カルメン2024
「カルメン」と聞いて、様々なイメージが浮かぶ人は多いでしょう。
薔薇の花を咥えて踊る美女、闘牛士との恋、等です。
この作品は、オペラで有名になり、その中の曲も様々な場面で耳にするので、
改めて聴いて、これはオペラのカルメンの曲なんだと、思う人も居るかと思います。
本来は、原作小説があり、それを元にオペラが製作されたのですが、原作の方は、
影が薄く、きちんとストーリーを把握している人も少ないようです。
これは、現代風に書き起こした「カルメン」の入門編のつもりです。
きちんと、原作の場面設定、登場人物、ストーリーを踏襲しながら、現代的な解釈を加えた、2024年版の「カルメン」をお楽しみください。
これは、一人のロマの娘のお話でございます。
ロマというのは、かつてジプシーと呼ばれていた流浪の民ですが、それは蔑称だとのことで、近年ではロマとかロマニーとか呼ばれております。そう、かつてエスキモーと呼ばれた種族がイヌイットと変わったように。
このお話は、スペインのアンダルシア地方、セビリアに一人の娘がやって来たところから始まります。その美しいロマの娘は、カルメン・シータという名前でございました。
一幕
モラレスは退屈していた。竜騎兵の伍長になったのは良いが、戦いらしい戦いも無く、各分隊に分かれて各地の警備に就いているだけの日々だ。まあ、他の隊のように、郊外であまり人通りもない街道の警備をしているより、この煙草工場の警備の方が、人も多く、工場の娘たちの顔を眺めることも出来るだけましだろう。
この工場は、国の貴重な財源で、近隣の農家の栽培した煙草の葉を加工して、高価な値段で国内外に売りさばいているのだ。工場内で働いているのは、女性ばかり数百人。男は葉を運びこむ農夫が入口まで入るのみだ。
街の通りは、見慣れた顔が行き交っている。花を売っているのはマティオの女房だし、オレンジの籠を持っているのは農家の娘のパウラだ。見慣れぬ顔は、何かの用事で街に来たついでに、観光でもしているのだろう。
数人の女が、待ち合わせてどこかに出かける様子でベンチに座っている。
工場の班長のダニエラが隣のベンチで、人待ち顔して通りを眺めているのは、新入りの女工でも待っているのだろうか。モラレスの部下の兵士とおしゃべりをしている。
そう言えば、この間から何人かの女工が仕事を辞めたと言っていた。亭主の仕事の都合だったり、子供が生まれたりと、何人かの事情が重なってしまったらしい。人を雇わないと、仕事が追い付かないとこぼしていた。
先月もロマの娘を雇ったらしいが、街の男たちの噂になるほどの美人だという話だ。
美人を眺めるのも良いが、今日は昼前まででドン・ホセの班と交代になる。それまでは暇を持て余すだけだろう。
モラレスが、そうやってのんびりと街の通りを眺めていると、見知らぬ若い娘が目に入った。長い髪をおさげにして青いスカートを履いている、まだ幼さが残る年頃の娘だ。何かを探しているように、あちこちを見回しながらこちらに歩いてくる。部下の兵士たちも、娘に気付いて好奇の目で眺めている。
「お嬢さん、何かお探しですか?」
モラレスが声をかける。
「はい、竜騎兵の伍長さんをさがしているの。」
「僕も伍長だよ。」
「私が探してるのは、ドン・ホセ。御存知ですか?」
「もちろん。」
「まあ、ここに住んでいるの?」
娘は、すぐ前にある工場の警備所を兼ねた兵営(兵士宿舎)を指す。
「いやいや、ここじゃないよ。伍長の兵営は別のところさ。」
娘はがっかりした様子で、立ち去ろうとする。モラレスとその部下たちは、良い暇つぶしと思い、さらに話しかける。
「もうすぐに交代の時間だから、それまでここで待っていれば良いよ。」
「そうそう、お話でもしながら待っていれば、ホセも来るよ。」
娘はちょっと怖そうな表情で後ずさり。兵士が何人もで自分を取り囲んでいるのだから怖くなるのは当然だろう。
「いえいえ、また交代の時間の後で来てみますわ。」
そう告げて、逃げるように去って行ってしまった。
モラレスと兵士たちは再び手持無沙汰な時を過ごしていたが、やがて時を告げるラッパが鳴り交替の刻限となった。
ドン・ホセが、部下の兵士数人を引き連れて、交替の儀式にやって来た。今日は、数日前に着任したばかりの隊長のスニガ大尉が儀式に立ち会う。
モラレスは、兵士の交代後にスニガ大尉に引継ぎ結果を報告する。
「本日も異常はありませんでした。」
いつもならば、日誌に一行、異常なしと書くだけなのだが。
今までに、異常など起こったことなど無い。強いて言えば、女工が作業用のナイフで怪我をして、医者に運ばれた程度だし、今日は、ドン・ホセを訪ねて若い娘が現れたくらいだ。
引継ぎの後、モラレスはドン・ホセにそのことを囁く。
「青いスカートでおさげ髪の娘が、お前を訪ねて来たぞ。」
「ミカエラだ!」
ドン・ホセは嬉しそうに叫んだ。
交代の儀式も済み、モラレスの班は兵営に戻る。きちんと隊列を組んで行進して兵営まで戻るのだが、毎日のように近くで遊んでいる子供達も真似をして行進の後に続き、兵営の中まで入ろうとする。それを追い払うのも兵士たちの仕事になってしまっている。
スニガ大尉も、まだ自分の任地に慣れておらず、あれこれと目新しいものばかりなのだろう。ドン・ホセに尋ねる。
「伍長、この建物は何かね?」
「はい、これは煙草工場です。沢山の女たちが煙草を作っているのです」
「女ばかりなのかね。」
「そうですね、若い女が多いです。男は入ることが出来ません。」
「若い女が多いのなら、美人も居居るのだろうな。」
「そうですね、私は詳しくは知りませんが。」
スニガは、好色そうな笑いを浮かべる。
「そうか、君は青いスカートのおさげ髪の娘以外は、目に入らないんだな。」
「ミカエラの事ですか。モラレスからお聞きになったのですね。
彼女は幼馴染で、今は私の母の隣に住んで、面倒を見てくれているのです。」
その時、昼を告げる鐘がなった。
「昼休みの時間になりました。まもなく娘たちが出てくるでしょう。
御自分の目で、美人がいるかどうか、お確かめになってはいかがです。」
鐘の音を合図のように、何人かの街の男たちも、工場前に現れる。酒屋のルーカスは恋人のルシアと一緒に昼食を楽しむつもりだろう。近所の農夫のマヌエルは、子供の手を引いて女房を迎えに来ている。お目当ての娘がいなくても、誰かを口説くチャンスを期待して現れる者もいる。
そして何人かは、噂になっている新入りのロマの娘を見ようと、チャンスが有れば口説こうとして、工場前に来るのだ。
カルメンは、皆よりもちょっと遅れて門から出てくる。
お相手の居る娘は、さっさと男の処に行っちまうけど、私は行く当てもないからね。お相手のいない娘たちを誘って、どこかで昼食でも食べておしゃべりするくらいしかやることも無いわ。
何人もの男がカルメンに声をかけるが、素っ気ない対応ばかりだ。
「恋は気まま、どうなるかは誰も判らない。でも、今日はそんな気にならないの。」
男たちの誘いをそう言って振り切ってしまう。
「恋は気まま、追いかけりゃ逃げて、そっぽを向いてりゃ、寄って来るのさ。」
そんな出鱈目な唄を口ずさみながら、ベンチに座るホセの方にやって来る。
ホセはカルメンの方には目もくれず、自分の銃を磨いている。
男たちが皆、自分の方を見ているのに、ひとりだけそんな事をしているホセを、面白いと思ったのだろう。服に挿してあった花を抜き取り、ホセに向かって投げつける
カルメンの投げた花は、ホセの膝に当たって足元に落ち、ホセは驚いて顔を上げる。
カルメンは、嘲笑うようにホセを見ると、娘たちと一緒にどこかに行ってしまう。
残されたホセは、花を拾い上げ、あっけにとられるばかりだ。
驚いたな。なんだあの態度は。それにこの花、なんて強い香りがするんだろう。まるで魔女のようだ。
昼休みで誰も居ない工場なので、警護の人員もそれほど多くなくても良い。
兵士たちも、お目当ての娘と昼食にしたり、兵舎に戻りのんびりするものも居る。昼下がりで、兵士も街の者も気が抜けているのだ。隊長も兵舎でのんびりしているようだ。
そんななかで、ホセは先ほどのベンチで工場と手にした花を眺めながらぼんやり過ごしていた。そこに、先ほどの青いスカートの娘が現れる。
