに少し時間がかかった。

「いらっしゃい。この中から好きなフルーツを選んで。あたしがそれを搾って、ソーダ水を注ぐ。こんな天気の日にはピッタリでしょ」

「じゃあこれで。お気に入りなんだ。この新品種」

「ブラッドレモンね。あたし、この色すごく好き。夕焼け空みたい。ちょっとビターで、大人のレモンソーダって感じよね」

 彼女は僕が手渡したブラッドレモンを包丁で半分に切り、スクイーザーにセットした。レバーを下ろすと果汁がグラスの中に溜まって爽やかな柑橘の香りがする。

「腕の力は強そうだね」

「筋力が落ちないように鍛えてるから」

「レモンを搾るのもトレーニングになる?」

「そうかもね」

 彼女は笑い、タオルで手を拭いてソーダの瓶を開けた。僕の他にも客がいて、夫婦はその相手をしている。

「忙しそうだね。商売繁盛」

「今だけよ。気楽な商売なの。あたしの気晴らしに両親を付き合わせてるだけ」

 手渡されたブラッドレモンソーダは彼女の言ったとおり夕暮れ空の色をしていた。底に沈んだ果汁はグラスの上部に行くにしたがって透明なソーダ水と混じり合い、ストローでかき混ぜると炭酸の弾ける音がする。

 ブラッドレモンソーダを飲みながら、彼女としばらく話をした。そのうち僕以外の客はいなくなり、彼女の母親に促されて二人でフリーマーケットを見て回った。一目惚れではないけど、彼女に惹かれるのにそう時間はかからなかった。

 そのあと何度か彼女の病院を訪れ、僕たちが恋人になった頃に鳴り物入りで発売されたのがSoLだった。社会現象にまでなり、僕は世間の流行りにのってヘルメット型のゲーム端末を買ったけれど、彼女はあまり乗り気ではなかった。

「だって、すごく面白いんでしょ? ゲームにハマって手も指も動かさなくなっちゃったら、どんどん筋力がなくなっちゃう」

 一ヶ月ほど前から彼女の指は時々硬直するようになっていた。SoLの世界なら自由に動くことができる。僕がそう提案しても、彼女は首を縦に振らなかった。

「SoL、やってみようかな」

 彼女がそう言ったのは、右肘から先が完全に動かなくなった後だ。彼女は僕の前で笑顔を見せていたけれど、この頃を境に表情に諦めが滲むようになった。

 僕はゲーム端末を購入し、彼女の代わりにセッティングした。予想外だったのは彼女がタレントを職業に選んだことだ。僕はすでに高校の数学教師として登録を済ませていて、正直に言えば学校関係の仕事を選んでくれればと思っていた。高校教師とタレントでは活動範囲がまったく違うから、SoLの中で彼女と接触するのは難しい。

「タレントになりたかったの?」僕は聞いた。

「どんな仕事がしたいかなんて、考えたことなかった。頭がいいわけじゃないし、体力もないし。でも歌うのは好きだから。それに、タレントならお金かけないでお洒落できるでしょ。お金稼いでないのに、ゲーム買ってもらって服まで課金するのはちょっとね」

 僕自身が過去に諦めた数学教師を選んだのだから、彼女の気持ちを尊重しようと決めた。転職して彼女のそばに行くこともできるけど、現実と同じようにSoLの中で転職活動しなければならないし、運良く採用されるとは限らない。しかも、システムに負荷がかかるという理由で、一度登録したあと別の人間として登録し直すことはできなくなっている。

 僕のアバターは〈高波透〉。黄色がかった肌を持つ日本人で、髪はダークブラウン。彼女はタレント〈モエ〉。本名は〈草凪萌〉で、肌は乳白色、選んだ髪色は深い緑。アバターのデザインを悩みながら決めていく彼女は、久しぶりに晴れやかな顔をしていた。

「モデル出身タレントのモエか。一介の高校教師じゃお近づきになれないね。残念」

「ゲームはゲーム。ゲームの中でも一緒にいたら、現実ではほったらかしにしちゃうでしょ? ゲームの中でキスするより、本当のキスがいい。それに、近くにいたら女子高生に嫉妬しちゃうかもしれない」

 僕は彼女を抱き締めてキスをしたが、完全に麻痺してしまった彼女の右手はいくら握りしめても何の反応も返ってこなかった。

 彼女の顔や首、僕の存在を感じられるすべての場所に手を這わせ、なでていった。その範囲は日を追うごとに狭まっていき、まるで彼女の中から僕の存在が締め出されていくようだった。

 彼女がSoLにのめり込むまではあっという間だった。僕は諦めきれず転職先を探してみたけれど捗々しい成果はなく、別の方法を思いついて彼女に話してみることにした。

「撮影場所が提案できるなら、僕の学校に来ない? 会えるかもしれない」

「会えるかな? 撮影で色んな場所に行くけど、行動エリアは現地の登録者と重ならないようになってるみたい」

「裏技があるんだ」

 その方法を知ったのは最近だった。モエと高波を接触させる方法を探していたとき、たまたま耳にしたのだった。裏技を使うのはSoLと〈現実〉をシームレスに満喫する人々。

「あっ! メイクさんから聞いた。行動エリアが広がるんだよね。なんか流行ってるって」

「メイクさんって、NPC?」

「NPCだったら裏技なんて知らないよ。えっと、行動エリアが少しでも重なるプレイヤーがいたらいいんだっけ」

「うん。僕たちそれぞれの端末を同じパソコンに接続して、その状態でログインするんだ。設定をちょっといじる必要があるけど、そう難しくない。モエが学校に撮影に来るだろ。そうしたら、僕の行動エリアと重なる。そのとき一緒にログインすれば高波はモエの行動エリアも好き勝手に動けるし、モエも学校の中はどこでも移動できる」

「学校かあ。高波先生の学校って、どんな感じ?」

「僕が通ってた高校と似てる」

「そっか」

 彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。「学校行けることになったよ」と報告してきたのは、ほんの数日後だ。

 僕にしてもそうだが、SoLがいくらリアルに作られていても所詮現実ではないと知っている。現実では躊躇ってしまうことも、ゲームだと割りきれば思いきった行動がとれる。モエは思った以上に貪欲だった。

 そして、学校での映画撮影の日。モエの本来の行動エリアは第一資料室の前までだったが、裏技を使うことで彼女は第一資料室に足を踏み入れた。この裏技を使ったプレイではコミュニケーションに一部障害が発生すると判明したのは後日のことだ。登録情報から対象と接触する可能性がゼロだと判定された場合は、視覚と聴覚のみの情報伝達となる。プレイヤー同士なら障害はないという噂も聞いたが、モエとユウタの間には障害が発生したはずだった。

 あの時、なぜ自分で行かずユウタに行かせたのか。僕の後悔はいつもそこに舞い戻る。

 ユウタを第一資料室に向かわせたのは、彼女へのちょっとしたサプライズプレゼントだった。彼女はずっと病室でマンツーマンの授業を受けていたから、学校の友だちがいない。学校に対する憧れは言葉の端々から感じていたし、だから擬似的にでも学校で同級生と触れ合う体験をさせてあげたかった。

 そして僕が選んだ同級生役がユウタだった。ユウタならタレント〈モエ〉と出くわしてもおそらく騒がない。そう判断して彼を第一資料室に向かわせた。ユウタが家の事情で悩んでいたこともあり、彼の気持ちも多少紛れるのではないかとも考えた。ユウタはただのNPCだとわかっていても、何かしなければと思ったのだ。

 そして僕の目論見は成功し、彼女はユウタと出会い、ログアウトした直後の彼女は高揚していた。一方、僕はと言えば、第一資料室に行くタイミングがモエと合わなかったことに内心落胆していた。

「また学校に行きたいな」

「ユウタに会いに?」

 僕の問いかけに彼女は声を出して笑った。

「ゲームの中の男の子に嫉妬? それよりもっとあの学校を探検したい。いつも仕事で行く場所と違って、緑がいっぱいで気持ちいい」

「でも、学校での撮影はあの日だけなんだよね」

「うん。他校を訪れたっていうシーンだったから、仕事で行くのはもう無理かな」

 じっと見つめてくる彼女に、「なんとかしてみるよ」と僕は苦笑まじりに答えた。彼女の願いを叶えてあげたかったし、それ以上に僕が彼女に――モエに触れたかった。

 SoLの中の〈モエ〉。それはアバターであって彼女ではない。けれど、そこにあるのは彼女の意識だ。彼女の意思で動く手が僕の体に触れるところを想像すると居てもたってもいられなくなり、僕は必死でその方法を探った。 

 結局、SoLに不正ログインするしかなかった。けれど、裏技と同様にコミュニケーションに障害が発生することが予想された。つまり、モエが学校でプレイヤー以外と接触すれば人間ではないとバレる。だから、授業中を選んで一人で行動するように彼女に念を押した。僕とはいつもすれ違いだった。

