フリーズ141 冬鬼
伝承
都の北方にある大雪山には鬼が住んでいる。この伝承は巷ではよく知られたものだった。だから行商人や旅人は大雪山を避けて迂回路を通る。だが稀に大雪山を登ろうとする者がいる。それは単に山を越えるためだったり、伝説の鬼を倒して名声を得るためだったりと様々な理由からだ。だが、彼らは帰ってくることはない。
今日も今日とて、山の麓の酒場で『冬鬼』を狩ると豪語した旅人がいた。彼らは次の日の朝、大雪山に登る。伝承の鬼が彼らを待っていることも知らずに。
邂逅
大雪山を登る二つの影があった。
「速度を上げるぞ。このままだと冬鬼と合う前に凍えて死んじまう!」
「兄貴。おらもう無理だ」
「ググ。つべこべ言わずついて来い! 洞窟を探すぞ」
ググは旅人リュウヤの荷物持ちであった。ググはもう限界が近かったようだ。リュウヤは仕方なくググから荷物を奪って代わりに背中に背負う。
「兄貴、おらが持ちます」
「何を言ってる。これはいいから、さっさとついて来い!」
「はぁい!」
雪はどんどん降り積もる。視界を吹雪が遮り、リュウヤとググはいよいよ力尽きそうになる。その時だった。
「あ、雪が……」
ググが思わず呟く。さっと雪が晴れ渡り、視界が広がった。その様は圧巻で、晴れ渡る青い空を見上げ、リュウヤとググはある種の歓喜を覚えた。そして、二人の視界の先には一人の女が立っていた。その女は白に水色の刺繍が散りばめられた美しい衣を纏い、妖艶に微笑んだ。
「あなたたち、旅人でしょうか?」
女はそう尋ねると、検分するかのようにその鋭い眼光で二人を見た。
「そうさ。俺たちは旅人だ。お前はこんな山奥に暮らしているのか?」
「ええそうです。よかったら私の家で休まれてはいかがでしょうか」
「それはいい。な、ググ」
「おらも賛成です。兄貴」
「では、こちらへどうぞ」
女は二人に背を向けて歩き始める。二人はその後をついていくことにした。
「急に晴れたな」
「山ではよくあることです」
「そうなのか?」
「ええ。山の天気は移ろいゆく。刹那に変わる」
少し歩くと小屋が見えてきた。リュウヤとググはやっと休めると気を許していた。
「さぁ上がってください」
女の家に着くと二人は構わず中に入っていった。囲炉裏が中心にある簡素な部屋に通され、「座ってどうぞ」と女に言われた二人はすぐに腰を下ろした。
「いや、助かった。ありがとう。名前はなんていうんだ?」
「私はナミと言います。どうぞ、お雑煮です」
囲炉裏には鍋があった。ナミは鍋から器にお雑煮をよそうと箸とともに二人に渡した。
「こりゃどうも」
「ナミさん。ありがとうございます! いただきます!」
「いいえ。お礼は結構ですよ。だって私」
あなた方を食べるんですから。
リュウヤとググがお雑煮を食べたとたん、二人は箸を床に落として、そのまま横に倒れてしまった。お雑煮には強力な睡眠毒が入っていたのだ。ナミは二人の眠る姿を眺めては舌なめずりをした。
捕食
リュウヤが目を覚ますと、暗い部屋にいた。体の自由が利かない。手を体の後ろで固く結ばれていた。口には猿ぐつわがつけてあり、声が出せない。
「あら、お目覚め?」
声の主はナミと名乗った女だった。
「私ね、生きたままの人間を少しずつ、ゆっくりジワリと食べるのが大好きなの。嗚呼、あなた達はどんな表情を見せてくれるのかしら」
リュウヤは手を必死に動かして縄を解こうとする。だが、抵抗もむなしく解けることはない。リュウヤはググのことが気がかりになりあたりを見回す。すると、ググは右隣で眠っていた。どうにかして逃げ出さないと、とリュウヤは焦る。きっとこいつが冬鬼に違いない。
「さぁ、最初はどこから食べようかしら」
そう言ってナミは先の尖ったペンチのようなものを手に取り、リュウヤの元まで歩くと彼の後ろに立ってしゃがんだ。
「最初は指からね。猿ぐつわは要らない。せっかくの悲鳴が聞こえなくなるもの」
リュウヤの右手をとるとペンチをカチッと鳴らしてナミはリュウヤに問いかける。
「親指、中指、人差し指。どれがいい?」
