フリーズ143 天使のロバ
第一幕 さらば驢馬生
驢馬の私には自我がある。私は生まれつき自我があった。成長して体つきがしっかりし始めると、私はある御者に売られた。そっからはずっと荷物引きだ。重い荷物を毎日毎日、永遠と運ぶ。退屈で辛い日々。だが、そんな日々にも終わりが来る。
旅の途中ですれ違う馬や騾馬や驢馬たちにも自我があるのだろうか。だが、意思疎通ができないので確かめようもない。驢馬の私は喋れない。だから、この自我も宝の持ち腐れだ。そう思って私は人生ならぬ驢馬生を諦めていた。だが、ある街の厩で休憩していると一人の少年が厩を訪れた。少年は私の元まで来て私の首を撫でた。その感触がとても気持ちよかった。
「君、意識あるでしょ。僕、解るんだ」
少年は唐突にそう語った。
「なんでわかるの?」
「僕、神様だから」
少年はそう言ってはにかむと、さらに続けた。
「君は天使になれるよ。今こうして神の言葉を聞いているんだからね」
「あなたは神様なのですか?」
「ああ、そうさ」
少年の瞳を覗く。その瞳は深淵のようにも宇宙のようにも感じた。その瞳を見て私は思わず感極まって涙を流してしまった。
「驢馬に生まれてしまったこと、後悔してる?」
「はい。なぜ私にだけ自我があるのか。それに荷物運びをするだけの人生なんて嫌だ! 私は変わりたい!」
「その願い聞き遂げたよ。君に今から魔法をかける。人になれる魔法だ」
「人になれるのですか?」
「嗚呼。ただし、人に触れたら君は驢馬に戻ってしまう。それでもいいなら」
「人に触られないようにすればいいのですね。わかりました」
「じゃあ今から魔法をかけるよ」
少年は私の額に右手を当てる。私の周りが光り始めた。いいや、私が光り輝いているのだ。
私の体はみるみる変わって、少女の体になった。
「じゃあまたね」
「あ、待って!」
気づくと少年の姿は消えていた。厩には私だけ。人の体を得た私は、先ず馬車の元まで向かうことにした。全裸の今の姿ではまずい。御者の服を拝借することにした。
「おいおい、こんなところに裸の女がいるじゃねぇか」
馬車に上ろうとしたら男の声がした。振り返ると柄の悪そうな男が一人いて、私の元まで近づいてきた。
「おお、しかも上物だな」
男は下卑た含み笑いをした。
「何の用ですか」
私は語気を強めて言い返す。
「そりゃ、攫って売り飛ばすんだよ」
私は人に触れるとまじないが解けてしまう。この男をどうにか躱さないと。と思っていると男はこちらに近づいてくる。その手が私にのびた瞬間、男と私の間に影が現れた。
「やぁ、驢馬の娘。案内人のサラだよ」
「案内人?」
「話はあと」
サラと名乗った女は男と対峙して鋭い眼光で睨む。
「あぁ? なんだお前」
「私はこの子のこと任されてんだよ。つべこべ言わずかかってきな!」
男は右手をあげて殴り込む。だがサラはその所作を見切って、男の右手をとるとそのまま背負い投げした。男は宙に浮かんでドシンと地面に倒れた。
「よし、一仕事完了。あんた、ついてきな」
「はい。助けてくれてありがとうございます」
「礼はいい。それよりあんた、名前は?」
「私の名前は、ないです」
「何だいそりゃ。じゃあ驢馬の娘だからドン子。は、あんまりかわいくないな。じゃあ、その青白色の髪が勿忘草みたいだからレナなんてどうだ?」
「レナ、いいです! ありがとうございます! その、あなたは?」
「私はサラ。あんたを天使にするのが私の役目。ほら、これでも着な」
そう言ってサラは上着を私に貸してくれた。私は手を触れないように気を付けながらその上着を受け取って、着た。初めて着る服は暖かかった。
第二幕 呪い
第二幕 呪い
中心街にある宿屋の一室にて私はサラと一緒にいた。
「服は私のでいいかい?」
「はい、大丈夫です」
「これは小さいか。これも小さいな。これがいいか」
サラは自分の服の中から私が着られる服を見繕ってくれた。私はサラの手に触れないようにまた注意して服を受け取った。
「私に触れても大丈夫だよ。私、人じゃないから」
「え? それはどういう?」
サラは私の手を優しく取ると軽く握った。私に変化はない。暖かい感触に何故か感慨深くなる。サラは語りだす。
「私、亜神だから。神様のやつがさぁ、あんたのこと気に入ってんのよ。自我のある驢馬なんて初めて見たらしいよ。驢馬って要は畜生でしょ。なのに人間と同じかそれ以上のソフィア(意識)を持ってる。私もあんたみたいなケースは初めてだよ」
「ソフィア、ですか?」
私はその言葉の意味が解らず聞き返した。
「ああ、ソフィアってのは意識体のことさ。人間にも動物にも、道端の石にも月にもソフィアはある。大なり小なり意識の大きさは違えど万物にソフィアは宿ってる。レナの場合、平均的な驢馬の持つソフィアを遥かに越えて、その域は並みの人間をも凌駕してる」
「それってやはり珍しいのですか?」
「嗚呼、珍しいね。というかあり得ない。でも、実際に君は存在している。きっと呪いの類だろうね」
「呪いですか」
「ああ。輪廻の中で、君は求道者だったんじゃないかな。でも、呪詛をかけられて驢馬に転生した。ソフィアはそのまま。だから君は驢馬でもしっかりとした自我があったんだよ」
サラの言うことは妙にしっくり来た。
「呪いが解ければ人に戻れるのですか?」
「そうだねぇ。恐らくは。私が手伝ってあげるよ」
次の日、朝早く私たちは宿を去った。向かうは聖都ナノミスハイン。聖都には解呪することのできる聖女や聖者がいるとされる。サラは私を聖都に連れて、呪いを解いてもらうことにしたのだった。
馬車で何日も何日も移動する。お金はサラが全部払ってくれた。一文無しの私としてはとてもありがたかった。その旅路の最中、私は神と名乗った少年のことが気になっていた。彼の瞳の色が今も忘れられない。彼はきっとここよりももっと遠くを見ている。何故かそんな気がした。私もいつか同じ景色を見たいなぁ。
ナノミスハインに着くと、サラは顔パスで門を通り過ぎる。
「サラ様、その者は?」
「嗚呼、私の弟子だよ」
「左様でございますか。では、お通りください」
私のことで門番から呼びかかったが、そのまま通ることができた。やはり、サラは亜神なだけあってその名も轟いているのだろうか。門番の男も様付けで呼んでいたし。
聖都の中は人通りでにぎわっていた。
「飯でも食べるか」
「はい、そうしましょう」
聖都の宿屋にとまり、そこで腹ごしらえをした。そしていよいよ私は聖都にある神殿に向かうことになった。
神殿の前には長蛇の列ができていた。だが、サラは列を無視して、顔パスで中へと入っていく。私も後をついて行って神殿の中に入る。神殿の中は豪華絢爛だった。装飾の凝った柱に、歴史を感じるフリーズ。天上には神聖な絵が描かれていた。サラについていくままに門の前までたどり着く。
「この先に聖女様がいらっしゃる。早馬であんたのことは話してあるわ」
「ありがとうございます」
門を開けるとそこには一人の麗しい服を着た聖女と、同じく神聖な服をまとった聖者がいた。彼らはサラに一礼すると、私のことを迎えてくれた。
「やぁ、君が驢馬なんてね。信じられないよ」
聖者が微笑んで語る。
「私は聖者なんて呼ばれてる。マハトマ・カイルという。よろしくね」
聖者カイルは私に挨拶すると、手を伸ばした。握手しようとしたのだ。
「私、人には触れないんです」
「そうだったのかい。これは失礼した」
私が握手を断るとマハカイルは残念そうに眉をひそめて距離をとった。その顔が一瞬強張った気がした。そして今度は聖女が私の元まで来て上品にお辞儀をした。
「私はマハトマ・レイシア。聖女です。早速解呪しましょう」
「私はレナと申します。よろしくお願いします!」
儀式が始まる。祭壇には供物が捧げられ、二人の聖者は床に魔法陣を描いていく。
「さぁ、ここに立って」
私は魔法陣の中央に立たされた。
「今から梵我合一の儀を執り行う」
聖者カイルがそう言うと、二人は呪文を唱え始めた。
万物を司りし大御神、迷いしソフィアを救いたまえ。
全ての事象は梵に帰し、御魂は天へと上りゆく。
水面の火が消え風は凪ぎ、映る景色を眺めては、
時流の水が記憶を運ぶ。時は西方、未来は東。
左右の狭間、天地の狭間、昨日と明日の狭間。
我らソフィアは終末と永遠の狭間で踊る。
願わくば、この矮小なソフィアを救いたまえ。
穢れを払い、呪いよ解けよ。フリージア。
呪文が終わった。その時、世界は凍結した。
「やぁ、久しぶり」
周りの時間が止まった。サラも聖者も聖女もみんな止まった。世界は灰色になった。だがそんな中一人の少年だけが色づき動いていた。少年は儀式の魔法陣を踏みながら私の元まで来た。
「あなた様は!」
「僕の名前は7th。最高神だよ」
「どうしてここに?」
「君を迎えに来たんだよ。君は天使になれる。いいや、これでは正確ではないな。君は以前、天使の一人だったんだよ。だけど、ある天使が君に嫉妬してね。神の寵愛を受けていた君を陥れたんだ。その天使はすでに堕天させたけど、何の因果か、そこにいる男がその堕天使みたいだね」
「私は以前天使だった?」
「ああそうさ。座天使イリスメークリン。それが君の真名だ」
「イリスメークリン……」
私はその名を聞いて鼓動が早くなるのを感じた。私の本当の名はイリスメークリン!