 僕は焦り始めていた。彼女の両手は完全に動かなくなり、彼女の両親から残された時間が少ないと聞かされたからだ。

 そして、僕は一方向にしか進まないSoLの時間を巻き戻すための試行錯誤に本腰を入れた。モエが学校に来た時の高波の行動を変えて、なんとか接触できないかと考えたのだ。さらに言うと、リプレイは彼女がこの世からいなくなった時の保険でもあった。撮影の日に戻れば、いつかきっと彼女に会える。

 もしかしたら、そんな細工をせず素直にモエと待ち合わせれば良かったのかもしれない。でも、僕は彼女に対して「ゲームの中で会いたい」と口にすることができなかった。

『ゲームの中でも一緒にいたら、現実ではほったらかしにしちゃうでしょ?』

 あの言葉が僕を縛っていた。それに、この頃の僕はモエに会うのが少し怖くなってもいたのだ。僕がSoLの中でモエに触れて、その感触に心奪われてしまったら――その想像は、彼女だけでなく僕の心も傷つけてしまいそうだった。

 モエに触れたいと思いながら触れることを恐れ、そのくせ触れるための手段を探している。そんな矛盾だらけの日々が続いたある日、僕は蓄積してあったモエのデータを盗み見た。リプレイ方法を探るために必要だと理由をつけ、映像データじゃなくてコードの羅列だからと嘘をついて許可を得たのだ。そしてユウタとモエの会話を聞き、そのとき初めてモエが高波から隠れたことを知った。あの、第一資料室でのことだ。

 彼女が「ユウタに触れてみたい」とこぼしたのは、ちょうどその頃のこと。つい言葉に出たというような小さな独り言だったが、僕が嫉妬に駆られないわけがなかった。

 ユウタはただのNPC。なのに彼女はユウタに触れたいと言う。タレントとして活動する中で多くの人間に触れてきたはずなのに、なぜ彼女が求めたのは触れることのできないユウタなのか。

 きっと、触れられないからだ。

「不毛だよ」

 念押しするような強い言葉は親友の口から出たものだった。顔を上げると親友はまだ窓辺にいる。

 彼はいつからここにいたのか。彼女が死んでどれくらい経ったのか。葬式は昨日のことのようで、彼女と一緒にSoLにログインしたのは数分前のような気がする。

「ちゃんと現実を生きろ。彼女はもういない。いや、お前の中にはいるんだろうけど、現実の時間を前に進めろ」

「ああ」

 惰性でうなずくと、彼はまたため息をついた。逆光でも呆れ顔なのがわかる。親友は僕の手からグラスを奪って水を持ってくると、「また来るよ」と帰っていった。

 僕は立ち上がり、冷蔵庫からレモンソーダを取り出す。色のない、ただのレモンソーダを酒と半々でグラスに注ぎ、ソファに身を沈めてヘルメットをかぶった。

「さあ、今日も仕事だ」

▶REPLAY_n/20XX/06/12

▶REPLAY_n/20XX/06/12

 いつも通りの平日だった。朝起きると父親は仕事に出かけていて、ユウタは一人身支度を整え家を出た。空は晴れ渡り、気温はぐんぐん上昇している。

 カメレオンベーカリーでパンを四つ買い、土手でアンパンとウィンナーロールを平らげ、残りは袋に入れて学校に向かう。教室に着くと、スマホでドラマを再生した。

「ユウタってば、完全にモエのファンじゃん」

 イヤホンでトウカの声は聞こえなかった。スマホ画面にはエチカとトモヤ。暢気な幽霊とは対照的に、トモヤは身を隠すようにあたりをうかがっている。校内で起こったある事件――女子のスカートが無差別に切り裂かれるという悪質な悪戯の犯人として、神谷が疑いの目を向けたのがエチカだったのだ。

『エチカ、しばらくどこかでおとなしくしてたほうがいいよ』

『トモヤは心配性だね。それより、あたしアンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから。絶対よ』

 エチカはサッと姿を消し、トモヤの手が虚しく空を掴む。

 椅子が蹴られて振り返ると、後ろの席のトウカが笑っていた。どうやら彼女の仕業らしい。

「何? トウカ」

 ユウタがイヤホンを外すと彼女は「時間切れ」と前を指さした。担任が出席簿を開き、順に名前を呼んでいく。

 正午を過ぎてチャイムが鳴り、女子が高波のまわりに集まるのを横目に、ユウタはカメレオンベーカリーの袋を持って席を立った。ふと後ろの机に目がとまったのは置かれたファッション雑誌のせいだ。

 表紙を飾る深緑の髪のタレント。朱に塗られた唇は物欲しそうに緩み、ユウタは無意識にトウカの唇を見た。めずらしく口紅は塗られていない。

「じゃあね」

 トウカが雑誌を手に教室を出ると、高波の視線が彼女を追って廊下へと向けられた。プレイヤー〈高波〉にとってトウカは特別な生徒のようだけれど、結局は教師と生徒、アバターとNPC。やるせない気持ちでため息をつくと、ユウタはゆっくり歩いて教室を出た。

「ユウタ、学食行かねえ?」

「悪い。今から行くとこあるんだ」

「ユウタ、この前の借り。何かおごるから購買部行こうぜ」

「サンキュ。気持ちだけもらっとく」

「ユウタ君、これおすそわけ」ついでのように差し出されたミルキー二粒を、ユウタは笑顔で受け取ってポケットに突っ込んだ。

「ありがとう。今度お礼するよ」

 手を振って校舎を出たところでユウタは弾かれたように坂道を駆け上がり、部室の裏手にまわって壁を背に座りこんだ。

 どうして部室裏なんか――と、自分で場所を指定しておきながら吐息が漏れる。目の前には車二台分ほどのスペースがあり、フェンスの向こうは草むらだった。丘の上だから街が一望でき、遠く空の下で海が陽光を反射していた。  パンを傍らに置き、ユウタは動画配信サイトにアクセスする。ファッション誌の表紙を飾っていた女がそこに映っている。

「ユウタ、お待たせ」

 見上げると紅茶色の髪が風になびいていた。彼女は髪を片手で抑え、ユウタの隣にしゃがみこむ。華奢な指がスマートフォンに触れ、動画が一時停止した。

「ユウタはエチカとモエどっちが好きなの?」

 電車が住宅地を右から左へと進み、かすかにその音が聞こえ、飛行機が白い筋を引いて空を切り裂いた。

「さあ?」

「どっちも?」

「かもね」

 彼女はアハハと笑い、パンの入った袋をのぞきこんだ。

「ねえ、これってあたしがリクエストしたやつでしょ? カメレオンベーカリーのアンパン」

 芥子の実がのった、ごく普通のアンパン。見た目は普通だが、味は絶品。満面の笑みで彼女はアンパンにかぶりつき、歯並びにあわせて曲線を描いたところを指でちぎって口に放り込んだ。

「人気だよね、この店のアンパン。いつも思うんだけど、どうしてアンハ◯ンマンの顔が描いてあるパンにはチョコクリームが入ってるんだろう」

 トウカらしい言葉に、ユウタはつい笑ってしまった。

「子どもはアンパンよりもチョコパンが好きだから」

「そんな理由?」

 納得いかないように眉を寄せ、トウカはまたパンをほおばる。

「満足した?」

「うん、最高においしい。またおごってもらおっと」

「自分で金払えよ」

「アンパンくらい、いいじゃん。彼氏のくせに」

「顔にあんこ付けた彼女が何言ってんの」

 トウカの口元に手を伸ばし、ユウタはそのまま顔を近づけて唇を重ねた。

 つきあい始めたのはちょうど一週間前。高波に恋人がいたとトウカが泣いたとき、「つきあおうか」と口にしたのはユウタだった。

 実のところ、ユウタは母親の件で職員室に呼び出されたときに高波から婚約者がいると聞かされていた。そのあとモエに出会い、高波もアバターだと知って驚いたけど、思い出したのは職員室での高波との会話だった。

『大切にしたい人がいるなら努力しないと後悔するよ。僕には婚約者がいるんだけど、もっと早く結婚すれば良かった』

『どうしてですか』

『彼女、病気なんだ』

 あの時はなぜそんな重い話を生徒にするのかと訝ったけれど、その疑問はモエに会って解消した。きっと、高波は〈現実〉で弱音を吐けないのだ。

 ユウタはモエに惹かれている自覚があったが、泣きそうな高波の顔が頭をチラつき、モエへの気持ちは吹っ切ることにしたのだった。時が経てばきっとモエへの気持ちは薄まる。報われないのはトウカも同じで、だから、ユウタはトウカと向き合うことにした。なのに、こうしてドラマのセリフに翻弄される。

