再度名を知る
前半
例えば青空の絵の中に、脈絡なく真っ赤な絵の具でも差されたような――ぼやけていた視界が急にはっきりしたような。いつものように郵便受けから朝刊を取り、なんとはなしに文字を追った途端、急激に意識が覚醒しました。
【×××・Rがまたもや失踪か】
多分のスペースを使い、薄地の紙面に綴られていたのは、そんな見出しだったのです。無意識に右目の眼帯に触れていました。ここ最近、何かある度に、ないはずの目玉が痛むのです。僕はもうまともではありません。
食堂に戻ると、配膳を終えたEが控えているところでした。Eは目ざとく僕の顔色に気付き、口を開きかけましたが、正面を向き直しました。しかし、その様子を旦那様はしっかり見ています。
「気分が悪いのかい?」
「いえ」
「トニーったら、また寝ないで小説を書いてたんだわ。子どもは寝ないとダメよ。大きくならない」
「そういう姫は、昨日は何本映画を観たんだろうね」
得意げに突き出していた指はあっけなく引っ込み、お嬢様は、何事もなかったかのように紅茶を飲んでおられます。いつもの休日の朝です。僕が差し出した朝刊を、旦那様は、わざわざお礼を言って受け取りました。即座に片眉を顰めました。14歳の娘がいるにしては、旦那様はお若い方です。素朴に感情を出してしまうところがあります。
「今日は天気も良いし、特に急いだこともない。大掃除でもしよう」
少しだけ乱雑に、テーブルに朝刊が押さえつけられたように見えました。食器を下げに動いた僕を制して自分で重ねながら、
「あっちに運ぶだけだからね。自分でできる。Eとトニーは掃除の準備をしてくれ」
まだ紅茶を飲んでいたお嬢様に対しては、
「ジーナ、お前もするんだぞ。急ぎなさい」
「急いだことはないってさっき言ってたわ」
「暇だから大掃除しようとしてるんじゃない。それが目的になったんだ。みんなでやったほうが早く済むだろう。ジェイにも伝える」
ジェイは屋敷で雇っている女性シェフです。住み込みではなく早朝から夜まで通っており、たまに違う人が来ます。普段はシェフとして働き、休暇は趣味としてお屋敷のキッチンを使っています。
通り過ぎざま、旦那様は、軽く僕の頭に手を置きました。そのさりげない行動が、おそらく僕の気を紛らわせるために急遽決定した大掃除が、日々の小さな善意の数々が。どれだけ僕の心を抉るかなんて、まさか想像すらしていないでしょう。
ない右目がまた疼きました。もう限界かもしれません。右手はぺんだこでぼこぼこです。何か言いたそうなEに視線を返し、僕は元気なふりをして、掃除の準備を急かしました。
×××・Rと連絡は、今度の劇作の打ち合わせの日程を決めたことを最後に途切れたそうです。もちろん在宅もしておらず、普段なら稀代の作家の放蕩癖と放っておかれるところですが、今回は既に多数の企業・役者・衣装制作などの裏方スタッフが絡んでいました。あらゆる信用問題や損害補填に発展しかねないという観点から、新聞社を通じて告知されたとのことでした。島のお屋敷にいた頃からあまりに奔放で、その性格も便利な町に住む選択肢を排除した要因だったのでしょうが、当時から関係企業の方々には迷惑をかけていました。ある方面からは追放のチャンスとされるのも無理のないことかもしれません。
それはかつての×××・Rであればの話です。現在の×××・Rは、Eと僕の前主人であり、とうに死亡している本物の×××・Rから容姿と名前を拝借しているだけの別人です。本名はオリバー・テイラー。知っているのは施術した闇医者と僕だけのはずです。
数日にわたって新聞記事が更新されるうち、×××・Rの直近の人となりが掲載されました。ある時期から時間や日取りを正確に守るようになったこと、所有していた島のお屋敷を解体したこと、以降はこじんまりした家にひとりで住んでいたこと。まったく別人のようだと書く記者もいました。それでもオリバーさんは、顔も声も筆跡も、紡ぎ出す物語も、元来発表していたものとは違うジャンルで書かれた児童小説も含めて、完璧に作家×××・Rになり替わっていました。
本当に気まぐれを起こして旅しているとは思えません。何かあったことは火を見るより明らかです。
ともかく一度はお茶をした仲です。心配しなかったわけではありません。が、申し訳ないながら、僕にとってはいいことでもありました。あの人に会わないと安寧を得られないという本心と、この日常を守るために絶対に会ってはいけないという自制心が絶えずせめぎ合う毎日の中、当然の帰結を思い出させてくれたのです。
報いを受けて当然の人が、報いを受けただけのこと。幸いと言えるのかはわかりませんが、過去の×××・Rの甲斐性を引き合いに、日ごとに報道の勢いは弱まります。どうやらオリバーさんの素性が割れたわけではないようです。
悪いことをしたオリバーさんが本当に制裁を受けたのだとしたら――僕にも早くその日が来ればいいのに。
Eだけは守らなければと思うと同時に、さっさと壊れてしまえと望む僕に、オリバーさんの失踪はちょうどよい保養となりました。
そうして僕がある意味では到達点に達したことと、完全に折り合いをつけられたかどうかは、また別の話です。家人総出の大掃除から数日経ったお休みの日、僕は駅を抜けていました。一度お邪魔したオリバーさんのお家を目指してのことでした。
目的などありません。なんとなくそうしてみたい気持ちと、お休みの日が重なりました。
庭すらない小さな家を遠巻きにしばらく眺めていると、言いようのない焦燥に駆られました。目を貫いた激痛、かつて勤めたお屋敷、体温を伴った、そして伴わなくなったお館様の感触。あらゆる場面がコマ送りのように脳の裏を巡り、最後に浮かんだのは、狂気的に火照り歪んだ瞳ではなく、僕への感謝を口にした裏表のない笑顔でした。
突然バカバカしくなりました。踵を返したその一瞬、オリバーさんの家の前で立ち止まる影を見つけ、再び僕は向き直りました。
見たところ建築関係の方たちのようです。何やらそれらしい道具を持って、家の尺を測るような仕種をしています。今にも鍵を開けて中に入ろうとしているので、咄嗟に僕は駆け寄っていました。
子どもと思ってなのか、男性ふたりとも不審げな顔はしませんでした。どうかしたの、目線を合わせてくれます。
「一度ご招待くださったんです。最近お姿が見えないようなので、ついお家に来てしまいました。もしかして関係者の方かと」
ただのファンを装いました。そのうちに、ひとりが少し前に近場でイベントをしていたことを思い出したようでした。
「ごめんね。僕たちもわからないんだ。ここへは大家の依頼でね」
「大家……ですか?」
この人たちが×××・Rの縁者ではないことはわかりきっていますし、大家という単語にもぴんとくるものがありましたが、確かめる意味で首を捻ってみました。彼らとしては差し障りのない内容なので、軽く教えてくれました。
「ここは借家なんだよ。大家さんが結構強引な人で、現在の家主と連絡すらつかないのであれば、さっさと荷物を引き払って別の人に貸したいってね。今どきの家にしては手狭な印象だから、開放感のある感じに改築してくれってことで、その下見に。何日かかけて準備するんだ」
お礼を述べて僕は下がり、遠くからこっそり彼らを観察しました。本当にドアを開けて中に入ったときはひやりとしましたが、大して時間をかけることもなく出てくると、ふたりして同じ方向へ歩き去っていきました。
帰路につく電車の中、僕は情報を整理していました。
どれが本業でどう呼ぶのが正しいのかもわかりませんし、明言もされていませんが、オリバーさんの一族は途方のない規模の土地業の主です。三男とは言え直系の息子であるオリバーさんにも、絶大な発言権や実行権がありました。途中で改造はしたとしても、着工の時点で息をかけていなければお屋敷に細工はできません。まして島に住み着くなんてできなかったでしょう。
乗り換えの駅の売店でジュースを買い、再び電車に乗り込みました。夕方が近くなり人が増えたようです。世間話で盛り上がっている女子学生の話の中にも、背広の男性が持っている夕刊の文字の中にも、×××・Rに関する新しい話題はありませんでした。
当駅限定と書かれたパッケージを眺めていると、Eにも買えばよかったなと考えている自分に気付きました。Eはすっかり僕の世界の主軸となっています。Eに依存するか、オリバーさんに依存するか、それとも――続きが頭をよぎる前に、ジュースを飲み切りました。思考を無理矢理切り替えます。
このタイミングで家がなくなろうとしているなんて、もうオリバーさんは、世界のどこにもいないのかもしれません。動かせる金額も影響力も甚大すぎます。いくら大企業と銘打つとしても、一企業と言うにはあまりにも持てる力を逸脱しているのです。あのお館様を騙し通したくらいですし、オリバーさん自身普通の人とは言い難い。最初から真っ当な世界を生きてきた真っ当な一族ではないと前提付けたほうがしっくりきます。
でも、そうだとして、見目の全く変貌したオリバーさんが狙われる理由はなんなのでしょうか。家を裏切ったから? そんな理由なら、ろくに帰宅せずお館様を尾け回していた時点で無事ではなかったしょう。他人を乗っ取っていることがバレる前に? 自分で口を割ることはないのですから、本人を狙うのはお門違いです。
単純に去る者を許さない系譜の家で、見せしめを兼ねて処分したとか? それならオリバーさんが×××・Rでないことを大多数の人間に明かす必要があるはずですが、世間には噂ひとつありません。厳重な箝口令が敷かれたとも仮定できますが、×××・Rが依然と違わず発表する新作は、年齢層を広げて人々を魅了しています。例えば一族の一番の権力者が宣言したとして、全員信じるものでしょうか。
気になることはほかにもあります。あの秘密のノート。家が壊されるということは、あれも出てきてしまいます。出てきたところで単なる創作ノートだとオリバーさんは言いますが、それは何も知らない一般人に見つかった場合に限ります。×××・Rになり替わっていることを知っている誰かが見れば、違う意味にもなってくるでしょう。
心が波立ちかけましたが、すっと鎮まりました。もういいか。もういい。制裁があるのだとすれば早いほうがいい。幾度も考えたそれが頭をよぎり、僕を落ち着かせてくれました。
この先もどうせ、おかしくなりそうでおかしくならない日々を重ねていきます。作家志望というキャラクター性に隠れ、ささやかにストレス発散をする毎日。Eを守れるならいつ終わっても構いません。せめてあれを読んだ誰かが、ちゃんと僕を犯人としてくれる心ある人でありますように。そんなことを考えているうちに、慣れない移動の疲れからか、僕は眠り込んでいました。
ある日のこと。僕と旦那様は他所のお屋敷にいました。先日出席したパーティーで一緒になった方のお屋敷に招待していただいたのです。その方、■■さんには年の離れた弟さんがいるのですが、不運な事故に遭遇し、半身麻痺のような後遺症が残ってしまったとのこと。塞ぎ込むようになり、学校にも行かなくなった姿を見て胸を痛めていた■■さんの目は、自然と子どもたちを追うようになります。そして、病気や怪我はもちろん、突如負ってしまった身体の不自由などにより、学校どころか外にも出られない子どもがたくさんいることを今更知ったのだというのです。
「恥ずかしい話ですがね。頭ではいろいろ知っているつもりでしたが、実感がなかったんです。自分には関係ないことだと思っていたんでしょう」
■■さんは旦那様と同年代のように見えますが、組織の柱を担う故なのか、一筋縄ではいかないオーラを纏っていました。背の高さや切れ長の目が威圧的ですらあり、気のいいお兄さんのような雰囲気の旦那様とはまるで真逆の印象でしたが、物腰は実に丁寧です。弟さんの話をしているときも、本当に心配そうで悲しそうでした。
そんな■■さんが、ぱっと顔を明るくしました。
「ですから、先日ご一緒できたときは本当に嬉しくて。**さんはかの▲▲学園の学園長殿。子どもの教育と救済に熱心だと、かねがね噂で聞いております。お話しできる機会があればとずっと思っていました」
見た目と違って案外表情豊かだな、と応接間の少し離れたところで立っていた僕は思いました。力を持つ人は、子どものような無邪気さを兼ね備えるものなのでしょうか。
「私は私にできることをしているだけですよ。こちらこそ良い機会をいただきました。身体の不自由な子が通える学校、私もいつかと思っていたのです。□□社の方からご相談いただけるなんて、願ってもないことでした」
今の時代には障害を抱える人の居場所も働ける場所も見つけにくいが、まずは特化した学校を作って子どもたちをサポートしたい。就業支援も視野に入れられれば、そういった苦労をしている大人たちにも輪を繋げていけるだろう。旦那様はまっすぐな眼差しで熱っぽく語っていました。そういう話をするから、ちょっとした例と言っては言い方が悪いのだが、同席してくれないかと旦那様が僕を誘ったのでした。
もちろん僕がお仕事そのものに関わることはありません。名目は様々ですが、旦那様が僕やEのどちらか、もしくは両方を出先に同行させることはよくありました。今日の場合は、ちょうど空の広く見える田舎のお屋敷でのことです。僕が小説ばかり書いて口数少なくなっているので、気分転換を兼ねて外に連れ出してやろうというのが仕事以上の理由だと思います。
「弟とは言いましても、何せ年が離れているのでね。感覚的には、ほとんど息子のようなものなんですよ」
お屋敷内に通していただいている途中、遠目に僕と同年代くらいの男の子を見ました。ちょっとくせっ毛気味の栗色の髪は、なるほど確かに■■さんと似ているようです。壁によりかかるような形で歩きにくそうにしていたところに誰かが駆け寄りましたが、不機嫌そうに顔を背けていました。床には何か散らばっていたようです。
オリバーさんにも、何人もの使用人に気を遣われ頭を下げられる日々があったことでしょう。いくら理不尽な外れくじを引くことになろうと、あんな刺々しい態度は取らなさそうですが。
話が進んでいくうちにお茶が切れました。■■さんにお付きはいません。内線をかけようとしたところを旦那様が止めると、それ自体はお構いなくという意味だったのですが、ふと僕と目が合いました。
「よければ僕がお持ちします。誰かに聞いて、準備していただいたのを」
さすがに旦那様はちょっと戸惑った顔をしましたが、■■さんが喜んでくださいました。
「これでも子どもは好きなんですよ。子どもが何かしてくれると、大人のときより嬉しいじゃないですか。些細なことでも」
「ですけど、今は」
「大丈夫ですよ、お茶をもらうだけなんですから。失敗したとしても子どものすることじゃないですか」
■■さんは一方的にカップとお茶菓子の載っていたお皿を2人分重ね、僕は丁寧にそれらを受け取り、一礼して客間を出ました。
とりあえず来た道を戻りました。大きなお屋敷ですから、すぐにでも誰か使用人の方と遭遇できるはず。できなければ庭に出てみて、庭師の方にでも声をかけようと思っていました。
しかし僕が曲がり角で出会ったのは、例の弟さんでした。
床にはペンや筆、絵の具のチューブが散っていました。頑張って持っていたのを、急に見慣れない、しかも眼帯の人間が出てきたものだから驚いて落としてしまったのかもしれません。不可抗力とは言え、悪いことをしてしまいました。食器を落とさないようにかがむと、低く尖った声で「触るな」と飛んできました。まだ声変わりしていない、トーンの高い少年の声でした。
