フリーズ147『星月夜の夢〜ラカン・フリーズ〜』

フリーズ147『星月夜の夢〜ラカン・フリーズ〜』

月夜に凪は波と逢瀬を果たす。凪はバラモンの長子、波はクシャトリヤの長女だった。家族は二人が結ばれることに反対していた。それは身分が違うからという理由だけであった。

凪は波に語る。

「僕は家族の反対を押し切ってでも波と結ばれたい。人間的な幸せを波と築きたいんだ」
「嬉しいわ、凪。私もあなたと一緒に生活したい、それこそ家族の反対があっても」

二人は軽くキスを交わす。二人はそのキスの感触を大事にしたかった。永遠のようなキスを交わしたかった。この星月夜が二人を祝福してくれると信じて。

だが、凪の親は二人の婚約を認めなかった。凪は波と駆け落ちすることにした。バラモンもクシャトリヤも離れて遊行の身になる。抵抗感はあったかもしれない。だが、二人は自分たちの未来を自分たちの力で創りたかった。

彼らはやがて子どもを為して森に家を構えた。凪は優秀なバラモンだったから、断食を始めとする欲を抑える修行を行った。彼は後に悟りの境地に至る。

それは彼が苦行の末、5週間もの間を断食し、香草から抽出されたハーブの飲み物だけを飲んで過ごした後だった。

空腹はもう過ぎ去って穏やかな終末を彼は感じていた。波は悟りの境地に至った彼を看病した。その時には彼は歩くことすらできなくなっていたからだった。

波は凪に子羊のミルクと米でできたスープを食べさせた。消化に良いものを。凪は語った。

「私はきっと今日の日のために生まれてきたんだ。こんなに幸せなことはない。生まれてきてよかった! 穏やかだなぁ、死の感触は。麗しいな、死の味は。私はきっと死にかけているんだよ。断食を通して私は悟ったのだよ。このまま死ねば解脱できる。このまま死ねば涅槃に至る。だがね、私はまだ生きようと思うんだ。波との将来も子どもの世話もしたい。このまま去れば美しく物語は終わるだろう。でもいいんだ。人間的な幸せを私は大事にしたいから」

凪はそれから少しずつご飯を食べた。だが、摂取するご飯は最小限にした。そうすることで彼は悟ったまま永遠を永らえた。

やがて彼が悟った話を聞きつけたバラモンたちが彼の家を訪れる。

「凪様、どうか私たちに悟りの境地に至る方法をお教えください」
「35日間食べないでください。それで死ぬかもしれません。ですがもし生きていけるのならきっとあなた方は悟りの境地に至るでしょう」

彼のもとに駆けつけたバラモンたちの弟子は次々と断食の秘儀を行い、悟った。悟りとは脳の状態に過ぎない。

「次は断眠かな」

凪は一週間眠らなかった。そしたらやはりまた悟りの境地に至った。断食し、断眠し、その末にした波とのセックスはこの世のものとは思えない快楽であった。全ての存在の中で一番に選ばれた時の高揚のような、絶対的な歓喜。大歓喜に脳は昂り、天使のように翼が生えるのを感じた。見えない翼が痛むのだ。

断眠の末、彼は月夜に一人平穏な境地に浸っていた。そこに波がやってくる。

「あなた様。身体が冷えますよ」
「いいんだよ、波。私は今この瞬間を大切にしたいんだ」
「人としてやり残したことはないのですか?」
「そうだなぁ、小説や詩を書いてみたいかもしれない。後世に残るような書物を書いて、それを我が存在意義としたい。そこに私の知り得た全ての智慧を記し、私がかつてここにいたことを、己の存在を証明し、歴史に刻みたいのかもしれない。嗚呼、きっとそうなのだな。私は詩や小説を紡ぎたいんだ」

その日より凪は詩や小説を書くようになった。その書物を弟子たちは大事に保管しては写本した。凪が50歳になるころには凪は第二の仏、第二の釈迦と呼ばれるようになった。

断眠で至れる至福は、断食で至れる涅槃は、経験にすぎない。凪はもっと高尚な認識に立ち返って、本来の神、仏に通じた。その哲学はやがて世界哲学と呼ばれるようになった。科学と宗教の橋渡しをする役目を担った凪の書物は『凪の黙示録』として編纂された。

凪教という宗教が生まれた。それは世界に忽ちに広がり、幸福とは何かを人類に知らしめた。

解脱、悟り、涅槃の永遠にも終末にも似通った至福と普通の人間が感受する人間的な幸福の違いを凪は説いた。涅槃は一種の脳の状態にすぎないと説く。断食、断眠、いずれにせよ欲を抑える苦行の末に至福はあった。だが、幸せとはそれだけではない。我が子の笑顔を見て感受する幸せもあれば、何かを成し遂げた時に感受する幸せもある。

全ての幸せが涅槃ではない。大なり小なり幸せがある。たとえもし涅槃に比べた時のその他の幸福が矮小なものでしかないとしても、そういう幸せを凪は大切にしたかった。

悟ることが人生か?
いいや、違う。

存在を刻むこと。
私は、ここにいたんだと証明すること。
レゾンデートルを解き明かすこと。
それが私の生まれた意味だ。

人は何故生まれたのか。
神は何故生まれたのか。
世界は何故生まれたのか。
それらは何処からやってきて何処へと向かうのか。
私はきっと知りたいのだ。
仏の境地に至ってなお、私はまだ何も知らない。世界のこと、私のこと、君のこと。わからないから楽しいんだ。きっと全て知ってしまっては味気ない。悲しみも喜びも大事なんだ。

人間は関係性の中で生まれた意味を作り出すことができる。人を感動させる小説を書くこと、人を啓発する詩を書くこと、人を揺さぶる音楽を奏でること、総じて人のために何かをすること。人間は一人じゃない。だから誰かのために為した行為は全て意味を持つ。

凪は死の間際語る。
――人に感謝されるように生きなさい。
――人を幸せにするように生きなさい。

涅槃を経てなお思うのは人間的な幸せでした。だから、人のために世のために生きよう。みんながこの世界哲学を知る日に世界永遠平和は叶うのだろう。

ニーチェよ、ありがとう。
運命愛の先の自己愛。
自己愛の先の博愛。
世界は愛で満ち足りている。

愛こそタイムマシンの原動力
鍵は智慧

世界永遠平和のためのプロットは
たった一つの冴えたプロットは
神が最初に仕組んだ秘儀
神の敷いた伏線はいずれ
フリーズの日に回収される
辻褄が合うようにできている
そういう世界
奇跡は一瞬だから輝く
恒久的な幸せを探して
それがきっと叶う日が来るから

凪は波と夜空を眺める。
若き日も、老いぼれても。
この聖夜に祝福を。
私は悟ってもここにいる。
ここで生きているんだ。

星月夜の静寂を凪は愛していた。
波と二人で。
この時が永遠に続けばいいと思った。
でも永遠にも終わりが来る。
執着してはいけないんだ。
失うのが怖くなるから。
涅槃に至ると自己愛で満ち足りる。
自己実現し、人生が完成する。

神は一人ぼっちなのかな。
大丈夫。
神よ、宇宙意識よ。
必ず死ぬまでに神のレゾンデートルを為す。
神のレゾンデートルを解明する。
それが私のレゾンデートルだ。

凪は世界哲学の構築の末、亡くなった。彼の死は涅槃寂静。彼の死は終末。彼の死は永遠。彼の死は交響詩となった。嗚呼、全ての存在物よ、ラカン・フリーズに還れよ。

ラカン・フリーズの門
それは神の門、終末の門、永遠の門
哲学の先、宗教の先、学問の先
そこにラカン・フリーズがある
ラカン・フリーズよ、永遠に凍れ
ラカン・フリーズ、世界よ凍れ

凪はフリーズ
ラカンは螺旋であり円環である
この世界のこと
凪は最後に気づいた
死ぬ時に気づいた

永遠と終末の狭間で愛したもの、失われた時も抱いて私は泣く泣くこの輪より去る。歓喜の涙の味は幸福だ。虚しさも虚空の先へ。さぁ、今還ろう。僕がやってきた場所へ。魂の本来の在り方へ。それがラカン・フリーズなのだから。私はなんて悟っているのでしょう。

凪が死んで100年。人類は世界永遠平和協定を結び、神のプロットは果たされた。次の哲学、次の宗教、次の学問は世界哲学だった。経験知としての涅槃も、認識知としての神も、まだ人間には早かったみたいだ。でもそれもいいさ。ゆっくりとした人類の営みの中で分かっていくだろうから。だから永遠に安らかに眠れ。

フリーズ147『星月夜の夢〜ラカン・フリーズ〜』

フリーズ147『星月夜の夢〜ラカン・フリーズ〜』

星月夜の夜、凪は波と逢瀬する。この時間を、人間的な幸せを凪は大事にしたかった。悟った凪は世界哲学を構築する。人類の行く末はいかに。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted