近代史が教える人道と寛恕

 本書は表題をテーマに編纂した、日本国(大日本帝国)と、日本人が関与した主に韓国(朝鮮)と中国を中心とした東アジアの国と地域の近代史要覧です。全体の約3/4の分量に文化史年表と略解(注釈)を、後半約1/4に特記事項を設けた。選抜した項目や内容に過不足、或は得心できない点があるかと思うが、テーマについて考えるきっかけになればと思い書き進めた次第である。尚重要事項の先頭に※印を付け、検索できる様にしたので――※の後に全文字又は幾文字かを入力して――特に関心を持たれた箇所については、更に熟考するなどして活用してみてください。また、当初200,000字以内で仕上げる予定で進めた為、言葉や句読点の使い方が乱暴で変に感じるかと思いますが、ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。

【【近現代以前の有史時代】】――日本と朝鮮・中国との因縁
 初めての朝鮮出兵・侵攻は、四世紀古墳文化時代の西暦391年頃といわれている。倭(日本)は朝鮮半島に侵攻すると、百済を破り、新羅を下して※任那ミマナに日本府を建設。住民を倭の臣民にすると倭に帰化する任那住民が増え、又住民が倭に渡来する様になった。
※任那
 4―6世紀頃まで朝鮮半島南部にあった国。日本府が置かれ日本に支配されたが、562年任那の日本府は滅亡した。
 ・参考<日本に仏教が伝来したのは538年。小野妹子を遣隋使として派遣したのが607年である。

【659年】
 4月中国※唐は、朝鮮半島南西部を割拠する※百済を下すべく※新羅の援軍を得て決戦に備えた。が唐の最大の目的は新羅に朝鮮半島を統一させ、朝鮮における唐の影響力を保つ事にあった。一方日本は友好関係にあった唐と百済のどちらを選ぶか、二者択一を迫られた末に百済を選択。結果百済は破れ滅亡した。
※唐
 618年から中国を統治した国で(690―705年に則天武后が“周”とした時期はあるが)、907年朱全忠(後梁太祖)の侵攻で唐は滅亡した(朱は国名を梁とした)。
※百済
 三韓の一つ。4世紀半ば朝鮮半島南西部に興り、660年唐と新羅に滅ぼされた。
※新羅
 三韓の一つ。4世紀中頃に朝鮮半島南東部に興り、676年唐と共に高句麗を滅ぼし朝鮮を統一。936年※高麗により滅ぼされた。
 ――※高麗コウライ
 918―1392年8月まで続いた朝鮮半島の王朝の一つ。935年新羅が領土を譲渡し降伏、936年に後百済を滅ぼし朝鮮を統一した。第31代恭慇王が改革に失敗し1392年8月李成桂により高麗は滅ぼされた。以後※大韓帝国が建国される1897年10月まで朝鮮を統治した時代を※李氏朝鮮時代という。尚高麗は……高麗コマや※高句麗ともよぶが異なる王朝である。
 ――※高句麗
 紀元前37年中国東北部の南部と朝鮮半島北部に興った王朝。元々は朝鮮半島そのものをいった。668年唐と新羅により滅ぼされた。
 ――※三韓
 朝鮮半島をに存在した三国をいい、百済・新羅・高麗をさす。

【663年】
 10月4日日本は百済の“遺臣”らと共に朝鮮半島の権益を獲得すべく、半島南西部のクム川(当時の錦江)河口にある白村江で、唐と新羅連合軍と戦火を交えた。が日本は一日で敗退。百済と友好関係にあった日本はこの「白村江の戦」に敗れた事で朝鮮半島における地位を失い、日本国内では「日本が侵略される」という噂が広まり、団結心が生れて日本という「国のかたち」が作られたといわれている。
 ・参考<644年の日本は善光寺が創建された年である。長野県の善光寺は後年天台宗と浄土宗の両派により管理運営する様になったが、鎌倉時代後期には新興仏教の一派から激しい弾圧を受けながらも、どの宗派でも受入れ、誰もが参拝できる寺院として現在まで愛され続けている。牛にひかれて善光寺参り――という言葉は「お婆さんが川に晒しておいた布を牛が角にかけて走り出してしまい、その牛を追いかけて善光寺まできたお婆さんが、意図していなかった信(仰)心を起した」という話が由来で、「本意から始めた事でなくても、気づかぬうちにその道を熱心に探求する様になり打込んでいた」とする意味があるが、辞書によりその由来に違いがある為、他辞書も参考にされたい。又翌645年の日本は大化の改新により中央集権制が始り、669年には藤原鎌足が没している。681年頃の中国では景教(キリスト教ネストリウス派)が流行し、750年高僧悟空が渡印するなどインド仏教を活発に取入れた。804年の日本は遣唐使として空海が三年間、最澄が一年間唐に派遣され、そおの唐は845年中国で道教以外の諸宗教を禁止した。

【1268年】
「貢物を謙譲せよ」との中国元の皇帝怱必烈フビライの要求を鎌倉幕府が黙殺した事を発端に、元軍は日本征服を目論見、高麗軍と共に3―4万からなる連合軍を編制。1274年11月11―26日9百隻の大艦隊で九州北部に侵攻し、鎌倉幕府率いる日本軍と近郊の島々を舞台に交戦した、所謂文永の役=※蒙古来襲である。が暴風雨により元軍の船は次々と沈没、又得意とした「てつはう=導火線に点火して投げる手榴弾似の武器」による攻撃がその威力を発揮できぬまま敗走した。
 後に南宋を滅ぼした元軍は1281年6月16―8月29日弘安の役=蒙古再来襲を決行。高麗軍の配下に置いた南宋軍兵士と共に14万の兵力で交戦するも、元軍は壊滅的な敗北を喫し日本軍の勝利に終った。二度に渡る蒙古来襲(※元寇)はどちらも暴風雨が日本に味方し、史上最大級の艦隊を誇る元・高麗軍を破ったといわれるが、急造の軍船が脆弱だった事に加え、高麗軍と南宋軍のにわか兵士の戦意と戦う技量に問題があったともいわれている。尚元軍は81年蒙古再来襲を前に使者を送り宣戦を布告したが、鎌倉幕府が使者全員の帰国を許さず斬首した為この時期の出兵になったと伝わる。
※蒙古
 中国北部とシベリア南部を「外蒙古」といい現在のモンゴル国に属し、以南を「内蒙古」といい現在の中華人民共和国に属す。外蒙古は1924年中華民国から独立しモンゴル人民共和国を樹立した。
※元寇ゲンコウ
 二度にわたる蒙古来襲(文永/弘安の役)をいい、外部から侵入する敵の意がある。
 ――1200年代から近代史の始りまで――
 1212年に法然(源空)上人が16年には鴨長明が没し、24年に親鸞が教行信証を書き上げ(後年)浄土真宗を開いた年とし、44年には道元が曹洞宗を開いた年代である。
 1333年に鎌倉幕府が滅亡すると南北朝時代に入る。自ら幕府を興そうとした北朝の「足利尊氏」と、征夷大将軍に就くよう求めた尊氏の要求を拒否して、自ら正当な皇位を宣言した南朝の「後醍醐天皇」の二つの朝廷が対立した時代である。1338年尊氏が征夷大将軍となり室町(足利)幕府を開くが動乱は止む事はなく、1392年北朝の三代将軍足利義満により南朝を北朝に譲位させる形で南北朝廷を統一し、義満は朝廷を幕府の管轄下におき「自ら日本国王」を名乗った。――この年朝鮮国が建国され李氏朝鮮時代に入る。
 八代将軍足利義政の時代、1467年には幕府の内乱「応仁の乱」が約十一年間続き、室町幕府の統率力が鈍化していく。そして勢力拡大が著しい織田信長の入京などを経て、日本は戦国時代に突入して行く――
 室町時代末期、戦国時代に入った1549年にはザビエルが鹿児島に入りキリスト教の布教を始めると、1585年関白となった豊臣秀吉は「宣教師が日本を征服し且つ※明の侵略を目論んでいる」として、バテレン追放令を発して明侵攻を決め、朝鮮国に対し明攻略に協力(経路の案内等)するよう要請するが、朝鮮から回答がない為、秀吉は朝鮮征伐=朝鮮出兵に踏み切った。明と連合を組んだ朝鮮に対して、秀吉は二度に渡り朝鮮半島に派兵するが、1598年秀吉の死去により戦役は終息した。尚一度目の出兵を※文禄の役=壬辰倭乱イムジンウェランといい、二度目を※慶弔の役=丁酉再乱チョンユジェランという。
※明ミン
 1368―1661年まで中国を統治した国号。朱元璋シュゲンショウが元を滅ぼした事から朱の国号も用いられる。明は1402年足利義満と交易を始めている。
 ※文禄の役
 1592年5月24日秀吉は十五万の兵力を朝鮮半島に派兵、鉄砲などの武力が功を奏し漢城、平壌城を占領したが、朝鮮水軍と義勇軍の激しい抵抗に加え明の援軍が加勢すると、平壌は総勢二十四万七千超の交戦状態となり、1596年物資の補給経路を断たれた日本軍は平壌城を放棄し講和に至った。
※慶長の役
 二度目の朝鮮出兵をいう。秀吉は1597年1月14万の兵を朝鮮に再征させるが再び苦戦を強いられ、98年12月秀吉の病死により軍は撤兵し終結に至った。
 ・参考<慶長の役が始る前年の96年に朝鮮から日本に印刷・製陶技術が伝わったといわれており、12世紀に中国で“金”を建国していた女真族(中国東北地方東部から沿海州にいた先住民族ツングース系族)が1661年明を滅亡させ、翌62年「清」を建国したが、朝鮮が清を排斥した事で清は朝鮮に侵攻し、朝鮮は敗北した。その後の朝鮮は平和を維持しようと、慶長の役の後に(徳川幕府の要請で)国交を回復していた日本へ朝鮮通信使を派遣するなどして(1647年鎖国令が敷かれても交流は続いた)、争いを避ける選択をした。が……1875年※雲揚号事件が朝鮮の国運を変えた。

【【近代史の始り】】
 徳川家康が江戸幕府を開いて250年となる1853年浦賀にペリーが来航し、翌年日本は開国に踏み切った。が14年後江戸幕府の大政奉還により1868年明治時代、近代に入ると列国による植民地化を恐れた日本は、国際的影響力を内外に誇示する為大陸支配へ舵を切り、豊臣秀吉の野望※征韓論を復活させ取返しのつかない過ちを重ね続ける。韓国民や中国民は豊臣秀吉の朝鮮出兵や日本がしてきた事を、自国の歴史の中に継承し続けている。

――『アジア太平洋戦争前の動き』――
【1853年】
 6月米国東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航、日本に※通商を要求し開国を迫る。45年の英国船と46年仏船に続く来航だった。
※通商と開国
 幕府は国書のみを受取り開国に関わる回答を避けたが、ペリー離日後ロシアが開国と国境確定交渉を要求すると、翌54年ペリーが再度来航し幕府は日米和親条約を締結した。続いて英、露、オランダと和親条約を締結し幕府の鎖国政策は終焉した。

【1858年】
 4月※日米修好通商条約締結。条約締結を機に日本は蘭露英仏国にも不均等条約を押しつけられた。――この年英がインドを直接統治した。
※日米修好通商条約締結の波紋
 当時の幕府は▽十四代将軍に誰を据えるか▽権力低下が危ぶまれる幕府の再建問題▽攘夷を煽る尊皇派と朝廷の関係等、難題が山積しており且つ主導者不在の状態にあった。そこで起用されたのが井伊直弼だった。大老職に抜擢された井伊は難航が予想された日米修好通商条約を自身の裁量で締結させ(条約には▽日本に関税の自主権がない▽治外法権を認めるなど不均等な内容と不合理な内容が盛込まれた)、締結に反対した朝廷の公卿や大名、攘夷派の志士らを翌59年にかけて次々と粛清、この一連の事態を「安政の大獄」と呼び吉田松陰らが処刑された。

【1860年】
 3月大老井伊直弼が水戸藩脱藩17名と薩摩藩士1名により暗殺、「桜田門外の変」が発生。変事を受けて幕府内では朝廷と共に国を統制する「公武合体論」が高まった。
 ・参考<1861―65年米国で南北戦争。

【1862年】
 8月薩摩藩の行列に乱入した騎馬に乗る英国人を殺傷した生麦事件が発生。徳川幕府は翌63年5月英国に謝罪と賠償をし沈静化を図るも(薩摩藩は幕府が支払った賠償金を返還していない)、薩摩藩は拒否し二か月後に生麦事件の報復として薩英戦争を引起した。朝鮮では官吏らの不正不敗(農民の土地の略奪や法律にない税の徴集等)に抵抗する全国各地の農民による一揆「壬戌インスル民乱」が起き、一方半島南部では人間尊重を強調した※東学思想が広まった。
※東学思想
 1860年前半に民間信仰を基として、儒学・仏教・道教を取入れ、人間尊重と平等が実現される社会を目指した思想で、創始者は崔済愚サイセイグ。東学トンハクには待天主(人は天に仕える存在)の意があり、※李氏朝鮮王朝末期には西学(天主教=カトリック)に対抗した為、新興宗教といわれ、特に農民から絶大な支持を得た(※東学農民運動を参照)。

【1863年】
 6月※下関事件=馬関戦争。
※下関事件=馬関戦争
 関門(馬関)海峡を通過した英米仏蘭の軍艦に対し長州藩が攘夷を決行。攻撃を受けた4国は下関に集結し報復、戦争に発展した。三か月に及ぶ戦争だったが、三日間で砲台を破壊された長州藩は講和交渉に策を切替え、外国船の海峡通航と必要物資の売渡しは認めたものの賠償金の支払いを拒絶した為、ここでも幕府は敗れた長州藩に代り賠償金の一部を支払い、事態の沈静化を図った。――賠償金の不足分は後に明治政府が支払った。

【1864年】
 7月会津藩松平容保と薩摩藩島津久光の公武合体派が、京都から追放されても尚挙兵する長州藩、尊王攘夷派を追討した禁門の変が発生。変事をきっかけに攘夷論者の孝明天皇は長州藩と一線を画し反攘夷に変った。尚6月には京都の新選組が尊王攘夷派の過激浪士を襲撃した池田屋事件が発生している。

【1866年】
 1月薩長同盟が成立。

【1867年】
 1月明治天皇が14歳で即位。10月の大政奉還に伴い12月王政復古の大号令、江戸幕府が廃止となる。

【1868年―明治元年】
 1月日本で※戊辰戦争、4月※神道国教化策及び神仏分離令の公布により廃仏毀釈運動が起き、7月江戸を東京に改称、9月元号を明治に改元した。
※戊辰戦争
 1月鳥羽伏見の戦い――4月江戸城無血開城――5月上野で彰義隊の戦い――5~7月長岡城の河合継之助らの戦い――8月~9月会津戦争――旧幕府軍約二千で蝦夷(北海道)に渡り「蝦夷共和国」を樹立するも、翌69年5月箱館戦争・五稜郭の戦いで敗北し戊辰戦争は終結した。
※神道国教化策
 日本は国家神道体制を敷くべく神道を国教とする当該政策を発し、神仏習合(神道と仏教を取合せる事)を禁止し、且つ「神仏分離政策」により仏教を排斥する運動が過激化、“廃仏毀釈”の名の下に寺院の仏像や仏堂等が破壊された。――神社に地蔵菩薩や曼荼羅マンダラ図像があったり、寺院に七福神がある等、神仏のみならず民間信仰が習合する神社仏閣は全国に現存する。

【1869年】
 3月首都を京都から東京に遷都し江戸城を皇居とする。5月戊辰戦争終結。――この年靖国神社が建立された。

【1871年】
 7月日本で※廃藩置県、8月※散髪脱刀令が発布され「解放令」を公布。台湾で11月「琉球民遭難殺害事件」起る(※台湾出兵と翻弄された琉球王国を参照)。
※廃藩置県
 新政府の中央集権化を目的に行われた「版籍奉還」の効果が捗々しくなかった為に実施したのが廃藩置県の改革である。版籍奉還とは大名が所有する領民を含めた領地を国に返還させて、大名を知藩事に任命し、役人に対して米や金銭をを支給する「俸禄」を与える制度。だったが、年貢(税金)の徴収権や軍事に関する権限を大名に維持させた為、権力の中央集権化は進まなかった。その為俸禄制度を家毎に支給する「家禄」に切り替え廃藩置県に移行した。知藩事に任命された旧大名は知藩事を罷免となり、東京に住まわせて府知事に就任させる制度を確立し、旧大名は地元での影響力を失った。
 こうして新政府は政治的な統一を成遂げ、中央集権化を実現させた。一方文化面でも改革が行われ、開港した都市部を中心に民衆の生活様式は変化し、新たな学問やキリスト教、近代思想等が地方へ広がった。これらの文化改革で生まれたのが72年出版の「学問ノススメ」であり、又73年キリスト教解禁に繋がった。――西洋建築や西洋料理店が現れたのも当年だった。   
※散髪脱刀令
 士族に対してまげを落し刀を腰にささないで良いとした法令(※廃刀令を参考)で――朝鮮の※断髪令は1895年に発布された。解放令とは、差別されてきた人々の身分を廃止し、職業共に平民と同じにするとした太政官(八省を統率する最高官庁)の布告だった。

【1872年―明治5】
 台湾で「琉球民殺害事件」が発生、二年後の台湾出兵に繋がった。――この年日本は大陰暦を止め※太陽暦を採用。学問ノススメ/福沢諭吉が出版された。
※太陽暦採用
 太陽暦を採用し、神話上の初代天皇神武がその地位に即位した2月11日を紀元節として(現在の建国記念日)、明治天皇の誕生日11月3日を天長節と定め(現在の文化の日)両日を祝日とした。尚西暦の採用は見送られた。

【1873年】
 この年日本で※征韓論が起り、1月10日藩兵制度を廃止し※徴兵令を公布、2月キリスト教が解禁となり、7月※地租改定条例を公布。
※征韓論
 征韓論とは、欧米列国に対抗して※朝鮮国を攻め、海外を侵略し攘夷を進める考えをいい、吉田松陰の影響を強く受けたものである。日本は王政復古を通知すると共に朝鮮に対し外交関係の改善を要求したが、朝鮮政府は日本の外交文書にあった「中国皇帝(帝王)と同等の地位を示す“皇”と“勅”(皇は天皇を/勅は天皇の言葉を表す)の字の使用は不当であり本来の外交文書と形式が異なる」として受領を拒否。朝鮮政府の対応を無礼とした木戸孝允は朝鮮国を侵略する征韓論を唱え、更に西郷隆盛や板垣退助らは旧士族らを朝鮮国支配に利用しようと画策した為、反征韓論者との間で政府内闘争に発展し、結果内政の安定を訴える反征韓論勢力に押切られて、征韓論を唱えた者は一斉に下野(公職を解かれ民間に下る事)となった。が同年「徴兵令」を成立させた明治政府は、※地租改定等で歳入が安定すると朝鮮国侵略に舵を切った。
 尚反征韓論者を敗北に追込んだ中には、明治政府外交官として朝鮮との国交樹立交渉を初めて進めた吉岡弘毅がい、その吉岡は征韓論に反対する建白書を政府に提出している。他にも五項目の長文からなる書簡で征韓論を批判した田山正中は、「朝鮮の人々は欺かない事、偽らない事を好み、気質の美しい事はアジアの中で秀でたものがある」と朝鮮民を讃えた。大隈重信も反征韓論者として知られる。
 ――※朝鮮国を攻め
 征韓論であるが、ここでは当時の国名の朝鮮国を使う。“韓”とは中国戦国時代に晉シンから独立し後に秦シンに滅ぼされた国名をいい、又古代の朝鮮(半島南部)の呼び方として認知され、当時から(現大韓民国国民も)自ら韓民族という。
※徴兵制
 国民軍名簿に17―40歳の日本人男性すべてを登録させて、20歳になった者に対して徴兵検査を実施し、合格者は抽選で三年間の兵役に就くとした制度。クジにはずれた者はくじのがれと呼ばれた。
※地租改定
 土地所有者に対して「地券」を発行すると共に地価の3%を納税させる「富国強兵政策」の一つである。結果国の財政は安定に向いわしたが、国民にとって大きな負担を強いる政策だった為、反対運動が起き後に税額を2,5%に引下げた。――富国強兵政策は他に、徴兵令と学制(学校・教育に関する制度)があった。

【1874年】
 5月6日―6月日本が※台湾出兵、清より台湾を獲得し琉球王国を日本の帰属とした。日本で2月江藤新兵前参議らによる佐賀の乱起る。――身分を失った武士らの明治政府に対する不満が、動乱となって現れた年であった。
※台湾出兵と翻弄された琉球王国
 1871年琉球王国に貢物を納めた宮古八重山船団の船団の内、宮古船一隻が台湾に漂着、乗組員54名を台湾の先住民パイワン族が殺害した“琉球民遭難殺害事件”が発生した。三年後の当年台湾を統治していた清王朝に対して(清は1684年台湾を福建省に編入していた)、明治政府が琉球政府に代って事件について問い質したところ、清が台湾を“統治化外(王下の及ばぬ地方)”とした事から、日本は5月6日約3千6百の兵力で台湾を攻撃し同月20日制圧した。
 慌てた清は日本に撤兵を要求するも交渉は難航した。清は日本賠に賠償として見舞金50万両を支払うと共に「日本軍の行動を承認する」とした為、琉球民は日本人という事になり、琉球は国際的に日本の帰属と承認された。尚台湾の出兵は西郷隆盛の弟で前年武力による征韓論を唱えた、陸軍中将西郷従道の独断だったといわれていて、又征韓論者の復権と旧士族らの不満を抑え込む為の出兵だったと伝わる。一連の交戦では双方併せて約40名の死者を出したが、日本軍は12月の撤兵迄にマラリア等に罹患し51名が病死した。――日本の帰属になる以前の琉球王国は、国際的に独立国家と認められていたが、実質的には薩摩藩の支配下にあった(※琉球王国が消滅を参照)。

【1875年】
 2月13日在日朝鮮人に対し※平民苗字必称義務令を発布。5月7日日露で※樺太千島交換条約を締結。9月20-22日※雲揚号事件=江華島事件起る。
※平民苗字必称義務令
 朝鮮人の間で日本名の苗字が普及しなかった為、戸籍整備と近代社会化が進まないと考えた明治政府は、苗字を義務化する事で打開を図った(※韓日の苗字を参照)。
※樺太千島交換条約
 ロシアが樺太全島を。日本は千島(クリル=久里留)列島十八島を夫々自国領と認めた条約。当該条約の発効により樺太のアイヌ民族に対して明治政府は、三年以内にどちらの国の臣民になるかを決める様に迫った。だが、明治政府はアイヌ民族を宗谷や江別太に強制移住させて農業開拓等に従事させた。
※雲揚号事件
 日本の軍艦雲揚が朝鮮沿岸航路を測定中に飲料水が欠乏し、江華島に短艇(小舟)を出して援助を求めたところ朝鮮守備兵が発砲、雲揚は江華島の砲台を攻撃し近郊の島に兵員を上陸させ永宗城を占拠した事件。事件後の朝鮮は開化派が台頭し、翌76年朝日修好条規=江華島条約が締結され、朝鮮は1811年対馬への朝鮮通信使の派遣以降途絶えていた、外交を再開させて朝鮮開港に舵を切った。朝鮮国王高宗コジョンは、開港に反対した儒学者らに対して「江戸時代の様な善隣友好の時代に戻るにすぎない」と説得したが、日本に対して「朝鮮は西洋と決して修好しない」と表明。結果日本は「朝鮮を独立国家と認め、清の宗主権(ある国が他国を従属国として支配し内政外交を左右する権利)を否定するとして」、条規条約の締結に至った。雲揚号事件が日本の侵略戦争の始りだとする人も少なくなく、又1882年の※壬午事変の遠因になった事件といわれている。

【1876年】
 2月※朝日修好条規=江華島条約締結により朝鮮開港。3月※廃刀令。――この年の7月アイヌ民族に対し創氏が改名され戸籍を作らせた(※創氏改名を参照)。ベルが電話機を発明したのもこの年である。
※朝日修好条規=江華島条約
 日本に有利な通商条約といわれ主な内容は以下の通り。条規・条約の締結により朝鮮は開国されて日本人の朝鮮移住が始った。
   ・第一条:朝鮮は自主国であり日本と平等な権利を持つ
   ・第四条:朝鮮は釜山の他に二カ所(後に仁川インチョンと元山ウォンサンに決定)を開港し、日本人が自由に往来し通商する事を許可する
   ・第十条:開港場内での日本国人民の犯罪は皆日本国官員が審判する
   ・通商章程第七条:日本国所属の船舶は港税を納めない。輸出入商品に関税を賦課しない
 尚“条規”は国家間で取決めた規定をいい、「条約」は文書による国家間の約束をいう。
※廃刀令の波紋
 軍人と警察官の制服着用時以外「何人も帯刀を禁止する」とした法令。身分上の特権を失い又征韓論者に敗北し、武士としての希望を無くした武士や士族に追打ちをかけたのが廃刀令だった。更に政府は国が臨時的に金銭を貸す「金禄公債制度を導入し代りに家禄制度の廃止」を決定した為(※廃藩置県を参照)、九州を中心に現山口県の士族らの怒りは以下の様に爆発した。
   ・敬神党の乱:10月24日攘夷主義で神風連ともいわれた熊本県の士族190名による反乱。鎮台を襲い熊本県令(県知事)を殺害した
   ・秋月の乱:10月27日旧秋月藩士族230名による内乱。熊本県鎮台(地方に駐在した軍隊)兵により鎮圧された     
   ・萩の乱:10月28日前原一誠前参議員ら士族三百名余による内乱
   ・西南の役:翌77年私学校生1万3千が西郷隆盛を首領に立てて決起した内乱。壮絶な戦争の末熊本県鎮台兵と警察部隊により鎮圧。刀と銃の戦いだった           

【1877年―明治10】
 英国領※インド帝国が成立。
※インド帝国
 インド帝国成立前の76年インド全土に大飢饉が襲い、混乱を鎮める為に英国政府は当年古都デリーに有力者を集めて帝国会議を開催しインド帝国は成立した。又インド帝国ディズレーリ首相は英国ヴィクトリア女王にインド帝国の冠を授けて女帝とした。

【1879年】
 朝鮮で釜山が開港。※琉球王国が消滅。
※琉球王国が消滅
 薩摩藩主島津家が武力で脅した所謂“琉球処分”によって支配下にあった琉球王国は日本に併合され沖縄県となり、琉球王国は消滅した。琉球民族の反対を押し切っての“処分”は制度等で格差を生み、琉球民は本土との差別に苦しめられる事になった(※台湾出兵と翻弄された琉球王国を参照)。

【1882年―明治15】
 朝鮮で7月※壬午事変。日本で※公娼制度始まる。
※壬午イムオ事変
 朝鮮の独立を掲げる日本との接近を図る朝鮮の閔ビン王妃(明成皇后)一族に反対し、大院君(実権を握っていた政治家で高宗の実父)に同調した朝鮮保守派兵士“旧式軍”が決起し、日本公使館等を襲撃した変事。雲揚号事件・朝日修好条規が引金になり起き起されたといわれるが……日本軍の教官から軍事訓練を受ける等の「新式軍」の処遇に対し、賃金の未払い等に不満を抱いた旧式軍の兵士が賃金の代りにようやく支給された米の中に、砂やヌカが混入していた事に憤怒して起した軍乱ともいわれる。拡大する軍乱を抑え込む為、閔勢力は清に対し軍の派遣を要請。清は応じ軍乱を収束させ、鎮圧後も軍隊を駐屯し且つ内政や外交に干渉した為、日本軍は朝鮮に対して“軍乱を収める”として漢城に守備兵を駐屯させる事を許可させた。朝鮮では軍事や外交、産業、外国語教育施設の設置等の改革を進めていたが、当事変の勃発により、自主的な開化政策を進める事が極めて困難な状況になった。
※公娼制度
 私娼制度を禁止する代りに設けられた制度だったが、1946年1月21日GHQが発した覚書に従い同年2月2日廃止された。――公娼制度は慰安婦制度と深く関係している為、※特記事項の(3)―1から8を参照。

【1884年】
 7月※清仏戦争勃発。12月※甲申事変(政変)――この年日本は1875年締結の樺太・千島交換条約によりロシア領となった、樺太へ帰ったアイヌ民族を色丹に強制移住させた。ロシア色の濃い樺太にアイヌ民族が居続ければ、露側に付き従う恐れがあった為だった。色丹に強制移住させられたアイヌ民族は強制的にニシン漁に従事。1897年をピークに北海道のオホーツク・太平洋側海域はニシンが豊漁で、ニシン景気で人員が不足していた。
※清仏戦争
 ベトナムを保護国化した「フランス」に対するベトナムの宗主国である「清」の抗議闘争である。翌85年6月清はベトナムの宗主権を放棄し、仏による保護権を認め、中国南部での通商や鉄道建設を認めるとした※天津条約を締結して講和に至った。――天津条約には、当該「清・仏」の他に「日・清」で締結したものがあり、又1858年にも同名の条約があり清は英仏米露の特権を認める不平等条約を締結していた。
※甲申事変
 朝鮮の※金玉均キムオッキュンら親日独立党の改革開化派が起した、清に依存する閔王妃派を排除し権力を掌握した政変をいい、ベトナムを巡る清仏戦争中に発生した。開化派新政府は近代的な国家樹立を目指し、日本の様な内閣制度を設けるとして人民の平等な権利を宣言した。ところが、新政府の改革内容は民衆に認知されず、寧ろ日本公使館の援助を得て起したクーデターと捉えられた事や、日本軍を宮廷に警備させた事で反感を買い、政変三日後には混乱を鎮圧する為に清軍の攻撃を受け、新政府と日本軍は太刀打ちできず政変は失敗に終った。が日本公使館を焼打ちされた日本は朝鮮と甲申カプシン事変後の講和を約する漢城ハンソン条約を締結(賠償金も要求)し、翌85年には※日清天津条約を締結して日本と清双方が軍隊を引揚げた。時の日本軍は仏戦に敗れた清軍に対抗する兵力が確保できず、又金玉均らを見殺しにした為、清の権威を高める結果になった。清の軍事力の差を見せつけられた変事として語られる一方で、金らが主張した近代国家建設の為の“改革思想”は、朝鮮人広く浸透していった。
 ――※金玉均
 開化派の外交使節団として日米を歴訪した李氏朝鮮=朝鮮国の官僚。日本の文明開化に深い関心を寄せ、本当の意味での中国からの自主独立には近代化が必須と考え、若い官僚と共に司法・立法・行政の三権分立や、各行政機関の専門性と独立性、それに王を象徴的存在として内閣が主導する政治体制を築いて、日本の徴兵制を取入れ即時動員できる軍隊を作ろうとした。又貨幣と租税制度の改革を実行し、経済の安定を図り、鉄道や道路網を整備し商品の流通と人の往来を活発化させ、郵便や電信制度を取入れ情報が素早く緊密に伝わるよう改革を進めようとした、親日開化派の中心的人物だった。
 又金玉均は来日をきっかけに福沢諭吉と交流を始めた。福沢はその理由を、朝鮮の混乱が日本に悪影響を及ばさない為としたが、福沢にとっての理想は朝鮮を近代化に導いた上で植民地化する事にあり、理想を現実化する為に、福沢は資金や武器の支援を行い、又朝鮮で初となる新聞「漢城旬報」の発刊を援助するなど粘り強く朝鮮を支援した。が甲申事変が失敗に終ると金は日本へ亡命し、尚も朝鮮の改革を諦めなかった。だが福沢は「朝鮮自らの力で独立を果し、近代化を成し遂げる事は無理」と判断して突き放し、朝鮮との連帯を諦めた。福沢の行動は、日本のアジア侵略を裏付けるものだと指摘される。

【1885年】
 6月※日清天津条約を締結。――12月22日日本で(1868年6月から続いた)太政官が廃止となり、内閣制度を定め初代総理大臣に伊藤博文が就任。
※日清天津条約
 日清両軍の朝鮮からの撤兵と、出兵の際の相互通告等を取決めた条約。条約の締結により、朝鮮では清の影響力が強まり日本の勢力は大きく後退したが、日本の主導により朝鮮を清から独立させる方針を示すと、朝鮮を巡る日清の対立は一層深まった。

【1886年】
 日本軍が※広島に大本営を設置。6月朝仏修好通商条約が締結され、仏は朝鮮国を独立国家として承認した。
※広島
 広島県に陸軍第五師団と海軍基地が整備され、八年後の日清戦争開戦直前となる1894年6月には東京―広島間に鉄道を開通させ、大陸と朝鮮半島侵攻の為の物資拠点と、兵士を集結させる軍事拠点として整備した。整備後の9月大元帥明治天皇が広島に赴き、軍服姿で軍務に従いた事はよく知られる。日清戦争終結後は大本営でなくなるが、広島には軍用鉄道や東・東南アジア、太平洋地域等を攻撃する基地など軍事施設が作られ、軍事的性質が強い都市となり軍都と呼ばれた。

【1887年―明治20】
 仏領インドシナ連邦が成立(日本では南部仏印・阿南ともといい現ベトナム南部・ラオス・カンボジアをさす)。

【1888年】
 8月朝露通商条約締結。

【1889年】
 2月11日※大日本帝国憲法を発布し即日施行。10月朝鮮で※防穀令事件。
※大日本帝国憲法
 八年前の1881年明治政府は士族を中心に広まる※自由民権運動を鎮圧する為、「十年後には国会を開きその為に必要な憲法を天皇が定める」とした。その通りに国会開設に備えて政党が作られ、多くの人々により多くの憲法草案が作られたが、それらは一切参考にされず、伊藤博文が中心となりドイツ帝国憲法をモデルに密かに作られたのが大日本帝国憲法だった。当該憲法は「※日本臣民は法律の範囲において言論、著作、出版、集会及び結社の自由を有する」とした第二十九条の記述を無視し、第一条「大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを統治する」、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」とし、又立法・司法・行政に関する統治権及び軍隊を動かす全権限は天皇が持つとし、自由民権運動の要求とは相容れない天皇の権限が極めて強いものとなった。一方で憲法を発布した事で日本は、東アジア初の憲法を有する国家となり、明治天皇を統治者とする“立憲君主国”となった。
 ――※自由民権運動
 西洋の民主主義の影響を受けた政府に不満をもつ士族を中心に広まった運動。憲法を制定し国民の代表が国会を開き、政治に反映させようとする考えの元で、各地で演説会や集会を開催し、理想とする憲法案を自主的に作った。
 ――※日本臣民
 ▽天皇を君主とする日本における人民▽君主主君である天皇に仕える民▽天皇の家来を意味する。皇国臣民とも呼んだ。
 ――※防穀令事件
 米穀類の凶作により、日本人穀物商が米や大豆等を買い占めた為、朝鮮半島では農村を中心に食糧危機に陥った。深刻な事態を憂慮した朝鮮国政府は対策として「穀物輸出禁止令=防穀令」を発した(が米の輸入が停止する事態を招いてしまう)。輸出で得られる収入減を危惧した日本政府が反発した為、翌年10月法令は撤回されたが、更に日本政府は輸出禁止によって損害を被ったとして、1891年12月朝鮮国に対し14万円の損害賠償を請求。93年賠償金が支払われた事で事件は終息した。

【1890年】
 日本で※教育勅語が示され、又※軍事予算を25%超とした。
※教育勅語
 国民の道徳と教育について天皇が示した言葉=勅語。※皇国臣民化教育を象徴するもので、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、国家にひとたび危急が生じた場合、国家の為に全力を捧げよ」との精神を国民に植えつけ、又「教育は国家に奉仕する人間を育てる事」とし、「戦争を遂行する為の犠牲は美徳とする」等国民に対し国家の捨て石になる事を厭わぬよう示すものであった(※戦陣訓を参照)。国家とは天皇に他ならぬ時代だった。
※軍事予算
 壬午・甲申両事変で清との軍事力の差を目の当たりにした日本は毎年、軍事費を増強した。1890年は25%超となり当時の山縣有朋首相は「他国からの侵略を防ぎ、独立を守るには主権線を死守するだけでなく、領土の枠を超えた利益線を守らねばならない」と議会で説いた。主権線とは“領土”を、利益線は“勢力圏”をいい、勢力圏は「朝鮮半島」をさした。

【1891年】
 清が重慶を開港し税関を設置、関税を徴集した事で外国資本を獲得した重慶は急速な発展を遂げた。

【1894年―明治27】
 朝鮮で※東学農民運動起る。7月23日日本軍が朝鮮王宮で※景福宮占領事件を起し二日後に※日清戦争開戦。中国の革命家※孫文がハワイで興中会を組織。
※東学農民運動
 朝鮮開港後も重税や支配層の腐敗の横行が改善されず、加えて日本への国産米の流出や外国商品の流入により一層生活苦に陥った農民たちは、西洋列国と日本を侵略勢力と見做して「斥洋斥倭=西洋と日本の排除」と「輔国安民=国を助け人々の暮しを安らかにする」を掲げて朝鮮社会の変革を目指し、一部の両班ヤンバン(行政と軍事業務両方を担当する役人)も加わり、全羅道チョルラド一帯で政府軍を相手に蜂起した。各地で東学農民軍が組織され、全州チョンジュを掌握した農民軍は旧体制を打破する為に▽農民を収奪し不正を行う役人の処罰▽身分上の差別廃止▽農民の政治への直接参加を政府に約束させ、「全州和約」が締結されて農民軍は解散した。解散には清と日本が朝鮮半島に軍隊をむ派遣する口実を失くす事、そして掌握した地域で改革を進める目的があった。だが東学農民運動は両班支配層と日本軍の弾圧により、際立った成果を得られずに終ったとする見方もある。
※景福宮占領事件
 7月23日日本は清に対し「両国による朝鮮の内政改革」を提案したが、清は内政干渉にあたるとして拒否。日本は単独で朝鮮に改革案を受け入れるよう迫るが、思惑どおりに行かなかった為、首都漢城を攻め、皇后が住む宮廷景福宮キョンボックンを奇襲し占領した、のが当該事件である。――事件を知った東学農民は各地で再び決起し日本軍と交戦した(東学農民戦争/甲午農民戦争・東学党の乱ともいう)。初めて戦闘となった慶北では一か月交戦し、農民軍は数百名の死傷者を出しながらも、日本軍の通信網を遮断するなどして10月には主力部隊4万を結集させ、日本軍の拠点である漢城を目指すが、国内に待機していた予備部隊が加った日本軍2千余りと日本軍側についた朝鮮政府軍3千余りと公州で戦闘となり、2万名以上が死亡(~5万の資料がある)し東学農民軍は敗北した。一方勝利した日本は清に対し――
  (1)朝鮮の内乱を日清両国で鎮圧する事  (2)日清で常設委員を出し合い朝鮮の行政改革を行う事  (3)朝鮮に自衛の為の軍隊を編制する事
 以上を提案したが清は拒否。日本は朝鮮国王の高宗を軟禁した上で新内閣を組閣させ、清との全条約を無効とし、朝鮮から清軍を撤退させる様に要求。清が拒絶した為、日本は二日後の25日※日清戦争に打って出た。
※日清戦争
 ▽朝鮮政府の要請を受けた清が壬午イムオ事変(82年7月)を鎮圧する為に出兵し軍乱を終息させその後も駐屯を続け、対抗して日本も朝鮮に守備隊を派遣した事▽日本の後押しを受け朝鮮の近代化を目指した金玉均らが起した甲申事変(84年12月勃発)を清が鎮圧し権威を高めた事▽景福宮占領事件前後の二回に渡る日清での朝鮮内政改革案を清が拒否した事で――両国の関係は悪化を極め、7月25日豊島沖で戦火を交えて日清戦争は開戦した。“朝鮮の独立”を大義に掲げて清の朝鮮半島での影響力を排除したい日本と、朝鮮の影響力を堅持したい清との朝鮮半島の利権を巡る戦いは、1895年11月8日日本の勝利で終戦した。日清戦争の主戦場は以下の通り。
  (1)豊島ホウトウ沖海戦:1984年7月25日。宣戦布告直前に起きた海戦。日本の連合艦隊が清の北洋艦隊に集中砲火をあびせ圧勝
  (2)成歓セイカン/牙山アサンの戦闘:7月28―30日。成歓に兵8千を集結させた清を砲八門からなる日本の混成旅団が撃破。初めての大規模な陸上戦だった
     ――9月1日日清両国が宣戦布告――
  (3)平壌の戦い:9月15日城壁の街として知られる平壌を包囲した日本軍が兵1万からなる清軍に勝利。清兵士の多くが戦中逃亡したといわれる
  (4)黄海海戦:9月17日鴨緑江オウリョクコウ河口付近における4―5時間余の砲撃戦で巨艦に大損害を与えた日本が勝利
  (5)旅順口攻略:11月21日難攻不落と呼ばれた旅順要塞を日本軍が総攻撃を加え占領。その際※旅順虐殺事件が発生した
 ――※旅順虐殺事件
 旅順攻略戦の際日本軍が三日間に渡り旅順市民2万名を虐殺した事件。日本は事件を兵士の犠牲に対する報復だとした。現在旅順市内には「万忠墓記念館」が建てられその記録を継承している。
  (6)威海衛の戦い:95年2月1日―12日の雪中戦で凍傷者が続出する中での陸海軍共同作戦。清の砲艦鎮北が白旗を掲げ降伏文書を提出、日清戦争は終結した
※孫文
 中国の革命家で蔣介石が表舞台に登場する前の指導者孫文は、ハワイで興中会を組織し清の打倒と改革勢力による政府創立を目標に、その活動資金を獲得すると同時に海外に向け組織の活動状況を発信し、その存在をアピールした。

【1895年】
 2月日清戦争が終結し4月※下関条約=日清講和条約を締結。同4月日本が※三国交渉に臨み、5月※台湾征討。朝鮮で10月※乙未事変=明成皇后(閔王妃)殺害事件勃発、その朝鮮に12月※断髪令が発布され、東学農民らが※第一次義兵運動を展開した。
※下関条約
 4月17日次の内容で条約は締結された。
  (1)台湾、遼東半島、澎湖諸島を日本へ割譲する事
  (2)朝鮮を自主独立国家として認める事
  (3)中国の沙市、重慶、蘇州、杭州湾の四港を開港する事
 清と君臣関係にあった朝鮮の独立を達成させた日本だったが、日本の権力を恐れ、又清(特に※満州)と利害関係のあったロシア帝国は、フランスとドイツ帝国を誘い込んで日本の領有権を巡り介入し、※三国干渉を展開した。
 ――※満州
 清のいう満州は奉天省、吉林省、黒竜江省の三省をいい、後に日本が建国を宣言した“満州国”は清のいう三省に、熱河省と興安省を加えた五省と内蒙古からなる地域をいう(※満州国建国を宣言を参照)。
※三国干渉
 下関条約調印から六日後の4月23日、露仏独三国が日本が清から獲得した領土、特に「遼東半島の放棄」を勧告。不凍港を求め南下政策をとっていたロシアの強い返還要求と、露と友好関係にあった仏、それに欧州での孤立を避ける為に参加した独の三国に対し、日本は5月4日清から奪った台湾、遼東半島、澎湖ホウコ諸島のうち遼東半島を返還する勧告を受諾し、清は朝鮮、台湾、遼東半島の喪失と※中国を分割租借する事が決められた。又清は日本に対し賠償金を支払う事を受入れ、日本は清との間で11月8日遼東還付条約を締結、賠償金三千万両(約4500万円=現在の価値で約3億1千万円)を獲得した(当時の日本の国家予算は約8千万円だった)。――獲得した賠償金の用途は、軍備拡張費に62,8%、臨時軍事費21,9%、皇室費用5,5%、教育基金及び災害準備金に2,8%とし、軍事費だけで全体の84,7%を占めた。
 ――※中国を分割租借
 租借とは「他国の領土の一部を借り受ける形で統治・支配する事」をいうが、三国干渉の結果日本の影響力の弱まった清では、仏独露による領地の分割租借が行われた。ドイツは1898年山東半島の膠州湾を租借し、後に独軍東洋艦隊の拠点となる青島港を湾入口に建設した。日本に対し遼東半島を清に返還するよう要求したロシアは、同年その遼東半島を租借し且つ清から満州の鉄道敷設権を得て、後にこれらの権益を利用し大規模な海軍基地を作った。翌99年にはフランスが杭州湾一帯を租借した。だが租借は三国のみに留まらず、三国干渉に加わらなかったイギリスは98年九龍半島と威海衛を租借した。分割租借に乗り遅れた形の※アメリカ合衆国は、同時期にハワイ合併とグアムの領有、そしてフィリピンの領有化に成功していた。
 遼東半島を横取りされた形の日本の露に対する憎悪は、親露派として知られる明成皇后殺害事件=乙未事変や日露戦争という形で表れ、又日清戦争以降ニッポン軽視を始めた欧米列国の変化に対し、日本国内で特に対露戦争をのぞむ主戦論・対露強硬論が高まった。主戦論を煽動した明治政府は、国民に対し「忠君愛国」の精神を根づかせ、国家の利益を最高の得とする教育を推し進めた。
 ――※アメリカ合衆国の戦略
 1893年1月ハワイホノルルに停泊中の米軍艦の援助を受けて現地米国人が革命を起し、翌2月ハワイ暫定政府との間でハワイ併合条約の草案を作成し調印に至り米上院に提出され、94年4月ハワイ臨時政府にハワイ共和国の樹立を宣言させた。95年1月6日に先住民の武装蜂起があったものの、97年7月米大統領マッキンリーがハワイ合併案に署名し、1900年ハワイは米国の准州となった。ハワイとグアム、フィリピンの獲得はアジア進出の為の戦略の一つだった。
※台湾征討
 下関条約締結の結果日本領となった台湾は反発、台湾防衛の為に派遣された清の軍人劉リュウ永福らは、5月五万の兵力と共に「台湾民主国」の建国を宣言した。これに対し日本は同月29日台湾総督樺山資紀スケノリが台湾に上陸した近衛師団と合流し台湾を攻撃、6―7月に兵力を増員し、10月21日台湾北部を平定、劉ら“反乱軍”は海路を逃走、11月台湾総督府を開庁させた日本は台湾平定を宣言した。宣言迄を台湾征討・乙未イツビ戦争といい(乙未事変とは別)、乙未ウルミは当95年の干支をさす。
※乙未事変=明成皇后(閔王妃)殺害事件――下関条約が与えた影響
 下関条約で独立を果した朝鮮と露の関係が深まる事を恐れた日本は、朝鮮侵略を目論む軍人出身で外交官の経歴のない三浦梧楼を日本の公使として朝鮮に派遣。三浦は朝鮮侵略の妨げとなる朝鮮国王高宗の妻、明成皇后=閔王妃を排除する為、朝鮮に渡った壮士(明治政府に反抗し自由民権運動に関わった者。大陸浪人ともいう)を利用し、日本軍により鍛錬された朝鮮訓練隊とで一群を編制。10月8日皇后の住む景福宮を攻め、明成皇后を殺害、遺体を燃やして証拠隠滅を図った。三浦は日本人の仕業と分からぬ様に朝鮮訓練隊を先頭に立て、日本兵には朝鮮服を着せ、当該変事を朝鮮政界内の利権争いに見せかけ様と試みるが、現場を目撃した米、露人の証言により日本が引起した残虐事件として世界中に知られる事となった。日本は国際的な非難を受け「朝日修好条規の治外法権条項」が適用されて、日本軍人と民間人50人余が広島で裁判にかけられた。が! 日本人は明成皇后を殺害した壮士らを英雄扱いした。
 尚「明成」皇后の名は、殺害の二年後に朝鮮国が大韓帝国となった際に高宗がつけた名で、生前は住んでいた建物の名をとり中殿チュンジョン・ママと呼ばれた。一方「閔」の名は、明成皇后=中殿ママと対立していた大院君や日本人が侮辱を込めて「閔一族から嫁いできた王妃」だった事から閔王妃と呼んだ。明成皇后は連日宴会を開き財政を欠乏させた上に清・露に通じた親露派だったという。
※断髪令
 12月30日朝鮮の伝統的な髪型サントゥ(結婚した男が結い上げたまげ)を切る事を強制した法令。朝鮮男性は「両親から受継いだ身体は髪の毛一本たりとも傷つけない事が親孝行」と考えていた為、多くの朝鮮人の不満が爆発、東学農民らは※第一次義兵運動を展開させた。尚日本人に対する断髪令は1871年発布されていた。
※第一次義兵運動
 朝鮮に断髪令が発布されると、10月に日本軍が引起した※乙未事変も相まって各地の反対運動は拡大し過激化していき、義兵団が組織された。地方で信頼を得ていた両班が義兵長となり抗日の意志を示すと、義兵の数は4万に上り、軍資金は増え、日本を排斥する為の軍隊を組織し日本軍を烈しく攻撃した。日本軍と関係のある日本人商人や、日本軍に協力した倭郡守ウェグンス(地方役人)も容赦なく殺害対象とした。が日本軍と朝鮮政府軍の激しい弾圧、そして高宗国王が「断髪令を解除し撤兵を命じた」事で各地の義兵団は解散していった。尚前年発生の東学農民戦争を当該運動に含むとする資料もある。

【1896年】
 朝鮮で2月高宗が※俄館播遷を起し、又※独立新聞が発刊され、11月17日太陽暦を採用した。――この年清が初めて留学生13名を日本へ送った。
※俄館播遷ガカンハセン
 乙未事変後に身の危険を感じた高宗国王が、秘密裏に執務を行う場所をロシア公使館に移した事をいい露館播遷ともいう。又亡命ともいわれている。当初高宗は米国公使館への逃避を予定していたが、失敗して露公使館に変更した。俄館播遷に成功した高宗は、親日派の閣僚や要人を逆賊として処罰し新たな内閣を組織したものの、高宗が露公使館にいた凡そ一年の間に、露は朝鮮半島の鴨緑江や豆満江流岸の森林伐採権を手に入れ、反発した米国や日本等は均等を要求し、結果日本は鉱山の採掘権や鉄道敷設権等利権を得て日露対立が鮮明になった。露公使館を退却した高宗は、人口増加が著しい漢城の近代都市化に着手し、欧米に習って道路を放射状に整備し、電気・水道・鉄道等のインフラを導入し、自身の皇帝即位式の為の圜丘壇ウォングダン(祭典の儀式を行う場所)を作った。
※独立新聞
 独立トンニプ協会が発刊した朝鮮初の民間発行の新聞。国内情勢のみならず西欧社会の実状や※民主主義思想、政府政策等が広く朝鮮人に知られる様になり、発刊をきっかけに各地で討論会が開かれた。発行元の独立協会は聴衆の声を政治に反映させ様と考え、1898年「万民共同会」を開催し報道・集会・言論・出版・結社の自由等の他に、海外勢力から朝鮮をどの様に守るかなど大臣を交えて議論した。又不正を行う役人の告発や民主的な政治を実現させる運動等を展開したが、政府の弾圧を受け、激しく抵抗するも独立協会、万民共同会ともに解散させられた。だが両者の活動により自由と民権、平等を求める思想が朝鮮に広く浸透していった――朝鮮で初めて刊行された新聞は政府発行の漢城旬報で、独立新聞と共に広く購読された。
 ――※民主主義
 国民に主権があり、自由と平等を尊重する主義。尚民主国とは、国民が自分の意思に基づき国を統治する権利のある国家をいう。

【1897年―明治30】
 10月13日※大韓帝国建国し、※光武改革を実施。――この年日本で朝鮮人労働者が初めて九州の炭坑に導入された。
※大韓帝国建国
 朝鮮国の国号を大韓帝国、国王を皇帝に改称。皇帝に即位した高宗は、近代国家としての歩みを進める為に※光武改革を推進した。――大韓帝国建国により1392年8月から続いた※李氏朝鮮時代=朝鮮国は終焉を迎えた。
 ――※李氏朝鮮
 約五百年続いた李氏朝鮮は、朝鮮半島に儒教を根づかせた事で広く知られる。儒教とは孔子を祖とする思想家の教えを集大成した※仁を基とする政治や、道徳の実践を説いた学問をいい、韓国では儒教の教えが(21世紀になっても)国民の暮しにとけ込んでいる。
 ――※仁
 私欲のない思いやりの心をいい、孔子が“人を愛す”の一言で表した、儒学で最高の徳とする言葉。又その実践こそが、義(人として行うべき正しい道)であると説いた。
※光武改革
 1907年まで実施された当該クァンム改革は、▽軍隊を増強し他国の侵略を防ぐ事▽土地調査を実施して納税を義務化し税収を増やす方針▽鉱業・繊維業・金融業等の会社や工場の設立により※商工業を発展させて税収を増やす方針▽国民の雇用を確保する事▽各種産業や技術学校等の教育機関を設立し技術の習得支援の為に海外に留学生を派遣する――等の改革を推し進めた。又8月に改元された年号の「光武」には……外国の干渉から脱し、人々の力を育て、国を輝かす意が込められている。
 ――※商工業発展の歴史
 1700年頃の朝鮮国は農業や手工業=加工業・鉱業等の生産量が増加し、貨幣での商品の取引や流通が活発化した。農業ではタバコや朝鮮人参、綿花等の栽培で高い収益を上げ、農民はその利益で両班を買うほどになり、自然と教育を受ける機会の拡大に繋がった。だが19世紀に入ると王室と婚姻関係を結んだ少数の一族による不正や腐敗が横行し、官吏らは農民に対して勝手に課税をかけ税を徴収したり、土地を奪うなどした事から、全国で農民一揆が起き(1862年壬戌民乱等で)官吏らに抵抗した、※東学農民運動はその表れだった。尚日本の農民一揆は1831年の百姓一揆や、1837年元幕府の役人らが民衆を先導して起した大塩平八郎の乱等が知られている。

【1898年】
 9月清で※戊戌の政変。3月より韓国各地で万民共同会を開催(※独立新聞を参照)した。
※戊戌ボジュツの政変
 立憲政治による改革を目指した清の皇帝徳宗=※光緒帝が幽閉された事件。翌99年にかけて中国が分割租借された事から、光緒帝は日本の明治維新に習い政変を企てたが、保守派で排外主義で知られる西太后らのクーデーターにあい(※義和団の乱を参照)失敗に終った。光緒帝は西太后の妹の子で、西太后は日清戦争以降清の権力を掌握していた。尚98年が戊戌ヒノエイヌの年だった事からこう呼ばれる様になった。
 ――※光緒帝の呼称
 帝王名を徳宗といい、“光緒”は年号をさすが、通常は「光緒帝」の様に年号でよばれる。日本で明治・大正・昭和天皇をそうよぶ様に。

【1899年】
 6月韓国で※大韓国国制を発布。――この年日本で(勅令352号により)中国人労働者の入国が禁止された。
※大韓国国制
 朝鮮・韓国史初となる文章で公布した成文憲法。▽他国に干渉を受けない独立国家である事▽皇帝は大韓帝国の最高権力者である事▽大韓帝国は専制君主国である事を、内外に宣言した欽定(君主の命令で定めた)憲法といわれる。

【1900年】
 6月清で※義和団の乱から※北清事変が勃発。
※義和団の乱
 列強諸国の清への進出で、生活自体を脅かされた農民や都市部の貧しい人が決起し、侵略者を退ける為に「義和団」を結成。山東省で組織された義和団は、扶清滅洋フシンメツヨウ(清を助け西洋を滅す)を掲げ、教会を焼き、北京の各国大使館を包囲しドイツ公使らを殺害した。被害を受けた独を始めとする西欧諸国は義和団を鎮圧する為、居留民を保護する名目で、英・仏・独・伊・日・米・オーストリア=ハンガリーに※ロシアが加わり八カ国で連合軍を構成。6月露独英軍が侵攻すると、日本は艦隊を編制、清の大沽タイコに水兵を上陸させた。それ対し清の※西太后は連合軍に宣戦布告し列国艦隊を攻撃――北清事変の勃発である。
※北清事変
 清軍が加わり軍事力の増強した義和団と清軍に対し、連合軍は6月陸上戦の先陣を切り露軍がタークー砲台を攻撃したが、独英軍が後に続かなかった為、予備軍的立場だった日本軍は、三等国の汚名を返上し、且つ大韓帝国と中国を侵略するこの上ない好機とみて、第一線に割込み兵力320名で突撃。7月6日には全体の2/3にあたる2万2千からなる第五師団を派兵し、連合軍を統率して勇戦し早々に天津を攻略(嫌な役目を卒戦して担い、手柄は他国へ譲るなどした為、清軍の兵士までもが感銘する働きだったと伝わる)し、6月の連合軍進攻以降、こう着状態にあった北京を当年8月14日に攻略した。義和団の乱、北清事変を沈静化した連合軍は日本軍が中心となり、更に内陸に進軍すると共に、翌01年7月まで北京を占領した。
 ――※ロシアが加わり
 1896年6月ロッシーニ密約といわれる※露清条約を締結していた露の連合軍参加は、満州を占領した上で朝鮮半島占領をも目論んだ南下政策を完遂させる意図をもち、又東アジアでの権益を独占する為の“対日戦争を想定”した、▽日本の戦力や対応能力▽北東アジアにおける欧米の力関係の見極め▽対日戦争に踏切るか否かを、判断する為の参戦だったといわれる(1904年開戦の※日露戦争は朝鮮半島と満州の権益を争う戦争だった)。
 翌01年7月露軍以外の連合軍七カ国は清から撤退したが、鉄道建設を妨害する義和団を制圧するという理由で露軍は駐留を続け、又義和団の一部が満州北方ロシア・ブラゴヴェシチェンスクを占拠した報復として、中国東北地方=満州に2万の軍隊を派兵し、満州を事実上の占領下に置いた。その上露清密約が発覚した事で露日の対立は急速に悪化、日露戦争開戦へと繋がった。
 ――※露清密約
 日本が露、韓、清を攻撃した場合、▽露清は共に支援し合う事▽同意なく他国と平和条約を結ばない事▽有事の際に清は露に港湾を開放する事等を取決めた内容で、発覚した露清密約は1900年11月締結の第二次露清密約と呼ばれるもので、露の南下政策を清が認める内容が盛込まれていた事で、韓国と満州の利権を巡る日露の対立が深刻化した。尚清は1904年日露戦争開戦により当該密約を破棄している。
 ――※西太后
 日清戦争以後清の実権を握った西太后は、列国に対し宣戦を布告したが、敵軍隊が北京に迫ると光緒帝と共に西安に逃走し難を逃れた。後年西太后は北清事変の咎めもなく後宮で暮したという。尚西太后は光緒帝の二代前となる咸豊帝の側室で、咸豊帝の間に同治帝を出生している。
 又清軍投入には異説がある。西教=キリスト教の排斥集団として決起した義和団だったが、スローガンを扶清仇教から「興清滅洋」に変えると、北京や天津で外国人を皆殺しにするという流言が飛び交い始めた。一方日英露独の連合軍は義和団がキリスト教会を標的としていた事から、水兵を上陸させ義和団と衝突、衝突をきっかけに中立を保っていた西太后は仇敵とみていた“欧米人を攻撃する好機”とみて、「興清滅洋」を掲げる義和団の支援に廻り、個人的な理由にも関わらず「国を挙げて侵略者と戦う」という大義名分を掲げ宣戦布告したともいわれる。――現在の韓国のキリスト教会、キリスト者は信仰が篤い事で広く知られている。

【1901年】
 9月7日※北京議定書締結。5月18日日本で※社会民主党が結成される。
※北京議定書
 北清事変で出兵した英米独仏豪伊露日に、ベルギー、蘭、スペインを加えた講和条約の締結により、▽北京等に守備隊が駐留する事▽清は賠償金を支払う事(国家予算の約8,5倍)――を取決め北京議定書は成立した。事後処理について定めた当該最終議定書を辛丑和約ともいい、辛丑シンチュウは干支をさす。
※社会民主党
 低賃金や過酷な条件下で苦しむ労働者や農民、男尊女卑に苦しむ女性、貧困や差別で苦しむ国民の為に、人間が人間らしく生きる社会の実現を目指して阿部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江らにより結成された日本初の社会主義政党だった。が……9月20日結成から二日後強制的に解散させられ、幸徳秋水は1911年※大逆事件の首謀者として処刑された。尚資料にある1908年頃の日本は、「社会」という文字がタイトルにある化学の本が発売禁止になっている。

【1902年―明治35】
 1月第一次※日英同盟協約成立。4月露清が※満州還付協定を締約。
※日英同盟
 極東地域での権益を得る為には清との交易が不可欠と考えていた英国と、大韓帝国への侵攻も辞さない露の南下政策を阻止し且つ欧米列国と対等な国力があり、清への影響力がある事を世界に知らしめたい日本の利害関係が合致し、1月30日協約は調印された。内容には中国と朝鮮半島で、日英どちらかの国が他国の侵略行動により交戦に至った場合、両国は中立を守る事を定めた。
 英国は同年に終結した南アフリカボーア戦争で国力が低下しており、露の南下を単独で阻止できる状態になかった。日本は露と交渉し「日本は韓国を支配下に置き、露は内蒙古を含めた満州を支配下に置く妥協案」を提示したがロシアは拒否。その露は1882年以来友好関係を維持していたドイツの干渉で、バルカン半島からの南下政策を断念していた為、東アジアの南下政策が必須だった。
 協約の締結後、日英は露に対し直ちに満州から撤兵するよう要求したが、露は拒否し増兵して駐留を続けたが、その露は清との間で4月8日清から撤退する※満州還付協定に調印したが……
 ――※満州還付協定=満州還付に関する露清協定
 4月8日北京で調印された当該協定では「露が一年半の間に三期に分け満洲から撤兵する事」で露清が合意し締約に至った。露は1903年夏頃迄に全軍を撤退させるとしたが、協定を無視し駐兵を続けた……

【1903年】
 3月大阪で第五回内国勧業博覧会=内国博を開催し※学術人類館を展示。4月日本の「中学校」で※国定教科書化。――この年※満州還付協定成立後のロシアの動きに対し日本で対露開戦論が高まった。
※学術人類館
 7月31日まで開催された大阪内国博では琉球民族、アイヌ民族、台湾の生蕃、インドのバルガリー部族等を七種の土人として公開した。人を見世物にした“人間動物園・ヒューマンズー”である。人間動物園は1889年のパリ万博で始り20世紀半ばまで行われたが、大阪内国博の翌年の04年開催のセントルイス万博では、1865年に南北戦争で敗れて投降した米国先住民のアパッチ族酋長ジェロニモを展示対象にするなどした。その国の自然や文化と併せて人間が展示された背景には、民族史博覧会、植民地博覧会と銘打って開催した事からも、自国の歴史や国力をアピールする狙いや、(人間を含む)貿易の振興を図る狙いがあったといわれる。日本の場合は日本がまだ未開の地と位置づけられていた為、自国をアピールする好機と考え、又不平等条約を締結させられるなどしていた日本にとって1902年に締結された日英同盟協約締結の勢いに乗じて、世界と対等な国家である事を証明したい狙いがあったといわれる。
※国定教科書
 文部省作成の全国一律の教科書。戦争を肯定し、「天皇と国家の為には、進んで命を捧げる臣民を養成する目的」をもち、その教育が徹底された。
※満州還付協定調印後のロシアの動向き
 ・1902年10月8日:露軍の第一期撤退予定日だったが、露兵は鉄道守備隊に姿をかえ駐留を続けた。
 ・1903年4月8日:第二期撤退予定を露が反故にし、満州と韓国南部国境沿いに軍を派遣、鴨緑江を越え韓国内に進攻し、各地に軍事基地を建設すると共に守備隊を置き朝鮮半島支配に向けた軍事行動に出た。
 ・同年5月14日:露が清に対し「他国に土地を売らない」等、露軍撤退後の満州を見すえた七条件を提示。
 ・5月20日:露の七条件を清が拒否した事を受けて、露は満州還付協定の破棄を決定、満州の独占支配を宣言した。
 ・7月1日:遼東半島租借により満州の鉄道敷設権を得た露が、東清鉄道の営業を開始。鉄道建設と共に旅順・大連~遼陽~奉天及び長春(後の新京)等に軍事拠点を築いた。
 ・7月23日:日露交渉決裂。日本は妥協案として、満州の覇権を日本が放棄し露の支配下に置く事を認める代りに、日本が韓国を勢力圏に置く事を露が認める内容の「万韓交換交渉」を提示するが露は拒絶し、満州統治に向け軍事行動を加速させた。
 ・8月12日:露が遼東半島旅順に極東総督府を設置。旅順は満州南端にある港湾の町だったが、98年清から遼東半島を租借した露は、強固な要塞を築き軍事都市化していた。
 ・10月8日:第三期撤退予定を露が反故にし、満州奉天城(府)に侵攻し満州を支配。奉天(現在の瀋陽市)は北京に遷都する以前に清が首都を置いていたが、露は支配後の奉天を首都北京と同様に位置づけた。

【1904年】
 1月大韓帝国が※戦時局外中立を宣言。2月9日※日露戦争開戦、同月23日※日韓議定書締結。4月日本の「小学校」で国定教科書化。8月※第一次日韓協約調印。――この年1873年から続いたアチェ紛争が終結しオランダ領東インド(現インドネシア)が成立。
※戦時局外中立を宣言
 国家が同宣言を発した際には、交戦国はその国の中立を尊重し守らねばならず、▽領土領海における作戦行動▽交戦国軍隊の通過通行▽交戦国の港湾使用等が禁止となる。が韓国の戦時局外中立宣言を英仏清等は承認したが、交戦必至とみていた日露は承認しなかった。
※日露戦争開戦
 朝鮮半島と満州の権益を争った戦争。露は2月3日対日戦争に向け動員準備を発令すると、翌4日日本は御前会議で対露国交断絶と開戦を決定、6日露に対し断交を通告し、遼東半島旅順と韓国仁川に向け連合艦隊を出撃させた。主力艦隊は旅順港に、一方第二艦隊は2月8日仁川港に入り陸軍の護送を終えると、(中立港の仁川港内では交戦ができない為)露艦隊に対して翌日迄に出港するよう要求。要求通りに出港した露軍艦二隻に対し第二艦隊は仁川沖で攻撃を加え、巡洋艦を自沈させ一隻を自爆に追い込んだ。2月23日漢城王宮の占領に成功した陸軍先遣隊は、計画通りに※日韓議定書を武力で脅して締結させ、2月24日仁川沖の第二艦隊は露軍艦に夜襲を仕掛けるも、敵艦が出撃しなかった為、3月27日と5月2日老朽化した船を沈め港を封鎖しようと試みる。だが露軍の陸上砲台からの反撃にあい失敗に終った。尚仁川沖で自沈した露軍巡洋艦は日本海軍により引上げられ、連合艦隊宗谷として活躍した後、第一次世界大戦で再び露艦隊に復帰している。
 仁川沖海戦を日本軍の奇襲とする見方があるが、上記の経過を辿れば、露は2月9日に、日本は一日遅れの2月10日に宣戦布告したとする説が有力視されている。又仁川沖で偶然両軍が遭遇し戦火を交えたとする説もある。日露戦争の主な日本軍の作戦は次の通りで、〇は日本軍の勝利/△は分け/×は敗戦である。

 ――1904年冬~春期
 2月9日韓国仁川沖海戦〇 2月24日第一次旅順港封鎖作戦× 3月27日第二次旅順港封鎖作戦× 4月30日韓国鴨緑江アムノクカンの戦い〇 5月3日第三次旅順港封鎖作戦× 5月25日中国南山作戦〇
 ――1904年夏期――
 8月10日韓国黄海海戦〇 8月14日日本海蔚山ウルサン沖海戦〇 8月19―24日第一次旅順包囲戦△ 8月24日―9月4日中国遼陽会戦〇
 ――1904年秋~05年終戦
 9月19―22日と10月26―30日第二次旅順包囲戦△  10月2日―20日中国沙河サカ会戦△ 11月27―12月5日(中国203高地占領)第三次旅順包囲戦〇 05年1月25―29日黒溝台会戦〇 2月21―3月10日中国奉天会戦〇 5月27日日本海海戦〇

 日本軍約30万と露軍50万の兵力で交戦した日露戦は、日本人11万5千超、露人4万2千超の戦死者を出し終結した。そして8月10日日露ポーツマス講和会議が開かれ、9月5日日露※ポーツマス講和条約が締結された。
 日本海軍は横一列に艦隊を配置し敵艦隊の進路を遮り、側面から正面を向く敵艦隊に対し攻撃する作戦(側面からは多数の砲撃が可能となる)が威力を発揮し、日本海海戦では当時世界最強といわれた露軍バルチック艦隊を壊滅させ世界を驚かせた。同艦隊は、北欧⇒アフリカ大陸南端の喜望峰⇒インド洋⇒東南アジア⇒日本海と大遠征の末の参戦だった。
 一方陸上戦は兵力・火力共に勝る日本軍の有利と見られていたが、要塞を築いた露軍の激しい抵抗にあい想定以上に苦戦した。だが徹底した包囲戦や状況に応じた作戦の展開で日本軍は勝利した。その象徴が第三次旅順包囲戦だった。二度に渡り旅順港の露艦隊を攻めあぐんでいた日本軍は、旅順港が一望できる203高地を占領し観測所を設置して砲撃する作戦に切り替え、その作戦が功を奏し勝利した。又日本海海戦と並ぶ激戦といわれた奉天会戦では、激しい風と吹き荒れる黄塵(黄砂)に露軍が悪戦苦闘し日本に味方したと伝わる。この風を日本人は“神風”と呼び後年使われる様になった。
 又日露戦中の日本は忠君愛国の意識を高める為に、全国の市町村役場の主導で、▽出征する兵士の歓送式▽慰問金品の募集▽戦死者の葬儀▽戦勝祝賀会の開催▽帰還兵の凱旋式等を行った。他にも動員された家族に資金援助をしたり、軍馬として馬を差出し人手不足になった農家の作業を分担制にするなどしたが、一方で軍重工場の労働者は長時間の過酷な労働を強いられた。日露戦の最終局面05年の農業は大凶作で、その上農業にかかせぬ馬がいない事も手伝い、農家を廃業し北海道や東京に“流れる”人で、上野駅は失業者が溢れたという。一方熊本県では召集令状を受取った父親が、後顧の念(後に残された心配事)を取除く為、三歳になる一人娘を手にかけ=殺して出征したという話があり、この事件を「御国に尽くす強い気持の表れ」と美談として扱った記録が残る。――日露戦争では、旭川陸軍第七師団が北海道、樺太、千島のアイヌ民族63名を徴収したとの資料が残る(樺太は当時ロシア領の筈であるが)。
※日韓議定書
 2月23日締結の日韓議定書の内容は、▽韓国内における日本軍の行動の自由を保障する▽日本軍に全面的に協力するとした――軍事上必要な便宜と土地の提供義務を大韓帝国が負うとするものだった。が日露戦に勝利した日本は、当該議定書を盾に韓国内に軍を駐屯させ、軍事施設や鉄道建設等に必要な土地を奪い韓国民を徴発(強制的に仕事に就かせる)した。尚締結に最後まで反対した李容翊イヨンイクは、日本軍に拉致され日本で十カ月軟禁された。
※第一次日韓協約
 8月22日調印の当該協定は、「韓国内に日本政府推薦の財政と外交顧問を置く」内容と「韓国の外交案件は日本との協議制にする事」が取決められた。協約の締結により日本は日露戦と並行し大韓帝国の臣国化を始めた。

【1905年】
 7月※桂・タフト協定締約。8月※第二次日英同盟協約。日露間で9月※ポーツマス講和条約が成立し日露戦争終結。9月※日比谷で焼打ち事件発生。11月日韓が乙巳条約を締約。11月韓国内の鉄道※京義線が完成。――この年の2月島根県が竹島を管轄下に置く「県告示」を発し、明治政府は8月日本の領土を主張した(※独島・竹島領有権問題を参照)。又孫文らが東京で中国革命同盟会を結成。吾輩は猫である/夏目漱石が出版されたのもこの年だった。  
※桂・タフト協定
 7月29日日本が日露戦に勝利した場合「日本は大韓帝国を、米国はフィリピンをそれぞれ領有する事」を承認し合った日米密約をいい、日本の優位で進む戦況下で、アジアでの利権争いと日米間の衝突を避けたい意向が一致し、協定は締約に至った(※アメリカ合衆国の戦略を参照)。締約により日本人はフィリピンに移住していき、生糸等の原料となる麻を栽培して日本の繊維産業を支えた。アジア太平洋戦争開戦迄に移住した日本人は約3万人に上り、比人女性と結婚し子どもに日本人の名前を付けるケースが数多くあったという。――だが日本が大戦に敗戦すると、迫害を恐れて子供の名を母親方の名に改称し、又終戦の一年後の1946年引揚船が出港したが、3千5百名余は比に残留したという。
※第二次日英同盟協約締結
 8月12日日本は英国のインド支配を認め、英は日本が大韓帝国における主権を有する事を認め、同協約の有効期間を十年間延長する事で合意。日英同盟協約の改訂である。
※ポーツマス講和条約=日露講和条約
 日露戦の天王山と位置づけた日本海海戦に勝利した日本だったが、戦争を継続する為の戦力・戦費共に欠乏した為、8月10日米ルーズベルト大統領に講話の仲介を依頼し、海軍力を失い欧州情勢を抱えていたロシアが応じポーツマス講和会議は開かれた。日本は露に賠償金を要求したが露は拒否。日本は譲歩し、露側の最低条件で9月5日講和条約は成立した。主な内容は次の通り。
  (1)樺太南部(サハリンの北緯50度以南)を日本に割譲する事――樺太は鉱物資源と魚類等が豊富だった
  (2)大韓帝国を日本の※保護国と認める事
  (3)清の旅順と大連を日本が租借し、長春から旅順間の鉄道利権を日本に譲渡する事
  (4)両国軍は満州から撤退し、清における立場を均等(対等)とする事
 ――※保護国
 保護国とは保護される国家をさし、保護条約の締結により他国からの保護監督を受け、主権の一部=外交権を他国が代行する事になる。保護国は“国権を有する国”と見なされたとしても、「主権の一部又は全部を奪われた国と認知」され独立国とは認められない。日露戦の最大の被害者は※主戦場となり保護国にされた大韓帝国国民だった。
 ――※主戦場となり保護国にされた大韓帝国
 日露戦に巻込まれて国内中が戦場と化した韓国では、住民が住み慣れた居住地から避難せざるを得なくなったり、日露両軍の略奪や暴行、徴発(強制的に食糧等を取立てる)が横行し、又露に情報を与えたとしてスパイ容疑で処罰されたり、断髪令でサントゥを切った為に日本人と間違えられて露兵に殺害される等の事件が多発した。更に北部地帯は日本軍が駐留し強制的に統治し、漢城の龍山ヨンサンや平壌、大邸等には宿舎や倉庫が建てられ射撃訓練場も作られた。韓国内は日本の軍事基地建設の為に土地は安く売り渡され、一食分の食費にも満たない賃金で数十万の韓国人が建設工事に動員された。日露の思惑に翻弄された上に、ポーツマス講和と※乙巳条約という不法条約の締結により、大韓帝国民はあらゆる権利を失った。
 ――※乙巳条約=第二次日韓協約
 大韓帝国政府の反発をかわす為に日本政府は、条約よりも重要度の低い協約に位置づけ交渉に臨み、締結迄に次の経緯を辿った。
 条約締結前日の11月17日日本は伊藤博文らを韓国漢城に派遣し、完全武装した日本軍が慶運宮キョンウングン(宮廷)を取囲む中で伊藤と皇帝高宗による会議は始った。が日本の条約案を高宗が拒否し続けた為、伊藤らは会議に猛抗議した韓圭高ハンギュソルを隣室に監禁し、他8名の大臣一人一人を別室に呼び入れ、軟禁状態にして大韓帝国を日本の保護国とする「保護条約」を承認するよう賛否を迫った。伊藤は賛否を明かにしない大臣5名を賛成とし、賛成多数と結論づけ、「両国の合意により条約は成立した」として、両国の外務大臣と日本大使が署名した調印書を作成させた。後に韓国民は伊藤に賛成者にさせられた大臣5名を(乙巳)五賊と呼んだ。交渉内容等は次の通り。
 ・交渉内容
 伊藤:日本は人命を賭け巨億の金を投じて清や露軍と戦い、その結果貴国の領土は守られた。平和を維持する為に貴国の外交を我が国が代って行いたい。
 高宗:(清や露軍に関する)内容に異議は無いが、我が国が外交の形式を維持し国として体面を保持したい。何とかその様に変更できないか。
 伊藤:拒否すれば貴国が困難な状況になる事を覚悟せねばならない。
 高宗:その事は理解している。だが私が決定をする事はできない。大臣に聴き又人民の意向も聴きたい。
 伊藤:大臣の意見を聴くのは結構だが、貴国は君主専制なのに人民の意見を聴くのはおかしい。人民を扇動し日本の提案に反抗するなら責任が陛下=高宗に及ぶ事になる。   
 ・乙巳条約で核となった条項
   第一条:日本の外務省が大韓帝国の対外関係事務を指揮監督する事  
   第三条:日本が大韓帝国の外交権を代行する為、大韓帝国に日本人の統監を置く事
 高宗自身の署名のない調印書の原本は、条約名の記載がないばかりか、調印過程で日本は韓国の外務大臣らの「印を奪って捺印」しており、締結に必要な、委任・署名(調印)・批准の過程を省略している。又高宗は契約交渉の代表者である外務大臣に対し条約の締結権を「委任」しておらず、国家が条約を最終的に確認し同意する手続きである「批准」もしていない(批は君主が書類の決裁をする意があり、准は許すの意がある)。
 そして18日の深夜1時、韓国の外交権を接収し日本の保護国とする以上の内容で条約は締結に至り、同月21日韓国総監府初代統監に伊藤博文が就任にした。――その伊藤は1909年※安重根アン・ジュングンに射殺された。尚当該条約の締結は11月23日官報で韓国内に公表されたが、皇城新聞が報じると韓国全土で一斉に反対の声が上がり、抗議の意思を示す為に自決する人さえ出した。
 韓国総監府の実務開始は翌06年2月1日だったが、初代総監伊藤は外交権だけでなく条項にない内政をも指揮した。こうした日本の横暴に対し高宗は、世界各国に向け「乙巳条約は武力の威嚇で強制的に締結されたもので、条約案自体が不法の元に作成された偽りのものであり、所謂『保護条約は無効である』事をここに宣言する」と訴えた(1907年※ハーグ特使事件に続く)。尚1963年伊藤博文が千円札の肖像に採用されると、韓国の人々は猛烈に反発、一方で多くの日本人は当然の事として受け取った。           
※日比谷焼打ち事件
 日露戦で多くの戦死者を出し且つ重税を課せられた日本国民は、ポーツマス講和条約で▽露から賠償金を得られなかった事▽領土獲得が樺太南部のみであった事に不満が爆発、各地で講和に反対する集会が開かれ、条約調印当日の9月5日日比谷公園で開かれた「講和に反対する国民大会」では、民衆が暴動化し交番や官邸等を焼討した。これに対し政府は戒厳令を発して、死者17名負傷者5百名を出し騒乱を鎮圧させた。
 ※京義線完成
 1901年清から鉄道権敷別権を獲得したロシアは南北満州を横断する形で東清鉄道(ハルビン鉄道)を開通させ、日本は対抗し満州の支配に向けて(日清戦争の教訓から)軍事物資や兵力輸送の為に必須と考えていた釜山~新義州を結ぶ鉄道建設を急いだ。一方日露戦開戦直後に大韓帝国が着手していた京義線(漢城~新義州)の建設権を奪い、軍用鉄道とする工事を開始。並行して行われた漢城~釜山を結ぶ京釜線の建設では、募集による労働者の確保を諦め、日本人※憲兵と警察により多くの韓国民を徴発し、工事に必要な牛や馬等の物資も※現地調達とした上に、日本陸軍まで動員した突貫工事を決行した。結果京釜線は05年11月5日に完成し、翌06年4月3日には千㎞以上ある京義線の全線開通を実現させた。工事には総計1億人以上が動員されたが、工事が余りに拙速だった為、運行上の課題が生じその後十年余り改良工事が繰返えされた。
 日本は開通に伴う駅周辺の開発の為、住民の用地を接収し商業・軍事施設、日本人が集団生活できる住宅を建設した。が地元住民の激しい抗議にあい、大邸駅の建設は計画の1/6の用地確保に留まったが、駅舎や道路整備の為に歴史的価値の高い大邸城壁まで撤去し工事を進めた。約三年間に渡る工事での日本軍の暴挙に対し、韓国人義兵が線路や駅舎や送電線設備等を「侵略者日本の象徴」であり「敵」と見なし、、攻撃を加え破壊した。尚漢城~釜山を結ぶ京釜鉄道は、1899年に開通していた極めて近距離にある漢城~仁川を結ぶ京仁鉄道と合併して誕生させた。――釜山~大邸~仁川及び漢城~新義州の位置関係は、朝鮮半島東南岸の釜山から中国大陸に向う北北西のほぼ直線上にあり、新義州は清との国境沿い(後の満州国境沿い)にあり日清・日露戦で激戦となった鴨緑江に極めて近い。
 ――※憲兵
 憲兵は通常兵の様に満期除隊はなく、職業軍人と同様に最後まで国に奉職し、兵隊であれば3、4年務める間に予備役に編入されたが、内外地への異動はあったものの、基本的に恒久的な勤務とされた。主な職務は軍人、軍属の取締りを任務としたが、一般市民も対象にし、朝鮮(韓国)では戸籍管理、税金の取立て、衛生管理等生活の隅々まで干渉し、又言論・出版・結社の自由を奪い、抗日運動の監視と取締りを名目に市民を弾圧、虐殺も多数行い、裁判もせずに量刑を課して、鞭打ち刑を復活させるなどした。憲兵は皇軍が赴くところ何処でも捜査、押収、逮捕、殺害ができる即決権と強制執行権があり、朝鮮(韓国)人や中国人は憲兵⇒警察⇒将校の順に恐れたという。
 ――※現地調達
 日本軍の必要物資の多くは現地調達だった為、進攻した国の各地で略奪が多く行われた。中国では日本軍を稲を食い荒らす害虫の意を込め、蝗イナゴ軍と呼んだ。
※独島・竹島領有権問題
 1895年日清戦争に勝利した日本は、1902年に外国領海水産組合を制定し海外進出を奨励、官民一体で朝鮮の漁場に進出するようになった。結果、鬱陵島に日本人警察官が常駐するようになり、鬱陵島に行く途中にあるリアンクール列岩(リアンコ島ともいい、現在の独島=竹島)が注目され始めた。そのような中で日本政府は、漁師・中井養三郎の申請を認める形で(朝鮮との協議を行わぬまま)1905年1月28日に領土編入を閣議決定し、リアンクール列岩を「竹島」と命名した―――中井は1903年以来「独島=竹島に移住し居住していた」と主張したが、その事実はなく、実際はアシカ漁の際に菰葦小屋で十日間程度仮居したに過ぎない。 
 そして1905年2月22日島根県が「竹島を管轄下に置く県告示」を発した上で、日本は(日露戦争を口実に)同年8月19日竹島に望楼=物見やぐらを完成させ、電線を架設、政府レベルで自国領と主張し始めた。そして同年11月韓日間で乙巳条約が締結され、日本は大韓帝国を保護国とし事実上朝鮮半島を支配した。
 現在日本政府はこれらの主張を“竹島を自国領とする根拠”としている様だが、韓国は1900年勅令第41号を頒布し、鬱陵島を郡に格上げすると共に「独島」をその管轄区域としている。その独島(竹島)の島根県編入と、日本の実効支配を韓国が知らされたのは、乙巳条約締結後の翌1906年で然も偶然だった。乙巳条約で外交権を剥奪された韓国は、日本に対し正式に抗議する術が無かったのである。
 独島・竹島問題が生じた歴史は、1414年対馬藩と朝鮮王朝との論争が始りといわれており、その対馬藩は当時、(現在でいう)竹島の領有を放棄している。その後の動きをみると、1667年日本で初めて竹島・松島という固有名詞を著した「隠州視聴合紀」がまとめられ、1695年には鳥取藩が幕府に対し「竹島と松島両島は因伯の付属でない」と報告しており(因伯は因幡と伯耆の国をいい現在の鳥取東部と西部付近)、且つ1696年幕府は鬱陵島渡航禁止令を発布している。――ここ迄に“竹島・松島・鬱陵島”の三つの島名が登場した事を覚えておきたい。
 その後島根県は1876年明治政府に対して「日本海内竹島外一島地籍編纂ヘンサン方伺」即ち“竹島と他一島をどの様に取り扱うか”の質問状を送っており、翌77年最高国家機関にあたる太政官は「竹島と松島を韓国領と確認した」上で、内務省公文録で「日本領外」とする決定をした。ここにいう“竹島は今日の鬱陵ウルルン島”をさし、“外一島は当時の松島(リアンクール列岩・リアンコ島とも呼んだ)をいい今日の竹島”をさす(1905年1月28日松島を竹島と命名した閣議決定は周知されておらず、事実島根県は1906年鬱陵島に「竹島調査団」を派遣している)―――後の1907年まで広く日本は「竹島と松島」を今日の「鬱陵島と竹島」としていた事がわかる。又当時の独島=竹島は、鬱陵島に渡航する際の寄港地と、海産物を捕獲する為にある島という扱いだった為、「外(ホカ)一島」としたといわれている。
 日本に「現在の竹島」の呼称が広く周知され始めたのは、県告示を発した二年後の1907年「朝鮮水路誌」からであった。1892年より順次刊行された水路誌は、日本海軍水路部が作成した水路情報誌をいい、日本領の水路誌は「日本水路誌」として発行し、“外国領の場合”は朝鮮水路誌の様に「〇〇水路誌」として発行して、領土を厳格に区分した―――が、鬱陵島と独島=竹島はペアで存在するという意識が高かった為、結局「竹島」は、1907年発行の第一改訂ばん「日本水路誌」と第二改訂版「朝鮮水路誌」の両方に掲載する事になり、1910年韓国併合の際に国家としての朝鮮は消滅したとして、「朝鮮水路誌」は絶版となった。
 戦後連合国=米国による日本統治が始ると、連合国は1946年連合国最高司令部覚書第六七七号で「独島を統治及び行政上日本に含まない」と規定した。サンフランシスコ講和条約締結前の1952年1月には、韓国李承晩当時大統領が海洋主権宣言を発して「平和線(李承晩ライン)」を設定し独島の実効支配を始めた。こうした経緯を経て行われたサンフランシスコ講和会議で「連合国最高司令部覚書第六七七号の規定」が再確認された。が……最終的には独島・竹島は盛り込まれずに※サンフランシスコ講和条約は締結された。条約の締結を受けて、非調印国の韓国は「独島の統治権を維持した」と考え現在もそう主張する。その根拠はSF講和条約に調印していない「非調印国(第三国)の既得権は侵されない」「条約の締結により非調印国は不利益を強制される事があってはならない」と国際法に規定されている為、又SF条約には「日本は朝鮮の独立を認め、朝鮮に対する全ての権利を放棄する事」と書かれている為である。――又SF条約の根拠となったカイロ宣言は「終戦後に日本が占領した太平洋の島々を取り上げる事」としている。
 1961年10月―64年4月※日韓基本条約が妥結に向い動き出した頃になって、日本は独島・竹島問題を国際司法裁判所に提訴する主張を始めた。65年日韓基本条約は締結に至るが、その請求権協定第二条には「両国とその国民の財産・権利及び利益と請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認する」とある為、日本としては、“国際社会に自ら日韓基本条約を反故にした”と見られ兼ねない事から、国際司法裁判所への提訴の言及を避ける様になった。韓国としても“両国間に領土問題が存在する事を認める”事になる為、裁判に応じない姿勢を崩していない。現在両国政府は、大統領が独島を訪問した等大きな動きがない限り言動を控えている状態にある。
 その独島・竹島とは、東島と西島の二つの大きな島と、89ある小さな岩の様な島からなり、西島は急勾配で険しい尖塔が特徴的な島で、東島は施設があり韓国の政治家の上陸報道等で見られる島である。東島は面積73、297㎡/周囲2、8㎞。西島は面積88、639㎡/周囲2、6㎞ある。――1962年日本の外務省アジア局長は「竹島は無価値で、日比谷公園くらいの大きさしかないのだから、爆破して問題をなくしていまえばいい」と発言したので、お近くの施設等と比較されたい。

【1906年】
 2月日本が※韓国統監府で実務を開始し、11月旅順に関東都督府を設置し、同月※南満州鉄道を設立した。
※韓国統監府
 漢城に統監府を設置した日本は、韓国に居住する日本人の権益確保と経済活動を保護する目的で、大邸を始め全国十三カ所の主要都市に理事庁を設置した。更に総監府は地方行政を専権する為、日本軍の動員や、韓国人に対して罰金を課して徴収する権限を持つとした。
※南満州鉄道
 ポーツマス講和条約で南満州(大連や旅順のある遼東半島南部一帯)の権益を租借していた日本は当該地域を関東州とし、旅順に政務を司る中央行政機関「関東都督府」を設置。11月26日には露から獲得した東清鉄道支線の権益を利用し、長春~旅順間を結ぶ南満州鉄道、略通称“満鉄”を設立した。満鉄の開通以降日本は、満州で石炭や鉄鉱石を採掘して資源と資金を獲得、その資金を使い鉄工所等を開業するなどして国家を牽引した。又満鉄開通は、兵士の移動や物資運搬等に大きく貢献、軍備拡大に向けその勢いを加速させた。

【1907年―明治40】
 6月オランダ※ハーグ特使事件。7月※第三次日韓協約締約。7月※日露協約締約。
※ハーグ特使事件
 乙巳条約に不満を抱いた大韓帝国皇帝高宗は6月15日オランダハーグで開催された第二回万国平和会議に外交使節団を送り、条約無効の抗議活動を展開した。日本の侵略行動と韓国が置かれた立場を書いた「宣言書」を議長と各国代表に送り、新聞記者団の集まる会議で「朝鮮の為に訴える」と称する演説が許され、記者らは「韓国を助けようという決議」を全会一致で採択した。が日本の妨害工作と日本を支持する欧米諸国の働きかけにより、外交使節団一行は平和会議に参加できなくなり、計画は達成できずに終った。使節団の李儁イジュンはハーグで病死したが、日本領時が遺体搬送の許可を出さなかった為、亡骸はバーグに埋葬され、プレスは7月5日写真付で「万国平和会議報」を発行してその死を悼み、ハーグ郊外には李氏の銅像と石碑が建立された。
 失敗に終った当該事件に追打ちを掛ける様に、韓国は7月24日※第三次日韓協約といわれる不平等協定を締約する羽目に陥り、高宗は首謀者として強制退位させられた――第二代皇帝には明成皇后との長男純宗スンジュンが即位したが、高宗と純宗は皇帝交代を示す譲位式への参加は許されなかった――これらの事態に東学農民は※第二次義兵運動を展開し日本と交戦した。尚高宗は退位後も乙巳条約の不法性と無効を訴え、韓国民は現在も無効を主張している。
 ――※第二次義兵運動
 日露戦争、桂タフト協定、ポーツマス講和条約、乙巳条約、バーグ特使事件を経て締約された第三次日韓協約に韓国民は強く反発、抗日意識が高まる中、韓国が植民地化される恐れを感じた義兵は再び蜂起。1894年景福宮占領事件で決起した第一次義兵軍よりも戦力を増強させた第二次義兵軍は、元大韓帝国軍兵士も合流し、漢城近郊に1万5千人が集結。全国連合義兵を形成して1907年8月から11年6月まで延べ2852回に渡り勇戦した。死亡1万7千779名、負傷3千706名を出しながらも“死ぬまで戦う! 祖国を守る!”決死の戦いが続けられたが、軍事力を強化した日本軍に退けられた。   
※第三次日韓協約
 高宗を退位させた日本が▽内政権を接収する▽大韓帝国軍を解散する▽警察権を獲得するとした協約は7月24日締約された。韓国民は国家予算に迫る日本からの巨額の借入金を返済して国権を回復させようと考え、各地で「国債報償運動」を展開。その方法は▽タバコを止め募金する▽指輪等の装飾品を売る▽市場で野菜や酒や餅等を売り義援金を捻出するなどして、老若男女の別なく展開されたが、日本の弾圧により運動は不成功に終った(韓国が負った借金は、日本人が多く住む地域の道路や下水道施設の整備に宛てられた)。
 そこで知識人は「教育啓蒙運動」を最優先に掲げ新たに3千余の学校を作って、近代学問や歴史等を教え、学校以外でも出版社や外国書籍が読める図書館兼寄宿舎を建てるなどしたが、これらの運動も弾圧を受け、強制的な解散を余儀なくされた。すると愛国啓蒙運動家の安昌浩アンチャンホらは秘密裏に「新民会」を組織。教育と啓蒙を通した新しい思想を広めると共に、民衆が政治に参加する「共和制国家」を作ろうと多くの資金と同志を募り、満州に独立運動基地を建設、又日本に抗戦し国権を取り戻さねばならないと考え、独立軍を育てる為の武官学校を作った。――後の1919年※三.一独立運動で主導的立場に立ち大韓民国臨時政府の主席を務めた※金九は、1894年の東学農民運動を皮切に、教育啓蒙運動と新民会に参加した。   
※日露協約
 7月30日日露戦で敗北した露が南下政策を取止め“再び日本と争わない意思を示した”とする協約。日露両国は南北満州(ハルビンと長春の中間)を境に、露が北満州を日本は南満州を夫々統治し、互いの権益を尊重する事を確認した。1916年まで四回に渡って行われた日露協約の第一次協約である。

【1908年】
 10月13日日本で※戊申詔書発布。11月15日清の西太后没す。12月韓国で※東洋拓殖株式会社を設立。清で12月2日光緒帝の死去に伴い溥儀が「宣統帝」に即位。――この年韓国人労働者が初めて九州や関西等の鉄道・発電所工事に動員された。
※戊申詔書
 天皇の意思を示した勤倹を促す公文書。勤倹とは、よく働き倹約(節約)に努めるの意である。 
※東洋拓殖会社
 東洋拓殖会社法の制定により12月18日に設立。主な営業内容は農場経営と金融業だったが、金融業では建設工事にかかる諸費用を貸付けて利益を得、韓国併合後には日本人の朝鮮への移住奨励政策(県単位で行われた)の斡旋を行った――広島県の漁業従事者を朝鮮に定住させ、“広島村”という名の漁村が出来たほどである――尚東洋拓殖会社は首都漢城(翌々年京城に改称した現在のソウル)に本店を置き主要都市に支店を構えた。当法人は韓国を植民地統治する目的で設立された国策会社だった。

【1909年】
 7月日本政府が「適当な時期に韓国を併合する」方針を固める。10月26日伊藤博文殺害。
【1910年】
 3月韓国で※安重根の死刑を執行。8月※日本が韓国を併合し、9月※土地調査事業を開始、12月※会社令を公布した。
※安重根という人
 安重根は1906年27歳の春に全財産を費して平壌郊外に私立学校を作り運営を始めた。貧しい子どもや学びの機会を逃した大人が学べる夜学で、外交権を奪われた事に激高した安重根は韓国の国権回復の為に、生徒ら40名にハングルの読み書きや朝鮮の歴史を教えた。だが資金難に陥り教育事業が継続出来なくなると、1907年8月末抗日武力闘争に参加する為、露領ウラジオストクに亡命。翌08年には大韓独立義勇軍を組織し、初めての戦闘に勝利はしたものの、日本軍の反攻により部隊は離散した。それでも11名の同志と共に大極旗を掲げて抗日闘争を続けた。
 1909年9月伊藤博文が満州にくる情報を得た安重根は、10月26日特別列車でハルビンに到着。ホームに降り立った伊藤に向け銃弾を放ち、伊藤は手当の為に搬送された列車内で死亡した。征韓論者で知られた伊藤は、明治憲法を立案し内閣制度を作って初代総理大臣に就任し、又韓国統監府の初代統監に就任するなどした当時影響力のある政治家だったが、安重根のみならず韓国民にとっては仇敵であり、韓国の国権を奪った憎むべき対象だった。
 旅順刑務所に収監された安重根は「東洋平和論」を著し、伊藤博文が皇帝を脅して乙巳条約を強制的に調印させた事など、十五項目に渡り伊藤殺害の理由を述べ、且つ「伊藤は東洋平和の為に韓国を保護国にしたと主張するが、実は韓国の外交権を奪い植民地にする事が目的だった」と伊藤の考えを見抜いていた。更には「伊藤の主張どおり日本が列強国の植民地になる事を防ぎ、東洋平和を維持する為に韓国を保護国にしたというのなら、日・韓・清が夫々独立して連帯せねばならず、伊藤を殺せば日本人もその事に気づくだろう」と考えた末の殺害だった。
 その安重根は1910年3月26日三十歳で死刑が執行されたが、旅順刑務所に収監された約五か月の間に、安に出会った日本人刑務官は、その人柄と韓国独立の為に命を惜しまぬ熱意、真に東洋平和を願う思いやその姿勢に、深く感銘した者が少なくなかった。
※日本が韓国を併合=日韓併合条約
 5月に韓国統監府統監に就任した寺内正毅は、8月22日数千の兵を率いて宮廷にいた大韓帝国総理大臣・李完用イワンヨンに対し韓国併合を認める様に迫り、当該条約を締結させた。日本政府は韓国民の反発を恐れ発表を一週間遅らせたが、それには条約の締結は▽大韓帝国の消滅と朝鮮王朝の滅亡▽法的な日本による植民地化の完了▽日帝時代の始りを意味した為である。尚寺内の行動は6月3日と7月6日の閣議決定を受けての事であり、韓国の併合により、大韓帝国は「朝鮮」となり、韓国統監府は朝鮮総督府になった。寺内は総督府の総督に就任し、※総督の権限で首都漢城ハンスンを京城ケイジョウに変えた。何故か?――「漢」は古代中国の王朝名を想起させ“韓”と発音が重なる為といわれている(下記※韓国を朝鮮とした別説を参照)。
 一部の日本人は「韓国側も求めて又認めた上で、締結された条約であり、東洋平和の為に行った事で、併合により韓国は発展した」旨を主張するが、韓国民は強制的に締結された不法条約と考える。露の日露協約反故や、日露の政策と思惑の対立が起因となって進められた韓国併合=植民地化により、日本は大東亜共栄圏という無謀な構想を画策し実行した。条約の締結により……李氏朝鮮時代終結の1897年から続いた大韓帝国の歴史はついえた。又併合によって義兵運動は困難を強いられたが、義兵らは中国満州や沿海州で植民地支配に抵抗し蜂起した。
 ――※総督の権限
 朝鮮半島全土の立法権、司法権、行政権、軍隊統帥権等、全権限を有する朝鮮総督府の最高権力者であり、且つ日本政府や議会の干渉を受けない、天皇に直接従属する地位にあった。
 ――※韓国を朝鮮とした別説
 皇帝純宗は日本による強制的な植民地支配と、併合による韓国民の抵抗をかわす為に、明治天皇に対し植民地としてではなく「譲り渡す形で、韓国の統治権を日本に譲渡する事を打診した」といわれる。これに対し日本は国際社会の非難をかわす為に――名称を「地域を意味する朝鮮」とする事で、植民地支配する意図はない意思を示して、日本の領土の一部として編入する形を取った。何故なら▽韓国の名称を使い続ける事は併合した韓国を国として承認する事になる為▽韓国を併合した時点で大韓帝国は消滅している為▽仮に大日本帝国とすれば日本が韓国を侵略支配したと指摘される恐れがあり、そうした指摘や非難を避ける為に「朝鮮」にしたともいわれている。又併合前には「COREA」としていた英名を“KOREA”に変更した。これには、COREAのままでは、アルファベットのJAPANよりも順番が“前にくる”ので体裁が悪いという理由からだといわれている。
※土地調査事業
 日本は1910-18年にかけて朝鮮半島の土地所有権を法的に明確化し、植民地統治の財源を確保する為に、土地の所有者・地価・形状・面積等を調査し納税の義務を強制化した。支払えない者や無申告者からは※土地を没収した。村や一族が共同所有していた土地や、朝鮮人が代々耕作してきた朝鮮皇室所有の土地や国有地は、総督府の所有となり、日本の東洋拓殖会社を通じて、日本人が運営する農業会社や日本人移住者に安価で払い下げて土地所有権を与えた。1912年8月には高等土地調査局を設置し「土地調査令を公布」して、朝鮮人の土地所有権を厳格化した。更に総督府は「会社令を発布」し又林野調査事業を強行して朝鮮人の自由を奪った。
 ――※土地を没収された朝鮮人
 1910年―19年にかけて多くの警察や教員等の公務員や農業移民の日本人が、朝鮮半島に移住を始め、「植民地自治機構の実務者」或いは「地主」として地域で暮らす朝鮮人を支配した(教員を含む公務員は制服の着用と帯剣を義務とした)。土地調査事業は日本人の朝鮮移住に不可欠だった、事業を展開しなければ急速な日本人の移住は不可能であった(※朝鮮半島の日本人の人口推移と背景を参照)。
 土地調査事業であらゆる権利を奪われた朝鮮人農家(全人口の75―80%が農民だったといわる)は、日本人が経営する農業会社や地主に小作料を支払い“一定期間のみ耕作ができる小作農”になり、中には火田民――山野を焼いた跡にジャガイモや豆類や赤い茎のソバを育て生き長らえた人々をいう――になり生活を凌いだ。小作料を支払えない農民は流浪化し、仕事を求めて都市部で雑業をしたり、朝鮮北部や満州、日本に移住して行った。
※会社令を公布/撤廃
 日本資本の流出を防いで日本の産業を発展させ、朝鮮人の会社設立を抑制する目的で、12月19日会社の設立を許可制とする会社令は公布された。第一次大戦の特需で莫大な利益を上げた日本企業は低賃金で投資できる朝鮮に進出、各地で工場を建て、労働者が増加すると都市化が進み、米穀の需要は一層高まっていった。一方日本は北海道開発(開拓)や炭坑事業に力を注ぎ積極的に朝鮮人を投入した。

【1911年】
 1月18日日本で※大逆事件発生。2月21日※日米通商航海条約を締結。10月10日中国武昌で革命軍による※辛亥革命始まる(翌12年を参照)。
※大逆事件
 明治政府は社会主義者の弾圧を目的に、1月18日天皇暗殺を企てた“大逆罪”にあたるとして※無政府主義者や※社会主義者等数百名を逮捕し、一審制の大審院で12名が無期懲役、残る12名は死刑となった。処刑者の中には、日本初の社会主義政党「社会民主党」を立上げ首謀者に仕立てられた幸徳秋水や、新聞記者で婦人運動家・社会主義運動家の菅野すがが居た。死刑判決を受けた幸徳秋水は1月24日に、菅野すがは25日に刑が執行された。
 ――※無政府主義者
 個人の自由を縛らず、政府や国家の権力・権威を無くそうとする、或は否定する立場の人を指していう。
 ――※社会主義者
 生産機関を公有化し、民主的な経営により平等な分配を行い、貧富の無い社会を作ろうとする立場の人をいう。
※日米通商航海条約
 1858年締結の※日米修好通商条約を改定した条約。日本は関税の自主権を回復するなど、不平等な内容が改められた。

【1912年―大正元】
 2月宣統帝が退位し清が滅亡し、※中華民国南京政府が成立した(台湾を統治)。7月29日※明治天皇死亡――この年※石川啄木が死去している。
※中華民国南京政府が成立
 前年米国から帰国した孫文は革命軍を率いて清朝を倒し、1月1日中華民国南京政府の臨時大総統に就任した――2月12日清の宣統帝溥儀の退位により清が滅亡すると中華民国が成立した――ここ迄が※辛亥革命である。が翌2月孫文は臨時大総統を辞任し、3月軍閥の袁世凱エンセイガイが(孫文を退け)北京で中華民国臨時大総統に就任すると、孫文率いる国民党への弾圧を強めた。
※明治天皇死亡
 亡骸は伏見桃山陵に埋葬されたが、現在※明治神宮に祀られている。尚明治天皇の誕生日を天長節とし祝日に定め、戦後文化の日とした。
※石川啄木
 日本によって植民地化され、苦痛や悲しみを強いられた朝鮮の民を思い、啄木は歌を残している。

   地図の上  朝鮮国にくろぐろと  墨をぬりつつ秋風を聴く

【1913年】
 中国で9月革命軍が第二革命を起すも失敗に終り孫文は日本へ亡命。10月袁世凱が正式に中華民国大総統に就任。12月1日日本で世界最高水準技術の軍艦霧島が進水。――この年朝鮮総督府が在日朝鮮人※労働者の募集を許可制とした。
※労働者の募集
 1910年代の在日朝鮮人の労働者は朝鮮のブローカーを通して集団募集され、集団雇用で働いたが、労働条件や賃金が違ったり(ピンハネ)、幼女を雇い入れたりした為、当年労働者の募集を許可制とし、事前に届け出て認可されたブローカーのみ募集を許可し、労働契約書を取り交すなどして労働者を内地に送った。――米不足が深刻化する18年には、在日朝鮮人労働者の募集と内地へ連行する際、「警察の許可が必須」となり違反者には罰金を科す処罰規定を設けた。

【1914年】
 7月※第一次世界大戦勃発、日本は8月に参戦。
※第一次世界大戦開戦
 7月28日開戦の当該大戦は……6月28日セルビア人がオーストリア皇太子を殺害する「サラエボ事件」が発生。オーストリアがセルビアに対し宣戦を布告するとオーストリアの同盟国ドイツとオスマン帝国(オスマン・トルコ)、ブルガリアが参戦を決め、四カ国の「同盟国軍」が形成された。これに対しセルビア側は露と仏がセルビアへの派兵を決定、独陸軍がベルギーから仏へ侵攻すると、露仏との間で三国協商を締結していた英がセルビア側に加わり、日本は日英同盟協約に基づき8月23日独に対して宣戦布告し、「連合国軍」が形成された。日本は英艦隊と共に(1895年下関条約で独が租借した)膠州湾及び青島を含む山東半島の在独軍を攻撃し、青島と南洋諸島の一部を掌握した。

【1915年】
 第一次大戦中の1月日本が中華民国政府に対し※二十一箇条を要求。4月伊、英、露、仏が※ロンドン密約。7月※ナミビアが独から解放された。           
※二十一箇条の要求
 第一次世界大戦で連合国の形勢有利とみた日本は、中国での影響力と権益を獲得する為、中華民国政府の袁世凱に対し1月18日二十一の要求を突付けた。日本は山東省のドイツ権益を手に入れ、更に日露戦で獲得していた南満州の権益期限を大幅に延長する事を要求。5月9日袁が受諾した為、中国内の排日運動が激化した。権益獲得に成功した日本では、米国を中心に綿敷物や生糸の輸出が激増し、世界的な船舶不足に伴った海運・造船・製鉄等の事業も大躍進して、又化学工業(薬品・染料・化学肥料等)の発達が追い風となり電力設備を拡大させ、※明治末期以来続いた経済財政危機を脱した。1920年迄の国内総生産は2、5倍超に上った。一方の中国は二十一箇条の要求を受入れざるを得なかった5月9日を「国恥の日」に定めた。
 ――※明治末期以来続いた経済財政危機
 1905年(明治38)日露戦に勝利した日本は、翌06年の輸入高が約7倍に上昇し企業は一気に利益を出し、併せて株価が高騰して、日本経済は好景気・物価高に転じた。だが07年初頭日本列島を寒波が襲うと株価は1/8近くまでに急落。倒産(40行近くの銀行が廃業)や失業が顕著となり経済危機に陥っていた。
※ロンドン密約
 4月伊、英、仏、露間で締結された密約協定。第一大戦開戦時に中立の立場を取ったイタリアだったが、大戦終結後の領土獲得を確約する事を条件に、オーストリアと独との三国同盟を破棄し、5月4日連合国軍側にまわりオーストリアに宣戦を布告した。
※ナミビアの解放
 1884年から独の植民地下にあったナミビアだが、1904年1月現地のヘレロ人やナマ人が独軍の土地等の強奪に抗議し蜂起した。戦闘状態(ヘレロ戦争)にあった08年迄の間に独軍は現地人を殺戮したり砂漠に追いやり脱水死させ、強制収容所では過酷な労働を課すなどして栄養失調等で、ヘレロ人は人口の7割を、ナマ人は人口の凡そ半分、合せて約7万5千人を死に到らしめた。これらの独軍の残虐行為は、20世紀初となるジェノサイド=集団殺害といわれている。独から解放されたナミビアは1915年南西アフリカとして南アフリカに統治移管され、1990年3月21日にナミビアとして独立を果した。

【1916年―大正5】
 7月3日※日露密約締結。8月27日ルーマニアが第一次世界大戦参戦。――この年日本で警視庁が「要視察朝鮮人視察内規」を定め、袁世凱が死去した中国では密かに割拠していた軍閥らによる独裁軍政が始った。
※日露密約
 7月3日満州進出を目論む米国に対し、日露は両国のみで「中華民国を分割し米国の介入を許さない」とする密約を締結した。日露軍事同盟に等しい協定といわれる。

【1917年】
 2月/10月※ロシア革命。4月6日第一次大戦に※米国が参戦し連合国の優勢が顕著となる。8月14日※中華民国が大戦に参戦。――第一次大戦は同盟国4国と連合国27国による対決となった。 
※ロシア革命
 2月労働者と露軍兵士が帝政を打倒し臨時政府を成立させると、10月プロレタリア独裁を目ざすレーニンらが蜂起し、労働者(無産)階級による独裁国家「ソビエト・ロシア連邦社会主義共和国」を樹立し社会主義国家を目指した。首相にはレーニンが就任。   
※米国と※中華民国の参戦
 米国の大戦参戦は、満州を中心に中国での影響力を拡大させる日本に対抗する意図があったといわれており、一方中立の立場を撤回しての中華民国の参戦は、独軍とオーストリア軍が中国内から敗走した為、連合国有利とみて「戦勝国の一国となり、日本の二十一箇条の要求を破棄に持ちこむ」目的があったいわれている――※パリ講和会議とベルサイユ条約を参照。

【1918年】
 3月中国で軍閥の(南北)闘争が激化し、張作霖が満州一帯を制圧し北京へ進攻。3月※ロシアが世界大戦を離脱。8月日本を含む※連合国がシベリアに出兵。11月※ドイツ降伏で第一次世界大戦終結。――この年日本国内は深刻な米不足に陥り、業者による買占め騒動や暴動が発生、富山県の魚村に住む朝鮮人女性らは米価の急騰と米が手に入らない事に抗議し、その声が日本人にも広がり、70万超に人々が抗議運動に参加した――※産米増殖計画を参照。
※ロシアが世界大戦離脱
 3月3日新政権が発足した露は敵対していた同盟国軍4国と単独で講和、リトフスク条約を締結して、第一次大戦を離脱した。露軍の離脱で苦戦を強いられた連合国軍は、陸軍の派兵に消極的だった米と日本に対し、8月チェコスロバキア支援を名目にロシア革命政権=レーニン政権の打倒を依頼。日米両国は中国北東部(北満州)とロシア東部ウラジオストクへ向け進軍(日本は7万の兵を投入)して独軍を北東アジアに引付けると、形勢は再び逆転し連合国軍の優位に傾いた。
※ドイツ降伏
 11月11日敗戦国となったドイツは国民総所得の2、5倍の賠償額を負い、国内経済はインフレ不況に陥った。乗じて国家社会主義(ドイツ)労働党「ナチス党」が台頭した。尚独が負った賠償金の対米債務は2010年に完済した。
※連合国がシベリア出兵
 日、米、英、カナダ、伊、仏、中華民国の連合国軍はチェコ支援を名目にウラジオストクに上陸。一方日本軍は反共防波堤を樹立すべく単独で北満州、東部シベリアに出兵した。8月から9月にかけて九州からハルビンに、京都舞鶴からウラジオストク、それにサハリン(樺太)のアレクサンドロフスクとその西岸のニコライエフスク=尼港からロシア反革命政権軍を攻め、12月内陸バイカル湖の近郊イルクーツクを占領した。――出兵を機に日本軍は権益拡大を狙い、単独でのシベリア出兵を本格化させた。又シベリア出兵はシベリア事変ともいう。

【1919年】
2月25日シベリア派兵の日本軍が、ロシア革命政府軍に対し戦闘を開始(20年※シベリア出兵国の顛末に続く)。朝鮮で※三.一独立運動。日本軍が4月12日満州に関東軍を設置し、鉄道守備隊を「関東軍」に改称して再編制した。1月※パリ講和会議を経て6月ベルサイユ条約締結。7月31日ドイツ新憲法の可決に伴い8月独が共和制をしく。9月※大韓民国臨時政府を樹立。10月孫文が※革命結社中国国民党を組織。
※三.一独立運動
 1月21日大韓帝国建国時の皇帝高宗が急逝、日本による毒殺説が広まった。東京では朝鮮人留学生らが独立を誓願する決議を経て、2月8日独立宣言書を発表=二.八独立宣言。朝鮮半島では宗教界の指導者と学生代表らが、※三.一独立宣言書と太極旗を作り“万歳デモ”に向けた準備を進め、来る3月1日京城と平壌だけで50万人以上がデモに参加した。京城では独立宣言書に署名した33名のうち29名が(独立を宣言した事で)逮捕された。それでもデモは続けられ、同年3月8日の万歳デモは大邸、安東等へと拡大した、が二か月以上続いた三.一独立運動は、日本軍の武力で鎮圧された。デモ全体の参加者は2百万人を超え、7千5百名以上が殺害され、約1万6千人が負傷し、約4万6千人が逮捕された。一連の運動は中国で行われた※五.四運動に影響を与え、後年韓国は3月1日を「蜂起記念日」とした。
 又5月に入ってからも続けられたデモがあり、大邱では延べ108回に及んだ。16歳の女性参加者「柳寛順」は休校令の最中に故郷の天安に戻って参加し、逮捕され……「自分は堂々たる大韓の国民である。大韓人の自分が日本の裁判を受ける必要もないし、日本が自分を処罰する権利もない」と言い切り、法廷侮辱罪も加わり懲役七年に処されたが、収監中に拷問を受け殺害された。
 ――※三.一独立宣言書の主要部
 われらは、ここにわが朝鮮の独立と、朝鮮人民の自由民たることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、且つこれを子孫に教え、民族独立を天賦の権利として永遠に保持させるものである。――後略――
 ――※三.一独立運動後の変化
 日本はこれまで押進めた一方的な支配路線に「文化統治」を取入れ、文官出身者が総督に就任できる様に方針を転換した。又憲兵警察制度(※憲兵を参考)を警察制度に変更し、且つ官吏や教員の帯剣制度を廃止し、東亜日報と朝鮮日報等の新聞の出版を許容して、集会結社の一部を許可した。だが朝鮮総督に文官出身者が任命される事はなく、警察署と警察官の数を(1918年と20年度の比較で)3倍以上に増員した上に、総督府の予算を最も多い割合にした。尚一部の新聞は許容されたが、検閲は一層厳しくなり、記事の削除や、発売後に販売禁止になり押収されて罰金を科せられたり、発行自体を停止・禁止するなどして、取締りが強化された。又地方自治という名目で「道の評議会」「府・面の協議会」制度を導入し、議会には朝鮮人も参加させたが彼らは親日派や日本に懐柔した地域有力者であり、“文化統治”の実体は……武力や暴力を隠蔽し、民族分裂を図る画策だったと指摘される。
 ――※五.四運動
 パリ講和会議で山東省の旧ドイツ権益を日本が継承する事が決定的となった事に反発した中国民が反日運動を展開。北京に始り中国全土へ拡大したゴシ運動は、反帝国主義闘争へと発展した。
※パリ講和会議とベルサイユ条約
 1月18日から開会されたパリ講和会議を経て、6月28日第一次世界大戦に勝利した連合国とドイツ間で締結されたのがベルサイユ講和条約である。敗戦国ドイツの▽領土と軍備設備の削減▽戦争責任▽賠償金の支払い額等、独に厳しい規定を定めた。独が租借していた山東半島の領土権は「中国に返還した上で日本が引継ぎ、且つ赤道以北の旧独領南洋諸島(パラオ、マーシャル群島、ミクロネシア連邦等)を国際連盟から委任統治する事」が決定された。その為二十一箇条の破棄と特に山東半島の返還が叶わなかった中華民国は署名(調印)を拒否した。又当該条約では民族自決(民族自身が決める事)の原則により、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、フィンランド等欧州圏の独立は承認されたが、アジアやアフリカの植民地支配は適用除外となり、日本提案の「人種差別禁止条項を規約に盛り込む案」は多くの賛同を得たが、米英等大国の反対により不採用となった。
※大韓民国臨時政府
 韓国の強制併合により抗日活動が困難となった独立活動家は、当年9月組織的な独立運動を行う為に三つある国内外の臨時政府を統合し、日本の影響力が及ばず、大使館が多くある国際都市上海に、大韓民国臨時政府を樹立した。同政府は男女や貧富の差がなく一切が平等という※民主共和制の憲法を制定し、大統領中心の国務院(行政府)・臨時議政院(国会)・法院(裁判所)を置き、朝鮮史上初となる三権分立制を整えた。又秘密行政組織を立上げ▽独立運動の指導▽運動資金の獲得▽情報収集等に努め、機関紙「独立トンニプ新聞」を発行し、国内外に向け独立運動の状況を発信した。外交活動にも力を注ぎ、パリ講和会議には代表団を派遣し独立請願書を提出、米国にも支部を立ち上げ国際連盟や各種国際平和会議で朝鮮独立を訴えた。又上海に武官学校を建てて将校を養成すると共に武装部隊を組織し、軍事活動の準備を進めた。
 ――※民主共和制
 国の主権は国民にあるという考えの元で、国民が選んだ代表により政治を行う国家体制をいう。
※革命結社中国国民党
 1906年に三民主義を唱えた孫文が10月10日に組織。三民主義とは中国革命の三大理想の、民族・民主・民権をいうが、前年孫文が中国革命同盟会を東京で結成した際に唱えたといわれている。

【1920年】
 1月※国際連盟発足。同月シベリアの連合国軍が撤退を開始。2月シベリアの日本軍が降伏(※シベリア出兵国の顛末を参照)。朝鮮で6月日本軍に対し※鳳梧洞戦闘、10月※青山里戦闘で日本軍による「間島惨事」が起る。12月日本が朝鮮と台湾で※産米増殖計画を進めた。
※国際連盟が発足
 議会上院で加盟反対を議決した米国を除いた五大国の英仏伊日が常任理事国となり、当年1月10日に発足。1946年に解散した。   
※シベリア出兵国の顛末
 第一次大戦に勝利し又シベリアのロシア反革命政権軍征伐に成功した連合国軍は、シベリアから撤退を開始した。一方でロシア反革命政権軍に代って日本軍が駐留していた「尼港」に19年ロシア革命政府軍が侵攻し、当年2月5日日本軍は占領をゆるした。日本国内では露革命政府軍が起した尼港事件(日本軍守備隊を含む在留邦人六千名を、全住民の半数以上を虐殺した事件)と、連合国の撤退後も日本軍が駐留した事に対する批判が高まり、日本軍は1922年10月敗北の形で撤退を決定した。一連のシベリア出兵は独露に対する干渉戦争といわれ、第一次大戦中に両国が講和した「ロシア革命」が引き金になったといわれている。
※鳳梧洞ボンオドン戦闘
 6月満州から朝鮮へ進行し親日反民族行為者を襲撃した大韓帝国独立部隊を掃討する為、日本軍は満州に軍を進攻させたが、事前に情報を摑んでいた洪範図ホンボムドの独立部隊が、満州鳳梧洞(現吉林省)で日本軍を待ち伏せし撃退した戦闘。青山里と並ぶ独立部隊の代表的な戦闘だった。
 ※青山里チョンサンリ戦闘
 10月金佐鎮キムジャジンの独立部隊と独立軍連合部隊が共闘し、青山里一体で6日間十回に渡る日本軍との戦いに勝利した戦闘。だったが、日本軍は独立部隊に敗れた報復として、同月満州居住の数千人の朝鮮民間人を虐殺し家屋を燃やす暴挙に出た――いわゆる“間島カンド惨事”を引起した(36年※東北抗日連軍を参考)。
※産米増殖計画
 1918年から続いた内地の米不足と米価の暴騰に加え、同年開始のシベリア出兵で軍用米が必要になった事から、低米価・低賃金対策として日本は、当年内地の農家に対し半ば強制的に転作させ、朝鮮と台湾の農家には作付面積を拡大させて、産米を内地へ移出する15年計画を立て、朝鮮の農家に対して日本の農法を取入れ、化学肥料を使い増産を図ると共に品質改良を要求した。その為土壌改良や肥料等に投資する資金のない農家は、日本人地主の小作人になったり、農業を廃業し仕事を求め都会に出て土幕(柱も壁もなくムシロで屋根と出入口を作ったバラック)で暮らしながら、日本人の経営する会社で働かねばならなかった人もいれば、ダム建設や鉱山開発を押し進める朝鮮半島北部に移住して働く人もいた。産米増殖計画は内外地問わず、日本人の為に講じた施策であり、在日を含む朝鮮人に米穀は行き渡らず、土地調査事業と産米増殖計画に加え、毎年引上げられる※重い小作料や米価の下落に朝鮮民は苦しめられた。――当年は第一次大戦中の好景気により日本は債権国となり、世界第3位の海運国に成長した。又会社令が撤廃された事で、大戦で利益を上げた日本企業は、朝鮮半島で(容易に)営業を始めた。重化学工業等の成長の著しい国内では、朝鮮人労働者の内地移入も積極的に行われたが(※在日朝鮮人の人口推移と背景を参照)、実は当20年の日本経済は不況に転じていた――繊維産業の不景気が顕著で養蚕業を営む農家は大打撃を受けた。一方の欧米列国は18年の第一次大戦終結後、生産力が回復し経済は好転していた。
 ――※重い小作料
 小作人にとって最も大きな負担の小作料が引上げられる中、小作人は引下げを求め「小作人会」を結成し小作争議を展開した。が警察は小作人会を不法団体と規定し弾圧、それでも小作人会は長い戦いの末に小作料を引下げさせた。例は稀で……多くの農民は高い小作料を支払い続け、干ばつや洪水等で農作物が被害を受けると、大邸や慶北キョンプクでは1万超の小作人が草根と木皮を食べて生き長らえる暮しを送り、ドングリ粉にワラを入れた粥を食べた人さえいたといわれる。当時の米は贅沢品で白米ご飯を食べられるのは盆暮れだけという家が、農家を含めて大半だった。

【1921年―大正10】
 5月孫文が※中華民国を建国。11月※ワシントン軍縮会議開催。12月※日英同盟が終了。
※中華民国建国
 前年11月広州に帰還した孫文は翌12月末に軍政を成立させ、当年5月5日中華民国を建国し大総統に就任した。
※ワシントン軍縮会議
 米国が各国に向け、「日本の東アジアにおける支配地域拡大と対日英との海軍拡張競争を抑制する事」を求めた国際会議。11月22日―翌年2月6日まで開催された会議では日、英、米、仏、伊、中華民国、ベルギー、蘭、ポルトガルの9カ国が、▽極東太平洋地域での支配地域の拡大抑制▽中華民国の主権と独立及び領土保全の尊重▽分け隔てなく平等の機会を与える機会の均等を確認して「9カ国条約」が成立、同時に海軍軍縮条約が調印された。
※日英同盟終了
 12月13日太平洋の島々の領土保全と安全保障を協約した、英米仏日による「4カ国条約」に吸収される形で終了した。

【1922年】
 3月在日朝鮮人が※全国水平社を結成。10月シベリアの日本軍が撤兵開始。12月※ソビエト連邦成立。
※全国水平社
 3月3日被差別部落とそこで暮らす人々の差別と暮しの改善を求め、在日朝鮮人が結集し組織した団体であり、翌年朝鮮半島で組織の「衡平社ヒョンピョンサ」結成に繋がった。「全国に散在する吾が※特殊部落民よ。団結せよ」との呼びかけで結成された全国水平社だが、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」を掲げた水平社宣言は、日本初の人権宣言といわれている。両団体は身分差別からの解放を求めて親交を深め、農民運動や労働運動、社会運動等を協力して展開したが、1925年治安維持法の制定により弾圧を受け、指導者を中心に検挙された。水平社の精神を受継いだ団体は現在、部落差別を無くし人権が尊重される社会をつくる為の活動を続けている。
 ――※特殊部落民
 差別的な意味合いを含む明治時代に使った行政用語。在日朝鮮人は敢えてこの呼称を使い、差別を跳ね返す原動力とした。
※ソビエト連邦成立
 病床にあったレーニンの後継者スターリンがロシア、ウクライナ、ザカフカース、白ロシア(ベラルーシ)の4つの共和国からなるソビエト連邦を4月30日に成立させた。――尚ソ連邦成立を12月22日とする資料があり、又ソ連邦の消滅は1991年12月26日である。

【1923年】
 4月24日朝鮮で衡平社が結成され名称通りに――秤の様な平等社会を作る意の“衡平運動”を展開。6月5日日本共産党の第一次検挙。9月※関東大震災で※朝鮮人虐殺事件が多発した。
※関東大震災
 9月1日午前11:58発生の巨大地震は、台風から吹込む猛烈な強風(火災旋風=火災の際に発生する猛烈なつむじ風)による家屋の延焼で多くの犠牲者を出した。とされるが、建物の崩壊や津波による被災の他に※朝鮮人等への虐殺事件等があり、特定要因は判明していない。又被害状況は資料により大きく異なるが、以下1)は新聞記事(国の2008年中央防災会議の報告書を含む)を。2)は国語辞典を引用した。
  (1)死亡・行方不明者:10万5千人  火災要因による被災9万2千人  火災以外での被災1万3千人  住宅全潰による被災1万1千人
  (2)死亡・行方不明者:14万人  東京と近県の住宅の全壊13万戸  住宅全焼45万戸
 尚虐待による犠牲者が全体の1~数%に上ったといわれており、以下震災後の混乱に乗じて朝鮮人や中国人のみならず、日本人の※社会主義者、▽共産主義者、※無政府主義者、労働運動指導者、思想家など多くの人が殺害された。――▽共産主義者とは、私有財産制を否定し生産手段を社会的に共有化して、社会階級を無くし平等な社会を作ろうとする立場の人をいう。
 ――※朝鮮人等への虐殺事件
 関東大震災の混乱の中、「朝鮮人が放火した、暴動を起こした、井戸に毒を入れた」等のデマが横行し、民間自警団や軍隊、警察等によって少なくとも233人が(司法庁調べ)、朝鮮総督府官憲調査では813人が虐殺された事件とされるが。
 習志野だけで3千人が、全体で6千661人(7千の記録が大半)が殺戮されたとする資料がある。民間人は(※福田村事件の様に)竹やりや刃物を使い朝鮮人を虐殺し、又朝鮮人と思い込んで殺害された日本人もいた。警視庁は都民に対して、ポスターやメガホンを使い「朝鮮人来襲」と注意喚起し、“朝鮮人憎し”という風潮を作り、朝鮮人排斥を煽った事実は広く知られる所である。韓国を併合して以降の日本人は、かつて朝鮮人の犯罪者を差していった「鮮人」という言葉を朝鮮人全般に対して使う様になり、次第に“不逞鮮人”、“朝鮮ピー”という言葉で朝鮮人を侮蔑する様になった。以下は某小説にある朝鮮独立活動家の言葉である――
 問題は、敗戦色が濃くなったときに、軍部や民間人が血迷ったことをしでかしやしないかということだ。関東大震災がいい例だろう。天災で家が焼けるのを朝鮮人が火をつけたと言いふらし、その次には朝鮮人が攻めてくると嘘八百を広める。日頃自分たちが朝鮮人を痛めつけているから、この機に乗じて復讐されると思い込んでいるだけのことなんだ。各地で朝鮮人が襲われ、有無を言わさず虐殺された。その二の舞だけは避けなきゃいかん。                   
 ――※福田村事件
 関東大震災直後の戒厳令下で、千葉県福田村(現野田市)を通過中の香川県三豊郡から来た日本人薬売りの行商一家を、朝鮮人と思い込んでなぶり殺しにした事件。被差別部落出身の行商一家は妊婦と嬰児を含め十名おり、彼らの話す讃岐弁を村民が理解出来なかった事が原因だったといわれる。が千葉県警察部は「用心に被害なし」と書いたポスターを作成し、行商の集団や浮浪人を警戒対象にしていた。

【1924年】
 1月20日「第一次国共合作」成立により中華民国国民党と共産党は、日本と親密な関係にあり1918年に北京に進出した軍閥“張作霖の打倒”を目指す事で合意した。――この年米国で日本人の排斥を目的に「排日移民法」を成立させている。

【1925年】
 1月20日日ソ基本条約が調印され、2月25日日ソが国交を樹立。3月12日孫文死去。4月日本で※治安維持法を制定。5月中国上海で国民が※反帝国主義を訴え蜂起した「五.三〇運動」起る。6月孫文の後継者蔣介石が中華民国国民革命軍総司令に就任。
※治安維持法
 国内の人々の思想や言論・行動の自由を抑止し、社会運動等を抑え込む為4月21日に制定された。法令の施行により、日本の中学校で初めてとなる現役将校による軍事教練が実施された。
※反帝国主義
 国家の領土や権益を国外に広げていこうとする帝国(皇帝や帝王等が治める国)主義とは“正反対の主義”をいう。

【1926年―昭和元】
 6月朝鮮で※六.一〇万歳運動。7月蔣介石が※北伐を開始。12月25日※昭和天皇即位。
※六.一〇万歳運動
 純宗の葬礼に合せて計画された全国規模のデモ計画。社会主義者に加えて民族主義者も加ったが、情報が洩れて殆どの社会主義者が検挙された。が実行が危ぶまれるなか学生が中心となり“万歳デモ”は決行された。当該運動をきっかけに社会主義者と民族主義者が独立の為に協力し合い、翌27年1月19日最大の抗日運動団体「新幹会」を組織し本部を京城に設置。全国に141の支部を作り、4万超の加入者からなる組織となった。――新幹会は1929年11月3日「民族差別と植民地教育撤廃」をスローガンに掲げて決起し、抗日運動は全国の学生に拡大した。※光州学生抗日運動には調査団を派遣し、国民に広く万歳デモを周知させたが、計画していた全国的な大規模民衆大会は事前に発覚、警察の弾圧にあい実行には至らず、新幹会会員は悉く収監された。以降総会や会議等は全て禁止となり、新幹会は活動継続が困難となり解散を余儀なくされた。
※北伐
 7月蔣介石率いる国民革命軍が、中国統一を目指す張作霖の「北京政府の掃討」を目指した戦い。
 ※昭和天皇
 12月25日若干15歳で即位した昭和天皇は、日中戦争とアジア太平洋戦争中に「現人神アラヒトガミ」として国民に崇められ、戦時中多くの勅令(天皇の命令)を発した。死亡は1989年1月7日だった。

【1927年】
 2月中国共産党が武漢に※武漢政府を樹立し、3月国民革命軍が南京を占領し4月南京に※国民政府を樹立。同月武漢政府の共産党が国民政府(国民党)に対し宣戦布告するが、7月武漢政府は崩壊した。――この年の6月張作霖政権が北京政府を樹立(12月北京で張作霖が大元帥に就任し自らを「中華民国主権者だ」と宣言)し、朝鮮では5月※槿友会が組織され、7月日本軍が山東省に※第一次山東出兵をしている。
※武漢政府と※国民政府
 弾圧を始めた国民党に対し、共産党は国民党左派と連携し2月21日武漢政府を樹立。その共産党に対抗して、国民革命軍(以下※国民党軍)は南京を攻め3月24日に制圧したが、南京攻略時に発生した南京在住の列国居留民や日本総領事館を襲撃した「南京事件」を共産党系勢力の所業とし――日本領事館襲撃事件は国民党軍の仕業だった――4月12日(1924年成立の)第一次国共合作を破棄する「反共クーデター」を引起して、共産党と絶縁を宣言。同月18日南京に中華民国国民政府を樹立した。尚反共クーデターは四.一二クーデターともいい、南京事件で列強諸国の抗議の的となった蔣介石が批判をかわす為に引起した苦し紛れの策といわれている。
 一方で武漢政府は4月になって国民政府に宣戦を布告したが、武漢政府内の国民党左派勢力は宣戦に関与しておらず、共産党勢力の独断だった事から、7月国民党左派勢力が共産党勢力を排除し、武漢政府は崩壊した。武漢を追われた毛沢東率いる共産党は、翌28年広東で労農政権を組織したが、三日後国民党軍に広東を奪還され(孫文が軍政を成立させ1921年中華民国を建国したのが広東省広州だった)、31年江西省瑞金で中華ソビエト臨時政府を成立させた。が34年意を決して江西省離れ大移動し、陝西省に35年革命拠点を築き、毛沢東が中国共産党主席に就任した。
 ――※国民党軍
 国民革命軍は1947年中華民国憲法の発布に伴い「中華民国国軍」に改称されたが、中華民国国民党の軍である事から、(分り易い様に)以下「国民党軍」を使う事とする。
※槿友会
 朝鮮人の女性運動の歴史は、1898年百人余りで組織した「賛襄会チャンヤンフェ」が始りとされ、当時の皇帝高宗に対し女性の自由な外出や女学校の設置を訴えた。その後女性運動は広がりを見せ、“新女性”と呼ばれる女性たちが現れ、西洋式の教育を受けられる様になった。結果女性は、医師や教師や記者等で就業する様になり、女性の容姿は自然と西洋風に変化していき、更なる自由と自立を求めて多くの女性が立上がった。当年5月27日に組織された「槿友クンウフェ会」には、複数の団体が参加し、女性の地位向上と差別の克服、日本の植民地支配からの解放の為に「朝鮮人女性1千万人が団結しなければならない」と訴えた。
※第一次山東出兵
 1926年7月に国民党軍が始めた北伐を阻止する為に日本軍は、7月8日第一次山東出兵を開始した。その後国民政府の抗議や国際的反対の高まりと共に、国民党軍が北上を中止した事で日本軍は撤兵した。が国民党軍の北伐は尚も続いた。

【1928年】
 2月20日日本で普通選挙法が改正され男性すべてに選挙権が付与され、4月日本軍が第二次/5月に第三次※山東出兵。6月北京で※張作霖爆殺事件、同月中華民国国民党軍が※南北を統一。8月※パリ不戦条約が締結された。
※山東出兵
 4月26日国民党軍の北伐再開を受け、日本軍は第二次山東出兵を決行。山東省で起きた済南事件=日本人襲撃事件の発生により5月9日第三次となる山東出兵を行い、華北に迫る勢いの国民党軍と武力衝突に発展。北伐完了間近の6月4日、日本軍は「張作霖爆殺事件」を引起した上に、6月9日西安、武昌、包頭、済南の国民党軍の北京入りを許し北伐が完了、「南北を統一」された。日本軍は再三に渡る山東出兵で、国民党軍の華北や満州への北伐拡大を防いだ一方で中国民の反発を招いた。
※張作霖爆殺事件
 6月4日北京政府の軍閥張作霖を支援していた日本だったが、国民党軍の優勢必至、北伐完了間近と見ると、満州占領を目論んでいた日本にとって北伐阻止に失敗した“張作霖に利用価値なし”と判断。関東軍が独断で6月4日北京から奉天に撤退する途上の張作霖を、奉天駅(現在の瀋陽)近くの中国国鉄と満鉄との立体交差地点で列車ごと爆殺した。
※南北を統一
 6月9日国民党軍=北伐軍が北京に入り北伐を完了し南北を統一(南京と北京)させると、蔣介石は10月10日国民政府主席に就任した。張作霖が日本軍に爆殺された事を知った息子の張学良(父と同じ奉天の軍閥)は「抗日に180度政策を転換」させ、12月29日敵対していた蔣介石と和解し国民政府へ帰属した。
 関東軍が引起した張作霖爆殺事件は、五日後の国民党の南北統一を早めた形となり、同時に国民党軍の華北、満州への侵攻を恐れた日本政府の計画「満州進攻」を減退させたといわれている。
 尚※南北統一後の国民政府は、同年中に「国語ローマ字法案」を発布し、翌29年には孫文が唱えた三民主義=民族・民主・民権の教育方針を発表、又同年日独伊が国民政府を承認した。
 ――※南北統一後の日本の影響
 南北統一を果した国民政府は、当年日本を含む列強諸国に対し「不均等条約の破棄を宣言」し、又翌29年の世界恐慌による列強諸国の※ブロック経済等の影響も相まって日本は……“中国大陸での権益確保”を最重要の国策と定め、既得権益を守る為に約三年後の1931年※満州事変を引き起す事になる。
 ――※ブロック経済
 植民地の関税を優遇する一方で、他国に高い関税を設定する事で「排他的な経済施策を講ずる事」をいい、日独伊は一早くその実現に向け突進んだ。
※パリ不戦条約
 米仏英独伊日などの15カ国が「締約国に対して戦闘行為を行わない事」を取決めた条約、翌29年7月25日公布された。米国ケロッグ国務大臣と仏外相ブリアンが提唱し実現した条約だったが……日本は条約を反故にし、※十五年戦争に国運をかけた。
 ――※十五年戦争
 世界恐慌の影響と昭和東北大飢饉等(29年)による経済の混乱により、危機的な状況に追いこまれた日本は1931年前後から――日本陸軍急進派桜会が中心となり天皇中心の政治体制への国家改造を目ざす「昭和維新」が画策され、元老・重臣・政党・財閥を排除するテロリズムが横行。外地では柳条湖事件を発端に満州事変を引起して、軍部中心の政治体制に移行し、1940年10月日本は政党による政治を終焉させ、軍事力を拠り所に他国へ侵攻した。
 十五年戦争とは、1931年9月18日発生の柳条湖事件から45年アジア太平洋戦争の終結迄をいうが、1927年第一次山東出兵からアジア太平洋戦争終戦迄を二十年戦争とする見解もある。一方朝鮮人にとっては日本人の武力による朝鮮開国=1875年発生の雲揚号事件から1945年祖国解放までを七十年戦闘とする声がある。

【1929年】
 1月朝鮮で※元山ゼネストが起る。日独伊に遅れて英が6月中華民国国民政府を承認。7月中ソが国交断絶。7月※ジュネーブ条約発効。10月※世界大恐慌。11月朝鮮で※光州学生抗日運動起る。――この年日本で蟹工船/小林多喜二が出版された。
※元山ゼネスト
 1月13日日本人経営の会社で働く元山ウォンサンの朝鮮人労働者が、日本人現場監督に殴られた事をきっかけに起したゼネスト=労働争議。4月6日迄続いた争議では、朝鮮人労働者に対して朝鮮各地から寄付金や食料が送られ、日本人労働者も激励のカンパを寄せた。又中国やソ連、フランス等の労働者も激励の電文を送るなどして国際的な賛同を得て連帯が生まれたが、日本の弾圧によりゼネストは失敗に終った。前年5百にまで増えた労働組合が起した労働争議は、(全てといって良いほど)実を結ばなかった。日本で働く朝鮮人労働者もまた彼らと同様劣悪な労働環境下での労働を余儀なくされ、低賃金で長時間の人身拘束の元で、嫌がらせやいじめに耐えねばならなかった。
※ジュネーブ条約
 文民の保護等を定めた赤十字条約、国際人道法ともいわれる多国間条約で、1863年前身となる「五人委員会」成立し、翌64年欧州16カ国がジュネーブ条約に調印し、誕生したのが「国際赤十字」の始りだった。1929年のジュネーブ条約は特に「傷病者の状態改善と俘虜の待遇」に関して以下の内容で署名され31年6月に発効された(その後改正が繰返されて現在に至っている)。
  (1)撤退の際、重傷患者は衛生要員と共にその場に留め置き、敵の保護に委ねる事
  (2)俘虜(捕虜)の自由は拘束されるが、生命は保障され、やがて本国に送還する事
 日本は1886年発効の「傷病者保護に関するジュネーブ条約」に締約し、1907年日本軍独自の「軍の衛生勤務に関する規定」に取入れたが、14年の改正で規定を削除し、24年復活させたが、1929年当該条約に署名せず、40年規定を再び削除した。――1)と2)は筆者が区別したもの。※死と向き合うを参照。
※世界恐慌
 当年10月24日(木)10時25分。米国市場で高値で取引されていたゼネラルモーターズの株価が下落。市場は売り一色となり、11時迄の35分間で株価は大暴落し世界へ波及した。「暗黒の木曜日」と呼ばれるこの日、市場は一時もち直したが、五日後の29日再び大暴落し(悲劇の火曜日)世界恐慌に陥った。米国では生産量が半減し、輸出量は1/3にまで落ち込み、物価は3/4に低下、雇用は2割減少して失業者が急増した。又オーストリアや伊、南米等では輸入する資金にさえ枯渇した。
 日本にも「昭和恐慌」が到来し、経済や金融、政治等に大きな影響を及ぼし、浜口首相は軍事費を捻出する為に女性リーダーを集め(女性解放運動の高まりを受け)、「消費の節約と貯金を奨励する国民運動」への協力を要請した(※日本人女性が初めての選挙権を行使と※配給制が拡大を参考)。中でも在日朝鮮人は“日本人の失業者を出す原因”と見られて失業救済事業の対象から除外された。朝鮮半島では……朝鮮人農家が日本人の地主に支払う小作料が大幅に引上げられたり、総督府は貯金や保険の加入を強制し金集めに躍起となり、又家畜の糞尿と草を混ぜた肥料を作って俵にする事を奨励、子どもらには蚕の飼育(繊維産業の不況が続き翌30年生糸が大暴落した為)や食料となる家畜を飼育させた。労働にあり付けた朝鮮人も苦しんだ。元々日本人の労働者一人に支払う賃金で、朝鮮人三人以上を雇えるほどの格差がある中、食べる物は山野や道端や河川等の水場にいる生物を食べ、食糧がなくなる1月から春に掛けては餓死者を出すほど、大恐慌は朝鮮人を困苦の極に追い詰めた。東亜日報には以下の見出しが掲載された。
   ・1930年10月23日:生活難に耐えられなくて、夜中逃げる者が続出
   ・     11月29日:米穀価暴落、通学不能大学生7百余り
   ・     12月11日:授業料未納で1500人の学生が退学
   ・1931年08月20日:飢えている日雇いの人夫(の為)に強制的に貯蓄を
 世界大恐慌に加えて1930年から31年にかけて続いた昭和東北大飢饉(昭和農業恐慌)の影響が重なった事で、日本経済は大不況に陥った。日本は打開策として「軍備を拡大させる事で政府消費を拡大させる。そして景気を刺激する」策を講じ続けたが、国際社会は厳しい目を日本に向けた。
※光州学生抗日運動
 朝鮮半島の学校では日本人教師による日本語の授業が殆どだった。その為生徒は理解に窮し、進学資格を失い、中途退学者を多く出した。学校を辞めた者も卒業できた者も共に定職に就く事は容易ではなく、就職できたとしても、劣悪な環境で日本人より低い給料で働くしかなく、自然と日本に対する抵抗感は強くなった。そこで彼らは、秘かに組織を作り独立を果そうとする意識が高まっていった。
 その様な中で事件は起きた。光州クァンジュの通学列車内で日本人の男子学生が朝鮮の女子学生をからかい、止めに入った朝鮮男子学生と日本の学生がけんかになったところに日本人警察官が駈けつけ、朝鮮人の学生だけを逮捕し投獄した。朝鮮人に対する差別と蔑視が生んだこの事件を知った光州地域の学生は「民族差別撤廃と植民地教育撤廃」をスローガンに11月3日決起した。この光州学生運動がきっかけとなり抗日運動は拡大し、又小学生の子どもらは朝鮮人学校を休校にする「同盟休校運動」を決行し全国に広がった。30年3月迄続いた抗日学生運動では、全国194校5万人に上る学生が参加し、582名が退学処分、2千330名が無期停学となった。光州学生抗日運動で投獄された学生は延べ1千462人に上った。以下は彼らが作った※檄文の一部。檄文ゲキブンとは敵を攻撃したり自分の主張を伝えて決起を促す文書をいい、「檄」の一語でも使われる。
   ・言論・出版・集会・結社・デモの自由の獲得    
   ・韓国人本位の教育制度の確立
   ・植民地的奴隷制度の撤廃              
   ・社会科学研究の自由の獲得

【1930年】
 10月英国が※威海衛を還付。10月台湾で※霧社事件。この年30年北京で反蒋介石運動が起き「北方国民政府」が組織され――左翼作家連盟が結成されるなどして――より革新的施策と行動を求める声が多数を占めていった。
※威海衛の還付
 前年英国が中華民国を国家として承認した事を“内外に喧伝する為”、1898年日本から奪った形で清から租借していた山東半島「威海衛」を中華民国に還付した(※中国を分割租借を参考)。
※霧社事件
 日本の開発が台湾の内陸や高地に及ぶと住民の暮しは著しく圧迫され、又弾圧が激しくなり差別が蔓延した。その様な状況を変えようと3百人の住民が結束し反日を訴え蜂起。日本人の運動会に乱入し日本人を殺害し、台湾人を監理していた駐在所を襲撃した。当該事件をきっかけに台湾の警察権は陸軍に移行された。

【1931年】
 5月パリで※植民地博覧会開催。9月※柳条湖事件が発生し※満州事変に拡大。日本で※3月/10月事件の画策。11月中国江西省で※中華ソビエト共和国臨時政府樹立。――この年朝鮮で※韓人愛国団が組織され、日本では軍部が※昭和維新を目指した。又日本の東北地方で大凶作が続いた年である。
※植民地博覧会
 5―11月万国博覧会を植民地博覧会に名称を変え開催された博覧会では、人間が“人間動物園”として見世物にされた(※学術人類館を参照)。
※柳条湖事件
 9月18日遼東半島南端に駐留する関東軍が、中国奉天北郊の柳条湖(溝)で南満州鉄道線路を爆破した事件。関東軍は中国の所業として南満州の主要都市やチチハル、錦州、ハルビン等を次々と侵略。そうした中で関東軍は張作霖の長男「張学良による犯行と発表」したが、実際には関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐(戦後※極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となる)と作戦主任任参謀石原莞爾中佐(東条英機と対立した為戦犯を免れた人物)の二人が計画し、現地部隊が実行した。爆発は後続列車の運行に支障のないレベルだったが、翌年国際連盟から調査団が派遣された(32年※満州事変の報告書に詳細あり)。事件をきっかけに関東軍は、政府の不拡大方針を無視して領地を拡大していった。
※満州事変とは
 関東軍と国民党軍との武力紛争をいい、9月発生の柳条湖事件~日本が満州の要地を占領した32年2月18日迄を「満州事変」とする見方が多数を占めるが、発生時期には、1928年6月4日関東州(遼東半島先端)に駐留していた関東軍が単独で起した“張作霖爆殺事件が満州事変の始り”とする見方も多い。何れにしても満州事変は※満州国建国の布石だったといわれる。
※3月/10月事件
 右翼思想家ら日本陸軍急進派桜会による軍事政権樹立を掲げたクーデターをいう。が何れも未遂に終った。
※中華ソビエト共和国臨時政府
 ロシア革命記念日にあたる11月7日、江西省で中国共産党とソビエト政府の間で開催された第一回中華ソビエト代表会議において、日本に対抗すべく「中華ソビエト共和国の樹立」を議決し、中国にもう一つの国家が誕生した。主席に毛沢東が就任した当該臨時政府は、1934年ソビエトの国際連盟加入まで存在した。
※韓人愛国団
 日本の弾圧と、資金不足で弱体化した大韓民国臨時政府を打倒する為、※金九が組織した闘争団体。翌32年には団員の李奉昌イボンチャンが東京で天皇爆殺未遂事件を決行(天皇が乗る馬車に爆弾を投げ後に李氏は銃殺刑になった)し、尹奉吉ユンボンギルは日本軍の上海占領を記念する式場で投爆して、陸軍大将を含む将校と官僚らを死傷させた。結果独立運動は活気づき又国際的な関心を呼んだ。一方中華民国は再起した大韓民国臨時政府を認めて支援にまわった。
※昭和維新
 以下の事件等を辿って「政党政治から天皇中心の政治体制に移行」し、結果昭和維新は完遂したといわれる。
   ・1931年:3月/10月事件  
   ・  32年:血盟団事件及び五.一五事件
   ・  34年:陸軍士官学校で発生したクーデター未遂に終った陸軍士官学校事件
   ・  35年:陸軍士官学校事件を引起した皇道派の追放に反対する相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢事件
   ・  36年:二.二六事件等のテロリズムの横行

【1932年】
 1月中国で※上海事変起る。日本で2月※血盟団事件。3月日本が※満州国建国を宣言。5月日本で※五.一五事件。中国で6月国民党軍の第四次※赤軍包囲戦始まる。9月中国で※平頂山事件発生。10月国際連盟リットン調査団が※満州事変の報告書を公表。10月日本国内で※国防婦人会を結成。12月日本に対抗すべく中華民国国民政府がソ連と国交回復(ソ連が中華民国に同情し国交を回復したとの説がある)。――この年朝鮮慶尚南道生れの朴春琴パクシュングム氏が日本の衆議院選挙に当選し、日本帝国議会初となる朝鮮人代議士となり、朝鮮人に対する志願兵制度導入を訴えた(朴氏は以後一回、計二回当選している)。
※上海事変=一.二八事変
 1月28日関東軍の満州侵攻に抗議する上海市民の排日運動が檄化する中、彼らの暴徒化の未然防止と戦闘中の満州から列国の目を逸らす為に、関東軍が引起した変事。関東軍が軍事行動に踏切ったのには「中国人による日本人僧侶殺害事件を口実にした」とする説の他に「排日右派勢力と官憲を衝突させて、関東軍が抑え込むという構図」で、対国民党軍戦に持込む計画があったといわれる。――当該変事で関東軍兵による強姦事件が発生した為、陸軍〇〇部隊は上海在海軍にならって「慰安婦の招致を内地に要請し、慰安婦団を招いた」事で強姦事件は収束したといわれている。この後各兵団の多くで慰安婦団を随行させる事が常套化し、慰安婦団は一分隊として扱われた。兵団とは独立して作戦を実行できる部隊をいい2―4師団が集まった「軍団」をいう。※部隊の単位は――下位より以下の様に構成された。
(1)組は1―6名  (2)班は4―6名  (3)分隊は8―12名  
  (4)小隊は30―60名おり、二分隊以上が従属    
  (5)中隊は60―250名おり、二小隊以上が従属
  (6)大隊は3百―1千名おり、二から六中隊が従属    
  (7)連隊は5百―5千名おり、一大隊以上又は複数の中隊が従属
  (8)旅団は2千―5千名おり、二連隊以上又は複数の大隊が従属
     ――混成旅団は旅団の下位に位置づけられ歩兵・砲兵・工兵・騎兵等で編成され単体での作戦実行能力をもつ部隊をいう
  (9)師団は1万―2万名おり、二から四旅団又は複数の連隊が従属
  (10)軍団(兵団)は3万名以上おり、二師団以上が従属
  (11)軍は5―6万名以上おり、二軍団以上又は師団が従属
  (13)方面軍は10―12万以上おり、大将の中で群を抜いた功績をあげた「元帥」が率いる数個師団が従属
  (14)総軍は多人数・複数の師団以上が従属
 中隊より上位には、指揮を専門とする「司令部又は本部」があり、それらのトップに最高司令部の「大本営」がある。陸海軍を率いる統帥権を持つ大元帥=天皇をトップに、天皇直属の「軍令部総長(海軍)と参謀総長(陸軍)」が統帥部長としてその地位につき、作戦を統括し又大元帥の命令を大本営陸軍部命令・大本営海軍部命令として発令し、※大本営会議において戦争の方針や方向性を決定した。――軍隊内の階級については、※軍隊内の序列を参照。
 ――※大本営会議
 大本営とは天皇直属の最高指令部をいい、陸海軍の作戦を統括する統帥部長二名と参謀次長(陸軍)、軍令次長(海軍)、及び作戦部長(第一部長)と同課長で構成され、天皇が臨席する形で開かれた会議をいい、会議は日清、日露及び日中・アジア太平洋戦争で計3回設置された。国政を担う内閣とは別系統となる為、内閣総理大臣や外務大臣等は出席できず、陸・海軍省トップの陸海軍大臣は出席できたが発言権はなかった。旧日本軍の戦争の指揮・方針・方向性は彼ら七名で決定された。
※血盟団事件
 2―3月に決行された政治結社血盟団による暗殺事件。井上準之助前藏相や三井財閥幹部の団琢磨が殺害された。    
※満州国建国を宣言
 関東軍は中国東方の主要地域で清の行政区分だった満州全土=黒竜江、吉林、奉天省を占領(――※満州を参照)。熱河と興安省の二省と内蒙古を加えた地域を「満州国」とし、新春に首都をおき新京と改称、清王朝最後の皇帝溥儀に対し「清の復興を条件」に満州国の執政になるよう迫り、3月1日満州国建国を宣言させた。その上で日本と満州国間で9月15日日満議定書を交し、日本が「満州国を独立国家と承認する形」で満州国という偽装国家は作られた。日本列島の防衛線とすべく朝鮮と満州を獲得し、鉄や石炭等戦争に必須な鉱物資源を手に入れた日本は、ソ連の南下政策に備えた。
 建国宣言時の満州国の面積は130万㎢を超え日本の3,5倍となり(最大時150万㎢に及んだ)、建国宣言後※満州国へ移住した日本人は百万人を超え、投資資本は約16億円に及び全外国資本の約七割を占めた。――満州国国旗にある五本線は朝鮮、中国、蒙古=モンゴル、ロシア、日本を示すが、その説は様々ある。1)五つの民族が助け合うという理想を示す五族協和を掲げた韓国国旗「太極旗」を参考にした説(太極旗は周易を基とした宇宙を模り国旗とした)。2)陰が陽に転じて陽が陰に転じる意を込めた説。3)1911年辛亥革命時代の「漢満蒙蔵回の五民族」の共同体性を目ざした五民族を“日鮮満漢蒙”に替え、日本は「五民族の上に立つ」との理想(思想)から五色になった説。以上が有力だという。尚中華民国国民政府は満州国を「東北」とよんだ。
 ――※満州国に移住した日本人
 日本は満州国を日本人の国家にする為、建国宣言以降「満蒙開拓団」を組織し、府県や市町村に競わせる形で――例えばA町(郷)開拓団は十年間に20万戸を移住させる目標を立てるなど――満州国への移住に力を入れた(37年※満州農業移民計画を参照)。
※五.一五事件
 5月15日犬養毅首相が海軍急進派青年将校らに射殺された事件。犬養は満州国の形式的な領有権が中国にある事を認め、第一次大戦後には海軍部の軍事力強化の要求を拒絶し軍縮を進めようとしていた。この事件がきっかけに軍事官僚ら軍部主導の政治体制が築かれ、日本は軍事国家としての歩みを本格化させた。
※赤軍包囲戦
 当年6月国民党軍は第四次となる赤軍包囲網を敷き、北京近郊の湖北省と南京北西部の河南省の共産主義者と赤軍(共産党軍に属す中国工農紅軍)を、南北から包囲し掃討する作戦。1930年12月の第一次包囲戦、31年3月第二次包囲網戦、同年7月の第三次包囲網戦に国民党軍は敗北していた。第四次包囲戦は、第三次戦で敗北の責任を取って辞任した蒋介石に代り、主席に就任した林森の指揮の元で戦ったが、軍の弱体化と体制不備を立て直す事は出来ず敗北に終った。
※平頂山事件
 中国では日本の満州国建国に反発し抗日ゲリラが頻発した。9月15日撫順炭坑(満州は鉱物資源が豊富で特に撫順は良質な炭坑があった)の警護にあたっていた日本軍守備隊が襲撃にあい、守備隊五名が犠牲となる事件が発生。翌16日在朝日本軍は、撫順郊外の炭坑労働者が住む平頂山村に入り「当該事件を報告しなかった」として三千名の住民を虐殺した=平頂山事件である。事件を受けて国民政府は国際連盟に訴え、又日本に抗議したが日本政府は11月30日平頂山事件について「撫順に隣接する村々に潜んだ共産党軍と非正規軍からなる部隊二千人の奇襲攻撃を受け、多くの建物に火を放ち、駐屯していた日本軍守備隊を攻撃した。翌日捜索の為に一中隊を派遣すると襲撃にあい、三十分の戦闘で奇襲者らを追いやったが、戦闘により大半の家が焼失し壊滅状態となった」と虚偽の説明をした(この偽文書は現在も訂正されずに存在する)。現地には平頂山殉難同胞遺骨館が建てられ、多くの人が残酷な死を迎えた方々を悼み続けている。
※満州事変の報告書
 日本の満州建国を承服できない中華民国国民政府の訴えを受け、国際連盟は2月29日満州国建国宣言の前日にリットン調査団を日本へ派遣し、3月―6月まで柳条湖事件を含む満州事変を現地等で調査し、結果国際連盟は――満州(国)に対する中国の主権を認め、日本のいう「自発的な民族独立運動により満州国は成立した」とする主張を全否定し、10月2日「満州事変は日本の侵略行動であり自衛とは認められない」として満州国を国家として認めない旨を世界に発信した。
※国防婦人会
 陸軍省の指導下に組織された国防婦人会は、国民皆兵(国民全員で国防を担う)の名の下に、出征兵士の見送りや戦死した兵士の家庭への奉仕活動・慰問等を行い、戦争協力婦人会といわれた。女性は全員割烹着を着、たすきを掛けて「贅沢は敵だ!」「欲しがりません! 勝つまでは!」をスローガンに、服装、髪型、食物に至るまで厳しく制限された。又人間の生命は資源だと考え――女性は資源を多く産み育てる道具としてその役割を担い、早期結婚を奨励し、“五人以上の子を産む事が望ましい”として十人以上子どもを産むと表彰された。1942年に愛国婦人会と合併し大日本婦人会に編制されるとその活動は強化され、戦争末期になると「結婚は自分の為でなく御国の為にするもの」という風潮が国民の間に広まった。

【1933年】
 3月日本が※国際連盟を脱退。5月※日中軍事停戦協定締約。1月30日ヒトラーが政権を掌握し独はナチス党の独裁に。――この年小林多喜二、宮沢賢治が死去している。
※国際連盟脱退
 1月3日張学良の仮政府のある中国錦州を日本軍が占領した事を、米国は激しく非難し「満州国不承認」を宣言。3月27日には国際連盟が臨時総会を開催し「満州での中国の主権を承認し、自治政府の樹立と日本軍の撤退を勧告する決議案」を提出。日本以外の42か国の締約国の賛成により可決された。結果を受けて日本は会場から退場し国際連盟脱退を通告。孤立した日本だったが……軍部主導の国に変貌した日本は、他国に先駆け※重化学工業の発展等で世界大恐慌前の生産水準を回復していた事に加え、国民やマスコミの熱狂が煽りとなり、侵略戦争へと突き進んだ。尚ドイツは当年10月14日国際連盟に脱退を通告している。 
 ――※重化学工業の発展
 日本は中国侵略に向け朝鮮半島の工業化を進めていた。中でも重化学工業に力を注ぎ火薬や化学肥料、製鉄業の発展は目覚ましかったという。
※日中停戦軍事協定
 5月31日日本は満州事変の事後処理として、中華民国国民政府と当該協定を締約。国民政府は日本の満州国軍が3月に熱河を統治した影響を排除したいと考え、又紅軍等敵対勢力掃討を加速させたい思惑があった。停戦協定を締約した国民党軍は、10月第五次赤軍大包囲戦を決行し紅軍の勢力を半減させ、翌34年にかけて福建人民政府を組織した十九路軍(30年結成の独立系革命軍)との戦いで福建省(台湾西方の大陸沿岸地域)の制圧に成功した。

【1934年】
 9月18日ソ連が国際連盟に加盟し常任理事国となる。10月日本で※朝鮮人移住対策の件を閣議決定。12月3日ワシントン海軍軍縮条約を日本が単独で破棄する事を閣議決定し、海軍拡張を始めた。――この年満州国が共和制から帝制に移行し皇帝に溥儀が就任。国民党軍との内戦が続く共産党軍が江西省瑞金を離れ、陝西省延安を目ざし約1万2千㎞の大移動を開始した(長征は37年1月まで続いた)。
※朝鮮人移住対策の件
 関東大震災後の日本人と在日朝鮮人の対立が治安維持に悪影響を与えるとして、日本政府は失業対策や人権保護を名目に1924年大阪府内鮮協和会を設立させ、25年以降に神奈川、兵庫県に同会を立ち上げ“内鮮融和路線”を掲げていたが、それでも「内地朝鮮人の融和を阻害し、治安上憂慮すべき事態が生じつつある」として、当年10月30日以下「朝鮮人移住対策の件・四項目」を掲げた。
  (1)朝鮮半島内における朝鮮人が安住できる措置を講じる事
  (2)朝鮮人を満州と北鮮に移住させる措置を講じる事
  (3)朝鮮人の内地渡航を一層減らす事
  (4)在日朝鮮人の指導を強化し内地融和を図る事
 四項目は朝鮮人の日本渡航・移入者を減らす目的があり、政府はとくに4)を徹底し密航の取締りを強化、その達成の為に朝鮮人の管理統制と日本文化・社会への同化が必要だとして、36年8月内務省は「協和事業実施に関する件」の通牒を国内に発した。

【1935年―昭和10】
 2―4月美濃部達吉が※天皇機関説を唱え非難を受ける。日本が※華北分離工作。中国共産党が※八・一宣言を発表。
※天皇機関説
 統治権を国家が担いその最高機関トップに天皇を置き、内閣を始めとする関係機関や各大臣らの進言を得ながら「天皇が国を治める国家体制」を説いたものをいうが、統帥権(軍隊を率い治める指揮権)は明治憲法下では(時の)天皇にあった為、非難が噴出した。
※華北分離工作
 国際連盟を脱退した日本は、中国長城以南の非武装地帯に冀東キトウ防共自治政府を作らせ、河北、山東、山西、綏遠、チャハル省の華北五省を満州国に編入する方針を決定した(公式発表は翌36年)。が中国民の猛烈な反対運動に合い、又大軍備を大幅に増強したソ連極東軍との衝突を回避する為、計画を白紙に戻した。
※八.一宣言
 8月1日長征=大移動中の中国共産党が、国民政府に対して「抗日救国統一戦線を呼びかける八.一宣言」を中華ソビエト共和国政府と連名で通告。宣言を前に毛沢東は中国共産党主席に就任していた。

【1936年】
 日本で2月※二.二六事件発生、8月内務省が「※協和事業実施に関する件」の通牒を発す。12月中国で※西安事件。――この年朝鮮の独立運動が激化し満州一帯に※東北抗日連軍が編制された。又朝鮮では総督府総監南次郎が※内鮮一体の方針を示した。尚北鮮において5月5日金日成キムイルソンが抗日民族統一戦線祖国光復会を結成した……近代史で金日成が登場する資料を見かけるのは極めて稀である。
※二.二六事件
 昭和時代最大のクーデターといわれ、又国家の先途を決定づけた事件といわれている。※急進派青年将校率いる反乱軍1千4百(1千5百の資料もある)の兵士が、軍政府樹立を唱えて武装決起し、2月26日午前0時30分から5時過ぎにかけて首相官邸や警視庁等を急襲。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺鍵太郎教育総監陸軍大将らを殺害するなどした。その“反乱軍”に対し戒厳司令部は2万4千の兵を投入し、反乱軍が占拠する永田町一帯を包囲すると、大半の反乱軍下士官や兵士は帰順(投降)した。二・二六事件をきっかけに軍による政治関与の批判が高まったが、※統制派主体の陸軍首脳は政治への軍関与の批判をかわす為に、※皇道派将校を※予備役に編入した。が皇道派の入閣を防ぐ為に、明治期の軍部大臣の現役武官制(陸海軍両大臣は現役※武官に限定するとした制度)を復活させた事から、寧ろ軍による国家統制が強化させる結果となった。――当時は統制派と皇道派が対立しており、二.二六事件を首謀した青年将校らは皇道派に心服していた。
   ・急進派:政治体制を早急に根幹から変えようとする勢力
   ・統制派:国家総動員制の構築をめざし皇道派と対立した勢力
   ・皇道派:31年の10月事件後に陸軍内に台頭した天皇を基に置いた勢力。極端な精神主義で軍を統制し、急進派青年将校らが支持した
   ・予備役:現役後の一定期間服する兵役をいい、平時は市民生活を送り非常時に召集された
  (・予備軍:予備役の人々を集めて編制する軍をいい、第一線で活動する軍の控えに位置づけられた)
   ・武官:軍事に従う官吏=役人をいった
※協和事業実施に関する件
 協和事業の内容は――在日朝鮮人の▽保護救済(治安維持の為の監視)▽国民精神の涵養(辛抱強く教導する)▽生活の改善と向上(皇国臣民化)▽警察による保護の徹底(犯罪や逃亡の防止)であったが、以上を内務省は各府県知事に指示し、指示を受けて東京、大阪、神奈川、兵庫、京都、愛知、山口、福岡県に協和会は組織された。37年2月設立の広島協和会には会長に知事が就任し、警察や特高警察が役員を占める警察組織様となった。39年には沖縄県を除く全府県及び地域に協和会が作られ、同年中に各協和会を主管する(財)中央協和会が組織された。当該法人は44年11月中央興生会に改称され、各府県協和会も45年に興生会となり、実質的な運営を担っていた特高警察に加えて、行政職員や朝鮮人有力者が新たに運営に携わった。会員である在日朝鮮人の意見は反映されなかったという。
 この協和会は朝鮮人を皇国臣民化する目的でつくられ、朝鮮人が自主的に設けた教育機関を廃止し朝鮮人の為の簡易学校を作り、道徳教育の名の元に※皇国臣民化教育を徹底した(日本人の学校に入学させたとの資料もある)。又会員を保護する名目で“協和手帳”を交付し、常時携帯を義務づけた。手帳には君が代や「皇国臣民ノ誓詞」が書かれており、卒業式では「高らかに君が代を歌った」と元会員は話す。
 ――※皇国臣民化教育
 当該教育は「貴き天皇の治める国たみの、僕とする為の教練」を意味し、朝鮮人の皇民化に、日本人化に他ならなかった。そして※教育勅語はその象徴だった。又皇国臣民は「日本国の臣下である人民」の意があり、臣下・臣は家来を意味する。更に日本人は“赤子”とされた。赤子セキシとは天に代り国家を治める天皇の子ども(特に赤ん坊をさしていう)の意がある。
※西安事件
 12月12日国民政府の配下にあった東北軍の張学良が、西安を訪れた蔣介石を拉致した事件といわれる(張は当時国民党軍事委員長だった)。事件の経緯や詳細は不明な点が多いが、張は蔣介石に対し「国共内戦を停止し共産党と共に対日抗戦する」事を訴え、共産党を交えた三者会談を実現させた。会談後南京に帰着した蔣介石は、張の訴えを受入れ――前年共産党が呼びかけた「抗日救国統一戦線を呼びかける宣言」を受入れる形で――日本と共に共産党を攻撃する方針を撤回した。
※東北抗日連軍
 日本が満州国の建国を宣言した1932年、満州地域の独立軍は国民党軍と共闘し何度も日本軍に勝利したが、日本軍の攻撃隊が満州に集結すると、独立軍の勢いは徐々に衰え、一部の部隊は中国内への後退を余儀なくされた。一方独立軍の影響が弱小した満州地域では、中国共産党に加入し且つ※農民活動に影響された朝鮮人社会主義者が新たな抗日活動を展開した。彼らは満州一帯で中国人の農民と共に抗日遊撃隊を結成し、且つ共産党遊撃隊と合流して軍隊を組織した。又多くの地域に自治区を設け、農民の為の土地改革や社会改革に取組んだ。そうした活動の中、1936年組織拡大の途上で改編されたのが東北抗日連軍(満州抗日連合軍)だった。軍内の朝鮮人部隊は朝鮮の秘密組織の支援を受けて何度も国境を越え、在朝鮮の日本警察や官公署を攻撃した。――※新たな韓国の建国と独立に向けた動きを参照。
 ――※農民活動
 満州在住の朝鮮人と中国人農民は、軍閥と地主を相手に小作料の引下げを要求すると同時に武力闘争に決起した。彼らの活動は朝鮮の社会主義者に多大な影響を与えた。
※内鮮一体
 日本と朝鮮は一体だとする考え。元々内鮮とは、在日朝鮮人を平等に扱い、彼らの失業への対応や人権保護を目的に作られた言葉だったが(※朝鮮人移住対策の件を参照)、朝鮮総督府総監南次郎の唱えた内鮮一体は、朝鮮の人々に対し「精神と身体と血を含む全てを日本人にならい、日本人になれ」という傲慢な愚説だった。南の提唱をきっかけに朝鮮人は――皇国臣民化政策、国民精神総動員実施要綱、国家総動員法、国民徴用令、創氏改名、徴兵制等に苦しみ、徴用工・挺身隊・従軍慰安婦等にさせられ、非人道的な地獄の苦しみを強いられ、貴い人生を奪れた。尚内鮮一体の方針と協和事業の実施により、在日朝鮮人に対する締付けは一層強化された。

――『支那事変・日中戦争開戦』――
【1937年】
 6月4日日本で第一次近衛内閣が成立し軍部と政党の対立を収束すべく“挙国一致”を掲げた。7月満州で※盧溝橋事件発生。8月日本で※国民精神総動員実施要綱を閣議決定し、日本人対象の※満州農業移民計画を発表。8月21日中ソが不可侵条約を締結。10月日本で※皇国臣民の誓詞を制定。11月※日独伊三国防共協定を締約。11月近衛内閣が※東亜新秩序建設構想を発表。11月上海を逃れた国民政府の一部が重慶に臨時首都を置き、同月12日上海を制した日本軍が12月首都※南京攻略戦を開始し※南京大虐殺事件を引起した。又南京攻略を目前に“日本軍慰安所の設置”を本格化させた。――この年日本軍が中国華北地域を占領すると、朝鮮独立活動家(金元鳳や金九ら)が中国地域で独立戦争を展開した。又中国共産党が長征の末、1月13日拠点となる延安に到着し(1947年まで駐留)、更に8月※八路軍を編制し9月国民党との間で第二次国共合作が成立。国を挙げての抗日戦を始めた……がアジア太平洋戦争中も両党は度々交戦している。又この年日本国内では犬養・斎藤両内閣で陸軍大臣を務めた皇道派荒木貞夫と真崎甚十郎が中心となり、統制派との間で殺し合いの抗争を展開した。
※盧溝橋事件
 7月7日22時40分頃。北京西南の盧溝橋で夜間演習中の日本軍が放った空砲に反応した国民党軍が、実弾を発射。直ちに臨戦態勢となり、翌朝日本軍は国民党軍を攻撃し、翌々9日には停戦協議が開始された。だが盧溝橋を挟み両軍の睨み合いは続き――7月11日「国民党軍の謝罪と盧溝橋からの撤兵」で合意し停戦協定が結ばれた。7月12日に事件自体は終息したが、直後から両軍が大動員を開始し、国民党軍が即時開戦を唱えて兵を北上させると、7月29日北京郊外通州で※通州事件が勃発した。――7月7日発生の国民党軍の実弾射撃は、第三者(日本軍や共産党軍)による謀略説があるが、国民党軍の偶発的な発砲により衝突に至ったとする説が定説となっている。予期せぬ形の事件勃発に、日本政府は戦線の不拡大方針を決定した。が……
 ――※通州事件と日中戦争
 7月29日国民党の中国人保安隊が日本人と朝鮮人居留民385名の内、223―260名を殺害した通州事件が発生。8月9日には日本が租界化を進める上海で大山勇夫海軍中尉(上海海軍特別陸戦隊中隊長)と同隊斎藤一等水兵が殺害された、(第二次上海事変ともいわれる)大山事件が発生。度重なる惨事に対し日本政府は講和の機会を逸して、領土不拡大方針を破棄。対中国全面戦争に舵を切り日中戦争は開戦された。
 尚日中双方が宣戦布告をしていない事から、日本政府は“戦争”の言葉を使わずに「支那事変」とする閣議決定をし、そう呼ぶようになった(日華事変ともいう)。日本人には馴染みのある支那という言葉だが、侮蔑の意が込められているとして中国人や台湾人では使わずに拒絶する人が多い。
※国民精神総動員実施要綱
 8月24日に閣議決定された当該要綱は、国民の生活規則の改善と戦意高揚を図る為に、毎月1日を「興亜奉公日」に定め、▽食事は一汁一菜でおかずは梅干しのみ▽禁酒禁煙▽飲食店は休業とし▽青年団に死者の墓地清掃を義務づけた。こうした暮しの変化と共に、各地で国民精神総動員運動が起き、女性の活躍を奨励し戦争に関わる女性の動員を促進した。又当該実施要綱発表と当年11月の上海占領により、中学校の授業で防空演習が始り又防毒マスク作りが始められた。
※満州農業移民計画
 8月25日関東軍司令部は20年かけて日本人五百万人・百万戸を満州に移住させる満州農業移民計画を発表した。が45年5月迄に送り出した開拓団、青少年義勇隊員は32万人余に留まった。戦争の拡大に伴い満州移入の日本人も戦場に駆り出された為である。その為軍司令部は▽一世帯あたり支度金を千円支給(渡航費含)▽低金利での融資の条件を追加。加えて“満州開拓団の者は兵役を免れる”という不文律を撤回し開拓者や一家の主でも、徴兵検査で不合格になった者まで兵役につかせた為、移民計画は捗々しく運ばなかった。
※皇国臣民ノ誓詞
 「私は大日本帝国の臣民であります。私たちは心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私は忍苦鍛錬(苦難に耐え心身を強くする)し、立派な強い国民になります」
 ・参考<当時の日本は正式な国名への執着は少なく、皇室典範では大日本帝国を「日本帝国/大日本國」と書き表した。
※日独伊三国防共協定
 民族自決を原則としたヴェルサイユ条約と主力艦艇数の制限等を取決めたワシントン海軍軍縮条約を打破し、“世界新秩序”を目指した日独伊三国間が、11月6日ソ連に対抗する為に定めた協定。前年締約した日独防共協定にイタリアが加わり、更に三国に味方する国と勢力を含むとした。日本はアジア太平洋地域の英仏蘭米の植民地を日本が支配する事を、独伊に承認させる意図があった。尚33年の日独の国際連盟脱退に続き、伊も当該協定締結後に脱退している。
※東亜新秩序建設構想
 11月16日近衛内閣は「蔣介石の国民政府を対手とせず」との声明を発した上で、中華民国国民政府に代る“新国民政府”(新たな中華民国政府)を樹立させ、▽日本帝国▽満州(国)▽新中華民国の三国連帯による相互防衛=軍事協力体制を構築すべく当該建設構想を発表して日中戦争の目標とした(翌38年日本は汪兆銘を首班にたて※中華民国維新政府を樹立させた)。又当該構想には、日中戦争を正当化(美化)する目的があったといわれている。
 ・参考<新秩序・新しい秩序・秩序という言葉は、戦没学生の手記「きけ わだつみのこえ」でよく用いられ、「第二集きけ わだつみのこえ」では大東亜共栄圏構想・大政翼賛会にまで言及している、政府発信の通達等の一つ一つが国民に広く周知されていた事がわかる。尚蔣介石は日本の軍人を養成する東京振武学校を、汪兆銘は法政大学を卒業した。
※南京攻略戦
 物資・軍事力共に不足し敗走が続く国民党軍は、(1927年4月に政府を置いた)首都南京に退却。南京城に籠城すると12月4日日本軍と戦闘状態に入った。国民党軍は持久戦に持込む為に、城壁外を捨て戦力を城内に集中させるが、早々に脱出した蒋介石ら(蔣は11月20日重慶に臨時首都を置いていた)に続き、逃走を謀る国民党軍兵と離脱を赦さない国民党軍兵との間で銃撃戦となる大混乱の中、12月13日日本軍は南京を占領した。南京入城を知った日本国民は感激し、各地で提灯行列が行われたという。
※南京大虐殺事件
 日本軍の南京占領後、国民党軍の敗残兵を排除する掃討戦の際に起きた事件。占領後の日本軍は「市内に部隊を入れな」等厳正な態勢を敷いていた」事や「犠牲者の大半は市民でなく兵士だった」とする“大虐殺を否定する日本の主張”と、中国側の「市民30万人が殺害された」とする“南京大虐殺を事実”とする主張で対立が続いた。攻略戦の戦力と犠等牲者は、▽国民党軍の戦力9万・犠牲者約34万人▽日本軍戦力12万・犠牲者約6千人▽南京市の人口は20万人――といわれており、東京裁判は犠牲者数を20万人以上と認定した。
 以上の事から、南京市民20万人と国民党軍の戦力9万人の全員が犠牲になったとしても、国民党軍側の戦死者数34万人はあり得ない数字となる。が東京裁判で認定された20万人という犠牲者数と国民党軍の戦力9万人を引き比べた時、多くの市民が犠牲になった事は明らかである(東京23区の各区や各市の人口等と比較されたい/尚※東京大空襲の死亡者数は10万5千人といわれている)。何よりも南京大虐殺の被害者であり生存者が当時の状況を詳しく語っており、又▽東京日日新聞は上海から南京までの行軍の際に南京市内で市民を虐殺した事実を「百人斬り“超記録”X少尉106――105Y少尉」の見出しで記事にした事は広く知られるところであり、▽都新聞(後の東京新聞)は38年4月2日付の新聞紙上で「百人規模の支那人の捕虜の集団があちらこちらで抵抗らしい抵抗もせずに殺されていった」とする日本軍従軍画家の記事を掲載し、▽大分新聞は38年1月17日付の紙上で揚子江岸の「下関シャカンに行った時に(日本軍との戦闘で命を落とした)支那軍の戦死者を山のように焼いているのを見たが、それを片付けているのが支那の敗残兵で、(日本軍が)使っているのだから哀れだった」と記事にしている。その下関の城門・挹江門ユウコクモンには犠牲者5千1百名の合同埋葬地がある。
 更に告白した生存者を“ニセ被害者”と糾弾する書籍を販売した出版社に対する名誉棄損の損害賠償請求訴訟で、裁判所は「被告の原資料の解釈は凡そ妥当なものとはいい難く、学問研究の成果というに値しないといって過言ではない」として結審している事からも、南京大虐殺を否定する根拠は皆無という外にない。史実には他にも▽小さな子供が串刺しにされた▽妊婦がその腹を引き裂かれた▽非戦闘員が建物に閉じ込められて焼殺された事や、米国人宣教師らが作った※難民区にある小学校では……「日本兵が侵入し女性を次々と連れ去り、妊娠七か月の私は銃剣で足や顔を突き刺されて最後に腹を刺された。胎児は助からなかった……」と日本軍の残虐な殺戮行為を被害者本人が語っており、又親からその行為を直接聴いたという証言は多数に上る。それでも日本人の中には、今だに「南京大虐殺事件は虚偽だ」とする者が数多くいる(〇自民党歴史・検討委員会を参照)現状がある。
 ――※難民区
 安全とされる国際安全区の事。難民条約では、迫害を受ける十分な理由がある人、その危険に恐怖を感じる人に対し、難民として保護すべきとしている。
※八路軍と共産党系戦力の先途
 ・前年末の西安事件後「挙国対日抗戦」で合意した国共は、毛沢東率いる中国工農紅軍が「国民党軍に編入される形」で8月22日第十八集団軍を編制、9月2日の第二次国共合作成立に伴い翌10月国民革命新編第四軍=新四軍に改称された。一方で主力の共産党軍は「八路軍」の呼称を使い続け、共産党系勢力の拡大に伴い自然と華北にあった全共産党系部隊を指していう様になり、更に全国の共産党系部隊の総称として八路軍を用いる様になった(共軍等別称で呼ぶケースもあったが)。尚八路軍の正式名称は国民革命軍第八路軍である。
 ・1943年3月になると、八路軍は「人民解放軍」に改称されるが、戦中又戦後暫く八路軍として認知された。八路軍は日本の敗戦以降、日本人の看護婦等を留用し、看護の合間に農村部で生産活動等に従事させた。規律が厳しかった事で知られており、幹部は共産主義教育や毛沢東思想を指導するなど秀才揃いで、下級階級の兵士でも満州・朝鮮・日本語を流暢に話したといわれる。又下士官以上の軍人には日本人が大勢いて、郡部を中心に住民の心を掴んだといわれている。八路軍に従軍した日本人看護婦の一人は「戦前の日本教育の矛盾や、人種を超えた相互理解の重要性に気づかされた」と語っている。が兵士の性癖の悪さも伝わる所で、消息不明になった看護婦が異常な数に上った――(1)従軍看護婦と医療事情を参照。
 ・人民解放軍の呼称は現在も使われているが、朝鮮戦争では中国人民志願軍として参戦――人民志願軍は実際には人民解放軍の正規部隊からなる軍隊だったが、朝鮮人が多く属した事から「義勇軍」とも呼ばれた。………が、以下“共産党軍”とする(国民党軍との区別をハッキリさせる為)。

【1938年】
 2月日本軍が中華民国の(臨時)首都※重慶を攻撃開始。3月28日日本が※中華民国維新政府を南京に成立させる。3月※朝鮮教育令を改定。日本で3月※配給制を拡大、4月※国家総動員法を制定し、同月※陸軍特別志願兵令を施行。5月日本軍が※徐州会戦、10月※広東戦、11月※武漢作戦に夫々勝利。この年――前年8月の閣議決定を受けて日本政府は7月、朝鮮人を対象に国民精神総動員連盟を結成させた(設置は翌39年4月)。11月日本で「※ドイツ戦歿学生の手紙」を発行。又朝鮮義勇軍が結成されて国民党軍の支援にまわり、抗日作戦を展開した年である。
※重慶を攻撃
 2月18日に開始され43年8月23日にかけて断続的に行われた日本軍の重慶攻撃では、民間人1万以上の犠牲者を出した。尚40年9月重慶戦で初めて実戦に投じられた“零戦”による攻撃では、2倍以上の敵国民党軍機を撃墜させた(零戦13機で敵機27機を撃墜)と伝わる。
※中華民国維新政府
 日本政府は蒋介石と対立状態にある汪兆銘(二人は孫文の中国革命同盟会メンバーだった)を首班とする親日政権樹立を画策したが、先行して3月28日軍閥の梁鴻志を首班にたて江蘇省・浙江省・安徽省と南京・上海市を統括する当該政府を成立させた。尚当該政府は40年3月汪兆銘の※南京政府成立の際に編入される形で消滅している。何れも日本の傀儡(操り人形)政府だった。
※朝鮮教育令を改定
 既に在日朝鮮人に対する集会等での朝鮮語の禁止措置や皇国臣民化教育等が行われてきたが、3月の当該法令改定により、全朝鮮人の朝鮮語教育が廃止となり日本語を常用する事が強制された。しかし朝鮮人は朝鮮語を使い続けた。一般の朝鮮人に徹底させる事は不可能だったのである。尚当法令は1911年8月朝鮮(半島)で公布された勅令の三度目にあたる改定だった。
※配給制が拡大
 1937年「生ゴムの切符制」を皮切に、当年3月綿製品が配給制に加えられた。4月18日には戦費を集める為の「報国貯金」を強制し、39年電力調整令の発布により一層の節約が求められて、40年6月には生活必需品10種(米・味噌・醤油・塩・砂糖・マッチ・木炭等)を配給制とし、米の配給は「米穀通帳」で管理され、41年4月六大都市=東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸で主食が配給制となった。参考<1929年浜口首相が軍事費を捻出する為に、女性リーダーを集め「消費の節約と貯金を奨励する国民運動」の協力を行っている(※世界恐慌を参照)。
※国家総動員法
 4月1日制定翌5月に適用された当該法令は、政府の統制により人的・物的資源を運用できるとしたもので、平時に必要な物資を予測し徴集・供出させ、戦時に資源不足にならぬ様にする対策だった。項目の中には「言論の統制」があり、集会には警察官が常駐し弁士の発する言葉を厳しく取締り、敵性用語や国家にとって不適切と見なされる言葉を使えば即中止となり、戦争に異議を唱えれば即刻連行されるなど、法令自体が――国民とその暮し・運輸通信・軍需物資・労働力等あらゆるものを“国の統制下に置く”とするものであった。又法令発布と共に朝鮮人に対する※皇国臣民化政策を強行した。
 ――※皇国臣民化政策
 国家総動員法に基づき、朝鮮人を皇国臣民として戦場へ送り込む為に講じた政策で、後の39年※国民徴用令、40年※創氏改名、44年国民徴用令の全面適用へと繋がった。朝鮮では総督府の命令により各地に1千余りの神社を建て朝鮮人に参拝を強要した。神社参拝は天皇を崇拝する事そのものであり、子どもも例外でなく毎日▽皇国臣民ノ誓詞を唱えさせ、▽日本国国旗の掲揚▽※宮城遥拝▽日本語の常用を強制するなどして朝鮮人の日本人化を図った。又協和会を利用し宗教や社会風俗をも改心させ、生活改善を名目に礼儀作法や和食の普及、和服の着用などを強要した。それでも民族服を着用する女性がいると墨を塗るという暴挙に出た。が朝鮮人女性の中には室内外の服装を変えるなどして抵抗したり、あるハルモニは「和服はない」といい張り、戦争末期に民族服着用が禁止になっても民族服で過したという。
 これらの他にも協和会は、国防献金や陸軍特別志願兵令に基づく兵役志願を積極的に募り、日本国民に対して「朝鮮人でさえ戦争に協力しているのだ」と喧伝する役目を果した。当時の日本は“如何にして国民を戦争に協力させるか”が重要であり課題だった。
 ――※宮城遥拝と奉安殿
 宮城遥拝とは、皇居に向って(遠い場所から)天皇を始め皇室を拝む事をいい、この天皇崇拝は「奉安殿」にはっきりと表れていた。奉安殿は小さな祠のような建物をいい、その中には天皇と皇后の写真である“ご真影”と、※教育勅語が入っており、国民はそれらを国から預かった宝物として崇めた。特に小学校はその指導が厳しく、先ず校舎が火事にあった事を会考え、ご真影が燃えない様に奉安殿は正門の脇等の屋外に置き、決して背中を向けてはならず、掃除や下校時などは後ずさりして進んだという。教科書で「神の御裔ミスエの天皇陛下」と教えた時代だった。
※陸軍特別志願兵令
 日本は公布に先立つ37年7月2日試験的に「朝鮮人壮丁(成年に達した若者)を志願により、現役に服せしむる制度」を創設する試みはあったが、武器を手にした朝鮮人が反乱を企てる恐れがある等、朝鮮人に対する不信感と恐れを理由に思い留まった経緯がある。だが「大和民族が戦死し朝鮮民族が生き残れば、将来由々しき事態や問題を引起す」として4月3日公布(朝鮮では朝鮮人志願兵制度実施要綱)に踏み切った。が「普通以上の生計を営み、思想堅固な者」とした為、志願者は少なく、その為各道郡は面に対し志願者数を割当て強制的に徴集した。又42年4月には台湾で同令が施行された。
※徐州戦の影響
 4月7日江蘇・山東・安徽・河南省の各省(中国大陸日本海寄りの中央から北部)一帯で開始された徐州会戦では、国民党軍が5月日本軍の進撃を阻止する為、黄河堤防を破壊し大洪水を引起す暴挙に出て89万名もの犠牲者を出した(黄河決壊事件)上に、6月日本軍の勝利に終った。又5月8日山東省北部の日本軍が※毛子埠村事件を引起した。
 ――※毛子埠村事件
 山東省即墨市毛子埠マオズブー村を占領していた日本軍が5月8日、村の有力者同士の争いに介入した日本兵に犠牲者が出たとして報復した事件。日本軍は家々に火を放ち村人5百人の内180名を虐殺した。1894年11月の※旅順虐殺事件や1932年9月発生の※平頂山事件と同様に、中国人は事件を風化させない為に、詳細を丹念に調べ上げて(戦後五十年以上が経過してから)記念館を建てた。
※広東戦・武漢作戦の影響
 10月12日開始の広東作戦で日本軍は23日広東(中国大陸南部)を占領。6月開始の武漢作戦では11月初頭に主要三都市(中国中央付近)を攻略した(10月27日の資料がある)。これ迄の対中国戦で日本軍は計百万の兵を派兵し勝利したものの、作戦中の7月※張鼓峰事件が勃発するなど戦局は泥沼した。
 ――※張鼓峰事件
 7月11日満州東南で日本海近くにある張鼓峰で起きた国境紛争。張鼓峰は満ソ朝鮮の国境線にある町だったが、日本が満州国領とした為ソ連との間で軍事衝突に発展、8月日本軍が撤退しソ連の占領下に置かれた。日ソの関係が修復不可能になった事件といわれる。
※ドイツ戦歿学生の手紙
 11月20日岩波書店より刊行された第一次世界大戦で亡くなったドイツ人学生たちの手記。1917年ドクトル・フィリップ・ヴットコップにより編修上梓されたが、28年大幅に増補され、1933年普及版が発行された。日本語の翻訳はヘッセやケストナーの翻訳で著名なドイツ文学者高橋健二氏。本書はアジア太平洋戦争に赴いた出征前の日本人の若者の精神的支柱となり、当時日本で広く耽読された書籍である。

 ヘルバート・ヤーン氏の書簡(抜粋)
 ――僕はこれまでの生活の間に、信じられないほどの幸福を味わった。しかし、最大の幸福はこの戦争を体験することが出来るということだと思う。たとえ戦死するとしても。この十カ月の間に学んだことは、決して他の場合には体験し得なかったであろうから。そして日毎に僕は学び加え、日毎に視界は広がって行く。

 オスカー・マイヤー氏の書簡(抜粋)
 ――フランス軍は度々攻撃したが、今のところまだ我々の線の小部分を占領しただけだ。所によって突き出た塹壕では十メートルそこそこのところで彼我対峙している。最初は手榴弾を投げ合ったが、その後もう投弾したり射撃したりしないよう協定した。終いには葉巻、巻煙草、金、手紙などを交換した。――互いに無邪気に眺め合った。フランス兵はこちらの兵隊に彼らの大きな大砲の写真をくれた。一人は我々の最前方の歩哨と力強く握手した後、その歩哨の写真をうつした。――フランス兵は夜頻繁に手榴弾を投げるように命令されたが、「ドイツの戦友」との約束にもとづいて塹壕の左右に投げる――フランス兵が我々と同様強く平和を願っていることを、またもし彼らの願い通りになるものなら、とっくに平和になっていることを示すものだ。その時がもうそんなに遠くないようにと、我々も希望している――

 すべてを紹介したいところだが、以下(1)はエードゥアルト・プルーン氏が亡くなる当日に書いた手紙。(2)はヨハンネス・ノギールスキー氏の書簡。(3)はエドムント・クネリンガー氏による書簡。三通とも全文である。原文を蹂躙せぬよう注意しながら、旧字体を新字体に、文語体は口語体に変更した。(2)の「カギ括弧」内は新約聖書ヨハネの黙示録2章10節の一文である。
 又編纂者※ヴッドコップ氏の書いた序文末尾を追加した。ドイツ人の気質と人となりや、本書がどの様な書籍であり、どの様な思いをもって編修し世に送り出したかが垣間見える。又ヴッドコップ氏は1915年第一次世界大戦の只中、戦歿学生の書簡を小冊子にして刊行している。ご両親の宛名を調べ上げて。書簡の貸与を懇願して。自身の意思と信念によって。

  (1)エードゥアルト・プルーン 
 一九一五年九月十七日
 愛する御両親様!
 重傷を負うて私は戦場に倒れています。助かるかどうかは、神様の御手のままです。助からなくても泣かないで下さい。私は幸福に天に帰ります。皆様一同にもう一度心から御挨拶申します。神様が間もなく皆様には平和を贈り、私には幸福な昇天を与えられますように。イエスが私を助けて下さいます。それで楽に死ねます。
                                                        心からなる愛をもって  エードゥアルト
  (2)ヨハンネス・ノギールスキー   
 愛する母上様!
 この手紙をお読みになる時は、私はもう生きているものの中にはないでしょう。「なんじ死に到るまで忠実なれ、さらば我なんじに生命の冠を与えん。」私のために泣かないで下さい。私は光明の国にいるのですから。何で悲しむことがありましょう! 戦爭〈争〉が来ました。私は多くの他の戦友とともに出征し、死に到るまで忠実でした。これを書いている今まだ私は自分の墓がどこになるかを知らないのです。私の遺骨のことなど気にとめないでください。たとえ骨は砕片となって朽ち再び塵に帰ろうとも、魂は生き神と化します。この美しい世界に皆さまはなお永く生きられますように。私の愛していた人々、近しかった人々によろしくお伝え下さい。私に敵はなかったと思います。では、悲しまないで下さい。すぐにまた会えるのですから。
 皆さまに挨拶しつつ、心の中では皆さまのもとにおります。

  (3)エドムント・クネリンガー
 西部にて   一九一六年八月十五日
 ドイツは美しい、全く美しい!
 ハルツで、それから更にラーンの谷で、きっと愉快な日を送ったことでしょう。……僕の母は陸軍省に請願書を出しました。僕の二人の兄(二人ともフランスで死にました)のことを陳述し、せめて三番目の息子を死なせないため、僕を戦線から退かして欲しいと願ったのです。(このことを凡<全>て母は僕の知らぬ間に僕の同意を得ずにやったのです。)陸軍省は直ちに願いを容れて、その旨電報で連隊に布達しました。連隊は僕を新兵補充部、或はその他の補充部隊に転任させる、場合によっては帰郷させると、僕に言って来ました。しかし僕は戦線から移されることを断然拒絶しました。若い将校にとって、出来る限り戦線に止まることは名誉に値することです。こう言っても、それは母に対する無情を意味するのではなく、ただ全体に対する義務は一層高いものだという確信を示すに過ぎません。
 戦線における大多数の将校が僕ほど義務について厳格に考えてはいないということを僕はよく知っています。このことで凡ての人がボクを咎めるだろうということも僕はよく知っています。しかし、僕は正しく振舞ったことを自覚しています。僕の二人の兄は勇士として死に赴きました。――僕が逃げ隠れしてよいでしょうか。いいえ、断じて!