「知ってるぞ。お前、路地裏に住み着いてたんだってな。汚いことして生きてきたんだろ。僕の私物に触れるな」
中途半端に手を伸ばした姿勢のまま、僕は呆然としていました。酷い偏見です。普通の生活を送れない子どもたちのために学校を、なんて理想を仮にでも掲げている方の実弟の発言とは思えません。僕が汚いことをしてきたのは否定しませんが、家も親もないなりに、協力してひたむきに生きようとしていた子はたくさんいました。
嫌な奴。強くそう思いましたが、不機嫌を悟られてはいきません。普通の顔で立ち上がると、彼は苛立ったように唇を噛みました。かと思えば、感心したように鼻を鳴らしました。忙しい人です。
「目を代償に安寧を買ったってわけか。何もないんだから身体の一部を支払うしかないよな」
これまた最低な発言です。言いたい奴には言わせておくに限ります。
「前のご主人様に酷いことされて流れてきたんだってな。本当かどうか。自分からチップをもらいに行ってたんじゃないのか? もらい尽くしたとか、バレてバツが悪くて逃げたとか。全部鵜呑みにするなんて、兄様は優しすぎだと思う」
聞き流すことにします。
「今日ここに来たのだって、何か狙いがあったりして。だいたいご主人様の仕事にガキの使用人が付き添いなんて変だ。それこそチップをもらって好待遇とか」
「旦那様はそんな方ではありません」
が、さすがにカチンときました。睨みつけ、言い返していましたが、別に悪いとも思いませんでした。
「もし本当にチップをもらいたがった子がいたとしても、旦那様は、欲望や好奇心のままに自分を堕落させるようなことはありません。決して」
片目を失って、いろいろなことがあって、僕やEを助けようとしてくれる大人は意外に多いことに気付きました。みんなが自分にできる範囲で、仕事の一環だからだとしても、話を聞いて力になってくださいました。その中でも、僕たちを引き取り、職と家を与えてくださった旦那様は特別です。旦那様をこんなガキの汚らわしい妄想に貶められるなんて、到底我慢できることではありませんでした。
食いかかってくるとは考えなかったのでしょう。凝縮されて敵意が込められたような僕の瞳に、彼はたじろいでいました。
しかしそれも一瞬のことです。彼は再びつんと顔を背け、
「やっぱりろくな奴じゃない。ホストの家族に口答えかよ」
今度は言い返しませんでした。矛先が僕に戻るなら受け流すだけです。身分を笠に毒づくだけの輩、相手をするだけ時間も労力も無駄です。さっさとお茶をもらって旦那様方のところに戻らなくては。
「で? お茶のおかわりでももらいに出てきたのか?」
まあ、空の食器を持っているわけですから、そのくらいわかっても不思議ではありません。彼の目線が動きました。
「使用人の控室はあっちだ。早く行け」
おや、と思いました。
ドアの奥から、ちょうどそれらしい人も出てきました。足止めを食っていなければ彷徨ったかもしれません。
彼が何か言うのを無視して、僕は手早く足元のペンや絵の具を拾い集めました。
「教えていただいたので。助かりました。ありがとうございました」
持っていたケースをほとんど奪い取るようにして絵の具を並べ、ペンと一緒に押し付けます。壁にもたれた状態の彼がしっかり持ち直したのを確認すると、僕は駆け足で使用人室に向かいました。
お茶とお菓子を持って応接間に戻るや否や、旦那様が安心したように息をつきました。遅くなって心配をかけてしまったようです。
「すみません。ちょっとだけ迷ってしまって」
「もしかしてジョージに捉まったかい?」
急に■■さんに図星を突かれ、つい黙りました。もちろん肯定と見做されてしまいます。■■さんは悲しげに眉根を下げました。
「やっぱり。ごめんね、そこまで気が回らなかった。突っかかられたんだろう」
「そんな。少しお話ししただけです」
「気を遣わなくていいよ。思うように身体が動かなくなってから、絵を描けなくなってね。あの子の拠りどころだったんだよ。すっかり捻くれて、攻撃的になってしまって」
学校にも行けない、趣味も楽しめないと言うのでは。辛そうに呟く■■さんに、旦那様まで萎れてしまうようでした。
ジョージ――様とお呼びするのも妙ですが、最も無難なところでしょうか。画材道具を持っていました。最初に見たとき、床に落としていたそれもそうだったのでしょう。今日は描けるかもしれない、今度は描けるかもしれないと毎日画材道具を持ち身体を引きずる姿を想像すると、確かにどうしようもなく歯痒く感じました。
給仕を済ませた僕は、さっきまでと同じ通り、元の立ち位置に戻りました。
「大変なことが続きますね。確か今、ご兄弟の一人が行方知れずだとか」
■■さんに目立った変化はありませんでした。それが尚更旦那様にはいたたまれなく思えたのか、労わるように続けました。
「心配ですね。私にもできることがあると良かったのですが」
「ありがとうございます」
■■さんは苦笑いがちでした。テーブルの上で手を組み直し、視線を流します。
「でも、その件については、ついに愛想が尽きただけかとも思っているんですよ。以前から家が気に入らないようなところがあって、家業に関わる気もなさそうでしてね。大人になってからは帰って来ない日もちらほらあったんですが、そこはまあ、大人ですから」
大人ですから、と言いながらも、どこか子ども扱いしているような口調です。どうやら兄弟で相反する性格のようですが、それに苛立っている様子も疎んでいる様子もありませんでした。
「だから、今の状態は却って良いのかもしれないとも思っています。弟が弟なりに自分のしたいことを見つけて、もしかしたら一緒にいたいと思える人がいて、そうして生きているんじゃないかと。こんな家ですから表沙汰には言えませんが、どこかで元気にやっているならそれで十分。私個人としてはそう思っています」
「便りがないのは元気な便りと言いますしね」
「ええ」
ようやく旦那様が硬い表情を崩すと、■■さんも頬を弛緩させました。2杯目の紅茶を飲みながら、今度は少し渋面になりました。ジョージ様同様、お忙しい方です。
「ジョージのことは可愛がっていたんですけどね。ご存じかと思いますが、四兄弟でして。あの子が生まれたとき私は20歳近く。すぐ下の弟も学業の傍ら仕事に携わっていたので、三番目の弟が一番面倒を見ていたことになります。そういう感じですから、あの子も三番目の弟に一番懐いていました。お世話係の者もいましたが、やはり兄弟には敵いませんから」
当時を振り返るように■■さんは目を細めました。
「微笑ましいものでしたよ。昔から絵を描いて遊ぶのが好きで、弟がそこに文字を添えてやって、絵本みたいにしたりね。私は弟たちの扱いに差をつけていたつもりなんてありませんが、親は」
「■■さん」
急に口を挟まれ、■■さんは一瞬強張りました。見ると旦那様が少しだけ険しい表情になっています。■■さんは再び紅茶の入ったカップを手に取りました。
「すみません。感覚的には息子だなんて言いながら、やはり私も子どもですね。配慮に欠けました」
「とんでもない。私のほうこそ失礼しました」
話の流れが正直よくわからなかったのですが、僕がいるからかと納得しました。親が子どもに順番をつけたり、そもそも子ども自体が都合の良い存在だったり、そんな前提の話は子どもの耳がないところですべきです。僕のことは全然気にしてもらわないで大丈夫なのですが、まあ、黙っているしかありません。
■■さんと目が合いました。僕が目を逸らす前に、■■さんが逸らしました。
「少し違う話をしましょう。仕事とは関係ないことですけど。**さんには、確かお嬢さんがおいでですよね」
そこからは、休憩がてらなのか、雑談のように話が進んでいました。■■さんも旦那様も、規模が違えど数多の人々の上に立つ人間です。業務上のスキルなのか本当に気の合う部分があるのか、会話は一向に途切れませんでした。
気付けば高かった陽は傾き、薄暗くなっていました。明日はちょうど祝日なので泊まっていかないかとお声かけいただきましたが、うちのことが気になるからと旦那様は遠慮します。近々また訪れることを約束し、僕と旦那様はお屋敷を後にしました。
数日のうちに、僕と旦那様は再び■■さんのお屋敷にお邪魔しました。気さくな■■さんは門扉で使用人を下げ、自ら出迎えに来られました。典型的な見た目で損するタイプです。
ちらほらと緑に混ざって鮮やかに花が開いている庭を横切る途中、ジョージ様を見かけました。壁がないためか歩きにくそうにして、手元にはペンとノートが携えられています。
ジョージ様は■■さんと一言二言交わし、僕には一瞥をくれただけ、旦那様には会釈をして、ゆっくりと歩き去っていきました。その間際、旦那様は、慈しむような口調で「気を付けてね」と送り出していました。
「天気の良い日は、外にいることも多いんですよ。それだけはよかったと思っています」
しかし秋の空模様は移ろいやすいものです。穏やかに晴れていたのが嘘のように、灰色の雲が彼方から伸びてきています。みるみるうちに太陽は隠れ、じっとりとした湿気が屋内にも伝わってくるようでした。
「さすがにまずいかな。トニー君」
旦那様とお話している最中から、■■さんはやたらと僕が気になるようです。一緒に話ができるためか、旦那様も居心地悪そうでははありません。僕は素直にご用向きを伺うことにしました。
「雨が降りそうだからね。庭にいるジョージに声をかけてきてくれないか」
「僕が?」
旦那様がいることを忘れ、つい率直に問い返してしまいました。はっとしましたが、■■さんは困ったように微笑んだだけでした。
「年の近い子がいいんだ。うちには君くらいの子はいないし、あんな性格になってしまったから友達も来てくれなくなってね。私に頼まれたと言ってくれ」
「でも……いいんですか?」
「いいとは?」
僕自身とは関係ないところとは言え作家志望になっているのに、語彙力のなさを自分で呪いました。咄嗟に思いついたことを口にします。
「さっきすれ違ったとき、ご挨拶すらしていません。嫌われたかもしれないです」
また毒づいてくるかも、とは言いませんでした。実際どうでもいいことだし、それより■■さんが考えていることがわかりませんでした。
「内心では寂しがってるんだ。素直じゃなくてね」
「トニー、行っておやりよ」
旦那様に言われたら行くしかありません。■■さんも見かけは怖めですが、今更疑う必要がないことは既にわかっています。僕はお二人に軽くお辞儀して客間を出ました。
もう少ししたら、本当に一雨きそうになってきました。せっかくお声かけいただいたので、他の誰かより早くジョージ様を見つけなくては。
手入れの行き届いた広大な庭を探索するうちに、頭の中ではっきりしてくることがありました。うっすら形はありましたが、改めて庭を歩いて確信しました。旦那様は、やはり資産家の中ではあまり高いクラスではないようです。
お館様を思い出しました。本当にバカげた資金力でした。有名と言えども一代の作家、ここまで急激に財を成せるものかと疑問でしたが、単純に元々お金持ちだったのでしょう。お館様が家業を外れて作家になっただけであり、太い元手に成功した作家業の利益を重ねているとすれば一応筋は通ります。そのあたりもオリバーさんなら詳しいのでしょう。
立派なゲストハウスが目につきました。もしかしたら中にいるかもしれません。家主の息子なら鍵は自由に持ち出せそうだし、持ち歩いているものがあるので、ちょっと整理したくて手近な屋内へというのは十分ありえそうです。
と。中からジョージ様が現れました。ジョージ様はあからさまに顔を歪めましたが、気にせず近づきました。
「天気が崩れそうなので、お声かけに来ました」
「なんでこんなところにいるんだよ」
「お声かけです。■■さんより仰せつかりまして」
「お前が?」
「はい」
ジョージ様は黙り込むと、脇に抱えたノートに少し触れました。そういえばノートです。スケッチブックではありません。手に持っているのもペン一本でした。
「戻るところだ。客人が動き回るな」
「すみません」
「いや、すみませんって……」
ジョージ様はほとほと僕にうんざりしたようでした。そのまま少し上向き気味になり、僕もつられて空を見ましたが、降り出しそうな天気に変化はありません。
「お前、名前は」
「トニー・J・J」
「トニー。事故で目を失くしたんだよな。失くしてよかったと思うか?」
「突飛なご質問ですけど」
「その喋り方はやめろ。僕とお前はなんの関係もないんだから」
ホストの家族にどうとかのたまっていたのはどの口だったか。辟易しましたが、これはまた意外な展開です。普通に喋れと言うことは、対等の立場で話そうと言う意味です。
前も使用人の控室を教えてくれました。擦れてしまっただけで、悪い人ではないようです。
「よかったとは思ってない」
と言って、ずっと町の片隅で明日をも知れない生活をするのも嫌でした。当時は嫌だと思う余裕もありませんでしたが、絶対に戻りたくありません。特に僕はほとんど仲間を作らなかったので、生き延びていたこと自体が幸運でした。
「巡り合わせだと思ってる」
これが一番的を射ていました。片目を支払って辿り着いた場所も結局地獄でしたが、少なくとも今は外から与えられる苦痛はありません。Eのことも外目には元気そうなので、僕が黙っていれば済むことです。それがとてつもなく苦しいということが喫緊の問題なのですが。
「僕もそう思えるときが来ればいいんだけどな」
思案に耽りかけた僕を、その声が引き戻しました。ジョージ様は忌々しそうに自分の半身を見やりました。
「今のところ最悪だ。せめて利き手じゃなければよかった。足ならよかった。目も……時間が経てば慣れたかもしれない」
お前はそうだろ、とばかりに僕に顔を向けました。憎しみが全身から滲んでいるようです。でもそれは、悪魔と言うより、まるで羽根を毟られ飛べなくなった天使が悲しんでいるような様にも見えました。もしお嬢様がこんな憂い目にあったら、旦那様はきっと発狂してしまうに違いありません。
「本当に最悪だ。僕だって好きでこんな家に生まれたんじゃないのに。挙句がこれだ」
「雨が降りそうだから、お屋敷に戻れって。兄貴が言ってるぞ」
話を遮られ、ジョージ様は顔を顰めました。
と。何か見定めようとするかのように、ジョージ様は急に僕の目を覗き込みました。
「口は堅いな」
「え」
「手、出せよ」
とりあえず差し出すと、小さなリングでまとめられた鍵束を載せられました。
「ゲストハウスの鍵だ。落ちてるのを拾ったって言え。絨毯の下だ」
一方的に言い、僕が何を言う間もなくジョージ様は歩き去ろうとします。補助を申し出ましたが突っぱねられました。
あの様子なら、お屋敷内に戻るのは少し時間がかかりそうです。それに、旦那様方のいる客間には行かないと見えます。
手のひらにかかる微かな重みと銀のにおい。鍵そのものが、じっと試すように僕を見つめ返してくるようでした
絨毯の下。明らかに何かを隠していて、その場所を教えられました。まるで僕に託すような形で。頭の奥で何かが鳴りました。肌が粟立つようでした。
動悸がして、頭痛がしました。わからない以上、最悪の前提で動くべき。これでどうにか生き抜いてきたのだから、間違いではない処世術のはず。頼りのその処世術が、勝手に頭の中でパズルを形成していきます。いや、その作業自体は、本当はとっくに完了していました。あとは僕がそれを認め、確信し、行動するだけです。でも、そうだとしたら? 僕が動けないのは、この疑問に行き当たるからなのです。今のこの状況は、どこまで計算されてのことなのでしょうか?
