フリーズ137 涅槃メモリー

フリーズ137 涅槃メモリー

涅槃メモリー

 天空の門の前に、一人の少年が辿り着いた。彼は自分自身の力だけで、この天界にまで昇ったソフィアだった。門は水の上に浮かんでいて、少年は水面を歩く。生まれる水紋を眺めながら、遠き空場より放たれるエリュシオンの光らが反射するのを網膜に刻む。吹く風は心地よく、万象の風と呼ぶべき全能の香りが華やいでいた。
 門には一人の男が立っていて、少年を見ては驚いた顔をした。
「待て、君は何者だい?」
 門番らしきその男は、何やら槍を持っている。その槍で門を塞ぎながら、少年に尋ねた。
「僕はアデルです。ラハミエルとラッカの導きに、ここまでやってきました」
「ここまでって、それだと死んでいるのと同じじゃないか」
「そうなのですか?」
「ああ、そうだよ。君は早く引き返しなさい。たまにいるんだよ。悟りを開いたとか神の子とか言って、ここまで昇ってくるソフィアがね」
 門番は少年に気を許したのか、槍をおろしながら辟易と語る。
「以前に何人くらいここまで昇ってきましたか?」
「生を終えたソフィアの中で、宿命を果たしたソフィアはここまで昇ってくるさ。というより、ラカン・フリーズの門の先へと還るんだ。だけど、生きたままここまでやって来たのは、そうだね……。十人くらいかな」
「その方たちはどうなりましたか?」
「みんな追い返したよ。ここから先は肉体を以っては入れない。むしろ先に進むと君、死んじゃうよ? それに、宿命を果たさないと、君はどのみちこの先へはいけないよ」
「なら、真理はどうやって知ればいいのですか。僕は真理が知りたくて、きっと真理の解明が僕の宿命なんです」
「真理の一つや二つ、宇宙があれば存在する。君はそんな当たり前のことを見つけるために生まれたのではない。そんなものは科学者や哲学者が勝手に見つける解だよ」
「では、僕は何をするために生まれたのですか」
「それだよ。生まれた理由。それこそ君が探すべき答えだ。さぁ、今は帰りなさい。私が送ってあげるから」
 すると、門番は門のそばに泊めてあった舟に乗って、さぁさぁと少年に乗るように案内する。少年は素直に従い舟に乗ると、疚しさを噛みしめて門の方をじっと見た。その水門は黄金や白で象られた抽象的な美しさの在る、終末の門であった。永遠と生命の狭間を分け隔てる黄泉の扉。そういう類の門であった。
 男は舟を漕ぐが、その姿がだんだんと少年には見えなくなっていった。声も遠のいていって、少年は目覚めが近づいていることを悟る。
『そうか。僕は真理を知るために生まれたんじゃない。生まれた理由を知るために生きるんだ。そして、それが生きる歓びなんだ』
 全事象が揺らいで溶け合い、ソフィアらの祝福を受けて少年は第五意識に落ちる。
「アデル様、私が解りますか?」
 少年の耳に聞こえたのは、女の声だった。
「聞こえるよ、ネル。ここは?」
 少年はまだ開かぬ瞼に光の温もりを感じながら、その声に応えた。
「治癒院でございます。アデル様は、儀式の果てにその身のソフィアを燃やし尽くし、ソフィアの火が消えかけていたのです」
 少年はだんだんと目を開ける。ネルの顔を見て、安堵すると、少年の瞳から涙がこぼれた。
「美しかったな。楽園の景色は」
「楽園ですか?」
「ああ。だが、門の先には行かせてもらえなかったよ」
「第七意識の世界と神の世界を分け隔てる門、フィガロの水門のことですか?」
「門番はラカン・フリーズの門と呼んでいたよ」
「流石、アデル様。歴代最年少で七賢帝になられたばかりか、かの門にまで辿り着くとは」
「その言葉、素直に受け取っておくよ。少しばかり、横になってもいいかな」
「ええ。私はここにいますからね」
 ネルは優しく呟いて、少年アデルの手を握った。アデルは手から伝わるネルの体温によって、この世界にいることにだんだんと実感が湧いてくる。アデルは「ありがとう」と心を込めて告げると、再び眠りに就いた。

その眠りは深く、目が覚めるとアデルは泣いていた。美しい景色を見て、美しい音楽を聴いた気がしたから。その脳に抱いたのは涅槃という言葉。これがきっと釈迦の語った涅槃に違いないとアデルは思った。そしてそんな夢を見ることができたのは、ソフィアを命が途切れてしまうギリギリのところまで燃やしたからなのだと気づくと、アデルはどこか悲しくなった。嗚呼、もう神も涅槃も過ぎ去った。これから先も僕は生きていく。きっとあの至福はもう味わえないのだろう。でも、それでもよかった。僕は涅槃に浸るために生まれたんじゃない。生まれた理由を、レゾンデートルを知るために生まれてきたのだから。
探せ、世界の果て。取り戻せ、僕らの自由。
神も仏も、迎えに来る日まで。また逢う日までのお別れを。

フリーズ137 涅槃メモリー

フリーズ137 涅槃メモリー

『そうか。僕は真理を知るために生まれたんじゃない。生まれた理由を知るために生きるんだ。そして、それが生きる歓びなんだ』

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted