あれやこれや191〜199

あれやこれや191〜199

191 慣れたけど

 施設のユニットの若い男性職員が近くに来て言った。
「私事なのですが……」

 ああ、辞めるのか……
 
 私はこの施設がオープンした時から8年も働いている。その間に何人も辞めていった。
 最初の優しいリーダーも、
「突然ごめんね」
と、やめる間際に私に言った。上に口止めされていた、と。
 このリーダーさんは、通勤にものすごく時間がかかった。施設長に引き抜かれたらしく、素敵な方だったが、時間通り帰れるわけではない。勤務時間の後は事務仕事。入居者が増え、忙しくなると職員が辞めていく。欠けた分は超勤になる。補充されればまた別の職員が辞めていく。いつまでたっても超勤はなくならない。そしてこのリーダーも疲れきって辞めていった。

 去年異動してきたピュアな男性は、体重が50キロもないという。ひとり暮らしの身には辛いだろう。超勤も多いし、体力も精神力もなさそう……

 あ〜あ、あなたもか? 仕事やりやすかったのに。

「この度、結婚いたしました」
「え?」

 めでたい話は滅多にない。若くして、できちゃった結婚で、育休取った男性も辞めていった。
 男女共結婚しない主義の人が多い。

「おめでとう」
 いろいろ聞いてしまった。
 住居の関係でまだ別居婚。できちゃったからではないらしい。
 お祝いを……

 もう何年も、誰かが退職しようが、成人式も、親が亡くなっても、なにもない。以前は少しずつお金を集めてなにかあげたのに……
 辞める人が多すぎて、もう、そういうことはやらない。
 たかだか2時間のパートの私が言うことではないが。
 
 結婚か。
 あなたは新婦△△さんを妻とし、病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も、貧しい時も富める時も、これを愛し、これを助け、これを慰め、これを敬い、その命のある限り心を尽くすことを誓いますか?

 認知症になっても?

 隣のユニットのゲッケイジュさんは施設がオープンしたときからいらした方だ。ご主人は別の階に入居していて、ずいぶん前に亡くなった。
 入居時はご主人と同じユニットになるのを、かたくなに拒否したという。
 旦那様が亡くなったことは、わかっていたのだろうか?
 

 ああ、また隣のユニットの職員が辞めると言う。数ヶ月前異動してきたばかりだ。異動する前のユニットの情報では、かき回す人だから、気をつけろ、と。
 長く続けてる人は芯が強い。かき混ぜられはしなかったようだ。もう私は2時間の勤務だから、よく見えない。
 この職員は不注意から、アズサさんをベッドから転落させひどいあざを負わせた。それも原因なのだろうか?

 新人職員が独り立ちし、ようやく人数が足りてきたら、また……
 いつもこの繰り返し。


【お題】 突然ごめんね

192 課長代理

 高校を卒業して就職したのは、生命保険会社。本社勤務の事務職。
 通勤に1時間以上かけて新宿まで通った。

 いい時代だった。勤務は9時10分から4時半まで。給料は毎年1万円くらいずつ昇給した。7年務めたけれど、辞めたときは初任給の倍近くなっていた。
 ボーナスは30代の妻帯者の公務員より多くて羨ましがられた。年金はまだボーナスからは引かれなかった。月々の年金額は最初は千円ちょっと。
 7年払った年金を今いただいている。とうに元は取った。
 でもひどい。少し上がった年金が介護保険も上がって差し引きマイナス2000円。

 あ、消費税はなかった時代。

 いい時代だった。社内預金の金利は8パーセント。でも、男女の給料の差はあった。長く勤めるほどに。それを不思議とも思わなかったが。
 ああ、土曜日は休みではなかった。12時まで。たった3時間のために新宿まで出るから、帰りはランチに買い物とか映画とか。
 福利厚生も充実していた。運動会には芸能人が、片平なぎさが来た。
 宿泊施設も全国にあった。
 
 配属された課にTさんがいた。課長代理42歳。妻帯者。お子様も。
 課長はTさんと同期の東大卒の方。
 部に3人の東大出の男性がいた。部長はやり手だった。貫禄があり、怖かった。課長と、主任は……ただ勉強ができただけ、という感じ。
 課には高卒男性もいたが、人望と学歴は別……なのね。出世はわからないが。

 Tさんは同期の課長に対等に口を利いた。上に媚びず、皮肉屋で、ブラックユーモアが得意だった。
 まだ明るかった18歳の私を、
「箸が転んでもおかしいんだな」
と笑った。
 あの頃話題になった『O嬢の物語』を観に行こうか、と冗談を言った。
 私は24歳も年上のTさんに、すぐに惚れてしまった。コピーを頼まれれば嬉しかった。食堂で近くに座れば嬉しかった。
 もう、態度に出ていただろう。

 新しい保険が発売されると、猛烈に忙しくなった。システム部の若い男性とTさんは、しょっちゅう言い合いをしていた。
 発売後しばらくは残業した。やってもやっても終わらない。男性は皆、寝不足。
 短大卒の女性がふたりいたが、責任感は皆無だった。

 私ともうひとりの高卒の女性が帳簿を任され、夜の9時まで残ったこともあった。
 東大卒の課長は早々とお帰りだ。仕事を把握していたのだろうか?