「伍長さん。」
「ミカエラ。」
手にした花を、慌ててポケットにねじ込み、ミカエラの手を取る。
「遠くから良く来たね。大変だっただろう。」
「大丈夫よ。あなたのお母さんから頼まれたの。息子の様子を見てきてくれって。」
「そうか。母さんは元気にしてるかい。」
「ええ、手紙を預かってきてるわ。」
「そうなんだ。」
「それに・・・」
「何?」
ミカエラはちょっと躊躇い、頬を赤らめて、ホセの頬にキスをする。
「お母さんから、息子にキスを渡して来てくれ、って。」
「母さんからのキスか。それなら僕からのキスも預かって母さんに渡してくれるかい。」
ホセはそう言って、ミカエラを抱きしめ、頬にキスをする。
「ええ、しっかり預かったわ。お母さんに渡しておくからね。」
ミカエラは、さらに頬を赤くしながら、手紙を取り出す。
「これが、お母さんからの手紙よ。」
ホセは、手紙を手にするとすぐに開けて、その場で読み始める。
「元気でやっているかい ホセ。
伍長になったそうだね。 もうそろそろ兵役を終る頃でしょう。そしたら、こっちで仕事を見つけて帰って来ておくれ。
あたしももう年だから、おまえが近くに帰ってきて 所帯を持ってくれるといいんだけどね。たしかにそういう相手を探すのはたいへんだろうけど でも あたしとしてはお勧めの人はいるんだよ。あたしの手紙を持っていってくれたまさにそのひとさ。
彼女ほど賢く優しく、そしてお前を想って・・・」
ホセがそこまで読んだところで、ミカエラが恥ずかしそうに読むのを遮る。
「あたしが居ないほうが良いわね。」
ホセは、あっけに取られてミカエラを見る。
「お母さんに、買い物を頼まれているのよ。」
「返事を書くから、持って行ってくれないか。」
「そうね、じゃあ、また後で来るわ。」
そう言って、ミカエラは街の中に行ってしまった。
ホセは、手紙の続きを読み終えると、大事そうにポケットにしまう。
「かあさん、わかったよ、どうして欲しいのか。俺はミカエラと結婚するよ。」
昼休みも終え、女たちも仕事に戻りしばらくして、工場の中から悲鳴のような声が聞こえた。
数人の女が、工場から出てくるが、二手に分かれてもめている。
まだ兵営でくつろいでいたスニガ大尉も、慌てて出てくる。
「どうした事だ。何が起こっているんだ。」
女たちは、隊長の姿を見つけると駆け寄ってきて、口々に何かを訴えかける。
「カルメンが悪いのよ。」
「そうじゃない、マニュエリータよ。」
そう叫びながらも、相手の話を遮ったりつかみかかったりしている。
「うるさい、落ち着いて何があったのか話せ。」
スニガ大尉が、女たちを怒鳴りつける。
「最初は、マニュエリータが、素敵なロバを買うんだって、威張って言ったの。」
「そしたら、カルメンが言ったのよ。貴方はロバより箒の方が似合うんじゃないって。」
「マニュエリータは、私が買ったロバをあんたに貸してあげようか。あんたのように威張った顔してロバに乗れば、お似合いでしょうって。」
「そして、何よ!って睨み合い。」
「どちらかが手を出して、殴り合いになってしまったの。」
「ええい、うるさい。静かにしないか。」
スニガ大尉は、ホセを呼んで命令を出す。
「おいホセ、誰か部下を連れて、中の様子を見て来い。」
その後も、女たちの訴えは止まない。
「マニュエリータが先に髪を引っ張ったのよ。」
「そうじゃないわ。カルメンが先に殴ったの。」
お互いに睨み合って、一触即発の様相。騒ぎを聞きつけて、街の野次馬たちも集まって来る。
さてさて、ここでちょっと説明をいたしましょう。
ロバと言っても、現代の皆様にはピンと来ないでしょうから。
現代で言えば、クラス内カーストとでも呼ぶのでしょうか。
働いている女たちの間で、理由もなく優劣が有ったのでございます。
その中心に居たのがマニュエリータという女でした。気が強く口も達者な女王様気質の者です。そして同調する取り巻きを従えて、一つの勢力が出来ていたのです。
そして、そのグループ以外の者には、陰口を言ったり、嫌な仕事を押し付けたり、嫌がらせをしたりと、今で言ういじめ問題のような事も見られたのです。
女が集まるとそのようにグループが出来るのは、今も昔も同じなのでございましょう。
もちろん、仕事の上では上司から決められた班長が居て、仕事を取り仕切っていたのです。まあ、学級委員長は別に居て、女王様グループが有ったというようなものでございましょうか。
そこにカルメンという転校生がやって来ました。カルメンは一匹狼のような性格ですから、女王様に媚びるわけでもなく平然と仕事をしていたのですが、マニュエリータの方は、自分に従わないカルメンが面白くなく、あれこれと諍いを仕掛けてきます。カルメンは強い性格ですから、自分から喧嘩を売らなくても売られた喧嘩は買って、相手を返り討ちにするような状況が続いたのでございます。
そんな状況を目にして、いままでいじめを受け冷たくあしらわれていた、取り巻きグループ以外の女たちは、カルメンを祭り上げ、反マニュエリータグループというようなものが、自然発生的に出来上がってしまったのでございます。
もちろん、カルメン自身にはそんなグループの女王様になろうなどという気は、まったくありませんでしたが、マニュエリータとその取り巻きにしてみれば、新たな対抗勢力として反発が強かったのでございましょう。
そうそう、ロバの話でございましたね。
当時は、自動車など当然有りませんから、馬や牛、ロバなどの動物が、乗り物として使われていました。荷物を運ぶにも、大八車のような人力か、動物の背に載せたり、荷車を引かせたりです。それで乗用としてロバを持つというのはある種のステータスでも有ったのです。
現代風に言い換えれば、このようなものでしょうか。
「私、今度アウディを買おうと思ってるんだ。この前のお休みにディーラーに見に行ってきたの。」
「へえ、アウディね。あなた、アウディよりは軽トラの方が似合うんじゃない。」
「アウディ買ったら、あなたに貸してあげましょうか。あなたのような威張り腐った生意気な顔でアウディを運転してれば、お似合いよね。」
と、まあ、このようなやりとりで喧嘩が始まったのでございましょう。
カルメンは呆然と佇んでいた。
最初はつまらぬ口論からの睨み合いだったのだ。ところが、マニュエリータがカルメンの髪をつかんで引っ張ったのだ。その痛みにカッとなって、相手の頬を張った。
そこからは殴り合いの喧嘩になり、互角の争いだった。
ところがマニュエリータは、体当たりでカルメンを突き飛ばし、さらに飛び掛かって来ようとした。突き飛ばされたカルメンはよろけ、作業机を背にして、後ろ手で手をついた。そこにマニュエリータが飛び掛かって来たので、咄嗟に手に触れた物を掴んで、マニュエリータを払いのけようとしたのだ。横に一振りして、相手がすくんだところでもう一度縦に振り下ろした。
そこでふと気が付くと、マニュエリータが頬を押さえて怯えたような表情を見せている。カルメンが自分の手を見ると、煙草の葉を切るのに使う作業用のナイフを握っていて、刃にはうっすらと血が流れている。
マニュエリータが頬を押さえた手からも、血が滲んでいる。
そこへ、部下を連れたドン・ホセがやって来る。
状況を見て取ったホセは、そこに居た女の一人に、マニュエリータの手当てをしてやるように指示し、カルメンを促し隊長のところへ連れて行った。
「隊長、女同士の喧嘩でした。一人の女の頬には十字の傷が有り、その向かい側でこの女が血の付いたナイフを持って立っていました。」
「傷の程度はどうなんだ。」
「それほどの傷ではありません。皮膚の表面を斬って血が流れた程度です。」
「そうか。お嬢さん、聞いたかね。」
「私は、あの女に突き飛ばされて机に手をついたのさ。そこにあの女が飛び掛かって来たから、手に触ったもので振り払っただけなんだよ。それがナイフだなんて気づきもしなかったのさ。私は自分の身を守っただけだよ。」
スニガ大尉は、しばらく考え込んで、カルメンに言う。
「では、お前がやったというのは真実なのだな。まだ何か言う事はあるかな。」
カルメンは、スニガ大尉を睨みつける。
「私はもう何も言わないよ。」
そしてデタラメな鼻歌を唄う。
「うるさい!唄など牢屋の中で唄え」