   ※ヴッドコップ氏の書いた序文末尾
 ――ドイツ精神のあらゆる深さ、ドイツ魂のあらゆる高貴さが、戦争と死と祖国との地平線の前で、これらの若い勇士たちの中に姿となり言葉となった。漏斗状の弾痕だらけの戦場と塹壕の中でも失われぬ、宗教的な内面性、芸術的な直観力と表現力、自然の美しさと豊かさに対する溢れる感情、階級を超越し死をも辞せぬ忠実な戦友の友情が、鐵<鉄>の如き勇敢さ、英雄的な忍耐、神聖な犠牲心に結びついている。
 国民的自覚の秋にあたって、我々は彼らの前に頭をたれて、彼らの形見に対し、彼らの戦死を空しくせしめぬことを、彼らの遺言を実現せんことを、自己と国民全体に対する不断の精進によって彼らに恥じぬものとならんことを、誓うのである。
                                               フライブルク 一九三三年秋
                                                         ドクトル・フィリップ・ヴィットコップ

【1939年】
 2月日本軍が中国※海南島を占領。5月日ソ軍間で※ノモンハン事件勃発。7月米が日本に対し※日米通商航海条約の破棄を通告。9月独軍がポーランドに侵攻し※第二次世界大戦が勃発。日本が10月朝鮮人を対象とする※国民徴用令を発布。11月20日朝鮮民事令を改定し、12月26日朝鮮人に対し「創氏改名」を行う朝鮮総督府令を発令。――この年の3月日本の大学で軍事教練が必修となり、4月朝鮮に国民精神総動員朝鮮連盟を設置。8月23日には独ソが不可侵条約を調印し、そのソ連は12月国際連盟を除名された。又西日本と朝鮮半島で※稲作が大凶作に陥り、中国では共産党軍に対する国民党軍の攻撃が激化。日本陸軍※731部隊の人体実験が始ったのも本年とされる。又日本で鉄等の戦争資源の不足を補う為に米や石油、寺の釣鐘、学校のブランコ、家庭では洗面器やストーブ、スプーン、バケツに至るまで根こそぎ供出が始った。
※海南島を占領
 香港の南西に位置する中国最南端の海南島(九州と同程度の面積で複数の少数民族が共存する島)への侵攻は、同年1月13日実施の御前会議で決定された(19日発表)。占領の目的は▽国民党軍の物資輸送ルートの遮断▽海南島の鉱物資源の開発と安定確保にあり、日本軍は2月10日に制圧して支配下に置いた。占領中の日本軍は地元民に強制労働を課し、数々の略奪行為を行い、女性に対して性的暴行を加え62ケ所の慰安所を設けて慰安婦にするなど、その非人間的行為は終戦まで続けられた。――海南島関連は――※特記事項の(3)―1:従軍慰安婦と慰安所の悪しき歴史~(3)―4:被害者等による訴訟例に記載がある。
※ノモンハン事件
 5月11日外蒙古にある満州(国)西北部国境沿いのノモンハンで勃発した国境線を巡る紛争。「関東軍と満州国軍」対「極東ソ連軍とモンゴル人民共和国(外蒙古)軍」が衝突した当該事件は、関東軍独断の軍事行動であったが、ソ連軍の戦車部隊に苦戦を強いられ、第23部団約20万のうち70%の兵が死傷し(全体の死傷者は約1万9千/戦力約5万9千人)、一方ソ連・モンゴル連合軍も2万6千超の死傷者を出し、9月15日休戦協定が締結され終結した。が柳条湖事件を発端とする関東軍の独断専行は今後も止む事はなく……翌40年関東軍は決定的な過ちを犯す事になる(※関東軍が仏軍と交戦に記載)。
※日米通商航海条約破棄を米が通告
 ノモンハン事件を東・東南アジア政策に対する挑戦と判断した米国が、7月日本に対し通告した最も強い経済制裁。結果日本は軍事物資の調達が困難となり、対する国民党軍は長期戦に備えて不足していた弾薬や兵器等を欧米列国(主に米英仏ソ)から供給される事になり、日中戦争は泥沼化の様相を呈した。――※1911年※日米通商航海条約を参考。
※第二次世界大戦
 9月1日独軍がポーランドへ侵攻し当該大戦は開戦した。これに対し翌々3日英仏豪ニュージーランドが、10日にはカナダがドイツに宣戦布告。前年独と不可侵条約を締結していたソ連が9月17日ポーランドへ侵攻し第二次世界大戦に拡大した。10月6日ポーランドを敗北に追い込んだ独ソ軍はポーランドを分割占領し、更にソ連はバルト三国に進攻、「軍事基地と部隊の駐留」を要求し、▽9月28日エストニアが▽10月5日ラトビアが▽10月10日リトアニアが受諾し協定は“締結された”が、(注:翌40年8月3―6日にかけて)ソ連が強制的に編入した。ソ連によるバルト三国への侵略戦争で、エストニアで人口の25%、ラトビアで30%、リトアニアでは15%の国民が犠牲となり……39年11月30日にはソ連国境警備隊が発砲を受けたとしてフィンランドへ侵攻すると、国際連盟は12月4日国際連盟規約違反を議決。ソ連は国連を追放された。尚ソ連とフィンランドは1940年3月12日、フィンランドがソ連に大幅な領土を割譲する内容のモスクワ講和条約を締結し、両国間の戦争は終結した。
※国民徴用令
 9月制定10月公布の当法令は、戦地へ動員される日本人の激増に伴い、その労働力を補う為に、朝鮮人に対して組織的・集団的な動員を強制的に行う事を可能にした法令だった。法令上は労働者を応募する形を取ったが、実際には面事務所の労務係や管轄する駐在所員が、割り当てられた数の朝鮮人を強制的に刈り集めて、厳格な逃亡措置を設けた上で日本や樺太、アジア全域に送り出した、実質的な“強制連行”に外ならなかった。――44年9月国民徴用令が本格適用されると、朝鮮人は根こそぎ戦地を問わず徴用された。又当39年から国家総動員法に基づく※物資供出が更に強化された。
 ――※物資供出
 37年8月の閣議決定、38年7月の国民精神総動員連盟の結成を受けて、朝鮮総督府は当年4月「国民精神総動員朝鮮連盟」を設置すると、武器等の原料を確保する為、教会の金や学校の門、農機具や釜にしゃもじ等の真鍮を含む金属製品、指輪までも供出させた。又雑穀や芋類、牛や豚等も対象となり、更には松ヤニを採取させて油を抽出し軍活動に使用した。翌40年には10戸・1単位で※愛国班(日本でいう隣組)を組織させ、徹底的に日本軍の戦争物資を収奪した(※隣組と愛国班を参照)。尚43年8月6日には甲子園球場の内野席上部にあった鉄製の屋根まで供出させている。以下は労働力不足の為に講じた主な施策……(2)強制連行と強制労働/徴用工を参照。
  ・1939年:10月朝鮮で「国民徴用令」施行
        :12月朝鮮人に対し「創氏改名」を行う朝鮮総督府令を発令
  ・  40年:2月在日朝鮮人に対し「創氏改名」を適用
  ・  41年:――朝鮮人の軍属徴用始まる
        :3月「国民労務手帳法」を公布し10月1日施行
        :8月「労務緊急対策要綱」を閣議決定し女性を含む国民皆労働体制を確立
        :11月勅令により「国民勤労報国協力令」発布
        :12月「労務調整令」を発布し労働者の転職と使用者の解雇を全面禁止に(子供のある女性の退職を強く引止めた)
  ・  42年:1月朝鮮総督府内に「労働者の斡旋・連行の協力を行う協会」を設置し強制連行を本格化
        :――当年初頭「徴兵の急増により」労働力不足が顕著となり、子どもや男女の別なく勤労奉仕させる「強制労働動員」始まる
        :11月27日「華人労務者内地移入ニ関スル件」の閣議決定により国策としての中国人強制連行が始まる
  ・  43年:6月「学徒戦時動員体制要綱」を閣議決定し同月「学徒勤労動員令」発布
        :9月日本で「女子挺身勤労隊」を自主編制させる
        :10月「労務強化対策要綱」を閣議決定
  ・  44年:1月「緊急国民勤労動員方策要綱/緊急学徒勤労動員方策要綱」を夫々閣議決定
        :8月「女子挺身勤労令」発布
        :9月上記43年10月決定の労務強化対策要綱に基づき朝鮮で「国民徴用令」を全面適用し強制連行が激化。朝鮮人の日本軍入隊が始まる
   1945年:3月勅令により日本で戦時要員(戦闘員としての動員)を目的とした「国民勤労動員令」を発布
※稲作の大凶作
 凶作を理由に日本が米穀の強制的な買い上げを実行した為、1920年の産米増殖計画により米穀に事欠いていた朝鮮人は雑穀で露命を繋いだ。又当年の大凶作が朝鮮人の徴用に拍車をかけた――※朝鮮人強制動員を参照。
※731部隊
 1932年4月満州国建国の一か月後、日本陸軍は東京新宿区の陸軍医学校に防疫研究室を設置。四年後の36年には満州(国)ハルビンに関東軍防疫給水部=731部隊の創設を決定、38年に設置し、完成した同防疫給水部には飛行場や鉄道、人体実験用の特設監獄等を設けた。日本の医大や帝国大学医学部の教授らは新宿区にある防疫研究室の嘱託となり、若い医師を731部隊に送り込んでは、細菌兵器やワクチン開発の為の人体実験を行い(凍傷実験との資料がある)、そのデータを分析研し研究させた。防疫給水部はハルビンの他に北京の▽北志那防疫給水部、南京▽中支那防疫給水部、広州▽南支那防疫給水部、シンガポール▽南方防疫給水部が在り、731部隊と共に細菌戦を実行した「中志那防疫給水部」には32人の現役軍医将校が所属し、軍医の中佐クラスになると部長としてその任に当った。固定施設の他に移動型の防疫給水部が存在し師団等と行動を共にし、衛生的な水の補給や感染症予防のワクチン接種等の防疫活動を担った。又当該部隊の中には陸軍糧秣本廠廠員を兼ねる者もおり、新たな細菌兵器となり得る黒穂菌(トウモロコシ等の穀物を枯らす菌)を使った研究開発が行われた。黒穂菌を搭載した風船爆弾で攻撃を加えて食糧を全(絶)滅させる計画だったが、敗戦により実行される事はなく、ハルビンの防疫給水部は終戦時に建物を爆破し、現在も跡地に爆破後の建物が残っている。731部隊による人体実験は明らかな戦争犯罪だったが、その実験データやノウハウを米国に引渡す事を条件に免責された。尚日本から提供された細菌兵器と実験データは改良を加え、朝鮮戦争で使ったとの報告が多数残されている。

【1940年―昭和15】
 1月26日米国が日米通商航海条約を正式に破棄。2月11日在日朝鮮人に※創氏改名を適用。3月※南京政府成立。9月17日大韓民国臨時政府が※韓国光復軍を創設。9月※関東軍が仏軍と交戦、同月※日独伊三国同盟が締結された。10月日本で※大政翼賛会が発足。この年――前年の大凶作の影響により日、朝、台で収穫米の供出が義務化され、6月1日日本で生活必需品が配給制に加えられた。8月20日には華北の日本軍を共産党軍が攻撃(百団大戦)し戦果を上げ、12月5日戦闘終結。又全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権記念大会)が十校で開催された。大韓民国臨時政府が中国各地の独立部隊を統合し軍事力を強化し韓国光復軍を創設させた。 
※創氏改名
 2月11日日本政府は在日朝鮮人に対する創氏改名を断行した。適用六カ月以内に日本人名を届出るように義務づけたが、三か月経過時点で12,7%に留った為、朝鮮人の有力者に創氏させたり、大々的に新聞等で呼び掛けたり、道別の人数を公表して競争を煽るなどして、創氏しなければならない雰囲気を作っただけに留まらず、創氏しなければ、▽学校に入学させない▽就業就労を禁止する▽優先的に徴用の対象にするなど強迫した結果、施行半年後には全体の八割がその意思に反し届出をした。それでも応じなかった人々には、本人の承諾を得ぬまま「役所が戸主の姓を氏として登録した」為、家族は登録された氏を名乗らされた。だが日本人名の使用に抵抗して創氏を拒否し自殺したり、自ら「犬子」と創氏する事で抗議の意思を表わす人もいた。朝鮮人にとって創氏は人間の尊厳を失う事を意味し、家族自体が無くなり、自分と家族のルーツを否定し、先祖と一族を捨てる行為に他ならなかった(※韓日の苗字を参照)。創氏改名を強要した一方で朝鮮総督府は、朝鮮人の戸籍を「日本人名と本来の朝鮮名の両方を記載する」という内鮮一体とは逆行する行為を行った。尚在日朝鮮人に対する苗字義務化は1875年の※平民苗字必称義務令により既に行われていた。――アイヌ民族に対する創氏改名は1876年7月であった。
 ――※韓日の苗字
 韓国の苗字の数は200数十程度で、日本は約30万ある。日本は「全体の10%が、多い苗字の10位迄で占める」が、韓国は「全体の60%」を占める。又通常日本は苗字で呼び合うが、韓国はフルネームで呼び合う事が一般的で又※本貫を名乗る事も多い。
 ――※本貫
 一族の始祖発祥の地をいい、「どこの李さんですか」と訊かれた場合、本貫が全州ならば「全州李氏です」の様に答える。本貫は本籍とは別に戸籍に記載される。
※南京政府が成立
 日本政府の指名に応じる形で江汪兆銘が成立させた南京政府の誕生により、※東亜新秩序建設構想は進展していくかに思われたが……※日独伊三国同盟の成立や国際連盟の脱退、大政翼賛会の結成等により列強諸国との対決姿勢が鮮明となった。尚南京政府の成立により中華民国維新政府は編入される形で消滅した。
※韓国光復軍
 9月17日に創設された抗日軍事組織。結成の経緯は……日本は1936年満州を拠点に華北一帯を支配下に置く方針を示し、37年7月7日日中戦争に突入し華北地域を占領した。その日本に対し朝鮮独立運動指導家の※金元鳳と※金九が部隊を組織し※中国で韓国独立闘争を展開。39年朝鮮に国民徴用令が制定され強制連行が顕著となり、又翌40年2月創氏改名法令が強制施行されると、金九率いる大韓民国臨時政府は中国各地に散らばっていた抗日独立軍を統合し、更には朝鮮義勇軍の一部を受入れ誕生したのが韓国光復軍である。
 韓国光復軍は“アジア太平洋戦争に参戦した国家”と認められ、戦後には戦勝国の一国として国際的地位を獲得した。戦中は連合国軍と共同作戦を展開したり、中国各地で各中国軍と共に日本軍と交戦し、又英国軍の要請でインドやビルマ戦線に派遣された。尚度々出てくる「光復」の言葉には主権回復の意があり、奪われた主権を取り戻すという強い願いが込められていた。
 ――※中国で韓国独立闘争
 18世紀から貧困に苦しむ朝鮮半島の農民は、中国東北地域(殊に満州)に移住する様になり、大韓帝国時代に入ると日本の侵略による経済的政治的理由で更にその数は増え、移住者は村を形成し、稲作を中心とする農業で安定した暮らしを送っていた。1910年韓国併合以後は、朝鮮人社会の支援を受けた独立活動家が基地を建設し、多くの独立部隊が組織される様になった。
 ――※金元鳳キムウォンボン
 1919年三.一独立運動後に義烈団を組織し、朝鮮独立のため朝鮮総督府や警察署、殖産銀行、東洋拓殖株式会社等の植民地統治機構の破壊や、日本軍将校や行政官僚等の朝鮮侵略の主要人物、親日民族行為者を攻撃した。昭和天皇の暗殺を計画した為、日本と親日派朝鮮人が懸賞金を掛けて警戒した最重要人物だった。金元鳳は義烈団の活動中に独立軍養成学校に入学し、卒業すると朝鮮義勇軍を結成(在学中の1936年義烈団は日本軍の激しい攻撃により鎮圧された)、38年には国民党軍の支援を受けて日本軍の攪乱活動や情報収集、捕虜尋問等に尽力した。40年朝鮮義勇隊の一部を率いて大韓民国臨時政府に合流し結成された韓国光復軍では、金元鳳は軍副司令官となり軍事力を強化した。45年祖国解放後は朝鮮民主主義人民共和国で最高人民会議代表議員等の要職に就いた。
 ――※金九キムグ
 独立運動の指導者で1894年の※東学農民運動や、教育啓蒙運動、新民会等に参加。、三.一独立運動では主導的な立場で活動したが、日本軍の武力による鎮圧にあい上海へ亡命して大韓民国臨時政府を組織し主席等の重要な職務を担い、新民会と同様に武官学校を建てるなど韓国独立の為に命がけの活動をした。45年祖国解放後は朝鮮に戻り自主的統一政府の樹立を目指して活動した。
※関東軍が仏軍と交戦
 ノモンハン事件終結後の39年9月23日関東軍参謀冨永恭次は、仏領インドシナの仏軍国境守備隊を独断で攻撃。米英等列国の猛烈な反発を招いた。日独伊三国同盟締結の前々日まで続いた仏軍との交戦は、米英に対する警告との見方がある一方で、列強諸国にアジア太平洋戦争の開戦を決意させたとも指摘される。
※日独伊三国同盟締結
 9月27日締結された三国同盟は、軍備を拡大すると共に戦争経済体制への転換を図り※ブロック経済を実現させ、(国際連盟を脱退した)三国の方向性……▽独との同盟関係を構築すれば南方に進出して東南アジアを勢力圏に取込み大陸支配を拡大させる事ができ又対米英戦が可能になると考えた日本と……▽欧州での主導的地位を確立し第二次世界大戦への米国参戦を阻止したいドイツ……▽エチオピア侵略をきっかけに国際連盟と激しく対立していたイタリア……の思惑が合致し、日本は「大戦不介入の方針を大転換」させ三国同盟は締結された。三国同盟は他国から攻撃を受けた際には軍事的な支援を行うとした正に軍事同盟だった。尚独ヒトラーはファシズム(国家主義・軍国主義・右翼的独裁主義・帝国主義的侵略主義)の生みの親といわれる伊ムッソリーニを尊敬していた。
 ――※ブロック経済
 ブロックは仏語のblocを引用した言葉で、政治的・経済上の利益の為に結びついた国家や団体等が、他者(他国)の介入や干渉を無視した独自のルールで経済活動を行う事をいう。
※大政翼賛会
 7月22日に発足した第二次近衛内閣は※大東亜共栄圏建設を宣言した上で、第一次政権で掲げた挙国一致体制から“一国一党による強力な政治体制”に大転換した。近衛は8月28日新体制準備会を開き、10月12日大政翼賛会を結成、傘下に大日本婦人会や※隣組と愛国班等を置いた(※翼賛選挙/※国防婦人会を参照)。尚大政翼賛会の名称には「天皇陛下のなさる政治に力を添え助ける」の意がある――当年10月12日―45年6月13日迄存在した当会は「政治結社」と位置づけられ、ドイツ労働党「ナチス」を理想とした(真似た)とする資料が少なくない。
 ――※大東亜共栄圏
 日独伊三国同盟を締結した事で、日本が描く※東亜新秩序(日本・満州国及び新中華民国の三国連帯)に新たに東南アジアを加えて、団結して共存共栄を図る事を目的とした構想である。日本は欧米列国による植民地支配を回避しアジアの諸民族が独立を果す為だとしたが、アジア東部全体を日本が専有する覇気(野心)があったといわれている。尚アジア太平洋戦争中の日本のスローガンは、全世界を一軒の家の様に仲良くさせる事を意味する「八紘一宇」だった。
 ――※隣組と愛国班
 大政翼賛会の傘下に置にかれた組織で、日本では隣組、朝鮮半島では愛国班と称して、庶民一人一人に命令を周知させ確実に実行させる事を目的とした。人々を互いに監視させ戦争に非協力的な者は決して許さないという雰囲気を作る働きがあった。尚町内会は――隣組同士をまとめて団結を促し、住民の動員や物資の供出(献納)、配給、献血、慰問袋の発送、工場への勤労奉仕、空襲の際の防空活動等を行い、地方自治の推進と住民に対する戦争への協力を強力に促す役割を担った。圓

――『アジア太平洋戦争開戦』――
【1941年―昭和16】
 中国で1月国民党軍が新四軍(※八路軍と共産党系戦力の先途を参照)の攻勢を警戒し攻撃。4月日本の小学校が※国民学校となり、六大都市で主食が配給制に。6月25日宗教団体法の発布で日本国内のキリスト教プロテスタント諸教派を日本キリスト教団に統合。9月日本が御前会議で対米英開戦準備を決定。10月15日大学等の修業年限の臨時短縮を決定。11月1日41年度卒業予定の学生に対し三か月間卒業を短縮する事を閣議決定(42年度卒業予定者は41年12月26日卒業とした)。11月22日勅令により日本で※国民勤労報国協力令を発布。11月28日大韓民国臨時政府が大韓民国建国綱領を発表。12月8日アジア太平洋戦争開戦。翌9日国民党軍が日独伊に対し宣戦布告し、米国の人的・経済的支援を受けて日本と交戦。12月29日日本で※言論出版集会結社等臨時取締法を施行。この年――1月21日日本で米穀局を廃止し、米麦など主要食糧や農産物の売買の需要統制を管轄する食糧管理局を設置したが、戦局の悪化によりコウリャン米を含む朝鮮と台湾産米の輸入が困難となった。又当年より朝鮮人に対して軍属徴用を実施し(※朝鮮人軍用員を参照)土木作業や俘虜=捕虜監視要員として内外地の広域へ派遣し、12―40歳の朝鮮人女性の慰安婦供出が激増した年といわれる。又開戦により全国中等学校優勝野球大会は7月地方大会のみで開催された(以降46年迄大会は中止された)。
※国民学校
 子どもは年少の皇国臣民を意味する「少国民」と呼ばれ、天皇を中心とした国家建設の為に未来の兵士を養成すべくその教育目的を、天皇が治める国の民を意味する「皇国民」の養成と、心身を訓練し鍛え上げる意味の「錬成」として、教育の名の元に生徒は精神操作されていった。又43年中学校・専門学校・師範学校もその修学目的を「錬成」とした。
 修身の教科書には「日本は神様の子孫である天皇陛下を頂とした世界一尊い国」と書かれ、戦争は「偉い日本がアジアの国々を欧米の支配から解放し、遅れたアジアの国々を天皇の有難い御力によって、正しい方向へ導く為の聖なる戦争である」と教え、図画等あらゆる教科に戦争に関わる内容が盛り込まれた。又学芸会や運動会では、子ども三人が一組になり“肉団三勇士”という戦争を美化する出し物を披露し、授業や学校生活の中に「宮城遥拝や軍式行進」等を取り入れ、「模擬戦争の軍事訓練」も行われた。――肉団三勇士とは1932年 の※上海事変の際に敵陣で自爆し活路開いて死亡した三人の日本兵を指すもので、彼らは新聞紙面を通して英雄に仕立てられ、敵意高揚の為に「日本精神の極致/民族精神の発露(表れ)」と大々的に宣伝された。又3月10日の陸軍記念日(日露戦争に勝利し遼寧省の首都奉天に入城した日)には、校門の前にルーズベルトやチャーチルの似顔絵を貼り付けた俵人形を立て、登校した生徒は次々と「撃ちてし止まぬ!(撃って撃って撃ちまくれ!)」と叫びながら竹やりで突き、それから校舎に向かった。
※国民勤労報国協力令
 14-40歳未満の男子と14―25歳未満の独身女性を対象に「勤労報国隊」が組織され、軍需工場や鉱山、農家等へ三十日以内の無償勤労奉仕を義務化した。
※言論出版集会結社等臨時取締法
 治安立法の一つで言論や出版等を許可制とし、社会秩序の維持を極度に制限した法。言論表現の自由を奪い社会運動を厳しく取締まるとした内容で、1925年4月成立の治安維持法をより具体化し、力で抑え込む事を言明化した法といわれる。

【41年※アジア太平洋戦争“開戦前”の主な動き】
  ・1月8日:東条陸相が戦陣訓を示達
  ・3月――:米国が宣戦を前に中華民国に対し5千万ドルを借款。更に武器貸与法を発動して対中治外法権の撤廃と不平等条約の改正を確約。英も中華民国援助を表明
  ・4月――:※日ソ中立条約締結
  ・4月16日:近衛内閣が関係改善の為に日米交渉を本格化
  ・6月22日:独ソ不可侵条約を破り独軍がソ連侵攻、独ソ戦始まる
  ・7月18日:第二次近衛内閣が総辞職し、第三次近衛内閣成立
  ・7月26日:日本軍の南方作戦実行計画の一報を受けた米英が日本在外資産の凍結令を発令
  ・7月28日:日本軍が南部仏印に進駐、米英中蘭が※ABCD包囲網を敷き対抗姿勢を示す
  ・8月1日:米国が対日石油を禁輸に
  ・9月6日:御前会議で対米英開戦の準備を決定
  ・10月18日:対米英戦回避派の近衛内閣が総辞職し、推進派※東条内閣発足。軍事による大東亜共栄圏建設を明確に示す
  ・10月:独が※アウシュビッツ第二強制収容所の建設着工
  ・11月26日:米国務長官コーデル・ハルが日米交渉で※ハルノートを提示
  ・12月1日:御前会議でアジア太平洋戦争開戦日を12月8日に決定
  ・12月8日:アジア太平洋戦争開戦。戦域が一挙に拡大
※日ソ中立条約
 ソ連と軍事同盟を成立させたい日本だったが「北守南進政策」に基づき、4月13日ソ連との間で(北方)外蒙と満州国の領土保全と不可侵を確認し、「南方に進出する日本に介入しない事」を促す不可侵条約に留まった。尚ソ連は37年8月中華民国と不可侵条約を締結していた為、日中夫々の戦局を見守る姿勢を取ったとする見解がある。
※ABCD包囲網
 前40年に日独伊三国同盟に調印した日本は、7月29日南部仏印(現ベトナム南部・ラオス・カンボジア)に進駐すると、米国は制裁として日本資産を凍結し、日本向けの石油の輸出を全面禁止した。石油の八割を米国からの輸入に依存していた日本に対し、米英軍は極東に潜水艦を派遣し、ハワイに米太平洋艦隊を集結させ、米英豪による共同防衛体制をとった。又米英軍は蘭印(現インドネシア)の軍事指導や、連携して英領ビルマ等を防衛する態勢をとり、米英中蘭の“ABCD”四カ国は経済封鎖を断行、更には米穀類や金属、屑鉄の対日輸出を禁止した。これらの制裁に対して日本は――経済的理由で屈服する事態に陥る前に開戦(奇襲)し、対日包囲網を打破する方針を固めて事態の打開を策謀した。
※東条内閣
 陸軍大臣だった東条英機は内閣総理大臣に就任し且つ陸軍大臣と内務大臣を兼務した(※大本営会議を参照)。その東条首相は政権末期の44年2月参謀総長に就任したが、同年7月「サイパン島の戦い」での日本軍玉砕の責任を取り、同月22日総辞職している。
※アウシュビッツ強制収容所
 独ナチス党の指示でポーランド内に作らせた俘虜強制収容所で、第一強制収容所は1940年5月20日に開所させていた。41年10月着工の第二強制収容所は42年初頭に開所し(完成は44年5月)敷地内に鉄道を引込んだ巨大収容所で、二千人を一度に殺害できるガス室とその上階に焼却用の炉があり、43年にはアウシュビッツ全体で14万名のユダヤ人が収容され、45年1月27日の閉所迄に約150万名が虐殺されたといわれる。尚閉所された1月27日を解放記念日と定めて、犠牲者を悼み、凄惨な歴史が繰返されないよう祈りを捧げている。
※ハルノート
 11月26日日本軍の中国と仏印からの全面撤兵と、中国における国民政府以外の政権の不承認、アジアを満州事変以前の状態に戻すよう要求する米国国務長官コーデル・ハルによる覚書(簡易的な外交文書)である。満州事変以降の日本の政策を全否定する内容のハルノートは、米国にとって事実上の最後通牒だった。  

【41年12月8日開戦“当日”の日本軍の動き】
  ・マレーに上陸開始:8日午前1:30陸軍がマレー半島に上陸、シンガポール(島)占領を目指した
  ・真珠湾を攻撃開始:8日午前2:10海軍が※甲標的による攻撃開始――ハワイ時間7日午前6:40
  ・真珠湾に奇襲開始:8日午前3:20海軍が米太平洋艦隊に対し空爆開始――ハワイ時間7日7:50
  ・真珠湾攻撃の終了:8日午前5:15――ハワイ時間7日午前9:45
 ――※甲標的
 魚雷搭載の海軍特殊潜航艇をいい、二人搭乗で航続距離が短く帰還が期待出来ない特攻様兵器(脱出は可能だった為“様”とした)。真珠湾攻撃を前に甲標的5隻により米駆逐艦に先制攻撃を加えたが、戦果はなく10人のうち9名が戦死した。戦死者は後に九軍神として崇められた。   
 
 日本陸軍は※南方作戦の皮切となるマレー作戦を実行すべくマレー半島に上陸。一方で海軍は真珠湾=パールハーバーを奇襲した(資料により攻撃時間は様々あるが以上を採用)。日本は真珠湾攻撃後に、米英に対し※宣戦布告し、更に※フィリピンと香港(香港については※香港陥落とその後に記載)に侵攻した事により、日中戦争はアジア太平洋戦争に拡大した。        
※南方作戦
 大本営は12月8日開始の※マレー作戦から同月14日ビルマ作戦開始迄を南方作戦とした。シンガポール攻略を最終目標としたマレー作戦は、その“第一段作戦”に位置づけられた。翌42年2月15日迄続く南方作戦の目的は、南方資源の獲得・確保にあった。 
 ――※マレー作戦
 12月8日深夜日本陸軍は英国植民地のマレー半島シンゴラ、パタニ、コタバルにそれぞれ上陸。19日に西沿岸のペナン島、31日南東岸カンタンを占領し、翌42年1月11日半島南西岸クアラルンプールへ侵攻、31日半島南端のジョホールバルを制圧しマレー半島を攻略。同日中にマレー作戦の最終目標となる“シンガポール攻略”を目指した。     
※宣戦布告
 宣戦布告は30分以上前に行うべきと定められていたが、大使館員の電文処理=翻訳とタイピングが間に合わず、真珠湾攻撃終結の50分後や7、5時間後に行った等の説がある。又ルーズベルト当時大統領は12月2日に日本の大本営から発信された「ニイタカヤマノボレ1208」の先制攻撃が予測される“暗号電文を傍受した”としており、真珠湾攻撃を事前に察知していたともいわれている。
※フィリピンに侵攻=フィリピン(マニラ)攻略戦
 12月8日昼過ぎ日本軍機による比・クラーク飛行場とイバ飛行場への攻撃では、米軍機B17(B25・29登場以前の主力爆撃機)を撃破し、米軍の極東軍事拠点となっていたフィリピンの制空権と制海権を獲得し、同27日司令官マッカーサーはマニラの無防備都市宣言を発して、1月2日日本軍はマニラを占領した。マッカーサーはバターン半島を離れ、コレヒドール島要塞に籠城し抵抗するも、翌42年3月12日に脱出、17日には比からオーストラリアへ避難した。司令官不在で士気の下ったバターン半島の米比軍は4月11日に降伏、5月10日にはコレヒドール島要塞の米比軍が降伏しフィリピン戦は終結した。

【41年12月の動き】
 12月10日※マレー沖海戦で日本軍圧勝。11日米英に対し日独伊三国が宣戦布告。12日東条内閣が南方への侵略作戦と敵国との対戦を※大東亜戦争とする事を閣議決定。12月25日※香港陥落。
※マレー沖海戦
 英国東洋艦隊主力戦艦に対し、日本海軍は12月10日約80の陸上(発進)爆撃機での攻撃を展開。世界最強と謳われた戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し英艦隊の完敗に終った――日本軍の航空基地から約3千㎞遠方だった事に加えて、プリンス・オブ・ウェールズを有する事から英国軍は航空支援の必要はないと考え、又受ける考えさえなかったといわれる。
※大東亜戦争
 米英蘭中等連合国との戦いを、支那事変を含めて「大東亜戦争」とする閣議決定をし、東条内閣は当該戦争の意義を“大東亜共栄圏を築くための聖戦”とした。 
※香港陥落とその後   
 12月8日香港島に侵攻した日本陸軍は、まず北角バツゴツクにある発電所を破壊し電力を遮断、二日後には島の中央にある大潭ダイタム貯水池を攻撃し給水を止めた。市民は昼夜を問わず、厳寒の中死にもの狂いで井戸水と食料を求め続けた。
 戦力に勝る日本軍に英軍は激しく抗戦し、赤柱半島の英軍兵士は停戦後も激しく反攻したが、彼らの姿勢に対し日本兵は狂気し、野戦病院の代りに使っていた中学校にいた看護婦を次々と輪姦、性的暴行を加えた上に全裸にして放置し、中には断首されたり腹を裂かれたりした看護婦もいた。
 香港島侵攻から18日が経った12月25日の明け方、香港は陥落した。香港市民はこの日1941年12月25日を黒色聖誕節=ブラッククリスマスとして歴史に刻んだ。三日後の28日に日本軍は戦勝祝賀パレードを実施し香港に入城、年末までの三日間日本兵は、酒と女を求めて街中を闊歩したといわれているが、野戦病院での惨状は止む事はなかった。命令を拒絶する英軍兵やベッドで動けずにいる重傷者を銃剣で刺殺し、腕時計や指輪や香港ドル等の金品を強奪し、26日早朝切断された病院長や副院長の死体や、耳や鼻が削がれ眼球のない英軍兵の死体が発見された。階上から投身自殺を図った犠牲者もいた。野戦病院全体での死者は二百名に上った。日本軍の表だった残虐行為が収束したのは、軍紀粛清の通達が出された年明けだった。 
 42年2月19日香港に軍政庁・占領地総督部が設置されると、日本兵の犯した悪行は不問となり(戦後も戦犯の対象にならなかった)、住民はこぞって香港を脱出したが総督部は寧ろ歓迎し、中国人が大陸に帰る「帰郷生産運動」を奨励した。日本軍は食糧を現地調達する方針だった為、150万の香港市民を養う食糧さえなかったからである。だが「市民の自由意志による人口減らし」は目立った効果が無かった為、日本は住民を1/3程度に減らして邦人を送り込み植民地化する方針を決定した。同時に「強制疎散」に踏み切った。▽浮浪者や無職の者▽身なりが汚い者▽検問所で最敬礼をしなかった者▽立入り禁止区域に進入した者▽早朝や夜遅くに路上を歩いている者を捕えてはトラックに載せ、“利用価値のある者”を僻地へ送った。彼らの労働力を最大限活用した(できた)のが「海南島」だった。
 利用価値がないと判断された人は有り金すべてを没収し、数百人単位で鉄道やトラックに載せ「放免」とした。――占領政策の第一段が「敵性資産の没収」、第二段は「この人口疎散」だった為、香港総督部は計画通りに占領政策を実行していった。第三段は香港ドルの吸い上げだった。
 香港の植民地化が決定されると日本軍憲兵隊は、人口を正確に把握する為「家宅の強制捜査」を行った。住民が英軍兵を匿っていないかを探索する目的もあった。道路を封鎖し、海上では小型船舶を停泊させ、憲兵三~五人一組で一軒一軒戸口を叩き、老人や病人を含む家族全員を戸口前に整列させ戸籍簿と照合した。応答がなければ銃を乱射し、それでも現れなれば「不正住民」として後日検挙し家族全員を拘留した。捜査を拒めば射殺。室内に金品があれば強奪。若い女性がいれば凌辱した。
 コレラやチフス等の伝染病を防ぐ為に、全住民を対象に各ワクチンの予防注射を実施した。これを機に香港総督部衛生課と日本軍憲兵隊の関係が深まり、1942年8月には衛生課の依頼を受けた憲兵隊は、慰安所を作る為に強制的に住民を家屋から立ち退かせて候補地を選定、慰安所となる対象地区が決定すると通達なしで道路を封鎖し、対象となる住民に三日以内に立ち退くよう命令した。住民を追いやり、軍や一般の慰安所が建設された香港にはダンスホール等が進出し町は一変し、一か月後には繁華街に様相を変えた。憲兵隊は表向きは住民からの軍関係者に対する苦情を受け付け、捕虜からも聴取を行うなどしたが、日本兵の軍律を逸脱する行為については「該当する兵は見あたらなかった/徴用で連行してきた台湾人か朝鮮人の軍属の仕業」とする書類を作成し、形式だけの業務を遂行してやり過ごした。香港のヤクザを取込み密偵にして、時に憲兵に代って殺人や拷問を強要した。
 強制捜査を元に、1942年9月戸主の姓名と住民の人数を書いた木札を建物入口に掲げる「戸口標札」を徹底させ、出産や死亡の申告や転居届の提出を厳重に義務づけた。日本と同様に各地区毎に※隣組制を設けて、複数名の班長を置き町内の事務連絡をさせた。市民も含め香港全体を日本化していった。その手始めとして満州(国)や朝鮮と同様に「地名変更」を行った。通りの呼称も変えたが香港市民に浸透しなかった。                                                                                               

【1942年】
 2月21日日本で食糧管理法を発布し配給を厳格化。2月対日作戦を遂行する為、米国が後の陸軍大将スティンウェルを中華民国国民党軍参謀長として派遣、又国民政府に対して5億ドルを追加借款、且つ英国と共に対中治外法権を撤廃し不平等条約の改正に着手した。2月朝鮮人に対する徴用を官斡旋方式に切替える(※朝鮮人強制動員を参照)。4月11日台湾総督府が陸軍特別志願兵令を施行し台湾人全体の14%が志願。4月18日日本で※初めてとなる本土空襲。4月30日本で※翼賛選挙を実施。5月8日44年度実施の徴兵制を閣議決定し(志願兵制度は廃止)、帝国議会で兵役法改正案として承認。10月米国で※マンハッタン計画が始動。11月※中国人労働者の移入を閣議決定。12月23日※大日本言論国会を設立。――この年在日の学生に対し六カ月修学期間を短縮し(前年度は三か月短縮した)毎年9月27日を卒業とした。徴兵を増やした事で日本国内の労働力が不足すると、子どもも男女の別なく「勤労奉仕という形の強制労働」が課さられ農家や軍需工場に、都市部では防空壕を掘りに動員され、作業中爆撃を受けて亡くなる子どもを大勢出した。又空襲による火災の延焼防止の為の※建物疎開が行われた。尚この頃の物価は米10kgが3円36銭だった。  
※初めての本土空襲
 連勝にわく日本だったが4月18日ドーリットル中佐率いる米軍B25爆撃機による初めての本土空襲(東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸)で87名の犠牲者を出し情勢は大きく変った。B17の後継で1939年開発のB25戦闘機の航続距離は4千3百㎞あり、遠く離れた北太平洋ミッドウェー島基地(ハワイ北北西)の離発着が可能となり、各都市を襲ったB25は同基地を根拠地とする航空母艦ホーネットに艦載された爆撃機だった。
※翼賛選挙
 4月30日東条内閣下で行われた戦時中唯一の国政選挙。全政党が合流した大政翼賛会の「翼賛政治体制協議会が推薦する候補者」に対し、臨時軍事費(陸軍の機密資金)が配られ、一方非候補者に対する警察による選挙妨害が繰返された。選挙の結果衆議院議員の八割が大政翼賛会の国会議員が占めるという異常事態が生じ、日本の政党政治は終焉を迎え、議会制民主主義が消滅した。
※米国マンハッタン計画
 10月米ルーズベルト大統領が陸軍管轄の「核兵器開発プロジェクト・マンハッタン計画」を承認。テネシー州オークリッジに秘密工場を、ニューメキシコ州ロスアラモスに研究所を設立し、43年にはウラン濃縮によるプルトニウムの生産を開始(数万の若い女性労働者は何を作っているのかを知らされなかったという)、45年7月16日にはニューメキシコ州で人類史上初の核実験を行った。     
※中国人労働者の移入
 内地の労働力が不足し逼迫しているとして、日本政府は11月27日「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定。中国人労働者を大東亜共栄圏建設の遂行の為に移入するとした(43年※国民動員実施計画に続く)。
※大日本言論国会
 大東亜戦争を遂行する為、言論統制担当の情報局の指導の元で、日本的思想と世界観を国民に植えつける意図をもって設立された社団法人である。
※建物疎開
 防火地帯をつくる目的で、疎開対象世帯に補償金が支払われ、建物がもつ役割を地方に移した上で建物を取り壊した。とあるが、実施が決ってから立ち退き期限までわずか一週間しかなく、その為移転(住)先が見つからなかった者が多かったという。又建物疎開実施心得には「強制疎開者に全幅の同情を寄せ、戦友愛をもって事に当らなければならない」とあり、非対象者は建物の取壊しを率先して手伝ったという(参加者には廃材一山が報酬として与えられた)。

【1942年の主な戦況】
   ・2月:日本軍が※ビルマ作戦を本格化
   ・1月31日―2月15日:※シンガポール攻略戦
   ・1月11日―3月9日:日本軍が※蘭印作戦を開始、スマトラ島※パレンバン攻略を最重要目標とした
   ・4月5―9日:セイロン島近海の対英※インド洋作戦開始
   ・4月11日:※パターン死の行軍
   ・5月8日:※珊瑚海海戦
   ・6月5―7日:※ミッドウェー海戦
   ・8月8日:日本軍が※ソロモン海戦、※ガダルカナル島攻略に挑んだ
※ビルマ作戦
 41年12月14日―45年8月の終戦まで続いた「南方作戦」の締括りとして、42年2月ビルマ侵攻を本格化させた日本軍は、“当初は”連合国軍(英中軍)の猛攻に対抗すべく30万の兵を投入し6月ビルマ全土を制圧。経済制裁で疲弊していた日本国民に活力を与えたといわれる。ビルマ侵攻の最大の目的は以下にあった。
   ・国民党軍への連合国軍の支援ルート=インドから中国へ物資を供給する“ビルマ公路=援蔣ルート”の遮断
 ・BIA=ビルマ独立義勇軍(後のビルマ国民軍)を引入れ、対英インド戦の長期戦の拠点を築く事
 ・南方資源を獲得する事
 一度は撤退した連合国軍だったが、両軍の戦いは以下の経緯を経て終戦まで続いた。
 ビルマ公路の遮断に先立ち、陸軍少将鈴木敬司を対ビルマ攻略機関“南機関長の偽名”を使いビルマに派遣し、「英国との戦いに勝利すれば独立を保証する」とビルマの独立運動家アウン・サンに持ちかけ、アウン・サン率いるビルマタキン党に軍事訓練を施し且つ武装蜂起するよう仕向けた。策略に乗ったタキン党は軍事力が強化され、非協力的な民族を抑圧しつつBIAと称して日本軍を(一定期間)支えた。
 日本陸軍はBIAの支援を受け、(マレー沖海戦で勝利した海軍の援軍が期待できる)ビルマ南部マルタバン湾近郊のラングーンへ侵攻。3月8日ラングーン(現ヤンゴン)を攻略した師団と南岸一帯を占領した二つの師団は、ビルマ中央地帯を東西に分れて北上、エナション油田地帯で英軍を撤退させ、中華民国国境の国民党軍等をも退け、42年6月にはビルマを占領下に置きビルマ公路の遮断奪取に成功した。
 ビルマ公路を制圧した日本軍は6月中に、タイとの間に※泰緬鉄道を敷設するなどしたが……日本軍のビルマ侵略効果は薄かったといわれている。国民党軍はビルマ公路を使わずビルマ北西部インド帝国国境沿いの「レド公路」を物資輸送に使っていた為、又空中戦は終始英軍が圧勝し、遂には制空権を支配した米英軍は国民党軍への物資輸送を空輸に切替えた為である。尚レド公路は山脈越えの曲がりくねった険しい道程で、国民党軍はあえてこの路を選んだと伝わる。
 ――※泰緬鉄道
 日本軍は泰(タイ)と緬(ビルマ)を結ぶ鉄道建設を6月に着工。全長415㎞に及ぶ鉄道の完成予定は翌43年末だったが、その工事には連合国の捕虜や現地労働者を動員して手作業による苛酷な労働を強い、又コレラやチフス等の急性伝染病や、マラリア等の発熱性の伝染病に感染するなどして多くの犠牲者を出した。クウェー川にかかる陸橋トラス橋の完成を最重要目標に位置づけ工事は進められたが、44年11月から45年にかけて制空権を支配する連合国軍の空爆による破壊と復旧工事が繰返され、後に日本軍自ら橋を外し完成には至らなかった。が戦後日本が賠償する形で開通させ、現在も利用されている。
※シンガポール攻略戦
 マレー作戦最終目標の作戦。マレー半島ジョホールバルを制圧した日本軍は42年1月31日―2月15日、マレー半島南端にあるシンガポール島を攻略すべく進攻した。「蘭印作戦で勝利し奪取する手はずの石油を日本へ供給する」為、絶対勝利が必定の戦いだった。シンガポール島北東にあるウビン島から、対岸の主力英軍に攻撃を集中させると見せかけた日本軍の陽動作戦と、速攻作戦が功を奏し、シンガポール島北西部から北に陣を取るインド師・旅団とオーストラリア師団を撃破、テンガ飛行場、フォード自動車工場、島全体の水源であるブキテマ高地の占領に成功した日本軍は給水ラインを破壊し、島中央より南東岸近くに位置するシンガポール市街へ侵攻。マレー半島の激戦で兵力が不足し態勢が整っていなかった英軍は2月15日降伏。日本が勝利した事で島全体が英豪印兵8万の捕虜収容所と化した(バターン死の行軍を経験した捕虜5万人が後にシンガポールへ移送された)。日本軍はマレー半島戦と同様に自転車による移動によってなせる速攻(撃)と、弾薬を使い尽くすほどの激戦で攻勢をかけたと伝わるが、当該作戦を境に日本軍は劣勢に傾いた。――マレー作戦を指揮した陸軍大将山下奉文は、60日余でシンガポールを攻略した事から“マレーの虎(ハリマオ)”として国民に英雄視されたが、敗戦後はBC級戦犯として軍事裁判にかけられ、46年2月23日マニラ郊外で絞首刑が執行された。
※蘭印作戦
 蘭印とはマレー半島西南に位置するスマトラ島、ジャワ島、セレベス島、ボルネオ島南東部、ニューギニア島西半分などからなるオランダ領東インド(現インドネシア)の島々をいい、蘭印攻略作戦の最大目標はスマトラ島※パレンバン攻略だった。
 ――※パレンバン攻略戦とその後
 42年1月11―3月9日陸軍第一挺進団と海軍地上部隊の連隊によるスマトラ島パレンバン攻略作戦の最重要目標は、東南アジア有数の大油田地帯と製油所施設の占領にあった。2月14日昼頃大油田地帯の対岸にある「パレンバン飛行場」に日本初の空挺部隊(パラシュート・落下傘部隊)が奇襲降下し、その間に地上部隊が合流し、次いで空挺部隊が大油田地帯に降下して各製油施設を占領、夜9時迄に地域一帯を制圧した。油田には25万トンの石油があり蘭印の島々は天然資源が豊富だった。
 パレンバン攻略後、陸軍は同様に油田地帯のあるボルネオ島バリクパパンに侵攻。(スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦等に勝利した)海軍の今村均司令官率いる蘭印攻略軍第16軍司令官は3月1日ジャワ島に上陸し、5日西岸にある(現インドネシア首都)ジャカルタを占領、9日にはバンドン要塞を攻略。蘭印軍は無条件降伏し、27日スマトラ全島を日本軍が占領下に置き、蘭印作戦は終結した。――1799年からオランダの植民地となり独立を願っていたインドネシア人の大半が、日本軍に協力的だったといわれている。又インドネシアは戦後も親日国として知られる。
※インド洋作戦
 4月5―9日に行われたセイロン島近海での対英国東洋艦隊戦。日本海軍は米ハワイ諸島とオーストラリア間の航路を断つ「米豪遮断作戦」を成功させハワイ占領を主張したが、目標達成には空母を有する英東洋艦隊を撃破する必要があった。だが大本営は陸軍の主唱を採用し、セイロン島近海の英東洋艦隊を奇襲し撃滅すべくインド洋作戦を決行した……が日本海軍の暗号を解読した米太平洋艦隊からインド洋進攻の情報を得た英東洋艦隊は、臨戦態勢を敷き「空母決戦」に備えていた。英艦隊の動きを知らぬ日本海軍屈指といわれる※南雲空母機動部隊が誇る爆撃機は英艦隊に向け飛び立つが、必要以上に出撃に時間を要した為、空母決戦と決め込んでいた英軍は、日本の次報の暗号――空母六隻から発進される50機超の急降下爆撃――を“未解読のまま”急襲にあい、対独戦で過剰に戦力を費やし又日本軍の半分程度の戦力で臨むしかなかった英東洋艦隊は、二十分足らずで二隻の重巡洋艦っを撃沈され惨敗に終った。尚未解読の日本の「次報の暗号」は後に解読されるが、解読された事を知らぬままミッドウェー海戦に臨んだ日本海軍は大敗を喫する事になる。
 ――※南雲空母機動部隊
 機動部隊とは機動力を有する戦闘部隊をいい、海上では航空母艦を基幹とする空母機動部隊を、陸上では高速機動力を駆使する部隊をいう。南雲忠一中将率いる機動部隊の爆撃機の命中率は82%(37発中)で、4月9日の英軍航空母艦ハーミス撃沈は世界初の飛行機による撃沈だった。
※バターン死の行軍
 フィリピン攻略戦の際にバターン半島で投降した米比軍捕虜と難民となった市民は、当年4月11日捕虜収容所迄の120㎞(131㎞の記述もある)を移動中にその多くが命を落した。日本軍は捕虜の移送にトラック二百台を用意したが、捕虜の数は予想を超える7万6千人に上った為、捕虜全員のトラック輸送が不可能となり、サンフェルナンドまでの約40㎞(全行程83㎞)を素足で移動。4月13日になってようやくサンフェルナンドから鉄道で移動したが、捕虜の多くがマラリア等に伝染しており、捕虜収容所に“辿り着けた”のは5万4千人程度に留り、7千―1万人が伝染病や栄養失調や疲労等で死亡した。だが……資料の通り捕虜7万6千のうち収容所に辿り着いた人が5万4千人だったとすると、亡くなったのは2万2千名に及んだ事になり、死亡者数に2―3倍以上の差異が出る(2万5千の記述があり、日本は米軍の死亡者を2千3百人とした)。数字の違いは別資料の、4月12日パンティンガン川で行ったとされる“捕虜の集団処刑の死亡者”を含むか含まないか、集団処刑が有ったか無かったかによる差異だという指摘がある。尚死の行軍を経験した米兵T氏は、後に福岡県の三井三池炭鉱に連行され終戦まで強制労働を課せられたという。
※珊瑚海海戦
 5月8日オーストラリア軍の戦略的拠点ポートモレスビー(豪州北部近海のニューギニア島東部)の攻略目標は、日本海軍が主張した「米豪航路遮断」にあった。が東部ニューブリテン島ラバウルに海軍飛行隊基地のあった日本海軍が発する「ポートモレスビー攻略戦の暗号」も米豪に解読されていた為、(小型)空母祥鳳が撃沈され(日本初となる空母の喪失)、米艦隊におても日本海軍飛行隊の魚雷攻撃を受け空母レキシントンが撃沈、米軍初となる正規空母の喪失だった。両軍とも空母や駆逐艦に打撃を被った末に、退却する米艦隊を日本海軍は追撃する事が出来ず、珊瑚海海戦は痛み分けの形で終り、日本軍はポートモレスビー攻略を断念した。が当海戦において米国艦隊を退けた戦果は、結果として東南アジア各地と太平洋地域の島々を占領下に置いた事を意味する為、多大だったとする指摘がある。
※ミッドウェー海戦
 6月5―7日ハワイ島の北北西ミッドウェー島(環礁)沖での日米決戦。島全体が米海軍の拠点となる要塞基地のミッドウェー島は、1935年太平洋を横断する米軍機の給油地としていた事から、日本海軍は米軍機動部隊撃滅と防衛ライン拡張を目標に総力戦で挑んだ。が米国の事前の暗号解読や、日本の索敵活動の軽視による米機動部隊の発見の遅れで、空母三隻を失い、翌日未明には唯一残った空母飛龍までもが沈没し大敗を喫した。
 ミッドウェー海戦に先立つ5月27日、南雲機動部隊爆撃機は瀬戸内海からミッドウェーに向け出撃していたが、米軍はその情報を暗号で解読しており、爆撃部隊は米軍機を発見できぬまま空母に帰艦――しようとした所、甲板上に第二次攻撃隊がひしめいており、甲板上にあった爆撃機を格納庫に移動し、残り5分で格納完了という時になって米軍機の急襲を受け、勝敗は決したといわれている。尚両軍の戦力と戦死者は――日本は戦力10万に対し戦死3057名。米軍は戦力3932に対し307名が死亡した。当海戦は日本軍が形勢不利に一気に向った戦いとして知られている。
※ソロモン海戦
 珊瑚海海戦でポートモレスビーの攻略を断念した日本が講じた第二段作戦の一つ。当海戦の目的はフィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略し「豪州を孤立させる事」、そして日本海軍が42年8月に一か月で滑走路を設営し、翌日米軍に奪われたルンガ飛行場(米軍は規模を拡張しヘンダーソン飛行場に改名)のある「ガダルカナル島奪還」にあった。ニューギニア島東に位置し豪州大陸北東にある珊瑚海近海のソロモン諸島が主戦場の当海戦は、※第一次~第三次海戦及び※南三太平洋海戦に別れる(それより前の1月26日ソロモン諸島東の南太平洋上で両軍は戦火を交えているが)。
 ――※第一次海戦
 8月8―9日ガダルカナル島北沿岸の米重巡洋艦四隻を夜間に奇襲し沈没させた日本海軍だったが、島に上陸した米軍船団に攻撃しないという失態を犯し、勝利とはいい難い結果に終った。その様な海戦で8月7日ルンガ飛行場の奪還を目指してガダルカナル島に上陸した日本陸軍は、翌43年2月7日にかけて戦中最大の悲劇といわれる“※ガダルカナル島攻防戦”に臨んだ。
 ――第二次海戦
 8月24日日本海軍はガダルカナル島気北近海にあるイサベル島北東沖に空母三隻を出撃させると、両軍との間で航空母艦同士の戦いとなった。日本軍は米軍機動部隊艦載機の集中攻撃を受け、空母竜驤を失い敗北に終った。
 ――※南太平洋海戦
 10月25―27日ガダルカナル島北東沿岸のマライタ島沖での空母戦。26日日本海軍は翔鶴と瑞鳳の両空母を損失したが、米空母ホーネットを撃沈し同エンタープライズに損害を与えて勝利した。
 ――第三次海戦
 11月12―15日イザベル島北東岸海戦。ガダルカナル島奪還をめざす日本軍と死守したい米軍との攻防戦は、米軍の優勢で終始した。制空権と制海権を米軍に奪われた日本軍は輸送船が近づけず、又輸送船11隻を喪失し陸軍への援軍と補給物資が断たれ、ダルカナル島日本陸軍は大量の餓死者を出す※ガダルカナル島の悲劇をもたらした。――第三次海戦後の増援と物資補給は潜水艦のみになった。 
※ガダルカナル島攻防戦
 日本陸軍は8月7日―翌43年2月7日にかけてガダルカナル島に絞った攻略戦を仕掛けた。以下は作戦の推移である。
 ・第一次攻撃隊
 8月18日ガダルカナル島駐留の日本海軍との合同作戦を辞退した陸軍一木支隊は、単独で島の中央北端に上陸。20日飛行場奪還を目指し先遣隊9百名で目標に向ったが、イル川で待ち伏せていた米海兵隊と交戦し防戦一方となり、翌21日一木支隊2千3百で反撃するも、米海兵隊1万9千(事前情報では2千人だった)に太刀打ち出来ず同日全員死亡。大佐の一木は自決した。
 ・第二次攻撃隊
 川口支隊が出撃するが戦況は好転せず。
 ・第三次攻撃隊
 百武司令官率いる第17軍が援軍として加わるも戦果は得られず。
 ――※ガダルカナル島攻防戦の悲劇
 敗北の原因は“一週間で決着がつく”と見込んだ大本営の見通しの甘さと情報の漏出、海軍との合同作戦を辞退した事が主因といわれる。第三次攻撃隊出撃以降は――12月8日ニューギニア島バサブアの日本軍8百名が玉砕にあい、二日後の11日には――38年2月18日から断続的に攻撃していた中華民国重慶攻略作戦を中止する等の経過を経て――12月31日ようやく御前会議で「ガダルカナル島撤退を決定」した。だが日本軍はソロモン海戦で制空権と制海権を奪われていた為、撤退日時は遅れに遅れ、翌43年2月上旬になってようやく開始された(1月1―8日にかけての資料がある)が、総勢1万9千2百名兵のうち1万5千名の餓死者を出した。――他に撤退1万2千5百人、戦死・餓死・病死者2万4千名や、全体の2/3にあたる約2万名死亡等の資料がある。
 半年間に及ぶガダルカナル島攻防戦に完敗した日本軍は、反転攻勢に出るべく43年4月18日連合艦隊司令長官山本五十六が、自からガダルカナル島北方にあるブーゲンビル島航空基地の視察に向う。ところがこの暗号も米軍に解読されており、予定経路や時刻の情報が筒抜けだった為、山本が乗る搭乗機は撃墜された。その山本の死に緘口令を敷いた所謂“海軍甲事件”以降、日本軍は完全に劣勢に立たされた。指令官庁山本五十六は対米英開戦に一貫して反対していた。又ガダルカナル島攻防戦はすぐに報道されなかった特異で特殊な作戦だった。

【1943年】
日本で2―3月※新学生道樹立宣言、3月中学校教科に※修練指導を制定し、4月※国民動員実施計画を閣議決定。5月台湾で海軍特別志願兵令を施行。6月日本で学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定され※学徒勤労動員令を公布。9月日本人学徒に対する徴兵猶予が停止され、10月2日在学徴集延期臨時特例を公布・施行し、※学徒徴兵始まる。10月20日※朝鮮と台湾人学徒に陸軍特別志願兵臨時採用規則を施行。9月※イタリアが無条件降伏し、10月独に対して宣戦布告。日本で11月※大東亜共同宣言。12月米英中による※カイロ宣言。――この年の8月国民党軍の第三次となる対共産党攻撃を前に蔣介石が主席に復帰。日本で9月21日国内態勢強化方策を閣議決定し石鹸等の石油製品節約強化を発表、又同月女子挺身勤労隊を自主編制させた(翌年※女子挺身勤労令を発布した)。
※新学生道樹立宣言
 学生間に漲っていた戦況の現状打開と、国家への貢献の思いを、国民に明かにする為に行われた宣言。殊に早稲田大学では全学的にその声が高まり「政治同政会」を中心に、学生義勇軍と共に政治経済研究会、図南会、亜細亜研究会、東亜協会、更には「体育団体各部」と連携し、各学部・両学院(第一、第二高等学院)・各専門部との連絡を密にし学生による一大運動を展開した。彼らは千葉県下の海軍工事で半月間合宿するなどして挺身(他よりも先に進むの意)したが、この運動が学生道樹立に向う一里塚となり、国家的使命として“捨身で情熱を捧ぐべし/一刻も早い学生の徴収猶予返上を”求める声が盛んになった。結果海軍予備学生の募集に学徒約二千人が応募し、全学生の一割を占めた(※学徒徴兵を参照)。――この項は「第二集きけわだつみのこえ」を参考にした。
※修練指導
 3月25日中学校・高等女学校の規定に「修練」を定めて授業及び指導要目とし、中堅皇国民となる為に必須の陶治(才能を引出し育て上げる/人格を養成するの意)の分野に「知徳相朗心身一体ノ教育」を施し錬成の成果を上げる事とした。
※国民動員実施計画
 昨42年11月27日※中国人労働者の移入の閣議決定に基づき、当年4月本格的な内地労務者の増員を図るべく▽朝鮮人労働者29万人▽中国人労働者3万人を移入する事を計画、翌44年に昭和19年度国民動員実施計画を閣議決定した。
※学徒勤労動員令
 41年施行の国民勤労報国協力令の公布により、年間30日以内と義務付けていた無償勤労奉仕の義務を60日間に改定し、25歳未満だった女性の年齢制限を40歳未満に改め(男子の14―40歳未満は変らず)、6月全国民的勤労動員体制を確立すべく公布された法令。又国民学校(内地の小学校)等を利用した作業所で働く男子中学生や高等女学校の生徒らに学校報国隊を編制させ、組織的な国土防衛=国民皆兵体制を敷く事とした。
※学徒徴兵
 広く使われる「学徒出陣」という言葉は、「合戦に赴く戦国武士の勇躍する姿」になぞらえた言葉で、学生に対して“戦意高揚を煽る当局の作意”を含んだ造語で(『第二集 きけわだつみのこえ』より)、当初は「学徒徴兵」を使った。9月22日日本人学生の徴兵猶予を停止して徴兵は始り(理科系教育強化の方針により理系学生は入営を延期した)、第一回入隊は陸軍が12月1日、海軍は2月10日としたが……12月24日には徴兵適齢を1年引下げ19歳とし、且つ17歳未満の志願兵の採用が始められた(※徴兵制を参考)。
※朝鮮と台湾人学徒に陸軍特別志願兵臨時採用規則を施行
 日本人の学徒徴兵と並行して進められた当該規則は、表向きは日本人学徒との公平性を図る為としたが、実際には独立解放運動等を扇動する在日朝鮮人学生を拘束して治安を回復する意図をもった事実上の強制徴兵だった。
 10月20日在日朝鮮・台湾人学生を対象に「陸軍特別志願兵臨時採用規則」を定めて同日施行、朝鮮人の学生は志願の申請期限を一月後の11月20日とし、12月採用検査を実施し、翌44年1月20日入営としたが……11月10日時点で志願者数が二百名に満たなかった為、新聞社は「志願せざれば非国民」と新聞紙上に掲載し、第8代朝鮮総督小磯國昭は「一人の例外もなく志願せよ」との声明を発し、更に申請期限を過ぎた11月21日志願しなかった学生に対して「炭鉱等で厳格錬成させる」など強制的に重労働下に徴用するとしたところ、最終的な志願者数は二千名を超えた(その小磯は後に内閣総理大臣に就任した)。当規則の施行迄の主な経緯は以下を辿った。
   ・1938年4月:陸軍特別志願兵令施行に基づき、朝鮮人を“志願兵”という形態で徴集
   ・  42年4月:陸軍特別志願兵令施行に基づき、台湾人を“志願兵”という形態で徴集
   ・     5月:志願兵制度を廃止し44年度実施の徴兵制を閣議決定し、帝国議会で兵役法改正案として承認
   ・  43年5月:台湾で海軍特別志願兵令を施行――朝鮮人には7月施行
   ・    10月:在日朝鮮・台湾人の学徒を対象に陸軍特別志願兵臨時採用規則を定め強制志願を迫った
 陸軍特別志願兵臨時採用規則の決定(43年10月20日)を受けて朝鮮総督府は、朝鮮人対象の「青年特別錬成所」を創設し、強制的に徴兵予定者を集め、日本語教育や軍事教練、皇民精神教育等を受けさせるなどして皇国臣民とすべく徹底的に鍛錬した。――正規志願兵の場合は「志願者訓練所」で半年~1年程度の訓練を受けた後に入営となるが、朝鮮・台湾人は即時入営とした為、日本語でのコミュニケーションさえ取れぬ状況下に置かれ、又明らかに不利に向う戦況下で逃亡者が相次いだ事から錬成所を創設したといわれている。又海軍特別志願兵令が43年5月と陸軍に遅れて施行されたのには、“他国民”は信用ならないとする偏見から、軍への関与を避けてきた経緯があり、日本は労働力、兵力共に危機に直面していた。
※イタリアが無条件降伏
 9月8日連合国軍の猛攻に為す術のなくなったイタリアが降伏すると、独軍は同月12日投獄中の伊ファシスト党ムッソリーニを救出し駐留していた北イタリアにイタリア社会共和国を樹立させたが、かつてファシズムの生みの親と自称したムッソリーニに国を動かす影響力はなかった。自国内に独の属国が成立された伊は10月18日独に対し宣戦布告、その独は日本との間で同盟関係の維持と第二次世界大戦継続を確認した。尚ムッソリーニは45年4月にスペインへ亡命する途で捕捉され、人民裁判にかけられ銃殺刑が執行された。
※大東亜共同宣言
 11月5―6日汪兆銘の南京政府と満州(国)、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府の代表が東京で開催の大東亜会議において「欧米列国の植民地支配からの脱却と人種差別撤廃を目指す」とした当該共同宣言をし、更に日本は▽大東亜戦争に支那事変を含める事▽アジア諸民族の共存共栄をめざす大東亜共栄圏を建設する事を戦争の大義とした。
※カイロ宣言
 11月22―27日にかけて行われた米ルーズベルト大統領・英チャーチル首相・中華民国蔣介石総裁の三人によるエジプトカイロ会議において、12月1日日本が無条件降伏するまで戦い続けるとした宣言。更に▽終戦後日本が占領した太平洋の島々を取り上げる事▽満州と台湾を中国=中華民国に返還させる事▽朝鮮を独立国とする事で合意し、後のサンフランシスコ講和条約の根拠になった宣言である。

【1943年の主な戦況】
   ・1月2日:ニューギニア島ブナの日本軍全滅
   ・2月2日:ロシア南部スターリングラードの戦いで独軍全滅
   ・2月上旬:ガダルカナル島の日本兵が撤退開始
   ・3月2―4日:※ビスマルク海戦で日本軍大敗
   ・5月29日:※アッツ島の日本軍守備隊が全滅
   ・9月8日:イタリアが無条件降伏
   ・10月2日:ソロモン群島(諸島)中部コロンバンガラ島の日本軍1万2千が撤退
   ・10月22日:大本営が満州国の第二方面軍と第二軍を太平洋戦線へ転用する命令を発す 
   ・11月25日:マリアナ諸島各島とギルバート諸島※タラワ島の戦いとマキン島戦で日本軍守備隊が全滅
※ビスマルク海戦
 豪州が1906-41年まで統治したニューギニア島とニューブリテン島の北ビスマルク諸島海域を航行中の日本軍輸送船団に対し、連合国軍ニューギニア豪州方面部隊が航空攻撃。日本軍は反撃するも輸送船八隻と逐艦4隻を失い大敗した。
※アッツ島の日本軍全滅
 本土空襲阻止を目的に、カムチャッカ半島攻略の拠点とすべく挑んだアリューシャン(列島)作戦において、日本軍は米領アッツ島とキスカ島を占領した。が同月アッツ島奪還の為に大軍を率いて再上陸した米軍と抗戦し、日本軍守備隊は壊滅状態の大敗を喫した。アッツ島守備隊の状況(全滅)を伝えると、昭和天皇は「敢闘をたたえる」打電を送る様に参謀総長に命じたが、守備隊の無線機は破壊されており、その旨を伝えると「それでも構わぬから電波を出しなさい」と天皇は命じた。参謀総長は泣き崩れながら直ちに打電を打ったが、残された三百名の守備隊は5月29日最後の突撃を行った後であった。彼らは残雪の山麓に果てていたという――2638名が戦死し生還者27人とする資料がある。
※タラワ島の戦い
 マーシャル諸島南方のギルバート諸島タラワ島攻防戦で、日本軍は4千5百名が戦死し敗退した。

――『敗戦への道』――
【1944年】
 1月26日東京と名古屋に初となる建物疎開“命令”。4月1日日本で※徴兵検査始まる。8月4日東京の学童集団疎開始まる。9月1日※学徒の勤労日数制限を撤廃し常時勤労動員とした(43年※学徒勤労動員令を参照)。
※徴兵検査
 当年8月施行の徴兵制を前に4月1―8月20日徴兵制対象者及び陸軍特別志願兵制に志願した(させられた)在日朝鮮・台湾人206,057人に対して第一次徴兵検査を実施。結果甲種と第一乙種合格者併せて約13万人が現役兵と第一補充兵として採用された(第二次検査は翌45年1―5月に実施)。尚採用者は9月1日―翌45年5月迄に入営し配属されたが、現役兵の採用者は朝鮮半島以外の部隊に配属された。逃亡の防止や現地独立運動家・部隊との接触による反乱を避ける為だった。
※学徒の勤労日数制限撤廃の影響
 日本政府は昭和19年度国民動員実施計画に従い、朝鮮人と中国人を内地に移入していったが……戦争の長期化による就業先の企業の閉鎖や、43年発布の学徒勤労動員令、学徒の常時勤労動員への改定の他に、日本人を優先的に(主要産業化した)軍需工場等に就業させた事や、朝鮮人を“国体変革の活動家”と見做した事(40年代は検挙者が急増した)で、在日朝鮮人や中国人の失業者が顕著となった。炭坑や鉱山で働く手立てすらない彼らと家族は、闇市で貧しい商売をしたりドブロク作りをしたり、日本人に人気のあった飴売りをして必死に露命を繋いだ。

【1944年の戦況】
 3月8日日本陸軍が※インパール作戦実行、4月17日※大陸打通作戦を本格化、5月25日※ビアク島攻略作戦を決行。6月16日※北九州空襲。日本軍が6月20日※マリアナ沖海戦で大敗し、6月24日マリアナ諸島※サイパン島の放棄を決定し、7月9日米軍がサイパン島を攻略。7月18日東条内閣が総辞職し22日小磯内閣成立。8月朝鮮と台湾に「徴兵制」を施行、同月日本で※女子挺身勤労令を公布。9月1日朝鮮人の日本軍への入隊が始り、朝鮮で国民徴用令を本格適用(39年※国民徴用令を参照)。9月15日※ペリリュー島攻防戦始る。10月10日沖縄大空襲で那覇が灰燼と帰す。10月12―16日日米軍が※台湾沖航空戦を展開し、23―25日フィリピンを巡る※レイテ沖海戦で交戦。11月24日サイパン島離陸のB29が東京を空襲、以降本土への無差別爆撃が激化した。――この年の6月連合国軍による独の※ノルマンディー上陸作戦が始り、11月10日汪兆銘が名古屋で死去し南京(国民)政府が解消された。又朝鮮独立勢力による※新たな韓国の建国と独立に向けた動きが活発化したが……
※インパール作戦
第一段の※南方作戦でビルマ獲得等の戦果を挙げた日本軍は「第二段作戦」を実行すべく、3月8日英軍の最前線基地のある英領インド帝国ビルマ州インパール攻略作戦を決行。ビルマラングーンから陸路インドを目指した日本陸軍だったが、ビルマの制空権は42年以降英軍に支配されたままであり、食料等の物資補給は陸路に頼るしかなかった。英軍によるビルマ奪還作戦が想定される中でビルマの支配を確固なものとする為、日本はインドの(英国からの)独立支援を掲げ、ビルマ北西部国境近くに位置しインド北東部にあるインパールを攻略して戦線を一気にインドに拡大する計画を立てた。が作戦は困難を極めた。
 ビルマとインド国境沿いに立ちはだかる2千m級の山々は険しい上に制空権がない為、攻撃されるリスクは少ないものの、食糧等の物資補給が見込めなかった。その為大量の牛や羊で物資を運搬しそれら家畜を食料にすればよいと考え、三週間程度の食糧だけを持参し作戦に挑んだ。だが牛や羊の半数は雨期のマユ河と、河端約1kmにあるチンドウィン河を渡り切れずに死んでしまい、生き残った半数も難険なアラカン山脈を越えられず放置するしかなった。苛酷なジャングルに行く手を阻まれながらもようやくインパール近くに辿り着いた(一部の)師団だったが、マラリアの蔓延や食糧の枯渇で戦闘どころではなく、又撤退を巡り軍司令官と師団長が対立し、師団長が撤退したのに続き、撤退を拒否していた司令官も撤退して作戦は失敗に終った。
 3月8日に開始し撤退命令を発した7月3日迄の約4か月に及ぶ作戦で、日本陸軍は大敗を喫し、凡そ9万2千の戦力のうち戦病死を含め約5万6千名が死亡し、残存兵の半数も病人だったといわれている。インパールからビルマに帰還する際の帰路には、餓死や感染症で死亡した日本兵の遺骨が多数あり、以降「白骨街道」とよぶ様になった。尚戦力9万2千の中には兵站病院から退院させて動員した2千5百名の患者が含まれていた。――インパール作戦の失敗により軍司令官は解任され、師団長は単独で撤退したとして罷免された。尚作戦の失敗と日本軍の崩壊により、アウン・サン率いるビルマ国民軍は45年3月連合国軍側に寝返り、日本はビルマを失った。
※大陸打通作戦
 南方資源の海上輸送が困難となった為に講じた日本陸軍最大の作戦。43年末から開始された当作戦では、北京~漢口を結ぶ京漢鉄道を修復し開通させて内陸輸送を確保し、同時に米軍航空基地を占領する事を目標とした。4月17―12月10日の間に延べ50万の兵を投入した作戦では、米軍基地に奇襲をかけ各地の基地を占領し、四川省を拠点とする国民党軍にも大打撃を与えた。京漢鉄道を44年3月に開通させた事からも、作戦を成功とする見方があるが……この年から米軍は別の芷江や遂川の基地からB29を出撃させ、北九州を皮切りに本土空襲を激化させた。又秋口には日本軍が占領した基地も京漢鉄道もその役割を失くしている事から、作戦遂行の意味は低かったとする見解が多い。尚当作戦は一号作戦又は大陸縦断作戦ともいう。
※ビアク島攻略戦
 ニューギニア島西部インドネシアのビアク島は、米軍にとって41年5月に敗北を喫したフィリピンを奪回する為の重要拠点とする目的があり、日本にとっても守備隊の強化と飛行場建設を進めつつ、反転攻勢の為に絶対死守が必定の最重要国防圏だった。
 マッカーサー率いる南西太平洋方面軍は5月27日ビアク島西岸に上陸、対する日本軍守備隊は洞窟に立て籠って応戦すると、米軍はガソリンの入ったドラム缶に火を点けて投げ込むという焙り出し/焼殺作戦をとった。8月20日まで続いたという激戦で日本軍は1万名余の犠牲を出し、生存者は5百人余に留った。守備隊本部は一早く撤退していた。――そのビアク島では現在も民間組織による遺骨収集、調査が行われている。又米国では莫大な予算をつぎみ込み、国を挙げて自国兵の遺骨の収集・分析・遺族への返還を行い、丁重に埋葬している。現役兵や未来の米軍人に与える影響と配慮からだという。
※北九州空襲
 米軍が完成させた大型長距離戦略爆撃機B29による初めての本土攻撃だったが、47、63、29機による等説が別れる。6月16日四川省成都基地を飛び立ったB29の約370発の爆撃により北九州は深刻な被害を受けた。当該空襲は42年4月18日B25ドーリットル空襲以来となる本土攻撃だった。
 B29の発着地である成都基地と九州の往復距離は6千㎞超あるが、航続距離8千㎞あるB29ならば九州の広範囲を爆撃する事は可能だった。が攻撃目標を九州の一部(八幡製鉄所を含む北九州)に限定した理由は主に二説ある。▽搭載する爆弾の重量を減らさずに攻撃するには攻撃範囲を限定する必要があった。▽護衛する戦闘機の航続機飛行距離が不足していた為だとする説である。B29は同年11月サイパンやグアム島等マリアナ諸島の離着となるがサイパン―東京間が約1350㎞程度と、成都に比べ大幅に短縮した為、日本全土の空襲が本格化していった。尚B29の初飛行は1942年9月だった。
※マリアナ沖海戦
 米艦船の射程範囲外に空母を配置し、航続距離2千2百㎞の零戦の特性を生かして敵空母を攻撃する作戦。だったが6月19―20日米軍のレーダーによる探知能力と、航空管制による精度の高い迎撃により、零戦の多くが敵艦に辿り着けぬまま迎撃された。米軍の攻撃は目標を感知し爆発する最新の対空砲弾が威力を発揮、加えて当作戦の機密書類を奪われた事を隠ぺいしていた※海軍乙事件の発生で、米軍の事前準備が万全だったといわれている。日本軍は戦闘機475機、空母3隻、補給船2隻を喪失し、マリアナ諸島のみならず西太平洋の制海権と制空権の両方を失った。又零戦が威力を発揮出来なかったのには、操縦技術の技量不足(訓練期間が短かった為)が大きかった為といわれている。
 ――※海軍乙事件
 パラオからミンダナオ島に指令部を退避させる中で飛行艇一機が墜落。残る一機は不時着し搭乗していた日本軍連合艦隊参謀長の命は助かったものの、ゲリラの捕虜となり、当該作戦に関する機密書類を奪われ米軍に渡った事件。一連の顛末を知らぬまま、日本軍はマリアナ海戦に臨んだ。
※サイパン島の放棄
 日本が20年以上委任統治するマリアナ諸島サイパン島は大本営が“絶対国防圏”に位置づけ、又米国にとっては日本列島全土をB29で空爆する為の攻撃拠点として絶対獲得を必須とした。マリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を受け、補給路を断たれた日本軍に交戦する力は残っておらず、6月15日に開始された攻防戦は、同月24日大本営がサイパン島の放棄を決めた。日本軍の指揮命令系統が崩壊した中で1万名超といわれる日本の民間人が、サイパン島北端に位置するマッピ岬の絶壁から「天皇陛下万歳!!」と叫びながらその身を投げ(バンザイクリフとして知られる)、守備隊の日本兵も7月7日「万歳! 天皇陛下万歳!」を絶叫しながら敵陣へ突撃する“万歳攻撃”により全滅した。7月9日に終結した当該戦の敗北により、アジア太平洋戦争における日本の敗戦が確実になり、本土空襲の懸念が高まったといわれている。
 サイパン島を制した米軍は7月21日マリアナ諸島グアム島に上陸、対する日本軍は守備隊2万で抗戦するも、同月28日組織的な戦いは終った(8月10日米軍占領の資料がある)。グアム島戦で日本軍は1万9千名の犠牲者を出したが、マリアナ諸島南端のトラック島近海には三十万の日本兵の遺骨があるといわれている。――尚米国の二方面軍の1つでニミッツ海軍大将率いる太平洋方面軍は、太平洋を南東側から北西に向い北上しサイパン島攻略戦に臨んだ。だが大本営はニミッツの進攻ルートを予想だにしていなかった。又日本はサイパン戦の敗北を機に各種特攻兵器の開発を加速させた。
※女子挺身勤労令
 43年9月決定の「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」をうけて、男子の17の職種を制限(禁止)し女性に就業させ、自主的に「女子挺身勤労隊」を組織させていたが……本年8月23日公布の当該法令は、女性に対し強制的に1年間の挺身勤労を課すとした勅令であり(勅令第519号)、国民の士気高揚、意識統制を図る目的だった。日本国民として登録されていなかった朝鮮人の女性は、法的な強制が出来なかった為、官斡旋方式で強制的に勤労動員された。
※ペリリュー島攻防戦
 米太平洋方面軍は日本の委任統治領パラオ諸島をレイテ海戦の要塞と位置づけ、9月15日ペリリュー島に上陸。日本軍守備隊は洞窟を利用したゲリラ攻撃を仕掛け持久戦に持ち込み、レイテ海戦終結一か月後の11月25日まで反攻したが、1万名超の戦死者を出し玉砕された。
※台湾沖航空戦
 10月12―26日にかけて米機動航空部隊を日本海軍航空機動部隊1378機が迎え撃つ形で交戦した航空戦。16日迄に両軍合せて2千7百機超の戦闘機が出撃、日本軍の大敗に終った。が! 大本営は「大戦果」と発表した。10月24日開戦のレイテ沖海戦=フィリピン奪還作戦を優位に進めたかった米軍は、日本軍の注意を台湾方面に引付ける為にニミッツ率いる太平洋方面軍機動航空部隊を出撃させ、マッカーサー率いる南西太平洋方面軍のフィリピン奪還作戦を支援したといわれている。
※レイテ沖海戦/フィリピン攻防戦
 10月23―25日大本営はシンガポールやマレー半島等の南方資源を日本へ補給する為の中継地点ルソン島、レイテ島等の島からなるフィリピン防衛を※捷第一号作戦に位置づけた。がアジア太平洋戦争は敗戦必至の戦況で、それでも無条件降伏を避けて条件付きの講和を引出す為、又本土防衛の為に打撃を与えねばならない国運を懸けた戦いだった。
 既に制空権を失っていた日本は、レイテ島奪還を目的とした米太平洋方面軍との四つの戦い▽10月24日ルソン島北東沖での航空母艦をおとりとしたシブヤン海海戦=ルソン島南東・サマール島北西▽翌25日の三方面海戦=スリガオ海峡・レイテ島東岸・ミンダナオ島北▽エンガノ岬沖海戦=ルソン島東北寄り▽サマール沖海戦=サマール島東岸――は何れも敗北に終った。シブヤン海戦で米軍は戦艦大和の攻撃を避けて大和の姉妹艦武蔵に攻撃を集中させ、日本海軍1023名が戦死。その際米太平洋方面軍は空母35、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141隻を有しており、日本は空母4、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34隻の戦力で対抗し、大和を含めて砲弾百発超を放ったが、一発も命中せず大敗を喫した。制空権を奪われていた為、偵察機による測量ができず又レーダー射撃の精度が低かった事や、米軍の放った煙幕により敵艦の姿を確認できにくかった事が敗因といわれる。又25日日本軍は史上初めてとなる航空特攻“神風シンプウ特別攻撃隊”を出撃させたが、(上記の理由で)戦果は上がらなかったという。
 尚米軍のレイテ島への上陸開始は当海戦以前の10月20日だったといわれており――同月25日米軍の勝利で当海戦は終結したが――翌45年1月9日米軍は日本軍司令部のあるフィリピン北部ルソン島に上陸、本土決戦を遅らせる為に日本軍学徒兵は陸の特攻「戦車撃滅隊」となり、米軍戦車に爆弾を抱えて突撃し果てた。そうした悲劇を経て同年3月3日米軍はマニラを占領した。ルソン島マニラ市民だけで10万名の犠牲を出し(マニラ市の人口は約70万人)、比全体では市民100万名が犠牲となり、日本人も50万名が亡くなったといわれる。こうした状況の中で日本軍の残存兵は戦争終結まで反攻した。
 ――※捷1号作戦
 戦いに勝つの意味の“捷ショウ”と1号を合わせて「必勝必至」に位置づけた作戦をいう。尚▽2号は台湾及び九州南部を▽3号は四国と本州▽4号は北海道を、夫々「防衛する使命を負った」作戦だった。
※ノルマンディー上陸作戦
 正式にはネプチューン作戦といわれる連合国軍による史上最大人員の作戦(現在に至るまで)。6月6日連合国軍は2百万の戦力を投入し、占領下の欧州一帯を奪還すべく北フランスノルマンディー海岸に上陸。上空に気球を配して中空の要塞を築き、独軍機の侵入を阻止した。当作戦では連合国軍と独軍併せて24万の戦死者を出したといわれており、独軍にとっては貴重な戦力を失う大打撃となった。8月27日連合国軍がパリを占領しパリは解放された。
※新たな韓国の建国と独立に向けた動き
 日本の敗戦が色濃くなると……朝鮮内外の独立運動勢力、大韓民国臨時政府、中国華北地域の朝鮮独立同盟、それに朝鮮の※民族主義者と※社会主義者とで結成した建国同盟は、独立国家の建設に向け夫々「建国綱領」を発表した。違いはあったものの、(親日反民族行為者を除く)朝鮮人が協力し※民主主義思想を土台に共和制を実施し(※民主共和制を参照)、土地・産業の国有化や基本教育に必用な全費用を国家が負担する等、要の部分は共通していた。
 彼らは独立国家の建国準備を進める一方、日本との最後の決戦に挑むべく「朝鮮に軍隊を進撃させる作戦」を計画した。朝鮮独立同盟は華北から満州を経て朝鮮に軍隊を進攻させた為満州で関東軍と交戦となり、東北抗日連軍(満州抗日連合軍)はソ連と共に戦う準備を進め、建国同盟は労働者や農民を中心に遊撃隊を組織し軍事行動を起す計画を立て、大韓民国臨時政府はの韓国光復軍は米軍と合同で朝鮮に侵攻する計画をたて米軍の特殊訓練を受けていた……が、45年8月日本国の降伏により計画は実行されずに終った。この事に金九は、国際外交で韓国の発言権が弱まる事を危惧し酷く悔しがったという。事実サンフランシスコ講和会議に参加出来ない等、韓国は新たな苦難を味わう事になった。
 ――※民族主義
 同一民族で国家を形成しようとする主義。

【1945年―昭和20】
 ――この年日本に向う病院船に対する攻撃が激化した。終戦後の10月24日には連合国50か国の参加により国際連合が成立し中華民国が常任理事国入りする等、日本の敗戦前後に国内外で今迄に無い動きがみられる様になった――尚国際連合は成立の際、武力行使を原則禁止とした。

【45年の主な“日本軍の戦況と国内情勢”等】
 日本で1月18日大本営が本土決戦計画を決定、2月14日天皇に近衛元首相が“敗戦必至”を上奏。2月19―3月26日米軍が硫黄島へ侵攻。3月6日日本で国民勤労動員令の勅令を発布し、国民義勇隊を編制するよう通告。3月10日※東京大空襲。3月18日国民学校初等科を除き一年間の授業停止を決定。3月26日※米英軍が沖縄に侵攻し4月1日地上戦が始まる。4月5日小磯内閣が総辞職し翌々7日鈴木内閣成立。6月8日御前会議で“太平洋戦争続行”を正式決定。6月17―18日日本で※中小都市空襲。6月23日※義勇兵法を施行。7月14-15日北海道と東北地方で※青函連絡船十二艘が攻撃を受ける。7月26日米英ソ三国首脳が「ポツダム宣言」を発するも日本は受入れず黙認。8月6日広島に原子爆弾が投下され、8月9日長崎に異型の原爆が投下された(別途記載あり)。8月11日関東軍総司令部が※満州国放棄を決定。8月14日御前会議で※ポツダム宣言受諾を決定。8月15日※玉音放送。――又7月1日強行連行された中国人が秋田県北秋田郡(現大館市)花岡鉱山で人権回復を訴え蜂起した。 
※東京大空襲
 3月10日0時07分サイパン島飛来のB29大型爆撃機が(資料により70、150、325、334機と異なるが325機が定説)、東京下町の人口密度が高い▽深川区(現江東区)▽本所区(現墨田区)▽浅草区(現台東区)に一機当たり6トンの※焼夷弾を投下。二時間に及んだ空襲により8万―10万(10万5千人といわれている)の市民が死亡し、負傷者4万―11万、被災者約100万人、約27万戸の家屋が消失・被災した。大多数の被災者を出した背景には、空襲中に人命よりも消火活動を優先させた事にあった――1941年11月に防空法が改正され、都市部からの「退去の禁止」と「空襲時の消火義務」を課せられていた。
 日本軍は陸軍42機と海軍4機で応戦したが、隊列を組まない米軍機の飛行法等の影響により14機の迎撃に終った。東京大空襲以後都市部への無差別爆撃攻撃が急増し多くの罹災者を出した。――東京大空襲では朝鮮人42%が被災し、又内地への空襲が激しくなった事も加わり、朝鮮に帰る人が目立ち始めたといわれている。尚44年陸軍が接収し風船爆弾製造工場として稼働させた旧両国国技館は空襲で焼失して、戦後※GHQに接収された。
 ――※焼夷弾                        
 建物等を焼き払う目的でつくられた砲弾で、親弾といわれる一発の集束焼夷弾には、「38本の焼夷弾」を格納しており、上空約700メートルで焼夷弾はばらまかれて、着弾すると同時に火薬が爆発してガソリンを含んだナパーム剤に着火、東京大空襲では約32万本が投下された。焼夷弾の攻撃により日本の主要都市は焼け野原と化した。――日本軍は※重慶を攻撃した際に使用しその効果を確認していた。                      ※米英軍が沖縄に侵攻
 3月26日沖縄本島南方にある慶良間諸島を一日で制圧した米英軍は、4月1日沖縄本島嘉手納に上陸開始。日本陸軍はサイパン島陥落の影響を受け、沖縄防衛の為に計画していた飛行場建設と海上交通路=シーレーン防衛の任務を取止め、地上戦に転換し部隊を本島北部に集中させたの対し、米英軍は西部南岸から部隊を上陸させた。4月8―23日十六日間に及んだ地上戦では、米英軍の火炎放射器を搭載した戦車隊と、日本軍守備隊の速射砲と戦車撃滅隊による※特攻作戦の熾烈を極めた交戦で、両軍合わせて十万名の戦死者を出した。
 沖縄を死守すべく呉を出港した※戦艦大和だったが、4月7日鹿児島県徳之島沖の坊ノ岬沖海戦で沈没。沖縄本島の嘉手納、嘉数、北部の八重岳、伊江島の伊江飛行場、本島北東岸の安波を攻略した米英軍は5月11―29日南部首里攻防戦を制圧、6月戦力を集中させて南進を始めた。6月21日糸満市荒崎海岸付近に追い詰められた「ひめゆり学徒隊」は米軍の自動小銃による攻撃を受け、学徒十名が手りゅう弾で集団自決し、同市喜屋武岬に逃避した学徒らは身投自決した。又ギーザバンダ(慶座絶壁)に追い詰められた民間人は、崖から次々と身を投げて命を落した。
 6月23日沖縄の日本軍全滅により組織的な戦闘は終り解放される筈だった沖縄だったが、沖縄民は史上最大にして最強と評された敵攻略部隊に対して“8月15日の終戦”後も抵抗を続けた。米海軍潜水艦は8月22日学童をのせた対馬丸を攻撃し沈没させ、犠牲者1476名を出し生存者は僅か59名だった。8月29日になってようやく沖縄の人々は※ポツダム宣言受諾を知り、そして停戦となった。沖縄戦の日本人犠牲者と行方不明者は18万8千136名に上り、全沖縄県民のうち二割が亡くなったといわれており、内9万4千名は民間人で、日本兵の戦死者は9万4千136名に及んだ。その沖縄は1950年12月まで米軍政が続けられ、その後返還となる1972年5月15日まで米国政府の統治が続いた。沖縄は6月23日を、命を落した二十万超の戦没者を、国籍に関係なく慰霊する「沖縄慰霊の日」に定めて恒久的な世界平和を願い祈り続けている。――尚沖縄戦に先立ち日本政府は、沖縄の学童を本土に疎開させる政府命令を出したが、一方で本土決戦を睨み中学生を軍事動員するよう命令していた。
 ――※特攻作戦
 沖縄戦の航空特攻は45年3月24日から最後の大規模な攻撃となる同年6月22日にかけて行われた。だが組織的な戦闘が終った6月23日以降も8月13日にかけて攻撃を加える特攻隊員がいた。航空特攻だけをみても陸海軍合てせ2612名が死亡した。彼らは沖縄を守る為に鹿児島、宮崎、熊本、福岡県の各飛行場から飛び立った。航空特攻以外にも――海軍は特殊潜航艇の海龍や特攻艇震洋、魚雷を改造した人間魚雷回天、人間機雷伏龍を投入し、陸軍は水上特攻艇マルレ(海軍の震洋)や小型舟艇による海上挺身戦隊を組織し特攻による激戦を展開した。
 ――※戦艦大和の沈没
 4月7日12時40分頃。米軍急降下爆撃機四機による8発の爆撃と魚雷8本が命中し火災が発生。13時第二波となる米軍戦闘機59機による攻撃でマストが転倒し、21の魚雷が命中した。14時20分大和は転覆し、三分後に大爆発を起して沈没を始めた。大和は世界最大の主砲を放つ事なく(主砲の発射による爆風で対高角砲等が使えなくなる事を避けたといわれる)、米軍戦闘機180、爆撃機75、雷撃機131機の波状攻撃を受け、2千740名の戦死者を出した。生存者は269名だった。
※中小都市空襲
 6月17日静岡県浜松市を皮切に全国59の中小都市をB29爆撃部隊が空爆。翌18日に掛けて行われた計16回に渡る“軍事的拠点でない都市”への空襲は、日本の戦争継続機能を奪う目的で行われた。
※義勇兵法を施行
 6月10日義勇兵役の義務に関する当該義勇兵法を公布し同月23日施行。日本人対象の兵役法を(拡大)改定して施行された当該法令により、15―60歳迄の男性と17―40歳迄の女性に“義勇兵”として兵役を課し、国民義勇隊を編制させると共に、日本人・朝鮮人の別なくいわゆる“根こそぎ動員”が始められた。8月6日には脱会者が相次いでいた大政翼賛会を始めとする国民運動団体を吸収する形で「国民義勇(戦闘)隊」が組織され、戦闘に参加した民兵戦闘部隊員1万2千人余の内4千6百名超の民間人兵士が死亡した。
 義勇兵法施行までの経緯は――「戦時要員」としての労働力を確保する為、3月6日に勅令で定めた国民勤労動員令に基づき、小磯内閣は同月「国民義勇隊の創設」を閣議決定。兵隊以外の全国民に対し防空と空襲被害への対応を求めると共に、各市町村長宛に5月20日迄に「本土防衛態勢ノ完備ヲ目標トシタ国民義勇隊」を編制するよう通告。そして通告に従い各地で部隊の編制が進められ、閣議決定を受け6月10日義勇兵法は施行された。内閣総理大臣小磯國昭は一億玉砕を唱えていた。
※青函連絡船十二艘が攻撃される
 7月14―15日3百機超の米軍機による北海道、東北地方への大空襲により、翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸、第六青函丸、津軽丸、第一青函丸等の青函連絡船12隻が攻撃を受け、乗船者と函館ドッグにいた4百名超(424名の記録あり)の人が命を落した。――終戦迄に内地で空襲を受けた都市は約1千5百に上り、多くの都市はグラマン機による焼夷弾攻撃で火の海と化したといわれている。
※満州国放棄
 ソ連の満州侵攻により、関東軍総司令部は8月11日満州国放棄を決定。関東軍は満州国皇帝溥儀を同行させて敗走し、総司令部を旧満州国新京から朝鮮半島近くの通化に移設し、その大義を“皇土朝鮮の保衛”にすり替え保身に走った。
※ポツダム宣言受諾
 8月9日長崎に原爆が投下されて、(最後となる)御前会議は開かれた。ソ連のアジア太平洋戦争への参戦が想定される中で、ポツダム宣言を受諾するか否かの検討がなされ、翌10日午前2時30分鈴木貫太郎首相が昭和天皇に「聖断」を促し、天皇は東郷重徳外相の「受諾止むを得ず」の主張を指示し受諾に至った。宣言には、日本の戦犯者を処罰する一項があり、戦争を率先して遂行・主導した者をA級戦犯とし、俘虜虐待と非戦闘員に対する犯罪行為を犯した者をBC級戦犯とするとあった――※極東国際軍事裁判/※A級戦争犯罪者の死刑を執行※大戦後の靖国に関連あり。
※玉音放送
 以下は放送の一部内容を口語文化したものである。
「私は世界情勢と日本の現状を考え、時局を収拾しようと思い、忠良成る国民に伝える。私は、日本国政府に、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の四国の共同宣言(ポツダム宣言)受諾を通告させた。そもそも日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々と繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中抱き続けている事である。
 先にアメリカ、イギリスの二国に宣戦したのも、日本の自立と東アジア諸国の安定とを願っての事であり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は私の本意ではない。しかしながら、交戦状態も既に四年を経過し――(中略)――敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷した。戦争を継続すれば我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。――(中略)――私は堪え難く又忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来の為に、平和な世を切り拓こうと思う。……」
 8月14日昭和天皇は終戦の詔書を発布し、同日深夜約4分30秒間にわたる詔書の内容を読み上げたレコード盤を作成し、翌15日正午ラジオで放送した。新聞社は放送を前に、玉音放送の予告特報のビラを刷り市内で配布した。尚「玉音」とは天皇の声をいう。

【45年“終戦まで”の主な戦況等】
   ・1月9日:米軍が比ルソン島に上陸し3月3日マニラを占領
   ・1月18日:大本営が本土決戦計画を決定
   ・2月4日:米英ソ首脳三者による※ヤルタ会談
   ・2月19日:米軍が※硫黄島に侵攻
   ・3月10日:東京大空襲
   ・3月26日:米軍が沖縄に侵攻し4月1日沖縄本島に上陸、地上戦始まる
   ・4月25―6月26日:ヤルタ協定に従い連合国各国が国連憲章に調印
   ・5月7日:独が西側諸国に対し無条件降伏(4月30日ヒトラーが拳銃自殺)
   ・5月9日:独がソ連に対し無条件降伏――独の降伏により日本は同盟国を失った
   ・6月8日:御前会議で太平洋戦争続行を決定
   ・7月15日:かつての三国同盟締約国伊が日本に対し宣戦布告
   ・7月26日:米英ソ首脳がポツダム宣言を布告し日本に対し降伏を促すも、日本は黙認し拒絶の意思を示す(ポツダム宣言に別説あり)
   ・8月6日:※広島に原爆投下
   ・8月9日:※長崎に原爆投下
   ・8月8日:ソ連が7月締結の日ソ中立条約を破棄し※日本に宣戦布告
   ・8月9日:ソ連が満州へ侵攻
   ・8月11日:関東軍総司令部が満州国放棄を決定
   ・8月14日:日本が※ポツダム宣言受諾を決定
         :中華民国とソ連が中ソ友好同盟条約を締結
   ・8月15日:玉音放送でポツダム宣言受諾を発表。日本は※大東亜戦争の終戦記念日とした
※ヤルタ会談
 2月4―11日クリミア半島ヤルタ(現ウクライナ)で米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリンによる世界の勢力圏について協議した会談。ソ連が独降伏後三か月以内に日本戦に参戦する事を確約した事で「ヤルタ協定」は成立し、国際連合の創設と戦後の欧州での米ソの関りについて協議した。ヤルタ協定は極東密約ともいわれる。
※硫黄島侵攻
 2月19―3月26日にかけて行われた硫黄島決戦は、日米両国にとって国運を分け得る戦いだった。日本は本土決戦を遅らせる為に時間を稼ぐ事を使命とし、米国にとってはサイパン、テニアン、グアム島に変るB29の発着基地を獲得する事で、B29等の戦闘機の不時着飛行による本土攻撃と基地帰還を可能にし、戦争の早期終結がかかった作戦だった。
 米軍は攻撃目標の硫黄島南端にある摺鉢山に艦砲射射撃や烈しい空爆を繰返すが、地下壕に潜む日本軍に打撃を与える迄に至らず、その為摺鉢山の北岸約20㎞の間にある三つの飛行場――最北端の「北飛行場」は建設中だったが地下には日本軍の指令部があり、中間にある「元山飛行場」との間を坑道で結んでいて、南の摺鉢山近郊には「千鳥飛行場」があった――の東岸から進攻。島全体に地下トンネルを張り巡らせた日本軍は、ゲリラ戦を展開し米軍を疲弊させるが、米軍は戦車搭載の火炎放射器で洞窟やトンネルに潜む日本兵を燻り出す、或いは焼き殺す、又は有毒ガスの発生で窒息死させる作戦に出た。2月23日になり勝利を確信した米軍は、摺鉢山山頂に星条旗を立てた、が生存していた日本兵が尚も抗戦し(星条旗を立てた六人の内三名を戦死させた)、そうとは知らぬ大本営は3月21日生存者なしと判断し「硫黄島玉砕」を発表した。がそれでも生存兵は抗戦し、五日後の3月26日になって硫黄島の日本兵は玉砕された。硫黄島決戦で日本軍は2万2千786の戦力で挑み、約1万8千名が戦死。戦力11万を有した米軍は6、821名が戦死、負傷者21,865名と発表した。尚島中央付近に位置する元山飛行場は、現在自衛隊の硫黄島航空基地と一部は米軍の通信所として使用され、硫黄島では東京都主催の硫黄島戦没者追悼式が毎年開かれている。戦後開かれた日米合同慰霊祭では、遺族を含む参加者同士が涙を流して抱擁し、当時の元帥ニミッツは「類まれな勇気は、(両軍)共通の美徳であった」と語った。
※広島に原爆投下
 8月6日午前7時頃。原爆攻撃に先立ち、米軍の偵察機は気象状況等を確認して広島を投下目標に決定した。リトルボーイという名の全長3、12mの原子爆弾を搭載したB29と、原爆の威力を調査する観測用の同機、記録に残す為のカメラを搭載した同機の合計三機で広島へ向い、午前8時15分投下されたウラン235型原子力爆弾は、直下熱戦3千―4千度に達し、その熱と放射線や猛烈な爆風等で、同年12月末迄に14万―16万6千名の犠牲者を出した。広島全体で42万名余の被爆者のうち※朝鮮人被爆者は約5万名に上り内3万名余が死亡した。尚ある小説に次の様な記述がある――
「爆撃機は三機編隊でまず広島上空を悠然と飛んで偵察した。もちろん広島はその時点で警戒警報を発令した。朝の七時頃だよ。編隊が姿を消して、警戒警報が解除されたのが七時半。その為市民は防空壕から出て、朝食の準備にかかったり、通勤や通学に動き始めた。ところがいったん播磨灘の方に姿を消していた原爆搭載機は、警報解除とともに反転して広島に向かい、八時十五分にピカドンを投下した」
 尚ウラン235型原子力爆弾は、原爆実験を行わずに(濃縮ウランの不足の為)、広島に投下された。
 ――※朝鮮人被爆者が多くいた理由
 広島在朝鮮人の多くは爆心地の1-3㎞圏内に移住した現韓国陜川ハプチョオン省出身者で、広島県内の70%を占めた。朝鮮と広島県の繋りは1603年江戸幕府を開いてすぐに徳川幕府が、広島県福山市や呉市等に朝鮮通信使を迎えたり、1908年には広島の漁業者が朝鮮に定住し「広島村」を作るなどして、人の往来と親交があった。その後第一次大戦が開戦し好景気に転じた日本企業は、朝鮮人労働者の日本移住に力を入れ、戦時中の1917年には広島への移住者が増加の途を辿り、32年1万人を超えた。37年に2万人に達すると日本政府は広島県に広島協和会を設立させ、アジア太平洋戦争開戦後の42年には6万人に迫るまで増加した。又45年に山口県で鉄道の建設工事に従事した朝鮮人が工事期間が終わると、軍事演習が始った事で「軍の秘密が漏れ広がる」との理由で広島に追われたという話もある。この様に広島と朝鮮は古くから繋りがあり移住者が多くいた為、朝鮮人が多く被爆した。そして彼らの多くは避難先として頼る場所も術もなく、残留放射線が残る爆心地に帰って生活せざるを得なかったのである。
※長崎に原爆投下
 8月9日午前11時02分にファットマンと名づけたプルトニウム型の※原爆投下で約27万名が被爆し、内2万名余が朝鮮人だった。又死亡者約7万4千名のうち朝鮮人は約1万名に上った。ウラン型の1、5倍の威力があったにも関わらず、広島に比べて犠牲者が少なかった理由は、爆風や熱線等を山々が遮った事が大きいといわれているが、広島の原爆投下とは“人の動きと時間と投下場所”の関係や、人口の違い等があった為といわれる。尚当初の投下目標は福岡県小倉(現北九州市内)だったが、雲が厚く視界不良の為、第三目標である長崎市に変更したといわれている。米国は第一目標を広島、第二目標を小倉、第三目標を長崎としていたが、他にも――当初の目標に京都を含んたが、重要文化財が多い事から候補地から外したといわれている。が後に京都は再び候補地に挙げられたという。
 ――※原爆について
 1945年7月16日米国ニューメキシコ州で人類初の(プルトニウム型)原爆実験を行った後、ポツダム宣言を発する前日となる同月25日、米国トルーマン大統領は「原爆投下の命令」を出した。原爆の投下により▽戦争を早期に終息させた。▽犠牲者が抑えられた。とする発言が度々発せられるが、原爆投下に踏み切った理由は――▽ソ連が参戦する前に原爆を投下し日本を降伏させてソ連の影響力を(米国が)抑え込もうとした。▽原爆の威力と人体への影響を確かめたかった。等様々な説がある。
 日本が降伏すると米国政府は広島に「原爆傷害調査委員会(ABCC)」を設置し、放射線による人体への影響を調査したが、被爆者の治療は行わなかったという。尚日本軍は43年陸海軍夫々が、原爆の研究と開発を進め、製造を目指した。海軍は金属ウランの製造にまで成功していた。が東京大空襲の甚大な被害により、研究続行が不可能となり断念した。
※日本に宣戦布告
 ソ連はアジア太平洋戦争の参戦を決め、日本に対して8月8日宣戦布告し、翌9日戦力150万で満州に侵攻した。ソ連の侵攻により満州(国)と朝鮮半島の関東軍は敗走し、一気に終戦に向うと思われたが……ソ連軍は8月24日国境を越え朝鮮平城に侵攻し、非人道的行いの限りを尽くした。――“ソ連侵攻以前の満州国”は大きな戦闘もなく、内地よりも食糧事情は良好だったという話がある。
※ポツダム宣言
 7月26日ドイツのポツダムにおける米英中ソ四カ国が布告した、日本に降伏を促す宣言。日本はこの宣言を黙認し、ソ連に仲介を要請するもソ連は拒否し8月8日日本に宣戦布告した(翌日長崎に原爆が投下された)。――別説にソ連は仲介を拒否したのではなく無視or検討していた中で、日本がソ連の回答を待っている間に、米英中等連合国が“日本は黙認した/拒絶した”と受取り原子爆弾投下に至ったとする説がある。又連合国の動きに扇動してソ連は日本に宣戦布告したとする説もある。
※大東亜戦争の終戦
 8月15日昭和天皇の肉声を録音した玉音放送でポツダム宣言受諾を発したこの日を、日本は「終戦記念日・終戦の日」とした。だが沖縄では英米軍の攻撃が続いており、多くの県民は天皇陛下と大日本帝国民の為に、生命を投げ出して抗い犠牲となっていた。対する米英国は「日本が降伏文書に調印するまで決して終戦とは認めない」「沖縄本島を掌握するまでは攻撃し続ける」との強いメッセージがあったといわれている。――米英仏露カナダは日本が降伏文書に調印した9月2日を終戦とし、中国では調印が伝えられた翌9月3日を「対日戦勝記念日」とした。日本の植民地支配の最大の被害国韓国では8月15日を「光復節」として、北朝鮮は同日を「解放記念日」とした、何れも朝鮮総督府が解散し日本の統治が終った日、植民地支配から解放され主権を回復した日を意味する。尚朝鮮半島に終戦が広く知れ渡ったのは8月20日頃といわれている。
 又敗戦時に外地に駐屯していた日本軍人は約350万おり、うち満州駐留は約78万人、中国全体で凡そ190万人、東南アジア等南方地域は約160万人に上った。又同じ数の民間人が居留していたといわれていて、敗戦当時日本人の一割近くが軍人として戦地に立ったといわれている。各国地域の犠牲者は次の様になっている。

   ・日本人:戦死者230万。民間人犠牲者80万(他に軍人の戦死者約186万。軍人以外約66万名。又死傷者45万以上の資料がある)
   ・朝鮮人:戦死者22万。民間人犠牲者2万以上。一方で次の資料がある
        朝鮮人の戦地徴用数36万4千186人
        朝鮮人の戦死・行方不明者約15万
        在日朝鮮人の戦争被災者約24万人
        在日朝鮮人徴用工の死亡・行方不明者20万以上
   ・米国人:戦死者約35万4千(他に29万2千の資料がある)
   ・英国人:戦死者約8万9千                   
   ・ソ連人:戦死者約1450万。民間人犠牲者700万超。
   ・中国人:戦死者132万。民間人犠牲者1千万超(他に2282万死亡の資料があるが不明とする資料も多い)   
   ・ドイツ人:戦死者285万。民間人犠牲者230万超。
   ・ポーランド人:戦死者85万。民間人犠牲者577万8千超(ホロコーストの犠牲者含む)
   〇又ホロコーストによるユダヤ人犠牲者を600万名以上。米英日を“除く”犠牲者の総数を計30万名とする資料がある。

――『1945年“終戦以降”の主な状況』――
【1945年】
 ・8月15日:終戦を迎えた朝鮮半島では呂運享らが「朝鮮人民共和国建国の準備委員会」を結成したが、連合国軍の軍政は同年9月17日迄続き、米ソの対立が朝鮮半島に持込まれた事で呂らの「独立国家構想」は頓挫してしまう。又シベリアに流罪になった囚人兵が、朝鮮で戦争犯罪や残虐行為の限りを尽くし大混乱に陥った為、構想が頓挫したともいわれる。
 ・8月16日:南京の汪兆銘政府が解消。
 ・8月18日:満州国が解消し皇帝溥儀が退位。
 ・8月18日:ソ連が千島列島に上陸。9月4―5日にかけて日本軍守備隊と交戦し、ソ連が占領下に置く。
 ・8月20日頃:祖国解放を知った朝鮮人はソウルを始め、韓国の国内中で「マンセー!」を繰返し叫び、歓喜の声が渦巻いたという……が大陸では日本軍と共に中国人を虐待して来たとして、朝鮮人の投降は認められず、「中国人が朝鮮人を処刑するのではないか」という憶測が広まり、又※戦陣訓が広く民間人に浸透していた為、在中韓国人の中には(日本人も含め)自死を選択した人が数多くいた。尚日本の敗戦を知った蔣介石が中国全土に布告した言葉がある。「恨みに報ゆるに、暴をもってするなかれ」
 ・8月24日:ソ連軍の朝鮮侵攻に伴い、米国調整委員会は同日※北緯38度で南北に分割する事を提案。ソ連スターリンは提案を承認したとされるが……
 ――※北緯38度の混乱
 ソ連の朝鮮半島侵攻十三日後の9月6日米軍が朝鮮入りし、翌々8日には仁川に上陸したマッカーサーが「朝鮮を軍政下におく」布告をした。米ソの介入により更なる混乱を招きかねないとして、12月米英ソは外相会議を開き、米ソが朝鮮半島に夫々独立国家を作る事で合意。南北朝鮮に臨時政府を置き、最大五年間米英ソ中の四カ国が朝鮮を信託統治し、且つ臨時政府を支援する「米ソ共同委員会を設立する」とした。が米ソ間の臨時政府についての考え方の隔たりや、朝鮮人の間で激しい意見の対立が生じ計画は頓挫。米国は国連を通じて問題解決を図った。国連は38度線以南で選挙を実施し、新政府を樹立させる事を決議した……が※金九らが反対し、各地で激しい反対運動が起り、多数の犠牲者を出した――48年※済州4・3事件の項に続く。
 ・8月24日:夕刻、朝鮮半島に向けて出港した帰国船※浮島丸(日本海軍所属の輸送船)が京都舞鶴港で機雷に触れ沈没。強制労働を強いられた※在日朝鮮人の帰国希望者549名が死亡した。浮島丸には3725人が乗船していた。
 ――※在日朝鮮人の帰国と※日本人の引揚と復員
 終戦時に210万人近くいた在日朝鮮人のうち45―46年迄に、凡そ150万人が祖国に帰国したといわれている。が45年12月28日に行われた米英ソ外相会議で「五年間朝鮮半島を信託統治の下に置く」という信託統治案が発せられると、主に南朝鮮の右派と左派の対立が顕著となり武装攻撃やテロが横行、その為多くの人が帰国を見合わせた。又帰国を果した元在日朝鮮人は、祖国の荒廃した有様に悲歎したり、そもそも朝鮮に生活基盤がなかったり、又内地よりも酷い朝鮮での貧困生活への危惧や伝染病の流行、南北分断の噂、日本と共闘した人間という理由で中国人に危害が加えられる恐れ等の理由から、再び日本へ戻る“逆流現象”が発生した。その為GHQは46年4月から12月にかけて――※10月抗争等で南朝鮮の混乱が再び激しくなった時期に――朝鮮に計画送還する具体策を日本政府に提示。朝鮮人に対して祖国に持ち帰る現金や所持品を制限(通貨1千円以内/物品113kg=250ポンド以下等)した為、多くの在日朝鮮人が日本に留まざるを得なくなった。
 又GHQが朝鮮から日本への再渡航を厳禁とした為、再び日本に行くには密航という方法を取るしかなかった。46年の密入国者は2万2千132人に上り、内98%が朝鮮人だったという(密航は65年日韓基本条約締結後まで続いた)。
 48年南北朝鮮に夫々国家が建国されると、北朝鮮は祖国統一を、韓国は軍国主義を打ち出し、在日朝鮮人の中には北朝鮮の理想に憧れる人が多くいたといわれている。1950年韓国へ向かう最後の引揚船が出航した一方で、56年2月日朝赤十字会談が開かれ、北朝鮮への帰還についてようやく議論が始められた。58年8月頃には北朝鮮への集団帰国運動が広がりを見せ、59年2月の閣議決定を受けて同年12月―1984年帰還事業が実施された。又1959年12月―67年迄に日本国籍をもつ家族を含め約9万4千人が北朝鮮に入国したといわれている。北朝鮮が帰国を推し進めたのは、人口を増やしたい金日成の意向だったという。
 ――※日本人の引揚と復員
 満州(国)から帰国する日本人は終戦後「24時間以内に港に集合するよう」通達されたが、実際には1946年5月から58年7月にかけて約108万人が帰国を果した。全体の引揚者と復員者の帰国は、1945年9月末に朝鮮釜山から陸軍が、中国からは同年12月上海から帰国が始まり、47年末迄に約624万人が帰国したが、73年にかけてまちまちに行われた。引揚船(帰国船・疎開船ともいった)が出航するまで「い・ろ・は」に別れた倉庫の中で1か月待機させられたり、一方密航船や闇船(蚤民タンミン船)で帰国を図った日本人もおり、舟代は凡そ千円程度が相場だった。引揚船内で亡くなった人も大勢おり(子どもも多数いた)、遺体は毛布でくるみ紐でゆっくりと海面に降し、周囲を旋回する水葬で送った。当初帰港場所は舞鶴港と決めたが、函館、名古屋、宇品、博多(門司)、佐世保、下関港が加わり、各港には食糧支援や金銭の贈与等を行う引揚援護局があり、引揚者の帰国生活の支援に当った。一方で引揚者や復員者の増加に伴い日本の人口は急増し、住宅難や食糧難が表面化すると国内は混乱していき、加えて45―翌46年の大凶作の際の飢餓や栄養失調、不衛生なバラック小屋での診察が原因の結核や急性伝染病への感染等で、死亡者が増加の途を辿ると、引揚者や復員者に対する偏見や差別は一層烈しくなった。殊に満州からの引揚者は“中共帰り”と共産主義者扱いされ、就職難も重なり、日本の生活に苦しんだという。尚日本に向けた中国からの引揚は1945年10月7日舞鶴行の出港に始り、58年9月7日同舞鶴港入港が最後となった。外地全体としての引揚は1961年6月27日北ベトナムから門司港行きの引揚が最後となった。一方で慰安婦だったばかりに帰国できなかった女性が大勢いた。
 ・8月28日:※GHQ連合国軍最高司令部を横浜に設置(本部の設置は10月2日)。
 ――※GHQ
連合国軍最高司令部総司令部をいい、多くの日本人は進駐軍とよんだ。その目的はポツダム宣言を執行する為、日本を占領統治し、民主化、非軍事化、平和国家を実現する事にあった。45年10月2日―52年4月28日まで日本を統治する事は予め決められていた。
 ・8月29日:中華民国国民政府が南京に帰還。
 ・8月30日:GHQ最高司令官に着任したマッカーサーが厚木基地に進駐。
 ・9月2日:戦艦ミズーリ艦上で日米代表が降伏文書に署名。日本帝国陸海軍が解散となり、軍需工場の営業が停止された。日本の降伏文書への署名によりGHQは財閥解体指令を布告。同指令は日本の軍国主義放棄と民主化措置の一つであり、11月23日会社解散制限令に改定し公布された。
 ・9月7日:琉球列島における降伏文書調印。1968年6月26日まで沖縄及び小笠原諸島(北緯30度以南の南西諸島)を米政府が統治する事を決定……としたが、小笠原諸島は同日返還されたが、沖縄=沖縄諸島と大東諸島の本土復帰は遅れに遅れて、1972年5月15日となった。
 ・9月8日:マッカーサーが朝鮮を米国軍政下に置く布告を発す(アメリカ軍政庁を設置)。
 ・9月9日:在中日本軍が降伏文書に調印。   
 ・9月10日:中国で国共内戦が再開。米は中華民国国民政府の支持を表明。
 ・9月11日:東条英機を始めとする39名が戦争犯罪で逮捕。
 ・9月27日:昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問(天皇自ら宮城を出て外国要人を訪ねるのは史上初だった)。
 ・9月30日:戦闘を継続していた日本陸海軍が武装解除に応じる。
 ・10月4日:GHQが治安維持法と国防保安法の廃止を決定。政治犯を即時釈放し(10月10日3千人が出獄)特高警察の廃止と天皇制批判の自由等の指令を布告。
 ・10月11日:※GHQの日本統治基本政策が示され、日本は民主主義政策を基本に据えた。
 ――※GHQの日本統治基本政策
 徹底的な軍国主義の排除と民主化を推し進めたGHQは▽婦人解放/男女同権▽労働組合結成の奨励▽教育の民主化▽専制政治からの解放・自由主義化▽経済の民主化等を基本政策に打出し、第一に着手したのが軍隊の解体だった。軍隊を解体し更に戦争犯罪者を※極東国際軍事裁判にかけ、特高警察と治安維持法を廃止し、国家と神道を分離させ且つ国民の天皇神格化を滅する為に昭和天皇に“人間宣言”をさせた。更には※財閥の解体、農地改革として地主制度を廃止し小作人を解放するよう指示、労働組合の結成を容認して、※教育基本法・学校教育法を導入する等、1946年公布の日本国憲法制定の地ならしをした。
 又GHQは早々に伝染病の防疫に着手した。ノミから媒介し脳症を発症して死に至る発疹チフスや、死の病として長年国民を苦しめた肺病=肺結核の撲滅を図った――抗生物質の一つで“奇跡の薬”と呼ばれたペニシリンは負傷者の感染症を防ぎ、結核の特効薬ストレプトマイシンの投与は絶大な効果を上げ、日本医療を変革させたといわれる。
 ――※極東国際軍事裁判
 46年5月3日―48年11月12日にかけて開かれたA級戦犯戦(争を率先して遂行した戦争犯罪者及び幹部クラス)が被告となった裁判。A級戦犯は東京で審理された事から東京裁判といわれる。当裁判では25名が裁かれ、内7人が絞首刑(※A級戦争犯罪者の死刑を執行を参照)、18人が終身禁固刑となり収監された――この他に16人が終身禁固刑、3人が裁判中病死した伝えられる、――だが米ソ間の東西冷戦が深刻となった事で、審理途上で東京裁判は打切られ、終身禁固刑で収監された全員が釈放された。
 東京裁判に併せてBC級戦犯(捕虜や一般市民を虐待や殺害したとする者)に対する裁判が開かれ、横浜(横浜裁判)や外地=現地の裁判所でも審理は進み、フィリピン、ラバウル(ニューギニア島東部ニューブリテン島)、シンガポール、台湾等の裁判で延べ約5千7百人が被告となり、内984人に死刑判決が下り刑は執行された。その中には朝鮮人や台湾人もおり、朝鮮人148名のうち23名の朝鮮人が死刑に処された(内20名は捕虜の監視にあたった俘虜監視員だったといわれる)。又BC戦犯者の多くが冤罪だったといわれており、上官が嘘の証言をして部下に責任の一切を負わせたという話は史実における常識である。又戦犯者は孫の代=三親等まで公職につく事が許されなかった、一方で「731部隊の人体実験の資料を米国側に提出する事」で大日本帝国陸海軍の長で大元帥昭和天皇の戦争責任は免責されたとされている(天皇が崩御する様な事があると、日本国民は混乱し暴動を起し兼ねない旨の主張をGHQが受け入れたともいわれる)。被告の中には、戦犯管理所に収容中、認罪や人道に関する学習を受けつつ裁判の行方を、又刑のいい渡しを待つ者がいた。――当該裁判が開廷される前の45年11月20日、ナチスドイツの個人を対象に、平和に対する罪と人道に対する罪を問うニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、4千403回の審理を経、て46年10月1日指導者12人に死刑が宣告された。
 ――※財閥の解体
 GHQは戦争に深く関わった三井、三菱、住友、安田等十五の財閥が所有の資産を凍結し解体させた。
 ――※教育基本法等
 教育勅語を廃止して制定された教育基本法では、軍国主義を思わす教科書の記事を黒塗りにして使用させたが、「修身・歴史・地理」の教科は国家軍国主義を育みかねないとして禁止にした。民主教育と男女平等を大原則として、又教育機会均等の推進を図る為に、盲・ろう・養護学校を設置した。
 ・10月10日:中国で共産党と国民党が双十協定を締約、停戦となる(翌46年6月両軍は内戦を再開させた)。
 ・10月15日:治安維持法と思想犯保護観察法を廃止。
 ・10月15日:在日本朝鮮人聯盟=※朝連が組織された。
 ――※朝連
 在日朝鮮人の権利と人権を守り、祖国への帰国を援助(※在日朝鮮人の帰国を参照)し、民族教育を行う事を目的とした機関で、当時在日朝鮮人の多くが加入したといわれる。
 ・10月25日:台湾が英国から中国に返還され、後にこの日を中国は退位記念日とし、台湾は光復節とした。
 ・12月17日:衆議院議員選挙法が改定され※戸籍法上の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権を当分停止するとし、それまであった朝鮮人と台湾人の選挙権を停止した。
 ――※戸籍法上の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権を当分停止
 この措置はGHQが発した「在日朝鮮人と台湾人を解放人民として処遇すべき」とする指令を日本が都合の良い様に曲解し、選挙法を改定したものである(47年※外国人登録令を参照)。治安維持法の廃止に伴う衆議院選挙法の改正で選挙権を行使出来る条件を「20歳以上の男女」に緩和し、翌46年4月10日にはこれまで参政権のなかった女性が初めて総選挙に臨んだ。
 尚選挙権の行使の歴史は――1889年2月22日日本で初めてとなる「選挙権行使に関わる法令」が制定されたが、被選挙権は25歳以上の男性に限られ且つ直接国税を15円以上納付した者とした。その後納税額は10円以上に引下げられ、更に1919年に3円以上に緩和され、25年納税制限は撤廃されたが、25歳以上の男性とする要件は46年迄残された(※日本人女性が初めての選挙権を行使に関連あり)。
 ・12月27―28日:朝鮮半島問題に関する米英ソ三国外相会議が開催されたが、朝鮮半島問題は複雑化・深刻化し(※北緯38度の混乱に詳細あり)その象徴が46年10月抗争と48年済州4・3事件だった。

【1946年】
 1月29日千島列島、歯舞群島、色丹島の日本の行政権が停止となりソ連が施政権を掌握。2月日本で※公職追放令を公布。4月満州のソ連軍が撤退を開始。4月※日本人女性が初めての選挙権を行使。6月中国で※国共内戦再開。10月2日朝鮮半島大邱で※10月抗争。10月23日朝鮮姓名復旧令を発布し、朝鮮人の創氏改名が無効となり日本名を抹消。11月3日※日本国憲法制定。12月19日※米ソ引揚協定締約。――この年戦後8か月の物価高騰が顕著に現れ、たばこ15本/15円、銀行預貯金の引出し額は「一か月に100円迄」に制限された。
※公職追放令
 1月4日GHQの公職追放の覚書(指令)により、日本政府は2月28日公職追放令を公布。アジア太平洋戦争中に政治家や公務員だった者や、有力企業の幹部クラスの者等凡そ20万人が“戦争協力者”と見做され公職に就く事を禁止した。――51年サンフランシスコ講和条約の締結を機に、公職追放令は解除となり、戦争協力者とされた人々は再び活動を始めた。それには……1949年10月の中華人民共和国建国や、翌50年6月の朝鮮戦争勃発、同年10月の同戦争への中国参戦等、目まぐるしく変化するアジア情勢に対して、アジアに共産主義国が台頭する事を危惧した米国が、共産主義と対峙する為、彼ら「“戦争協力者”を活用しようと考えた」とする見方がある。
※日本人女性が初めての選挙権を行使
 日本の女性解放運動の始りは、明治前期の岸田俊子や景山英子らの自由民権運動への参加や、1892年(明治25)津田梅子が自立した女性を育てる「女子教育機関を設立=(現在の津田塾大学を設立)」をした頃といわれている。だが女性が家制度の元で生きねばならない封建的な状況に変化は見られず、炭坑や繊維工場で働く女性は増えたものの低賃金と長時間労働を強いられたままだった。
 そんな状況を変えようと立上がったのが、女性解放運動の先駆的存在として知られる平塚らいてうだった。1911年文芸雑誌を発行し「元始、女性は太陽であった」と宣言すると、女性の政治参加や選挙権の獲得を求めて広島県を中心に解放運動を展開した。29年には平塚の講演等に触発された女性達が、婦選獲得同盟広島支部を結成させ、平塚自身も大正デモクラシーの気運の高まりの中、市川房枝や奥むめお等と女性の参政権を求めて新婦人協会を結成した。この様な経緯を経て1945年12月GHQ総司令部の指示で推進された「婦人解放の方針」に基づき衆議院選挙法が改正され、46年4月10日の総選挙で初めて日本人女性が選挙権を行使できるようになった(※戸籍法上の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権を当分停止に関連あり)。この様な形で女性が被選挙権を獲得した事に、女性解放運動を展開した女性らは、酷く悔しがったという。尚1891年生れの歌人八坂スミは次の短歌を残した。 

    這うこともできなくなったが 手にはまだ 平和を守る一票がある         
    
※国共内戦が再開
 6月毛沢東率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍による勢力争いが再燃。4月のソ連軍撤退により満州が主戦場となり、当初は国民党軍の優勢で推移したが、後に共産党軍が攻勢に転じると戦場は華北、華中、華南へ拡散していった。満州が主戦場になったのには、日本が侵略し工業化が進んだ事で、両軍にとって魅力的だったといわれている。――又この年中国での収容所生活を終えた朝鮮人は、朝鮮半島への帰郷か、家族のいる日本へ向う事を希望したが、国民政府は朝鮮に帰国させる方針を示した。日本の植民地支配から解放された朝鮮は45年12月28日に「米英ソ中四カ国で最大五年間信託統治する」とした方針に基くものといわれる。尚国共内戦は1949年10月中華人民共和国の成立迄続いた。
※10月抗争
 10月2日南朝鮮大邱市を発端とした米国の軍政と親日反民族行為者に抵抗する市民らによる闘争。当時の朝鮮半島は米国軍政の支配下にあり、殊に食糧政策の失敗により庶民は飢えに苦しみ、▽農民から米などを強制徴収するなどした事▽植民地時代の日本人警察や官僚を採用し米国軍政を維持しようとした事等、意に添わない米軍政庁のやり方や、台頭する親日反民族行為者の追放の声がデモに発展した。
 同日大邱警察署前には高校生や大学生、労働者等市民数千人が押しよせ、彼らの前には警察と衝突して命を落した労働者の棺が置かれ、“警察の武装解除”を烈しく要求した。警察署はデモ隊に占拠され、大邱市はやがて無政府状態になった。が米軍が戦車を進駐させて厳戒令を宣言すると事態は収束に向い、大邱市内の治安は安定していった。
 だが大邱のデモは全国へ波及し、数百万人の労働者や農民を中心にデモに参加した。48年大韓民国樹立後、韓国政府は「日本の※植民地支配の影響を失くし真の朝鮮民族による独立国家として歩む」事を目指して特別委員会を組織したが、親日反民族行為者や高級官僚出身の政治家が特別委員会に激しい妨害工作を行い、1990年代まで植民地支配下の制度は維持された。
 ――※植民地支配の影響を失くす動き
 植民地支配の影響を排除する代表的な動きとして、1995年ソウルにあった朝鮮総督府の建物の解体が挙げられる。「朝鮮総督府」は皇后が住む景福宮(王宮)を塞いで建てられた日本による朝鮮侵略の象徴だった。又日本からの独立を訴え多くの独立活動家が拷問の上殺害された「西大門ソデムン刑務所」は独立運動の記念館となった。そして国民学校は皇国臣民を意味する為、名称を初等学校に変えた。更に韓国政府は日本によって創作された歴史を正しく後世に伝える為にと、2005年特別法を制定し、反民族行為者の活動を調査し公式な記録として残して、反民族行為者が得た財産を国庫に返納する試みが続けられた。2009年になると募金を広く募って親日反民族行為者4389人の活動記録をまとめた“親日人名辞典”を刊行した。  
※日本国憲法
 枢密院で可決された憲法改正案を、6月貴族院と衆議院で修正を行い10月7日に可決、可決された改正案を10月29日に枢密院が可決した事を受けて11月3日日本国憲法公布に至った。日本国憲法は主権在民・人権尊重・平和主義を基に、軍事力を保有しない事を世界で初めて明記した平和憲法といわれ、※憲法九条はその象徴といわれている。国会を国権の最高機関に位置づけ、天皇は国家の象徴である事、そして戦争放棄を広く国内外に示した日本国憲法は……GHQが一週間で作成したものを和訳して公布したものだった。
 ――※憲法九条
 第一項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあり、第二項は「前項の目的を達する為、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。
※米ソ引揚協定と対象
 12月19日当該在ソ連日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定の締結に先立ち、11月27日引揚に関する米ソ暫定協定が締結され、捕虜の他に一般の日本人と北朝鮮への帰国を希望する在ソ連朝鮮人が引揚の対象になった。が北朝鮮への帰国条件を「北緯38度以北に居住していた者で且つ同地域で出生した者」と限定した為、北朝鮮への引揚希望者は殆ど見られなかった(当時の朝鮮半島は重工業地域が集中する北部と、農業が主要産業の南部という特徴があり、大半の在ソ(元在日)朝鮮人は半島南部の韓国出身者だった)。
 尚日本軍の武装解除後、ソ連軍は軍人と民間人を含む日本人70万人以上を捕虜にし(内50万人以上が満州(国)居留民だったという)、約57万5千人をシベリヤを含むシベリア鉄道以南のソ連全域(シベリア=南樺太には約35万9千人)、及び内蒙古の囚人収容所と監獄に移送した。そして鉄道建設や炭鉱開発等の重労働を強制し※多くの捕虜が命を落した。ポツダム宣言第9項には(ジュネーブ条約と同様に)「日本軍隊ハ完全ニ武装を解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」とある。つまり日本軍の武装解除で日本人捕虜の帰国と生活は保障されていたにも関わらず、ポツダム宣言を作成した当事国のソ連自ら宣言=契約を反故にしたのである。
 ソ連からの帰国事業は1947年から56年10月19日の日ソ共同宣言・国交回復まで行われて(引揚者は極東沿岸のナホトカ港から帰国)、49年7月迄に日本人約27万人が帰国を果した。1956年10月日ソ共同宣言後には、在シベリア抑留日本人「全員を送還した」といわれているが、1977年頃には1千数百名の日本人が、2024年時点で数十名の日本人が居住しているといわれている。――例<2004年時点の※サハリン(南樺太)居留者の内訳は▽ロシア国籍約3万1千人▽韓国籍を有しない韓国人約3万6千人▽北朝鮮国籍約500人▽無国籍約4千人だった。
 ――※多くの捕虜が尊い命を落した
 シベリア抑留日本人57万5千人(64万の資料がある)のうち、内蒙古の死亡者約2千名を含む日本人捕虜の死亡者は、約10万名(5万5千の資料がある)といわれ、20―35歳位迄の将校の死亡者は6万2千名に上った。死亡原因は▽飢餓▽長時間の苛酷な労働▽栄養失調▽極寒が原因の疾病等で、多くの人が医療行為を受けられずに亡くなった。
 ――※サハリン(南樺太)抑留の韓国人のその後
 戦後サハリンに強制動員された韓国人は凡そ1万6千人に上り、既に移住していた※在樺太朝鮮人と合わせて4万以上の韓国人が終戦当時サハリンに居留していた。日本人の帰国事業が47年から行われたのに対して、韓国人の帰国は一向に実現しなかったが、1966年当時ソ連と国交が無かった韓国政府は(国交樹立は1990年)、「日本に責任がある」として調査団の派遣等の協力を日本政府に求め続けた。結果1973年10月の日ソ首脳会談において、田中角栄首相が「サハリン残留韓国人の帰国(送還)」を求めた。がここでは進展がなく……83年4月日本で結成された「アジアに対する戦後責任を考える会」が国連人権委員会に対しこの問題を提起し、又ソ連で85年3月改革路線のゴルバチョフが共産党書記長に就任すると流れは大きく変った。韓国国会はサハリン残留韓国人の帰還を促す決議文を採択し、日韓両赤十字社も在サハリン韓国人支援共同事業体を発足させると、日本政府は1988年度予算に同帰還問題関連の国家予算を充て、90年9月韓ソ間に国交が樹立されると、サハリンを含むシベリア抑留韓国人に韓国籍が付与された。   
 その後日韓政府は細川護熙首相と金泳三キムヨンサム大統領の首脳会談で、在サハリン韓国人支援共同事業体を通じて「残留韓国人の一時帰国と永住帰国を支援する事業」の推進を決め、94年3月韓国内に永住帰国者向けの住宅を建設(日本は32億3千万の建設費を、韓国は療養院と住宅用の土地を提供)し、移住費用や光熱費、福祉会館の運営費等の支援を行った。そして2001年6月迄に1500人超の韓国人が永住帰国を果した。 
 ――※在樺太朝鮮人
 1905年ポーツマス講和条約の締結により、サハリン=樺太の北緯50度以南の「南樺太」を租借した日本だったが、鉱物資源や漁業関連、それにインフラを整備する為の労働力が不足した為、(日本は韓国居住の日本人の権益と経済活動を優先し)同条約で保護国にした韓国に労働力を求めた。そして当時の韓国人は自発的に南樺太へ移住していった。一方で1910年8月韓国が併合されると、朝鮮半島への日本人の移入を目的とした土地調査事業や産米増殖計画の強要により、多くの朝鮮人が仕事を失い、仕事を求めて南樺太に移住した。そうして日本は1915年経済危機を脱した(同年※二十一箇条の要求を参照)。

【1947年】
 4月日本の小中学校で「六三制義務教育」を実施。5月2日※外国人登録令を施行。11月学校閉鎖令の発布により※朝鮮人学校の閉鎖が決定。12月22日※民法改正。
※外国人登録令
 昭和天皇最後の勅令として施行された当該法令は、かつて皇国臣民とした在日朝鮮や台湾の人々を“外国人と見做す”と突き放した法令といわれる。45年12月衆議院議員選挙法の改定により「※戸籍法上の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権を当分停止する」として、在日朝鮮・台湾人の選挙権を一方的に停止したのを皮切に、47年5月当法令を発布し、更に52年4月サンフランシスコ講和条約の発効により日本が独立国家と認められると、在日朝鮮人と台湾人は日本国籍を失い、税金を支払う等の義務が発生した。1955年には14歳以上の在日外国人に対し、▽指紋の押捺を市町村役場に届ける事▽指紋の押印された外国人登録証明書の携帯を義務化した。殊に在日朝鮮人は日本国の一方的で排他的なやり方と、日本人の偏見と差別に苦しみ続けた。尚外国人登録証明書は2012年7月廃止された。
※朝鮮人学校の閉鎖
 日本の敗戦により在日朝鮮人聯盟は、帰国に備えた民族教育が必要と考え、同年3月迄に503の学校を全国各地に設立し、6万人の児童が朝鮮の言葉や文化、風習を中心に学んだ。しかしマッカーサーは「在日朝鮮人に日本の教育法と学校教育法の下で教育を受けさせよ」との指令を出し、日本政府は10月朝鮮人学校を各種学校として認可する方向を示したが――朝鮮人を日本国の臣民、日本人に劣る民族と考えていた国会議員が強硬に意義を唱えた結果、11月5日都道府県知事に対し「朝鮮人学校を閉鎖し日本人学校に編入さる事」とする学校閉鎖令を発布した。これに対し在日朝鮮人は即座に抗議し全国規模でデモを展開、翌48年4月14―26日にかけ大阪府庁前に在日朝鮮人と日本共産党を中心に約1万5千人が集結し、朝鮮人の民族教育を守る為に抗議のシュプレヒコールを上げた。彼らに対し警察は放水を始め、一部の警察官は銃撃する暴挙に出て、16歳の少年の射殺を含む3名が死亡するという悲劇を生み、大勢の負傷者を出し、1千6百名が検挙された。いわゆる阪神教育事件、阪神教育闘争である。
 一方で授業を続ける事で抗議の意思を表す朝鮮人学校もあり、それらの学校に対して警察や米軍憲兵は、学校閉鎖令に違反するとして警棒を振り回しながら乱入し、泣き叫ぶ子どもらに暴力を振い無理矢理教室から追いやった。しかしそれでも授業を続けた学校もあった。
 彼ら一人一人の勇気と実直な姿勢は、後の朝鮮人学校に継承され、差別や偏見に晒されながらも、現在に至るまで民族教育は続けられている。そしてスポーツや文化を通じて日本人学校と交流を進めている。民族学校は朝鮮の言葉で「ウリハッキョといい、私たちの学校」と訳す。
※民法改正
 改正により男女平等が明記され、法的な結婚の自由や職業選択の自由等を保障する内容に改められた。

【1948年】
 4月3日※済州4・3事件。日本で4月14日「阪神教育事件」発生。7月日本で※旧優生保護法制定。8月15日米国の支援により大韓民国が成立し、19日初代大統領に李承晩が就任。9月9日ソ連の支援により朝鮮人民共和国が成立。11月12日日本で極東国際軍事裁判の判決が下り、12月23日※A級戦争犯罪者の死刑を執行。――この年の5月中華民国憲法が制定され同月20日蔣介石が中華民国初代総統に就任。一方で8月19日中国東北部を支配した共産党軍が華北人民政府を成立させた。
※済州4・3事件
 米国は38度線以南の「南朝鮮だけで単独選挙を強行」しようと目論み、親米派の李承晩を大統領候補に立て大韓民国樹立の体裁を整えようとした。が国土の分断を招くとして、単独選挙反対派の金九や金奎植キムキュシクらは南朝鮮全域で反対闘争を繰り広げた。中でも最も激しく組織だっていたのが「済州島武装蜂起」だった。米軍の指揮の下で李承晩支持派の反共集団や軍隊等が送り込まれた済州島は戦乱の地と化し、島民の多くは日本に密入国するなど脱出を図るが、島民の1/5~1/4約六万名が(1954年9月21日迄に)虐殺された済州4・3事件を引起こした。住民は28万人から3万人程度に減り、済州島の動乱は朝鮮戦争休戦の一年後迄続いた。――尚単独選挙は5月済州島を除く南朝鮮で強行され、結果国会を構成し憲法を制定して、8月大韓民国政府を樹立し李承晩が大統領に就任した。一方で北朝鮮では同年9月に選挙を実施し、選挙で選ばれた代議員により最高人民会議が組織され、朝鮮民主主義人民共和国を樹立し首相に金日成が就任した。――北朝鮮の金一族による独裁体制は終りを見ず、又民主化を望んで止まない韓国民の戦いは1987年まで続く事になる(87年※6月民主化運動を参照)。
※旧優生保護法
 7月13日議員立法で制定された当該法令は、強制不妊手術を可能にし「不良な子孫の出生を防止する事」を目的とした。法律案を議会に提出した産婦人科医で国会議員は、「悪質の強度な遺伝子を国民素質の上に残さない」と趣旨説明し、両院で反対も批判的質疑もなく全会一致し、立法府の総意で可決成立された。都道府県は優生思想を煽動して▽不幸な子供が生れない施策だ▽悪貨が良貨を駆逐している▽このままでは県民の質が低下するとして、殊に障がい者の優生手術の推進に取組み、高校の教科書には「子孫に不良な遺伝子を残さない事を優生といい、国は国民全体の遺伝素質を改善、向上させる為、国民優生に力を注いでいる」と書かれその様に教育した。不妊手術を強要された最年少は9歳の男女児童で、最年長は57歳男性とみられており、手術を「福祉施設の入所条件や施設の入所者同士の結婚条件」にしたり、手術の対象家族に▽性被害に遭う懸念があり出産しても育児は困難▽性的に無知無関心で将来が危険と説明した為に、自ら希望し手術に臨んだ例も生じた。又術前には盲腸の手術と騙したり、不認可である子宮や睾丸の摘出術や放射線照射が行われた――国が“別の手術”と偽る事を許容したからである。全体の65%が本人の同意がないまま手術を行い、又ある調査では対象者の半数以上が「手術によって子どもが出来なくなる説明を受けなかった」と回答している。不妊手術を強制された24,993名が国の悪法に苦しめられその人生を操作された。1948年に制定された旧優生保護法は、96年障害者差別にあたる条文を削除し母体保護法に改称された。そして全国の被害者と関係者は2018年以降国家賠償請求訴訟を起し国と戦っている。
※A級戦争犯罪者の死刑を執行
 アジア太平洋戦争でA級戦犯として処刑された七名の遺骨は、米軍の手で太平洋に散骨された。以下が経緯となる。         
  (1)1948年12月23日午前0時過ぎ。米第8軍がA級戦犯七名の絞首刑を執行。
(2)同日午前2時10分。ルーサーフライアーソン少佐を始め16人が遺体を引取り、巣鴨プリズンをトラックで出発。
  (3)同日午前3時40分。横浜第三高校到着。
  (4)同日午前7時55分。久保山火葬場で火葬され、ルーサーフライアーソン自身が骨壺に入れる。
  (5)トラックが横浜伊勢佐木町の伊勢崎飛行場に到着(当時日本人は入場禁止だった)。
  (6)伊勢崎飛行場から南に約30㎞離れた海上で飛行機上から遺骨を散骨。
 神聖化を恐れて遺骨は全て散骨された。といわれるが、熱海市には七人の慰霊碑があり遺骨の一部があるといわれている。又ルーサーフライアーソン宅には昭和天皇から贈られた陶磁器がある――蓋付で取手のある洒落た鍋に似たノリタケ製の陶磁器で、白を基調に朱色で線等が書かれ、取手下部には皇室を表す金の菊の紋章がある。

【1949年】
 11月日本で※歩行者の右側通行始まる。――この年中国で※国共間の覇権争いが急速な変化を遂げた。
※歩行者の右側通行
 1920年(大正9)9月に歩行者の交通事故防止の為「歩行者は左側を通行する事」と法令化したが、一向に事故が減らなかった為、当年11月1日自動車等の車両
と対面交通になるよう右側通行に変更された。こと教師は厳しく徹底されたという。 
※国共間の覇権争い(以下は終戦から当年迄の概略)
 ・1945年――8月15日日本の敗戦を受けて8月29日中華民国国民政府が南京に帰還。8月30日重慶で国民政府と共産党が中国に統一した政権を樹立する事を目的に会談=重慶和平会談し、10月10日合意に至り双十協定を締約(毛沢東の申し入れとする資料がある)。10月24日中華民国が国連に加盟。10月25日台湾の日本統治が終り、カイロ宣言に基づき台湾が中国に返還され中華民国の統治下に入る。
 ・1946年――6月国共内戦再開。共産党と国民政府が戦争状態に入る。
 ・1948年――5月2日中華民国総統に蔣介石が就任。共産党軍が中国東北地方すべてを支配下におき華北人民政府を樹立。
 〇1949年
 1月15日共産党軍が天津へ進攻し31日北京に入城、同月蔣介石が中華民国総統を辞任。4月1北京で国共和平交渉=北平和談。4月21日渡江戦役が勃発し、共産党軍が24日国民党軍の南京を攻略、更に6月2日上海を占領。10月1日国共が国内和平協定を締約するも、中華民国新総統李宗仁が署名を拒否。拒否を受けて共産党が同日中に中華人民共和国を建国し毛沢東が主席に、首相に周恩来が就任し、「我々こそが中国政府」だとする声明を発し※新疆シンキョウに向け軍を進攻させた。12月中華民国国民政府が台湾に事実上の敗走、同月8日台北タイペイに首都を置いた。
 ――※新疆
 清王朝の皇帝乾降帝が中国北西端に進攻し1757年に獲得した地域で、1912年中華民国が支配下に置き新疆省と定め、44年同省は東トルキスタンに改められ独立国家としての歩みを始めた。だが国民党軍が勢力を保っていた為、当年10月共産党軍が進攻を開始し、中華民国国民政府が台湾に敗走すると共産党の統治が始り、12月共産党軍が全域を掌握、1955年現在の新疆ウイグル自治区を発足させた。当該自治区は日本の4倍以上の面積があり、山脈の景観は壮観だといわれているが、少数派民族ウイグル族に対する中国政府の弾圧や、強制収容所への収容等、重大な人権問題が生じているといわれており、又宗教活動を禁止し、イスラム教徒の礼拝場モスクをカフェに変えるなどした為(ウイグル族の約90%がイスラム教徒である)、国際社会の厳しい目が注がれている。東トルキスタン建国時の人口の割合は――ウイグル族76%/漢民族7%だったが、2020年には45%:41%となった。

【1950年】
 1月6日※英国政府が中華人民共和国を承認し中華民国国民政府と断交を表明。3月1日中華民国国民政府が台湾で執務を開始。4月16日国共内戦の最終盤となる海南島戦役で中華人民共和国が海南島の大半を支配。6月25日※朝鮮戦争の勃発により、日本政府は8月10日警察予備隊令を公布し(陸上自衛隊の前身の)「警察予備隊」を設置(54年※自衛隊発足の経緯を参照)。――この年から日本国内で※レッドパージの動きが本格化した。
※英国政府が中華人民共和国を承認
 英政府の中華人民共和国承認により、共産党政権は「中華民国(国民政府)は既に消滅しており、中華民国を名乗る人々は自称しているだけに過ぎない」旨を喧伝し、その考えは徐々に広まっていった。――※中台問題は現在も両者や周辺諸国に緊張をもたらし、利害関係の絡んだ隔たりや軋轢を各国に生じさせている。
 ――※中台問題
 2024年現在中国と対立関係にある台湾与党民進党(民主進歩党)や、諸外国間で中台問題が浮上すると中国共産党は「中国は一つであり、台湾に対する言及は内政干渉にあたる」旨を発信し、一つの中国という考え方から台湾海峡に緊張が走るが、中国は主な根拠を次の様に主張する。
 ・1950年:英国政府の中華人民共和国承認
 ・1971年:10月中華人民共和国が国連に加盟し“唯一の中国として常任理事国入り”すると同時に中華民国が国連を追放された事
 ・1972年9月:※日中共同声明の国交回復三原則において「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である」等の確認をした事
 ・1978年12月:米中国交正常化に向けた共同コミニュケで「中華人民共和国を中国唯一の合法政府と規定した声明書を発効」した上で、翌79年1月米中が国交を正常化した事
 ・1992年:中国共産党と台湾与党国民党とで確認した“1992年コンセンサス=※九ニ共識”
 ――※九二共識
 92年に香港で行われた中国側の窓口「海峡両岸関係協会」と、台湾の「海峡交流基金会」との協議で、双方が“一つの中国は達成したとする合意”を2000年に台湾行政院大陸委員会の主任委員は九二共識と名づけた。尚協議は事務レベルであり口頭の合意だったというが、2024年現在野党で“九二共識の合意をした”国民党と民衆党は中国との交流を推進している。
※朝鮮戦争の勃発
 6月25日朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の共和国人民軍が38度線を越え南進。北朝鮮の進攻に伴い、23時間以内に国連安全保障理事会が召集され、北朝鮮を侵略者と規定し軍の撤退と国連軍による※韓国への軍事支援が議決された。
 ――※韓国への軍事支援が議決できた理由等
 全会一致が原則の国連で議決ができた理由は米ソの対立関係にあった。資本主義国家で国連加盟国の中華民国を支持する米国が韓国を支援したのに対し、社会主義国ソ連は北朝鮮を全面的に支援し且つ国連未加入の中華人民共和国を支持していた為、米ソは国連内でも対立。国連常任理事国のソ連が安保理を欠席した為、全会一致で議決できたのである。
 議決はされたものの北朝鮮は半島を更に南へ侵攻、大邱と釜山の一部を除くほぼ全土を掌握するが、仁川に上陸した米軍を主力とする国連軍が押し返しソウルを奪還、更に北進し平壌を占領した。その後両軍は一進一退の攻防を繰返すが、同年10月中国人民志願軍が共和国人民軍の支援の為に参戦すると、国連軍は撤退し、戦争は益々長期化の様相を呈す。そこで世界大戦への拡大を危惧したソ連が米国に休戦を提案するが、協議自体が長期化してしまう。
 拡大する被害と戦争に反対する韓国民は李承晩大統領に怒りの矛先を向け、それに対し李政権は政権批判をした者を政治犯として刑務所に収監し処刑した。――朝鮮戦争開戦前の李承晩政権は49年政権への反対勢力を左翼系人物と位置づけ、凡そ10万人を強制的に「保導連盟に加入させ保導連盟員」にし、その発言や行動を管理したが――当年朝鮮戦争が勃発すると彼らを強制的に収監し殺害した。
 尚中国人民志願軍は、実際には中国人民解放軍の正規部隊からなる軍隊であり(※八路軍と共産党系戦力の先途を参照)、又朝鮮人部隊が多く属したため義勇軍とも呼ばれた。又米国の占領下にあり対北朝鮮戦の総司令部が置かれた日本は、米軍の戦闘を支援する兵站基地の役目を果した。朝鮮戦争の※日本への影響は絶大だった。
 ――※日本への影響
 日本は▽米軍の軍事物資の供給基地▽軍事作戦の訓練場▽傷病兵に医療活動を行う基地となり、その意味で日本人の多くが直接、間接的に朝鮮戦争に加担したと指摘される。旧日本軍人においては、凡そ1万人が機雷を除去する為の艦船派遣や水先案内、軍事物資の輸送にあたり、日本が軍事物資の生産にあたった結果、壊滅的な経済状態だった日本は、朝鮮戦争の特需=有刺鉄線や火薬の生産、石油の精製と石油製品の生産、造船業等で、景気は回復の兆しを見せ、政府は輪をかけて大企業に優遇措置を与えるなどして、日本は高度経済成長期の基盤を築いた。朝鮮戦争がもたらした※糸へん景気である。
 ――※糸へん景気
 朝鮮戦争の兵站基地と化した日本は、在日米軍の立川、横田、厚木、伊丹、板付基地等の各飛行場から爆撃機や戦闘機が出撃し、再稼働した軍需工場からは武器や弾薬が朝鮮半島最前線に送られるなどして経済は息を吹き返し、糸へん景気・金へん景気に入った。糸へんは紡績や繊維産業等を、金へんは鉱業や製鉄業等の景気の伸びを指して言った。  
※レッドパージ
 共産主義者やその同調者、左翼的思想の人物を公職や職場から追放する動きをいい、日本のレッドパージはGHQの指示で行われたが、多くの人が偏見に晒され、理不尽な差別や暴力を受け、不当逮捕され拷問をうけて殺害された。明治維新後の日本は、共産主義や社会主義者を疑う者の弾圧や不当逮捕、投獄、拷問死は数多くあり、著名人の死は心臓麻痺等による病死と発表した。

【1951年】
 4月※GHQ最高司令官マッカーサーが帰国。9月※サンフランシスコ講和条約締結。
※GHQ最高司令官マッカーサー元帥が4月16日午前、羽田空港から帰国の途へ。そのマッカーサーは帰国後、「日本人の精神年齢は12歳だった」と語った。
※サンフランシスコ講和条約
 9月8日米国を中心とする連合国48か国と日本の間で締結された条約。条約の調印発効は翌52年4月28日で主な内容は次の通り。
  (1)日本と連合国間の戦争状態が終了する事
  (2)日本は独立し主権を回復する事
  (3)日本は朝鮮の独立を認め、朝鮮に対する全ての権利を放棄する事
  (4)台湾・澎湖諸島と千島列島・南樺太の領有権を放棄する事
  (5)日本の領土は、本州、九州、四国、北海道とそれに属する島々に限るとする事
  (6)日本は連合国に対する賠償請求を放棄する事(但し※原爆被害者を補償する国際的義務を負う事)
  (7)賠償問題は個別交渉とする事  
 日本の侵略戦争の最大の被害国である韓国と中国が不在の中で開催された講和会議を経て、当該条約は調印発効された。日本政府が「韓国は第二次世界大戦の戦争当事国ではない」と反対した為、又在日韓国人が共産主義に傾倒し敵対勢力になりかねないとの主張から、韓国の出席は見送られたといわれる。一方の中国は日中戦争の当事国ではあるものの、中華人民共和国と中華民国に分かれていた為、どちらを代表国にするかの結論が出ず会議に招聘されなかった。ソ連は会議に参加したが、条約の内容に同調できず署名を拒否、その為全会一致が原則の国連で議決に至った。ソ連の講和条約不参加が北方領土問題を生じさせ、韓国と中国の招聘を見送った事で独島竹島問題や尖閣諸島等の領有権問題を含む多くの問題が発生した。尚中国を招聘しなかった理由は他に、反社会主義体制で結束していた米国を中心とする連合国の意向とする説がある。
 ――※原爆被害者を補償する国際的義務を負う
 広島と長崎で被爆した朝鮮人約7万人のうち生存者は約3万人、内約2万3千人が朝鮮半島に帰国したといわれており、北朝鮮に渡った被爆者1911名のうち1529名が亡くなったといわれている(2007年調べ)。
 上記講和条約(6)にある様に、原爆被害者(現地で被爆した人/被爆後に広島と長崎入り被爆した人)に対して被爆健康手帳(被爆者手帳)を発行し、健康診断や治療を受けられる様にし且つ月々健康管理手当を支給するとした日本政府は、更に94年に被爆者援護法を制定し補償の充実を図った。だが海外に居住地を移した「在外被爆者」は適用外のままであった。その為※在外被爆者らは「被爆者援護法の平等適用」を求めて提訴し、数々の※裁判を経て、2008年6月11日議員立法で「被爆者援護法改正案を成立」させ、同年12月15日在外被爆者の被爆者健康手帳や健康管理手当等の申請支給を可能とした。だが政府は「日本公館の設置された国家」という条件を付加した為、在台湾と北朝鮮の被爆者は補償対象外にされた。後に台湾だけは健康管理手当等の支給を可能とする告示を出したが、北朝鮮在住の原爆被害者は何ら補償を受けられていない。
 又朝鮮人の被爆者が多い陜川には、韓日両政府の支援で建てた陜川原爆被害者福祉会館があり、老人ホームの運営と健康診断、治療、介護、福祉活動を行うと共に、館内の慰霊閣にある朝鮮人被爆者の位牌に祈りを捧げている。以下(1)―(4)は“国際的義務を負う事”を念頭に入れた判例の一部である。
 (1)72年「在外被爆者も被爆者援護法の対象とする」とした判決を基に、日本政府は在外被爆者の被爆者健康手帳の取得を認めた。が「日本国内に滞在している時のみ有効」とし、出国と同時に無効とする通達を出した。
 (2)78年「被爆者健康手帳交付却下処分取消訴訟」では数回の審理を経て、最高裁は「旧植民地出身の被爆者を救済するのは日本国の国家的道義だ」として原告勝訴の判決を言い渡した。
 (3)98年から2002年にかけて開かれた「在外被爆者の被爆者援護法の適用」を求めた裁判では、大阪地裁・高裁共に訴えを認め、国は上告を断念した。当裁判は「被爆者援護法の平等適用を求める運動」に繋った。尚原告の韓国人Kさんは治療の為に来日していた。
 (4)07年三菱重工業に徴用された在外被爆者が起した裁判では、「国が在外被爆者を援護しなかったのは違法」として国に対し120万円の賠償を命じる判決が確定した。  

【1952年】
 4月28日台湾を統治する中華民国と日本が※日華平和条約を締結。同日※サンフランシスコ講和条約発効。――この年の4月26日日本で海上警備隊が発足し、講和条約が発効された当日サンフランシスコ郊外の米軍基地で、日本国内の米軍駐留を認める内容の「日米安全保障条約」が締結された。又7月31日保安庁法を公布し国内の治安維持にあたる方針が示され、翌8月1日保安庁を設置した(54年※自衛隊発足の経緯を参照)。アジア太平洋戦争に関与した政治家等の公職追放(令)が解除となり活動を再開させたのも当年である。
※日華平和条約
日本と中華民国間の戦争状態が終結した事を確認する為に締結された条約。合意には「被害者は戦争賠償請求権を放棄する」とした内容があり、後の※日中共同声明や慰安婦被害者訴訟等に大きな影響を及ぼした――※特記事項の(3)―4:被害者等による訴訟例の全般を参照。
※サンフランシスコ講和条約発効
 条約の発効により日本は主権を回復したが、沖縄と小笠原諸島(北緯30度以南の南西諸島)は返還されなかった為、沖縄県はこの日4月28日を「沖縄屈辱の日」とした。日本が主権を回復した事で在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を失った(※外国人登録令参照)。又解放された台湾の帰属先については未確定とした。
 尚当条約は、サンフランシスコ「平和」条約(会議も同様)ともよばれるが、ここでは平和を用いず講和で統一した。講和は「交戦国が戦争をやめ平和を回復する事」をいい、平和は「戦争がなく穏やかに治まっている事」をいう。

【1953年】
 6月25日板門店で※朝鮮戦争休戦協定を正式調印。
※朝鮮戦争休戦協定その後
 米ソ間で休戦協定が締約される迄の約三年間、内戦下にあった朝鮮半島は工場等は廃墟と化し、行政機関の施設や人等の物的被害は言うに及ばず、深刻な人的被害により凡そ5百万の南北朝鮮人が死傷したといわれている。南北を合わせて3千万いた朝鮮人の内6人に1人が死傷し、内百万人は非戦闘員で、非戦闘員への集団虐殺が多く行われた。1千万の家族が離散し3人に1人が家族と離れ離れになった。こうした状況を打開しようと粘り強く継続された休戦協議の結果、当年7月27日休戦協定の調印に至った。
 休戦後の北朝鮮では政敵の粛清を続けた金日成の独裁体制が築かれ、韓国では李承晩政権の強権政治が続き多くの韓国民が弾圧された。
 尚休戦協定締約後の8月8日「米韓相互防衛協約」が仮調印され、10月1日ワシントンDCで批准、11月17日に発効された。が休戦期限を無期限にした事が、米ソ間の冷戦に拍車をかけたといわれている。

【1954年】
 7月1日※自衛隊発足。9月20日中華人民共和国で第一回全国人民代表大会が開かれ憲法を制定、即日公布した。11月18日韓米相互防衛条約を発効。――この年ベトナムが南北に分断された。 
※自衛隊発足の経緯
   ・1950年8月10日陸上自衛隊の前身となる警察予備隊を設置
   ・  52年4月26日海上自衛隊の前身となる海上警備隊発足
   ――サンフランシスコ講和条約締結(4月28日)を経て――
   ・     7月31日保安庁法を公布
   ・     8月1日保安庁を設置
   ・     10月15日警察予備隊を保安庁保安隊に、海上警備隊を保安庁警備隊に改組
   ・1954年6月9日自衛隊法を公布
   ・     7月1日保安庁が防衛庁となり――保安隊を陸上自衛隊に、警備隊を海上自衛隊に改組し、航空自衛隊を新設して「自衛隊」を組織
【1956年】
 日ソが10月19日国交回復。12月18日日本が国連に加盟した(80番目の加盟国だった)。

【1958年】
 8月東京で※小松川事件が発生。
※小松川事件
 8月17日から行方不明だった都立小松川高校の女子生徒が21日遺体で発見され、翌9月十八歳の在日朝鮮人男性が逮捕された。加害者はもう一人の女性を殺害した罪で最高裁で死刑が確定し、1962年11月刑は執行された。日雇労働者の父親と耳に障がいのある母親との間に生れた加害者は、生れた時から朝鮮人部落の貧しい環境で育ち、日本名を名乗って、日本語以外は話せなかった。中学卒業後は国籍を理由に次々と就職を拒否され、結果小松川高校の定時制に入学、在籍していた。加害者は自分の境遇や置かれた環境に悲観しての犯行ではないと供述したが、犯行時期は在日朝鮮人の帰国運動が最盛期にあった。

【1960年】
 韓国で※四月革命。
※四月革命
 李承晩大統領は反共(反北朝鮮)を謳いながらも、国民が強く要求する民主主義体制や不敗の根絶、親日反民族行為者の粛清には消極的だった。基本的人権をも制限し、その上当年3月15日に控えた大統領選挙の選挙運動期間中、大邱で予定の野党の選挙演説を阻止する為、日曜日にも関わらず高校生を登校させる様に指示、又投票日前には40%超の自分の氏名を書いた投票用紙を投票箱に入れる不正が発覚した。反発した国民はデモを展開(登校を指示した日曜日が2月28日だった事から「2.28民主運動」ともいう)したが、デモを暴力で鎮圧させ様とする警察への抗議の声がデモの規模を拡大させ、韓国民は李政権を失脚に追い込み、民主化を実現させる歩みを本格化させた(ここ迄が※四月革命)が――後に大統領に就任する朴正煕ら一部の軍人が61年5月16日に引起した軍事クーデターと、63年12月の朴正権の誕生により、韓国民は独裁政権の支配下で窮する事になる。尚四月革命で失脚した李承晩はその後ハワイに亡命した。

【1961年】
 5月16日韓国で朴正煕を含む軍人らによる軍事クーデターが発生。

【1963年】
 12月17日韓国で※朴政権が誕生、再び独裁政権が成立した。
※朴政権
 日本の植民地支配、祖国解放後の混乱、そして朝鮮戦争という難局を克服した韓国だったが政治家の腐敗は続いた。その韓国に変革をもたらしたのが大統領に就任した朴正煕だった。朴政権は経済成長に力を注ぎ「経済五か年計画」を実施し、その実現に向け先ず肥料やセメント産業の成長を掲げ、韓国の南北を結ぶ京釜高速道路を開通させた。70年代には鉄鋼や造船、電機、自動車、重化学工業等が飛躍的な発展を遂げ輸出が増加し、80年代は“漢江ハンガンの奇跡”として知られる経済成長を達成した。朴政権の政策が経済を潤し、韓国という国家の存在を世界に知らしめた一方で……農村の疲弊や工場等で働く労働者の低賃金・長時間労働といった社会問題を引起した為、農民や労働者は格差解消を訴え社会運動を活発化させた。朴大統領は他に72年※維新憲法を制定し大統領の権限を大幅に強化し、軍事政権の長期化を画策したといわれる。

【1964年】
 この年日本は――沖縄と小笠原諸島の本土復帰を前に東京オリンピックを開催。東海道新幹線を開通させた。

【1965年】
 2月ベトナム戦争勃発。韓日間で6月※日韓基本条約と条約に付随する※四つの協定を締結し国交樹立。
※日韓基本条約
 国交正常化交渉は米国の要請で1951年から始められていたが、両国間の意見の対立が続き交渉は難航し、14年を要して当年6月22日条約は締結され国交は樹立された。条約締結後には両国で大規模な反対運動が起き、日本の反対意見は「条約は日米韓三国の軍事同盟化であり、日本が“また戦争に巻き込まれる”」とする意見が大勢を占め、韓国の反対意見は「条約の締結よりも、日本の過去の植民地支配に対する反省と謝罪が先で、反省と謝罪のない条約締結・国交樹立は“屈辱的な外交交渉”だ」とするものだった。
 特に問題になったのは1910年韓国の併合・日韓併合条約の合法性を巡る対立だった。日本側は「日韓併合条約は当然だが、植民地支配は併合条約に従って行われた事であるため合法」と主張。韓国は「全てが不法に進められた為、併合条約は初めから無効だ」とする主張だった。夫々の主張が解消されぬまま条約が締結された為、肝心要の「日韓両国の植民地支配に対する歴史認識」は今だ対立したままである。前文と本文7条からなる条約の主な内容(日本語訳)は以下の通り。
 ・第一条
 両締約国間に外交および領事関係が設置される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は両国政府により合意される場所に領事館を設置する。
 ・第二条
 1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることを確認する。

 英文で書かれた第二条の「already null and void」の“already”を両国が都合よく解釈した事で問題が生じ(alreadyは……すでに/もう/それ(今)までに等と訳す)、1910年締結の併合条約の正当性と不法性を巡る主張で対立したまま、日韓基本条約は締結された。が……2010年韓国強占(合)100年を迎えた日韓両国で構成の識者1千名は、韓国の併合について次の様な宣言をした。
 ・識者千名の宣言
 韓国併合は、大韓帝国の皇帝から民衆までの激しい抗議を、(日本帝国が)軍隊の力で押し潰して実現された文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である。――中略――条約の前文も偽りであり、条約本文も偽りである。条約締結の手続き、形式にも重大な欠点と欠如が見出される。かくして「韓国併合に至る過程が不義不当」であると同様に日韓併合条約も不義不当である。
 ――日韓両国政府と国民はは次の様な見解・認識を(現在も大きく)示している。
 ・日韓併合の日本の見解
「日本政府は韓国との併合条約を合法と考え、植民地支配については多大な損害と苦痛を与えた道義的な責任がある」……とした一方である政治家はこう主張する。「韓国併合は韓国側も認めたもので、東洋平和の為に行い、朝鮮の発展に多大な貢献をした」
 ・韓国併合の韓国の認識
「日本の植民地支配と併合条約は共に不法であり、大韓帝国の皇帝と民衆の意思を無視した、日本の力によって強制的に締結された条約であり、又条約には皇帝の署名がなく、刻印は国を代表する正当なものではない。そもそも日本側の代表である統監府は、非合法な手段で締結された※乙巳条約により設置されたもので、統監(統監府長官)は正当な代表者にはなれないのだ」         
※四つの協定
 (1)漁業協定 (2)財産及び※請求権協定と経済協力協定 (3)在日韓国人の法的地位協定 (4)文化財及び文化協力についての協定
 財産及び請求権と経済協力協定(2)の内容には、「日本と韓国間の個人賠償請求については完全かつ最終的に解決した」とあり、個人への賠償については「韓国政府が行い国内で負う」とした。
 ――※請求権協定
 〇第一条
 韓国に対して日本は「10年にわたり無償資金3億ドル(1080億円)と、無償借款2億ドル(720億円)にあたる生産物及び日本人の役務を年利率3,5%/7年据え置きとして、償還期間20年で供与する」
 ――韓国内の反対勢力に対し韓国政府は「3億ドルの無償資金は植民地支配と関係のある“賠償金的な性格を持つもの”」と国会等で説明(弁明)したが、強制徴用被害者のうち死亡者8千5百人余りに25億ウォン(約2億8千万円)を支給するに留まり、無償資金の大半は港湾や道路、鉄道、ダム、工場の建設資金等に充てた為、国民の反発を招いた。
 〇第二条
「両国とその国民の財産・権利及び利益と請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたことを確認する」
 ――日本政府は第二条の内容に基づき“賠償問題は解決済み”とし、一方韓国政府も当初は“解決済み”として「請求権協定に従い、韓国内で個人賠償を行う」とした。だが存命の元徴用工や元日本軍慰安婦等を賠償の対象者から外した事から、1980年に入ると被害者らは、日本政府や同企業を相手に謝罪と個人賠償を求めて提訴を始めた。すると解決済みとした韓国政府は、「国家間では解決したが個人が訴える権利はあり、その代り韓国政府は関与しない」と方針を転換させた。結果裁判が相次ぎ、韓国の裁判所では次々と賠償を命じる判決が下され、日本の裁判所では地裁から最高裁まで異なる判決がいい渡された(※韓国強制労働被害者裁判例&(3)―4:被害者等による訴訟例を参照)。
 日本国内では請求権協定にある「日本と韓国間の個人賠償請求については完全かつ最終的に解決した」とする内容や、2015年の※日韓合意で、(植民地支配時代の問題すべてを)「最終的かつ不可逆的な解決とする」と確認した事を根拠に――謝罪の意思を示しもせぬまま――「国家間の合意によって解決された」とする考えが2024年現在も多数を占める。韓国内では(前記・韓国併合の勧告に認識のとおり)そうは取らない声が圧倒的である。
 その様な中で韓国尹鍚悦ヨンソンニョル政権は2023年3月「日本企業に代り、※日帝強制動員被害者支援財団を通じて被害者へ賠償金を支払う(肩代わりする)」事を決定した。そして24年現在韓日関係の修復を図り、懸念される北朝鮮情勢を柱に種々軌道修正が講じらている。一方で北朝鮮の植民地時代の清算は皆目進んでいない。

【1966年】
 1月在日韓国人の※協定永住申請の受付始まる。
※協定永住申請
 日韓基本条約締結の際に定めた日韓法的地位協定により、日本政府は「在日韓国人に対して協定永住権を与える」とした申請を受付。申請期間とした5年間で約35万1千755人が申請し、34万2千909人が認定されて協定永住権が許可された。後の――82年1月には韓国・北朝鮮籍を問わず「戦前から日本に居住していた者に限って永住権を与える」とし、91年11月には日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)に基づき「日本国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」の施行で日本国籍を喪失した人々を“特別永住者”として「特別永住者証明書を発行する」とした。

【1968年】
 6月26日小笠原諸島が本土復帰を果す――が沖縄(沖縄諸島と大東諸島)の※返還交渉は合意に至らず。
※返還交渉不成立
 1965年2月から行われた返還交渉だったが、※ベトナム戦争終結の見通しが立たず長期化が予測された事で、物資の補給や攻撃基地の要であった沖縄の本土復帰は叶わなかった。沖縄の返還が決定したのは翌1969年で、実際の返還は、ベトナム戦争終結の約一か月後の1972年5月だった。

【1971年】
 10月25日中華民国に代り中華人民共和国が国際連合に加盟。国連総会で代表権が認められ、※唯一の中国として常任理事国入りした。台湾の中華民国は国連を追放された。

【1972年】
 5月15日沖縄の本土復帰が実現。9月※日中共同声明。12月韓国で現行憲法を※維新憲法に改正。
※日中共同声明
 9月29日田中角栄と周恩来両首相の調印により、戦争状態の終結と戦争賠償請求権の放棄、※国交回復三原則が確認された。日本は戦争の反省を表明し中華民国との断交を宣言、結果中華人民共和国と日本の国交は正常化された。――戦争賠償請求権の放棄とは「国家間の賠償請求権を破棄する内容」で、(※日華平和条約と異なり)個人の賠償請求権はうたっていない。国交回復三原則とは次の内容を確認した原則である。
  (1)中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府である事
(2)台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である事
(3)日本が中華民国と締結した日華平和条約を破棄する事
※維新憲法
 12月27日当憲法の制定により、朴政権は韓国民が願う民主化を阻止するべく大統領の権限を大幅に強化。又新憲法への批判を禁止し、批判的な学生が在籍する大学に対し「休校令」を発して学校を閉鎖し、又民主化運動家らを北朝鮮のスパイと決めつけ冤罪で死刑にする等、個人の権利と自由を奪う事で――長期政権を維持する為に改正した憲法といわれている。結果がもたらしたのは、デモの対応を巡る政権内の対立であり、朴正煕は79年10月26日部下で側近により射殺された。韓国民の民主化を願う機運は高まった一方で、朴の死後も軍事政権は尚も続いた。

【1975年】
 4月※ベトナム戦争終結。11月21日昭和天皇が最後となる※靖国神社を参拝。――本年の4月5日中華民国永久総裁蔣介石が死去。  
※ベトナム戦争終結
 4月30日サイゴンの南ベトナム大統領官邸(現ホーチミン市の統一会堂正門)に北ベトナム軍の戦車2台が突入、最後まで残っていた米兵がヘリで官邸を脱出、南ベトナム政府が無条件で降伏。約十年二か月続いたベトナム戦争は終結した。
※靖国神社
 戊辰戦争の際に新政府軍・天皇側について没した3千5百名を祀る為に、1869年明治天皇が勅命を発し且つ土地を下賜して建立させた、東京招魂社が前身の神社(前年に※神道国教化策が公布されている)で、1879年6月4日靖国神社に改称された。その靖国には「心配がなく静かで穏やかな国にする」という意がある。が……後の日清、日露、(大東亜戦争)=アジア太平洋戦争等過去の戦争で戦死した(英)霊を祀ると、その対象は拡大していった。
 日清戦争開戦からは、戦死者を神として祭る為の「天皇主催の臨時大祭」を繰返し開催し、遺族を国費で招いて“神となった子の親”として手厚く持て成した。1871年5月14日大政官より郷社定則が布告されると、同年7月4日神社・神職は序列体制となり、靖国神社は国家神道体制の中で「別格官幣社」に昇格して、大日本帝国陸・海軍が管理するようになった。以降靖国は「天皇の御国を守る為に命を落した者が、神となってもう一度、天皇の御国を守る神社」という新たな神話が国全体に浸透していき、戦時期には「戦争で死んでも靖国で神様として祀られる、だから死を怖れずに戦うのだ!」という機運を煽る神社として認知され、結果「死んで靖国で会おう」という言葉が世に広がり、靖国神社は別格の神社としての役目を果たした。
 学徒出陣や大東亜戦争、国民精神総動員等にもいえるが、当時の日本は言葉による誘導で、国民の精神を操作しようとする傾向が強く、靖国神社はその一端を担い又努めを果した。とする一方で、「死んで靖国で会おう」とは、合い言葉・挨拶の代りに使った、或は現代社会の日本人と同じ様に流行語・流行り言葉だったとする見方もある。※大戦後の靖国神社は、国民との関係性や神社としての役割、又宗教施設としての存在意義について国内外で物議をよんでいる。一方で代表的な大鳥居を始めとする靖国神社は、周辺施設の観光の拠点として、又庶民の憩う場として、国内外に愛されている。
 ――※大戦後の靖国
 靖国神社には1978年10月17日からアジア太平洋戦争を率先して遂行したとする“A級戦犯14名”が祀られている。神社を参拝したり、供物を奉納する総理大臣等に対して中国や韓国民は「戦争を引起こした者(A級戦犯)に敬意を表する行為は、侵略戦争を肯定する行為だ」「A級戦犯は戦没者ではなく、死刑を執行された犯罪者である」「靖国は戦争を美化する象徴」等と激しく抗議し、国内でも「政教分離の原則に反する」等の批判を受けつつも、国民の代表的・象徴的な神社として現在に至る。
 靖国には、戦争に動員された朝鮮人約2万1千名や台湾出身者等も合祀されている――が、2001年韓国の遺族55人が合祀の中止を求めて、日本政府を相手に裁判を起すも、靖国側は「戦死した時、日本人だったのだから、死んだ後も当然日本人であり、日本の兵士として死ねば靖国の神として祀られる」との見解を示し、裁判所は「合祀は宗教法人である靖国神社が行った事で、政府は何もできない」と遺族側の訴えを退けた。
 首相の立場で初めて公式参拝したのは1985年中曽根康弘氏であったが、2013年12月26日安倍晋三首相が参拝を強硬すると、中韓政府は猛烈に反発。これに対し安倍首相は「中国と韓国は以前は抗議していないかった」「AB級戦犯の合祀は靖国神社が密かに行った事」と反論した――。確かに靖国神社の総代会で最終的な合祀は決定されたが、1959年4月春季例大祭の際に、引揚援護庁・引揚援護局復員課が「BC級戦犯の合祀を求めて祭神名票を提出」しており、又厚生省は1966年靖国神社に対して「A級戦犯を合祀するよう祭神名票を提出」している為、安倍氏のいう“AB級戦犯の合祀は靖国が密かに行った”とする反論は、極めて信ぴょう性を欠く発言と指摘される。
 憲法20条は「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」として、政治と宗教の分離原則を定めており、公人としての宗教施設の参拝を禁止している。靖国側はといえば、アジア太平洋戦争を「自存自衛の為の戦争だった」としており、その自衛の為の戦争を引起したとするA級戦犯の合祀が決定された当時、神職の最高位にある(第六代)宮司をつとめていたのが自衛隊出身者だった。そして2024年4月1日、二人目となる自衛隊出身者で且つ初めての将官(少・中・大将)経験者が靖国神社の宮司に就任した。現役自衛隊員でいえば、同年1月に陸上自衛隊幕僚副長ら幹部が公用車で集団参拝した事が明かとなり、23年には海上自衛隊練習艦隊司令官と初級幹部(一般幹部候補生過程の修了者)ら165人が、「航海に先立ち正式に参拝した」と明かにした。
 1975年11月22日以降、靖国神社の参拝を取止めた昭和天皇は、1988年A級戦犯の合祀に反対するコメントを発し、又A級戦犯の合祀を理由に参拝を取止めた事を明かにした。戦後八回に渡り靖国神社を参拝した昭和天皇は、私的な立場で参拝したという。

【1976年】
 7月2日月南北ベトナムが統一。中国で1月8日周恩来が、9月9日毛沢東が死去。

【1978年】
 12月16日米中が※共同コミニュケを採択。8月※日中平和友好条約締結。
※共同コミニュケ
 翌年の79年の国交樹立に向けて米中は――▽中華人民共和国を中国唯一の合法政府とする▽中国は一つ▽台湾を中国の一部とする、声明書「共同コミニュケ」を採択し発表した。共同コミニュケとは、飽くまでも(国交正常化の実現に向けた)両国間の交渉における“経過の声明書を作成する事を目的”とした交渉である。 
※日中平和友好条約
 ▽日中相互の領土保全を尊重する事▽相互不可侵▽内政不干渉を確認し、恒久的な平和友好関係を構築させるとして締結された条約。8月12日北京で調印し同月23日発効された。

【1979年】
 1月1日米中が国交正常化。10月26日韓国の朴正煕が殺害される。――この年日本で元従軍看護婦が対象の慰労給付金支給事業が開始された――(1)従軍看護婦と医療事情を参照。

【1980年】
 韓国で5月※5・18広州民主化運動。
※5・18広州民主化運動
 維新憲法の改正と軍事政権打倒を掲げた韓国内の民主化運動。9月に大統領に就任予定の全斗煥チョンドファン主導の軍部は韓国全土に厳戒令をしき、厳戒軍の名の元に民主化運動を弾圧、多くのデモ参加者を無差別に殺害した為、韓国民は自衛の為に武器を持ち市民軍を組織し反攻した。がデモ鎮圧の為に厳戒軍は更なる軍事力を行使し、民間人数千名を死傷させるなどして、十日間に及んだ抗争5・18広州民主化運動は鎮圧された。が……韓国民は民主化と自由を求めて再び決起する(87年※6月民主化運動を参照)。

【1981年】
 日本で元陸海軍看護婦が対象の慰労給付金支給事業を実施。

【1983年】
 大韓航空機撃墜事件が発生。

【1985年】
 日本で日航ジャンボ機墜落事故が発生。――この年日本で青函トンネルが開通した。

【1986年】
 ソ連チェルノブイリ原発で大事故発生。

【1987年】
 韓国で※6月民主化運動起る。
※6月民主化運動
 1980年9月1日の韓国大統領就任後から独裁政治を続けてきた全斗煥は、民主化運動を牽引する学生や民衆を投獄して拷問し、その事実を隠蔽する為に警察や検察に対して、事件を操作=隠蔽するよう指示した。が大学生はビラ配りやデモを続け、自死によって民主化への強い意思を表す者さえいたほどだった。その様な意思を表す学生らの抵抗に市民が加わり、6月民主化運動は全国規模に拡大していき、遂には全斗煥政権を帰順に追い込み、大統領の直接選挙が可能となるよう憲法が改正された。多くの命を犠牲に、韓国民の意思と声と行動により開かれた民主化運動である。

【1988年】
 韓国で9月17日―10月2日ソウルオリンピックを開催。

【1989年―平成1】
 6月中国で※天安門事件。11月9日独で※ベルリンの壁を崩壊。
※天安門事件
 4月15日に死去した胡耀邦元共産党総書記を追悼する為に、翌16日天安門に集結した北京市民が次第に「民主化を求める声」に変った事で、6月3日深夜中国軍は武力行使による鎮圧に出た。戦車を出動させるなどの攻撃で、学生を含む市民1万名以上が亡くなった事件である(当局は319人と発表)。尚1976年周恩来の死去後に発生した“四五天安門事件(花輪を撤去した当局に反発した市民が、“四人組政権(体制)”の退陣を求めて集団化し、武力鎮圧された事件)”と区別する為、当該事件を六四天安門事件/第二次天安門事件ともいう。
※ベルリンの壁
 1961年8月13日にソ連が計画し東ドイツ政府が設けた壁である。当時米国と対立していたソ連は東独で社会主義専制政治を確立する為、“国民の逃亡を防ぐ必要がある”と考えて作られた。その壁が約28年2カ月間ぶりに東西ドイツ国民の手により取り壊された。 

【1990年】
 9月30日韓ソが国交を樹立し、シベリア抑留韓国人の帰国が可能となり韓国籍の付与が実現。10月3日東西ドイツが統一を果す。

【1991年】
 1月※湾岸戦争勃発。3月14日広島アジア大会に向けて整備中の「広島新交通システムの橋げた落下事故」発生。6月3日雲仙普賢岳が噴火し大規模火砕流が発生、記者や消防団等43名が犠牲に。韓国で8月14日※金学順氏が日本軍慰安婦だった事を告白(※元日本軍慰安婦被害者の戦いを参照)。9月18日韓国と北朝鮮が国連に同時加盟。12月2日月ソ連邦が解体され消滅。
※湾岸戦争
 1990年8月2日クウェートに侵攻したイラクに対し、米国を中心とする多国籍軍が攻撃。翌91年2月28日イラクが撤退した事で停戦した。日本は資金支援で貢献する為、臨時増税を行った。

【1992年】
 韓国で1月8日※水曜デモ始まる。1月11日日本で日本軍慰安婦に関する防衛庁公文書を発見(※防衛庁公文書の発見を参照)。11月韓国ソウル市内で※ナヌムの家が運営を開始。8月24日韓中が国交樹立。日本で9月17日PKO法案の施行を受けて自衛隊がカンボジアへ出動。 

【1993年】
 8月4日河野洋平官房長官が※河野談話を発す。

【1994年】
 7月8日北朝鮮の金日成死去。

【1995年】
 1月17日午前5時46分阪神淡路大震災が発生。3月20日オウム真理教による地下鉄サリン事件発生。7月米国とベトナムが国交を正常化。

【1996年】
 10月20日日本で小選挙区比例代表並立制による初めての国政選挙(衆院選)を実施。12月17日ペルーで日本大使館公邸占拠事件。――この年バブル経済が崩壊したといわれている。

【1997年】
 7月1日香港が英国から中国に返還。日本で2月10日神戸連続児童殺傷事件発生。日本で4月中学校の97年度歴史教科書全てに「日本軍慰安婦の記述」を掲載。

【1998年】
 2月7―22日長野オリンピック冬季大会を開催。7月25日和歌山毒物カレー事件発生。

【1999年】
 8月9日月日本で国旗国歌法案が成立――政府提案から二か月足らず、十六日間の審理の末に。

【2000年】
 12月東京で※女性国際戦犯法廷を開催。

【2001年】
 1月26日韓国人留学生の李秀賢イ・スンヒョンさんと日本人カメラマン関根史郎さんが東京JR新大久保駅にて昇天、義死。9月11日米国で同時多発テロが発生、2977名が犠牲となり2万5千人以上が負傷した。

【2002年】
 9月17日日朝首脳会談で※平壌宣言を発表。会談に基づき日本人拉致被害者五名が10月15日帰国を果す。――この年の5月31日―6月30日韓サッカーワールドカップが共同開催された。
※平壌宣言
 小泉純一郎首相と金正日国防委員長(総書記)の両首脳会談では次の内容が決定された。
 ・国交回復交渉を行う事  ・日本は植民地支配の謝罪をする事  ・北朝鮮は拉致問題の謝罪を行う事  ・両国は東アジアの平和安定に努める事
 以上を踏まえて小泉首相は――「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明する」とした。

【2005年】
 韓国で12月1日「真実・和解のための過去事整理基本法」を施行。

【2009年】
 3月日本で政権交代、民主党政権が発足。 

【2011年】
 3月11日東北太平洋沖地震・東日本大震災が発生。福島第一原発事故。

【2012年】
 09年韓国の公職選挙法改正に伴い在外永住者(韓国籍の※在日コリアン等)が選挙権を獲得し、4月11日初めてとなる韓国の国政選挙に参加した。日本で12月16日自民党が政権復帰、民主党政権は三年三か月で終了。
※在日コリアン
 韓国人と朝鮮人を区別する事で、対立や分断や差別が生じる恐れがあるとして使われた言葉であるが……在日コリアンという身の上を知られない様にして、生きてきた(生きている)方が大勢いる。日本人から受ける差別や暴力、虐待や偏見等を恐れた為である。
【2014年】
 日本と北朝鮮が5月26-28日※ストックホルム合意。
※ストックホルム合意
 日本政府は拉致被害者の帰国と、他にも在北朝鮮日本人がいた場合には即時帰国させるよう強く要求。一方北朝鮮側は経済制裁の一部解除を要求。合意されたが――▽北朝鮮の指導者の交代▽拉致問題を解決済みとする北朝鮮の構え▽核兵器やミサイル開発等の諸問題が妨げとなり、2024年現在進展がないままである。

【2015年】
 12月※日韓合意。――この年は日韓国交正常化50周年だった。
※日韓合意とその後
 ・12月28日米国の仲介で行われた安倍晋三首相と朴槿恵パククネ大統領による15分間の電話首脳会談で合意した「慰安婦合意」をいう。両首脳は「従軍慰安婦の日本軍関与と政治責任を認め、日本政府が10億円を拠出し、韓国政府が和解・癒し財団を設立(設置は翌16年8月)して被害者に対し現金給付等を行う」事で“最終的かつ不可逆的な解決に至ったとする”事を確認した(不可逆とは「ある方向だけに向かい元の状態に戻さない」の意)。尚電話会談に先立つ同年11月1―2日開催の「日中韓サミットの際に行われた日韓首脳会談」で、両首脳は慰安婦問題の決着に向け協議を加速させる事で一致していた。ところが………
 ・2017年5月10日:大韓民国第20代大統領にした文在寅ムンジェイン大統領は、当年12月「慰安婦合意は慰安婦の意を組んでおらず、(慰安婦合意は)前朴政権の誤り」だとして合意を認めない声明を発表。これに対し日本の世論調査は、「納得できない85%・納得できる8%・どちらとも言えない7%」だった。更に文大統領は翌18年11月、(国内の女性団体等の意向に沿い)和解・癒し財団を解散させ、21年には財団の解散を「韓日両政府の合意だった」と虚偽の説明を行った。
 ・2021年4月:日本政府が「従軍慰安婦ではなく、慰安婦との表現が適切」との答弁書を閣議決定すると、教科書会社は従い修正した。
 ・2022年4月:次期韓国新政権の外相候補朴振パクチン氏は、日韓慰安婦合意について「韓日政府の公式合意」との認識を示し、「最も重要なのは被害者の名誉と尊厳を回復する為に両国が共に努力する事」と述べると、韓国世論は尹次期大統領の日本寄りの考えに厳しい声が上った。
 ・2022年5月10日:韓国新大統領に就任した尹鍚悦は翌23年3月21日、強制動員の被害者に対する補償金を※日帝強制動員被害者支援財団を通じて支払う事を決定。
 ――※日帝強制動員被害者財団
 韓国政府傘下の当財団は、強制動員の真相究明を行う事で正義を実現し、被害者や犠牲者とのコミュニケーション・治癒・支援等を通じた寄り添いと共感を目指して、2014年6月2日に設立された。尹政権は元徴用工、元女子挺身隊等強制動員の被害者に支払う賠償金を、日本に代り財団が支払う(肩代りする)事を決め実行に移した。
 ・参考<朴槿恵氏は保守系政党「セヌリ党=現自由韓国党」、文在寅氏は革新系政党「共に民主党」、尹大統領は保守系政党「国民の力」の政治家(であった)。
  