 あの頃は鉄道のストライキがあった。電車が動かないと、私は通勤できずに休んだ。3日の休みは辛かった。
 毎日電話をかけ、Tさんの声を聞いた。
 Tさんに会えないのは辛かった。

 仕事中、母から電話が来た。初めてのことだ。取り次いだのはTさんだった。
 父が仕事中、倒れて救急車で運ばれた。
 病院を何度も聞き返す私のそばにTさんはいてくれた。
 早退し、タクシーのが早いからと、玄関口に呼んでくれ、着いてきてくれた。
 そこまでだったが。

 父は胃潰瘍で手術したがすぐに回復した。
 生活は変わらなかった。
 私はまた残業した。好きな人がいると、残業も楽しかった。
 忙しくて、Tさんは痩せていって心配だった。忙しくても一向に痩せない私が、
「羨ましい」
と言うとTさんは笑った。
 部の女性は皆痩せていた。私は標準体重より少しだけ太め。化粧も口紅だけ。タバコも吸わなかった。(当時は二十歳前の女性が吸っていた。かっこよく)

 母がお供え餅を乾燥させ、揚げ餅を作った。大量に揚げたかき餅を、職場に持っていくとすごい人気だった。
「おかあさんが、作ってくれるなんて幸せだね」
と、Tさんが言った。


 二十歳のとき、勤めて3年目に母が亡くなった。
 心不全で突然のことだった。
 
 告別式にTさんが来てくれた。
 私は太めの体に似合わない喪服を着て、焼香の間、座っていた。
 悲しみはまだ湧いてこなかった。あまりに突然だったのと、葬儀の支度に追われていたから。
 もちろん初めてのことを、父と私の2人でやらなければならなかった。
 家に戻った母の体にカミソリをのせたり、お団子を作ってくださいなんて、葬儀屋さんに言われて、あたふたしていた。

 焼香を終わり、Tさんが私の顔を見た。
 瞬間、私の目から驚くほどの涙が湧き出た。悲しくて泣いたのではない。あの反応はなんだったのだろう? 
 後にも先にもあのときだけ……
 Tさんも驚いたようだ。

 少し席を外し、あとを追いかけた。
 Tさんひとりではない。
 Tさんひとりだったら、抱きついていたかもしれない。
 抱き寄せてくれたかもしれない。
 いや、太めの体はコンプレックスだったから、ありえない。
 ふたりはすぐに帰った。

 数日休み、会社に行くと、同僚は慰めてくれた。強いね、と言われた。
 また、忙しい日々だ。
 父とふたりになった私は、家事をやらねば、との気負いがあった。情けないことに、それまで、炊飯器も洗濯機も使ったことがなかった。

 
 本社には3年いた。 
 4年目は、家事と両立するために、家から近い営業所に異動願いを出した。
 忙しい仕事を放棄したのだ。
 恋ともいえないものを放棄したのだ。
 
 もう、箸が転んでも笑わなくなった。
 
 Tさんも、上司とはうまくやれなかったようだ。奥様が体が弱いとかで、転勤もせず、お客様相談室に回された。


【お題】 大好きでした


『好きだった』を改筆しました。

193 憂い

 四十数年目の結婚記念日は、定額減税も出たので旅行した。
 1日目は、
 ジャーン!
 軽井沢でゴルフ!

 平日の安いところだけど軽井沢なのだ。
 そして温泉。2泊3日。

 私は雨女。
 ここ数年、ドライブ旅行はいつも雨。
 
 ゴルフを始めて3年が過ぎた。高いレッスン料を払い毎週頑張っている。
 しかし……楽しくはないのだ。憂鬱なのだ。
 ゴルフほど練習通りにいかないスポーツはない? コースに出ればいまだに初心者。もう、辞めてやる、と思うのだ。
 でも、辞めたら夫がかわいそう……

 そもそも、老後同じ趣味がないと危ない…‥と、夫に言われて始めた。
 
 人生相談によくある。退職後夫は昼間から酒を飲んでなにもしない、とか。

 まあ、危機もあったけど夫婦円満。人生の秋はこんなもん。晴れ間が広がる。
 ときとぎ、スカーンと飛ぶこともあるし。 
 たぶんあれが実力!

 そして、3日間の旅行は見事晴れた。こんなことは久しぶり。
 心は雨模様なのだが。


 次の週は息子のところの七五三。
 11月は娘の出産。めでたいことがつづく。お金は出ていくけど。
 娘は地方に住むので、手伝いに行くと夫とはしばらく別居。ウキウキ!