それを聞いて、周囲の女たちの抗議の叫びや喝采が上がり、再び女同士の乱闘が始まる。
そちらに気を取られる大尉と兵士たち。
その隙に、カルメンはスニガ大尉が腰に下げているサーベルを抜き取ろうとする。だが、職業軍人の大尉がそんな事をさせるわけもなく、簡単に振り払われてしまう。
「ええい、油断ならぬ女だ。誰かこの女の手を縛れ。」
一人の兵士が縛縄を持って、カルメンの手を縛ろうとするが、カルメンは背を向けてしまう。そして、ドン・ホセと向き合い、ホセに手を差し出し、素直に縛られる。
「まったく。このような可愛い顔をしているのに、強情な女だ。牢屋に入れて、懲らしめてやらなければ。」
スニガ大尉は憎々しげにそう言うと、部下の兵士たちを連れて入牢命令書を書くために兵営に戻って行った。
この時代。まだ三権分立などという制度は無く、領主とか権力者が警察も裁判官も兼ねている。その者の思惑だけで死刑にすることも無罪放免にすることも出来るのだ。
もちろんコンプライアンスだのハラスメントだのという概念さえ無い。
スニガ大尉が命令書を書くのを待つ間、カルメンはドン・ホセと二人きりになった。
逃走するチャンスかもしれないが、竜騎兵の伍長を相手にして力で勝てるはずもない。まして、カルメンは腕を縛られている。
「ねえ伍長さん、こんなにきつく縛ったら手首が痛いわ。もうちょっと緩めてくれない。」
「痛いと言うならちょっとだけ緩めてやるが、逃げるなよ。」
そう言いながらも、ホセはカルメンを縛った縄を緩めてやる。
「さっき、私が花をあげた伍長さんでしょう。ねえ、お願い、逃がしてよ。」
「馬鹿を言うな。お前はあの女をナイフで切りつけたんだぞ。」
「それは、仕方ないことなんだって。」
カルメンはしばらく考えて、また口を開く。
「さっき、なぜあなたに花を上げたと思ってるの。あそこに居た兵隊さんの中で、一番素敵だったからよ。大好きなのよ。」
「そんな事を言っても、俺は兵士で上官の命令に逆らうわけにはいかないんだ。」
「ねえ、逃がしてくれたら、後で良い思いをさせてあげるわ。私、普段はパスティアの店に居るのよ。」
ドン・ホセは、思わずパスティアの酒場で踊るカルメンの姿を思い浮かべてしまう。
確かに魅力的な女だ。だが、さっきミカエラに会ったばかりだし、母にミカエラと結婚すると手紙も書くつもりだ。そもそも、この女は牢屋に入らなければならない。俺の独断で逃がせば、隊のなかでどんな騒ぎになるか。
ホセがそんな事を考えている間に、カルメンは縄の縛り目を徐々に押し広げ、もう少しで手首が抜けるようにまでしていた。
注意深く周囲の野次馬たちを見回すと、細い路地の方でロマの仲間であるレメンタードが合図を送ってきている。あちらに逃げれば、助けてもらえるだろう。
「ねえ、さっきの花を持ってパスティアの店に来てよ。私が貴方の為だけに踊るわ。
それに私、歌も上手なのよ。貴方の為に唄うわよ。」
「そうだな。お前は可愛い娘だし、私も嫌いではないのだけど・・・」
そんな会話が交わされているところへ、スニガ大尉が命令書を持って戻って来る。
「ほら、これを持ってその女を牢屋に連れて行け。」
そう言われて、ホセがスニガの方を向き、命令書を受け取ろうとした瞬間。カルメンはホセを思い切り突き飛ばし、露路の方に駆け出す。
スニガ大尉は憤怒の表情で、部下に追跡を命じるが、もうカルメンの姿は路地へと消えている。慌てて追う兵士の前に、レメンタードが何も知らない通行人のようなふりをして現れ、兵士に足を引っかけて転ばせてしまう。
まんまとカルメンに逃げられたスニガ大尉は、その怒りをドン・ホセに向け、ホセは仲間の兵士に押さえつけられ、大尉に数発殴られる。
二幕
このような形でのカルメンとドン・ホセの出会いでしたので、二人の関りはややこしいものになってしまったのでございます。
その後、ドン・ホセは伍長から降格とされ、営倉送りになってしまい、約ひと月、牢屋の中で過ごしました。
一方で、スニガ大尉は、自分の書いた命令書を破り捨て、この事件は無かった事とされてしまいました。喧嘩の際の偶発的な事故ということにして不問にしてしまったのでございます。それはそうでございますよね。犯人を捕まえて縛っておきながら逃げられたなどと、表沙汰になれば隊の名誉や体面に傷がついてしまいますものね。
事件の数日前に着任した大尉も、ひと月もすれば街にも慣れ、夜の街を飲み歩くような事もするようになったのでございます。当然、パスティアの酒場にも足を向け、そこでフラスキータやメルセデスたちと一緒に踊るカルメンの姿も見つけました。
しかしながら、一度自分の手でもみ消してしまった事件ですので、犯人を見つけたからといって、もう一度逮捕して牢屋に入れるわけにもまいりません。
それに、スニガ大尉もカルメンの美貌に惹かれ、あわよくばカルメンと仲良くなりたいというような下心もあったのでございましょう。
この晩も、スニガ大尉は部下を何人か引き連れて、夜の街で飲みに出ていた。
もちろん、お目当てはパスティアの酒場の美女たち、特にカルメンだ。
パスティアの酒場で席に落ち着き、酒を飲み、女たちの歌と踊りを楽しんでいた。
この店に来る途中ではぐれた部下の一人も、遅れて店に現れる。誰か知らないが女を連れている。どこかで女を捕まえて路地の暗闇でお愉しみだったのだろうか。それとも、商売女に引っかけられたのかな。まあ、連れが一人や二人増えたとしても、大した問題じゃない。
皆がほろ酔い気分でご機嫌だった。大尉と伍長は、フロアに引っ張り出されて踊らされたりもした。
夜も更けてきた頃に、フラスキータがスニガ大尉にこう告げる。
「ねえ、パスティアの親父さんが、もう店を閉める時間だって。」
「おお、もうそんな時間なのか。帰営にはまだしばらく時間が有りそうだ。
もう一軒寄って行こうか。お前たちも一緒に来いよ。」
フラスキータとメルセデスは、顔を見合わせる。厨房の方では、パスティアの親父が首を横に振っている。
「ごめんなさいね。私たちはこの店に残るわ。」
「そうか、じゃあカルメン。お前は一緒に来るよな。」
「嫌よ。私も行かないわよ。」
「そうか、あのことでまだ怒っているのか。」
「あのことって何よ。」
「お前を牢屋に入れようとしたことさ。」
「そんなこと有ったっけ、覚えてないね。」
「とぼけるなよ。お前はあの場所から逃げ出したんだ。まあ、その事件は無かった事になってしまったがな。
でも、お前を逃がした伍長は、そのおかげで降格になって、営倉送りになったんだぞ。」
「降格、営倉おくり・・・」
「そうさ。そう言えば、今日はあの伍長が営倉から出される日だ。
久しぶりに自由な身になって、今頃飲み歩いているかもしれんな。」
「そうかい。出てきたんだね。そりゃ良いわ。」
「おや、そんな話を聞いたらご機嫌になったようだな。」
「ご機嫌ねえ。あんたたちが帰ってくれれば、私達の仕事も終わって、ご機嫌にもなるわよ。さあ、もう閉店時間だよ。」
そんな会話が交わされていると、店の外で賑やかな歌声が聞こえてくる。
「なんだ、あの騒ぎは。」
「松明をかかげた行列だ。」
「誰が引き連れているんだ。」
「あれはエスカミーリョよ。 最近グレナダの闘牛で注目を集めている闘牛士だわ。」
「そうか、そんな名高い闘牛士なのか。それなら彼に来てもらおう。彼の栄誉に乾杯しよう。」
スニガ大尉は、そう言うとパスティアの親父に合図をします。
フラスキータとメルセデスは、行列の一行を迎えに店の外に出る。
「闘牛士様、どうかこちらに。あなたのような人を好きな連中が集まっているんですよ。」
一行は、ぞろぞろと店に入って来る。男も女も皆、有名な闘牛士を囲んで酔ったような興奮した状態だ。実際に酒もかなり入っているのだろう。
「これはこれは、偉大なる闘牛士様。我々の招待を受けてくれてありがとうございます。あなたをそのまま行かせるわけにはいかなかったのでね。
是非とも一緒に乾杯をしていただけませんか。」
「隊長殿。ご招待ありがとうございます。感謝の意を表し、乾杯をいたしましょう。」
スニガ大尉は、エスカミーリョに杯を持たせ、酒を注ぎ、店の中の全員で乾杯となる。
「兵隊と闘牛士は似たようなもので、どちらも戦うことが好きですからな。」
「そうですね。命を懸けて戦う宿命ですからね。」
「そう、闘牛場は興奮の渦。獰猛な牛との勝負で、一歩間違えれば命がなくなります。
兵士が戦場に行くのと同じです。
でも、闘牛場では良い事もありますよ。」
「ほう、良い事とは。」
「観客の目が一点に集中していて、皆の声援があることですよ。」
「そうですね。戦場では応援など有りませんからね。」
「それに、その闘牛士を見つめる瞳の中には、美しい女性の黒い瞳もありますからね。」
「それはそれは、羨ましい限りです。」
そんな会話をスニガ大尉と交わしながら、エスカミーリョはカルメンを見る。
「名前を教えてくれないか。次の闘牛で牛を倒す時には、君に勝利を捧げようと思うんだ。」
「カルメン。カルメン・シータよ。」
「カルメンか、良い名前だ。じゃあ、お前を愛してるって言ったらお前はどう答える。」
「そうね。あなたが私に惚れるのはあなたの自由。でも、私があなたに惚れるかどうかは、私の自由だわ。」
「そうか、それはそれは。」
「まあ、今のところは、そんなところだね。」
「それなら俺は待つことにしよう。それに、この先に希望を持つのは悪くない。」
「そうね。どんな事でも希望を持つことは、良いことね。」
スニガ大尉がそこに割って入る。
「闘牛士殿。この店ももう閉店時間ですので、我々もあなたのパレードに加わりましょう。」
そう言って、エスカミーリョとその一行を促す。
そして。店を出る前にカルメンに囁く。
「カルメン。俺たちと来ないというのなら、俺が一時間後に戻ってこようじゃないか。」
「ここに戻って来るって。」
「ああ、一時間後、 点呼の後にな。」
「それはお勧めしないわね。」
エスカミーリョとその一行は店を出て、街の通りを歩きはじめる。
スニガ大尉もエスカミーリョと並んで、パレードの先頭に立つ。
もちろん、大尉の部下たちも、大尉に従ってパレードに加わり、パスティアの酒場に客は居なくなり、親父は店の入り口を閉め、閉店の札を出す。
さあ、ここでエスカミーリョという良い男が登場いたしましたね。
グレナダの闘牛で注目を集めているというのですから、現代で言えば大谷翔平、井上尚弥、はたまた藤井壮太とまで行かずとも、大の里くらいの有名人でございます。
金も名誉もあり、ハンサムで、しかも言い寄ってつれなくされても、きれいな引き際も見せるという、文句なしの男です。そんな男が言い寄って来るのですから、カルメンも悪い気はいたしませんでしょう。
でも、一方では、自分の為に営倉送りになったドン・ホセが来るかもしれないという晩でございます。もちろん、ドン・ホセも自分が気に入った男ですから、来たのならつれない仕打ちも出来ません。
スニガ大尉も、点呼の後こっそり戻って来るつもりのようですし、カルメンを中心に何人もの男の様々な思惑の渦が生まれそうな気配でございますね。
店の中では、女たちが酒宴の片づけをしながら、パスティアの親父に問う。
「私たちに、何か話が有るんだって。だから、あの連中について行かせなかったんだろう。」
「ああ、ダンカイロとレメンダードが戻ったんだ。仕事について話したいことがあるってね。」
「そうかい、あの二人が来たかい。どんな仕事だって。」
そこに、裏口からダンカイロとレメンダードが入って来る。
「悪くない話さ、その仕事は。 俺たちはジブラルタルに行ってきたんだ。」
「いい町だよ、ジブラルタル。 そこにはたくさんのイギリス人が居たんだ。いいやつらさイギリス人は、ちょっと冷たいが上品さね。」
「レメンダード、お前はちょっと黙ってろ。」
「はい、すみませんね、親分。」
「とにかく 俺たちはジブラルタルに着いた 俺たちは船長と計ってイギリスの貨物を荷揚げする話をつけた。海岸の近くで彼らを待って、荷を山の中に隠し、少しだけは税関を通す。
俺たちの仲間は山の中の隠れ家に居るんだが この計画に必要なのはおまえ達三人なんだ。一緒に来てくれ。」
「私たちが。何をするの。密輸の荷を運んで手伝えって。」
カルメンが笑って言う。
「違うさ。積み荷を女たちに運ばせるなんて、そんなことはしないさ。」
「レメンダード。」
ダンカイロがレメンダードのおしゃべりを遮る。
「おまえ達に積み荷を持たせたりしないさ。でも他のことのためにおまえ達が必要なんだ。」
フラスキータとメルセデスが顔を見合わせる。
「もうけ話さ。でもそのためには、おまえたちが必要なんだ。」
「海岸で陸揚げした荷物を、山の中の隠れ家から街に運ぶ途中には、見張りの関所が有ってお役人が居る。」
「なるほどね。」
「軍が一隊居るわけじゃないんだろう。」
「そうさ、お役人は三人。そいつらを上手く誤魔化して荷を運んでしまおうって話さ。」
「それには、女が居ないとね。」
「そういうわけだ。」
すぐにでも出かけようと意気込むフラスキータとメルセデス。
そこに、カルメンが口を挟む。
「悪いけど、私は行けないよ。」
「どうしてさ。」
「この街に良い男が居るんだよ。」
「良い男。そいつに惚れてるって言うのかい。」
「ああ、そいつが今夜にもここに来るかもしれないんだ。
だから、今夜すぐには旅に出られないんだよ。」
「こりゃ驚いた。カルメンが、あのカルメンが男に惚れたって。」
フラスキータとメルセデスが茶化すように言う。
「男も良いけど、儲け仕事だぞ。そっちも大切だろう。」
「もちろん、儲けも仲間も大事だけどさ。」
「じゃあ、一緒に行くんだな。」
「お願いだよ。後で追いかけて行くからさ。」
「このカルメンが、そこまで言うなんて。そんなに男に惚れてるのは見たことがないね。
それであんたが待ってるのは誰さ。」
「あの営倉にいた兵士かい。」
「そうよ。」
「でも、あの兵士には半月前に金の差し入れをしたんだろう。それを上手く使って看守を騙して出てこなかったのかい。」
「あの人は、馬鹿正直に牢屋に入ったままだったようね。
でも、さっき隊長が言ってたじゃない、今日牢から出たって。」
「そんな馬鹿正直な奴が、牢から出た足でここに来るもんか。賭けても良いね。」
「賭けたりしない方が良いよ。あんたが負けるから。」
そんな言い合いをしてる時に、通りの向こうから歌声が聞こえてくる。
竜騎兵の歌を唄う男の声だ。
「あの声が、お前の待ち人かな。」
「そうみたいね。賭けなくて良かったわね。」
「それで。あいつが来たらどうするんだ。」
「そうね。どうしよう。」
「後で俺たちと合流するんだろう。あいつも仲間にして一緒に連れてきたらどうだ。」
ダンカイロは、思い付きでそんなことを言いだすが、改めて考えてみれば、良い案かもしれない。竜騎兵なのだから、馬にも乗れるし、銃も扱える。剣だって鍛えているだろうから、仲間にすれば役に立ちそうだ。
「ああ、そうね。良い考えだわ。でも彼はそんな軽率なことこれっぽっちも考えないでしょうね。彼は馬鹿正直だから。」
「おまえそれが解ってて、どうして奴に惚れたんだ。」
「いい男だからさ。女が男に惚れるなんて、理由なんかないのさ。」
カルメンは、店の扉を開け通りに出て、歌声の主を、もちろんそれはドン・ホセなのだが、店に迎え入れようとする。
ダンカイロたちは、ドン・ホセに見つからないように、店の奥の別室に隠れる。
「やっと来てくれたのね。嬉しいわ。」
「営倉から2時間前に出てきたところさ。ようやく会うことが出来たな。」
「もっと早く来てくれると思ってたのに。差し入れだってしたでしょう。
看守に金を掴ませれば、出てこられたんじゃないの。」
「まあ、それも出来たとは思うけどね。脱走はたいへんな罪なんだぞ。俺は竜騎兵の名誉を回復するために、じっと我慢したんだ。」
カルメンはドン・ホセの胸にもたれかかり、そんな会話を交わす。
「営倉から出たばかりじゃ、美味しいものなんか食べてないでしょう。今、お酒と食べ物を用意するわね。」
そう言うと、カルメンは厨房との間を行き来して、食べ物と酒を出してくる。
そして酒を注いで、かいがいしくドン・ホセの世話をする。
そして、ちょっと顔を伏せ、ドン・ホセに問いかける。
「ところで、怒ってるかしら、後悔してるかしら。あたしのために営倉に入れられたこと。」
「いや、怒っても後悔してもいないさ。」
「本当。」
「ああ、本当さ。営倉入りも降格も、どうでも良いことさ。」