いいえ。最悪の想定をするなら、迷うことはありません。急ぐべきです。周りに誰もいないことを確認し、鍵を回しました。新しい木材の香りが漂う中、言われた通りに絨毯を捲ると、奥に取っ手があります。持ち上げるタイプの隠し扉です。一息に取っ手を掴み、地下へ続く階段に足をかけました。ジョージ様がここを進むのは、相当大変のはずです。そんな大変な思いをしてまで、ここに来る理由があるのです。念入りに頭上の扉を閉め、僕は壁伝いに階段を下りました。
階段を下りきると壁に当たりました。手探りしているうちにドアノブを見つけ、そっと回してみます。鍵はかかっておらず、そもそもついていないようでした。
陰気な地下階段とは打って変わり、小ぶりでお洒落な書斎と言ったような空間が広がっていました。窓なんてないはずなのに如何にもな間取りでカーテンがかかっており、例えば寝ている間に連れて来られたとしたら、地下だと気付かないでしょう。天井の照明は明るく、さりげなく客人をもてなすように輝いていました。
しかし僕は冷たい違和感を覚えました。僕だって一端の使用人です。机も椅子もベッドもわざとらしく本を詰め込まれた本棚さえ、一切の家具に使われた形跡がないことくらいわかります。どれもがお飾りのように置かれているだけなのです。
何かを隠そうとしているこの部屋。ここに来られる人は複数いるとしても、そのうちのごく数人だけが、この場所の本当の存在理由を知っているとでも言うような。
壁と同色のドアを見つけました。ここまで地上と見紛う部屋です。トイレかシャワールームか、だとすれば鍵がないのは変ですが、どうせこれもおためごかしの一環に決まっています。もしくは、ジョージ様が僕に託したものがこの先にあるのかもしれません。
意を決してドアを開いた途端、空気の変化に身が凍りつきました。あの地下階段から直接繋がっていると言われたほうがよっぽど納得できる、冷たい灰色の壁。牢という文字が頭に浮かびました。生活感がないとは言え、いや、生活感がないからこそ、背後の整えられた書斎がより一層不気味さを掻き立てました。が、ここで引き下がってはいられません。勇気を振り絞って半身を乗り出すと、声があげそうになって口を押さえました。ここはやはり牢なのです。理解すると同時に、自分の考えがほとんどすべて当たっていたことを確信しました。
狭い四角い空間の中央に据えられた椅子は、壁と同じく灰色の床と直接接合していました。その椅子の背で手を括られ、ぐったりと項垂れているのは、かつて仕えていたご主人様でした。立場をわきまえない気ままぶりで再三世間や関係者を騒がせ、ついには本当に消息を絶ったとされた、あの×××・Rです。
僕にとっては、この人は最早、奪ったその名以上の価値を持つ人でした。この人なら僕を肯定し、慰めて、認めてくれるはず。でもそれに縋ってしまったら、僕はもう今の生活に帰れない。そう思うごとに僕の中で大きくなっていった存在が嘘のように、オリバーさんは萎んでいました。
「オリバーさん、オリバーさん……!」
ここが隠し牢であることを踏まえても、大声を出すのは堪えました。結局予想は的中していたし、もう何が起こるかわかりません。小声で、でもしっかりと聞き取りやすいよう耳元で呼びかけながら、僕はオリバーさんの肩を揺すりました。
髪は乱れているし、肌も荒れています。よく見ると服はところどころ破れ、薄汚れていました。なんだか変なにおいもしました。きっと数日シャワーを浴びていないのです。
「しっかりしてください、何があったんですか。オリバーさんってば!」
揺すっても叩いても、首ががくがくと揺れるだけ。体温は感じますが、猶予はないのかもしれません。出せる限りで声を張り、頬を何度かはたくと、微かに肩が跳ねたのを感じました。
呻くような声とともに、オリバーさんは、ようやく顔を上げてくれました。じっとこちらを見つめる瞳は虚ろで、眼前の僕という存在を認識しているのかさえわかりません。それでもやがて、ゆっくりと顔が綻びました。
「久しいね。元気にしてたかい」
まず話ができたことで安堵しました。辛そうではありますが、思いのほか滑舌の良い、お館様らしい喋り方です。オリバーさんの以前の姿を知りませんが、雰囲気や物腰は最初からお館様に近かったのかもしれません。
会えて本当に嬉しいというような表情を、オリバーさんは変えませんでした。
「ここ以外と人間と会うのは久しぶりだ。今日はどうしたの? 背がちょっと伸びたかい」
「そんなの今はどうでもいいです。人を呼んで来ます。ここを出ましょう」
「いや、このままでいい。このまま話そう。これでも人間の扱いはしてもらってるんだ」
オリバーさんが投げた視線の先には、不自然に区切られた空間がありました。完全に仕切られているのではなく、奥に人が通れそうな隙間があります。そこから少し離れたところに、固そうな長方形の台が置かれてありました。
オリバーさんの姿に一生懸命になりすぎて、両方とも僕の視界には入っていませんでした。
「……人間の扱いをしてもらっているなら、縛られたりしないでしょう」
一応普通の会話ができていることで、僕も冷静さを取り戻すことができました。オリバーさんは軽く笑い、「囚人は拘束しないと」などとのたまいます。見た目よりは元気そうです。
せめて手足の拘束を解けないかと背後に回り込んでみましたが、使われているのは紐や縄ではなく目の細かい鎖でした。僅かな余裕を残して巻きつけられた上に錠で閉じられています。これなら身体の動きにくいジョージ様でも扱えますし、力ずくでどうにかすることは不可能です。
絶対に逃がさないという執念に、いっそ感嘆するほどでした。僕はオリバーさんから離れ、その場に腰を下ろしました。
オリバーさんからは逃げたいという意思を感じません。ジョージ様の意図を測りかねていることもあり、オリバーさんの言う通り、一度このまま話してみようと思ったのです。
「で、どうしてここに? ひとりではないだろう」
「旦那様のお付きです。兄上様が身体に不自由のある子が通える学校を作りたいとのことで、旦那様もそれは考えたことがあったようですから」
「納得した。そういう話なら、連れてくるならEより君だ」
「Eの話はやめてください。虫唾が走る」
本当のことでした。僕はオリバーさんに焦がれてきましたが、Eのこととは話が別です。我ながら矛盾した感情ですが、どうにもできません。
少しの沈黙を挟み、オリバーさんは再び口を開きました。
「ここに来られるのは、限られた人間だけのはずだが」
「ジョージ様に鍵を渡されたんです。口は堅いだろって言われて」
「そう。あの子がね。ふうん」
口調とは違い、どこか腑に落ちたような表情です。何か考えているような様子だったので、後を待つことにします。
「お付きってことは、話は聞いてた?」
「すぐ近くで聞いていたわけではないですけど」
「十分だ。身体に不自由のある子のための学校を作ろうなんて、本心で言いそうな人間だったかい」
■■さんを思い浮かべました。長身ときつめの目元にどきりとしましたが、話してみると、まったく棘のある方ではありませんでした。
いずれ大組織の当主になる立場にありながら、不慮の事故に遭い身体の自由を失って捻じくれてしまった弟のために、学校の創立を思い立つ。世の女性がすぐにでも恋に落ちそうな要素の揃った男性です。が。
「お金持ちにろくな人はいないと思っています。旦那様が異質なだけで」
「偏見だね。だが君らしいと思う。やっぱり私は君を尊敬するよ」
「あの人の狙いはこれなんでしょうか」
オリバーさんの称賛を受け流し、その首元を見つめながら、僕は続けました。
「旦那様は利用されたんですよね。もともと僕をこのお屋敷に、そしてこの場所に来させて、貴方と会わせることが目的だったんでしょう。旦那様と知り合ったパーティーだって、あのお方ならどうとでもできるでしょうから」
「そうだねえ」
少しは驚くかと思いました。
僕の僅かな反応を見逃さず、オリバーさんは微笑みました。本当に僕との会話を楽しんでいるようです。
「兄弟だからね。兄がどんな人間なのか、少しはわかるつもりだ。奥さんにだけは驚いてるけどね。もちろんいいところのご令嬢ではあるが、私の知っている兄なら絶対に選ばない。実際、かなり強引な結婚だったし」
まあそれはいい、と一拍置いてから、オリバーさんは窮屈そうに姿勢を直しました。
「君は罠だと知ってここに来たわけだ。それはどうして?」
「確信したのは途中からです」
「ここが私の生家だというのはいつわかったの?」
「ほとんど最初から。貴方がとんでもない資産家の――それも土地とか建設とか、そういう類の企業の実権を持つご子息であることは、初めてお会いした日からわかっていたので。ちゃんとわかったのは別れた後ですけど」
せめて社名に名前が含まれていれば、もっと早く気付いていたと思います。家がそこそこ金持ちだなんて言っていましたが、実際にはいくつお屋敷を買っても余るほどにお金があるから、オリバーさんのような放蕩息子でも非現実的な金額を自由にできたのでしょう。
後はじっと立っていればわかることです。わざと僕を声の届く位置に置き、旦那様との会話を聞かせればいいだけ。その内容を、勝手に僕が結びつけていきます。件のパーティーも、資産家同士の交流とでも言いましょうか、旦那様の人となりを探った上で参加するのは難しくなさそうです。そうすれば、僕を連れてくるように誘導できます。
もうひとつ大事なのはタイミングです。×××・Rが失踪したこと、けれどなり替わりがバレていないこと、僕が家を訪ねてしまったこと、その家が壊されようとしていること。■■さんの狙いが最初から僕だとするなら、お膳立ては完璧です。オリバーさんが×××・Rを騙っていることを突き止める過程で、周辺も洗われたでしょう。本物の×××・Rの行方、Eの状態、僕のこと。僕が心底オリバーさんに肯定してもらいたがっていたことすら、例のノートを読めば想像できます。
そう。そこまでは筋が通るし、ある程度飲み込めています。問題はそこではないのです。僕が疑ったままでいるのは――
急にオリバーさんは噴き出しました。前にもこんなことがあった気がします。ごめんね、と言いながらもオリバーさんは笑いを堪えていました。
「あの兄が、まさか君みたいな可愛い男の子に喰われるなんてね。想像したら可笑しくて」
「どういうことです」
「簡単なことさ。兄は確かに君に私を発見させようとしたんだろう。それは狙い通りだ。でも私がいるかもしれないと思っている状態で、しかもそうさせようとしているかもしれないと疑っているとは、兄にとっては誤算だったんじゃないかな」
ジョージ様にお声かけを頼まれたときのことです。天気が崩れそうだったから口実にしただけで、適当な理由をつけて僕にジョージ様を探しに行かせる算段だったのでしょう。ところが既にお屋敷内にオリバーさんの存在を疑っており、しかも接触させようとしていることを疑っていた僕は、間抜けにも「いいんですか?」などと訊き返してしまったのです。あれは僕が■■さんに対して思惑を見抜いていると宣告したようなものです。そうは言ってもすべては最悪の条件を過程した場合の話であり、この時点で言い切れることなんてなかったのですが。
「そうなると、その手には乗らないという選択肢が出てくる。友達思いな君はちゃんとジョージを探しに出てくれたわけだが」
「待ってください。友達思いとはなんですか」
「あれ、違った?」
からかわれている気がしました。睨んでみますが、オリバーさんは楽しそうにするだけでした。
「とにかく、立場的には君が兄に従うのは当然だからね。結果としては思惑通りに落ち着いた。だが、綺麗に計画通りとはいかなかった。それだけで私にとっては愉快なものだ。どこかでしくじればいいと思ってたんだよ、いっそジョージが君に鍵を渡さないとかね」
「やっぱりジョージ様も利用されていたんですか」
「そりゃそうさ。君に鍵を渡したくなるように、得意の誘導で仕向けてたんだろう。まったく恐ろしい男だね」
僕が黙ってしまったのは、突っ込み待ちのようなオリバーさんの発言に戸惑ったからではありません。
ジョージ様を計画に含めるということは、最悪の前提を据えなければなりません。何度も行き着きかけ、さすがにないはずと否定してきた答えです。僕の頭の中のそれが見えたかのように、オリバーさんは言いました。
「あの子があんな身体になったのは、兄が仕組んだことじゃないよ」
唐突に我に返りました。
「あれはなかなか重篤な後遺症だ。ああなるのを狙うのは至難の業じゃないか。少し間違えれば死ぬかもしれない」
「どうでしょうね」
短く返され、オリバーさんは苦笑気味でした。財力も権力もお約束のアングラな世界も、自分で思うところがあるのでしょう。曖昧に視線を漂わせ、再び姿勢を調整します。
「例の学校を作る口実にしたいだけなら、手でも足でも切り落としたほうがよっぽど簡単だし手間もかからないと思わないかい? 性格のこともそうだ。ひねくれさせたいなら尚更、手を完全に潰せばばよかった」
「敢えて希望を残すことで、より追い詰めたかったのかもしれません。弟さんは絵が好きだったんでしょう」
「信じてもらえないか。まあそれもいい。この時代の金持ちのことだ」
ふと逸らされた視線に、突如僕は、雷に打たれたかのような衝撃を受けました。僕を見ていないその双眸には色も光もなく、諦念めいたものが見えたからです。ここに来て尚僕に笑顔を向け、なりとは裏腹に元気じゃないかと安心しましたが、もしかするとそうではないのかもしれません。