 ――どうして俺は部室裏なんかに。  トウカが画面に触れ、動画を再生した。

「エチカとトモヤの関係って、悲しいよね」

「悲しいけど、出会わないより出会って傷ついた方がいい」

「あたしも後悔してないよ、センセを好きになったこと。ユウタは、例の子のこと諦めちゃっていいの?」

 軽い口調で言うトウカをユウタは愛おしいと思った。

「彼女には恋人がいるんだ」

「……ふうん。ユウタが違う世界の人って言ってたのって、そういうことなんだ」

「俺、そんなこと言った?」

「言わなかったっけ? でも、無理目な恋だったんでしょ」

「そうだね」

 会話をするだけでわだかまりが解れていく。隣同士くっついた腕を、トウカがぐいと押した。

「ユウタ、クラスの人たちにはいつまでつきあってること隠すつもり?」

「隠すつもりはないけど」

「隠してる。これって密会だよ。密会」

「からかわれるの、面倒」

「最初だけだって」

 トウカの手がパンの袋を潰してクシャリと軽い音がした。ふわりと花の匂いがし、その唇は赤ちゃんの頬のような淡い紅色。

「学校でこういうのってドキドキするね」

「そうかも。でも、嫌じゃない」

 そっか、と彼女は無邪気に微笑み、目を閉じた。

 モエとのなんちゃってキスが頭を掠めても、それはいつか思い出になる予感がある。唇を重ねて目を開けると、トウカの瞳がじっとユウタを見つめていた。照れ臭さを覚えてそらしたユウタの視線は、彼女の襟元からのぞいた肌に惹きつけられる。

「やらし。ユウタどこ見てるの?」

「見せてるんだろ」

「何言ってんの」

 トウカはスカートの裾を払って立ち上がり、遠くの海に目をやった。

「このままサボっちゃいたい。勉強はもうたくさん」

「俺も。海、行きたいな」

「あ、あたしも海行きたい」

 モエにもあの海を見せてあげたい。

 ニャア、と猫の鳴き声がした。塗装の剥げたフェンスの上を黒猫がのんびり歩いて、二人を見ると草むらへ降りる。トウカは「なぁん」と猫なで声を出し、そろりそろりとフェンスへ近づいて行った。

 金網越しにトウカと猫の間で「にゃあ」「ニャア」というやりとりが何往復か続き、ユウタはサンドイッチを半分にちぎってフェンスの向こう側に手を伸ばす。

「ユウタ、ずるい」

「おびき寄せてみるから、ちょっと待てって」

 人馴れしているのか、猫は恐れることなくユウタの手元に近づき、「ふんふん」と匂いを嗅いだ。その仕草がなんとなくモエに似ているような気がする。猫はサンドイッチを強引に奪い、中身のハムだけを食べた。

 なぜ猫がモエに似ていると思ったのか、よくわからなかった。黒猫の首についた紺色のリボンも見たことがある気がしたけど、はっきりとは思い出せない。

「あたしも触りたかったのに」

「ごめん。もうちょっと近づいて来たら捕まえられると思ったんだ」

 トウカの落胆をよそに、黒猫はフェンスを乗り越えてこちら側にやって来た。差し出したユウタの手の匂いを嗅ぎ、顔を擦り付けてくる。残っていたサンドイッチをトウカが猫の鼻先に近づけ、抱き上げようとすると猫は身を翻してジャンプした。

「あっ」

 トウカは反射的に手を伸ばしたけれど、猫はフェンスを飛び越えて草むらに姿を消してしまった。

■Logout3

■Logout3

 彼女が死んだ日のことを考えている。あの日の僕の選択は正しかったのか、間違っていたのか。

 SoLの時間を巻き戻してリプレイさせたことを今になって悔んでいた。あの時はそうするのが彼女のためだと思ったけれど、彼女がいなくなって残されたのはユウタへの嫉妬ばかりだ。

 そしてまた僕はリプレイする。僕を選ぶ彼女を探して。

▶REPLAY_n'/20XX/05/29

▶REPLAY_n'/20XX/05/29

 ユウタはわずかな空腹を感じながらペダルを踏み続けていた。橋の中央まで来ると立ち漕ぎをやめ、傾斜で自転車が加速するのにまかせて深呼吸する。川面はやわらかな空を映し、土手はハッとするほどの濃い緑色。気づけば五月も終わりに近づいていた。

 一台の軽自動車がユウタの自転車を追い越し、運転席で揺れたツインテールと、車体にベタベタ貼られたステッカーに彼の目がとまる。ユウタはふと想像した。

 あの運転手は車の構造に詳しくなく、車はただの移動手段でファッション。自分好みに飾り、コストパフォーマンスが良ければそれでいい。――こんなふうに勝手に想像を膨らませるのがユウタの癖だった。続けてこう考える。

 俺は免許がないから運転できないけど、運転してみろと言われたらきっとできる。アクセルとブレーキさえわかっていれば十分だ。

『あなたのすべてを知らなくても問題じゃないの。それはきっと、車の構造を知らなくても運転はできるっていうのと同じなのよ。DNAがどんな塩基配列になっているか知らなくても生きてるっていうのと同じ。理屈は分からなくても私がこうしてトモヤの目の前にいるのも、たぶん同じ』

 ユウタは昨夜観たドラマのワンシーンを思い出していた。台詞にある「私」とは、ドラマに出てくるエチカという名の女子高校生幽霊だ。

 教室にフワフワと浮くエチカ。テレビで見た映像を脳内で反芻しながら、『すべてを知る』とはどういうことか考える。

「すべてを知るのは神様くらいだ」

 ユウタは神様の存在を信じているわけではないけれど、信じたほうが楽に生きられるんじゃないか、くらいには思っている。

 無意識にかけたブレーキ音で我に返り、ハンドルを切って土手沿いの道へ曲がった。坂道を下ると年季の入った黄緑色の看板が見えてくる。行きつけのカメレオンベーカリーは今日も変わらず営業中だ。

「パンの作り方は知らないけどアンパンは好きだ」

 店の前に自転車を停めると、女店主が「おはよう」と笑顔でユウタを迎えた。

「おはよう、ユウタ君。アンパン焼けたばかりよ」

「やっぱり焼き立てが最高だよね」

 ユウタは芥子の実がのったアンパンとウィンナーロール、ペットボトルのお茶を買って店を出た。

 坂道を上り、桜の木に自転車を立てかけ、土手を下りると平たい石に座ってアンパンをほおばる。朝食にアンパンを食べるのは母親がいた頃の名残だ。彼女が今どこにいるのかユウタは知らないけれど、父親以外の男といることは間違いない。

 ユウタは母親のことが嫌いだった。考えるだけで胸が重くなり、自分が薄っぺらな紙きれのように思えてくる。いっそ風に飛ばされてこの世界から抜け出せたらいい。

 上空を飛行機が過っていった。あの飛行機はどこに向かうのか。何人の人間が乗っていて、どんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。とりとめのない疑問がユウタの脳裡に浮かんでは消えていく。

 あの人の朝食は今日もパンだろうか?  「世の中の大抵のことは知らなくても生きていける」

 手をかざして視界から飛行機を消すと、「何やってんの、ユウタ」と、背後から耳慣れた声がした。

「トウカ、おはよ」

「おはよ」

 高校一年で同じクラスになったトウカ。耳が見えるほど短いショートカットだった髪は、今は肩下まで伸びている。その髪が陽に透けて彼女の輪郭を飴色に染めた。

「朝メシ食ってた」

「うん、いい匂い。ひと口ちょうだい」

 トウカは隣にしゃがみ、雛鳥のように無防備に口を開けた。ユウタが食べかけのアンパンを差し出すと躊躇いなくパクリとかぶりつく。

 トウカとは一緒にいることが多かったし、つきあうきっかけがなかったと言えば嘘になる。二年に上がったばかりの頃、「つきあっちゃう?」と口にしたのはトウカだった。あのとき即答できなかったのは、「高波センセかっこいい」と言うトウカを何度も目にしていたからだ。担任であり数学教師の高波は、男のユウタから見ても整った顔立ちをしている。

「今頃撮影してるのかな」

 トウカは草の上にペタンとお尻をついた。

「撮影って?」

「ユウタ、聞いてなかったの? 映画の撮影にうちの学校が使われるって、昨日高波センセが言ってたじゃない。一年の教室らしいけど、有名人って誰が来てるんだろうね。問い詰めたけど教えてくれなかったんだ」

 チェッというトウカの舌打ちは片仮名の発音だった。

「トウカ、また高波のとこに押しかけてたのかよ」

「あたしだけじゃないよ」

「女子人気高いな、うちの担任」

「ユウタも似たようなもんじゃない。モテモテのくせに」

「俺のはいいように使われてるだけ。八方美人だから」

「それ、自分で言う?」

「言うよ」

「不器用なやつ」

 トウカはクスクスと笑った。

 あのとき恋人同士になっていたら――ユウタはそんな想像をしては、トウカとの中途半端な距離をもどかしく感じる。トウカはそんなユウタの気持ちに気づく様子もなく、ポケットからリップクリームを取り出して唇に塗った。赤ちゃんの頬のような、淡い紅色の唇。ユウタはそこにキスしたいと思う。