【2023年】                                
 ・12月27日………大韓民国の俳優、“My Dear Mister”――이선균/イ・ソンギュルさんが昇天す。                  
                      【2024年】
 ・3月14日:デンマーク政府が徴兵期間を現行の四カ月から十一カ月に延長し、26年より女性を徴兵の対象にする事を決定した。女性が徴兵の対象となるのは――2015年開始のノルウェー、2018年開始のスウェーデンに次いで3カ国目となり、三国は男女同権先進国として知られている。
・4月11日付:防衛省に「満州事変陸軍衛生史」が存在する事が公となる。これは日本政府主導で「慰安婦設置基準」に基き、慰安所の設置・管理・女性の移送を強制的に行っていた事を表す資料である。 
・9月5日:日本政府が存在を否定しきいた、浮島丸の乗船者名簿の一部を韓国政府へ提供(※浮島丸を参照)。
・――中国上海の「海軍指定慰安所」に送られ強制的に慰安婦にされた日本人女性15名が起した裁判の判例(大審院刑事裁判例)が、国立国会図書館から日本政府内閣官房に送付される事が(9月10日に)判明。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>



【※特記事項】――目次
 (1)従軍看護婦と医療事情   (2)強制連行と強制労働/徴用工__【在日朝鮮人と在朝鮮日本人の人口推移】  
 (3)―1:従軍慰安婦と慰安所の悪しき歴史   (3)―2:慰安所の仕組みと従軍慰安婦   (3)―3:被害者の証言  
 (3)―4:被害者等による訴訟例   (3)―5:近年の韓国の動き   (3)―6:近年の日本政府の主な動き等  
 (3)―7:植民地支配と侵略戦争に関る政治家等の発言   (3)―8:慰安婦問題に対する国際社会の勧告等

(1)従軍看護婦と医療事情
※軍の救護活動
 1877年(明治10)西南戦争の際に戦争における救護を主な目的として博愛社が設立され、1886年ジュネーブ条約=赤十字条約の締結を機に日本赤十字社に改称された。日清戦争開戦時には全国の看護婦や看護婦学校に募集をかけ、総勢690名で戦争救護にあたり、日露戦争では三倍近くに増員されたが、どちらも国内の陸軍病院に限った活動だった。初めての国外の救護活動は第一次大戦中で(英仏露も別途活動した)、日本人看護婦は高い評価を得たといわれている。尚看護婦は女性をさし、男性を看護士(以前は看護人だった)とした。

※医療機関と役割
「隊包帯所」では衛生部員や補助担架兵が初期治療にあたり、「野戦病院」は5百名程度が収療可能で完全治療を目的とし、「兵站病院」の収療能力は1千名で且つ野戦病院と同様に「前方の衛生機関の治療を補助する中間病院的役割」を担ったが、戦局の悪化に伴い次第に野戦病院よりも前線に設置される様になった。1944年以降は赤十字協約違反の兵站病院への攻撃が激化した為、又※ビルマ離反の影響から、ジャングル内に柱の代りに竹を使い骨組みをくみ、アンペラ(植物)を屋根や壁の代りにした「アンペラ病棟」で対応した。又当初の兵站病院は“現在の市立病院と同規模”だったという資料がある。他には特殊な治療を要する患者や防衛に対応する為の後方医療機関の「陸海軍病院」が存在し、国内よりも外地の方が立派だったという。尚日赤救護班は※病院船※陸・海軍病院、兵站病院で勤務にあたり、特別な理由がない限り野戦病院での勤務はしない決りがあった。一方で外地の病院を受診するのに、食糧を持参しなければ傷病兵を受け入れない医療機関もあったという。
 ――※ビルマ離反の影響
 英国からの独立を支援したビルマが1945年3月離反し、ビルマ国民軍による日本軍への攻撃(大型爆弾や焼夷弾、目標命中後に多数の弾が飛び散る榴散弾による)で兵站病院は閉鎖に追い込まれた。ビルマはフィリピンと並ぶ激戦地として知られているが、陸軍病院の設置はなかった。
 ――※病院船
 船内のケアは病床看護の他に、精神錯乱状態になって暴れたり自殺の恐れのある兵士の監視が重要だった。本来は内地への傷病者を輸送する目的で使われたが、戦争末期になると、武器や弾薬等の輸送に使った為標的にされた。又内地へ送還する患者の対象は結核性疾患、感染症、脚気患者を主としたが帰国できない患者の方が遙に上回った。
 ――※陸・海軍病院
 一・二等と三等があり三等は甲乙に分かれ、一等は2千名、二等1千名、三等の甲は2百・乙70名程度の収療能力があった。
 
※外地への派遣先の事情
 日赤救護班は20名単位で1班を構成し、1937年7月から45年8月迄に――外地に1366班、病院船に307班、内地に1831班が派遣された。
 地図によると外地の派遣先は、北から――樺太、チチハルとハルビン(共に満州国)、朝鮮、中華民国、台湾、ビルマ、タイ、仏印、マレー、フィリピン、シンガポール(昭南)に及んだ。又表記によると北支那、中支那、南支那、満州国、樺太、朝鮮、台湾、フィリピン、ビルマ、仏印、タイ、マレー、南西方面・中南太平洋方面及び病院船に派遣され、外地に向う日赤救護班は広島と山口(下関)に集合した。
 日中戦争からアジア太平洋戦争の外地及び病院船での国・地域別の、救護班数の内訳は以下の通り。戦況と比例して変化した事がわかる。
 ・1937年:中国北支20/中支21/満州(国)3/病院船48―――以下満州とする。その満州南部は“後方医療”機関に位置づけられ、重傷患者が移送された。
 ・  38年:中国北支22/中支23/満州3/病院船54
 ・  39年:中国北支29/中支35/満州6/病院船68
 ・  40年:中国北支29/中支35/南支2/満州9/病院船41
 ・  41年:中国北支34/中支33/南支2/満州27/病院船62
 ・  42年:中国北支17/中支20/南支12/満州24/台湾10/フィリピン4/ビルマ8/仏印4/タイ2/マレー7/南西方面5/病院船14
 ・1943年:中国北支41/中支40/南支3/満州44/朝鮮2/台湾16/フィリピン16/ビルマ11/仏印2/タイ3/マレー14/南西方面12/中南太平洋方面16/病院船16
 ・1944年:中国北支33/中支50/南支5/満州56/樺太1/朝鮮7/台湾13/フィリピン20/ビルマ16/仏印2/タイ2/マレー10/南西方面13/中南太平洋方面12/病院船2
 ・1945年:中国北支49/中支60/南支5/満州55/樺太1/朝鮮8/台湾19/フィリピン19/ビルマ16/仏印6/タイ9/マレー10/南西方面13/病院船2
 ・1946年:中国北支45/中支60/南支5/満州17/台湾18/フィリピン8/ビルマ5/仏印6/タイ9/マレー7/南西方面9
 ・  47年:満州1=ソ連から引揚げた1個班である。   

 ※派遣救護員と殉職者の数
 外地派遣が始った第一次大戦以降の日赤救護員(医師・看護婦・薬剤師・書記・看護人・使丁)の派遣者数と殉職者数は次の通り。
   ・第一次世界大戦:派遣291人/殉職者0
   ・シベリア事変:派遣361人/殉職者3名  
   ・満州及び上海事変:派遣685人/殉職者0 
   ・日中戦争及びアジア太平洋戦争:派遣35,785人/殉職1187名

 ※従軍看護婦の役割
 看護婦は――診断助手・病棟日誌記録係・処置係・事務係・被覆係等を分担し、戦傷病兵の処置としては病床準備、創傷処置、止血、消毒滅菌、栄養摂取、担架移送、環境整備、副木づくり等に及び、担架移送は病室や手術室への患者の搬送や医极(イキョウ。医薬品の入った救護トランク)の移動は重労働だったという。戦況が比較的有利な状況下では、軍の要望により日赤救護員は輸送船や病院船で歌を歌ったり、演芸を披露して厚遇されたという話がある。
 患者は先ず発着所に運ばれて、一報患者=軽症者、二報患者=重傷者、三報患者=危篤状態、四報患者=死亡に区別した後、病院に運んだ。看護婦が不足すると、現地で※臨時看護婦を徴用し看護指導を施して、注射や包帯法処置、止血、バイタルチェック、マラリアやデキモノの治療にあたらせた。白衣は敵の的となる為、草木を使い濃緑色に染め看護にあたった。一方医師不足を補う為に、看護師は簡単なテストを受けて“医師”になり、最前線で治療にあたり手術も行った。又▽竹やり訓練への参加▽死に際の作法(天皇陛下万歳を三唱する)等を患者に教える▽手榴弾二個を使用しての自決訓練を患者に施す▽自決用の青酸カリの配布も行った。日中戦争以降の日赤救護班は陸軍省医務局医事課担当となり、軍属扱いとなった。国際条約の定めで「看護婦は戦場では軍の指揮下に入る」とされていた為だという。
 ――※臨時看護婦
 1890年から昭和初頭迄は、国内の赤十字病院で養成を受けた後に看護婦になったが、日赤救護班には衛生要員が不足した場合は「現地人を教育し雇用する」との定めがあり、ビルマのハイスクールの例を挙げると、三か月程度の救急法と簡単なテストを実施し看護婦として採用して、現地の派遣先で軍医や日赤看護婦により実践教育が行われた。又朝鮮人女性の例では、タイのバンコクで軍警察に入り軍属扱いとなり、その後アユタヤ陸軍野戦病院で看護助手として働き、後に命令で一か月の教育を受けて臨時看護婦として採用されたとある。

 ※病棟看護
 内科病棟ではマラリアや脚気(ビタミンB1の不足で心臓や神経系に異常を来たし足が象の様になる)の患者が多く、脳症患者は錯乱と転倒防止の為に手足を制御=拘束して看護にあたった。アジア太平洋戦争全体で※精神障害を患った軍人・軍属は約67万人いたといわれ、ソ連軍の満州侵攻で激増したという。又伝染病室ではアメーバ赤痢やコレラ、結核、痘瘡=天然痘、マラリア、カラアザール患者、ハンセン氏病患者等を収容したが、皮下注射で対応するしか治療法はなく、火傷の患者は水泡が破れて滲出液(水泡内の液)が流れ出る患者が多くい、ウジ療法では傷口の「病原菌をウジに食べさせ」菌を除去してからピンセットでウジを取除いた。
 ――※精神障害
 内因性の精神障害は統合失調症、うつ、精神衰弱症(記録通りに記載)、分裂症等に分かれ、心因性では現在でいう心的外傷後ストレス障害=PTSD(ベトナム戦争終結後に帰還した米兵の診断課程で名づけられたストレス障害)、恐怖症性不安障害等であった。――イラクのPKO活動では54名が精神障碍で自死したという。

※死と向き合う
 従軍看護師の死因は開放性結核や急性伝染病が多く、自死を選ぶ者も数多くいた。ソ連の侵攻により満州や朝鮮半島の関東軍が敗走すると、一気に終戦へと向かうと思われたが、中国や朝鮮半島の治安は著しく悪化し、略奪や暴行が横行した。その為重傷者は青酸カリを使って死なせ、患者は見捨るしかなく、躊躇せずに自死を選ぶ看護婦も多かった。激戦地フィリピンのムニオス分院では飢餓地獄に苦しみ、又コレラや発疹チフスの患者はみるみる重篤化し、治療薬が無く根治を望めなかった為、見るに見かねて※昇汞水の静脈内注射や、モルヒネ等の薬剤を使い死なせたといわれる。
 日本はジュネーブ条約にある「撤退時戦地の重傷者を敵の保護に委ねる」という内容を、日本軍独自の“軍の衛生勤務に関する規定”に定めていたが、1940年に規定を削除し、作戦要務令で、何が何でも「敵の手に委ねてはならない」とした。軍人勅諭の※戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神の表れである。戦陣訓は広く国民にも浸透しており、故に国民の多くが自死を選んだのだった。
 ――※昇汞水
 しょうこうすい。毒薬の塩化第二水銀(ミズガネ)。昇汞に食塩を加え水で溶かしたもので毒性が強く、当時消毒液として使っていた。
 ――※戦陣訓
 1882年(明治15)1月4日「明治天皇が陸海軍人に下賜した十六項からなる『軍人勅諭』を基」として、その実践を目的に、軍人として取るべき行動規範を示した文書をいう。軍人勅諭と戦陣訓には次の様に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ。」と書かれていた為、軍人に限らず民間人の多くが勅諭(天皇が下した言葉)に従い進んで自死を選んだ。又軍人勅諭には――「戦陣苟イヤシクも酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。」とある。勅諭に従えば、慰安婦を従軍させる事や性暴力や慰安所の設置等は、明治天皇の意に逆行する行為・計画であり、当時の日本軍は軍人勅諭に背信する行為を行っていた事になる。尚戦陣訓は1914年1月8日陸軍大臣東条英機が通達した軍人としての心得を示したもので、以下は戦陣訓の主要部である。
   ・身心一切の力を盡ツクし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
   ・恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々イヨイヨ奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ。

※敗戦後の看護師と帰国の事
 日本の敗戦とソ連軍の満州撤退により、八路軍と国民党軍は満州を主戦場に国共内戦を再開させた。その際中国抑留の日本人医師や看護婦等の救護員の多くが、両軍に留用された。八路軍が管轄する医療施設は医療環境や看護体制が整っておらず、且つ看護婦不足で看護技術も低かった為、日本人看護婦は指導するよう命令された。中には指導する中国人看護婦に※日本鬼子と馬鹿にされ、指導をしても聞く耳を持たなかった事が多くあった――(八路軍は人民解放軍をいうが、当時日本人が呼んだ通りここでは“八路軍”の呼称を用いる)
 八路軍の日本人看護婦は1947年華北から華中へ同行させられ、内科診断・骨折・簡単な手術(切断術が主)等の外科的治療にあたった。一方国民党軍でも技術の高い日本人医師や看護婦を探し出して留用したが、暴行を加える等乱暴な扱いに堪えかねて、脱走を試みる救護員や技術者が多発した。その為国民党軍は軟禁様状態にして外出を厳禁とした部隊が多数に上り、一方八路軍では消息不明になった救護員が著しい数に上った。
 民間人や看護婦も含めた日本人女性の中には、慰安婦としてソ連軍に提供されたり、拉致等の事件に巻き込まれて、帰国が遅れたり叶わなかった人々もいた。中にはソ連兵の性被害を防ぐ為に、丸刈りにして顔に泥を塗り男性を装った女性もいた。又一般の人の中には▽帰国通知が届かなかった▽中国内地を逃げ惑った為に残留せざるを得なかった人が数多くいた。――尚現在のロシアはレディーファーストの意識が高い国として知られている。
 45年末迄に帰国が叶わなかった日赤救護班は※内地への派遣を含め347班に上り、うち満州を中心とした中国抑留の49班345名は留用を強いられた(1953年1月時点)。1953年3月―55年1月実施の十二次に渡る引揚げ(事業)で273名が帰国し、内256名が中国抑留者だったが、55年12月時点で72名が帰国が叶っておらず、シベリア抑留の日本人看護婦については記録が乏しく詳細不明となっている。
 ――※日本鬼子
 読んで字の通りである。又朝鮮民の多くが、日本人を特に特高・軍人・警察官・雇用者等を、チョッパリ=クソに日本人、トンヤンキ=東洋鬼/日本の鬼と呼んだ。    
 ――※内地への派遣
 1937年―45年迄に陸軍病院に785班、海軍病院へ602班、陸軍軍医学校72班、海軍軍医学校35班、衛生部隊に174班の救護班が派遣された。46―47年迄は衛生部隊と国立病院に163班が派遣された。

※看護婦への補償
 元従軍看護婦は戦後、軍人恩給制度・補償の対象から外されていたが、1979年ようやく慰労給付金支給事業が実施された。陸海軍病院勤務(内地派遣)の看護婦は2年遅れて1981年慰労給付金支給事業が開始された。


(2)強制連行と強制労働/徴用工__【在日朝鮮人と在朝鮮日本人の人口推移】
※朝鮮人強制動員
 1917年第一次大戦の開戦で日本は好景気に転じた。すると多くの朝鮮人が日本に移住し始め、中でも広島県の縫製工場で働く朝鮮人女性の数は増加の途を辿った。朝鮮の大邱といえば日本が百貨店を建てるなどした町であるが、古くから綿糸が中心の紡績加工が盛んで、1930年代には大規模な製糸工場が建ち、女性の社会進出が活発だった為である。だが日本企業の待遇処遇が悪かった為、朝鮮人は度々ストライキを起して、福山の紡績工場では日本人監督の暴行が原因で大規模なストライキが決行された。
 日中戦争の長期化が予想された1939年9月の朝鮮半島では、当初朝鮮総督府に対し必要な労働者数を企業側が申請し、受理した総督府は申請に基づき地域に労働者を割り当て、割り当てられた地域で日本人の警察官と申請企業の募集員が労働者を連行していく、朝鮮人集団移入計画“第一段”となる「募集形式」で動員は始った。当時の朝鮮半島は大規模な干ばつや産米増殖計画の強要により、農業を廃業し別の仕事を求める人が多かったので、総督府は“容易に朝鮮人を徴募できる”と考えた為だった。だが彼らは鉱山開発や工業化が目覚ましい朝鮮半島北部に生活基盤を求めて移住して行き、応募者は捗々しくなかった。その為募集とは名ばかりの暴行や強迫による動員を強行したのである。
 39年10月国民徴用令を朝鮮に施行し、強制的な徴用を枠組みとして完備するも(朝鮮人を三階級ある階級のうち最下位の庸人=雇われ人に位置づけた事もあり)応募者は一向に増えず、内地への集団移入の開始から一年間の動員数は6万5千人に留まり、且つ逃亡する移入者が多発した為(1万2千人=20%近くが逃亡)、1942年1月短期間で希望どおりの朝鮮人労務者を確保する為、朝鮮総督府内に「労働者の斡旋と連行を行う協会」を組織。翌2月「朝鮮人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、朝鮮人集団移入計画の“第二段”「官斡旋方式」で強制動員を本格化させた。が……それでも43年末迄の移入者36万6千人の内11万9千人が逃亡している。それほど迄に朝鮮人は劣悪な状況下での労働を強いられたのである。
 1944年9月迄に九万人近くの※朝鮮人軍用員が動員され、動員されたうち国民徴用令に基づく動員数は三万人を超えた。同年9月からは軍用員に留まらずより多くの労働力が必要となった日本は、第二段の官斡旋式を維持しつつ、法的強制力のある「国民徴用令を朝鮮半島に本格適用」し実行した。朝鮮人集団移入第三段、最後の手段の“強制徴用”である。これにより全朝鮮民の若者が徴用の対象にされた――辞書によると徴用とは国家権力により仕事を押し付ける事をいい、徴用令とは国の為に働けと強制する法令をいう――徴用を拒否すれば“国家総動員法が適用”され懲役や罰金に処される為、朝鮮人は徴用に応じるしかなかったのである。
 1939―45年にかけて、内外地を合わせ113万人に上る朝鮮人を強制的に動員し、強制労働を課してきた日本だったが、アジア太平洋戦争開戦当初は“朝鮮人は信用ならない”として、軍への関与を頑なに避けてきた。方針或は信念を覆さねばならないほど日本は切迫しており、危急的な人員不足に追い込まれていたのである。
 ――※朝鮮人軍用員
 日本の陸海軍に属して関係労務に従事する軍属徴用をいい、1941年満州(国)、中国、南洋地域等の軍事基地や飛行場の建設(主に土木工事や設営)や治安警備等、戦地や占領地で極めて危険な状況下での労働を強いられた上に、捕虜を監視する使役=俘虜監視要員に従事させられ、日本兵に代り捕虜の虐待や殺傷を強要された。捕虜の虐待や殺害に関与した朝鮮人軍用員は、戦後国際法違反の犯罪者として報復の的となり、一部の朝鮮人は戦犯として処刑された――※極東国際軍事裁判を参照。   
 強制動員された朝鮮人は朝鮮各地の軍需工場や鉱山にも配置されたが、日本への連行はより早くより多くの徴用が可能な、人口の多い朝鮮南部地域を中心に「貧しい農民や労働者」が優先された。なぜか<
  ・財力のある朝鮮人は「朝鮮半島の植民地体制維持の為に利用できる」と考え対象から外した。
  ・一定程度の知識や語学力が必要な「工場労務」には、学校を卒業した朝鮮人を徴用した。
 その為、農民を中心に日本語の理解に乏しく貧しい人々は、日本の炭坑や鉱山、土木建設現場等へ動員したのである。
 連行された状況は様々あったが、例を挙げると――1943年4月国民動員実施計画決定直後の五月、日本兵とその手先の中国人警備隊に捕えられ、拉致後半年間は中国内の鉄条網で囲まれた飯場(労働者の合宿所)に監禁され、その後貨物船に乗せられ日本に到着する迄の一か月強、何も見えない船底に押し込めらた。船内では食事らしい食事は無く、バケツに用を足してそれを棄てに行く者が、棄てる時だけ、歩ける事ができたという(バケツが倒れ汚れる事や溢れる事が幾度もあった)。
 又44年女子挺身勤労令が発布されると、12歳以上40歳未満の朝鮮人女性は、道路や鉄道、飛行場等の建設現場や、軍需工場、鉱山、港湾等苛酷な現場に動員させられ、日本人には認められていた労働時間の制限(深夜労働禁止や出産休暇等)は適用されない等の差別を受けた。

※ダム工事の惨状一例等
 ・1934年8月広島県王泊ダムの建設工事現場でダイナマイトの爆発により25名の朝鮮人が即死するという大惨事が発生。中国新聞は「アイゴーの声こだます」の見出しで掲載した。アイゴーは感嘆(詞)を表す言葉である。
 ・1940年3月15日起工―49年12月完成の広島県高暮ダムでは、施工後の夏から秋にかけて2千とも4千人ともいわれる強制連行で徴用された朝鮮人がダム工事に動員された。各地でダム建設を急いだ背景には、日中戦争戦時下の電力不足の解消にあった。彼らは番号で呼ばれ、常時朝鮮人に携帯を義務付けた“協和会手帳”は渡されず、昼夜二交代制の12時間/日労働を課せられ、ダイナマイトを仕掛ける最も危険な作業にも従事された。※賃金は支払われたが、日本人の半分以下(2円/1日の記録がある)で、現金での支給はなく、“貯金”という名目で管理され(※三菱財閥の徴用・強制動員を参照)、又逃亡防止の為に出入口が一カ所のみの建物に100―200人が土の上に筵を敷いただけの寝具に、作業着を着たまま寝るという生活を強いられた。食事は粗末で量は乏しく、麦ごはんか、黍に豆の皮を混ぜたものが全てだったという話である。
 強制的に日本へ連行された朝鮮人の中には15、6歳の少年もおり、大方がダム建設未経験者だったが、少年がまごまごしていると容赦なく暴行された。祖国への望郷の念を抱きながら、トロッコの暴走事故で目玉が飛び出して亡くなった人や機械の修理中に転落して亡くなった人、苛酷さと地獄の様な生活が続く中で立ったまま亡くなった人、病気や目を覆うような残虐行為で命を落しダム堰堤の生コンクリートの中に埋められた人もいた。彼らの無念の死に対して、93年謝罪碑が建立された。
 ・北海道朱鞠内のダム湖には、強制労働で犠牲になった朝鮮人の遺骨を返還しようと活動する、地元の人たちが建立した「生命の尊さに目覚め民族の和解と友好を願う像」や、ダム建設工事以外にも※長生炭坑水没事故の犠牲者を追悼する「韓国・朝鮮人義聖者の追悼碑」等多数に上るが、石碑を撤去する動きもある。
 ――※賃金は支払われたが
 日本の敗戦の二日後にある炭坑では「作業がなくなった」という記録があるが、賃金が支払われるまで働くと粘った人も数多くいた。未払賃金の支払いについて日本政府は、中国人被害者が帰国する際「千円迄を持ち帰り金として支給するとして『預かり証』を発行し、現金は横浜正金銀行天津支店で引落す様に」とした。更に「千円を超える分は『保管証』と引換えに同天津支店で換金できる」としたが、賃金の振込みは無く、加害企業は被害者に対し通知する事さえ怠った。日本政府が実態調査を行わずに来た為、韓国、中国、台湾の労働者への未払い賃金総額は不明である(後記※企業との交渉に臨んだ人々“以降”を参照)。
 ――※三菱財閥の徴用・強制動員
 明治維新後から政界と親密な関係にあった三菱財閥だが、その始りは海運業で、後に炭坑や重工業、そして軍需工場に進出し巨大化していった。1943年広島県に軍需工場を建設すると、翌44年朝鮮半島から満21歳以上の青年を「徴用令書」により強制動員しその数は約2千8百人に上った。徴用令書には集合場所と日時が書かれていて、中には同令書を受取った場所から集合場所の学校や面役場に直接連行された人もおり、集合場所では役人や警察官の監視の元で、三菱の社員から「給料の半分は家族に送金する。逃亡すると家族が罰せられる」と脅迫され、兵隊の厳重な監視下で貨車に乗り釜山へ行き、海を渡って広島に連行された。広島に着いた一行は、その足で広島護国神社に連行され「皇国臣民誓詞」を唱えるよう強要された。三菱徴用工久保田中隊は神社で記念の全体写真を撮影している。
 軍需工場での労働もまた重労働の上に拘束時間が長く苛酷な環境だった。一日の労働を終え安らげるはずの宿舎に戻ると、そこには24時間監視員が常駐する監視塔があり、周囲は有刺鉄線で囲まれた監獄同然の場所だった。食事は粗末な上に、ある日腐っていて騒動になり警察に連行される者が出るなど、労働現場とは別の苛酷な環境だった。朝鮮人は番号で呼ばれ、皇国臣民である自覚を持つよう徹底され“天子の赤子”として、工場でも「皇国臣民誓詞」を唱える事を強要された。帰国を果した一人は「何十年経っても(皇国臣民誓詞は)忘れられず、今でも空で暗誦できる」と語った。誓詞の内容は――我らは天皇に忠誠を尽くし、天皇の為に存在し、すべては天皇の所有物であり、我らは天皇のために団結し奉仕する……旨だったが、彼らの祖国解放の思いは失せる事なく、その活動を見破られて拘束された人を多数出した。
 とある軍需工場では、賃金は支払われたが、家族への送金分と強制貯金分が差し引かれる為、手元に残る金は僅かだったが、家族に送金できる事を糧とし、どんな辛苦にも耐え続けた。が……家族の元に送金される事はなく(別工場では送金された記録もある)その上強制貯金は返金されず、45年7・8月分の支払いは無かったという。この方の場合は労働期間を一年と定めていたが、本人の意思と関係なく一方的な通告により労働期間が延長された。
 ――※長生炭坑水没事故
 1942年2月長生炭坑で発生した水没事故では183名が犠牲となり、内136名が朝鮮人だった。長生炭坑は山口県宇部市床波海岸の沖にある海底炭坑であり、海中から突き出た黒い円筒状の物体は排気や排水を行う筒で、海岸に近い方の筒は泳いで行けそうな距離である。長生炭坑では1939年から事故発生迄に1258名の朝鮮人が強制動員され、危険で苛酷な労働を強いられた。同炭鉱で従事した方の甥の話によると、「捕虜収容所の様な環境に監禁され暴力を受け、ただただ採炭量を重要視するのみの無理な操業を強行し(国策の採炭増産により)、又坑内は極めて柱が少なく起きるべくして起きた人災、未必の故意による事故だった」と聞かされたという。
「長生炭坑の水非常を歴史に刻む会」は、1993年から韓国の遺族らを招いて追悼集会を執り行っている。水非常とは当時の炭坑用語で「水没事故」をいい、又同会は2013年床波海岸近くに「長生炭坑追悼のひろば」を整備し、「韓国・朝鮮人犠牲者の追悼碑」を建立した。又日本政府に対して、海底にある遺骨を家族に戻すよう粘り強く訴えている。――炭坑での労働実態は※炭坑の実態例を参照。

 ※中国人強制労働の実態例
 被害者の多くが北海道や九州の炭坑(特に福岡の炭坑に多くの労働者が割り当てられた)や鉱山、地方のダム建設に動員され、護岸工事での労働は▽2km程離れた山を切り崩して彼らの手で土砂とガレキに分別しトロッコに積み込む▽堤防まで運んだそれらを使い護岸の土手をしっかり固めるという、想像以上の激務だった。又「遊水池工事」にも動員され、以下は北海道東川村中国人強制連行事件として知られる、当該事件の被害者を悼んで建立された慰霊碑文(参考資料通りに記載)である。

     中国人強制連行事件殉難慰霊碑――
   《中国人強制連行事件の殉難烈士此処に眠る
 この事件は、日本軍国主義が中国侵略の一環として行った戦争犯罪である。具体的には一九四一年十一月閣議決定にもとづき、政府機関、並びに軍が直接指導し、中国人を日本国内に強制連行、一三五の事業所に労役せしめ、多くの中国人を死に至らしめた。
 一九四四年、この地にも三三八名連行「江卸発電所の建設に関連し、遊水池工事に苦役、連行途上を含め短時日に八八名もの殉難を見た。遊水池は今も尚忠別河水の水温上昇施設として、東川町、並びに旭川市に及ぶ美田を潤す。
 われわれは、今日、日本国の主権者である国民として、なによりも中国国民に心から謝罪し、殉難烈士の霊を弔い、再び過ちを繰り返すことなく軍国主義の復活を阻止、日中友好、日中不再戦を具現することを盟い、日中両国民の永遠の友誼と平和とを確立、自らの証として、この碑を建立する。
      一九七二年七月七日
       中国人強制連行事件殉難慰霊碑
                                                               建立委員会(撰文 松橋久保)》

 1944年夜間トラックで運ばれて来た中国人は、現場に着く迄に15名が死亡していた。当時の日本は五体満足な者の殆どが戦争に駆り出されて、目に見えて男手が少なく男手が必要だった。その為労力不足を補う方法として「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定し、その条件として「華人労務者ハ訓練セル元俘虜又ハ元帰順兵ノ外、募集ニ依ルモノトスルコト」――元捕虜か、日本軍に帰順した元兵士又は募集に対する応募者――として、四十歳以下の男子で且つ三十歳以下の独身男子を優先的に選択するとしたが、実際には兵士や応募者に限らず、又五十歳超の人もいた。募集どころか「烏を捕らえる様に群衆に向い網を投げ、網の中に入った人間を捕らえる“兎狩り”」という方法さえ使った(※中国人労働者の移入/43年※国民動員実施計画を夫々参照)。
 大雪山を水源とする東川村を流れる忠別川は、稲作には不向きと指摘を受けるほど水温が低かったが、水田にしなければ米の増産は望めなかった。9月の寒空の中を17歳の少年から53歳迄の中国人338名が強制的に遊水池に連行された。支給された粗悪な夏服を着、極寒の地で手袋は一部の人に支給されただけで、ワラを編んだつまごを履いて作業にあたる者もいた、まるで拷問だった。遊水池にする為の川床を掘り下げる作業は、木刀や太い針金で殴られながら全身濡れネズミになって進められた。
 仕事を終えると、作業場と同じ敷地にある宿舎で夜を明かした。敷地は高い塀で囲まれ、その上にバラ線が張り巡らされて、収容所の窓には格子状の垂木が打ちつけられまるで強制収容所だった。出入口には見張り所があり、逃亡を防ぐ為に数名の特高外事係の警官が一週間交替で看視し、難癖をつけてはリンチをくり返した。作業場で殺された方もいれば、宿舎内で殺害された方もいた。家畜のエサにもならない食事のせいで労働者の大半が栄養失調で痩せぎすになり、病気になって亡くなる方もいた。亡くなった者はすぐには火葬されず、何日間も側溝に放置された。一年半で88名、4人に1人強の中国人が死に至らしめられた。――当時の日本人は敵国の人の死に同情する者は非国民とされ、投獄されて拷問を受け殺される事が稀ではなかった。それが当時の日本の正義であり、日本精神であり日本人の大和魂だった。尚日本はアジア太平洋戦争中に3万8千935名の中国人を移入したが、6千830名が死亡し行方不明者88名を出したという記録がある。

※炭坑の実態例
 ・1944年8月山東省で農家を営んでいたRさんは、家を出ると突然日本軍に服従する中国人に捕まり、日本軍に引渡された。30歳の時だった。2百名はいたという中国人と共に駅に向い歩かされて、途中逃亡を図った人は容赦なく銃撃された。列車の到着先は港湾だった。柵のある収容所に一週間ほど監禁された後、8百名はいたという中国人と共に貨物船に載せられ福岡県門司港で下船し、幾度も列車を乗り継ぎ、北海道の奥地にある炭坑に連行された、11月になっていた。12時間に及ぶ坑内作業では、石炭の掘削や運搬を強制された。手間取っていると日本人の監督に殴られ、スコップを使う事もあった。休日はなく12時間に及ぶ労働下では太陽を見る事もなく、休憩時間は僅か10分、饅頭1個の食事が与えられるだけだった。多くの仲間が衰弱してゆき、栄養失調や殴殺により命を落した。この様な状況に置かれたRさんは、1945年7月末監督に殴打されて揉み合いになり、相手が助けを呼びにその場を離れた隙に四人の仲間と逃走した。1年振りの外界を「殺されまい!」という思い一心で、遠く遠くを目指し必死に走った。
 逃亡後すぐに仲間とはぐれてしまったRさんの逃亡生活は13年に及んだ。真冬の北海道の大自然の中では、食料は見つからず、命を繋ぐことだけを考え、雪の中に穴を掘って熊のように冬越しをした。14回目の冬の事だった、猟人に捕えられ警察に連れて行かれた。Rさんは覚悟を決めた、というよりも諦めるしかなかった。だがそれが幸いした。在北海道の中国人の助けで、拉致後14年振りにRさんは祖国の地を踏んだ。帰国を果たした。
 ・Tさんの話では、炭坑作業は▽坑内清掃▽巻き上げ機の運転(地上と坑道間との資材や人の搬送やトロッコを引張る際に使う。主に未成年が担当した)▽坑道を広げる為にメタンガスの有無を確認(ガスの臭いに敏感なカナリヤを持込む現場もあった)してダイナマイトを使い発破を掛ける作業▽爆破後にツルハシを使い石炭の塊を掻き集める作業等があり、又▽集めた石炭をスコップでトロッコに投入する作業(主に壮年層が担当)▽坑道に杭を打ち込む作業(主に年配が従事)もあったという。更に採炭前には「準備坑道」を掘る作業があり、▽発破を掛けて砕いた岩石やボタ(石炭や石等が混じったもの)を人力で運び出す作業▽天井や側面に規定の型に後枠をつける作業▽トロッコ用の線路を引く作業があった。
 坑内作業で使う靴と服は、極めて稀に年に二度づつ支給された現場もあったというが、過酷な長時間労働と地熱地獄の坑内作業は汗と泥まみれになり、とても服を着て作業する事など出来なかった。坑内では持参した水筒の水を惜しみながら飲み、水筒が空になると空腹と喉の渇きを満たす為に坑内の溜水を飲んでしまい、病気になって亡くなる方もいた。
 炭坑の仕事は三交替制の12時間/1日労働が基本とした様だが、休日は無かったという話と、勤勉な労務者に限り正月三が日だけ与えられたという話もあり(外出が許可されたのは一日のみ)、それを機に脱走を図った方がいたとTさんは話す。

※荷役作業の実態例
 1944年12月河北省で衣料店を営んでいたDさんは、22歳の時に店先で日本兵に捕まった。天津に着くと麻袋で作った服と防寒着が支給され貨物船に載せられた。船内で七日分の食料を支給されたが、日本に着くまでの21日間、足りるわけがなかった。日本に到着すると粥を貰い、息をつく間もなく列車に載せられ、行き着いた先は山形県酒田港だった。到着後しばらく仕事はなかったが、45年1月港湾での荷役作業(貨物の陸揚げと積込)が始り、強制連行された中国人約2百名は※年齢別に班が編成され、全員が現場監督に石炭の運搬法を習った。船から石炭を降ろす作業は、約50kgある石炭を天秤棒の両端にかけ(両肩に担ぐ港湾もあった)て幅40㎝×長さ5―6m程の板の上を歩いて渡り地上に荷を降すと、その後貨物列車に積込むのだが、幾人もの仲間が板を歩いている途中で落下し重傷を負った。だが医者がいなかった為、自然治癒するのを待つしかなかった。
 支給された防寒着は中綿が抜け布だけとなり、次第にホツレが広がり、縫い合せなくなると針金で縛って着用した。靴はすぐにボロボロになり、港湾作業が始まる前に自分で編んだ草履をはいて作業にあたった。一度だけ地下足袋が支給されたが仲間が足を痛めるのを見て、Dさんは履かず仕舞だったという。
 港湾作業は6―20時頃迄が基本で、22時や24時頃まで居残り作業がある日が月に何度かあった。荷役という仕事の特性からか、昼の休憩は一時間与えられたが、一日三度の※食事は毎回小粒の饅頭2個だけだった。宿舎で食べる時は、藁を積上げて作った蚤とシラミだらけのベッドで食べ、空腹をしのぐ為に(見つからない様に気をつけて)海面に浮いた海草を口にした事もあった。体力がなくなり病気になる仲間が続出したが、仕事を休むと饅頭を1個に減らされる為、皆無理をしてでも働いた。無理がたたって衰弱して亡くなる仲間もいた。日本が戦争に負けると、仕事は無くなったが、2百人いた仲間のうち僅か7か月半で31名が死亡していた。
 ――※年齢別に班が編成
 1班を23名として、軍隊式に▽中隊▽小隊▽班を構成した現場や、年齢別に▽50歳以上▽壮年▽未成年の班を構成した現場があった。その為親子二人で拉致された父子は離れ離れとなり、日本語が理解できない父親は指示を間違えて受取り、日本人に殴殺された。日本に強制連行されたばかりに、親子は一生会う事が出来なくなり、一生離れ離れになってしまったのである。尚暴行を加えたのは日本人に限った事ではなく、朝鮮人の中にも労務助手になって日本人の手先となり同胞を監視し、躊躇せずに暴行を加えて死に至らしめた話は多数に上る。又一外国人労働者として、日本人労務者と宿舎で暮し、港湾作業にあたった朝鮮人もいた。
 ――※食事
 現場により事情が異なった。
   ・小さなお椀に豆とジャガイモと僅かの米を混ぜたもののみ。
   ・主食は豆粕とトウモロコシ粉に僅かな米を混ぜたもので、オカズは痩せたイワシが一尾、雑草の様な菜葉が浮いた味噌汁が出た。
 等である。又中国人の高齢者が食事係を担当し、日本の敗戦で米のごはんに変ったという現場もあった。

 ――【在日朝鮮人と在朝鮮日本人の人口推移】――
※在日朝鮮人の人口推移と背景
  ・1908年:459人――翌09年日本政府が「適当な時期に韓国を併合する方針」を固めて1910年日本が韓国を併合。
  ・  15年:約4千人――前年に第一次世界大戦開戦。当年中国内で排日運動が激化。
  ・  16年:約1万5千人――日露密約締結。二年後の18年には日本が連合国と共にシベリアに出兵(22年10月迄)。
  ・  20年:3万8千超――産米増殖計画が始り日本向けの台湾・朝鮮産米を増産。又朝鮮や満州各地で日本軍と朝鮮独立部隊の戦闘が激化した年。
  ・  23年:8万―10万人――9月に関東大震災が発生し朝鮮人虐殺事件が多発。前年には在日朝鮮人が人権回復と差別解消を求めて団体を次々組織。
  ・1930年:29万8千超――前年の世界大恐慌等により日本は深刻な不景気に陥り、翌31年満州事変が起き、又昭和維新が画策され日本でテロが横行した。
  ・  35年:62万5千超――天皇機関説が問題となる。
  ・  40年:124万超――37年の日中戦争の影響により収穫米の供出を義務化。朝鮮で韓国光復軍が組織され抗日運動を主動。日本で政党政治が終焉。
  ・  44年:191万超――8月東京で学童集団疎開が始り、10月沖縄大空襲で那覇が灰燼と帰し、11月サイパン島離陸のB29による初めての本土空襲。
  ・1945年:約210万人――8月アジア太平洋戦争終結。翌年迄に150万人近くが帰国し約60万人が日本に残留(終戦時の朝鮮半島の人口は約2千7百万人)。  

※朝鮮人を日本に移住させた理由
 朝鮮半島から朝鮮人の住民を減らして(台湾は3割減を目指した)、日本人を送り込んで植民地化するという意図的な国策といわれる。だが内地から戦地へ赴く日本人が増加した為、内地の労働者減を補う為に朝鮮人の動員が始り、日本人に土地や農地を奪れ仕事を失った朝鮮人は、日本で……港湾荷役や炭鉱、鉱山、土建、廃液沈殿池の築堤工事、飛行場建設や跡地の整備、ダムや鉄道建設、堤防工事、川底の浚渫シュンセツ作業(川底の土等をさらい取る)、護岸工事、防空壕堀り、コンクリート工場等に従事するしか生きる術がなく、他に選択肢がなかった方が大勢い大半だった。女性もまた炊事係や行商、日本の子の子守りなどで食い繋いで家庭を守った。
 1939年度から45年度にかけて朝鮮人の“内地”労務動員計画を実施し、結果内地への労務動員目標91万人に対し約67万名に達した(前記人口推移と差異があるが資料通りに記載)。内地“以外”は樺太への計画割当数2万に対し1万6千名が動員され、南洋地域は2万人を計画したが6千名に留った。割当先の割合は、▽炭坑48%▽金属鉱山11%▽土建16%▽工場及びその他25%と推定され、労働環境が劣悪の炭坑や鉱山、土建現場で3/4を占めた。

※朝鮮半島の日本人の人口推移と背景
  ・1876年:54人――2月日朝修好条規=江華島条約の締結で朝鮮開港。
  ・  84年:4千人超――12月甲申事変。
  ・  94年:9千人超――朝鮮で東学農民運動が起き、7月日本軍が景福宮を占領、二日後日清戦争が開戦。     
  ・  95年:1万2千超――日清戦争が終結し4月下関条約=日清講和条約締結。朝鮮で10月乙未事変が起き12月断髪令を発布。
  ・1905年:4万2千超――7月桂タフト協定、11月に乙巳条約=第二次日韓協約締結。11月韓国内の京義線が完成した。
  ・  06年:8万人超――2月日本が韓国統監府での実務を開始し、全国十三カ所の主要都市に理事庁を設置。
  ・  10年:17万人超――8月韓国併合(日韓併合条約締結)、朝鮮半島で9月土地調査事業を開始し12月会社令を発布。
  ・  14年:29万人超――8月日本が第一次世界大戦参戦。
  ・  19年:34万6千超――3月韓国で三.一独立運動、9月に大韓民国臨時政府が樹立された。
  ・1930年:約53万人――29年1月に韓国で元山ゼネスト、同年11月光州学生抗日運動が起き全国に拡大(30年3月迄続いた)。当年10月世界大恐慌。
  ・  42年:約75万人――2月日本で配給制が厳格化され、同月朝鮮人に対する徴用を官斡旋方式に切替えた。
・  44年:約71万人――8月韓国と台湾に徴兵制を施行し、女子挺身勤労令を公布。9月朝鮮人の日本軍入隊が始り、朝鮮に国民徴用令を本格適用。
 
※企業との交渉に臨んだ人々
 1960年代後半から在韓国の強制動員被災者は、未払い賃金の支払いと強制連行の謝罪と賠償を求めて日本企業と直接交渉を始めた。企業側は「国策に従っただけ」と繰返すだけだったが、粘り強い交渉の結果、企業側が日本の法務局に供託(賃金を預けて保管する)していた事が判明。被害者らは法務局に対して繰返し供託名簿の閲覧を求め、長年の努力が実り閲覧にこぎ着けた。が名簿には創氏改名で使用した日本名が書かれていた為、法務局は「同一人物である証拠を示すよう」に要求。帰国した被害者の戸籍は喪失していて証拠は示せず、交渉に二十年の歳月を費やしながらも、未払い金を取り戻す事はできなかった。
 こうした経緯を経て被害者らは裁判に訴えた。労働の対価として当然支払われるべき賃金を取戻して、謝罪と補償を含めた賠償を請求するには裁判で訴えるしか方法がなかったのである。
 最高裁まで争われた裁判の判決は――広島の対象企業A社に対し、徴用された韓国人“原爆被災者”に対して「日本人被爆者とは異なる差別的な待遇をした事は違法」とし損害賠償を認める判決が下った。画期的な判決であったが、飽くまでも“被爆者に対する賠償命令”であり、強制連行・強制労働被害については一部の不法行為は認めたものの、国の責任は問われず損害賠償を認めなかった。又多くの原告はこの一部勝訴の判決を知る前に亡くなっていた。
 一方で韓国政府は2006年、日本の強制連行によって▽死亡▽負傷した方▽未払い賃金のある方約103万人に対して「経済的支援と社会福祉政策の実施」を発表し次の様な説明を加えた。「韓日請求権協定締結後の韓国政府の補償は不十分であった為、道義的な責任として、又国民和合の意味で支援を実施する」と。ここにある“韓国政府の補償は不十分”とは、日韓※請求権協定にある「韓国内で個人賠償を行う」とした内容をさす。

※中国人強制動員被害者に対する日本企業と政府の愚行
 驚く事に中国人・朝鮮人労働者を受入れた企業は、戦後日本政府に対して“労働者を受け入れた事で被害を被った”として補償金を要求し、1946年日本政府は企業に対して、総額5千672万円(当時)もの補償金を35社に支払っていた。2024年の貨幣価値に置きかえると、一企業あたり約21億円超、総額約765億円超に上る損害補償金である。
 
※韓国強制労働被害者裁判例
 2013年韓国人元徴用工被害者七名が日本製鉄(元新日鉄住金)を相手に損害賠償を求めた訴訟と、翌14年元挺身隊員三名と遺族一名が三菱重工業に損害賠償を求めた訴訟で、2018年韓国大法院(最高裁)は該当企業に対し「賠償を命じる判決」を下した。だが韓国政府は賠償金の支払いを、政府傘下の日帝強制動員被害者支援財団が寄付を募って行う「第三者弁済」とした為、原告三名(の子)は「なぜ日本が犯した罪に対し、韓国側が責任を負わねばならないのか」「なぜ日本の加害企業が支払うべき賠償金を、韓国側が弁済せねばならないのか」と亡くなったり高齢化した被害者に代って訴え、受取りを拒否し、日本企業に対して「被告は当事者としてこの(大法院の)判決を受止め、対応しなければならない」と、飽くまでも「戦犯企業としての心のこもった謝罪と賠償を要求」した。
 判決を受けて安倍晋三当時首相は、国会答弁で日韓請求権協定について「互いに賠償請求を放棄し、個人的な賠償(個人請求権)は韓国内で負うと定められている」旨を説明した後こう語った。

  「原告本人が日本での労働を希望した」  
  「原告自ら手を上げて徴用工になった」

 安倍氏の答弁に対し、質問した野党議員も、他の野党も反論はせず、マスメディアは問題にしなかった、どころか「自ら手を上げて徴用工になったわけですが」と安倍氏と同様の考えを示すメディアもある(NHKラジオ第2・社会福祉セミナー)。
 被害者に支払われる賠償金は企業等の寄付が原資だが、その寄付は2023年3月大手鉄鋼会社が46億ウォン(約5億2千万円弱)を寄付した以外に、目立ったものは無いという。元徴用工被害者が起した七十を超える係争中の訴訟だけでも千名以上の原告がおり、元慰安婦等新たに被害者が告訴する事を考えた時、資金不足に陥らないか懸念され、又受取りを拒否する被害者が続出するだろうとも言われている。
 1944年7月朝鮮半島を視察した、内務省の官僚がこの様な報告書を残している。「徴用は別としてこの他いかなる方式によるものも、動員はまったく拉致と同様な状態である」と。


(3)―1:従軍慰安婦と慰安所の悪しき歴史
※慰安婦制度の始り
 組織的な慰安婦制度の始りは、1910年(明治43)の北海道開拓事業の時といわれている。中国人と朝鮮人労務者を監視する軍隊が在留する駐屯地に、女性を監禁し強制的に慰安婦にしたとあるが――1912年頃まで続いた開拓事業の規模と労働者の人数から、軍部主導で設置した慰安所とは異なり「部隊単位で行っていた」とする見方がある。尚1910年代から朝鮮人女性を日本へ売り飛ばして売春させる行為が常套化していた。

※従軍慰安婦の歴史
 日本軍が慰安婦を随行し始めたのは、1932年の上海事変の際に、「上海派遣軍副参謀長が(海軍にならい)慰安婦団を派出するよう某県知事に要請し獲得した」とする記録が最も古いとされている(17カ所に設置した)。“海軍にならい”とは「上海事変以前に日本軍が慰安婦団を随行していた」事を裏付けている。だが戦争に関わる資料は終戦時に焼却するよう命令が出ていた為、慰安婦に関わる海軍の記録は乏しく、又は公になっていない為(特に海軍は規律に厳格だった)、更に戦地の状況や情報等は“口外禁止”と軍規で厳しく統制されていた為(百人斬り等の武勇伝は別)、組織だった従軍慰安婦の開始時期ははっきりしていない。      
 慰安所が急増するのは、1937年南京攻略を目前にした上海設置の「上海陸軍娯楽所」からといわれており、中支那方面軍が指揮下にある上海派遣軍に対して「慰安所を設置するよう指示」した記録があり(上海派遣軍参謀長の日記)、娯楽所という名の慰安所に、日本人の遊郭女性20名と朝鮮人女性80名が慰安婦として徴集された。

※慰安所設置の目的
 兵士による略奪や暴行、強姦や虐殺等が横行した為、▽軍の統制維持の為▽兵士への慰安の供給▽防諜スパイ対策(機密情報の外部への漏洩を防ぐ為)▽性病の広まりによる軍の指揮低下を危惧した軍部の意向により慰安所は設置された。が慰安所設置が煽りとなって、強姦を助長するなど逆効果になった師団(兵団)もあった。又1938年陸軍教育総監部作成の「戦時服務提要」には、▽性病予防の徹底▽慰安所には衛生施設を設ける事▽売笑婦や土民等との接触は厳禁とする等の内容が書かれていた。中曽根康弘元首相はこうい云った、「原住民の女を襲う者やバクチに耽る三千人の部下の為に、慰安所を作ってやった」と。中曽根氏は元海軍主計将校だった。

※女性狩り
 戦地の慰安所設置が本格化した南京攻略直後の1938年から、※女子挺身隊の名の下に“慰安婦女性狩り”が激しくなり、職業斡旋業者等が「工場に就職しないか」「儲かる仕事がある」と騙して連れ出したり、役人や警察や軍人が暴力的な手段で、女性を拉致し慰安婦にした。“国と軍が組織的な関与を始めた”公式文書は、38年6月28日北支那方面軍参謀長が慰安所の設置を命令する「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」が最も古いとされている。文書で参謀長は「日本軍人の不法行為が、中でも強姦事件が深刻な反日感情を醸成しており、治安を害し軍全般の作戦行動を阻害する」と指摘し、「厳重に取締まると共に、速やかに性的慰安の設備を整える事」とする命令を出している。
 尚当時は軍参謀長の命令を受けて、派遣軍指導部(参謀部)が慰安所設置の要請をしたが、1941年アジア太平洋戦争開戦以後は陸軍省と海軍省が設置を指示する様になり、朝鮮人女性12―40歳の慰安婦供出が激増した。慰安婦女性の実数は明らかではないが、少なくとも8万人、10―20万人いたといわれており、内八割は朝鮮人女性だったという(別資料には慰安婦総数8―20万人、うち半数以上が朝鮮人女性だったとある)。

※軍関与の慰安所や慰安婦要請に関わる記録
 慰安所は軍部主導で設置した「軍直営」と「民間業者に運営を委任し慰安所としたもの」に分かれ、軍の要請により設置される軍直営には、▽兵站(戦場の後方に在る軍需品等の供給や輸送を扱う)が経営の慰安所▽軍直属部隊が経営の慰安所の二つがあり、何れも軍の統制管理下で、▽建物の建設や接収▽運営経理等の監督▽営業報告書の管理▽定期的な性病検査の実施▽憲兵の巡回の監督等を行った。民間業者が運営する慰安所も軍の統制下にあり、遊郭の主人に便宜を図るなどして戦線でも営業させた。
 民間業者が運営する慰安所とは「軍指定の売春施設」をさし、利用に際して民間人と軍人軍属の利用する時間帯を分けたとする一方で、各部隊が作成した利用規則によると慰安所の利用は、▽軍人軍属に限る▽民間の売春施設への出入りを禁ずるとあり、又“女性を介して情報が漏洩する事を大変危惧していた”との記録からも、「民間人との間で時間帯を分けて利用した」とする記録は疑問が残るとする指摘がある。又慰安所は軍司令部・旅団司令部・大隊本部に設置され、小部隊=分遣隊への設置はなかったという(後記の※中国山西省“孟県”の被害を参照)。

※慰安婦の照会・動員命令
 ・1942年5月には海軍省軍務局長から南西方面艦隊参謀長に宛「第二次特要員進出ニ関スル件照会」を文書で指示している。▽特要員(海軍の従軍慰安婦の呼び方)の輸送船行動予定▽特要員の配分▽所要施設及び機材等に関する報告だが、抜粋すると――
  (イ)艦隊との連絡は=各隊の責任者が原則これに当たり、特要員は隊長を主として当たる事
  (ロ)料金については=概ね1年間の働き(方)により、負債が償却できる事を基準として、現状をもとに取り決める事
  (ハ)営業に際して=(所轄長以上は特別な扱いとして)士官用と下士官及び工員用を別とする事――後記の※軍隊内の序列を参照
  (ニ)運営について=運営は艦隊管理の民営とする事
 従軍慰安婦の配分については「兵士29人に対し1名」ないし、「兵士35人に対し1名」の割合とした。  
 ・済州島では極めて暴力的な手段で島民女性が徴集されたが、1943年5月西部軍司令部が九州と〇〇県とへ、二千人の慰安婦を済州島に供出するよう命令している。提示した条件は、▽従軍期間を1年とする▽18―30歳未満で妊婦を除き既婚者可とする▽勤務地は中支方面▽給料三十円/一か月を支給▽支度金二十円を前渡しとする。これらの他に派遣日時と集合場所を指定した記録もある。
 ・1944年4月陸軍省の依頼により〇〇県が発した「動員命令書」では、皇軍慰問と称して朝鮮人※女子挺身隊百名を中国海南島に送る様に命令している。当初は年齢18―30歳未満としたが、目標数を容易に“済州島から”徴集する為に、年齢を5歳引上げ▽35歳未満――妊婦を除く既婚者可能に変りはないが――▽身体強健で医師の身体検査と検診を受け▽診断書を要提出とした。加えて――給与等報酬は済州島と変らないが――▽宿舎と食糧及び衣服を現物支給する旨がある。この徴集では「陸軍病院の雑役婦労務動員の募集」と偽り女性を刈り集めた。又40歳程度と思われる女性を騙して徴集した。
 ――※女子挺身隊
「身を投げ出して自ら進んで事にあたる女性」を意味し、韓国では女子勤労挺身隊、女子愛国奉仕隊等ともいう。大きく「軍需工場等に動員される労役と慰安婦」とに分れるが、労役の募集だと騙して女性を徴集した事から、韓国で挺身隊といえば“軍隊・皇軍・日本軍慰安婦”を指す。
 ・朝鮮と台湾では各派遣軍の要請を受けて行われた。朝鮮総督府と朝鮮軍が統制管理し、憲兵と警察の連携の下で、現地の業者や地元の有力者に依頼し女性を徴募・徴集した。▽(住民にとっては)高額の金銭をチラつかせて人身売買によって▽仕事の斡旋と騙して▽家族と本人を強迫したり暴力的な手段を使い……人さらいの様に女性を刈り集めた。

※慰安婦被害国
 日本軍による慰安婦被害者は、朝鮮、中国、台湾、日本の他にフィリピン、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、東ティモール、マレーシア等、日本が侵攻した全てといえるほどの国や地域に及び、日中戦争中の1939―41年がピークだったといわれている(【1941年】/【1942年】の戦況と国内情勢を比較されたい)。蘭印=現インドネシアの慰安所では朝鮮人、台湾人、中国人、日本人、少女を含む地元の女性が慰安婦にされ、台湾のとある漢民族の女性は朝鮮人女性と同様に国外で慰安婦にされた。マレー半島では1942年12月北部アロースターに慰安所が設置されマレー人、インド人、中国人、朝鮮人の女性が慰安婦にされ、他にもジャワやボルネオ等の島々の慰安所にも従軍させられた。
 東南アジアではフィリピン、インドネシア、東ティモールに被害が多く、島々に住む先住民族の女性は有無も言わさず直接軍人に連れ去られて軍慰安婦にされた。抗日ゲリラ活動が活発だったフィリピンでは“ゲリラ掃討”を名目に住民の虐殺が行われたが、その際現地女性を拉致し、駐屯所等に監禁しての強姦輪姦が横行した。レイテ島タクロバン市では飛行場建設の労務作業後に「拒否すれば殺す」と脅され、浜辺などで輪姦が繰返された。オランダ人女性はマレーシア、ビルマ、インドネシアで性奴隷にされ、ビルマでは朝鮮人看護婦が慰安婦にさせられた。性奴隷にされた被害女性は地獄のような苦しみの中、外出は禁止され、言葉はまったく通じず、どこにいるかもわからず、身寄りも所持金もなかった為、逃亡は不可能だったいう。終戦後インドネシアには、日本軍人の子ども(軍人曰く、現地妻、愛人に生ませた子)が三万名取り残されたといわれている。

※元日本軍慰安婦被害者の戦い
 日本では在日コリアンの裴奉奇ペポンギさんが、沖縄県慶良間諸島の「渡嘉敷島慰安所」の従軍慰安婦だった事を1977年12月5日(一部メディアに)告白している。韓国ではキリスト教女性団体が、80年代中頃から日本政府に対して「挺身隊問題に関する謝罪と元慰安婦への補償」を要求し始め、88年7月には韓国教会連合会が「挺身隊研究委員会」を設置し、挺身隊取材記を新聞に連載する等して大きな注目を集めた。そして1991年8月14日元挺身隊の金学順キムハクスンさんが、日本軍慰安婦だった事を記者会見で公にした。彼女たちの勇気と性奴隷にされた女性を支援する人々、真相究明を求める人々により、日本軍性奴隷被害の実態が徐々に明らかになり、世界各国の被害者たちが後に続いた。金学順さんの告白の約四か月後には日本軍慰安婦に関わる※防衛庁公文書が発見されたが、それでも日本政府と多くの日本人が事実を否定し又関心を寄せず、被害者の人権と名誉を著しく傷つけている現状である(一連の詳細は(3)―5:近年の韓国の動きに記載がある)。
 ――※防衛庁公文書の発見
 公文書発見の報道は1992年1月11日付朝日新聞に掲載された。中央大学教授によって、防衛庁防衛研究所図書館において「慰安婦の徴集と慰安所の設置に日本軍が関与した事を示す文章が発見された」とする記事である。尚1993年8月4日の河野談話発表“以降”に国内外で発見された日本軍慰安婦に関する「公文書」は約1700点に上りインターネットで閲覧できる。


(3)―2:慰安所の仕組みと従軍慰安婦
※従軍慰安婦
 台湾では慰安婦は「敵視」され竹槍で刺殺する等の事件も発生した。一方中国では終戦まで慰安婦の事を「女子(勤労)挺身隊・軍隊慰安婦・従軍慰安婦・貢女(貢物の女の意)」等とよび、又日本軍に付添う事を生業とした女として「醜業婦・賤業婦」と蔑視する者もいた。――韓国・朝鮮での呼び方は※女子挺身隊を参照/日本(人)については、※朝鮮人等への虐殺事件に関連がある。
 被害女性は15―22歳位が多く、慰安所では源氏名で呼ばれた。抱え主(管理人)にはノルマがあり、一日に兵士五十人程度、戦場に行く前後は三百人を相手にさせたとう話があるが、次の様に数字(ノルマ)は慰安所により異なった。
  (1)1日50人・90人・300人の兵士を相手にさせられた
  (1)平日14時から営業し一日20―30人。土日は12時から営業し40―50人を相手にさせられた  
  (1)12時から午前0時まで営業し12時~17時は「兵士」を、17時~20時は「下士官」を、20時~0時は「士官」を相手にさせられた
 避妊具を使わぬ兵士がいた一方で、将校は避妊具を用い又宿泊する事もあったとする資料もある。避妊具を装着しない者への対策として、女性は自ら丸薬を作り膣口に詰めたという話もある。又月に3回※軍医と衛生兵による性病検査を実施した慰安所があった。

※軍医の記録
 1938年南京攻略直後に104名の朝鮮人と日本人女性の慰安婦を対象に軍医による「身体(性病)検査」を受けさせた記録がある。軍医の報告書には“望ましい皇軍慰安婦”として――「朝鮮女でしかも若いほどよい(十五歳以下が望ましい)」とまで書いている。彼らにとって朝鮮人女性は“軍需物資扱い”だったのである。慰安所の性病検査は通告なしに行われ、制服憲兵の立ち会いの下で看護婦と共に診察したというが、慰安所によっては、罹病やその疑いのある慰安婦は婦人科の医師が診察したとする資料がある。

※慰安所の建物例
 駐屯地内のとある区画の前に女性の写真を掲げて目当ての慰安婦がいるテントへ行くケースや、“軍人慰安所”の看板を掲げた長屋のような建物(ビルマのある慰安所)や、民間施設等があった。又軍内に「巡回慰安婦」と称する女性を配置し、軍人の身なりでトラックに乗せ、馬小屋に行き相手をさせた話もある。尚慰安所の事を“強姦所”とする書籍もある。

※ある慰安所の例
  (1)テント入口で兵士が※軍票を担当者(日本人夫婦だったとある)から買う 
  (2)テント内で順番を待つ
  (3)順番がきたら仕切られた部屋に入り女性に軍票を渡す
     ……詳細は(3)―3:被害者の証言を参照。
 ――※軍票
 軍用手票をいい日本が発行した現金に代る模造紙幣をいう。1894年に発行され1904年日露戦争後に広く使われ始めた。香港の例では……香港陥落直後の1942年のレートは軍票1円=2香港ドルだったが、半年後には1:4になり、一年後には香港ドルの所持が禁止された。当初は軍票20銭で米0、5㎏が買えたが、1944年頃には軍票200円で米0、5㎏と高騰。終戦後軍票は紙切れと化した。

※慰安所の料金例
  (1)兵1円50銭/ 下士官2円/ 大中少尉2円50銭/ 大中少佐3円
(2)兵2円/ 下士官及び軍属2円50銭/ 将校3円
   ……准士官の記録はない。

※軍隊内の序列
 大別すると「兵と武官」に区分される。
   ●兵――「兵」に区分。階級下位より「1等兵→2等兵→上等兵→兵長」となり部下は持たない。
 ●武官――下位より「下士官→准士官→士官(将校)」に区分される。   
    〇下士官――「下士官」に区分。階級は下位より「伍長→軍曹→曹長」となる。
     ・伍長――約15名の部下を持つ。
     ・軍曹と曹長――約50名の部下を持つ小隊長である。
    〇准士官――「准士官」に区分。階級は「准尉」のみ。叩き上げ=ノンキャリアの到達点とされた。
    〇士官(将校)――階級は下位より「尉官→佐官→将官」となる。いわゆるキャリアである。
     ・尉官――下位より「少尉→中尉→大尉」となる――中尉以上になると中隊長となり四個小隊約2百名を率いる。
     ・佐官――下位より「少佐→中佐→大佐」となる。――少佐と中佐は大隊長で数個中隊約8百名を率い、大佐は連隊長で数個大隊約2千名を率いる。
     ・将官――下位より「少将→中将→大将」となる。――少将は旅団長で二個連隊約5千名を率い、中将は師団長で数個連隊約1万名を率いる。
        ――大将は軍司令官で数個師団数万名を率い、大将のうち功績優秀者を「元帥」と称し、天皇は序列最高位の「大元帥」だった。
 士官以上には世話係の従兵がつき待遇が変る。新兵(学徒兵は除く)が入隊すると二等兵は連動して一等兵に昇格したとあるが、昇格しなかった例もある。「各部隊の構成」については、※部隊の単位――に詳細がある。    


(3)―3:被害者の証言
※Aさんの被害
 1927年韓国生れのAさんは、麦畑の耕作をする自作農の一家に育った。42年15歳の時に釜山から強制的に船に乗せられ広島に連れて行かれた。更に広島からニューブリテン島ラバウルに連行され、慰安所として使われていた教会で板で仕切っただけの部屋に監禁されて慰安婦にされた、建物内には二十名程の女性の写真があった。
 性的行為を拒否した女性は密林に連れて行かれて、10人から15人以上の軍人の相手をさせられたという。地獄の様な日々の中で、※キニーネを大量服用し自死を図った女性や、性病で体調を崩す女性も少なくなかった。Aさんが終戦に気づかぬままラバウルで暮らしている時であった、朝鮮人男性に説得されて恐々と帰国船に乗り込み、韓国へ帰った(行先は未記載)。帰国しても結婚はしなかった、出産出来ない身体になっていたし男が恐ろしかった。Aさんを始めとして元慰安婦だった事を名乗り出た韓国人女性175名の内、156名は21歳未満で多くが未成年の少女だったという。
 ――※キニーネ
 解熱や強壮、マラリア熱の特効薬として知られる。キナの樹皮から取れるアルカロイド(激しい毒性のあるアルカリ性有機物で薬品に用い、モルヒネ、ニコチン、コカイン、カフェイン等がある)であるが、慰安所では避妊薬として使った。
※Bさんの被害
 1922年韓国生れのBさんは、40年の夏十八歳の時に中国上海で朝鮮人男から仕事の話を持ちかけられた。支度金として受取った30―40円を母親に渡し、近郊の旅館で十五人位の同世代の同胞と合流した。上海郊外の日本軍駐屯地に到着すると、軍隊から離れた場所に点在する三畳ほどの軍用テントに一人で住まわされ、男の相手をさせられた。「話が違う! こんな筈ではなかった」と思った。一日に10―15人程度の男がテントに来た。昼間は下級兵士を相手に、夜間は将校を相手にさせられ、中には泊りがけでくる将校もいた。翌日将校が帰るのを見計らって、別の兵士がテントにやってくる日も少なくなく、或る日酔った将校がテントにいた下級兵士を見つけて切りつけた事もあった。将校は避妊具を使ったが、下級兵士は使わぬ者が多かった。
※Cさんの被害
 韓国内で製紙工場の工員を募集しているという虚言に騙されたCさんが被害にあったのは十七歳の時だった。家の手伝いと牛の世話をする日々の中で自立心が芽生えて、集合場所に行くと大勢の同年代の女性がいた。ソウルに行き汽車に乗って、鴨緑河を渡り、満州に行った。応募者は別々の場所に行く事を告げられて、日本やフィリピンに行く女性もいると聞いた。Cさんが初めに行ったのはチチハルの慰安所だった。その後慰安所(駐屯地)を転々として、その度毎に日本名を変えられた。ヨシコ、サダコ、テルコ、マツタケなどと呼ばれた。慰安所は将校と兵士とでは入り口が異なり、皆行為を済ませるとすぐに出て行き、宿泊する者はいなかった。週末には20―30人の相手をさせられ、おにぎりを作るように命令された事もあった。
※Dさんの被害
 中国山西省の農村で育ったDさんは、1942年8月十五歳の時に、自宅に押し入ってきた日本兵4人に拉致された。日本兵は泣き叫ぶDさんの口に詰め物を入れ、後ろ手で紐を縛り、ロバで駐屯地に連行した。駐屯地に着くと岩山の洞窟に入れられ、中国人の番人が入口の扉に鍵をかけて監禁した。奥行は3m程で大人の男の身長幅しかない石洞には、藁や麻袋が敷かれていて、トイレの代用品とわかる桶が片隅にポツンとあり、奥の方に二人の女性が座っていた。三人は次々と、時には同時に日本兵に強姦された。抵抗すれば日本兵は靴やベルトで暴力をふるい、順番を待つ兵士は見て見ぬふりだった。唯一外出できるのは、桶に溜まった糞尿を捨てる時だけだった。逃走など考えられなかった。逃げれば自分だけでなく家族や村人にまで危害が及び捕って殺されるから、我慢するしかなかった。食事は日に三度食べた日もあったが、一回の日もあった。冷えた粟粥かトウモロコシの粥が主食だった。Dさんを連れ戻そうと家族がお金を持ってきて直談判した事もあったが、日本兵は聞く耳を持たなかった。強姦と暴力が繰り返される日々が続き、もう役に立たない身体になってDさんは解放された、石洞に入って5カ月が経っていた。何十年経っても恐怖心は消えず、心の傷は癒される事はなく、日本軍が憎いという思いと謝罪をしてほしい気持は、「50年以上たった今も薄れることはありません」とDさんは訴える。Dさんは重いPTSDを発症し苦しみながらも日本と戦った(※95年8月訴訟を参照)。
※Eさんの被害
 中国海南島の少数部族のEさんは、1941年初冬1十四歳の時に拉致された。銃を持った日本兵2人と通訳1人に、「炊き出しをしてくれないか」といわれ、「断われば両親に危害が及び逮捕する」と脅された。駐屯地に着くと監禁されて強姦された、そこには同じ部族の年上の女性がいた。三か月程経ったある日の事だった、日本兵4人がかりで大型トラックに載せられ海南島南部に連れて行かれた。二階建のレンガ造りの家(慰安所)に住まわされ、もう一人の女性と共に強姦される日々が繰返された。抵抗しては殴られ、短銃で脅されて、食欲は失せ身体は悲鳴を上げた。家の中といっても自由はなかった。歩く事は許されず、階下へ降りる事も出来なかった。地獄の日々を三か月過ごして、再び元居た駐屯地へ連れて行かれて終戦まで生き地獄は続いた。
 26歳で結婚したEさんは、九回妊娠し8回流産した後に女の子一人を授けられた。Eさんは60年以上経っても見知らぬ男を見ると恐怖心が走り、日本兵が行為に及んだ時の事をふと思い出すと、涙が流れ出たりめまいがして立っていられなくなった。そして一方的な被害者である筈なのに、日本兵の相手をした女として、同郷の者に蔑視された……そう語った。それでもEさんは勇気をふるい裁判に訴え出た。それが※海南島裁判である。

※中国山西省“孟県”の被害(※関釜裁判を参照)
 孟県河東では簡易慰安所やヤオトンで継続的な輪姦が行われた。簡易慰安所とは、慰安所の設置がなかった小部隊が軍指令部等にならい、地元の有力者らに女性を集めさせて民家を接収した強姦所をいう。ヤオトンとは、山の斜面を掘って作った建築様式の家屋ををいい、(小)部隊が入村した時や掃討作戦等の際に暴力的手段で女性を拉致監禁し強姦し輪姦に及んだ。
 〇被害者Mさんの話
 Mさんは三度日本軍に拉致された。接収したヤオトンの家屋に監禁されて拷問を受けて輪姦された。骨盤を損傷し身長が20cm縮むほどの重傷を負った。二度は自力で逃亡できたが、三度目に見つかった時は死人と見られ、裸のまま真冬の川原に放置された。重体のMさんを救ったのは近隣の高齢者だった。
 〇Wさんは抗日村長の夫が目の前で殺されるのを見て、その直後に激しい拷問を受けて意識を失いヤオトンに連れて行かれた。足が骨折していた。夫の後を追うにも激痛で身体の自由が利かず死ねなかった。ヤオトンの上には日本軍の砲台があり、連日複数の日本兵がきて重症のWさんを輪姦した。
 〇被害者Iさんの話
 簡易慰安所に監禁された女性の一人、Iさんは「逃げる事など考えられなかった」と話す、村民から集めた金が女性の家族に渡っていたからである。有力者は女性を徴集する為に、家族に対して「女性を差し出せば金儲けが出きる」と持ちかけ、女性を日本軍に引渡していたのだ。
 これら山西省の被害女性は、数日から数か月監禁され被害にあった。この様な強姦所は日本軍が赴く至る所に存在した。韓国生れのFさんは1939年十二歳の時におままごとで最中でいる時兵士たちに拉致され慰安婦にさせられた。


(3)―4:被害者等による訴訟例  
 以下は告訴例の一部とその司法判断であるが、これらの他にも世界各地の旧日本軍性奴隷被害者が、日本政府(国)や日本企業を相手に提訴し世界に向けて訴えている。
※スマラン慰安所事件
 終戦後の1945年10月15―19日ジャワ島スマランで発生した日本軍とインドネシア軍の武力衝突の際に、日本軍の一部隊が軍規に反してオランダ人女性35名を強制的に慰安所に監禁し、性奴隷にした事件。当該事件に対して48年ダビア臨時軍法会議が開かれ、関係加害者に対して有罪判決が下された。1942年3月日本が軍政を敷くまでのインドネシアは、オランダの植民地(オランダ領東インド=蘭印と呼んだ)であり、ジャワ島を含む蘭印の島々にはオランダ人が多く移住していた(※蘭印作戦を参考)。

※関釜裁判
 1992年12月25日韓国釜山の元従軍慰安婦被害者三名が、山口地裁下関支部に提訴した事から下関裁判の呼称で知られる。1998年4月27日慰安婦等被害者訴訟裁判で初めてとなる判決がにいい渡された。山口地裁は慰安婦被害と慰安所問題に関して……「国会が被害者を救済する為の立法的措置を講じなかった事は違法」とし、国の賠償責任を認め、婦被害者三名に対して各々30万円の賠償金の支払いを命じた。裁判所が“立法不作為の判断”をした事で議員立法制定の動きに繋がった、画期的な判決であった。更に裁判長は次の様に述べている。
「従軍慰安婦制度が所謂ナチスの蛮行にも準ずべき、重大な人権侵害であり、これにより慰安婦とされた多くの女性の被った損害を放置する事も、又新たに重大な人権侵害を引起す事をも考慮すれば、遅くとも内閣官房長官(河野)談話が出された1993年8月4日以降の早い段階で、先の作為義務(積極的に行うべき義務)は、慰安婦原告らの被った損害を回復する為の特別の賠償立法をなすべき日本国憲法上の義務に転化し、その旨明確に国会に対する“立法課題”を提起したというべきである」――加えるならば「アジア女性基金」は95年7月19日既に発足していた。
 だが広島高裁で開かれた控訴審では原告敗訴となり、最高裁で請求は棄却となった。この間被告は十名にまで増えていた。

※95年8月訴訟
 8月7日東京地裁提訴の中国山西省慰安婦被害者四名による裁判では、原告女性のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるパニック状態で審理は度々中断した(被害者※Dさんである)。争点は慰安所制度が、▽奴隷条約とその国際慣習法▽強制労働禁止条約▽婦女売買禁止条約(醜業条約)▽※ハーグ条約▽人道に対する罪に関連する国際法と国際慣習法▽戦争犯罪に関する国際法と国際慣習法等に、違反するとの原告の主張を認定するかにあった。
 2001年5月30日東京地裁は「国際法とは国家間の関係を規定するもので、被害者個人が直接国際条約を根拠にして、日本政府に対し賠償請求はできない」とし、「国も被害者個人の請求に対して国際法を根拠とする主張はできない筈である」とした上で、※国家無答責により原告敗訴の判決が下った。更に控訴審で高裁は、日本軍による拉致連行と監禁は認定したものの、04年12月15日「加害事実は認めるが(裁判所は)裁かない」として原告敗訴となった。
 ――※ハーグ条約
 ハーグ陸戦条約の四六条には「占領軍は占領地の人民の権利を尊重せねばならない」とあり、「家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の信仰及びその遂行は、これを尊重するように」と定めている。更に同六条には「――交戦当事者は損害がある時には、賠償の責任を負うべきものとする。交戦当事者は、その軍隊を組織する人員の一切の行為について責任を負う」との規定がある。
 ――※国家無答責
 国家は個人が犯した戦争犯罪の責任を負わなくてよいとする考え。8月訴訟で裁判所は「戦前の日本は政府や行政等の違法行為について、賠償請求を認める法律がなく、軍隊内で違法行為が行われていたとしても、法律のない状況下で行われた行為については、損害賠償を求める事は出来ない」とした。

※96年2月訴訟
 95年8月訴訟と平行して審理された為「第二次訴訟」とよばれる当該裁判で※東京地裁は、02年3月29日原告(山西省の被害女性二名)敗訴としたが、控訴審で被告の国は1952年に締結した「日華平和条約にある――被害者の戦争賠償請求権は放棄されている」というこれまでにない主張を展開。05年3月18日高裁は国の主張を指示し被害者の請求を破棄した。更に07年4月27日最高裁は「日華平和条約は適用できず、日中共同声明により被害者の請求権は放棄された」とした。つまり高裁が根拠とした「日華平和条約」は日中共同声明の※国交回復三原則で既に破棄されており、効力自体が無効という判断だったが、最高裁が根拠とした“日中共同声明”には個人の賠償請求権放棄はうたわれていない。つまり日中共同声明を理由に「個人の賠償請求権が放棄されたとする判断は出来ない」のである。だがこの最高裁判決が、後の戦争被害者敗訴の根拠、判例となってしまう。
 ――※東京地裁の判決と付言
  <判決
「本件加害行為は、『戦争は平時においては許されなかった行為をも許容する』といわれる戦時下の所業であったとしても、これが国際的に是認されるという余地は凡そ無かったものであると言わざるを得ない。(中略)本件加害行為が国際法に違反するという原告らの主張は、これが国際法の次元において、凡そ是認される余地のない著しく愚劣な蛮行であったという意味では、これを十分に首肯することができる」
 ――として被害事実の真実相当性を認め、立法府と行政府に対して以下の付言を加えた。
  <付言
「戦後50有余年を経た現在も、又これからも本件被害が存命の被害者原告である原告ら、或いは既に死亡した被害者原告らの相続人、或いは訴訟承継人である原告らの心の奥深くに消え去る事のない痕跡として残り続ける事を思うと、立法府、行政府においてその被害救済の為に、改めて立法的、行政的な措置を講ずることは十分に可能であると思われ、(中略)いわば未来形の問題解決として、関係当事者及び関係機関との折衝を通じ、本件訴訟を含めて、所謂戦後補償問題が司法的な解決とは別に、被害者らの直接、間接的に何らかの慰籍をもたらす方法での解決が望まれる事を、当裁判所として付言せざるを得ない」

※海南島裁判
 2001年7月(中国)海南島戦時性暴力被害損害賠償訴訟と銘打った裁判で、原告女性八名は3百万円の賠償金と謝罪広告を求めて日本政府を提訴した。が当時の小泉内閣は「慰安婦問題は解決済み」とした事から、04年全被害者の救済を求めて訴因を変更し、損害賠償請求額を2千万円に切替えた。精神科医の「破壊的な体験後の持続的人格変化とする証言」を得て行われた裁判は、国が認否を明らかにせぬまま、06年8月30日東京地裁は「国家無答責と※除斥期間が経過した」として、原告敗訴の判決を下した。09年3月26日東京高裁での控訴審では、何人もの被害者が来日して陳述したが、争点の一つとなった「戦後の被害者が発症した症状」に関して高裁は、一部の被害者の「破壊的な体験後の持続的人格変化」は認定したものの、「請求権は存在するが、日中共同声明で請求権は放棄されているので日本政府の賠償責任はない」とし賠償請求を棄却した。一方で高裁は次の様に述べた。
「被害女性らは本件加害行為を受けた当時十四歳から十九歳迄の女性であったのであり、この様な被害女性に対し、軍の力により威圧し或いは強迫して、自己の欲求を満足させる為に、凌辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は極めて卑劣な行為であって、厳しい非難を受けるべきである」として※被害事実は認定したが、賠償請求を棄却した為、被害者は上告した。最高裁は2010年3月2日、※96年2月訴訟の最高裁の判断を根拠に上告を棄却した。――※海南島を占領を参照。
 ――※除斥期間
 民法七二四条は「法行為の事実があった時点から二十年の間に請求しない場合、その請求権は消滅する」としており、司法は不法行為を時効とした。
 ――※被害事実を認定
 賠償請求は(一部を除き)認められなかったものの、▽旧日本軍は加害者である事▽国策として慰安婦制度を作った事▽慰安婦制度は多くの女性の尊厳を奪う違法行為だった事――を日本の司法が認めた意義は重大であり、特に裁判所が証拠を調べ上げて被害事実を認定した事は(別の判例を含め)、行政府と立法府が否定する事のできない、歴史上の事実として認めたわけである。次の様な判例もある。

※2016年裁判
 旧日本軍慰安婦二十名が日本政府を提訴した裁判で、ソウル地裁は訴えを棄却、続くソウル高裁は11月23日元慰安婦一人に対して約2億ウォン(約2千3百万円)の賠償を命じた。日本が主張する※主権免除を認めないとする判断だった。
 ――※主権免除
「主権国家は、他国の裁判権に従う事を免除される(国家の行為や財産は他国の裁判所で裁かれない)」とする慣習国際法上の原則。だが近年、例えばブラジル最高裁では第二次大戦中のドイツの不法行為に対して“主権免除を否定する”判決が出ており、反戦への強い意志と被害者に寄添おうとする強い意識が示された判決として知られている。日韓基本条約(請求権協定)を理由に慰安婦問題や慰安所制度を解決済みとする日本(人)が、世界中の人々とかけ離れた人権意識なのかを受容すべきと指摘する声は数多に上る。2011年8月30日韓国の憲法裁判所は「韓日両政府の間に、日本軍慰安婦問題の法的解釈を巡って意見の相違があるにも関わらず、日韓請求権協定に規定された手続きにより、解決に向けて努力しない事は憲法違反」とする判決を下した。
 強姦に耐えかねて自死を選択するほど、裁判中パニック発作で審理が中断するほど、被害を受けた女性は傷つき、一生癒えない傷を負わされたのである。その為敢えて被害の詳細を掲載しない或いは控えて出版する書籍も多い。被害女性が証言をする事がどれほど勇気が必要な事であるかを、そしてその事実について、日本人はどこの国の誰よりも考えなければならない――「国際社会の勧告」である。


(3)―5:近年の韓国の動き
《1988年》
 ・2月韓国教会女性連合会が主に福岡・沖縄県を調査して得た「挺身隊踏査報告」を発表。
 ・7月「挺身隊研究委員会」を設置。

《1990年》
 盧泰愚ノテウ大統領の訪日前の当年5月18日に発信した韓国女性団体の声明を受けて、5月25日韓国外相は日本政府に対し「強制連行被害者の名簿作成の為の協力」を要請した。この事を受けて6月6日参議員予算委員会で日本社会党議員が強制連行について質問し、更に慰安婦の実態調査をするよう政府に迫った。それに対し労働省職業安定局長は慰安婦について「民間の業者がそうした方々を、軍と共に連れて歩いた(事なので)調査はしかねる」と答弁し、又「飽くまで民間業者が行った商行為であり、政府や国が関与する事ではない」と答弁。名簿作りを要請した女性団体はこの発言に強く反発、37の女性団体と共に韓日政府に対し10月公開書簡で次の事を要求した。
  (1)従軍慰安婦強制連行の事実を認める事  (2)公式に謝罪をする事  (3)蛮行のすべてを明らかにする事
  (4)慰霊碑を建立する事  (5)生存者や遺族に補償する事  (6)歴史教育で事実を語り続ける事
 女性団体は11月韓国挺身隊問題対策協議会=挺対協を結成して活動を活発化させた。日本でも市民グループやキリスト教団、労働組合等が強制連行、慰安婦、徴用工等の諸問題に取組み始めた。

《1991年》
 ・8月14日:金学順さんが記者会見で日本軍慰安婦だった事を告白。初めての公式な公表だった。
 ・9月:韓国教会女性連合会がソウルに「挺身隊申告電話」を設置し、翌10月には釜山に「女性の電話」を開設すると、多くの慰安婦被害者が申告した。
 ・12月6日:金学順さんら慰安婦被害者三名と韓国太平洋戦争犠牲者遺族会三十二名(軍人軍属及びその遺族)が、日本政府に対し謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴(翌年4月被害者六名が原告に加った)。
 ・12月:日本政府が従軍慰安婦関係の資料等の調査を開始。同月韓国ソウルで「アジア女性人身売買問題会議」を開催。


《1992年》
 ・1月8日:韓国ソウルで第1回※水曜デモ。
 ――※水曜デモ
 1991年12月6日金学順さんら三名が韓国太平洋戦争犠牲者遺族会と共に日本政府に対して慰安婦問題の謝罪と補償を求め提訴。これに対し当時の加藤紘一官房長官は、▽政府機関が関与した資料は発見できない▽日本政府が挺身隊問題に対処するのは困難と発言。発言を発端に宮沢喜一首相の訪韓を控えた92年1月8日、ソウルの日本大使館前で行われた抗議集会がデモに発展。その後集会は常套化し、毎週水曜日に同じ場所で行われる集会を“水曜デモ”と呼ぶ様になった。水曜デモは阪神淡路大震災の犠牲者追悼で休んだ日を除いて毎週行われている。又2011年12月14日には「平和の少女像」の足元には、韓国語(ハングル)・英語・日本語の碑文を刻んだ※平和の碑が建立された。その平和の碑には次の内容が刻まれている。

  【※平和の碑――】
 〔1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、ここ日本大使館前で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する。〕

 ・1月11日:日本で慰安婦の徴集と慰安所の設置に日本軍が関わった「防衛庁公文書」が発見されたと報道。
 ・2月:国連人権委員会に初めて「慰安婦問題」が提起された。
 ・6月:韓国仏教人権委員会女性分科会が「ナヌムの家準備委員会」を発足させ、11月ソウルの※ナヌムの家で慰安婦被害者六名が共同生活を始めた。
 ――※ナヌムの家
 準備委員会の設立から五カ月後の11月挺対協が主管となり、ソウル市内に六名の元慰安婦被害者が共同生活できるナヌムの家臨時施設の運用が始った。ハルモニの生活の場として、又戦時中の性暴力の歴史教育を行うなどして、ナムルの家の言葉のとおり“分け与える家、分かち合う家”としてその役目を果たしつつ存在している。
 ・7月:比で「フィリピン人元慰安婦の為の調査委員会」結成。同会は前年12月開催の「アジア女性人身売買伊問題会議」の呼び掛けに応じて結成された。
 ・7月6日:日本軍関与の防衛庁公文書発見の報道を受けて、日本政府が(第1回)調査結果を発表。軍の関与を認めながらも「強制連行を示す資料はない」とした。
 ・8月10日:ソウルで「第1回挺身隊問題解決のためのアジア連帯会議」開催。韓国の他に台湾、タイ、フィリピン、香港と、加害国の日本の市民団体が参加し連携を強めた。

《2009年》
 ・5月:韓国で挺対協が「戦争と女性人権博物館」を設立。

《2012年》
 ・09年韓国公職選挙法の改正に伴い、日本の国政選挙に韓国籍の在日コリアン等、韓国外の定住者が初めて参加。大統領選も投票可能となった。

《2015年》
 ・12月:日韓国交正常化50周年――日韓合意。

《2017年》
 ・11月24日:韓国国会が、金学順さんが従軍慰安婦だった事を初めて告白した、8月14日(1991年)を「日本軍慰安婦被害者追悼の日」に制定。国の記念日とした。韓国民はこの日を「日本軍慰安婦をたたえる日」として、生没の別なく被害者に寄添っている。

《2019年》
 ・2月8日:韓国文在寅政権の国会議長文喜相ムンヒサン氏が「天皇が慰安婦の手を取って一言謝罪をすれば解決する」旨を米国ブルームバーグニュースのインタビューで発言。

《2023年》
 ・3月:韓国で尹鍚悦政権が、元徴用工・元女子挺身隊等強制動員の被害者に支払う賠償金を、日本に代り日帝強制動員被害者支援財団が支払う事を決定。


(3)―6:近年の日本政府の主な動き等
《1991年》
 ・12月:日本政府が慰安婦問題に関わる資料等の調査を開始。

《1993年》
 ・8月4日:日本政府が慰安婦問題等に関する韓アウル第2回調査結果と※河野談話を発表。――この年の4月2日フィリピン人ら十八名の元慰安婦被害者の内二名が東京地裁に提訴し(後に28名が加わる)、4月7日宮城県在住の韓国籍の元慰安婦被害者が単独で東京地裁に提訴した。
 ――※河野談話発表の経緯
 92年7月6日の第一回調査結果で日本政府は、従軍慰安婦の政府関与は認めたものの▽強制連行は無かった▽警察や労働省の資料は一切ないとしたが、乱暴な調査に対する海外からの批判を受けて第二回の調査を行い、元慰安婦や軍人、慰安所経営者らから聞き取りを実施。93年8月4日「慰安婦の募集や移送、慰安所の設置、管理の軍関与を認める」結果を発表をすると共に河野談話を発表した。
 ――※河野談話
「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接或いは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言(相手の気に入る様な甘い言葉)、強圧によるなど総じて本人たちの意思に反して行われた。何れにしても、本件は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府はこの機会に、改めてその出身地のいかんを問わず、所謂従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、身心にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し心からお詫びと反省の気持を申し上げる。又その様な気持を我が国としてどの様に表すかという事については、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 我々はこの様な歴史の真実を回避する事なく、寧ろこれを歴史の教訓として直視していきたい。我々は歴史研究、歴史教育を通じて、この様な問題を永く記憶に留め、同じ過ちを決して繰返さないという固い決意を改めて表明する。尚本問題については、本邦において訴訟が提起されており、又国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい」
 以上の様に「歴史の教訓として直視し、同じ過ちを決して繰返さないという固い決意」を表明し、以後歴代首相も“河野談話を踏襲する”とした。が……

《1994年》
 ・6月:自民/社会/さきがけの連立政権発足。
 ・8月:村山富市首相が戦後50年を迎えるにあたり※村山談話を発表。平和友好交流計画を打ち出し、慰安婦問題については「国民参加の道を共に探求したい」とした。又当談話に基づき与党三党は戦後50年問題プロジェクトを組み、「従軍慰安婦問題等小委員会」を設置した。
 ――※村山談話
「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明致します。又この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」
 ――※村山談話の評価
 ▽閣議決定を経た事▽侵略をし損害と苦痛を与えた事実を明確に認めた事▽犠牲者へ哀悼の意を捧げた事▽未来の為に痛切な反省と謝罪を表明した事▽以後の歴代内閣も同じ立場を継承するとした事――を評価する声と、慰安婦問題は解決済みとする声が上った。
 ・12月:従軍慰安婦問題等小委員会が※第一次報告をまとめ、「元慰安婦を救済する基金を創設する案」を提示。
 ――※第一次報告
 従軍慰安婦問題等小委員会は「日本政府は賠償、財産及び請求権問題は条約等に従い、国際法上も外交においても誠実に対応してきたが、戦後50年を機会に道義的立場から、その責任を果たさなければならない」として基金案(アジア女性基金)を示した。

《1995年》
 ・7月19日:「女性のためのアジア女性平和国民基金(略称アジア女性基金)を発足。
 ・8月15日:全国紙に※村山首相の挨拶を掲載し、※アジア女性基金への拠出=募金を募った。――この年から中国山西省の慰安婦等性被害者が相次いで日本政府を相手に提訴(95年8月訴訟/96年2月訴訟)し、2001年迄に(98年10月台湾被害者訴訟を含め)合計10件提訴があり、裁判所は内八件で「被害事実を認定」した。
 ――※村山首相の挨拶
 所謂従軍慰安婦の問題は――「旧日本軍が関与し多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、到底許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対して、深くお詫びを申し上げたいと思います。この度発足する『女性のためのアジア平和国民基金』は、政府と国民が共に協力しながら、これらの方々に対する国民的な償いや医療・福祉の事業の支援などに取組もうというものです。呼びかけ人の方々の趣意書にも明記されている通り、政府としても、この基金が所期の目的を達成できるよう、責任をもって最善の努力を行ってまいります。同時に、二度とこのような問題が起こる事のないよう、政府は過去の従軍慰安婦の歴史資料も整えて、歴史の教訓としてまいります」
 ――※アジア女性基金
 7月19日発足の当該基金は、旧日本軍性奴隷被害者に対し次の内容で「国民的な償いの事業を政府と二人三脚で実施する」とした。
   (1)被害者に対して首相によるお詫びの手紙を送る
   (2)国内外からの民間基金(募金)により被害者一人あたり200万円の償い金を支給する
   (3)政府出資による※医療福祉支援事業を実施する
 対象者を「該当国や地域の政府ないし、政府の委任による民間団体が認定した元慰安婦に限定」して発足したアジア女性基金・償い事業だったが、発足過程で“日本軍の法的責任を認めその責任を負おうとする勢力”と“法的責任を否定する勢力”のせめぎ合いとなり――日本に対する国際社会の非難と、法的責任を追及する声をかわす為に両勢力が妥協し合って講じた“苦肉の策”との指摘が上った。尚村山首相のお詫びの手紙は、国会決議等を経たものでは無かった。
 ――※医療福祉支援事業
 住宅改善・看護サービス・医薬品補助等に約7億円相当を拠出するとして、支援の対象を▽韓国と台湾人に一人当たり300万円相当分▽フィリピン人一人当たりに120万円相当分▽オランダ人に一人当たり、(償い金の支給を行わない為)300万円相当分とするとした。1)―3)を実施するとした償い事業だったが、以下の通り各国地域により対応は分れた。
 〇韓国の反応――
 法的責任を免れようとする日本の意図は、韓国民のみならず金泳三政府も分っていたが――▽首相のお詫びの手紙に軍関与を認め歴史の教訓とする内容を含んでいた事▽被害者の要求がある程度含まれていた事から、95年6月15日アジア女性基金を受入れる決定をした。が被害者と挺対協等支援団体が基金に反対する運動を展開すると、韓国政府は「毎月一定額の生活支援を実施する」事を決定し、一方支援団体等は「償い事業を受入れない被害者の為に募金活動」を開始し且つ反対運動を更に強化、その最中の97年1月日本が密かに、償い事業1)・2)を被害者に手渡すなどした為、韓国内では抗議と批判が渦巻き、韓国政府も不快感を表明(97年1月12日遺憾の意を表明)した。受領した被害者も又批判に晒された。
 韓国政府は98年4月償い事業を拒否する被害者に対して支援金を支給する事を正式に表明。且つ日本政府に対して事業の中止を求めたが、日本政府は受入れずに事業を継続した。そうした経緯を経て韓国政府は「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」を制定し予算を編成して、存命の被害者に対して医療費と生活費等「一時金4千3百万ウォン(約483万円)と毎月100万ウォン(約11万2千円)を支援する」決定をし、2002年12月法令の改正を経て、2014年5月時点で「被害者54名が支援を受けている」と公にした。
 〇台湾の反応――
 台湾では既に立法府と台北市婦女救援福利事業基金(婦援会)が協力して「慰安婦問題対処委員会」を発足させ慰安婦の認定を進めていたが、償い事業の内容に婦援会は強く反発。立法院は日本政府に対し法的責任を認め謝罪と賠償を求める署名活動を展開した。婦援会はオークションを開き被害者に約2百万円を手渡しし、台湾政府は日本政府の法的責任に基づく「賠償が実現する迄の立替金」として2百万円を支給した。
 〇フィリピンの反応――
 政府による支援策が無かった為、比では支援団体が被害者を支えた。団体は償い事業に反対だったが、受領の判断は被害者本人に任せた。その結果2)償い金は受取るが、1)手紙は拒否、3)医療等の事業は納得できないとする被害者が出た、一方で当該基金を支持する方もいた。その様な中で慰安婦被害を名乗り出た女性は2000年迄に約450名に上った。
 〇インドネシアの対応――
 二つある日本軍性暴力被害協会に登録した被害者が、2万2千680人超のインドネシアでは、慰安婦被害に加えて強姦被害が含まれていた為、日比両政府は認定困難と判断し、個人を非対象として、既存の「高齢者福祉施設整備事業」を行う事で合意。結果97年3月、十年間で3億8千万円を拠出する覚書を交した上で、施設への入所(居)選定条件を被害者優先としてスタートさせた。が広報等の周知不足により、被害者とは関係ない一般の高齢者が数多く利用する結果となった。
 〇オランダの対応――
 個人補償を求めたオランダでは協議の結果、医療福祉支援を個人に対して行い、その費用を日本政府資金の国庫拠出にする事で合意した。98年8月オランダ事業実施委員会は、被害者に向け各国の新聞等で申請を呼び掛け、名乗り出た申請者107人の内79名を被害者と認定。一人当たり3百万円の医療福祉にかかる費用を負担し、被害者に対してコックと橋本龍太郎両首相の書簡を届けた。
 ……凡そ11年8カ月続いたアジア女性基金は、2007年3月末のインドネシアへの支援を最後に“事業の目的は果した”として解散された。日本政府によるアジア女性基金・償い事業を受けた国別人数は公表されていないが、次の様にまとめた資料がある。
 ・募金総額5億6千9百万円(5億6千5百万円の資料もある)を原資として、04年迄にアジアの被害者170名に償い金は支払われた。受取り拒否は115名だった。
 ・国庫拠出の医療福祉支援の総計7億5千万円。被害者に直接充当された医療福祉支援の国庫拠出は48億円(2005年末外務省発表)。――差額40億5千万円は設備投資等のハード面や事務経費等への拠出だった。
 ・韓国、フィリピン、台湾の被害者285名が償い事業(2)(3)を受け、うち韓国人は1/4にあたる61名だった。
 ・お詫びの手紙の受理数は不明。
 アジア女性基金・償い事業の目的を、日本政府は「被害者の名誉と尊厳回復の為」としつつ――▽多くの被害者が基金の受取りや支援を拒否した事▽日本の国費負担が極めて少なかった事▽国費負担が二次的救済措置の医療福祉支援のみだった事▽精神的支援が不十分だった事が、“つぐない”を掲げる日本政府に対する疑念を深め、形式だけの償い事業と受止められた。被害者が求める日本政府の謝罪と賠償がなく、反省の伴わない償い事業は被害者や関係者の感情を逆撫でし、然も中国、北朝鮮、マレーシア、東ティモール、ビルマ、日本人の被害者は対象とならず、且つ“被害国地域の政府か、政府に委任された民間団体が認定した元慰安婦に限り実施する”とした事を含めて、“日本政府に誠意はない”と烙印を押された形で事業は終った。(後記の※2001年国連社会権規約委員会の勧告を参照)。

《2000年》
 ・12月:東京で※女性国際戦犯法廷を開催。
 ――※女性国際戦犯法廷
 性奴隷被害国のNGOと、加害国日本のNGO、それに戦時の性暴力根絶を訴える世界中の女性の訴えで実現した当該法廷「日本軍制奴隷を裁く女性国際戦犯法廷」は、当時の国際法に基き、旧日本軍の慰安婦制度、即ち性暴力被害を公平に裁き、責任者の法的責任を明確にする目的で開催された。東京で12月に開廷した法廷には1千人余が傍聴に訪れ(外国からは4百人超)、八つの国と地域から64名の被害者と各国検事団が集結した。被害者はその体験を生々しく有りのままに証言し、加害者の日本軍元兵士も加害体験を告白した。研究者らも登壇して「日本軍性奴隷」という言葉を使って証言し、被害者の人権回復の為に世界に向けて訴えた――国連では旧日本軍慰安婦の事を1996年クラワスワミ氏の報告により“軍性奴隷制度”と定義している。
 約一年間に渡る審理の末、01年12月国際的に著名な法律家や学者らで構成された判事団により判決は下された。昭和天皇以下訴追された軍責任者が、慰安所の設置と管理を行っていた事について――「国際法に照らし合わせ有罪である」と断罪。極東国際軍事裁判において戦犯の対象にならなかった昭和天皇を犯罪者として認定した。強制力のない民間人による法廷とはいえ、その審理から判決まで優れた理論の上に展開されて、国際的にも高い評価を受けた。が……日本のメディアの多くは報道しなかった。その事がどれだけ世界を失望させて、日本人に対する信頼を損ねたかを日本人は考えねばならない等各方面から強い指摘がなされた。

《2014年》
 ・6月:日本政府が河野談話の検証結果を発表し「河野談話の見直しはしない」と表明したが……
 ・8月:自民党政務調査会は政府に対し「河野談話の見直し」を要請。


(3)―7:植民地支配と侵略戦争に関る政治家等の発言
 ・田中角栄首相:1972年9月日中共同声明の際に「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた事の責任を痛感し、深く反省する」と発言。
        :74年1月「日韓併合時代に、日本は義務教育を実施し、今日まで立派に守られてきた」
 ・宮澤喜一首相:82年「過去に於いて我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に、多大の苦痛と損害を与えた事を深く自覚し、この様な事を二度と繰返してはならないとの反省と決意の上に立つ」
 ・藤尾正行文部大臣:86年「戦争で人を殺しても殺人罪にはあたらない。韓国併合は韓国にも責任がある」
 ・奥野誠亮国土庁長官:88年4-5月にかけて。「日本は韓国を侵略した事がない」
 ・海部俊樹首相:90年5月24日「過去のある時期、韓半島の皆さんが、日本の行為によって耐え難い苦難と悲しみを体験された事に対し、反省し率直に謝罪する」
――【91年12月日本政府が慰安婦問題に関わる資料の調査を開始】――
 ・加藤紘一官房長官:91年12月6日「政府機関が関与したという資料は発見できない。日本政府が挺身隊問題に対処するのは難しい」――同年8月14日日本軍慰安婦婦だった事を告白した“金学順さんらの日本政府の謝罪と補償を求めた提訴を受けての発言”だった。
 ・加藤紘一官房長官:92年1月11日中央大学教授が“慰安婦の徴集と慰安婦の設置に日本軍が関与した事を示す文書を発見した”との報道を受けて、「当時の軍の関与は否定できない」と政府として初めて軍の関与を認めた。
 ・宮沢喜一首相:92年1月17日韓国を訪問した際。慰安婦問題について「お詫び」を表明。
――【河野洋平官房長官が93年8月4日慰安婦問題について談話を発表】――
 ・細川護熙首相:93年8月23日所信表明演説で。「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらした事に、改めて深い反省とお詫びの気持を申し上げる」――首相として初めて“侵略と植民地支配”という言葉を使った謝罪だった。

 〇自民党歴史・検討委員会:細川首相の所信表明演説に反発した自民党議員105人が93年8月23日に発足させた当該委員会は、学者等の識者に向けて国民運動を展開する様提起し、94年12月には「終戦50周年国会議員連盟」を発足。95年8月15日(日本の)終戦の日に大東亜戦争の総括として以下を発表した。
  (1)大東亜戦争はアジア解放戦争であり、侵略戦争でなく、正しい戦争だった
  (2)慰安婦や南京大虐殺はでっち上げ
  (3)教科書にある、侵略戦争・加害(国)を削除させる戦いが必要だ
 96年6月上記(1)―(3)を支持する「明るい日本・国会議員連盟」と、翌7月「教科書検定問題に関する検討小委員会」、同年5月「日本会議国会議員懇談会」が夫々組織され、更に同年保守勢力が結集して「新しい歴史教科書を“つくる会”」が結成され、教科書からの慰安婦記述の削除キャンペーンを展開した。そして岡山県議会は96年12月教科書の慰安婦に関する記述の削除を求める審議を行い、97年にかけて各地方議会で同様の動きが広がりをみせ、採択を巡り世論は大きく揺れた。97年2月「日本の前途と歴史教育を考える“若手議員の会”」が結成され、中川昭一議員会長、安倍晋三議員事務局長の元で、後に閣僚入りする議員らは積極的に勉強会を重ね、国会外に影響を与えた。中でも教科書中の慰安婦の記述に反発した“自由主義史観研究会(95年組織)とつくる会”は、若手議員の会の支援を受けて、連携して侵略戦争・慰安婦・南京大虐殺等を掲載した教科書会社を攻撃した。
 この様な経過を辿り、1997年度の中学校の全歴史教科書に「慰安婦に関する記述の掲載」が始り、又小中高校の教科書の日韓関係史の記述が拡充された。93年の河野談話を受けて韓国金泳三政権が発した「日本軍慰安婦に関する記述を日本の教科書に掲載し歴史の教訓とすべき」とする意向が実った形である。
 だが01年になると、保守勢力の力が働き、つくる会の執筆した「新しい歴史教科書」が文科省の教科書検定を通過した。韓国政府は同年5月日本政府に修正を求め、日本政府は要求に応じ、翌々7月修正箇所の検証結果を報告。慰安婦問題等1)~3)は、▽学説的に誤りだとはいえない▽教科書(出版)会社に訂正の要求は出来ないとの内容だった。加えて日本政府は「村山談話を継承する」考えを明らかにし、両政府は同年10月「日韓歴史共同研究委員会を設置」する事で合意し、“新しい歴史教科書問題”を収拾させた。
 その後2002年度にはつくる会の歴史教科書を採用した学校は数校に留り、慰安婦の記述を掲載した教科書は三社にまで減り、同年4月つくる会の歴史観が反映された高校用の歴史教科書が検定を通過すると、反対運動やキャンペーンを展開した若手議員の会の活動は鈍化していった。
 だが2004年実施のセンター試験で「朝鮮人強制連行」の問題が出題されると、若手議員の会は「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」に名称を変え、同年6月国会議員のみならず、都道府県連に対して地方議員の参加を促す通達を出し、つくる会の教科書を全面的に支援する目的で《正しい歴史教育を子供たちに!》と銘打ったシンポジウムを開催した。安倍晋三自民党幹事長は挨拶の中で「従軍慰安婦という歴史的な事実はなかった。前回の教科書検定では左の勢力による『つくる会』に対する圧迫があり、言論の自由が奪われようとした。文科省にも教科書改善への働きかけを積極的に行っていく」と語った。シンポジウムを機に“慰安婦削除”を巡る動きは再び活発化し、政府や文科省からの教科書会社に対する圧力や、右翼の教科書会社への攻撃が強まった。
 加えて05年3―4月にかけては“独島・竹島問題”が浮上した。中山成彬文科大臣は教科書会社に対し「竹島が日本の領土である事を明記するよう」に迫り、下村博文文科政務官は「中高の教科書で慰安婦の記述を扱うのは適切でない」と、安倍晋三幹事長代理は「慰安婦問題を教科書記述から取り除かなければならない」と主張し、文科省は再び「新しい歴史教科書」を検定に合格させた。こうした経過を経て、教科書中の独島・竹島問題の記述が増えた一方で、慰安婦問題は減っていった。06年度つくる会の教科書を採用した学校は0,4%と決して支持はされなかったが、一般書籍として販売されるとベストセラーになった。

 ・細川護熙首相:1993年11月6日韓国金泳三首相との首脳会談で「日本の植民地支配で韓国国民の母国語を奪って、他国語の使用を強制し、軍慰安婦・労働省の強制連行等で耐え難い苦痛を強要した加害者として、日本がした事に対して深く反省し、もう一度真心を込めて謝罪する」と発言。
 ・永野茂門法務大臣:94年「南京虐殺はでっちあげ」と発言し着任早々更迭。
――【村山富市首相が94年8月戦後50年を迎えるにあたり(村山)談話を発表】――
 ・渡辺美智雄前外相:95年6月「日韓併合は円満に結ばれたもので有り、武力でなされたものではない」
 ・村山富市首相:95年10月「日韓併合条約は法的に有効に締結された」
 ・奥野誠亮前法務大臣:96年6月「従軍慰安婦は商行為だった」
 ・安倍晋三若手議員の会事務局長:97年「慰安婦だと言って要求している人たちの中には、明らかに嘘をついている人たちがかなり多くいるわけですよ」
 ・中川昭一農林水産大臣:98年「中学校の教科書に従軍慰安婦の記載があるのは問題」
 ・小渕恵三首相:98年日中共同声明で「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに深い反省を表明する」と謝罪。
 ・小渕恵三首相:98年10月8日金大中大統領との“日韓パートナーシップ宣言”で「我が国が過去の一時期、韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受止め、これに対し痛切な反省と心からのお詫びを表明します」と発信。当該宣言は河野・村山談話と並び“日韓間の三大重要文書”とされている。
 ・小泉純一郎首相:2002年「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明する」――日朝首脳会談時の平壌宣言を受けての発言(※平壌宣言参照)。内容は村山談話とほぼ同じという指摘を受けた。
 ・麻生太郎自民党政調会長:03年5月「創氏改名は朝鮮人が、日本の姓氏を要求して成立した」「台湾も日本のおかげで教育水準が上った」
 ・江藤隆美前総務庁長官:03年7月「日本は朝鮮を植民地支配して反省する点も多数あるけ(れ)ど、現代の基礎になった事も沢山した」
 ・中山成彬文部科学大臣:04年11月「やっと最近従軍慰安婦とか強制連行といった言葉が減ってきて本当に良かった」
 ・安倍晋三幹事長代理:04年6月「従軍慰安婦という歴史的な事実はなかった。前回の教科書検定では左の勢力により『つくる会』に対する圧迫があり、言論の自由が奪われようとした。文科省にも教科書改善への働きかけを積極的に行っていく」――新しい歴史教科書をつくる会を支援する目的で開催のシンポジウム《正しい歴史教育を子供たちに!》の挨拶での発言。
 ・下村博文官房副長官:06年10月27日河野談話について「もう少し事実関係をよく研究し、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と発言。
 ・安倍晋三首相:07年3月「強制連行された証拠はなかった」
 ・麻生太郎外相:07年2月「客観的な事実に基づいていない」――米国下院の「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」を受けての発言。
 ・安倍晋三首相:07年3月国会答弁で。「狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」
 ・麻生内閣:08年自由権規約委員会の勧告に対し「勧告に従う義務はない」と発言。――2)国際法上の法的責任を負うよう要求を参照。
 ・菅直人首相:2010年8月10日「村山談話の継承に加え、植民地支配の強制性を認める」とした。――慰安婦問題等が招いた問題を積極的に解決しようとした意味は大きかったと評する声が上った。菅首相は同年6月8日首相に就任していた。
 ・前原外務大臣:11年3月「我が国がオーストラリアの元戦争捕虜を含む多くの人々に対し、多大の損害と苦痛を与えた事に深い反省と、心からのお詫びを申し上げます」――シンガポールやインドネシアで日本軍の捕虜となった元豪軍兵士との面会で発言。政府を代表して謝罪した。
 ・野田佳彦首相:11年12月17―18日:日韓首脳会談で韓国李明博イミョンバク大統領が、慰安婦問題の解決を求めて(慰安婦問題の放置は)「日本にとって永遠の負担となる」と忠告。それに対し野田首相は「日韓条約で完全かつ最終的に解決された」と反論し、ソウル日本大使館前に設置の“少女像”の撤去を求めた。
 ・安倍晋三首相:12年9月自民党総裁選での発言。「河野談話で日本は不名誉を背負う事になった」
        :12年別月「人さらいの様に人の家に入って行って、慰安婦にした事を示すものはなかった」
 ・菅義偉官房長官:12年12月河野談話を見直すか問われ――「有識者で検討されるのが望ましい」
 ・安倍晋三首相:13年2月7日「強制連行を示す証拠はない」と再度発言し、「官憲が人さらいの如く、連れて行く強制性はなかった」と国会答弁。
        :13年4月23日侵略の定義について。「学術的にも国際的にも定まっていない。国と国とのどちら側から見るかという事において違う」と国会で答弁、したのに対し――
          ⇒国連総会で(特に)米国から「定義は決議している」と指摘されると……
        :「国連決議は単なる参考と承知している、侵略かどうかは国によって見解が異なる」と反論。
          ⇒国際社会の非難を受け安倍首相は……「村山談話を遵守します」と発言。
        :13年12月26日靖国神社を強行参拝した後、「中国、韓国は以前は抗議していない。AB級戦犯の合祀は靖国が密かに行った事」と発言。
          ⇒※大戦後の靖国を参照。
 ・安倍晋三首相:14年3月国会答弁で。「河野談話は見直さない」
 〇日本政府:14年6月「談話の見直しはしない」とする河野談話の検証結果を発表。
 〇自民党政務調査会:14年8月当調査会は政府に対し「河野談話の見直しを要請」。その後、朝日新聞が「慰安婦問題の記事は虚偽だった」として一部を取消した事を受けて、同会は「強制連行の事実や性的虐待は否定された」と決議。民間でも「慰安婦は新聞社による捏造」だとする論調が広まった。
 ・安倍晋三首相:15年8月戦後70年談話で「深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた」と言及。
        :15年12月日韓合意の際、従軍慰安婦の旧日本軍関与と政治責任を認め、同時に「日韓間で最終的かつ不可逆的な解決に至った事を確認した」と発言。
 ・岸田文雄外務大臣:15年12月日韓慰安婦合意の際に「心からお詫びと反省の気持を表明する」と発言。
 〇日本政府:16年2月国連の女性差別撤廃委員会で、日本政府は「強制連行は確認できなかった」と説明。
      :21年4月「従軍慰安婦ではなく『慰安婦』との表現が適切」とする閣議決定がなされ、教科書会社は決定に従い修正した。
 ・岸田文雄首相:21年12月「河野談話は見直さない」と国会答弁。
        :22年5月11日報道――独ショルツ首相に対し、▽慰安婦像を設置している事▽撤去の要請に応じないこ事に遺憾の意を伝えた。
 ――以上は政治家の極一部の発言だが、不適切な発言で最も多いのが、“慰安婦は公娼であり売春婦で、これらを生業として金を稼いでいた女性”とする類の商行為論であり、当時の公娼制度の下では「正当な商行為」だったとする考えである(※公娼制度を参照)。
 

(3)―8:慰安婦問題に対する※国際社会の勧告等
※1993年8月国連の差別防止・少数者保護小委員会
 小委員会特別報告者は慰安婦問題に関して、日本政府に対し「人権侵害の被害回復には、原状回復・賠償・更生・満足・再発防止保証が欠かせない」と指摘し、「慰安婦被害者は戦時に留らず、その後の人生にも深刻な影響を与え、原状回復は不可能である。が故に、被害者が納得できる誠意ある対応をするよう」求めた。だが日本の誠意は95年のアジア女性基金という大半の被害者が納得できるものではなかった。
 
※1998年8月国連人権委員会の勧告
  A:慰安所制度が国際法下で、その義務に反した事を(日本政府は)承認し、且つその違反の法的責任を受諾する事
  B:被害者個々に対して賠償を支払う事、多くの被害者が極めて高齢の為この目的の為に特別の行政審査会を短期間内に設置する事
 ⇒これらの勧告に対し日本政府は、「各国との条約等を締結する際、サンフランシスコ講和条約を踏襲して締結国の国民の請求権を放棄する」旨の回答をし、これに対してアジアの一部の(条約非締約国を始め)被害国は“請求権の放棄を認めず留保する”とした為、日本は被害国に対して経済援助という形で以下の意思を表明した。 
  C:日本政府が所持する全ての文章・資料の完全開示
  D:被害者に対して書面による謝罪を行う
  E:教育による認識を高める
 ⇒日本国民の慰安婦制度と被害の実態の周知、そして人権意識の改善だった。又国連人権委員会は……
  F:慰安所への女性らの募集と収容に関与した者の追訴を要求
 ⇒※国連人権委員会提出の武力紛争下の強姦・性奴隷制及び奴隷制類似慣行に関する最終報告は、「慰安所制度は奴隷条約の定義する奴隷制であり、仮にこのケースから外れるケースであっても、戦争法規に違反する強姦であり、しかも大規模に行われた為、人道に対する罪に当たる」と結論づけ、国際法違反の犯罪行為を行った日本国に、▽慰安婦制度を設置した責任者の追訴▽被害者の原状回復義務があると迫った。――尚国連人権委員会を含む各国連委員会は、裁判所の役割を果す義務を負っている(・麻生内閣を参照)。
※2008年国連自由権規約委員会の懸念と勧告
 08年10月当該委員会は、日本政府提出の「慰安婦問題報告書」に対して五回目となる審査を実施。日本政府に対して、次の様に懸念を示した。
 ⇒締約国(日本)は、▽第二次世界大戦中の慰安婦制度の責任を未だ受入れていない事▽加害者が訴追されていない事▽慰安婦問題に関する記述を含む歴史教科書が殆ど無い事▽幾人かの政治家及びマスメディアが被害者の名誉を傷つけ或いはこの事実を否定し続けている事に、懸念を持って注目する、日本は慰安婦制度について法的責任を受入れ、大半の被害者に受入れられ、且つ尊厳を回復する様な方法で無条件に謝罪し、生存している加害者を追訴し、全ての生存者に権利の問題として十分な補償を行う為の迅速且つ効果的な立法・行政上の措置をとり、この問題について学生及び一般の公衆を教育し、被害者の名誉を傷つけ或いはこの事実を否定する如何なる企てをも反駁(反論)し制裁すべきである。――とした上で、次の様に勧告した。
 (1)法的責任を認める事
 法的責任とは「国際法の下で犯罪行為にあたる、慰安所制度と管理を執り行った責任」をいい、国家は違法行為によって損害を与えた個人に対して謝罪し、賠償を行う「原状回復の義務」と「違法行為を行った者を処罰し、二度と過ちを繰返さない為の措置(教育により次世代に教訓として伝える等)を講じる事」が国際法上必要であるとした。
 (2)国際法上の法的責任を負うよう要求
「日本政府は各慰安婦被害訴訟において、▽国家無答責▽除斥▽サンフランシスコ講和条約により請求権は放棄されたとする“三つの主張”を使い分けて根拠とし、『すべて解決済みで法的責任はない』と主張するが、国連自由権規約委員会は、サンフランシスコ講和条約や日中共同声明等に基づく国家無答責や請求権放棄等の根拠は、“日本の裁判所のみで通用するもの”である」と強く指摘した。つまり日本という一国家の司法判断にすぎない、加害者への国際法上の賠償請求と法的責任は免れたわけではないとの指摘である。――尚日本は2006年の国連人権理事会設立時に(六十年間続いた人権委員会を06年国連自由権規約委員会に改編した)、自ら立候補してアジアグループの代表たる理事国となった。
 ⇒国連人権委員会は、国連の各委員会の中でも“最も人権について権威のある組織”とされる。人権とは、人間が生れながらに当然持っている生命・自由・名誉・尊厳等に関する権利をいうが、日本は理事国として人権問題を解決する責任があり、国連締約国からの日本に対する指摘、勧告、要求は……日本国民の人権意識に対する指摘、勧告、要求である。賠償問題は個別交渉とするとしたサンフランシスコ講和条約の締約国や、慰安婦被害者を出していない国の人々が、日本国に厳しい指摘と勧告等を決議した事は非常に重大だと指摘される。尚個別とは「一つ一つ・別々・夫々・一人一人・個々」を意味する。

※ILO国際労働機関の見解(1996―09年の調査を受けて)
「慰安婦は性奴隷であり、慰安婦制度は強制労働禁止条約(ILO29号条約)に違反する」と結論づけ、07年「日本政府が直ちに、その人数が年と共に減少し続けている被害者たちの請求に応じる措置を取る事を希望する、と断固として繰り返す」と日本に迫った。

※2001年国連社会権規約委員会の勧告
 ・アジア女性基金による償い事業、特に償い金の支給について当該委員会は「被害者が受入れられる措置になっていない」と懸念を表明し次の様に勧告した。
 ⇒「遅きに失する前に、元慰安婦の期待に沿う方法で、補償を行う為の手段に関して締約国日本は、被害者を代表する組織と協議を行い、適切な調整方法を見出す事を強く勧告する」
 ・03年同委員会は「日本政府報告審査の最終見解」に対して……
 ⇒「締結国日本が、いわゆる従軍慰安婦問題を最終的に解決する為の方策を見出す努力を行う事を勧告する」とした。

※2003年女性差別撤廃委員会の勧告
 ・日本政府のとったアジア女性基金による償い事業が「被害者の受入れられる解決になっていない」事を前提とし、又94年から重ねた討議を踏まえ――
 ⇒「締結国がいわゆる従軍慰安婦問題を、最終的に解決する為の方策を見出す努力を行う事を勧告する」とし、この勧告を最終見解=最後通告とした。

※2007年1月米国下院外交委員会
 日本政府の慰安婦問題の対応に対して、同委員会は「明瞭でなく曖昧である」として謝罪を求める決議案を提出、同年7月採択された。尚審議に入った3月1日に安倍晋三首相は「強制連行された証拠はない」と発言し世界を驚かせた。

※2007年11月オランダ・カナダ議会
 米国下院外交委員会と同様の決議を採択。

※2007年12月EU議会
 米国下院外交委員会と同様の決議を採択し、「裁判所における賠償獲得の現存の障害を除去する立法措置が、特に日本の賠償を要求する被害者の権利が、国内法で明確に認められるよう日本の国会に要求する」内容を議決項目に加えて、更に付加した。「奴隷貿易廃止後二百年。婦人及び児童の売買禁止条約、ILO29号条約等女性の人権を巡る国際環境の発展が妨げられてはならない」

※2008年国連人権委員会は日本政府にアイヌ民族との対話を勧告。
 勧告を受けて日本は、衆参両院本会議で「アイヌ民族を先住民族とする事を求める決議」を採択し、北海道平取町で「先住民族サミット アイヌモシリ2008」を開催した。


 ――終わりに
 2024年現在、日本に於いてもジェンダー平等や女性活躍を推進する声が高まりつつあるが、WEFのジェンダーギャップ(男女格差)報告によると、日本の順位は毎年下位にある。順位の低さは人権意識の低さを表している。G7に対して提言を行うGEAC=ジェンダー平等アドバイザリー評議会の委員(日本人女性)は、この状況を危惧し「(日本は)本当に変える気があるのか」「日本は女性を『可哀想な立場』に留めていないか」と訴える(東京新聞掲載)。ここでいう日本は、日本政府や日本の政策・制度等に限らず、有権者とこれから有権者になる日本人一人一人をさしている。例えば、2024年10月27日投開票の衆議院選挙の結果をみると(女性議員の数は増えはしたが)、ことに「本気で変える気があるのか」の言葉を表しており―――全体の投票率は53.8%、うち男性は54.30%、女性は53.42%に留まり、これらの数字は日本に女性の国会議員が少ない原因の一つとなっている。更に“敢えて”いえば、「ジェンダーギャップの解消を争点に」して、選挙権を行使しなかった有権者(出来なかった方は除き)が選挙に行き、又「女性候補者を全体の1割台しか立てない政党(選挙権の無い方はご自身で調べてみて下さい)とその候補者を除外して」票を投じていれば、日本のジェンダーギャップは一気に数字上は改善するのである。GEACの委員は……“日本は”のところを「自分は/日本人の女は/日本人の男は/日本人は」に置きかえて、「本当に変える気があるのか」「女性を可哀想な立場に留めていないか」よくよく考えなさい、と訴えたかったのではないだろうかと、私は思う。
 又国会議員が靖国神社に参拝したり、(侵略)戦争を美化する言行があると、中国や韓国等の人々は強く抗議し「歴史を学ぶべきだ」という。確かに日本人の大多数は学校で歴史を学んできたが、学校教育には踏み込めない領域があり限界がある(小中高等学校までは暗記教育だとする声もある)。自ら学ぼうとしなければ解らず仕舞いの事が数多くある中で、彼らの言葉を素直に受け入れられる人間になる為にも、歴史を学び、歴史に学ぶ姿勢が、求められているのではないだろうか。
 特記事項に慰安婦被害問題を多く割いたのには、多くの日本人が、(国政選挙の選挙行動や選挙結果をみても明らかだが)元日本軍慰安婦や性奴隷にされた女性を、女性の対象とせず、同じ人間として認める気持を欠いているからである。その事がどれだけ世界中の人々と掛け離れた認識なのかを、日本人はよくよく考えなければならないのではないだろうか。例え将来ジェンダーギャップの順位が上って行ったとしても、自国民が犯した植民地支配・侵略戦争の歴史を省みる姿勢と、被害国の人々に対する反省の気持が国全体に及ばなけば、「日本人の人権意識は低い」「私たちとは違う」「日本に期待しても無駄」という意識が世界に定着し、結果恒久的に日本人の人間性が問われる事になる。そうならない為にも、未来を担う将来世代の為にも、差別や自分本位の残酷な事件や偏見を減らす為にも、日本人は自国にとって不都合な歴史を避けずに、敬うべき歴史は大いに敬いつつ、特に近現代史の史実と真剣に向き合わねばならないのではないだろうか。                  
 最後に紹介したい。キリスト・イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいとうなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と。釈迦は事ある毎にあらゆる場面で、「我執を捨てよ」と説いている。ところが、“宗教”という言葉を国語辞典で引くと、「安心・慰め・幸福を得ようとして、神・仏などを信仰すること」「神仏を崇拝・信仰して、安らぎや幸せを得ようとする営み、またその為の教え」などと、イエスや釈迦とは対極的な……まるで返礼品をPRしてふるさと納税の税収増に躍起になる地方自治体の広報か、得する事を口実にポイント会員を募るスーパーマーケットやドラッグストアの勧誘文句か(信仰者の中には、「衣食があれば」「今持っているものだけ」では満足出来ない人も居られるが)、宗教を語る邪まな団体や個人の勧誘文句―――或いは、宗教を端から煙たがったり、宗教に無関心な日本人の人生観の様な事が書かれている。この「宗教観の違い」が、日本人と諸外国との価値観や人生観の違いに表れているとの指摘は少なくない。                         
 宗教とは……「おおもとの教え」「中心となるものの教え」「根本の教え」を意味し、拠り所となり、礎となり、財産となり、世界中の人々が自然に、当然のものとして信仰している。人道と寛恕とは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」―――新約聖書にあるこの一節を抱き続けてさえいれば、まっとう出来るのかも知れない。人間はその事を前提に生を受け、生きているのだから。


   ※ドイツ戦歿学生の手紙――    
 ヴィリ・ナウマン
 アンテェ  一九一六年七月四日
 只今「日曜の憩ひ」誌の最初の十二冊を受取りました。心からお礼申します。戦争を破壊者と見るばかりでなく、新しく創造する仕事と見、息苦しい困苦と見るばかりでなく、浄化と見るような詩を読むことは、我々によって大きな喜びです。職場にいる我々の兵隊は衛戌地にいる兵隊より、そういうものに対してずっと感受性に富んでいます。ここにいるものは、何のために戦い、何が達成されるのかを、よりよく知っています。ここでも同じように口汚く不平のいわれるのは無論です。僕の戦友たちの大多数のもののように久しく戦場にいるものは全く神経質になり、怒りっぽくなっています。しかし、職場にこそ、残った二本の巻き煙草を仲間と分けてのむ好漢がいるのです。最近僕は掩蔽部の中でひどく僕を面喰わせると同時に喜ばしたことを体験しました。僕は戦友の一人からゲーテの詩を借り、昼食後――というのは夜の十一時でしたが――それを読みました。すると、部下の一人である商人が、少し朗読してくれと言いました。僕は丁度シュタイン夫人あての詩の一つ「君知り給えり、わが性サガをくまもなく」というのを読んでいました。その商人は婚約していたので、恐らく一層感じやすくなっていたのでしょう。僕は手短にゲーテの生涯とワイマルの公園とゲーテの家などの話をしてやり、それにあてはまる詩を読みました。僕が読んでいると、一人また一人と寝ている穴から匍い出て来て、傾聴しました。そこには工場労働者や作男などがいたのですが、いくら読んで聞かせてもゲーテに飽きないのです。僕にとって最も意外だったのは、青春時代のゲーテの恋愛詩などではなくて、「月に寄す」(再び繁みと谷とを満たし)のような、繊細な静かな澄みきった歌が一番強い印象を与えたことです。一時に僕はやめました。でなかったら、彼らはもっと長く傾聴していたでしょう。掩蔽部の中は一つの気分に溶けていました――ゲーテに対するこんな感激を僕はまだ全く味わったことがありません。

   ・衛戌:軍隊が一ヶ所に留り警備防衛にあたる事。  
   ・掩蔽:えんぺい。覆い隠すの意。  
   ・好漢:好ましい立派な男。  
   ・作男:雇用下で農作業に従事する人。

近代史が教える人道と寛恕

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。       
 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

 ……いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

近代史が教える人道と寛恕

表題をテーマにおいた“年表”です。

  • 随筆・エッセイ
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2