子どもの僕を不安にさせないように、平気そうに振る舞っているだけなのか? そんな善良な普通の大人みたいなこと、この人がするだろうか? 疑問が沸き上がりましたが、注意して顔色を窺うと、決して血色が良いとは言えません。あまりゆっくりしていられないようです。
立ち上がり、再度オリバーさんの背後に回りました。なんとかできないかといろいろやってみましたが、堅い拘束はやはりどうにもなりませんでした。
「人を呼んできますから。すぐ戻るから待っててください」
「待つも何も自分じゃ動けないけど」
「言葉のアヤです。元気なのかしんどいのかどっちなんですか」
「元気ではないし、しんどくないと言ったら嘘になる。だがやめてくれ。私は私の意思でここにいるんだ」
「……どういうことです?」
そのままでいいから聞いてくれと言うので、とりあえず聞くことにしました。オリバーさんは浅く息を吐きました。なんだか意識朦朧といったような、ぼんやりした口調でした。
「弟は私と違うんだ。私と違って、家に使われることに納得してた。賢い子でね」
「はい」
「私が親とも兄とも話が通じない様子を見て、こうはならまいと思ったんだろう。だから適度に現実から離れて、上手く付き合うことを知っていた。でも、それでも、弟は私に一番懐いてくれた。可愛いだろう?」
■■さんの話では、兄弟でも年が離れすぎて、一番一緒にいることが多かったのが三男のオリバーさんだということでした。そのため兄弟間で一番結びつきが強かったという所見でしたが、オリバーさんの話によると、ジョージ様がオリバーさんを特に慕っていた理由はそれだけではない気がします。
■■さんも気付いていたでしょう。今更あの人を出し抜けるとは思えませんし、一応同じ家で暮らし、同じ血の流れる兄弟ならわかりそうなことです。
「あの子には、随分辛い思いをさせたみたいだ」
「僕はてっきり、貴方は可哀想な子が病的にお好みとばかり思っていましたが」
「そこは私も最低な金持ちということで片付けて欲しいところだね。家族に――というか、弟に対しては違ったらしい」
身勝手な奴。底黒い感情が、全身の内側で急速に沸騰しました。
追い詰められていたのがEではなくジョージ様だったら、オリバーさんは助けたのでしょうか。考えるまでもなく助けたのでしょう。
壁に向けられた焦点の定まらない視線が頭を掠めました。
年の離れた弟に対してだけは、この人も普通の人間になるということなのでしょうか。
「それに言っただろう。私は兄がしくじればいいと思ってる」
オリバーさんは、僕の頭の中など知る由もありません。
「君が私を外に出すことが兄の狙いなら、ずっとここにいてやろうと思ってるよ。ちょっとした拷問ごっこみたいなことはあるが、私が知っているようなものじゃない。しばらく経つのに爪の一枚すら剥がされない。明らかに私が外で作家活動を再開することを考慮してると思う」
「もう作家として活動はしないということですか?」
「もともと私は作家じゃないさ。関係者の皆さんには悪いことをししてしまったが」
その悪いことというのが×××・Rの名を騙ったことなのか、数々の予定や約束を反故にしたことなのか、僕にはわかりかねました。別にどうでもいいことのように思えました。
オリバーさんは、兄の目論見失敗を願う以上に、弟と話せることを理由にここに留まろうとしています。それを尊重したわけではありません。が、僕の中で何か噛み合い、強烈な音を立てました。そしてそれは、あの日以降、自分勝手にもずっと心にかかっていたしつこい霞みを、一気に吹き飛ばしたのです。
腹の空気をすべて吐き出すほど、長く息をつきました。オリバーさんが何か言いかけましたが、掻き消すように座りました。腰を下ろしたというより、落としたというほうが正しかったと思います。
オリバーさんは一瞬驚いたようですが、すぐに目を細めました。この人のことですから、僕が何をしようとしているか、簡単に目途がついたのでしょう。
オリバーさんがいなくなったとニュースで知ったとき、僕は報いを受けたのだと思っていました。彼の生家が果てしない資産をもとに強大な権力を持つことはわかっていましたし、今の時代のお金持ちは、例え表では慈善事業だの寄付だのと世間に働きかけていても、腹の底では下の身分の者には何をしてもよいとふんぞり返っているお貴族様ばかりです。オリバーさんの正常な大人とは言い難い経歴も、元来の人格はともかくとして、幼い頃から後ろ暗い世界に浸ってきた環境に少なからず影響されてのものでしょう。
そのオリバーさんが、余裕ぶって笑顔を見せたり、弟に対して普通の感情を垣間見せたり、しかも「らしい」と自分でも知らなかったかのような言い方をしたり。更にそこに満足し、盤を仕掛けたマスターの邪魔もできる。一定の自由と引き換えたとは言え、ここまで望みが叶っている状態は、果たして報いと呼べるのでしょうか。
僕にはそうは思えません。それなら僕の報いは、オリバーさんは報いなど受けていなかったという事実を思い知ることに他ならないでしょう。
やってきたことも考えてきたことも今日までの表面上穏やかな生活も、すべて無駄な気がしました。■■さんが最終的にはオリバーさんを元の生活に戻すつもりなら、つまるところは狂言に過ぎません。僕に一手を投じさせようとしたというより、僕ならオリバーさんを助けようとすると踏んだのでしょうが、その先の目的は不明です。こんな異常な状態、誰だって放置しようとはしないはずです。僕はもう疲れてしまいました。何も考えたくありませんでした。
「私と一緒にここにいるつもりかい」
俯いた僕に、優しい声が降ってきました。
僕がここから動かないと主張したところで、本当にこのままここにいられるわけがありません。それでもオリバーさんは、僕のその感情を受け入れてくれるはずです。
「それはいい。ジョージもよくここに来るから、よければ話し相手になってやってくれ。歓迎するよ」
と、言いたいところだが。
手が自由なら人差し指を立てたような雰囲気で、オリバーさんはそう続けました。顔を上げると、オリバーさんは僕の目を見てにっこり笑いました。その様だけを切り取ると、他人のすべてではなく欲しい部分だけを抜粋し、違和感なくなり替わってみせたあのオリバーさんでした。
「その前に、ちょっとお使いを頼まれてくれないかな。私が住んでた家はわかるだろう」
「それはわかりますけど」
オリバーさんの家が壊されそうになっていたのはただのポーズであり、なんの心配もないことはわかっています。ですが、■■さんがこの件に関わるすべての人格を操っているわけではないでしょうし、計画の全貌を明かしたり残したりもしないでしょう。情報の揃っている今では、家がなくなろうとしていることだけは本当で、こっそり阻止しているというのが実際のところでしょうか。事情を教えてくれた男性ふたりからも、僕を騙そうなどという気配は少しも感じませんでした。
「表向きには壊されかかってるわけですし、関係者でもない僕が入れませんよ。どうしろと言うんです」
「君が私の家を見たのはいつのことだい。あんな小さい家、建て替えでも作り替えでもその気があればさっさとやるさ。作業延期になっている状態なら、わざわざそこに人を置いたりもしない。鍵を裏の鉢の下に隠してあるんだ」
「えっ」
それは自分も出かけなければならないのに、同居人が鍵を忘れて出て行ったことに気付いたときの配慮です。オリバーさんにもパートナーがいたということでしょうか?
オリバーさんは不満げに眉根を寄せました。
「そんなに驚くことかな。私だって一応大人の男なんだが」
「あ、いえ……でも、それなら」
「冗談だよ。さすがにあの家でふたりは厳しい。君は一瞬でいろんなことを考えるね」
今度は僕が顔を顰めました。確かに一瞬でいろんなことを考えました。先にそのパートナーがいなくなり、オリバーさんがそれを隠していたとしたら、オリバーさん自身の失踪の発覚も遅れるのは当然だとか。じゃあどうして隠していたのかとか。それは必要な予測であり、意味のない妄想ではありません。
僕が余程不機嫌そうに見えたのか、オリバーさんはもう一度「ごめんね」と言いました。楽しそうでしたが。
「この家の息子だからね。一応私も、少しは考えるんだよ」
空間越しに屋敷全体を見渡すように首を動かします。やがて話の続きとばかりに僕に向き直りました。
「その鍵を使って、ノートを持ってきてくれ。君が書いて、私が拾ったものだ」
目を見開きました。しかしオリバーさんは、そのノートが家のどこにあるかを呑気に説明し始めます。なんの変哲もないところに保管してあるようです。
「やっぱりあれは気になるからね。こんなことになるなら、君が望む通り焼き捨てておけばよかった」
「ずっとここにいるつもりなら、貴方にはもう必要ないでしょう。それに、白昼堂々、鍵があるとは言え誰も住んでいない家に侵入なんてできません」
「そうかい? 前はなんでもしてたんだろう? それくらいはお手のものかと思ったが」
右手に目をやりました。人の持ち物を気付かれず奪うという工程がないのは楽です。入った先に人目がないとわかっていることも。
すべて生きるために仕方なくやってきたことです。僕はもう、生きることそのものを投げ出そうとしているのに。
「僕だって必要ないです。それに■■さんがもう知ってるじゃないですか」
「兄の口なら問題ないさ。私が言っているのはそれ以外だ。何かの手違いで誰か別の人に読まれたら困るだろう。あれが意味のない代物なのは、私が確かに存在した上でのことなんだから」
オリバーさんはEの名前を出しませんでした。僕が言ったことをちゃんと守ってくれています。変なところで誠実です。となると僕も、そっぽを向いてばかりいるのは不誠実です。
「頼まれておくれよ。それで、また後で会おう」
もう立つしかありません。痺れかかった足を持ち上げ、オリバーさんに見送られながら、僕は隠し牢を出ました。
応接間に戻り、落ちていた鍵を拾ったのだと■■さんに手渡しました。■■さんは快活に「ありがとう」と受け取ってくださいました。深いことなんて何も考えていないようにも、希望が叶い満足しているようにも見えました。
後日、お休みの日にオリバーさんの家に向かいました。オリバーさんが言った通り、作業延期になっている家に注意を向ける人間はいません。職人が手をつけた形跡もなく、延期というより保留として扱われている様子です。
難なく鍵を回し、指定された場所を探りました。件のノートを鞄に入れ、何事もない顔をして外に出て、鍵を元の位置に戻します。これでやっと決心がつきました。
当駅限定のジュースをふたつ買い、ひとつを開けました。これは使用人同士の秘密です。お嬢様には内緒にしておきます。
電車に揺られる時間が、なんだか妙に長く感じました。
後半
フルーツたっぷりのケーキを崩さないように、僕はそっと箱を掲げて歩いていました。お屋敷一同からとしてくれとジェイが凄まじい素早さで作ってくれたものです。僕を探していたらしく厨房に現れた旦那様は、ジェイのそれを見て、封筒に入れたお見舞い品用のお金を引っ込めました。
失踪していた×××・Rが、□□社総帥たるテイラー家屋敷の地下に監禁されていたことは、当日のうちに号外として街中を駆け巡りました。新聞に好き勝手な見出しが跳ね、□□社のトップ及び幹部は吊し上げられ、関係各所が巻き込まれまたニュースになり――といったことが繰り返され、ようやく少し落ち着く頃には二週間が経っていました。関係者のみオリバーさんのお見舞いに出向けるようになり、僕は第一発見者であり、かつての使用人であることから管轄の方に許可をいただけました。
ノックをして個室の扉を滑らせました。病院着の上に白い固定具を巻いたオリバーさんは、半身を起こして新聞を読んでいるところでした。僕に気付いて新聞を置きます。
「ああ、トニー」
見た目よりも元気そうだったと素直に話すと、警察の方はメモの手を止めて唖然としていました。最低限の食事こそ与えられていたものの、暴行を受け、オリバーさんの肋骨は複数損傷していたそうです。酷い痛みでその最低限の食事も摂れなくなっていたので、栄養状態も悪くなっていたとか。
爪一枚剥がされないのがどうとか言っていたのは、目に見える部分を強調して、健康体であると主張したかっただけでしょう。僕を不用意に心配させないために。
「お屋敷からです。シェフ手作りですよ」
「気を遣わせるね」
「そうですね。旦那様にとっては、貴方は今でも僕とEにとっての憎い対象ですから」
ケーキは既に切り分けられており、個別のお皿とフォークとついでに紅茶も持たせてもらっています。正式な給仕の工程など当然すっ飛ばし、勝手に2人分のお茶の準備を終わらせました。
今日もジェイは非番のはずでした。ずっと思っていたお金持ちの像とはあまりにかけ離れた旦那様の人柄に、胸がじわりと軋みます。
「いただいていいかな」
「そのために準備したんですけど」
痛み止めで本当に安定した容態であることは聞いていました。
オリバーさんは丁寧に両手を合わせ、フォークに挿したひとかけらを口に運びました。この上品な所作。内情はどうあれお金持ちの中のお金持ちです。なのに、海に沈んでいる本物の×××・Rなら決してしないであろう感謝の情が滲んでいます。最悪な人とは思っていましたが、少し蓋を開けて覗いた今は、もっと最悪な人だと知っているのに。
いや。今それを考えても仕方ありません。気を取り直して僕もおやつタイムにします。紅茶は香りよくケーキは甘さ控えめで、ざく切りの果物が歯ごたえばっちりです。
新聞はここに来る前に見てきましたが、目の前にあると内容を反芻してしまいます。