「やめろ。なんでこんなことをする!?」
「質問に質問で返さないで。不愉快。そうねぇ、全部いただこうかしら」
カチッとペンチが鳴る。
「ああああぁぁぁぁ!」
その度にリュウヤは叫ぶ。劈くような苦痛の声が部屋に響く。
「親指、食べちゃお」
ゴクリとナミは取れたての親指を食べた。
「親指、中指、人差し指!」
その順でナミはリュウヤの右手から指を引きちぎる。血があたりに飛び散る。リュウヤは指がペンチに潰され引きちぎられていく度に嗚咽し、泣き叫ぶ。
「次は左手ね」
ナミによる拷問にも似た捕食は三日三晩続いた。リュウヤの手と足にはもう指がなく、睾丸もペニスも食べられた。瀕死のリュウヤはまだ辛うじて意識があった。いっそ殺してくれ。何度も冬鬼に懇願したが、ナミは手慣れた様子で、リュウヤがギリギリ死なない程度に拷問をした。ググは拷問に耐えられず死んだ。二人の旅人の末路は酷いものだった。
「どうして俺を殺さない?」
リュウヤはナミに問う。
「ねぇ知ってる? 餓死ってとても苦しいそうよ。あなたは何日耐えられるかしら」
「お前は殺人鬼か!」
「私は鬼よ? 何をいまさら。私たち鬼は人の肉を食べて生きているの。ただ食事をしているだけよ」
「呪ってやる。絶対に許さない」
「瀕死のあなたに何ができるのかしら」
リュウヤは七日後、餓死で死んだ。穏やかな死だった。その死体をナミは雪の下に埋めて保存食とした。冬鬼は次の獲物を待つ。
復活
リュウヤは深い眠りに落ちた。その眠りは永遠のようだった。疲れ果てた脳も、苦痛に耐えた体も今はすべてを失って、ただ、あるのは復讐心だった。あの鬼を生かしておいてはいけない。次の被害者が出る。何を犠牲にしても必ず殺さないと。
リュウヤは死の川を越えるのをためらって振り返る。
「俺にしかできない」
リュウヤは目覚めた。冬鬼として。雪の中から地上へ這い登る。失われた指も睾丸もペニスも、治っていた。冬鬼。それはまれに凍死体から生まれるとされる。リュウヤはまさしく復活を果たした。そして彼はナミの元まで向かう。
復讐
リュウヤは小屋の扉をこじ開ける。家には誰もいなかった。しばらく家の中をさまよっていると外から声が聞こえだした。
「ありがとうございます。危うく凍えるところでした」
「いいえ、お気になさらないで」
リュウヤは奥の部屋に隠れた。一人の女性がナミの罠に引っかかっていたのだ。
「これ、よかったらどうぞ。お雑煮です」
「ありがとうございます」
「待て!」
リュウヤは飛び出て女から茶碗を奪う。
「あなた、まさか!」
「死から蘇ってきたぜ。冬鬼ナミ!」
リュウヤはナミの元まで駆けて、その手でナミの首を絞める。その膂力や握力は彼が人だった頃のものとはかけ離れていた。彼は冬鬼になることで進化していた。
そのままリュウヤはナミを絞め殺した。助かった女はリュウヤに問いかける。
「あなたも冬鬼?」
「ああ、そうみたいだ」
「私を殺すの?」
「いいや、殺さない。頼むから逃げてくれ!」
ナミを殺したリュウヤは復讐心から解放されたことで、飢えに直面していた。女が美味そうで仕方ないのだ。冬鬼になったことでリュウヤの体に変化が起きていたのだ。
「このままだと俺はお前を食ってしまう。早く逃げろ!」
「は、はい!」
女は去っていく。残されたリュウヤは空腹に耐えられずナミを食らった。冬鬼の同族食い。これはリュウヤなりの復讐だった。俺を食べた鬼を食らう。ナミの体は少なからず脂肪が乗っていて旨かった。リュウヤはおなか一杯になると思案した。
リュウヤはこれからどうしようかと悩む。ナミみたいに鬼として捕食を繰り返すのか。いや、それは嫌だな。どうせなら人の役に立てるようにしたい。そう決心するとリュウヤは山を下り始めた。
自白
「俺は冬鬼です」
リュウヤは都の門番に自白した。
「鬼? 本当か?」
「ええ、ほら」
リュウヤは右手の尖った爪を逆立て、左腕にあててひっかく。血が垂れるが、瞬く間にその傷は癒えていった。鬼の再生能力である。
「これは驚いた。鬼っていうのは本当のようだな。なぜ白状した!」
「俺は人を傷つけたくない。だけど人を食わなきゃ生きていけない。なら、最後くらい人様の役に立って死にたいと思っただけだよ」
リュウヤの身柄は国に預けられた。冬鬼の生態などを調べるための実験体となることをリュウヤは望んだのだった。だが、実際にはリュウヤには犯罪で処刑された人間の肉が提供されることとなった。冬鬼の再生能力や弱点などの検査が一通りなされた。食事が確保されていて、リュウヤは前のように過ごせることとなった。
そして、リュウヤの血を検査した研究者たちは冬鬼の秘密に迫る。
「ようは、冬鬼は感染症のようです」
研究員の男がリュウヤに告げる。
「血液を媒体として感染するようです。既に死刑囚を使って実験したところ、傷口にあなたから摂取した唾液をつけるとその者は冬鬼になりました。彼はもう処刑されていますが、これで冬鬼を根絶するヒントが得られました」
「そうだったのですか」
「あなたも冬鬼と接触を?」
「ええ、襲われまして」
さらに、冬鬼の血から傷口を治癒する薬が生成することができることが分かった。また、不治の病とされていたいくつかの病気に効果のある特効薬も生成できることが分かった。リュウヤは冬鬼として血を献血し、その代わりに罪びとの死体を食うことで生き続けた。
命の恩人
私は不治の病に侵されていた。家は裕福だったから、延命治療は受けていたけれど、ある時余命が残り1年だと宣告された。だけど、鬼の血を体内に取り込むことで、鬼になる代わりに永らえることができると分かった。両親は鬼になってもいいから私に生きて欲しいと語った。そうして私は臨床試験を受けることになった。
私は鬼になった。両親にお願いして、命の恩人である冬鬼と会う機会を作ってもらった。
「はじめまして。私、サツキと言います」
「俺はリュウヤという」
「リュウヤさんの血のおかげで、不治の病を克服することができました。本当にありがとうございました」
私がお辞儀をして礼を言うと、リュウヤさんは照れたようにはにかむ。
「でも、鬼になってよかったのか?」
「はい。少し勇気は必要でした。ですが、病に侵されて死ぬよりはマシです」
「そうか。ならいいんだ」
リュウヤさんはほっとしたように笑った。リュウヤさんは鬼になったけれど、人のために生きることを選んだ人だ。私はそんなリュウヤさんのことを慕っていた。
「あの、リュウヤさんに恋人はいるのでしょうか」
「いないけど、どうして」
勇気を出せ、私。
「私、その、リュウヤさんのことが好きみたいです」
「お、おう」
「私ではダメですか?」
私は鬼同士、リュウヤさんと結婚したいと考えていた。そして勇気を出して告白した。結果、私はリュウヤさんと結婚することになった。結婚して、鬼の子どもも生まれた。食料は国が処刑した人の肉を用意してくれる。私たちは悠久の時を過ごした。
エピローグ
俺は永遠に等しい時をサツキと過ごした。だが、鬼は不老不死といえど、いずれ死はやってくる。諸行無常。俺が生きている間に世界は目まぐるしく変わっていった。産業革命が起き、機械が人の代わりに働く時代になり、戦争も銃や爆弾、毒ガスを使うようになった。
そんな折、鬼の再生能力を利用した不死身の兵士を作る計画が実施された。鬼の兵士は強かったが、敵国に恐れられた。今度は鬼を殺す毒ガスが作られ、世界には鬼を撲滅しようとする国も現れた。
俺は原初の鬼として名が知られていた。だからだろう。反鬼組織のテロリストに俺は殺された。享年355歳だった。銃で体を撃たれ、俺は地面に横たわる。そうか。これで終わるんだな。今思い返せば長かったようであっという間の人生だった。冬鬼に食われて死にかけたあの日、生と死の狭間で見た景色を今、俺は眺めている。
川を渡る日が来たんだ。
悔いがあるとするなら、最期にサツキに会えなかったことかな。
ググ。今から俺もそっちに行くよ。
俺は川の中へと入っていく。彼岸にググがいた。
「兄貴! 待ちくたびれましたよ。おかえりなさい」
「嗚呼、ただいま!」
フリーズ141 冬鬼