あさぼらけ

 トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。
 頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。
「逃げるの?」
「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」
 窮屈だろうか、と考えた。
 朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。
 ベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。
「凪には、地球は窮屈かもね」
「地球?」
 凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。
「今夜、両親いないんだ」
 道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。
「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」
「海に逃避行するの?」
「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」
「夜?」
「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」
 凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。

 凪の家のチャイムを鳴らしたのは、約束の夜9時ちょうどだった。
 潮の香りが鼻先をかすめる。風は生ぬるく、家の裏手から笑い声が聞こえた。パチパチと火花が爆ぜる音。見上げると一面に星がひしめきあって、視界を星空だけにしようと体をそらしたらガチャと音がした。
「歩、何やってんの?」
「星、きれいだなあと思って」
 そらした背を戻すと、ワンピースを着た凪が立っていた。水色の生地に、腰から下は淡いピンク色のレースが幾重にも重ねられ、風に揺られてヒラヒラ踊っている。
「凪、その格好……」
 凪は答える代わりに手を握ってきた。
「今、海に行っても大学生がいるから入って」
 何度かお邪魔したことのあるリビングに、いつもは置かれていない姿見があった。凪は鏡の前に立って、クルッと一回転してみせる。首の後ろのリボンを解くと、器用に背中のファスナーを下ろした。そして下着だけになると、「ほら」とワンピースを差し出してきた。
「歩もこういうの好きだと思って」
 手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。凪の素肌と、ヒラヒラのワンピースの間で視線がウロウロとさまよう。躊躇っていると凪はため息をついて、手に持っていた服をひょいと肩にかけた。
「歩が好きじゃないならいい。着替えてくるからちょっと待ってて」
 凪が背を向けた瞬間、思わずフリルをつかんでいた。凪の肩から滑り落ちたワンピースは、床の上に淡いさざなみをつくる。しゃがみこんでレースに触れた。
「これ、誰の服?」
「母親が昔何かの発表会で着た服。いとこが演劇に使いたいからって、クリーニングに出して戻ってきたとこ」
「着ても、いいの?」
「いいよ、別に。いとこが着るわけじゃないみたいだし、知らない人の汗まみれになる前に歩に着てほしかったんだ」
「どうして?」
「理由を言った方がいい?」
 問われて首を振ると、凪はワンピースを拾い上げてフリルを整えた。
「一人じゃ着にくいから」
 凪に見つめられながら、ティーシャツとズボンを脱いだ。恥ずかしさと高揚感と、背徳感が胸にある。外から笑い声が聞こえてきた。
「歩にはちょっと大きいかな」
 凪の息が、うなじをかすめた。凪の手が、少しきつめにリボンを結ぶ。
「うん。いい感じ」
 促されて姿見を見ると、知らない人間が映っていた。凪がしていたようにクルッと一回転すると、裾の中にフワッと空気が入り込んでくる。様子を見ていた凪がクスッと笑った。
「今夜のことはふたりだけの秘密」
 うなじに、柔らかく湿ったものが触れた。唇だったかもしれない。それとも、汗で湿った指先だろうか。
「うちの親には言わない。歩の親にも内緒。もちろんクラスの人たちにも」
 ファスナーを下ろす音がした。凪の手が肩に触れたかと思うと、ワンピースはストンと床に落ちる。鏡には、素肌を晒した二人の中学生。慌ててティーシャツを手に取る。凪は「着替えてくる」とワンピースを手に部屋を出ていった。

「行こうか」
 凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。記憶にあるのは0時42分のスマホ表示。日付が変わっても外からは笑い声が聞こえていて、知らないうちに眠ってしまったようだった。
 凪は半袖の上にパーカーを羽織り、懐中電灯を手にリビングを出ていく。玄関で虫除けスプレーを吹きつけ、ドアを開けると波の音が耳に飛び込んできた。外灯の明かりがポツポツと道を照らしているだけで、まわりの家は暗く静まっている。
「凪はずっと起きてた?」
「起きてたよ。歩がよだれ垂らしてるとこ、写真に撮っといた」
「えっ」
 嘘だよ、と凪は笑う。道を行くと小さな駐車場があり、そこを抜けて砂浜に降りた。
 月は低い位置にあって、黒い海の上に光の道をつくっていた。人の気配はない。何か踏んだような気がして足元を見ると花火の残骸だった。凪は気にせずどんどん進み、家から遠ざかっていく。
 砂浜の端の岩場近くまで来ると、凪はようやく足を止めた。懐中電灯を切ってその場所に座り込み、水平線に目を向ける。隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきた。潮の匂いと凪の匂いが混じりあい、逃避行なのだと思い出す。繋いだ手に、ザラザラした砂粒を感じた。
「歩、目を閉じて。世界から抜け出せる」
 凪の言う通り目を閉じると、波の音に重なって凪の息づかいが聞こえてきた。そこに自分の呼吸と、心臓の音が加わる。ゴーッと飛行機の音がして、「ほらね」と凪がわらった気配があった。
「ここは二人だけの星。誰にも言っちゃダメだよ」
 凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようだった。凪は本当は地球人で、それ以外のすべての人が宇宙人なのかもしれない。
「二人だけの地球?」
「夜が明けるまでは」

 冷やりとした空気で目を覚ました。凪の寝息が近くにある。そっと体を起こすと、夜明け間近の空は淡いピンク色と水色に染まっていた。
「世界は裏返ったのかもしれない」
 声がして後ろを振り返ると、凪が目を開けていた。ゆっくり立ち上がった凪は、世界を摑まえるように両手を広げる。
「歩。きっと、もう逃げなくていいんだ」
 凪の向こうで、鏡写しの空が淡いさざなみとなって踊っていた。

あさぼらけ

あさぼらけ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-01

CC BY
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