×××・Rを監禁したのは、まさに□□社総帥の**・テイラー氏。数年前から三男が行方知れずとなっていることに心労を重ねていたが、そもそもそうなった原因は、作家×××・Rのせいだと思い込む。三男は同作家の熱烈なファンであり、度々弟子入りを志願していた。×××・Rに受け入れられなかった三男はそれでも小説を書いていたが、やがて行方を眩ませた。
一方×××・Rは相変わらず売れっ子作家として名を馳せ、扱うジャンルの幅を広げ、新作の宣伝を兼ねてメディアに登場することさえあった。テイラー氏にはそれが許せなかったのだろうか――。
雑な逆恨みの構想は、テイラー氏が一大組織のトップに君臨する人物であること、巨額の資産家故に一般的な家庭生活を育めなかったことなどのストレスやプレッシャーに重点を置き、かなり太く肉付けされていました。新聞のもっともらしい文章に加え、慎ましく暮らす一般人にとっては、天と地ほどに開きのある日常のことです。大衆向けの事実としては十分な気がしました。
「そうか、わかった」。詰めかける報道陣が何人もの警察に大声でけん制される中、それでもフラッシュの光を無数に浴びながら、テイラー氏は静かに言ったそうです。そしてこう続けました。「責任は私が取る」。
関与したとして□□社員の何人かが一緒に逮捕されましたが、その人たちの顔と名前は伏せられていました。その数日後、今度は、吊し上げられた幹部の一人である■■さんが□□社の総帥となったというニュースが世間を駆け巡りました。
開かれた異例の記者会見で、■■さんは神妙な顔をして、家族、ひいては社員の不祥事、この度の件はと頭を下げていました。今後は社のクリーン化と共に、被害を与えてしまった×××・R氏に対して誠心誠意謝罪をし、関係各所の皆々様にも賠償を云々とそれらしく語り、記者たちの無礼で無遠慮な質疑にも粛々と応じていました。
聞き取りにくいラジオでの中継を、僕も聞いていました。その中で「あの隠し牢はもう埋めた」と言い切っていました。屋敷内も社内も携わった土地建造物すべて、実父であるテイラー氏の暗い意図を一掃して信頼を取り戻すことに全力を挙げる、と。
想像するだけで暗澹たる気分でした。莫大な金額を動かせる人は、莫大な金額を動かせる故に、真っ当でないことができてしまうのです。
すべての黒幕は■■さんです。テイラー氏は息子に嵌められた可哀想な父親ということになります。ここまでの例を見るに、牢獄にいようが地獄にいようが、いくらでも状況を転がせそうではあります。名前にそれだけの力を持ちながらも、意味ありげに処遇を司法にお任せしているということは。
フォークを咥えながら、オリバーさんもじっと新聞を見つめていました。何やら考え込んでいる顔です。ここにジェイがいたら酷いショックを受けたことでしょう。
「■■さんには引き継がれなかったということですか。□□社もテイラー家の家督も」
オリバーさんは何事もなかったかのように残り僅かなケーキを突き、紅茶で麗しく喉を潤しています。
そのまま喋れの意味と捉えました。僕の考え至ることなんてとっくに想像がついているのでしょうが、遠慮なく喋らせてもらうことにします。
「何もしなくても、順調にいけば、いつかは長男の■■さんの手に渡るはずです。何らかの理由でその可能性がなくなったから、もしくは限りなく低いから、力ずくで家も社も奪い取ったのでは」
「何らかの理由というのは」
「例えば結婚とか」
■■さんの結婚はかなり強引だったと、隠し牢でオリバーさんは話していました。兄弟として少しは人格を知っているつもりだが、奥さんのことだけはわからないのだと。
■■さんが連れて来たのは、■■さんの父親からすれば、あまりに不相応な女性だった。ついには押し切られてしまったので、一線を退くときにお前には何も残さないと宣言した。■■さんと父親の事情を想像するならそんなところです。お金持ちの家庭なら、さもありそうなことだと思います。
弟の身体もオリバーさんのことも僕やEに至るまで、使える力を最大限使って父親と対峙する中、ちょうどよく見つけた素材だっただけなのかもしれません。特にオリバーさんの現状はインパクトがありますから、話を大きくして世間を惹きつけるにはこれ以上ない餌です。しかも凶行の動機を行方不明の三男に紐づけ、一般人とは違うセレブの苦悩と合わせて悲劇性を増し、同情まで誘っています。それこそ小説のような、薄気味悪いほど小奇麗にまとまった話ではありませんか。
しかしそう仮定しても、まだわからないことがあります。
「ご兄弟三人ならわかるんです。■■さんには何も渡さないとして、オリバーさんは家も名前も放棄しています。後に残るのはジョージ様ですが、あのお身体ですし、そうじゃなくても僕と同じ13歳ですから」
例え名目上だけでもすべてが継承されるとしたら、その管理は別の大人が与ることになるはずです。直系ではない近い血筋の誰かがということになるでしょうか。お世辞にも折り目正しい一族とは言えませんし、今回のこの件自体テイラー家の壮大なお家騒動のようなものですが、それはそれとして。
オリバーさんの二番目のお兄さんは、■■さんと同様、幹部社員としても家族としても批判を浴びました。長男がダメなら次男へという考えは、持つ者ならあって然りです。
後を継げない長男は家を追われる、というような過激な掟があったとすればまた違う話になりますが、そんな噂は聞こえません。■■さんには、結婚は強行したとしても、事業とお屋敷を継いだ弟をサポートするという選択肢もあったのではないかと思うのです。
――こんな家ですから表沙汰には言えませんが、どこかで元気にやっているならそれで十分。
父親を力技で引きずり落とし、非難の矢面とともに組織の頂点に立った。その行為自体が、行方がわからないことになっているオリバーさんに対しての発言と矛盾するように感じます。
「別にいいじゃないか、彼のことは」
ケーキのお皿と紅茶のカップを空にして、オリバーさんは、食べ始めと同じように両手を合わせました。
僕のケーキはまだ残っています。僕の耳の奥で、兄と呼ばず彼と呼んだところが繰り返されました。
実の兄が仕組んだ筋書きで父親が逮捕されたのをなんとも思わないのか、そんなことをオリバーさんに問うても無意味です。常識や一般論が通じる家族ではありません。そうではなくても、家族だからと言ってお互いを思いやるかどうかなんてわからないのです。少なくとも、Eの家族は酷い人たちだったのですから。
「どうせ考えたって仕方ないことだからね。確認もできないし。それより君の話をしよう」
最後の一口を飲み込み、ふと窓に目をやりました。すっかり夕焼け模様、面会時間は直に終了です。
じくじくと胸が痛みます。僕は結局この痛みから解放されませんでした。自分の判断が正しかったのかどうかわかりません。それがどちらだったとしても、この人に肯定して欲しいと思っています。
君の話、とオリバーさんは言いました。僕の話。そう聞いてまず頭に浮かぶのは、やはりあのノートです。隠し牢でオリバーさんが僕に頼んだもの。あれがただの創作と見做されるのは、×××・Rがきちんと存在してこそ。それが揺らいでいる今、放置しておくのは気になるからという理由でした。
ノートを見つけて咄嗟に手に取った一瞬、息をするのを忘れていました。あの日は晴天、■■さんのお屋敷を訪ねた翌日でした。誰が入ってくる心配もない、だけど誰かが入ってくるかもしれない――そんな不安を抱えながらも、なりふり構わず僕は座り込み、ノートの全面に指を滑らせました。とても信じられない思いでページを繰り、敷き詰められた文字をなぞります。さすがに句読点一字まで記憶に残っているわけではありませんが、書かれた文章は間違いなく僕のものです。ですがそれらを綴る文字ひとつひとつは、僕のものではありませんでした。
お屋敷で支給されたのは、ありふれた普通のノートです。そんな普通のノートがビニール越しとは言え海に浸かったのですから、表紙も中身もまっすぐに張った紙の状態であるはずがありません。丁寧に乾かしたとしても同じことです。最初に感じ取った違和感は、掴んだノートがあまりにも滑らかな手触りであることに起因していました。
自室に持ち帰ったそれにざっと目を通しました。お館様の名前をそのままに、僕とEの名前は変えて、おそらくオリバーさんの筆跡で、内容そのまま転写されていました。
――薄気味悪い小説を読んでしまった、それくらいの認識で構いません。
――私がこうして存在している以上、創作の域を出ない。
前者が僕の書いた文章であり、後者がそれを読んだオリバーさんの言葉です。今やその両方がオリバーさんの意思となっているのです。
一年前の自分が望んだ通り、証拠はとっくになくなっていました。
「一応言っておくが、私は本当にあそこから出るつもりはなかったんだよ」
空になったお皿とカップを、オリバーさんが片づけています。あまりにも自然な手つきなので、それが僕の役割であることを失念していました。こういうところもお金持ちらしくありません。
「持ってきてくれ、と言っただろう?」
「君が書いて私が拾ったもの、と言ってたように思いますけど」
「叙述トリックみたいなものじゃないか。君が書いた文章を私が拾ったもの。そっちの意味かと読者を騙す、ミステリーの常套手段だ」
おどけているのか本気なのかわかりません。
妙な沈黙の後、オリバーさんは軽く咳をしました。
「さすがに屁理屈か。トリックと言うより言葉が足りないだけだったかな」
「本物はどうしたんです」
「とっくに燃やした。君に会ったあの日に写してね」
「お守りと言っていました。僕が貴方の本名を知っていることに対しての」
「何度も話した通り、私が存在する以上、あれに書かれていることは創作の域を出ないんだ。もしあれが真実だと主張するなら、私が本当は誰で、なぜこの顔をしてるのか説明する必要がある。もちろん本物の×××・Rの所在もね。だいたい私は既にこの顔と名前でかなり利益を得てるから、その時点で有利に使える機会なんてあるわけないさ」
万が一、と続けかけたのを止めました。ずず、乾いた軽い音がしました。オリバーさんが重ねたカップとお皿を端に寄せた音です。
「そんなことが聞きたいんじゃないです」
細い指先は綺麗なままです。もう作家として活動する気はないようなことを言っていましたが、今はどうなのでしょう。いや、聞きたいのはそんなことではありません。オリバーさんが言おうとしていることはわかっているのですから。
あのノートがなくなったことで、僕の罪は事実上暴かれようがなくなりました。それどころか、僕がもし妙な気を起こして、今の×××・Rが本人ではないと触れ回ったとしたら、オリバーさんが×××・Rを殺した上で成りすましたとされるでしょう。さらに本物の×××・Rがしたこともオリバーさんのものになります。海から遺体の一部が上がらなければ動かない話なのかもしれませんが、勝手に出てくるのと探して見つけるのとは違います。
もちろん僕は×××・Rが無実の被害者とされるなんて許せません。お館様がいなければ、Eはあんなふうにならなかったのです。が、もしお館様がいなければ、Eはどうなったかわかりませんが、僕はEとは出会えていませんでした。
「ないものを持って来いと言ったのは、どうしてなんです」
ノートを確認したとき、いろいろなことが頭を埋め尽くしました。考えて推測して、繋がることも繋がらないこともありました。その中でも一際疑問だったのがそれでした。
「自分がいれば創作の域を出ないと貴方は言っていました。でも名前を変えて書き写して、自分がいようといまいと本当にただの創作じゃないですか。あれではまるで」
「もう自分と関わる必要はないと思わせて、置き捨てさせようとしたみたいだ」
僕の言葉をまるごとオリバーさんが引き取りました。顔を上げると目が合いました。オリバーさんは笑って見せました。
「だから言っただろう。私があそこを出るつもりはなかったのは本当なんだよ」
「出てるじゃないですか」
「拒否する体力もなかった。君が戻って来なかったら、めでたく兄の計画を邪魔できたものなんだがね」
やはり冗談なのか本当なのかわかりません。一瞬何も言えなくなりましたが、まだ聞けていないことがあります。
「じゃあ……どうしてあんなものを書いたんですか」
あの瞬間、オリバーさんに聞きたいと思ったことは山ほどあります。ないものを持って来いと言った理由が判明した今、次に解明したいのは、ノートの署名を変えて本当にただの創作にしてしまった理由でした。あのノートは希望に沿って焼却してくれたとしても、別の形で残しておく理由がまったくわからないのです。
鉢の下に隠した鍵とはわけが違います。僕が従わなかっただけで、オリバーさんは、自分が助かる道を放棄するために改変したノートを使ったのですから。
「そうだねえ。なんというかな」
オリバーさんは少し目線を下げた後、やはりこれしかないとでも言わんばかりに手を打ちました。
「そうしたいと思ったから」
「……」
なんの答えにもなっていません。口を噤む僕に、オリバーさんは重ねて言いました。
「そう驚くことかい。私は自分がそうしたいと思ったところだけを抜き取って、他人になり替わるような男だと知ってるじゃないか」
「知っては……いますけど」
膝の上で、思わず両手をぎゅっと握りました。この人は自分が何を言っているのかわからないのかと、本気で疑いました。
あのノートを隠滅するだけなら、多少まずい事態に陥ったとしても無関係を装うことができます。だけどわざわざ名前を変えて新しい証拠を作ってしまったら、限りなく低い可能性ですべてが明るみに出ようというときが訪れた場合、自分が犯した罪以上の罪を被ることになるのです。
やはり一般的な感覚ではありません。その選択肢があること自体がどうかしています。