 体調整えて楽しまなきゃ。頑張らなきゃ。

 夫は心臓の持病がある。なんの症状もないのだそうだが、怖い。
 旅行はほとんどが夫の運転で行く。私は免許がない。もし運転中になにかあればどうしよう?
 絶対、端に止めてよ、なんて言ってるけど。不安はある。


 以前、義妹が交通事故を起こした。風邪薬を飲んでいて意識をなくしたらしい。
 実家は遠いので夫が動いた。結婚したてのお金のない時期。新幹線に病院まで駅からタクシー。退院するまで数回通った。
 カードは持っていない。通帳に残はない。父に内緒で借りに行った。

 義妹の新婚の旦那さんはいい方だった。
 しかし、長い年月、もう夫婦ではない。
 事故のせいか子どもができなかった。それでも上手くいっていると思っていたのに。

 その下の義妹は……

 旅行の1週間前に連絡が来た。
 下の義妹が交通事故。

 何年も会っていない夫の1番下の妹。そんなに遠くにいるわけではないのに。

 警察署から実家に連絡があった。実家は遠い。義兄はもう車椅子で介護状態。
 動けないから頼む、と。

 義妹は運転中に意識を失い車は大破。自損事故。 

 ICUに入り意識は戻ったが……
 
 行っても面会できないので姪からの連絡待ち。 

 この義妹も離婚していた。うちよりずっと仲が良いと思っていたのに。地方だけど羨ましい大きな家で、車もよく買い替えていた。
 離婚の話をしに来た時に、中学生だった姪も一緒に来た。
 我が娘とはひとつしか違わないのに、話の間、母親のそばにいて涙を溜めていた。
 その後、遊びから帰ってきた我が娘は脳天気だった。


 旅行の2日前のこと、脳天気な娘から電話が来た。
 この娘はふたり目を妊娠中。予定日は11月末。
 
 検診で臍帯が1本足りない、と言われた。
 胎児が小さい。心臓が……?

 この娘は先天性の心臓病で産まれていた。
 産まれるまで、産まれた後も異常なしと言われた。
 その後ミルクを吐いた。体重が増えなかった。3ヶ月検診で重い心臓病があると言われ、大学病院に。
 待ったなし、の手術。上にふたり子供がいた。私の母は早くに亡くなり、協力してくれたのは、父と姉。
 思い出すと大変だった。白髪が増えた。


 来週は娘に付き添い大学病院へ。娘の病状を話したほうが良いらしいから。

 四十数年目の結婚記念日の秋。
 穏やかだった老後に悲喜こもごもの秋。

194 思い浮かばない2

【お題】 秋野くん

 思い浮かばなくて、過去作の登場人物の姓を秋野くんにしてしまいました。

 秋野くんの話

 小学校4年の時、ボクは三沢と同じクラスだった。同じ班に(こう)っていう女の子がいて、香るっていう字。
 香るなのに動物臭くて虐められてた。同じ班で香は宿題やってこないからいつも残り掃除。
 香は口もきかず長い髪は汚くて、前髪が目にかぶさり上履きも小さくて、あれは育児放棄? 
 臭い臭いって虐められるのを助けたのはボクだよ。三沢じゃない。

 ボクたちは香に宿題をやらせようと家に行った。庭の木は手入れされずお化け屋敷みたいだった。
 香は縁側でハムスターと遊んでいた。それはもう魅力的で三沢も目を輝かせてさわらせてもらった。
 女の子が、「ダメ、交尾しちゃう」なんて喋ってんの。そこにオヤジさんが帰ってきて、増えたハムスターを怒り処分すると言うと香は抵抗した。「私も死ぬからね」って。そのハムスターをボクたちはもらってきて育てた。

 香のかあちゃんも男を作って出ていった。ボクたちは同志が増えたと喜んだ。母親に捨てられた三沢と香。父親に出て行かれたボク。ボクたちは同志連盟を作り、絶対親を許さない、親が死んでも泣かない、墓に唾を吐きかけてやろうって誓った。
 ボクたちは香がいじめられないよう前髪を切ってやった。うまくいかず香は泣き出した。しょうがないから三沢のおかあさんに切ってもらった。 新しいおかあさんは世話好きだから、シャワーを浴びさせ服を洗濯しきれいにしてやった。
 父親のところへ行き話していた。忙しいと言う父親に虐待ですよって負けていなかった。
 おかあさんは香が自分のことは自分でできるよう教えた。毎日シャワーを浴びること。歯を磨くこと。髪の結き方。家の掃除、洗濯、簡単な調理。 

 だんだん香はきれいになり香の家もきれいになっていった。とうちゃんは長距離の運転から日帰りバスの運転手に変わって、香はひとりで夜を過ごすことはなくなった。ボクたちは香のとうちゃんのバスに乗ったよ。香は嬉しそうだった。とうちゃんはマイクを持って喋り乗客は拍手した。

 中学になると香は同志から抜けた。もう女らしくなって香を好きだという男もいた。三沢もボクとはレベルが違うから、あいつは成績は塾にもいかないのにトップだったから、そんなにくっつくこともなくなった。
 あいつは友達も作らず勉強とピアノに打ち込んでいた。香以外の女とは話もしない。いや、香も女っぽくなると話さなくなった。

 3年の夏休みに三沢を生んだ母親が亡くなった。それが原因だろう。2学期からあいつは変わった。ボクが話しかけても無視した。そのうちあいつは不良グループといるようになった。
 獣医のおかあさんのところから盗んだモルヒネやってるとか噂になって、ボクはどうにもできないでいると、香がやってきて、連れ戻しにいくわよ。我らが同志をってすごい剣幕で。
 香は自分ちのでかい犬を連れて不良の溜まり場に乗り込んだ。

 玄関で、
「出てきなさい。三沢くん」
て大声で叫んだ。ワルがふたり出てきてボクはひるんだが、香は犬をけしかけてまた叫んだ。
「三沢くん、こんな人たちと付き合っちゃダメ」
 あいつはようやく出てきた。
「三沢くん、母親が死んだくらいでなにやってるの? 忘れたの? 親なんか乗り越えるんだって。墓に唾吐きかけるって。私はやるわよ。誓ったでしょ」
「静かにしろよ。今、犬が死にゆく」

 香の犬を門につないでボクたちは中に入った。 部屋の中にバスタオルが敷いてあって、ワルのリーダーが犬をさすりながら泣いていた。皆初めて見た。いや、三沢は祖父母の死に立ち会っていた。
 元々は三沢のおかあさんが保護した犬で三沢が名前を付けた。シャーロックって。あいつはシャーロック・ホームズ好きだったから。
 シャーロックは小学生の時にリーダーに引き取られていた。シャーロックは苦しそうに見えたがモルヒネ与えられて苦しくはないんだ、と三沢が言った。下顎呼吸って言うんだ。死に向かうとこういう呼吸になる。
 苦しそうだよ。早く楽にしてやりたい。もうひとつモルヒネ飲ませてもいいか? シャーロックはもう飲み込めなかった。集まってた不良たちが犬の死に向き合っていた。
 1時間も見守ると犬が大きな声で泣き、最期がくるのがわかった。三沢はサッと抱き上げた。その瞬間犬はおしっこもうんちもした。ボクたちは犬をきれいにしてやり箱に入れた。三沢は手を洗い香を見た。香も犬の死に泣いていた。
「香、勇気あるな、同志」

 三沢はもとの優等生に戻り卒業式。あいつは女子にボタンをむしられボロボロだった。そこへ香の登場さ。きれいになった香は三沢の前まで歩いてくると、
「握手してください」
と手を出した。女子が見ている中であいつは香と握手した。
「香、おとうさん、大事にしろよ」
かっこよかったな。

195 思い浮かばない 2続き

 母が死んだ。知らない街で。保険金が入った。

 知らない街に墓参りに行った。墓にそっと唾を吐きかけた。うまくかからなくてもう1度かけた。

 記憶に残る母は長い髪を金髪に染め、黒ずくめの服装で学校に来た。ある日母は消えた。猫と一緒に。私ではなく猫を連れて消えた。

 金は可哀想な犬と猫のために使おう。

 それから年賀状を。同志に。三沢くんと秋野くんに。

 おめでとう。母が死んだわ。あの日の誓い、私は守った。泣かなかった。唾を吐きかけた。やったわよ。

  ︎

 久々に訪れた三沢邸。亜紀さんに会うのも久しぶりだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。

 三沢くんがいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢くんの家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつも素っ気なくはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
 動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
 睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。

 私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……三沢くんは会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢くんは?」
「失恋した」
「男に?」
 懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、秋野に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ秋野を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」

 中学3年の夏、三沢くんを捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
 三沢くんは、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢くんが名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」

 思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
 感情の失禁。私はおかしい。三沢くんは私を抱き寄せた。憐んで。
「いい匂いだ。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと秋野に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
 私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない? 母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
 亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」

 私は口ずさんだ。歌は過去を蘇らせる。『小さな木の実』は小学校6年のときに音楽会で歌った。
 三沢くんは伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。三沢くんは初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢くんは妹も生まれたが寂しかっただろう。
 治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった……

196 タンスの中

 子どもの幼い寝顔を見ながら、思ったものだ。
「絶対に死ねない」
 やがて思うのだろうか?
「早く死んであげなきゃ」

 若い女性の職員は言う。
「結婚しませんから。年金、当てにしてませんから。貯金してますから」

 夏休みも正月休みもない。パートは休むから余計大変だ。超勤あたりまえの職員の年収は女性にしては多い。いつか気が変わるような男性が現れるだろうか?

 働き始めて5年が過ぎた。私も歳をとった。週に20時間働いている。立ち仕事だ。座るのは食事介助の十数分。あとはiPadに記録する数分だけ。忙しいとトイレに行く暇もない。かつてこんなに働いたことはない。
 
 入居者の5年は激変だ。ユニット10人のうち7人が亡くなった。ハマナスさんは看取り状態と言われてから長い。高栄養のプリンのような食事と、水分代わりのゼリー。口から食べているのが奇跡と言われて数ヵ月。日に3度起こし皆と一緒に食事させる。
 ハマナスさんは裕次郎が好きで、もう長くないだろうからと、私は裕ちゃんのCDと使っていないプレイヤーを寄付した。しかし、家族は部屋の、月、数百円かかる電気代を、入居のときに契約しなかった。だから電気は使えない。CDはかけてはいけない。部屋では電池を入れたラジオを流している。
 
 ツゲさんは、胃瘻(いろう)にするために入院中だ。入居のときは胃瘻は拒否していたが……いざ、口から食べることができなくなると、家族はそのまま逝かせることを選ばない。

 食べられないから死ぬのか?
 死ぬから食べなくなるのか?

 若い女性の職員はいう。
「口から食べられなくなったら胃瘻は拒否する。ゼリー食さえいやだ、と。ましてや、他人に尻を……その前に死にたい、と」

 しかし、私は90過ぎまで生きるような気がする。入居者は95歳があたりまえになってきた。死ぬのも怖いが、死なないのも怖い。

 家族はいろいろだ。個人のタンスの中身を見るとわかる。シーズンごとに新しい衣類を買ってくる、サカキさんの娘さん。昨年のも、まだきれいなのに。入りきらないのに。ときどきは娘や孫が来てタンスを整理していく。
 比べてモクレンさんは入居して5年、靴下は劣化。カチカチだ。車椅子の高齢者は足が浮腫む。パンパンだ。その足に……この小さいカチカチに硬くなった靴下を履かせるのは至難の業だ。時間もかかる。裏糸が出ていれば爪に引っかかる。爪は脆いのだ。

 夏に入居したヒイラギさん。
 この方の衣類はほとんどが半袖だ。
 冷暖房完備の施設では、夏でも半袖を着る高齢者はほとんどいない。
 なのに、わからないのだろうか? 寒暖差対策にカーディガンもない。
 だから、きれいな半袖はきれいなままだ。数枚の長袖はもうボロボロだ。電話で姪御さんに知らせる。
 送られてきたのは……デザインの凝った襟ぐりの開いたものが1着。
 素敵ですね。でもね、ヒイラギさんは痩せています。とてもとても細いの。鎖骨に水がたっぷり溜まる。細い首から下着が見える。
 施設では寒暖差はあまりない。スタッフは1年中半袖のユニフォームで動いている。真冬でも朝行くと、スタッフルームの窓が開いている。さすがにそれは寒いが。
 夜勤さんは暑いのだろう。すぐに私も暑くなる。

 モクレンさんの息子さんの場合。買ってきたのは流行なのか、後ろの裾が長い。流行りましたね。私も着た。お尻が隠れるから。でも、それはトイレが大変なのよ。考えてほしい。長い裾をめくり上げ、ズボンを降ろす。素直な素材はストンと落ちる。長い裾をめくり上げ座らせる。邪魔だ。切ってしまいたい。
 そして、言いたい。イメージしてよ。頭のてっぺんから足の先まで。なぜ靴下を買ってこないの? あなたのおかあさんなのよ。カチカチの靴下。そしてスタッフはなぜ言ってくれないの? 靴下も劣化していると。5年も履いているのだと。
 モクレンさんは息子さんが面会に来ても、なにも喋らない。息子さんは携帯をいじっている。ものの10分もいないが。
「じゃあ、帰るよ」
と息子の言葉に、
「気をつけて帰んなよ」
 それだけは毎回言うのだ。

 中には親孝行の息子もいる。ツルマサキさんの息子さんは日に3度いらっしゃる。朝に昼に夕に。仕事の合間に作業着で。嫁や孫を見たことはないが。
 この息子は恐れられていた。モンスターだ。クレイマーだ。トイレ介助をじっと見ている。重箱の隅をつつくように文句を言う。ツルマサキさんは入居当時は車椅子から立ち上がり、何度か転倒した。それでもベルトをすると拘束になる。だから立ち上がり転ぶ人は多い。
 しかし、いかにモンスターといえども、スタッフは変わる。めまぐるしく変わる。あなたが大声で怒鳴ったリーダーもスタッフも何人辞めていったことか? 

「なんでコロコロ変わるんだ?」
 あなたも一因かも……だから、この息子さんは、いっときほど文句を言わなくなった。それにコロナ禍でユニットには来られない。電話はくるが。忙しい時間に電話がくる。長い。うるさい人だから丁寧に接する。仕事が遅れる。入居者は放っておかれる。

 ツルマサキさんの部屋には保湿クリームが何個ある? 体はひとつなのに。次々に買ってくる。乾燥肌だから。ちゃんと塗ってやってくれ、と。リップクリームが何本も。朝飲ませてくれ、とヤクルトが。ツルマサキさんはソフト食。高栄養の飲み物に牛乳にお茶。水分を摂らせるのは大変なのだ。そしてカップの中身を床に投げる。ぶちまけるならお茶にして。

 ああ、だけど、母親思いだ。うらやましい。我が息子は……来ないだろうな。月に1度も。責めはすまい。私も親思いではなかった。


【お題】 寒暖差のせい

『ついのすみか』から『身内』を少し改筆しました。

197 恋と無関心

 隣のユニットのトネリコさん。5年経っても馴染めない。
 怖い。孤高の人だ。他と交わらない。コデマリさん達が喋っていれば、
「うるさいッ!」
 そのひとことの重み。テレビの前に立てば、
「見えないよッ!」
 ひとことの怖いこと。