「そろそろ行くか」

「天気いいし、サボりたいね」

「サボったら高波に会えないけどいいのか?」

「それはヤダから学校行く」

 桜の下まで戻って自転車の鍵を外し、サドルにまたがるとトウカは当たり前のように荷台に座ってユウタの体に手を回した。

「レッツゴー」

 押し付けられた柔らかさに意識が向かないよう、ユウタはペダルを踏む。

「トウカ、高波狙いじゃなかったっけ? くっついてるとアイツに見られるかもよ」

「いいの。高波センセは先生だから。アイドルみたいなもの」

 トウカの言葉が本音かどうか、ユウタにはわからない。

 トウカ以外にも高波のファンは数えきれないほどいて、女子同士で盛り上がっているのは傍目に見ても楽しそうだった。けれど、トウカが高波に向ける眼差しに胸がザワザワする。ユウタが口を挟むことではないけれど、つい勘ぐってしまうのは彼女が傷つくのを見たくないから――いや、自分が傷つきたくないからだ。

「高波って、なんで女子にモテるんだ?」

「カッコいいじゃん」

「見た目かよ」

「あと、ちょっと影がある感じ?」

「そうか?」

「そうだよ。それに優しいし、オッサンじゃないし、でも大人だし。モテるに決まってるよ。これで婚約者がいなかったら完璧なんだけどな」

「モテるって言ったって、女子高生にだろ」

「僻まない、僻まない。ユウタと高波センセって、ちょっと雰囲気似てるよ」

「うれしくない」

「素直じゃないなぁ」とトウカは笑い、振動がユウタの背に伝わってきた。   土手道を学校へ向かうクラスメイトを、ユウタは自転車で追い抜いていく。不意にトウカの片手がユウタから離れ、二人の間にこもっていた熱が解放された。

「おっはよー」とトウカが手を振っている。

 離れていた彼女の手が戻って来ると再び背中に熱がこもり、ユウタは自転車のスピードを上げた。

「落ちんなよ、トウカ」

「落とすなよー、ユウタ」

 正門はもう目の前だった。撮影の噂を聞きつけたのか他校の生徒と私服姿の男女が数人たむろして、彼らと押し問答しているのは生活指導の体育教師タッペイ。トウカを荷台に乗せたまま、ユウタは自転車でその脇をすり抜けた。

「二人乗り、降りろー!」

 野太い声を聞き流し、ユウタは笑いながらラストスパートをかける。トラック数台と部外者らしい人影がグラウンドの隅にあり、生徒たちはみな興味津々で様子を伺っていた。

「タッペイ怒ってたね」

 駐輪場に自転車をとめると、トウカは他人事のように正門の人垣を眺めた。野次馬はさらに増え、タッペイの姿は埋もれて見えない。

「俺たちのことなんてかまってられないよ」

「先生も大変だねー」

 同情しているふうでもなくトウカは言うと、今度は校舎の一角に視線をやる。

 西棟校舎と東棟校舎をつなぐ渡り廊下は屋根だけの簡易なもので、その奥の中庭が筒抜けに見えている。中庭に面した西棟校舎の一角に生徒が群がっていて、そこが騒ぎの元凶のようだった。

「ねえ、ユウタ。撮影見に行ってみる?」

「トウカが行きたいなら――」

 ユウタが喋っている途中で、トウカはアッと声をあげた。

「おはよー、センセ」

 西棟の方から歩いてくる高波にトウカが手を振った。高波は手に持ったバインダーを掲げ、「おはよう」と声を張り上げる。ユウタはトウカの行動を予測し、先に担任に駆け寄っていった。

「おはようございます、先生。映画の撮影は順調なんですか?」

「さあ、僕には何とも。野次馬がいっぱいで近づけないよ。撮影が延びても二年には何の影響もないしね」

「やっぱり見に行っても意味ないかぁ」

 追いかけてきたトウカが残念そうに肩をおとし、高波は「意味ないよ」と笑う。ユウタはそっと高波の顔をうかがったが、トウカが自分と高波のどこを似ていると言ったのかまったく見当がつかなかった。

 唐突に、高波がパシンとバインダーを叩いた。

「忘れるところだった。悪いけど、教室に行く前に第一資料室に寄ってくれるかな? 入り口脇のダンボール箱に資料が入ってるから、二人で教室に運んでおいて」

「第一資料室? 撮影してるのって、そこら辺ですよね」

 トウカの声が弾む。

「衝立で仕切られてるから期待しても見えないよ。じゃあ、よろしく」

 高波は職員玄関に向かい、ユウタとトウカは教室のある東棟ではなく、西棟の廊下を第一資料室へと向かった。高波が言ったように廊下は衝立で塞がれ、資料室手前の階段のところに見張りらしい養護教諭が立っている。

「お二人さん、そこから先は立ち入り禁止だよ」

「知ってまーす。高波センセに言われて第一資料室に資料を取りに来ました」

「野次馬じゃないのね。まあ、でも、隙間からのぞいたら少しは見えるかもしれないわよ」

 養護教諭が冗談めかして言うと、トウカがスキップで衝立に近づいて隙間からのぞく。振り返って肩をすくめ、笑う養護教諭にトウカは不満げに訊ねた。

「先生、撮影って誰が来てるんですか? 有名人?」

「有名人。私と違って美人さんよ。だから教えられない。君たちもさっさと用事済ませて教室行かないと、遅刻しちゃうわよ」

 誰が撮影に来ているかなんて、ユウタはどうでもよかった。モエくらい有名な芸能人ならのぞき見したくもなるけれど、無名の新人女優が来ているとしか思えない。トウカが「ざんねーん」と、残念がっていない声を出す。

 薄暗い第一資料室には書架が並び、窓から淡い光が射し込んでいた。埃とインクの匂いに誘われて足を踏み入れると、床がギシリと音をたてる。トウカが窓を開け、逆光で彼女の姿がシルエットになり、ユウタの心臓が騒ぎ始めた。

「ユウタ。資料室の裏ってあの場所だね」

「……あの場所って」

 おうむ返しに聞きながら、その意味は分かっていた。あの時のトウカの言葉、表情、自分の感情、すべて鮮明に覚えている。

「トウカ。つきあっちゃうか?」

 ユウタの言葉でトウカの顔に困惑の色が浮かんだ。冗談だよ、と言ってしまえばこれまで通りの関係でいられる。けれど、ユウタは黙って彼女の返事を待った。

「本気?」

「……半分くらい本気」

「残りの半分は?」

「フラれると気まずいから、なかったことにしたいのが半分」

 アハハ、とトウカの笑い声が弾けた。窓からカサカサと葉擦れの音が聞こえ、花の香りが草の香りに混じる。

「ホームルーム始まっちゃうよ。行こっか」

「高波の許可はとってあるんだから遅れてもいいよ。トウカ、あのとき半分くらいは本気だった?」

 ユウタは一歩踏み出して彼女に近づいた。いつもと何も変わらないはずなのに、目の前にいるトウカはいつもよりも大人びて見える。

「呼び捨てはダメだよ。高波センセイでしょ?」

「トウカは高波センセイに本気なの?」

「禁断の恋、か。生徒と教師の三角関係」

「はぐらかすなよ」

 トウカはくるっと背を向けると、窓枠に手をかけて空を仰いだ。外のスピーカーから予鈴が聞こえてくる。

「あたしも半分くらい本気だった」

 ユウタが隣に並んで彼女の横顔をのぞき込むと、トウカは照れを誤魔化すように「エヘッ」と笑う。ユウタはドキリとして思わず目をそらした。

「トウカ、残りの半分は?」

「ユウタと一緒。気まずくなるの嫌だもん」

 高揚感で胸がいっぱいになり、ユウタは窓の外に飛び出したくなった。校舎裏の非常階段を駆け上って、屋上のフェンス際で叫びたかった。けれど、何を叫びたいのかよくわからなかった。

「ユウタ。学校サボってどっか行こうか」

「どこに?」

「映画とか」

「映画?」

「つきあうんでしょ。初デートっぽくていいじゃん」

 ユウタ、と廊下から高波の声がした。振り向いても姿はまだ見えず、スリッパを擦る音が近づいてくる。資料室のドアは開けっ放しで、窓ガラス越しに見えた葉桜に、一人の女性タレントの姿がユウタの頭を掠めた。深緑色の髪をした、モエ。

 草の香りがした。夏に向かう高揚感と、草原を駆けるような開放感と、包み込むような穏やかさ、行き場を失った悲しみと痛みがユウタの体を駆け抜けていく。ふと、泣きたくなった。