「じゃあ、次は私から質問していいかい」
じくりと胸が疼きました。いよいよです。僕はもうそれを認めているのに、この期に及んで口にするのが怖かったのです。だから、オリバーさんが聞いてくれるのを待っていたのかと問われれば、否定はできません。
「あの優しい旦那様に、君は全部を話してしまったってことでいいのかな」
ノートを回収した日の夜遅く。無礼を承知で旦那様の書斎を訪ねました。旦那様は不思議がりながらも迎え入れてくださり、お仕事中の机を離れてココアを入れてくださいました。ココアはお嬢様の大好物でもありました。
決心はしていたつもりでしたが、いざとなると声が潰れてしまったように出ませんでした。弱い僕はここでも逃げたくなりましたが、もうそんなことは言っていられません。緊張で感覚がなくなりかけている両手をココアのカップで温めながら、喉をぎゅっと絞る思いで告白しました。
現在行方知れずとなっている×××・Rは偽物で、闇医者の違法手術で他人がなり替わったまったくの別人であること。本物の×××・RはEが昔の家から持ってきていたナイフで殺されており、その隠蔽を僕が提案したこと。E自身はしたこともされたことも覚えておらず、記憶がどう繋がっているのかはともかく、ただ僕についてきたと思っていること。最初は信じてもらえませんでしたが、僕がお館様を疑うことになったきっかけやオリバーさんが目撃していたこと、殺人に至った経緯を細かく話しているうちに、旦那様の綺麗な緑色の双眸が大きく開いていきました。カップの角度も添えられた手も絵画のように動かなくなり、ぽつぽつと挟まれていた相槌も一切消え失せていました。
カーテンの向こうでは、満月に近い形の月が煌々と輝いていました。薄く見える月だけが止まった時間の中で浮き出しているようでした。
何があったとは言わず、変な雰囲気の地下室を見つけたとだけ言えばよかったのかもしれません。それだけで旦那様は然るべき対処をしてくださったことでしょう。でも、あまりにずるい気がしました。オリバーさんだけが知っている僕の弱味はもう無意味なものになっているのに、僕だけはオリバーさんの弱味を握ったまま、ひとりだけ武器を持って逃げ遂せようとしているみたいで。
それにもう、これ以上秘密を抱えていたくありませんでした。
旦那様は恩人です。身寄りのない僕とEを気にかけ、使用人以上の扱いをしてくださいます。お嬢様もジェイも、僕が初めて出会えた大切にしたいと思う人たちです。僕の勝手な思惑で振り回していい人たちではありません。
「別にいいんだ。厳密に約束してたわけでもないし」
記憶の映像が途切れました。
「君がひとりでここに来た時点で予想できたことだしね。そうじゃないなら、まともな大人なら二人にしようとは思わない」
「本当はついて来たかったみたいです」
オリバーさんのお見舞いに行きたいと申し出た僕に、やはり旦那様は怪訝な顔をしました。
今この病室は縁のある人しか訪問できないことになっています。なら自分はどうなのかと、旦那様は真面目に考え込んでいました。お嬢様とジェイは、僕とEの詳しい事情を知りません。なので心配性だと笑っていましたが、もちろん意味するところは事実とはかけ離れています。
Eには最初から留守番を促しておきました。このときもEは「わかった」とだけ言うと、すぐに自分の仕事に戻っていきました。
「少なくとも、君のかつてのご主人様のようなことはしないと信用してくれたわけだ。ありがたい話だよ」
「狂った奴だとは思ってます」
「しかしよく信じてくれたねえ。こうしてふたりで話していられるということは、君の今のご主人様も私を告発する気がないのか」
頭の中にまた記憶が蘇りました。
決心したはずなのに、途中で声が震え始め、鼻の奥がつんと痛くなってきました。止めどなく溢れる涙を拭いながら懸命に話そうとする僕の隣に座り、旦那様は、じっと待っていてくださいました。
やっと一通り話した頃には、霞がかった空と月が白んでいました。
座ったままの僕に身体を向けると、旦那様はそっと僕の頭に触れました。背中に暖かい手が添えられ、髪に暖かい指が通りました。
――ありがとう。よく話してくれたね。
頭が胸につくよう僕を抱き寄せ、今度は両手で背中を抱き込まれました。
――もう大丈夫だから。頑張ったね。辛いのに気付いてあげられなくて、本当にすまなかった。
ずっと絶えなかった海を噴き上げ大地を鳴らす暴風雨のようだった感情が、凪ぐように鎮まりました。潤んでいた視界がさらにぼやけ、次々と頬を伝い、旦那様の服に染みを作っていました。旦那様は僕の背中をずっと摩り、そうすると余計に僕が泣いてしまうことに気付いて少し困った顔をすると、ココアを淹れ直すと立ち上がりました。
あの夜、僕は救われたと思いました。まともとは言い難いオリバーさんではなく、騙し続けていた優しい旦那様が、僕が本当は何をしたのかを知った上で受け入れてくださった。僅か13年ではあるがこれが僕の人生の本当の到達点であり、ここから先はどうなっても構わない。本気でそう思い、オリバーさんを助けることも約束してもらって、もう少しだけ書斎にいることを許してもらって気を落ち着けているうちにソファーで眠っていました。
そして朝、旦那様がかけてくれていた毛布をはぐって起き上がった僕を包んだのは、柔らかい朝の光ではありませんでした。
苦しみを引き払い、自分の罪が消えたなどと都合の良いことは考えていません。結局僕には明るく生きる資格などなく、罰だって受けるべきです。それはわかっていたつもりですが、寝て起きてすっきりしてみると、それ以上に単純明快な事実に気付きました。
僕は自分の業に旦那様を引き込んだのです。旦那様がオリバーさんを告発しないということは、僕とEがしたことも見逃すことに他なりません。それはもうほとんど共犯者に近いのではないでしょうか。
一夜収まっていた脳内の嵐は、再び猛っていました。僕は恩人である旦那様を犯罪者にしてしまったのです。考えるだけで頭がどうかしそうでした。やはり解放されたいなんて望むべきではありませんでした。ただただ手の動くままに苦痛を綴って、自分自身をも騙して壊れていればよかったのです。ジェイから雇用主を、お嬢様からお父様を奪うことにさえ繋がる可能性を作るくらいなら。
「君は本当に」
オリバーさんは、窮地に追い込まれた哀れな小動物でも見るかのような目をしていました。
わざわざ溜息をつき、わざわざ同じことを繰り返しました。
「君は本当に、一瞬でいろいろなことを考えるね。私よりよっぽど作家に向いてるんじゃないかい」
ペンだこだらけの右手を隠しました。それを見ていたかどうかわかりませんが、オリバーさんは続けました。
「旦那様は言わなかったのかい? 心配しなくていいとか、あとは任せておいてくれとか、そんなようなことは」
「もう大丈夫だ、とは」
「じゃあ大丈夫なんだろう」
「僕を安心させようとしただけかも」
「それでいいじゃないか。君に悩んで欲しくなくて言ったんだから。少しは子どもらしく大人に甘えることも覚えるんだね」
オリバーさんは喉に触れ、困ったように眉を下げました。目線が動いた先には、空になったカップとお皿があります。
「意外と話が長引くねえ。もう一杯淹れておくれよ」
「自分で片づけたんでしょう」
「つい癖が出た。1人で暮らしてるとね。お茶もケーキも絶品だったと伝えておいてくれ。またお願いしたいくらいだ」
なんだかんだで長居してしまいました。2セットの食器を鞄にしまいます。
「最後に悪いんだが、夕食を持ってきてくれないか。もうお膳が出てるくらいの時間なんだ。水もついてるし」
個室なので本当は飲み水くらい自在にできるのですが、準備されているタイミングならと、言われた通りに病院食の載ったお膳を取りに行きました。そこにいた看護士さんは、仕事がひとつ減ったと喜んでいました。
「君みたいな子がジョージと関わりを持ってくれて嬉しいよ」
そう言ったオリバーさんの表情は、僕にも気さくに笑いかけてくれた■■さんとよく似ているように感じました。
オリバーさんは順調に回復し、やがて病院内で執筆活動を再開しました。騒動により停滞していたいろいろな企画も、すべでてはないにしろ、直の退院に合わせ、今後動き出すものもあるようです。過去作が改めて書店で数字を出し始めたこともニュースになり、彼の熱心なファンである人々を大いに沸かせました。
日常に戻れるお祝いにと、ジェイが今度はアップルパイを持たせてくれました。
他愛もないことばかり話しました。いよいよ帰る段になり、こうしてオリバーさんに会うこともなくなります。別に寂しいわけではありません。よくないことですが、会おうと思えば会えるのですから。ただ、僕が気になるのは。
「あの」
「トニー」
僕の声は掻き消されていました。
改めて名前を呼ばれ、意味もなく緊張しました。びくりとした僕とは裏腹に、オリバーさんは穏やかです。
「やっぱり君には言っておくことにしようか。とっくに面会時間を過ぎた夜遅く、兄がここに来たことがあってね。実際の関係はともかく、誠心誠意謝罪すると公言したんだから、別に隠れることもなかったとは思うんだが」
「おひとりで?」
「ここにはひとりで来たよ。さすがに外にはお付きがいただろうけど」
「……それで、なんて」
促すほかありませんでした。
何故かオリバーさんは言葉に詰まりました。やがて「ふうん」とひとりで納得した様子です。それが癪に障り、帰ろうとしていたのを振り返り、オリバーさんに近づきました。
やけに勿体付けて、ようやくオリバーさんは口を開きました。薄く笑っているようでした。
「ジョージのことは心配するな。ちゃんと友達になってくれたみたいだ」
一緒に歩いていたら、突然自分だけが見知らぬ土地に立っていたかのようでした。
今日に至るまでに起きたことが、怒涛のように頭を駆け抜けていきました。旦那様が■■さんのお屋敷に呼ばれたこと、僕がそのお付きで同行したこと、ジョージ様と出会ったこと。ジョージ様は不慮の事故で後遺症を持つ身となり、一般家庭ではない家に生まれた現実を絵を描くことで発散していたのに、その術を失くし鬱屈としていました。■■さんが提案した身体の不自由な子が通える学校は、そうして屋敷から出ることのなくなったジョージ様を鑑みてのことだったはずです。
僕もオリバーさんもジョージ様も、すべて■■さんの手元に偶然揃った駒に過ぎません。□□社とテイラーの家督を無理矢理奪うために、バカげた資金力と権力と実行力で壮大な寸劇に仕立て上げたというだけのこと。だからオリバーさんは、兄がしくじればいいなんて言っていたのです。利用されていることに気付いていたから。
大衆向けに語られた内容も、僕やオリバーさんにとっても、この物語は嘘だらけでした。
だけど、もし、嘘ではないことが紛れていたとしたら。オリバーさんが全面的に兄の失敗を望んでいたとしても、すべての失敗を望んだわけではないとしたら。
「そうかい。さすがの君も、そこまでは気付いてなかったのか」
ジョージ様は直系の末っ子ですが、十代半ばにも届かない子どもです。家族が批判される苦痛に晒されていることに、むしろ世間は同情していました。
誘導されていたとは言え、ジョージ様が僕に客人の使用人以上の目を向けてくれたことは変わりません。隠し牢の鍵を渡してくれたのも、そうしていいと思ってくれたからです。有耶無耶でお別れになるのは冷たいのではと感じていました。
だから僕は、勇気を振り絞り、ひとりで渦中のお屋敷を訪ねたのです。
――こっちは自分の身体が言うこときかなくて、何もかもダメになってるのに、他人の顔で嬉しそうに何してるんだと思って。新聞とかラジオに出てただろ。
ジョージ様はその日も中庭にいました。画材道具ではなく、閉じたままのノートとペンをテーブルに置いていました。
――だから止めなかったんだ。全部知ってたのに。ざまあみろって思って。でも。
■■さんにも分別があるのか、ジョージ様は、オリバーさんの辿った詳しい過程は知らないようでした。としても他人の顔になっているのですから、穏やかでないことだけは明白です。それを考慮した上でも、ジョージ様は思ったそうです。
――生きてるってわかってよかった。それは最初に思った。
オリバーさんとジョージ様が兄弟として会える機会は、きっともうほとんどありません。あの隠し牢でまともに話ができていたとも思えません。
少しだけ見せてくれたジョージ様の心を、最悪で最低だけど弟にだけは普通の兄の一面を持つオリバーさんに、少しだけ伝えるのはダメでしょうか。
決心して振り返った矢先、オリバーさんは、僕の名前を呼んだのです。
「まあ、最早どうでもいいことではある。だがこれが最後に残った疑問だから、ついでに解決しようじゃないか。人が監禁されているとわかれば、普通はなんとかしようとする。君も思ったんじゃないかい? こんな状況は誰であっても放置しないのに、どうして自分だったんだって」
オリバーさんはジョージ様の現状にショックを受けていました。自分がいないせいでより状況を悪くしたと思い込んでおり、その穴埋めをするとばかりに、隠し牢に残ろうとしていました。外に出る気力を失くしていた僕に、オリバーさんは確かに言ったのです。よければジョージの話し相手になってやってくれ、と。
「兄の狙いは旦那様ではなく君だった。君に私を発見させて、助けさせるためだ。じゃあ前提を考えてみよう。
なぜそんなことをしたのか。既に継承権を失っている自分が社と家督を手に入れるには、話を大きくして世間を巻き込み、その上で当主である父を退場させるのが手っ取り早いからだ。