 おはようございます、と挨拶すれば、
「ごきげん、よう」
 5年経つと、ときどきはニコッとする。その笑顔の素敵なこと。
「素敵ですね。トネリコさんの笑顔」
「そんなこと言われたことないよ」
「素敵ですよ。100万ドルの笑顔。もっと笑ってくださいよ」
 無言。周りがしらけた。

 トネリコさんに異変が。
 最近入居して来たマンサクさん。 
 男性、75歳。車椅子だがしっかりしている。髪もまあまあ、品のいいメガネ。まだまだ恋ができそうな……

 マンサクさんが車椅子を自走してくる。離れたテーブルに着くと、トネリコさんは手を振る。
「トネリコよ」
 マンサクさんが気が付かないと2回3回。
「トネリコよ〜」
 男性の方は無関心だ。こちらは覇気がない。

「どうでもいいよ、なんでもいいよ、興味ないよ、早く死にたいよ、お迎え待ってるのッ!」

 もったいないと思う。
 振り返してあげて!

 仲良くなられても問題だ。新しく入った男性は杖を付いて歩く。歩けなくなると困るからと、食前食後廊下を散歩していた。ソファーに座り足を上げたりストイックな方だ。
 部屋でCDを聴く。ムードのあるサックスかなにか。
 カラオケのときにコデマリさんと気が合い、部屋にCDを聞きに来るよう誘った。
 コデマリさんはホイホイ訪れたが……?
 1度だけで行かなくなった。

 ハイテンションなのは隣のユニットのサカキさん。90歳を過ぎているのにすごい体力だ。車椅子で自走する。嬌声をあげながら。
「はぁーーん、はぁーーん」
 4ユニットと廊下を何度も何度も。
 ドアは開けるが閉めないで行く。
 疲れると、よそのユニットで居眠りしている。サカキさんの走行距離は相当なものだ。腕の力も並ではない。

 私はサカキさんを風呂に入れる。気をつけないと……私が自分のズボンの裾を捲り上げた時に、バシッと腿を叩かれた。腕の力は並ではない。
「なにすんのよっ!」
 つい、こちらも大声に。
 そうすれば、遊んでもらっていると思ってもっと手が出る。腕をつねってくる。私の手を口に持っていく。噛まれる前に振り払う。
 水をかけられる。メガネを壊されそうになる。

 コデマリさんはサカキさんをバカにする。
「困ったバーさんだね。ああはなりたくない」
 言われてもサカキさんは耳が遠い。しかし雰囲気でわかるのだろう。よそのユニットに行く。

 うちのユニットのネコヤナギさん(男性)とカリンさん(女性)も意地悪をする。ネコヤナギさんは通れないように車椅子でふさぐ。
「まいにち、まいにち……なんかいも、なんかいも」
 怒っても聞こえない。ネコヤナギさんはときどきは足で蹴ろうとする。カリンさんは、
「あんた、自分とこへ帰んな」
 サカキさんは聞こえないからうちのユニットで居眠りをする。

 サカキさんは風呂場も開ける。脱衣中にガラッと。
 騒ぎはしないが、しょうがないバーさんだね、とコデマリさんは触れ回る。
 この間は大変なことに。廊下の火災報知器を鳴らしてしまったのだ。押さないように椅子を置いて置くのだが、甘かったようだ。消防署に直結だ。アナウンスが流れる。延々と。そして消防車が……
 スタッフは誤報です、と説明してもコデマリさんは納得しない。あのバーさんよ、と数日蒸し返す。

 風呂の嫌いなヒイラギさん。拒否する。入れるのが大変だ。入ってしまえばいいのだが。だからヒイラギさんには、お風呂行きましょう、とは言ってはいけない。動きますよー、と車椅子を押す。
「なに、どこいくの?」
 風呂場の暖簾を見て、
「なに? お風呂? いいよ。毎日うちで入ってるんだから」
「ヒイラギさん、腰痛いでしょ? 腰だけ温めましょ。もう用意してあるの。ヒイラギさんのために」
 以前は拒否で入れないことが多かった。最近は素直だ、というより歳をとった。95歳だ。
「ああ、大変だ」
 それでも自分で服を脱ぐ。しっかり立ち上がる。この頃は、よく居眠りしている。口癖だ。
「今年ももう終わりだね、お世話なりました」

 トネリコさんが入院した。気にするのはコデマリさんくらいだ。
 マンサクさんに聞いた。
「トネリコさん、いないと寂しいでしょ?」
「……」
「いつも手を振ってくれたでしょ」
「ああ、トネちゃんか」


【お題】 求愛信号

『ついのすみか』の第7話を少し改筆しました。

198 別れた理由

 痩せた。  
 ダイエットに成功した。  
 痩せた。10キロ痩せた。  
 10週頑張った。金をかけた分頑張った。某研究所。体操して風呂に入る。食事は1日1食。食事は昼だけにした。あとはノーカロリーの飲み物だけ。