私は天使なんだ!
「じゃあ、天空で待ってるね」
神を名乗る少年が消えると、時は再び流れ始めた。すると、私に変化が起きた。翼が痛いのだ。見えない翼がそこにはないのに痛む。そして宙に浮き始めた。天使の輪が頭の上に現れる。体は驢馬に戻っていた。頭は人のまま、私はどんどん空へと飛んでいく。
「これは、アセンション!」
聖者カイルが声を張った。
「それにこの光の量。恐らく上位天使だわ」
レイシアは感嘆し、ただその景色を眺める。天井は破壊され、私は空へと誘われる。
「お帰り、イリス」
サラはそう独り言ちると神殿から去っていった。私は天空へと飛び立った。
第三幕 天空の海辺
第三幕 天空の海辺
天空にたどり着いた。そこは雲の上、水がさらさらと流れ小川を形成する。花々が咲き誇り、遠くに大きな門があった。私はその景色の荘厳さに驚き、ただ感嘆の声を漏らす事しかできなかった。自分の体を見る。もう驢馬の跡形もなく、人の姿で背中には白く大きい翼が生えていた。
門へと歩く。花々が歌っているように風になびかせられ、小鳥たちがさえずる。その光景はあまりにも美しかった。門の前に立つと門が開く。嗚呼! 門の先にはこの世のものとは思えないくらい美しい光があった。それは死であった。安らかなる死の門。ここを越えると、私はきっと驢馬も人も終えて、人生の果てに、天使となるのだろう。私のソフィアが高まる。それは真に歓喜しているからだろう。幽遠な交響詩が響き渡り、あまりにも美しい光景に魂が揺さぶられる。
私はかつて天使だった頃の記憶を僅かに思い返す。
遠き日に、天使になって幾星霜
神に愛され、幸せでした
そしてその幸せはこれからもだ。私は神に愛されていることに得も言えぬ快感を抱いた。門をくぐる。するとそこには海が広がっていた。凪いだ渚に私は一人立っていた。
「この海は生命のスープなんだよ」
気づくと隣には7thを名乗る神様の少年が立っていた。
「イデアの海。愛で満たされた母胎。可能性の宇宙」
「それではここはどこなのですか?」
「ここは第八世界。エデンの園。あの世。天国。いろんな言われ方があるね」
「そうなのですね。やはりあなたは神なのですか?」
「そうさ。そしてこの海に君の記憶も保管されている」
「私の記憶?」
「すべての記憶はこの海に保管されているんだよ」
「どうすれば記憶を思い出せますか?」
「海に入るんだよ」
私は裸足のまま海へと入っていく。冷たい感触がするのと同時にどこか安堵感があった。優しい水の感触に包まれながら、私は海に浸かる。すべてと繋がった気がした。その一体感はとても心地の良いもので、情報が体に流れ込んでくる。その記憶の渦の中で私は想起する。
「嗚呼、私の名前はイリスメークリン。主よ、愛しています」
本来の記憶を取り戻した私は泣いた。嬉しくて泣いた。
全ての人生よ、全てのソフィアよ、ありがとう。愛しています。
フリーズ143 天使のロバ