「ユウタ、よろしくね」

 トウカのはにかんだ笑みが、たった今押し寄せた感情をどこかへさらっていく。

「よろしく」

 窓を閉めると埃っぽい空気とインクの匂いがした。時間が止まったような不思議な感覚は、担任の「こら」と言う声で現実に引き戻される。

「二人ともまだいたのか。もうホームルーム始まるぞ」

「先生が教室行かないとホームルームは始まらないのでギリセーフです」

 ユウタが返すと、「屁理屈」と高波はおかしそうに笑う。

 ダンボール箱を胸の前で抱え、鞄はトウカに預けて教室に向かった。以前なら高波の隣を歩いていたトウカが、自分の隣を歩いているのがくすぐったかった。

「先生」

「なんだ? ユウタ」

「やっぱり、なんでもないです」

 照れ臭さが抑えきれず口を開いたけれど、浮かれた言葉しか出てこない気がしてやめた。首をひねる高波に、トウカが「セーンセ」と弾んだ調子で声をかける。

「何?」

「あたしたち、つきあうことになりましたっ」

 跳ねるように歩くトウカの髪がフワフワと踊っていた。高波は「そうか」と、なぜか泣きそうな笑みを浮かべた。

■Logout4

■Logout4

 SoLにログインし、ユウタを見るたび嫉妬した。リプレイして何人ものユウタに出会い、そのたびにその世界のユウタに嫉妬し続けた。

 モエはいくつにも分岐した世界で、何度でもユウタに会いに行く。残されたデータで作り出されたモエに〈彼女〉の意思が宿ることはなく、〈彼女〉らしい行動をとるけれどそれは決して彼女ではない。あの時期のモエのデータから推測される未来は、ユウタに会いに行くという選択しかなかったということだ。

 僕はプレイヤー〈高波透〉。

 数学教師の高波としてモエに会ったところでモエが〈僕〉を認識できるかわからない。そして、NPCとなったモエに僕が触れることはおそらくできない。

 ではNPC同士のモエとユウタが触れ合えたかというと、そうでもなかった。どうやら不正ログイン時のモエの記憶は整合性がとれる形――撮影時のハプニング程度――に改変され、モエが再び学校を訪れることはなかったのだ。何人かのユウタはモエに会いに行ったようだが、見えない壁でもできたように二人が出会うことはなかった。

 僕はいつもユウタに嫉妬し、そして同情する。

 僕は何度もモエに声をかけようとし、結局指をくわえて見ているだけだった。現実での僕と彼女の思い出はモエのデータにはなく、姿を晒して「誰ですか?」と聞かれるのが怖かった。

 モエの行動を都合のいいように書き換えることは、たぶん不可能ではない。けれど、そこに生まれるのは〈彼女〉の残したモエではなく、僕の意思が入ったまがいもののモエ。それに、一度書き換えたデータを元通りに復元できる保証はない。

 ある意味、モエは僕にとって神になった。永遠にSoLの中に存在する、不可侵の女神。

 いつしか僕の目的はモエに振り向いてもらうことではなく、モエからユウタを遠ざけることに変わっていった。何度も何度も時間と場所を変えてリプレイし、モエではなくユウタの行動を変えるよう試みた。教師の立場を利用して彼の席を変えたり、同情を誘うような言葉を口にしてみたり。トウカに対する高波の態度を変えたりもした。その影響がユウタに及ぶように。

 釣り糸を垂らして当たりがくるのを待つような気の長い話だ。それはモエのデータを手元のパソコンでいじるのとは違い、ひどくまどろっこしいやり方だった。

 SoLをプレイし続ける理由が欲しかったのかもしれない。僕にできるのは高波としてプレイし続けることだけだ。だから、自己矛盾に目を背けて毎日毎日SoLにログインした。 酒に頼っている部分は大いにあった。けれど、幸い日常生活を送ることはできていた。仕事復帰したのはケア休暇が終了した時。パートナーとの死別はケア休暇の対象になるらしく、親友が必要書類を携え家にやってきたのは彼女の葬式の直後だった。

 仕事復帰してからも僕はSoLをプレイし続けた。朝起きて顔を洗い、現実をスタートさせる。やり飽きたゲームのように日中を過ごし、帰宅後はSoLにログイン。もしかしたら、僕は仲間が欲しかったのかもしれない。僕の悲しみを理解できる仲間。現実の世界に彼女の死を悼む人はたくさんいるけれど、僕の抱える喪失感は、きっとユウタにしかわからない。

 モエのいるあの世界が現実であればと願う一方で、SoLに行けば結局そこに彼女はいないと思い知らされる。それでも僕はあの世界で彼女の残した欠片を探して彷徨っていたかった。現実とゲームの境目が曖昧になり、浅い眠りから覚めるといつも泣きたくなる。それは今朝も同じだ。

 重い体を引きずってベッドから出ると、熱いシャワーを浴びた。外は快晴。窓を開けて風を入れたとき、

「よう」

 通りから声をかけてきたのは親友だった。半袖シャツから褐色の逞しい腕が伸び、その腕を大きく振って僕に笑顔を向ける。遠慮もなく部屋に上がって来ると、彼はテーブルの上のヘルメット型端末を見てため息をついた。手に持っていた酒入りのブラッドレモンソーダは容赦なく取り上げられる。

「タカナミ先生、今日は休日だぜ?」

「休日出勤。SoLは平日だ」

「教師がやりたいなら現実で再チャレンジしたらいいだろ?」

「考えてない。今の仕事で十分やりがいを感じてる」

「だろうな」

 親友の笑みが胸に刺さった。

 彼女の死後、この親友がいなければ僕は無断欠勤を続け解雇されていたはずだ。リプレイできないこの世界で、僕は彼に救われている。そして、ゲーム感覚で現実を生きる僕は以前より大胆になり、そのおかげで社内評価が上がったのは皮肉な話だ。

「出かけるぞ、準備しろ」

 彼の強引さのおかげで日々過ごせていると思えば、気乗りしなくても付き合うしかなかった。仕方なく着替えを済ませて外へ出ると、焼けるような日差しで汗が一気に吹き出してくる。

「ブラッドレモンソーダ飲ませてやるよ。酒抜きのやつ」

 その言葉で僕は行き先が分かってしまった。

「フリーマーケットなら行かない」

 近くの公園でフリーマーケットが開催されているはずだった。毎年開かれるその催しで彼女に出会ったのはもう何年も前。フルーツソーダ・バーで売り子をする姿を見たのは、初めて会ったあの日が最初で最後だった。ほとんどの時間を病院で過ごした僕と彼女にとって、フリーマーケットの思い出は特別なものだ。

 もし現実をリプレイできるなら僕は公園に駆けて行く。籐籠に盛られたフルーツと氷水に浸かったソーダ水の瓶。車椅子に座って「いらっしゃい」と笑顔を向ける彼女を散歩に連れ出し、もう一度彼女と恋をして、結婚指輪を渡して、SoLはプレイさせない。

「フリーマーケットに行っても彼女はいない。行く意味なんてない。現実を突きつけて僕をどうにかしようとしても無駄だよ。何も変わらない」 

「バーカ、勘ぐり過ぎだ。俺はこの日差しの下でブラッドレモンソーダが飲みたくなった。それだけだ」

 彼は一人で公園へ向かい、僕はため息をついて彼の後を追った。空は抜けるような濃い青をしていて、公園からは子どもたちが駆け出して来る。まるで時間を巻き戻したように風景はあの日と同じで、僕は無意識に彼女の姿を探していた。そして、フルーツソーダ・バーの文字が目に入った。テントの下に、あの日と同じカラフルな看板が置かれている。

 足を止めた僕を、親友は「まあまあ」と強引に引っ張ってテントへ連れて言った。山盛りのフルーツ、氷水に浸かったソーダ水の瓶、カウンターの奥にいたのは彼女の両親だ。

「いらっしゃい。来てくれたのね」

 彼女の母親の顔には皺がいくらか増えていた。

「ブラッドレモンソーダふたつ」

 親友のオーダーに応え、彼女の父親がブラッドレモンを搾った。彼女の母親がソーダ水を注いで、出来上がったブラッドレモンソーダは彼女の作ったものと同じ夕焼け空の色。

「お店、彼女が亡くなってからもやってたんですか?」

「最近やっとあの子の荷物を片付ける気になって、その中にあの看板があったの。だから」

「そうですか」

 後ろに客が並び、僕は「また」と声をかけてテントを後にした。親友はいつの間にかベンチで寛いで、僕はブラッドレモンソーダを手に彼の隣に座る。

「おせっかいだな」

「偶然だよ」

 グラスの氷がカラと音をたてた。

 親友と別れて家に帰ったあと、僕はモエとユウタが第一資料室で出会ったあの日に向かうことにした。モエではなく自分のデータを書き換えて裏技を使わないようにし、モエを第一資料室に入れなくした。

 その世界ではモエとユウタは出会わない。僕にとって、SoLがゲームに戻った瞬間だった。

▶REPLAY_n'/20XX/06/05(1)

▶REPLAY_n'/20XX/06/05(1)