 仕事の日はおかずだけの弁当を作った。主食は無し。バランスはいいが体重が落ちていくと、もっと量を減らした。体重は落ちたが夜辛くて眠れなかった。終いには生理も止まった。続けていたら危険だったろう。  
 目標は達成した。ウエスト58センチ。夢のサイズだ。裸を鏡で見た。おなかにまだ肉はついているが、うしろ姿はスッキリした。足も細くなった。もっと細くなりたかったが……むずかしい。  
 徐々に食事を増やす。朝に夕に体重計に乗る。一喜一憂。一憂一憂一憂……  

 服を買った。今まで買わなかった分たくさん買った。散財した。惜しくはなかった。ファッション雑誌を真似して。
 高い下着も、ブーツも買った。
 ようやく手にした青春。なにを着ても我ながらカッコ良い。店員に褒められた。  

 ダンス教室に通った。入社した年の忘年会。華やかな席で大卒の同期の女が上司に誘われて踊っていた。私も誘われたが断った。踊れません、と。脇腹に手を置かれたくはない。  
 
 ダンスは憧れだった。駅前のダンス教室に通った。個人レッスンは高かった。高かったが楽しかった。
 毎日のように通った。チケット代は飛んでいく。惜しくはなかった。今まで使わなかったのだから。太っているときは金を使わなかった。  
 やがて仲間ができた。何人かで食事に。
 男も女も。男性は妻帯者もいた。  
 ダンスホールに行った。華やかな場所。誘われて踊る。初心者なのに言われた。
「身が軽いからリードしやすい」
 心地よい言葉、身が軽い、軽い……  
 上手な男だった。ダンスも口も。ロカさんと呼ばれていた。
 ロカ?  
 帰りが遅くなるとロカさんが送ってくれた。方向が同じ10歳上の男は、小学校も中学校も、高校まで同じだった。
「どこに住んでたの?」
「竹の湯のそばよ」
「銭湯いってたの?」
 それは、自宅に風呂がなかったの? 
という質問だ。
「そうよ。貧乏だったの。悪い?」
 酔っていたから言ってしまった。
「団地が当たって越したの」
 都営団地はコンプレックス。
 母は言った。公団に住む者は都営を笑い、建売に住む者は団地を笑う。さらにその上のものは……

 ロカさんはわざわざ電車を降り送ってくれた。15分歩く。酒が入っていた私は甘えた。腕を組んだ。密着してダンスもしたのだ。抵抗はなかった。
名を聞かれた。嫌いな名前。
頼子(よりこ)。頼朝の頼子。父が付けたの。悪い?」
 父は酔うと言った。初恋の女の名だと。
 誰にでも初恋はあるのか? 
 私には……恋焦がれた人はいなかった。痩せなければ恋など無縁だと思っていた。
「セイチョウの小説にあったな」
 セイチョウ? 読んでいなかった。
「知らないわよ。バカだもの。悪い?」
「そればかりだな」
「悪い? あなたはどうしてロカさんなの?」
 わからないのか? 
とは聞かれなかった。
 ロカさんは丁寧に説明してくれた。無知の連続。
「知らないわ。聞いたこともない。バカだもの」
「悪い?」  
 ロカさんが代わりに言った。普段なら決して言わないことを思いきり暴露した。  
 ロカさんは本をたくさん読んでいた。詳しい。文学、推理小説、私に合わせて『ぼっこちゃん』まで。  
 団地の前で別れる。窓から覗くと手を振り、タクシーを拾い帰って行った。かわいげのない女だと思われたに違いない。
 さよなら。これっきり……  

 しかし、誘われふたりで会うようになった。10歳上だ。ダンス仲間の話では裕福らしい。隣の駅の近くに家がある。親の経営する店は支店がいくつも。ひとり息子。ひとりっ子。
 楽しい人だった。博学だった。脚本家になりたかったらしい。  
 映画に誘われた。観たい映画があった。ロカさんは吹き出した。当時話題になった『ベルサイユのばら』の映画化。吹き出したが付き合ってくれた。
 主人公が自分の裸を見る場面が恥ずかしかった。男と映画なんて初めてだった。  
 付き合った。
 付き合ったが恋愛対象ではない。年が離れすぎていた。家が、学歴が、乗っている車が……
 大学にも車にも無知だったが釣り合いが取れない相手であることはわかっていた。食べているものも着ている服も。
 青春を謳歌してきた男だった。テニスにスキーにゴルフ、海外旅行。  

 もう身を固めないと……
 見合いした、と平気で言った。私も平気だ。それより見合いしたホテルは行ったこともない豪華なホテル……  
 食事はいつも素敵な店。ワイン、果実酒。ロカさんは少し酔うと言った。
「君、かわいいね」  
 初めて言われた。トイレに行き鏡を見た。薄化粧の華奢な女が映っていた。
「かわいいね、君」
 何度も言われた。誰にでも言うのだろうか? 手に入れるまで?
 3度に1度は金を出した。私が払った。
 12時前には送られた。釣り合いの取れない団地の前まで。ロカさんが帰るのはどんな家?   
 話の中に出てきた……友達と夜中までカラオケができる部屋。母親が料理の腕を振るうキッチン。カウンターに並んでいる何種類ものコーヒー豆。奮発したオーディオセット、何を聴くの? クラシック? ジャズ? 
 モモエ……え? 
 モモエを聴くために買ったの? 
「ファンクラブに入ってるんだ」
「夏になったら海に行こう」  
 ダメよ。水着にはなれない。痩せてもビキニは着られない。まだおなかは出ている。服を着ればわからないが。
 胸は小さい。コンプレックスは克服できない。