「私の事を思ってくれてるの。」
「ああ。」
「私のことが好きなの。」
「そうだよ。営倉の中でも、ずっと君の事を考えてたんだ。愛してるよ。」
「嬉しいわ。私もずっと心配していたのよ。」
「さっきまで、隊長さんや部下の兵隊さんたちが居て、私に唄えとか踊れとか言ってくるの。嫌だったけど、こんなお店に居るんだから仕方なく踊ったりしたのよ。」
「スニガ大尉たちが居たのか。」
「もしかして妬いてるの。」
「まあ、良い気分はしないな。」
「気にしちゃダメよ。これから、あなたの為だけに、唄って踊るからね。」
カルメンは、ドン・ホセに酒と食べ物を勧め、自分は唄って踊り出した。
そうやって唄って踊って楽しんでいると、ふいにドン・ホセがカルメンを止める。
「ちょっと待って。帰営の合図のラッパが聞こえる。」
「それがどうかしたの。」
「もう、帰らなきゃならない時間なんだ。」
「もう帰るですって。ひと月も営倉に入れられていて、ようやく会えたのに、帰るつもりなの。」
「きちんと時間には点呼を受けるのが、兵士の義務なんだよ。」
「帰る。帰る。こんなに恋しい私を置いて、帰るのね。」
カルメンは怒って、声を荒げる。
「私の事を好きだって、愛してるって言ったくせに。私を置いて、兵営に帰ってしまうつもりなの。」
カルメンは泣きわめき、ドン・ホセに身体を寄せ、なんとか引き留めようとする。
「カルメン、俺だって辛いんだ。こんな夜にお前を置いて帰るなんて。
解ってくれよ。兵隊が点呼に現れなければ、どんな罰が待っているか。」
「ああ、帰れば良いわ。そして、もう二度と私の目の前に現れないことね。」
「カルメン。」
「私を愛してるなら、何を捨ててでも、世界のどこまでも私を追ってくるはずだわ。」
「カルメン、そんなこと。」
「ええ、時間までに帰って、上官の命令に従えば良いわ。私を縛れって言われて、縛ったようにね。」
「お願いだから、そんなことを言わないでくれよ。」
そうやって言い合いをしている間にも、時は過ぎて行く。
もう点呼の時を過ぎてしまった。
「ああ、門限を破ってしまった。またどんな罰が待っているだろう。」
「ねえ、私と一緒に行きましょうよ。」
「行くって。どこに。」
「どこでも。世界の果てまでも。私たちの仲間は大勢居るし、世界は広いのよ。大切なのは自由な心よ。」
「このまま帰らなければ、俺は脱走兵だ。今までの竜騎兵としての誇りを捨てろって言うのか。」
「誇りが何よ。名誉が何よ。兵隊の名誉なんて、上官の命令を聞いて戦うだけの事じゃない。そんな事よりも自由の方が大切よ。」
そんなカルメンの言葉に、ドンホセの心は揺れる。
今までの竜騎兵としての誇り、故郷で待つ母やミカエラへの思い。そして、カルメンとの自由な生活。
そうやって迷っているところに、店の扉を叩く音が響く。
「カルメン。カルメン、居るんだろう。」
その声は、スニガ大尉だ。
「おい、開けてくれないなら勝手に入るぞ。」
扉を開けて入って来たスニガ大尉は、ドン・ホセを見つけて不機嫌な顔になる。
「なんだ、こんな兵隊と二人っきりで。
俺の誘いを蹴って兵隊なんぞに乗り換えるとは、悪い趣味だ。」
カルメンの方に手を伸ばしたところを、ドン・ホセが割って入り遮る。
「もう帰営の刻限は過ぎただろう。さっさと帰れ。」
「嫌だ、帰らない。」
「なんだと。」
「俺は帰らない、って言ったんだ。」
スニガ大尉は、ドン・ホセに殴りかかろうとする。
ホセも、腰の刀に手を掛ける。
カルメンが、二人の間に割って入り、奥の部屋に向かって叫ぶ。
「誰か、誰か来て。すぐに来てよ。」
その声に応えて、ダンカイロとレメンダードを先頭に、一味が入って来る。
「ねえ、隊長さん。悪いところに来たものね。」
男たちが数人で、スニガ大尉を椅子に座らせる。レメンダードの手には銃があり、それを見せびらかすようにスニガ大尉に突き付ける。
いくら軍隊の隊長で、剣や銃の達人だとしても、目の前に銃を突きつけられれば、大人しく従うしかない。
「さあ、この二人は放っておいて、ちょっと散歩にでも行かないかい。」
ダンカイロがスニガ大尉に笑いかける。その横でレメンダードは銃をスニガに向け、いつでも引き金を引けるようにしてニヤニヤしている。
周りに居る仲間の男たちも、剣に手を掛け、いつでも斬りつけられる体勢だ。
「どうやら、お前達に逆らっても無駄なようだな。」
「さあさあ、遠慮しないで散歩に行こうぜ。」
スニガは無理やりに、店の外に連れ出されてしまう。
「さあ、邪魔者は居なくなったわ。これであなたも私達の仲間ね。」
カルメンは、にこやかにドン・ホセに告げる。
「こうなっては仕方ないな。」
「まあ、御挨拶ね。まあいいわ。仲間になってくれるんならね。」
「こんな事になって、兵営に帰れると思ってるのか。」
「まあ、無理でしょうね。今度は何年も営倉に入れられて、あの隊長に毎日鞭で打たれるんじゃない。」
カルメンは笑う。
フラスキータやメルセデス、残った仲間たちが、新入りの仲間としてドン・ホセを歓迎する。ホセも苦笑いしながらも仲間に挨拶を返す。
三幕
さてさて、このような成り行きで密輸団の仲間になってしまったドン・ホセでございますが、カルメンとの甘い生活を楽しむ日々とはならなかったようでございます。
密輸団は、仕事の為に街を離れ、とある街道の目立たない場所にある隠れ家に移動しました。ドン・ホセもその集団の用心棒として一緒に行動いたします。一方でカルメンは、あれやこれやと情報収集や買い手との交渉などで出かけてばかりでしたので、なかなか二人でゆっくり過ごす時間も無かったのでございましょう。
一味は、海岸の荷揚げ場所から街に続く辺鄙な街道の峠付近にある隠れ家に、身を潜めます。その街道を通って密輸品を運ぶのが一番良いと、ダンカイロが判断したのでしょう。
唯一の問題は、街道の途中に設けられた番小屋ですが、寂れた街道でもあり番小屋に詰めている役人は三人。街の軍隊から派遣されてはいますが、事件など起こることも無く日々退屈を持て余している者でございます。
この三人を、カルメン、フラスキータ、メルセデスの三人で気を逸らせている間に、密輸の品を運ぼうと言う計画なのでしょう。
取引の段取りも打ち合わせが済んでおります。
イギリス船の船員が、小舟で海岸まで雛物を運びます。船員にしてみれば、金を払ってくれるならば、国が運営している正式な輸入業者だろうが、密輸業者だろうが関係ないということでしょう。
国は、輸入した品物に同じくらいの関税を掛けて、金持ちに売り、利益を得ています。ダンカイロたちは、国が買い取る価格にちょっとだけ色を付けて買い取り、国が売るよりも安い価格で、欲しがっている者に売りさばくのでございます。
街に持ち込んでしまえば、隠す場所は多いですし買い手も居ます。
一部分だけは、きちんと税関を通すのも、そうやって密輸品ではなく正規輸入品だという証明書を手に入れれば、品物に疑いを持たれても言い抜けられるという魂胆なのでございましょう。
一番の難関は、運ぶ途中で大量の荷物が見つかってしまう危険でございますね。
ここで捕まってしまえば、一味は牢に入れられ密輸品は没収となってしまいます。
さて、計画は上手く運ぶのでございましょうか。
ミカエラは焦っていた。以前訪ねた兵営に行ったが、ドン・ホセが居ないのだ。
再びここまで来た理由は、ホセの母の病の為だ。数日前から体調を崩して寝込んでいる。医師の見立てでは、このまま逝ってしまうかもしれないとの事。
その母親が、息子に一目会いたいと言っているのだ。ホセとミカエラの結婚を見たい、せめて息子の顔をもう一度見たいと、病の床で泣くのだ。
ミカエラは、ドン・ホセを連れてくるからそれまで頑張るように言って、街に出てきた。
だが、ホセは居ない。門衛に聞くと、あいつはある事件で犯人を逃がすミスを仕出かして、ひと月程営倉に入れられていたのだが、営倉から出された晩から居なくなってしまったとの話。
ドン・ホセは田舎の出身だから、街に友人も無く、身を寄せる処も無いはずだ。どこに行ってしまったのか、ミカエラは心配でたまらない。
すると、そこに通りがかった別の兵士が、
「あいつなら、営倉から出された時に、パスティアの酒場に行くっていってたぜ。」
とミカエラに教えてくれる。
「でも、あそこら界隈はあやしい店も並んでいるし、流れ者なんかもウロウロしているから、あんたのような若くて可愛い娘さんは近寄らない方が良いよ。あの店で働きたいって言うんなら別だけどね。」
兵士は、そう警告もしてくれるが、ミカエラとしては他にドン・ホセを探す当ても無い。
一縷の望みを託して、パスティアの店に足を向けた。
店では、当然のように怪訝な顔をされた。若い娘が兵士を、しかも脱走兵を探しに来たのだ。
実は、ドン・ホセとスニガ大尉が揉めた翌日にも、兵士が店に来た。昨晩帰って来なかった兵士が居ると言うのだ。事故などに逢ったのなら相応の対処するし、自分の意思で帰らないのならば、以降は脱走兵として扱われるとの事。
もちろん、店主のパスティアは知らぬ存ぜぬで押し通した。
そんな事の有った後なので、改めてミカエラのような娘がドン・ホセを探しに来たのに驚いたのだ。
パスティアは事情を聴いただけで何も教えてくれなかったが、近くで話を聞いていた台所の下働きのおばさんが、店を出るミカエラを追いかけてきてこっそり教えてくれた。
ホセなのかどうなのか判らないが、兵士が一人最近になって密輸団の仲間に入った。密輸の大きな仕事が近いらしく、一味は街道の隠れ家に移動した、と。
その街道は、海岸からこの街に続くいくつかの街道の中で、一番寂れた街道らしい。
もちろん、ミカエラはためらわずにその街道に向かった。
道中で会う人ごとに、訊ねながら街道を行くと、この数日、見慣れない者が二人、三人と街道を行くのを見たという。
峠の近くで畑を耕していた農夫が話してくれた。
「ああ、ロマの一群だね。密輸やらなにやらやっている連中だよ。奴らの隠れ家は、この峠の上さ。」
「この峠の上まで行けば有るんですね。」
「頂上に茶屋のような建物が有って、そこから街道を離れて稜線の方に入っていく道の先に有るんだ。」
「見付けるられるような処なんですか。」
「ああ、この辺りの住人は知ってるやつも多い。道が右に分かれてから二分も歩けば着くくらいの処だよ。
でも、あんたみたいな娘さんは近寄らない方が良い。もう陽も暮れかかっているし、奴らに何をされるか分らんからな。」
「ありがとう。でも行かなくちゃ。」
ミカエラは、その農夫の忠告を無視して、峠道を登り始める。
日は暮れて、月明かりを頼りに、教えられた分かれ道に来た頃には、辺りは真っ暗闇だ。
ほんの少し先に小屋のようなものが見える。
「ここに、ホセが居るのね。」
その小屋に向かおうとした時に、暗闇の中に動く人影のようなものを見て、ミカエラは慌てて岩陰に身を隠した。もしも、教えられた事のどこかに間違いがあり、ホセは居らず密輸団の者だけなら、どんな目に合わされるか判らない。
最初に見つけた人影がためらいもせずに小屋の方に歩み寄ると、もう一つの人影が小屋の陰から現れ、二つの影が対峙している。どちらも逞しい男のようだ。
その一方が、なにやら見覚えのあるドン・ホセのように見え、ミカエラは息を飲んで成り行きを見守った。
その少し前。密輸団の一群は、海岸で取引した荷物を運んで、峠の隠れ家の小屋まで来ていた。
「ここで、ちょっと休憩だ。眠いやつは仮眠してもいいぞ。」
命令を出したのは、ダンカイロだ。
皆は、それぞれに腰を下ろし、自分が運んできた獲物を見せ合ったりしているが、やがて眠り込む者も多くなった。
ダンカイロは、座り込んでいるレメンダードに声を掛ける。
「おい、この先の番小屋の様子を偵察に行くぞ。付いて来い。」
「せっかく一休み出来るかと思ったのに、『付いて来い』だって。まったくついてない。」
「何をぶつくさ言ってるんだ。行くぞ。」
「はいはい、親分。」
ドン・ホセとカルメンは、小屋の隅でひそひそと話をしている。
「なあ、カルメン。俺が乱暴な言い方をしたのなら謝るよ。
お願いだから、機嫌を直してくれよ。
もう愛してないって言うのか。」
「そうね。初めて会った時ほどは、愛してないかもね。」
「そんな。酷いよ。」
「私は、そうやって指図されたり纏いつかれたりするのが嫌なのさ。
私は自由に生きて、好きなようなやりたいのさ。」
「ああ、悪い女に惚れてしまった。」
「嫌いになってくれても構わないんだよ。それもあんたの自由だからね。」
ホセは、窓の外の景色を眺める。峠の麓の集落の灯りが微かに谷間から見える。
「何を考えてるのさ。」
「あそこ辺りのどこかに、母さんが居るんだ。まだ、俺が竜騎兵で出世したと思ってるんだろうな。」
「母親ねえ。行ってあげれば。親の近くで普通に暮らすのが親孝行かもしれないよ。」
「お前は、俺を故郷に帰らせようとするのか。」
「だって、あんた、この仕事には向いてなさそうだもの。」
そんな話をしながら、ホセは壁にもたれて眠り込んでしまう。
フラスキータとメルセデスは、カードを取り出し占いを始める。
「誰が私に惚れてくれるか。誰が私を裏切るか。」
「私のカードには、若くてハンサムな男が見える。将来は何百人もの部下を持つ優秀な男よ。その彼が私の事を愛してくれるの。」
「私のは、金持ちの男が出てるわ。ちょっと年寄りだけど大金持ちで私の我儘を何でも聞いてくれるの。」
それを眺めていたカルメンも、カードを繰り始める。
「私には死のカードだわ。もう一度やってみよう。」
何度やっても、カルメンには死のカードばかりだ。
「仕方ないわね。カードは、ホセも私も死ぬって言ってるわ。」
そんなふうに、皆が時を過ごしてる間に、偵察に出かけたダンカイロとレメンダードが戻って来る。
「どうだった。」
「ああ、いつもの通り、お役人は三人だ。」
「じゃあ、計画通りだね。」
「その三人は、私達に任せておいて。」
カルメンも、フラスキータ、メルセデスも自信満々。お役人など手玉に取るのは簡単だと思っている。
「カルメン。お前もそんな役目をするのか。」
ドン・ホセだけが不満顔だ。
皆は荷物を背負い、この先の難関を越える冒険に奮い立っている。
「ホセ。今さら文句を言うな。お前も仲間なんだからな。」
「そうだよ。お前は、運びきれない物の番をしてな。おかしな奴が来たら、一発ぶっぱなすんだ。油断するなよ。」
ダンカイロとレメンダードに言われ、渋々とその言葉に従う。
一行は、小屋を出て街道に向かう。ドン・ホセは一人、小屋の外で皆を見送ってそこに残る。
しばらくして、ドン・ホセの目に、動く人影が映る。
その見知らぬ男の影に向け、ホセは銃を構え、引き金を引く。
ホセの放った弾は、その男の頭上をかすめて外れてしまう。
「おお、危ないところだった。」
相手の男は、平然と笑みを浮かべ、ドン・ホセに歩み寄る。
「何者だ。」
「私は、エスカミーリョ。グレナダの闘牛士だ。」
「エスカミーリョ。その名前は聞いたことがあるな。お前がそうなのか。」
「ああ、そうだ。私がエスカミーリョだ。」
「その名の有る闘牛士が、こんな山の中で何をしてる。」
「ここに、私の愛しい女が居ると聞いたんでね。旅の途中でちょっと寄ってみたのさ。」
「女だと。」
「ああ、ロマの女さ。名前はカルメンという。」
「カルメンだと。」
「そう、カルメンだ。とても良い女さ。あの女に惚れて軍隊を脱走した兵士も居たという。」
「そのカルメンを追いかけて、ここに来たのか。」
「そうだ。その兵士と一時は恋仲だったが、もうそれも終わりだと思ってな。
なにせ惚れっぽくて飽きっぽい女だ。恋など半年も持たないだろう。」
「そんな女に惚れているというのか。」
「そうさ。なにせ良い女だからな。」
「あの女をものにするのは、命がけだぞ。」
そう言いながら、ドン・ホセはナイフを構える。有名な闘牛士だろうと何だろうと、カルメンに言い寄る男なら恋敵だ。
「あの女に惚れるのは、高くつくぞ。」
「そう言いながら、ナイフを構えてる処を見ると、もしや君がその兵士なのかな。」
「ああ、そうだ。俺が脱走兵さ。」
「カルメンを探して来たのに、恋敵に出合うとはね。」
「じゃあ、覚悟は良いな。」
ドン・ホセはナイフを構えて、エスカミーリョに斬りつける。
エスカミーリョは、闘牛の時のように上着を振りながら、ナイフの突きをかわす。闘牛場での牛の突進にをかわすのに比べれば、ドン・ホセの突きをかわすのも簡単なようだ。
そうこうしているうちに、銃声を聞いた仲間が戻ってくる。