なぜ話を大きくできたのか。被害者が有名作家×××・Rであり、加害者が□□社総帥の**・テイラーだからだ。誰が最初に見つけたかなんて関係ない」
第一発見者である僕のことは、新聞ではテイラー邸を訪れた客人としか書かれていませんでした。オリバーさんを発見すること自体、僕でなければならなかった必然性はありません。
気づきかけていたことでした。可哀想な良い子のふりをすることに疲れ果て、ずっと焦がれてしまっていたオリバーさんに再会してまた絶望して、考えることを放棄して、そのままにしていたことです。
「私を見つけるのなんて、一使用人の誰かで十分だったんだ。鍵なんていくらでも細工できる。近くに落としておいてもいいし、いっそ隙間を開けておくのもわかりやすいね。閉まっているはずが開いているというのは、実にお誂え向きだ」
不揃いのピースがまるで磁力で引き合うように、自然と頭の中で形になっていきます。
どうして僕だったのか。至極単純なその結論にすぐに辿り着きました。
もう説明は不要です。でも答え合わせは必要です。僕は再びベッドの傍の椅子に腰掛けました。
「君が私を助けるはずと踏んだ兄は正しいし、その考えを見抜いた君も正しい。それらしい筋が通るからね。兄にとっては見抜かれるのだけは想定外だったわけだが、それ自体は最初から謎でもクイズでもない」
誰が被害者だろうが加害者だろうが、自分とまったく関わりのない初対面の人間だろうが、監禁現場に遭遇したら、余程自分に危害が及ぶと確定でもしていない限りは助けようとするのが普通です。
謎でもクイズでも、■■さんお得意の誘導でもありません。普通の人間がする普通の反応を、良いのか悪いのか、僕が普通にしたというだけのことです。
「ネックだったのは、ジョージが君に鍵を鍵を渡すかどうかだ」
ジョージ様が学校に行かなくなったのは、身体が不自由になったからです。卑屈になって周囲に八つ当たり紛いなことをするようになり、お屋敷を訪ねてくれていたお友達も離れていったと言います。それだってジョージ様の望むところではなかったはずです。心と言葉がまるで釣り合わないことに、ジョージ様自身苦しみ抜いたことでしょう。
じゃあ、辛く当たらずに済むとは言わないまでも、辛く当たる分量を減らせる相手はいないものか。手を差し伸べて、許してくれる友達ではダメだ。優しくされればされるだけ、どんどん卑屈になっていくのだから。自分で思い留まれるきっかけを見つけられる誰かでなければ、お互い辛いだけ。
■■さんとオリバーさんの思考は、結果的には同じところに行き着いたのでしょう。事故で片目を失くした経験を持つあの子となら、上手く話せることもあるかもしれない。例えばそんなふうに。
そしてふたりの願望もしくは筋書き通り、ジョージ様は僕を少しだけ信じてくれました。オリバーさんに限って言えば、これが隠し牢での別れ様の一言に繋がります。
「驚きました。貴方とお兄様は仲が悪いのだとばかり」
「共謀したわけじゃない。同調できる部分を見つけたから、そこだけは応援したというだけのことだ。もちろん兄にとってもついでのイベントに過ぎない。可愛い弟の友達なら何人だって大歓迎だが、その度にこんな大ごとを起こされちゃたまらないよ」
オリバーさんが言った通りです。ジョージ様が僕に鍵を渡さなければ、ちょっとした細工で事足ります。僕が信頼されるかどうかなんて、もともと計画の外だったのですから。
「それと、私は別に兄と不仲なわけじゃない。関わりたくないだけだ。同じ結論に達したなんて、腐っても兄弟かと思うほかないが」
「同じ結論……」
無意識に繰り返してしまったことに、オリバーさんが首を傾げてから気付きました。
眼帯に触れました。すっかり手癖です。
「痛むのかい?」
「いえ」
痛い気がするだけです、とは言いませんでした。この痛みだけは完全に僕の問題です。誰に言うつもりもありません。
数秒で締め潰すような痛みは引きました。眼帯から手を離し、ゆっくりと深く息を吸います。
「ご兄弟、似ていらっしゃると思いまして」
「年の離れた弟が可愛いのは普通じゃないか」
論じるまでもなくそれは普通のことです。兄弟も親も知らない僕にだってわかります。オリバーさんに存在した普通の一面が、僕の心の端をさざめかせるのです。
「身の上にこだわらないところ。お金持ちらしくないところもそっくりです」
僕が何をしたのか貴方とお兄様は知っていて、それをジョージ様には知らせてないくせに――そういう意味で言ったことでした。
この際、身分も身体の特徴も捨て置きましょう。僕のような人間が弟の友達でいいのか、引っかかるのはひとえにその一点なのです。テイラー家のお家騒動を面白おかしく書きたてるメディア、夢中の有象無象など、比べものになりません。僕は当事者の下衆なのです。それも、己の罪に恩人を巻き込んで、救われたと錯覚してしまうほどの。
オリバーさんは何度もジョージ様を「可愛い弟」と称しました。■■さんは弟を案じているような意味のことを言っておいででしたが、結果を伝えにお忍びで病室を訪ねるくらいです。その発言に嘘はなかったと見えます。おそらく、その文脈周りのいろいろなことも。今となっては、身体に不自由のある子の学校を作りたいというのも本当かとすら思えます。
でもその「可愛い弟」の友達が、身の上を調べ尽くして尚、僕でいいなんて。気持ち悪い違和感が羽虫となり、手足を這い回るようでした。
しんと冷えた空気が下りていました。微かに息を吐く気配。オリバーさんの良いところは、相手が何を考えているのか、常に的確に汲み取るところです。良くも悪くも観察眼には長けています。
「身の上は正しく理解しないとね」
「知っています」
「だから君がいい」
オリバーさんは目が合った僕に微笑みかけます。
「兄も同じように考えたんだと思う。ちょっと偏見が強いのが悩みどころというのは、さすがに私だけが思っていればいいものだが」
「全然意味がわかりません」
「それでいいんだよ。子どもが無闇矢鱈に考えるものじゃない」
大人も子どももないというのが持論のはずのオリバーさんは、以前、同時にそれは理想論でもあると語りました。ちぐはぐに感じていたところではありますが、大御曹司様なりに昔はそれなりに子ども扱いされてきたことと、同時に社会の裏側のようなところで当たり前に傅かれてきたことが根底にあるのでしょうか。相反する自分の価値が妙な持論へ発展したものとも思われますが、でも、案外大人はそういうものかもしれません。
「ああ、ところで」
オリバーさんが手をぽんと打ちました。
「さっき、何か言いかけてなかったっけ」
天気の良い休日のことです。旦那様は自ら生活環境を綺麗にする爽快さにすっかり魅了されてしまったらしく、お嬢様は露骨に嫌な顔をしていましたが、その日もお屋敷総出のお掃除となりました。
前の機会であらかた屋敷内は引っくり返してしまっているので、そんなに時間のかかるものではありません。午前中で目途がつき、その後は使用人チームで日々の雑用をこなすうちにすぐに夜になりました。
僕は自室で机に向かい、書き殴ったノートを捲っていました。この何冊目か以前のものは、すべて引き出しにしまってあります。オリバーさんが作った偽物の手記は本人に返しているので、ここにはありません。
紙の上で、間違いなく僕の筆跡で、一文字一文字が吐き出し口のない感情に暴れ慄いています。裏ページは文字の形が強く浮き出てあり、その上からも更にインクが滲んでいました。ここには希望も未来も一切ありません。ただただ過去を後悔し、自分を呪い、それでもEと、Eが穏やかに暮らせる今の環境を守ろうとする真逆の想いが乱れた筆致で交錯していました。
旦那様にすべてを告白した以降、別の後悔はありましたが、ページを進めることはなくなりました。以前同様、旦那様は僕に優しく接してくださいます。僕だけでなくEにもそうです。
カンですが、おそらく旦那様は、僕やEがこっそりお嬢様と名前で呼び合い、おやつを賭けてゲームをしたり、冗談を言っては小突き合っていることを知っています。その状況ですべてを知って、それでも旦那様は変わりませんでした。嬉しく思う半面、格式高い学園の学園長であり、子どもに道を示す教育者であることを思うと、息苦しくなるのも事実でした。
ノックの音がしました。椅子を引き、ノートを片付けて、寝る前で外していた眼帯をし直します。慣れたもので鏡なんていりません。目の周りの妙な傷痕は自分でも見たくないと思ったからか、このバランス感覚はすぐに身に付きました。
寝間着姿のEが立っていたことには驚きませんでした。退院して引っ越してきた当初、夜に何度か様子を見に行くうちに、Eのほうから訪ねてくる回数も増えてきたからです。どちらかの部屋で少し話して、何事もなく解散するのが通例でした。
「もう寝るのか?」
聞いてから変だと気付きました。Eはじっと僕を見つめ、無言で瞬きを繰り返しています。急にぼーっとしたり変なことを言い出したりするのは相変わらずだったのですが、今目の前にいるEは、芯のある目で僕を見つめていました。
妙な胸騒ぎがしました。とりあえずドアを広く開くと、Eは僕の横を抜けました。
Eをベッドに座らせ、僕もその横に腰を下ろしました。不思議に静かな時間が流れます。嫌な予感は続いていました。
「トニー」
異質な空気をEが感じていたのかはわかりません。でもそれを破ったのはEでした。改まって名前を呼ばれると、理由もなく動揺します。僕は息を呑み込んで平常を装いました。
「トニーが一緒にいてくれてよかったと思う」
「なんだよ、急に」
14歳になったEは未だに小柄と言わざるを得ない体格でしたが、それでも僕とは身長が開いてしまいました。並ぶと肩の位置の違いが歴然で、手の大きさにも差が出てきたことでしょう。なんとなくはっきりするのが嫌で、せめてもの悪足掻きとして、比べたことはありませんが。
「引越してきたとき、失くしたんだと思ってたものがあって」
騒々しく不愉快なほどに大きくなっていた嫌な予感が、一挙に弾けました。とても簡単なことです。つまりEが退院したときのことです。
僕もそうですが、そもそも身体ひとつであの浮島のお屋敷を強引に脱出しました。引越しのときの荷物なんて、町に着いてからお役所にいただいた生活用品や備品、旦那様が申告して差し入れてくださった着替え程度しかありません。そんな鞄ひとつに収まるような荷物の中、失くしたと言えるほどのものがあるでしょうか。
何度でも鮮明に思い出せます。柄まで血に浸り、指がくっついていたのを離してやったあのナイフは、お屋敷にあるどれとも違っていました。
置き去りにされたかつての家を出たEが、唯一持っていたもの。Eが身ひとつになったのは、お館様の遺体と一緒にそれを捨てた、あの日あのときが初めてだったのです。
そんなこと、盲点でした。目の前が点滅していました。Eの中で忌まわしい記憶は封じ込められていましたが、あのナイフは違います。家族にもらったものだから、どんな意図が潜んでいようが、Eにとっては大切なものだったのです。
ナイフの記憶は消えませんでした。今言い出すということは、持っていないことに気付いたのは、今の生活を始めて精神が安定してきたからなのでしょうが。
「みんなで大掃除をしようってなったとき、ちょうどいいと思ったんだ。一緒に探してもらおうと思って。でも体調悪そうだったでしょ」
「そういや何か言いかけてたかもな。なんだよ、俺のこと心配してくれてるんだと思った」
「心配してたよ。だから余計なこと言うのはやめた。ジーナやジェイにお願いしてみようかと思ったけど、ナイフを探して欲しいなんてやめたほうがいいに決まってるから」
ごく当然の感覚です。そんなものを持ち歩いていると知れたら、即刻旦那様に取り上げられるでしょう。持っている理由がどうあれ、何かの弾みで危険な事故を起こしかねないのですから。
持っている理由。浮かんだそれが、水滴が落ちるように胸に響きました。奥歯を軋むほど噛み、まだやりきれず、空っぽの眼窩を押さえつけました。
「一応掃除しながら探したんだけど、見つからなかった。やっぱりここに来るときに失くしちゃったんだと思ったんだけど、じゃあ、最後に見たのってどのタイミングだったのかなって。そしたら気付いた」
奥で低い音が響き、その振動が目から全身に響き渡るようです。
Eは何を言いにきたのでしょうか。この口ぶり。この落ち着き。いつものEではありますが、どことなく上の空だった今までとは違います。識字できないことに気付いて文字を教えてくれた当初のような、思慮深く思いやりを持ったあのときのEのようでした。
「最後に見たっていうのはおかしいんだ。前のお屋敷にいたときから、毎日ポケットに入れてたんだから。手元以外の場所にいくはずない」
「じゃあどうして手元にないのかを考えたのか」
「うん」
「思い出せたか」
「思い出そうとしてた。それでつい、ぼーっとしちゃったりして」
促すしかなく、僕は相槌を打ちます。目の奥が熱くて痛くて、痛みの核が頭蓋骨の裏にでもあるのではと疑うほどでした。抉られるような痛みに悶え、強く押しつける手に、Eがそっと触れました。
眼帯と手の間に、微かな空間ができました。Eの手はほんのり暖かく、ほっそりとした指先がとても華奢です。不意のことで、僕は呆然とされるがままになっていました。
「痛いの?」
「別に」
「赤くなるよ」
「戻るだろ」
「変な痕になるかも。痕になったら戻らない」
他意のない声は、自棄になっていた僕の熱を冷ましました。痕になったら戻らない。額面以上の意味なんてないかもしれませんが、なにげなく発されたその一言に、Eの自我を見た気がしました。
Eの手が離れました。不思議と少し傷みが引いたようでした。