「まーた、ドラマ見逃したの?」

 トウカはユウタの耳からイヤホンを引き抜き、スマホ画面をのぞきこんで「やっぱり」と呆れたように言った。

「ねえ、ユウタってモエのファン?」

「別にモエ目当てじゃないよ。ドラマって見始めたら続きが気になるだろ」

「気になってたのに見逃しちゃうんだ」

 この日の朝、ユウタはカメレオンベーカリーでパンを買って学校に直行した。一人きりの教室で昨夜放送された深夜ドラマを観ていたはずなのに、いつの間にか教室は生徒で溢れ、黒板の上にあるアナログ時計を見るとあと二十分ほどでホームルーム。

 ユウタは画面に触れて動画を止めた。

「ユウタはモエみたいなのがタイプ?」

「だから、違うって」

 平静を装いながら、ユウタはヒヤヒヤしている。トウカには秘密にしていたけれど、控えめに言ってもユウタはモエの大ファンだった。先日の映画撮影でモエが学校を訪れていたと後で聞き、彼女を身近に感じてさらに惹かれるようになったのだが、なんとなくやましい気持ちがあって、恋人のトウカには口にできないでいる。

「誤魔化さなくていいよ。モエを嫌いな男子なんていないんだから」

 はい、とトウカはイヤホンを机に置き、女子の群れに混じった。ユウタが一時停止を解除すると三十分の深夜ドラマはエンディング曲が流れ、時計を確認したあとユウタは最初から再生する。

 冒頭シーンを見るのは五度目だった。昨夜の放送も最後まで観たし、その後オンデマンドで二回視聴した。ついさっき観終わったのが四度目の再生だ。

 ユウタは動画を16:43に合わせる。

 モエが演じるエチカが教室を飛んでいた。エチカは成仏できないまま学校に棲みついた女子高生幽霊。 

『あの場所で待ってるから、誰にも見つからないように一人で来てね。朝の職員会議の時間なら先生にもバレないよ』   西日の射す二人きりの教室で、エチカの頬は茜色に染まっていた。彼女を見上げるのは男子高校生のトモヤ。彼には霊感があり、神主兼教師である神谷の助手を務めている。エチカに淡い恋心を抱いたトモヤは少しずつ距離を縮めていくが、いずれ彼女を成仏させなければならないことで葛藤していた。そんな話だ。

 エチカはきっとトモヤの手で成仏し、笑顔でこの世からいなくなる。涙のハッピーエンド。これがユウタの予想だった。

 じゃあね、とエチカが手を振り、窓をすり抜けて飛んでいった。ユウタはもう一度16:34に合わせる。

『朝の職員会議の時間なら先生にもバレないし』

 昨夜の放送を見てからユウタは落ち着かない。この台詞がモエから自分へのメッセージだというおかしな妄想に取り憑かれ、巻き戻して再生するたびに鼓動が速まり居ても立ってもいられなくなる。

 時計を見るとホームルームまであと十分。ちょうど職員会議の時間だ。

「あれ、ユウタどっか行くの?」

「ダッシュでトイレ!」

 教室から駆け出し、玄関を出て校舎裏へ回り、非常階段を一段抜かしで上った。カツンカツンと金属の音が響き、校舎の壁面に映る自分の影が追いかけてくる。二階、三階、四階と上がるうちに視界はひらけ、最後の踊り場でふと足を止めた。

 なぜか、エチカの台詞を思い出していた。

『あなたのすべてを知らなくても問題じゃないの。それはきっと、車の構造を知らなくても運転はできるっていうのと同じなのよ。DNAがどんな塩基配列になっているのか知らなくても生きてるっていうのと同じ。理屈は分からなくても私がこうしてユウタの目の前にいるのも、たぶん同じ』

 頭の中でエチカが語りかけた相手はユウタだった。

 見上げた空を飛行機が過ぎり、あの飛行機がどこへ向かうのか考える。何人の人間が乗っていて、どんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。どうでもいいことばかりがユウタの頭に浮かんでは消えていく。

 ユウタは飛行機に向かって手を伸ばした。何かを掴みたかったけれど、何を掴みたいのかわからないまま、ユウタは屋上へと向かったのだった。

▶REPLAY_n'/20XX/06/05(2)

▶REPLAY_n'/20XX/06/05(2)

 数学の授業が終わると、ユウタは「ちょっと職員室で話そうか」と高波に連れられて教室を出た。

 廊下を前後に並んで歩きながら、担任を見上げる顎の角度が上向きなのが悔しい。薄い水色のストライプのシャツから微かに柑橘の匂いがする。

 職員室に入ると高波は自分の席に座り、指でコツコツと机を叩くと、「何かあった?」とユウタの顔をのぞき込んだ。

「朝のホームルームと一限の授業、どこ行ってたんだ? 学校には来てたんだろう?」

「家のことでちょっと」

 モエがいる気がして屋上に行った、と正直に答えられるはずがなかった。誰もいない屋上でユウタは一人フェンスにもたれて座り、グラウンドを走るトウカの姿を目で追った。世界のすべてがちっぽけに思え、寝転がって目を閉じるとモエが隣にいるような気がした。

 妄想と現実の区別もつかないほど一人のタレントに心奪われている自分が滑稽だった。トウカにはモエのファンだとは絶対に明かさないと心に決めて、ユウタは屋上を後にしたのだ。

 高波は鼻でため息をつき、背もたれに体を預ける。

「ユウタ、パラレルワールドって聞いたことあるよな?」

「え?」

 あまりに唐突で声が裏返りそうになった。

「パラレルワールドって、この世界とは別に同じような世界が存在してるっていう、あれ?」

「うん。ユウタはパラレルワールドが存在すると思う?」

「いや、それはSFとか、漫画やゲームの話でしょ」

 そうか、と漏らした高波の笑みはどこか寂しそうだ。

「ユウタが頭の中で考えた、もしかしたらっていう世界がどこかに存在するとしたら?」

 ユウタはただ黙って首をひねる。

「なんとなく知ってる気がするとか、勘違いとか、思い込みとか。そういうのが、この世界と平行して存在する別の世界、パラレルワールドの影響だとしたら?」

「先生、何言ってるの?」

 ユウタが困惑気味に尋ねると、高波は今度は愉快そうに笑った。

「もし自分の願望が現実となっているパラレルワールドがあるとしたら悔しくないか? どうせなら自分がこの世界で願いや夢を叶えたり、伝えたいことを伝えようと思わない?」

 ようやく合点がいき、ずいぶん遠回しな説得だとユウタは内心苦笑する。

「俺は思ったようにしてます。だから一限に出なかったんです」

「じゃあ、それと同じだ」

「何がですか?」

「お母さんにも言いたいこと言ったらいいんじゃないかな? 連絡はできるんだろ」

 ユウタは少し驚いていた。生徒の話は聞くけれど家庭のことには首を突っ込まない、高波はそういうタイプだと思っていた。

「もしかしてトウカが何か言いましたか?」

「少しね。サボった生徒のフォローを僕に耳打ちしただけ」

 予鈴が鳴り、高波の手が親しげにユウタの腕を掴んだ。

「僕も力になりたいけど、結局はユウタ次第だ。パラレルワールドは絶対に存在してる。どこかで、ユウタが望むものを手にしている別のユウタがいるかもしれない。その逆もある。僕たちは日々、毎秒毎秒、選択の繰り返しだ。どの選択をしても変わらない未来がある。それは死ぬということ。ユウタもちゃんと考えろ。僕はそろそろ先に進むことにする。次の授業は世界史だっけ。遅れるなよ、ユウタ」

 高波は一息に言って、まっすぐユウタと目を合わせた。通りかかった隣のクラスの担任が珍しいものでも見るように口を半開きにする。

「先生、歴史を勉強する意味って何ですか?」

 ユウタは自分でもなぜそんな質問をしたのかわからなかった。高波は少し考え、「過ちを繰り返さないように」と答える。

「現実はゲームと違ってやり直しはできないからね」

「過ちって何?」

 高波は不意を突かれた様子で、ユウタの口からは堰を切ったように言葉が溢れ出す。

「俺の母親がどんなふうに噂されてるかは知ってる。みんな、あの人のしたことは過ちだって言うんだ。母は勝手に家を出ていった。さっき先生が言ったみたいに、望むものを手に入れるために出て行ったんです。もしかしたら、先生の言うパラレルワールドで俺とあの人は一緒に暮らしてるのかもしれない。でも、この世界でのあの人の幸せは俺といることじゃない。俺の母は、過ちを犯して幸せを手に入れたんですか?」

 高波から返ってきたのは問いだった。

「ユウタにとっての幸せって何?」

 ユウタは言葉に詰まり、シャツの裾を握りしめる。

「ユウタも、お母さんのように望んでもいいんじゃないかな。全てが望み通りになるわけじゃないけど、可能性を信じて、踏み出して、ダメだったらその時に考えたらいい。きっと人はそうやって繋がっていくし、こうして僕たちも繋がれた。わずかな時間だけど、僕はユウタと関われて良かったと思ってるよ」