「エスカミーリョ。」
二人に気付いたカルメンが叫ぶ。
「ああ、カルメン。お前に会う為にこんな処まで来たんだ。」
「だからって、ホセと何をしてるのよ。」
カルメンの口からエスカミーリョの名前が出ると、仲間たちは表情を変える。
エスカミーリョと言えば、名前の知れ渡った闘牛士だ。それがカルメンを追いかけて来たと言うのだから、敵とも思えない。
とりあえず、二人の争いを止めさせ、二人を引き離す。ホセはまだエスカミーリョを狙おうとするが、レメンダードが押さえつける。
「お前の顔を見たかっただけさ。」
「何を言ってるのよ。」
カルメンは困ったような顔をする。
「若いの、なかなか良い勝負だったな。いつの日にかこの続きをやろうぜ。」
エスカミーリョはドン・ホセにそう言うと、皆の方に振り向く。
「私はこの後、セビリアでの闘牛に出場する予定になっている。ここに居る皆さんを、その試合にご招待しよう。皆さんに私の雄姿を観ていただきたいのだ。」
皆は、その招待に驚く。闘牛場での観戦など、庶民が出来るものではない。入場出来るのは、金持ちか街の有力者くらいなのだ。
エスカミーリョは、カルメンに囁く。
「もちろん、君も来てくれるだろう。ここの仲間と一緒の一番良い席を用意しておくよ。」
カルメンは、無言で頷く。
「それじゃ、もう行くよ。」
エスカミーリョはそう言って、カルメンを抱き寄せる。カルメンもエスカミーリョに腕を回し、別れの挨拶をする。ドン・ホセは歯嚙みしながら眺めるだけだ。
エスカミーリョが立ち去るのを見送って、ダンカイロが皆に声を掛ける。
「さあ、俺たちも仕事だ。出かけるぞ。」
一味が、改めて荷物を持ち、動き出す。
さてさて、このような山の中の隠れ家での一幕がございました。ドン・ホセとエスカミーリョは初めて顔を合わせたわけでございます。
女には甘くて魅力的な男なのでしょうが、こうやって密輸団の一味を闘牛に招待すると言うのですから、気前の良さは男たちにも歓迎されるのでございましょうね。
そうでございますね。本来はグレナダの闘牛士がセビリアでの闘牛に出るのですから、現代に例えると、大相撲の地方巡業のようなものかもしれません。当然のようにセビリアの街はお祭り騒ぎになるでしょう。その闘牛に招待するとなると、相撲の桟敷席、ボクシングのリングサイド、野球ではバックネット裏への招待のようなものでございましょう。金額にしてみれば、一人数万円とかそれ以上かもしれませんね。
それは一味の者たちも喜びます。
まあ、人気商売でもあるわけでして、人の心の掴み方には長けているのでしょう。もちろん、カルメンに良いところを見せて惚れさせようというのが、一番の目的なのでございましょうけれどね。
ダンカイロの計画では、ここまでの道程は荷車などで一度に密輸品を運んでしまい、この先の番小屋を越えるには、手で持てるだけの荷を、一人や数人のグループでこっそりと運ぶという手筈でございました。その為に残った荷物の番としてドン・ホセが残されたのでございます。隠れ家の場所をエスカミーリョが知っているというのは、ある意味で危険なことでございます。
この先、計画はどうなるのでございましょう。
「さて、お客人も行ってしまった事だし、俺たちも行くぞ。最初の計画通りに番小屋を通り抜けるぞ。」
ダンカイロの合図で、皆は再び荷物を手にして立ち上がる。
「親分、いいのかい。あいつがここに隠してあるお宝に気づいたかも知れないんだぜ。」
「闘牛士が、密輸団の上前を掠め取るっていうのか。あいつは、俺たちを招待してくれるって言うくらい気前の良いヤツだぜ。そんな事はしないだろう。
こっちにはカルメンも居るしな。」
「まあ、一人で運ぼうって思っても、たいした量は運べないでしょうしね。」
そう言いながらも、レメンダードは、注意深く周囲の様子を窺う。
ミカエラは岩陰で、見つからないように身を隠したが、足元の小石に引っかかり音を立ててしまう。レメンダードはその音を聴き逃さなかった。
「おい、誰か居るぞ。」
密輸団の一味に緊張が走る。
数人の男が、ミカエラを取り囲んで引きずり出してくる。
「女だ。」
「なんだ、こいつは。麓の村の農夫の娘か。お宝を盗みにでも来たのか。」
「違うわ。」
「じゃあ何だ。こんな夜更けに。」
「私は・・・」
そんなやりとりを聞いて、ドン・ホセがミカエラだと気づく。
「ミカエラ。どうしてこんな所に。」
「ああ、ホセ。探したのよ。」
「俺を探しに来たのか。」
ミカエラは、ほっとしたように、ドン・ホセの胸に飛び込む。
周囲の仲間たちは、安心したような、期待外れなような、複雑な表情に変わる。
カルメンは、面白そうに二人を眺める。
「あなたのお母さんが、とても心配しているの。ねえ、帰ってきて。」
「母さんが、心配してるって。」
「そうよ、あの家で毎日泣いているわ。」
そこにカルメンが口を挟む。
「こんな所まで迎えに来たんだ。その娘の為にも、母親の為にも、帰ってやりなよ。」
「そんな、俺を帰らせる気なのか。」
「そうさ。あんたはこの仕事には向いてないよ。故郷に戻って真っ当な仕事に就きなよ。」
「そう言って、俺を帰らせて、お前はあの闘牛士と一緒になるつもりか。」
カルメンは、そっぽを向いて呟く。
「あたしが、誰を好きになろうとあたしの自由さ。勝手だろう。」
「どうしても、俺を行かせたいんだな。」
ドン・ホセが激昂して叫んでも、カルメンは知らん顔だ。
周囲の仲間も、ここではカルメンに味方する。
「そうだ、ホセ。せっかくここまで迎えに来たんだから行ってやりなよ。」
「お前は、腕は良いんだけど、危なっかしいところが有るからな。このままこの仕事を続けていれば、どこかで命を落とすぞ。」
「さっきだって、勝てそうもない闘牛士に勝負を挑んで。あいつがお前を殺す気が有れば、今頃あの世に行ってるところだ。」
「この仕事は、もっと狡くなけりゃ出来ないのさ。」
「いや。俺は行かない。」
ドン・ホセ一人が、仲間から責められる状況でも、ホセは拒否を続ける。
そこに、ミカエラが割って入る。
「大事なことなの。お母さんは病気で命が危ないってお医者様も言ってるの。早く帰らないと、もう会えないかもしれないのよ。」
「なに、病気。命が危ない。」
さすがに、母親の危篤となればドン・ホセの思いも変わる。
「解った、帰ろう。」
ミカエラと共に、峠道を下ろうとしながら、ドン・ホセは振り返り、鋭い視線でカルメンを睨む。
「今は帰るが、また来るからな。」
仲間に囲まれ、ホセを見送るカルメンは涼しい顔だ。
遠くから、街道を行くエスカミーリョの歌声が、風に乗って流れてくる。
♪ トレアドール、 構えろ。
トレアドール、 トレアドール。
戦うその姿を、黒い瞳が見つめながら
トレアドール、待っているのだ。 ♪
四幕
こうして、ドン・ホセは、仲間から離れ、故郷の村に帰ったのでございます。
心はまだ、カルメンに残したままでございましょうから、ミカエラと二人の道中に、どのようなやりとりが有ったのかは、余人の計り知れない処です。
一方で、ダンカイロ達の一味は、計画通りに密輸の仕事を成功させセビリアの街に戻ったのでございます。以前のように、パスティアの酒場で客の相手をして歌ったり踊ったりしながらも、密輸品の取引相手を見つけ、売りさばいていたのでございましょう。
セビリアの街では、闘牛が行われるという予告が出され、街はお祭りを待つ浮足立った気分で、密輸品も売れ行きが良かったのではないでしょうか。
故郷に帰ったドン・ホセはと言いますと、母親の最期を看取って一人になってしまいました。ミカエラがあれこれと世話を焼いてくれますので、日々の生活には困らないのですが、ミカエラを娶る踏ん切りもつかず、無為な日々を送っておりました。
母親は逝く前に「ミカエラと結婚して幸せになって。」と言い残し、ミカエラもその気は充分なのですが、カルメンの事を思うと愛しいやら憎らしいやら、複雑な気持ちが渦巻いて、どうすれば良いのか自分自身でも判らなくなっていたのでしょうね。
そして、ある日。誰にも何も告げずに家を出たのでございます。
ドン・ホセが向かったのは、もちろんセビリアの街でした。それが闘牛の興業が行われる日だったのは、ドン・ホセがそれを記憶していてそれに合わせたのか、単なる偶然だったのかは、本人しか判らないことでございました。