「思い出したのか」
最早明らかなことです。それでも敢えて問いました。
「そのナイフが今どこにあるのか、思い出したんだな」
「うん」
余韻も感傷もない、実にあっけない肯定でした。あまりの素っ気なさについ苦笑してしまい、Eはそんな僕に一瞬目を丸くしていましたが、すぐに済ました表情に戻りました。
「ずっとふわふわしてる感じだったんだ。入院してるときにはもう持ってなかったことはなんとか思い出せたけど、どうして入院してたのかはわからなかった。無理に思い出そうとしたら、なんだか眠くなってきたり、急に疲れてきたりして」
「でも思い出せた」
「お館様のことがニュースになってたから。顔も見たし声も聞いた。お館様だって思って、また新しい本が読めると思って、どうしてお館様じゃなくなったんだっけと思って。なんでこんなにわからないことばっかりで、不思議に思わず暮らしてるんだろうって」
つまり、全部この最近の出来事です。記憶がどう繋がっているのか探りようがなく、その結び目によっては容易く解けてしまうのではと危惧していましたが、Eの頭は考えることそのものを避けていたようです。それが明確な意思で阻まれ、その上でお館様を視認し、声を聞いて、違和感を覚えた。Eが覚醒するに至ったトリガーは、結局のところお館様です。Eの入院当初、僕がEを日常に戻そうと奮闘した毎日に水を差したのも、新聞に載ったお館様の写真一枚でした。どちらも実際にはお館様の顔と名前を奪ったオリバーさんですが、Eにとってはお館様です。明らかに記憶と矛盾しますが、本当に本人なのかというところは問題にならなかったのでしょう。本人が確実に死んでいることを知っているのですから、当人を名乗っているのは別人という答え以外ありません。その経緯は知らないはずなので、そこを受け入れているのはさすがとしか言えませんが。
肌身離さず持っていたはずのナイフを持っていないことが、Eにとってはすべての論拠なのです。家族に売られたときに持たされ、殺人の凶器になった最悪のあのナイフに、Eがそこまで固執していたことが僕には悔しく、悲しく思えました。
「落ち着いてるよな。人を殺したんだぞ。あんな酷い奴でも」
だけど、嘘も誤魔化しもなく話せる日が来るなんて。この酷い感情と引き換えに、再びEと同じ目線になれたような気がします。どうあれ感極まることです。
人を殺したことを忘れていたなんて大の大人でもパニックになりそうなものですが、Eは異様に静かでした。Eに出会う以前、お館様がふたりの少年を手にかけていたことは、Eは知らないはずです。知っていれば報いを受けただけと――実際、僕がそうであるように――開き直ることもできそうですが、そうではないのにこの落ち着き方はなんでしょう。心を殺させるような鬼畜の所業をしてきたのだから、殺されても仕方ないとでも思っているのでしょうか。でも、あのEがそんな考え方をするでしょうか。あんなナイフを、家族にもらったものとして大事にしていたようなEに。
「やめさせられたから」
いっそ教えてやろうかと言いかけたときでした。Eは呟くように、でもはっきりと言いました。
「トニーが嫌がってるの、やめさせられた。それはよかったと思ってる」
すべてを思い出しているのですから、そのときのことも頭にあるのは当然です。あんなことは僕にとってはなんでもありません。辛かったのは、そこにEがいたことです。
僕はEを助けるつもりで、結果的にはお館様がEを嗜虐する更なる材料になっていただけでした。僕はそれを思い知らされ、Eはどうして自分ではダメなのかと理不尽に苛まれ、あの瞬間、僕とEは同時にお館様の手中に落ちていました。
「やっぱり……俺を助けてくれたんだな」
Eは頷きませんでしたが、否定もしませんでした。
僕がEだったら動けたでしょうか。僕は自分で思っていたより意思も気持ちも弱い人間でした。酷い人間が酷く殺されたのを自分だけが知っていることや、酷い扱いを受けたふりをして嘘を吐き続ける毎日が恐ろしくてたまりませんでした。早くすべて破綻すればいいとさえ思っていました。脆弱な僕がEの立場だったとして、Eが僕だったとして、僕はEを助けられたでしょうか? 時間が経つのを待って、何も見ていないふうを装って、そつない顔で町に出ようとしたかもしれません。そうなると、新たな被害者が出た可能性はあります。お館様は、Eのこともそのうち殺してしまう予定だったのですから。
どう転べばよかったのかなんて、学も知識もない僕にはわかりません。だけど、オリバーさんのように「殺してくれてありがとう」とも言い切れるはずがありません。どんな事情があろうと殺人は殺人です。あれは正当防衛の範疇でもないでしょう。
Eは自分の手を見つめていました。よくできた人形のように端正な横顔でした。妾腹で虐待されて売り飛ばされ、散々玩具にされた挙句に主人を刺し殺し、それを忘れて別の屋敷で働き始める。テイラー家の報道はもう下火ですから、大衆が次に飛びつくにはちょうど良いゴシップです。それを忘れて、というところに、なんぞやの専門家とやらも喜んで反応するでしょうか。
頭を満たす嫌な想像を振り払いました。一瞬でいろいろなことを考える、とオリバーさんは呆れていましたが、別に考えているわけではなく、気付けば脳内で仮定していることなのです。
今のEは正気です。過去を思い出して取り乱したり、衝動的に自殺を図るようなことがなくて安心しました。その後のことを、僕は考えていませんでした。
「これからどうする?」
「わからない」
率直に返ってきました。まあ、それはそうでしょう。バカなことを聞いたと今度は自分自身に苦笑が込み上げました。
「これって誰か知ってる?」
「旦那様は全部知ってる。あとは今お館様の顔をした人と、その兄貴」
さすがに名前は明かさない選択をしました。Eは続けて訊いてきました。
「最初から知ってたの?」
「旦那様が知ったのは最近だ。いろいろあって話した。お館様の顔をした人は、最初から全部知ってる」
Eが言う最初と僕が言う最初の意味は違います。今は黙っておいて支障なさそうでした。
「そうなんだ」
それ以上の言及はありませんでした。穏やかで静かな夜の時間が、ゆっくりと流れていきます。
これは一応言っておこうか。僕は口を開きました。
「旦那様は大丈夫だって言ってた。普通に過ごせって」
「うん」
「辛いことに気付いてあげられなくてごめんって」
素っ気ない反応ばかりだったEが、不意に肩で息をしました。空気が変わったのを感じました。僕は再びEの横顔を盗み見ましたが、表情は見えませんでした。
「やっぱり辛かったんだ。トニーは優しいね。優しくて、友達思い」
これから一生嘘を吐き続けると断言したのは、お館様の遺体とナイフを捨てて船に乗ってからです。もともとは、ただ僕が被害者のふりをしていくだけのはずでした。予定が狂い、2人で嘘を吐き続けていくつもりでしたが、現実はそうなりませんでした。
ずっと見つめていた手を、Eはそっと下ろしました。
「ごめんね。いろんなこと忘れて、全部押しつけちゃって」
「やめろよ。結局背負いきれなかったんだから」
「でも、ずっと僕を守ろうとしてくれてたんだよね」
わかっていたはずなのに、反射的に振り向いてしまいました。Eは済ました顔で正面を見つめています。Eの一人称が名前ではないのを初めて聞きました。
視線がぶつかった数秒の後、Eは言いました。
「ありがとう。僕、トニーが一緒にいてくれてよかったって、本当に思ってる」
すぐには何も言えませんでした。
何も言えませんでしたが、胸をよぎるものがありました。
もしかして、もしかしたら、その通りで。旦那様のお言葉もオリバーさんのお説教も破滅的に捉えていましたが、今更だけど信じてみて、大人を頼って、少しくらいだけなら救いを見出してもいいのかもしれません。神様がお怒りでも、旦那様が受け入れてくださいます。オリバーさんはやはり身勝手極まる悪人ですが、まったく無関係な罪を自ら被ったり、僕を諭したり兄らしくジョージ様を気にかけたりする様は、ただ悪人と形容するだけでは収まらないものを感じます。
そしてこれからはEが一緒です。僕がずっと取り戻したかった、だけど取り戻すことが怖かった正気のEです。どちらにも振り切れず、罪悪感に塗れた辛く苦しい毎日を、もうひとりで耐えしのぐ必要はありません。汚い文字で、ノートに行き場のない感情をぶちまけなくて良いのです、
僕は泣いてばかりです。黙って鼻を啜り続ける僕に、Eはただついていてくれました。
翌朝早く、お屋敷の窓を開け放ちながら歩いている僕に、Eは濡れたタオルを差し出してきました。窓ガラスにうっすら反射している僕の右目は確かに充血していたし、いくら洗ってもずっと目の淵がくっついているような変な感じでした。ジェイとお嬢様には、小説を書いているうちについ没入しすぎてしまい、自分で泣けてきてしまったとでも言っておきましょうか。
「本当にひとりで大丈夫か?」
タオルをそっと目に押し当ててつつ、Eに訊ねました。僕と同じく窓ガラスに照り返すEは、なんともない顔で頷きました。
「平気。僕もう大丈夫だから」
「どうせ3人で話すことになるぞ。知らないことがいっぱいある」
「じゃあそのときでいいよ」
例えばどうしてお館様の顔をした人がいるのか、というのはEにとっては目先のかなり大きな疑問だと思うのですが、本人は飽くまで飄々としています。いるのだから仕方ないと言わんばかりです。
どうするか決まったのか、とダメ元で聞いてみました。Eは予想通り首を横に振りましたが、昨日自室に戻る前と同じことを言いました。
「とりあえず、旦那様には話しておきたい」
「夜まで待てよ。何もこんな朝から」
それでいいじゃないか、というオリバーさんの声が耳の奥でしました。すべてを明かした後に旦那様が大丈夫だと仰ってくださったのを、僕は捻くれて受け取っていました。もう悩んで欲しくなくてそう言ったんだから、安心させようとしただけだとしても、それでいい。昨日、やっとその解釈を少し受け入れられたばかりです。
途中で口を噤んだ僕を、Eは不思議そうに見つめていました。僕はなんでもないと誤魔化しました。だいたいEは僕と違って悩んでいる様子もありません。
と、思っていたのですが。
「旦那様、困るかな」
濡れたタオルをどうしようか悩み、そこまで邪魔でもないので、片手に持ったまま窓を開けていこうとしたところでした。
見る限りEは困っていそうな感じでもありませんでしたが、疑問形にしてくるあたり、決めかねているようです。ここに来て、一気にお人形から人間に近付いた感じでした。
「聞いても困る? 僕がいろいろ思い出しちゃったの」
「困るかどうかはともかく、話してたら様子が違うのはわかると思う」
とりあえず率直に答えておきます。昨日までのEは、途中で返事がなくなったり、なんの話をしているのかわからなくなることさえありました。旦那様もお嬢様もジェイもEが混乱しやすく立ち止まりやすいことを知っているので、少しくらい会話が噛み合わなくなっても責めたりしません。手順やパターンをしっかり伝えておけば、仕事で失敗することもありませんでした。
今のEはちゃんと目を見てくれるし、特に一人称の違いは決定的です。確かに旦那様は困惑するでしょうが、わかってくださるでしょう。
「もう嘘吐かなくていい。バカのふりしなくていいんだ」
「バカのふりなんかしてないよ」
それはそうでしょう。僕の言い方が汚いだけで、Eは自分自身を守ろうと必死になる余り、一時的に破綻していただけです。でもあまりに真面目に答えてくるので、続けて質問してみました。
「頭のいいふりは?」
「それもしてない」
なるほど。確かにEは嘘は吐いていないようです。敵いません。
窓ガラスに薄く映る僕の表情は、明るい未来が約束されているわけもなく、いつかそれなりの罰が下ることを知っているつもりなのに、やっと青空の下に立てたかのように穏やかでした。
「どうなったとしても、俺はお前と一緒にいるから」
普通の人間の普通の人生が送れるなんて思っていません。いくら旦那様が許してくださっても、殺したのが人殺しでも、やってしまった事実の重みは消えません。しかもその人殺しは、偶然とは言え僕を酷い生活から掬い上げてくれたお方です。オリバーさんが紙の上のお話にしてしまった男の子ふたりのことも、僕は本当のことを知っているのだから、何かできること探さなくては。
でも、言わせて欲しいことがあります。何せずっと言いたかったことなのです。もし本当に神様がいるのなら、今だけ許していただけないものでしょうか。
タオルをポケットに突っ込みました。濡れますが、少しなのでよしとします。
急に改まった僕を、Eはただ見つめていました。
「トニー・J・J」
正気のEに出会うのは、昨日が初めてでした。だから昨日するべきでしたが、急すぎる展開に戸惑い、失念していました。
文字も数字も知らない僕が使用人として働き始め、一年ちょっと。少しは礼節を心得ました。初対面の相手には自ら名乗る。用件はその後に。
「お前の友達」
Eは僕の顔と差し出された手を見比べていましたが、友達という単語に瞳が動いたのを確かに見ました。
Eはそっと手を出してきました。伸ばしきる前に、僕がその手を掴みました。人形などではありません。血の通った体温を感じます。
「よかったら、お前も名前を教えてくれよ」
聞くまでもないEの返事を、僕はじっと待っていました。僕の手にかかった指に、微かな力がこもります。
Eの名前をもう一度知る。その瞬間は、すぐそこです。
再度名を知る
トニーを助けるために書きました。
これで彼の苦しみも少しはやわらぎ、きっと少しはましな日々が送れる。