 終わりみたいな高波の言い方がユウタは気になった。

「先生、もしかして学校辞めるんですか?」

「すぐにじゃないけどね。違う世界で先へ進むことにしたんだ。過去に囚われていたら彼女が悲しむから」

「彼女って、先生の婚約者?」

「うん。死んでしまったけど、彼女が残してくれた世界で救われた。そこには君がいた。だから、感謝してる。ありがとう、ユウタ」

 感謝される覚えはない、とユウタが言おうとしたとき、遮るように本鈴が鳴り始める。

「ほら、急がないと。一限サボったうえにまた遅刻じゃマズイだろ」

 高波はユウタの背を押して職員室を出ると、「廊下は走らずに急げ」と言い残して第一資料室に入っていった。廊下に一人残されたユウタは高波がいなくなることに思いのほか落胆し、その寂しさを紛らわせるため遠回りして教室に向かった。

「遅刻!」

 鋭い声を飛ばしてきたのは胡麻塩頭の中年教師。

「すいません。担任に呼び出されてました」

「仕方ないな。早く席につけ」

「はい」

 トウカが「おかえり」と言い、ユウタは「ただいま」と小声で返す。教科書を開いたあと、ユウタは机の陰でドラマを再生した。トモヤがエチカに手を伸ばし、その手はエチカの体をすり抜け、彼はじっと自分の手を見つめる。

『なにがちがうんだろう。ぼくとエチカは』

『からだがあるか、ないか。かな?』

 音声がなくてもユウタは台詞を覚えている。エチカには体がなく、トモヤは彼女に触れられない。それでも二人は惹かれあい、こうして繋がっている。

「……ウタ、ユウタ」

 トウカの声で顔を上げると、いつの間にか授業は終わっていた。教師の姿はすでになく、トウカが怪訝そうに首をかしげている。

「ユウタ、どうしたの?」

 トウカの指が頬に触れ、ユウタは自分が涙を流していることに気づいた。思わず口ごもると、傍にいたクラスメイトが好奇心むき出しで反応する。

「トウカ、彼氏泣かせたの?」

「あたしじゃないよ」

「泣いてない。あくびしたら涙出ただけ」

「ほんとに?」

 ひとしきり盛り上がった友人たちは「また明日」と帰っていき、女子二人が「センセのとこ行ってみよ」とトウカに声をかける。

「ごめん。あたしユウタと帰るから」

 トウカはヒラヒラと手を振り、彼女たちが姿を消すと「帰ろっか」と腰を浮かせた。

「ユウタ、今日もよろしく」

「俺は無料タクシーではありません」

「とか言いながら送ってくれるくせに」

 ユウタの返事も待たず、トウカは軽い足どりで教室を出て行く。その後を追い、ユウタは彼女の腕を掴んだ。

「トウカ」

「何?」

「俺、電話してみることにする。母親に」

 トウカはホッとした表情で「そっか」とつぶやき、跳ねるような足どりでユウタの手を引いた。

▶20XX/06/26

▶20XX/06/26

 雨上がりの空に天使の梯子がかかり、煙った街の一部が明るく照らされていた。学校をさまよう幽霊エチカが消えたのは、そんな梅雨の日。涙の最終回だったけれど、ラストはユウタが予想したような展開ではなかった。

「ねえ、ユウタが好きなのって、もしかしてモエ?」

 ユウタは屋上に寝転がり、スマホでドラマの最終回を観ていた。画面から顔を上げると、トウカの髪が陽光で飴色に透けている。

「そうだって言ったら?」

「たしかに身分違いの恋ね。絶望的」

 トウカは笑いながらユウタの隣に腰を下ろした。

「ねえ、ユウタ。いつも屋上でお昼食べながら、例の女の子……モエのこと待ってるの?」

「そうかもね」

「彼女がまた学校に忍び込んでくるのを?」

「うん」

「会いに行けばいいのに」

 会いに行けるのなら行きたかった。けれど、ユウタにできることはもう何もなく途方に暮れるばかりだ。モエへの気持ちは恋だと思っていたのに、最近ではそれもよくわからなくなっている。

 出会いは映画撮影の日。二度目に会ったとき秘密を打ち明けられて〝なんちゃってキス〟をした。モエはこの屋上でログアウトして、それ以来姿を見せない。それでもモエの出演するドラマは続き、昨日が最終回だった。

 エチカの台詞をモエからのメッセージだと思い込んで部室裏に行ったこともあった。彼女は部室裏に来なかったのに、時おりユウタの頭の中に妄想とも現実ともつかない映像が流れていく。その妄想ではモエはユウタの隣にいて、一緒に部室裏から街を眺めていた。

 ユウタはエチカがドラマで口にした場所を手あたり次第訪れた。図書館に理科室に体育倉庫。時間があれば屋上に行ったし、第一資料室や部室裏は数えられないほどのぞいた。けれど、どこにもモエはいなかった。彼女に何かあったのかもしれないと頭を掠めるたび、必死にそれを打ち消している。でも、そろそろ終わりにしたかった。

「もう、彼女には会えないかもしれない」

 ポツリとつぶやくとその言葉が急に現実味を帯びていく。

「ユウタ、どうしたの?」

 トウカの指が頬に触れ、ユウタは自分が涙を流していることに気づいた。

「あたしのせいじゃないよね?」

「なんでもない。あくびしたら涙出ただけ」

「ほんとに?」

 ユウタの髪をクシャクシャとなで、トウカは「戻ろっか」と腰を上げる。

「今日も帰りよろしくね」

「俺は無料タクシーではありません」

「無料自転車だっけ?」

 トウカは軽い足どりで非常階段へ向かい、ユウタはその後を追って彼女の手を掴んだ。そこには確かなぬくもりがある。

「トウカ」

「何?」

「サンキュ」

「何が?」

「トウカが海で言っただろ。言いたいことは直接母親に言えって。週末、あの人と会うことになった」

「お母さん? 電話したんだ。良かったね」

「良かったのかわからないけど、ちょっと気持ちが軽くなった」

「泣いてたくせに」

 淡い紅色をしたトウカの唇が笑みをつくり、ユウタは掴んだ手に力を込める。

「つきあおっか、トウカ」

「本気?」

「半分くらい本気」

 アハハ、とトウカの笑い声が弾けた。

「授業始まっちゃうよ。行こう」

「遅れてもいいよ。トウカは高波に未練がある?」

「呼び捨てはダメだよ。高波センセイ、でしょ?」

 ユウタの頭の中でトウカとモエが重なる。けれど、それは一瞬だった。

「はぐらかすなよ」

 ユウタが真面目な顔でトウカを見つめ返したとき、予鈴が鳴りはじめた。その音が終わるのを待ってトウカが口を開く。

「いいよ。今からユウタはあたしの彼氏」

 ユウタの胸に表現し難い感情が溢れ、衝動のままに彼女の手を引いてフェンス際まで駆けた。そして、叫んだ。言葉にもならない、ただの叫び。トウカは隣で腹を抱えて笑っている。

「ねえ、ユウタ。サボってどっか行こうか」

「どっかって?」

「海?」

「この前、行っただろ」

「じゃあ、カメレオンベーカリー。アンパン、ユウタのおごりで」

 ユウタ、と高波の声が聞こえた。

 非常階段のところに彼が立っていて、水色のシャツが背景の空に溶けてしまいそうだった。顔も声も高波なのに、どこか違う人のように見える。が、目の前まで来ると違和感は消えた。

「あのね、センセ。あたしたちつきあうことになりましたっ」

 はしゃいだ声で報告するトウカに、「そうなんだ」と高波は穏やかに微笑む。そしてふと真顔に戻ってユウタを見る。

「ユウタ、もう待たなくてもいいよ」

「あれ? センセ、もしかしてユウタがここで待ってる人のこと知ってるの?」

 高波は笑みを浮かべるばかりでトウカの質問には答えなかった。ユウタも何と説明していいかわからない。

「ごめん、トウカ。ちょっとだけ先生と二人きりで話させてくんない? 先に戻ってて。遅刻しちゃうし」

「ユウタも遅刻しちゃうよ」

「俺はいい。担任に呼び出されたって言って。ね、高波センセ」

 高波は苦笑しつつうなずいている。トウカは不満げな顔をしたけれど、すぐに諦めて一人で非常階段を降りていった。彼女の姿が見えなくなると、高波は空を仰いで深呼吸する。

「久しぶりって気がする。ユウタ、僕の言ってる意味わかるかな?」

「ログインするのが、ってこと?」

「まあ、正解。正規のログインはずいぶん久しぶりなんだ。何度も何度も時間を戻してリプレイしてた。だから、別のユウタには毎日会ってた。何人ものユウタにね」

 モエが話していたパラレルワールドのことを思い出した。高波がリプレイしたと言っているのだから、きっと上手くいったのだろう。

「モエもリプレイしてるの? ここじゃない、どこか分岐した先の別の世界線で、彼女は俺に会ってるの?」

「いや、モエはもうプレイしてない」

「でも、彼女はドラマに出てるし、画面の中で動いてる」

「僕だってこの世界線にはずっとログインしなかった。でも、毎日教室に来てただろ? 蓄積データからオートモードにすることは可能なんだ」

「じゃあ……」

 モエは? と聞こうとしたけれど、その答えを知りたくなくて口をつぐんだ。それなのに、高波は容赦なく答えを口にする。

「モエはこの世界では生きてる。でも、モエとしてプレイしてた彼女は死んだよ」

 ユウタは歯を食いしばり、涙がこぼれないよう堪えた。

「ユウタにとっては一か月だけど、僕の時間はあれからずいぶん経ったんだ。皺も一本くらい増えたかもしれない」

 高波は少し冗談めかして言った。こうして穏やかな態度で恋人の死を語れるということは、想像してるよりもっと年月が経っているのかもしれないとユウタは思う。

「ユウタに伝えておきたいことがあってここに来たんだ」

「先生の恋人が死んだってことじゃなくて?」

「それもあるけど、知っておいてほしいのは、ユウタは本当はモエに三回会ってるってこと」

「え?」

「ドラマを観て部室裏に行ったことがあっただろ? あのときモエと君はそこで会っているし、モエはちゃんとアンパンを食べた。でも、うっかり出ちゃいけないエリアに触れて、君のデータがセーブされないまま記憶が飛んでしまったんだ。ちゃんとしたやり方でモエがログインしてたらきっとそんなことにはならなかったんだけど、モエが君に会うにはまともなやり方じゃ無理だったしね」

「じゃあ、あの食べかけのアンパンは」

「モエの食べかけ。半分しか食べれなかったって悔しがってた。あの直後に彼女が体調を崩して、ここには来られなくなった。あの後に彼女がログインしたのは一度だけ。死ぬ間際に」

「俺は会ってない」

「部室裏からリプレイしたんだ。だから、彼女が最後に会ったのは別のユウタ。こことは別の世界の」

「どうして、俺じゃなかったんだろう」

「設定したのは僕だよ。ユウタにあの時の記憶が残ってないってことは把握してたから、強制終了になったのを彼女はずいぶん悔やんでたんだ。それに、あの頃は意識が戻ることがほとんどなかったから、行ったことのない時間や場所でプレイするより負担が少ないと思った」

 ユウタの頭に、昨日見たばかりのドラマの最終回が蘇った。

 病室で何本ものコードに繋がれたエチカは、ある梅雨の日に目覚めた。ベッドの傍らにはトモヤがいて、窓の外には虹がかかっていた。エチカは死んだ人間の幽霊ではなく、昏睡状態にある彼女の生霊だった。

 体を得たエチカとトモヤのその後がドラマで描かれることはない。二人の関係はユウタとモエとは正反対で、重ならない二つの世界を強引に一つにしてしまう、ご都合主義の結末にしか思えなかった。

 ユウタの現実は、ドラマみたいに思い通りにはならない。 

「モエは、どうなるんですか?」

「退会手続きは済んでるから、ゲームの中だけのキャラクターとして生きて、いつか死ぬ。それが一年後なのか、十年後なのか、おばあちゃんになってからなのかは分からない」

「それはモエなの? 俺の知ってるモエ?」

「少なくとも僕にとってはモエだけど、僕の恋人ではない。彼女はもう死んでしまったから」 

 高波はフェンス際に立って金網を握りしめた。遠くに小さな海が見える。

「僕はずっとユウタに嫉妬してたんだ。何度もリプレイして、モエがユウタよりも僕を選んでくれる世界を探した。僕の行動や言葉で世界は枝分かれして、その先に訪れる世界も変わるはず。そう思ってたけど」

「違ったんですか?」

「いくつものパラレルワールドでユウタと関わって、気づいたことがあるんだ。ひとつは、それぞれのパラレルワールドがほんのわずかだけれど干渉し合っているってこと。モエとは一度も会っていないはずのユウタが、ドラマの台詞だけを頼りに彼女のことを探してた。君が部室裏に行ったみたいにね。そんなの普通では考えられないだろう? あとは、トウカのこと」

「トウカ?」

「もうひとつの発見があったのは、トウカのおかげなんだ。さっき二人はつきあうことになったって言ったよね」

「はい」

「いつもそうなんだ。どこかのタイミングでユウタとトウカはつきあうことになる。それについて運命とかそんなドラマチックなことを感じたわけじゃない。僕が考えたのは、プレイヤーは所詮この世界ではゲストでしかないんだってこと。トウカが僕に好意を持ってくれてたのは知ってるけど、僕らがどうにかなることはないんだ。それは多分ユウタとモエも同じだったんじゃないかな。酷いことを言うようだけど」

 ユウタはモエに触れたいと願ったけれど、モエとの関係に自分が何を期待していたのかよくわからなかった。彼女との思い出には必ず喪失の予感がまとわりついて、消えることのない不安で余計に彼女を求めたのかもしれない。

「モエが言ってた。自分は世界のニキビみたいなもので、いつの間にか消えてしまうって」

 ユウタの言葉に、高波は悲しげに眉を寄せた。

「俺は先生たちの現実に行くことはできないし、この世界が架空のものだって言われても実感が湧かない。でも、モエに対する気持ちは俺の現実なんだ。生きてる世界が違っても彼女と繋がれた。触れることはできなかったし、すべてが思い通りになるわけじゃないけど、たぶん、運が良かったらこうやって繋がれるんだ。モエにもう会えないのは悲しいけど、俺はわずかな時間でもモエと関われて良かった」

 高波は目を見開き、そしてフッと笑みを浮かべた。

「僕も、わずかな時間だけどユウタと関われて良かった」

「先生、もしかしてもう来ないつもりですか?」

 ユウタが問うと、高波はスッキリした顔でうなずく。

「ログアウトしたら退会手続きするつもりなんだ。僕にも現実の生活があるし、心配してくれる友人もいるからね。それと、この学校にはいない方がいいと思ったから辞職願も出してある。ユウタには感謝してもしきれないよ。色々振り回してしまったかもしれないけど、君の幸せを願ってる。僕もユウタを見習って先に進まないとね」

「先生がいなくなると、トウカが悲しむよ」

 ユウタはそう言ったけど、喪失を引きずるのはユウタ自身だと思った。

「トウカにはユウタがいるだろ? それに、前期が終わるまでは僕もいるよ。いると言っても僕ではないし、数学教師の高波透がユウタと同じこの世界の住人になるってことだ。僕らの現実に関する情報はデータから削除されるから、そうった話をすることはなくなるけどね」

「先生。例えば、先生の現実も誰かが作ったゲームかもしれないって考えたことはない?」

 あるよ、と高波は好奇心に満ちた笑みを浮かべた。

「長い話になりそうだから、それはまた高波先生に話してみてよ。僕が何て答えるのか、僕もちょっと興味がある。そのやりとりが見られないのは残念だな。さあ、そろそろ現実に戻らないと」

 高波の目には確かな決意があり、本当に彼はもうこの世界に来ないのだとユウタにはわかった。

「ログアウトするなら俺はいないほうがいい?」

「ああ」

「モエは、そこで寝転がって目を閉じた」

「知ってる。じゃあ、もう会えないけど、ユウタのことは忘れないよ。バイバイ」

「俺も。先生のこと忘れないと思う」

 高波はヒラヒラと手を振り、その場にゴロンと寝転がった。風でダークブラウンの髪が揺れ、柑橘の香りが鼻をかすめる。名残惜しんでいるのか、高波はじっと空を見上げていた。ユウタはその視線を追って空を仰ぎ、そのまま振り返らず非常階段へ向かった。足元には太陽が短い影をつくって、それを踏みながら階段を下りる。

「遅い」

 階段の一番下に座っていたトウカが振り返って言った。彼女の膝の上では黒猫が気持ち良さそうに喉を潤す鳴らしている。

「センセは?」

「サボりだって」

「サボり?」

 アハハ、とトウカが笑う。ユウタが手を差し出すと彼女はその手を握り返し、猫は「ニャア」と鳴いて草むらへと消えていった。

■end■

Moe〜報われない僕らの恋の記録

Moe〜報われない僕らの恋の記録

この世界はゲームなの。あたしのアバターが〈モエ〉 高校生のユウタはクラスメイトのトウカを特別に思っていたが、映画撮影に来ていたタレントのモエと出会い、彼女に惹かれるようになる。そして、モエからいくつかの秘密を明かされた。それは、この世界がゲームで、モエはアバターだということ。ユウタの担任の高波がモエと同じプレイヤーで、彼女の恋人だということ。ユウタはモエへの気持ちを諦められないでいたが、〈現実〉の彼女は余命いくばくもない状態だった。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-10

CC BY-NC
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  1. ▶Prologue
  2. ▶20XX/05/29(1)
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  4. ▶20XX/05/29(3)
  5. ▶20XX/06/05(1)
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