セビリアの街の広場には、大勢の人が行きかい、様々な物売りが声を上げていた。
この広場の隣に有る闘牛場で、久しぶりの闘牛が行われるので、街中がお祭り騒ぎで浮かれているのだ。
出場する闘牛士たちは、控え場所となっている宿から、この広場を通って闘牛場に入る登場の花道が用意されている。
花形の闘牛士たちは、それぞれに着飾って、何人もの従者を連れて、パレードのように入場するのだ。
街の人たちは、その入場を一目見ようと、広場に集まっている。密輸団の一味も、着飾ってパレードを眺めている。
「来たぞ、あそこに。闘牛士だ。」
「見てみろよ、あのキラキラとした綺麗な服。」
「それに、あのピカピカに光った槍。」
「あの槍の穂先で、牛にとどめを刺すんだぜ。」
警備の兵士たちが、見物人の整理をしてパレードの道を開けさせる。
子供達は、そんな兵士をからかうように、隙間を抜けて走り回る。
「こら、その線より前に出てはいかん。」
「やーい。捕まえてみろ。」
何組もの闘牛士たちが通り過ぎた後に、パレードの最後にエスカミーリョがやって来る。
「あれが、グレナダでも有名な闘牛士のエスカミーリョだよ。」
「いい男だね。あんな派手な衣装も良くお似合いだよ。」
「一緒に連れている女も、別嬪さんじゃないか。美男美女のカップルだね。」
「どういう女なんだろう、女房なのかね、恋人なのかね。」
「腕も良くて、人気者で、もちろん金もたんまり持ってるだろうし、その上にあんな美人を連れてるんじゃ、これ以上何も不足は無いだろう。羨ましいね。」
パレードを眺めている女たちも、口々に褒める。もちろん、エスカミーリョが連れて、一緒に歩いているのはカルメンだ。
パレードの最後尾のエスカミーリョが闘牛場の入り口まで来ると、エスカミーリョは皆の前でカルメンを抱きしめる。
「愛してるよ。」
「私も愛してるわ。」
「俺が牛を倒すところを、一番前の席で観ていておくれ。君は誇りに思うだろう。」
「ええ、楽しみにしているわ。」
そして、エスカミーリョは闘牛士の控室に向かう。見送った見物客は、闘牛場の観客席に入って行く。
カルメンは、人ごみを避けるように、エスカミーリョを見送った場所に佇む。
そこに、フラスキータとメルセデスがやって来る。
「カルメン、気を付けなよ。」
「さっき、ドン・ホセを見かけたヤツがいるんだ。」
「あいつ、この街に戻って来たんだよ。」
「何しに来たんだろうね。闘牛を観にきたのかね。」
「そんなわけ無さそうだよ。あいつはまだカルメンに御執心なのさ。」
「あの時の小娘と一緒になって、大人しく田舎暮らししてれば良いのにね。」
「まあ、カルメンに惚れたのが運の尽きさ。」
「じゃあ、ドン・ホセは私を攫ってでも行くつもりなのかしらね。」
「あいつなら、やりかねないね。」
「それとも、私を殺すつもりかな。」
「何を言ってるんだよ。カルメン。」
「確か、カードの占いでは死の予言が出てたけどね。」
「だから、気を付けなよ。あいつに見つからないように。何かされないように。」
「私がそんなことに怯えて、逃げ隠れするような女だと思ってるの。」
「そりゃ、カルメンが逃げたりはしないだろうけどさ。」
「大の男、しかも元兵士が、ナイフでも持ってかかってきたら、逃げられないよ。」
「それでも、私は逃げ隠れはしないわ。」
フラスキータとメルセデスは、仕方ないという表情をして、闘牛場に入ってしまう。
カルメンが、一人で立っていると、ドン・ホセが現れる。
「やっぱり来たのね。」
「ああ、もう一度お前と話がしたくてね。」
「私の命が危ないって、忠告してくれた友達もいるわ。私を殺すつもりなの。」
「そんな事はしない。」
「じゃあ、どんな話がしたいの。」
「お願いだ、もう一度やり直そう。」
「それは無理ね。」
「どうしてさ。」
「あなたが望んでいるのは、結婚して、一緒に田舎の村で畑でも耕して過ごす生活でしょう。このカルメンがそんな事すると思う。想像も出来ないわ。」
「そうやって平和に過ごすことが、幸せなんだよ。俺はお前を幸せにしたいんだ。」
「この自由な女を、地面に縛り付けて、それで幸せになると思ってるの。」
「それなら、俺がお前と一緒に行くよ。もう一度密輸団の仲間にしてくれ。」
「無理ね。あなたはこの仕事には向いてないの。どこかで捕まって牢屋行きになるか、兵隊に撃たれて死ぬか。どちらにしても芽は出ないし、悪くすれば仲間の足を引っ張って、仲間にも迷惑かけるわ。」
「お願いだ。一緒に来てくれ。愛してるんだ。」
「私はもう愛していないのよ。」
闘牛場の中では、最初の牛が倒されたのでしょう。皆のどよめきや叫び声が聞こえ、闘牛士を讃える拍手と歓声が大きくなる。
「お願いだ、もう一度やり直すチャンスをくれないか。」
「もう無理よ。私は自由な女。心のままに生きるのよ。」
そう冷たく言い放って、カルメンは闘牛場に入ろうと歩き出す。
その手を、ドン・ホセが引っ張って引き戻す。
「どこに行くんだ。」
「闘牛を観に行くのよ。」
「さっき見ていたぞ。一緒に居た闘牛士がお前の新しい恋人なんだろう。」
「そうよ。今は彼を愛してるの。あなたの出る幕は無いわ。」
「そう言って、俺を捨てて新しい恋人に抱かれるんだな。」
「そうよ。」
「まるで悪魔のような女だな。」
「なんとでも言えば良いわ。」
「俺と来い。」
ドン・ホセは、強引にカルメンの腕を引っ張る。
「嫌、嫌。なんて言おうと嫌よ。」
再び、闘牛場からの歓声が大きくなり、ドン・ホセの頭の中に、その大きな歓声が響き、何も考えられなくなる。
「これが最後だ。悪魔め、俺と来い。」
「嫌。絶対に嫌。この指輪、昔あなたがくれた指輪。もう着けていたくもないわ。
あなたに返すわよ。」
カルメンは指輪を引き抜き、ドン・ホセに向かって投げつける。
ドン・ホセは、ナイフを引き抜くと、カルメンに向かう。
「この悪魔め。死ね。」
カルメンは、一歩二歩後ずさりするが、ドン・ホセのナイフから逃れられない。
胸に大きな薔薇のような、真っ赤な花が鮮やかに拡がり、カルメンはその場に倒れる。
闘牛場からは、大きな歓声と闘牛士を讃える大合唱が響いてくる。
そして、ドン・ホセは、カルメンを抱きしめ、泣き崩れる。
「愛していたのに。俺が、この手で殺したのだ。カルメン。」
こうして、カルメンの物語は、その主人公の死で終わりとなるのでございました。
その後、ドン・ホセがどうなったのかは、知られておりません。
カルメンの命を奪った血まみれのナイフを、そのまま自分の胸に突き立てたのかもしれませんね。それとも、兵士に捕まり死刑にされたのか、逃げ出して密輸団の仲間に追われ処刑されたのか、逃げおおせたとしても、故郷に帰ってミカエラと暮らすことは無理でございましょう。
恋人になったカルメンを、昔の男に殺されたエスカミーリョ。一途にドン・ホセを想うミカエラ。大切な仲間を失ったダンカイロ、レメンダード、フラスキータとメルセデス、密輸団の皆。
どのような想いがあり、どのような運命を辿ったかは、また別のお話になりますので、この物語はここで幕を閉じさせていただくことにいたしましょうね。
了
カルメン2024
私は偶然ながら「カルメン」のオペラに関わったのだが、オペラのアクターの中にも、ストーリーや状況をきちんと理解しないまま舞台に上がっている人も目に付いたので、そのストーリーをきちんと整理して書いてみたくなった。
オペラというのは当然「芝居」なのだが、音楽「歌」の方が重視され、歌うことがメインになっているアクターも多いように見えたのだ。
当然、当時の風習や考え方は、現代と異なる部分も多く、そういう処には、私なりの解説も付け加えた。
大河ドラマのナレーションをイメージして、地の文章と表現を変えているので、
ナレーションをイメージして、年配の上品な女性の声のつもりで読んでもらえると嬉しい。
また、もうちょっと掘り下げた「カルメン」の見かたも有るが、この小説内では、そこまでの表現はしないでいたので、ご興味のある方は、私の書いた「カルメン・・その愛と性」の方をお読みいただきたい。
(裏カルメンなので、18禁ですが・・・(笑)
https://slib.net/125406