リバウンドは早かった。当たり前だ。カロリーオーバー。
 食通の男と付き合っていたころは食べ過ぎていた。それも夜遅く。
 誘われた。毎日のように。毎日のように食事し酒を飲んだ。ニットのワンピースがきつくなった。
「太った?」  
 ロカさんが聞いた。悪気があったわけではないのだろう。少し痩せてるのも少し太っているのも好きだと言われた。
「足、意外に太いんだね」  
 悪気はない。女に言うことではないが。  
 傷ついた。真実を言われてひどくうろたえた。どうしようもなかった。制御できない身体。再びあのダイエットはしたくない。  
 次に会ったときに言った。
「少し、距離置かない?」  
 痩せるまで。元の体型に戻るまで。4キロ痩せるまで。
 ロカさんは考えていた。理由は聞かなかった。 10歳年上の跡取り息子には距離も時間もなかったのだろう。  
 すぐに電話がかかってくると思ったが……なかった。都合よかったのだ。釣り合いが取れる相手ではなかったのだから。  

 ロカさんがいなくなると私にはなにもなかった。ダンスもやめた。
 会社の飲み会。飲みすぎて電話した。ロカさんは迎えにきてくれた。しょうがないな、と言いながら。
 高級車で送られた。それだけだ。  

 また飲みすぎた。送ってくれたのは今の夫だ。  酔った私は夫の部屋に行き電話した。
「よろしくって言ってよ。頼子をよろしくって……」  
 夫は呆れただろう。  
 翌日電話がかかってきた。落ち着いたかい? 
 謝る私にロカさんが言った。  
 結婚する。見合いした。  
 私が聞いたのは相手の年齢だけだった。
 私と同じ歳? 
 家柄、学歴はしょうがないと思っていた。年齢はショックだった。  

 別れた理由。簡単だ。付き合っていると太るから。 


【お題】 別れのトリガー

『落日の再会』を少し改筆しました。

199 縦しか行けないの

 隣のユニットの30歳代の女性職員、(こう)さん。香ると書いて《こう》さん。
 素敵な名前だな、と思った。小説の登場人物に拝借した。
 おとうさんは将棋が好きだから、香車(きょうす)の香にしたのかな?
 まっすぐ進め! と。
 曲がるな、後戻りするな! と。(勝手な想像だけど)
 その名の通り縦にしか行けないの。融通がきかないの。

 
 (こう)さんは、勤続10年以上で超勤が多いから、年収は500万を超えるらしい。
「だから、辞めたくなっても考えちゃうの」
だとか。 
 ひとり暮らし。

「私、結婚しませんから、貯金してますから。年金当てにしてませんから」

 仕事は熱心。手際がいい。勉強している。出勤してくるのも早い。仕事の前には念入りにストレッチを。
「腰、悪くしたくないですから」

 ごもっとも。わかっていても皆、仕事の前にやる余裕はない。

 社会情勢にも詳しい。
 ま、1日中大音量でテレビがかかっているのだ。

 香さんは声が、きんきんしている。これはどうしようもない。私は以前ブティックで接客をしていた。電話に出る時、店長に
「1オクターブ高く話しなさい」
と言われた。気持ち的にね。
 そうすれば明るく聞こえるらしいが、高い声はどうしたものか? 
 入居者さんには耳障りな声らしい。その声で、厳しいことを言う。
 適当に、という言葉は香さんの辞書にはない。杓子定規。融通が利かない。

 口うるさいネコヤナギさんには、私は1番に食事を出して黙らせてしまうのだけど、それはダメらしい。
 あの人ばかりいつも1番はダメ。食べるの速いから今では最後。だから配られるまで文句を言っている。
「はやくしてくれよ。バカヤロー。どうしようもない」

 お風呂はいつも1番のコデマリさん。お風呂だけではない。理美容も。
 90歳過ぎて、まだカラーをする。髪は黒いが薄い。染めなければ髪のボリュームは増えるのに。
「もう染めるのやめようかしら?」
と毎回、同じことを相談される。毎回、話を合わせるが。
 とにかくなんでも1番でなければ気がすまない。もう、それはダメらしい。
 でもね、午前中に3人入浴。比較的しっかりした方だ。入浴は週に2度。1番じゃないと嫌だと思う。
 香さん、2番風呂に、最後のお風呂に入れますか? もしかしたら、中でちょっとか全部漏らしたかも……
 それさえわからない人を最後にするのは間違いですか?

 コデマリさんは記憶力がいい。私が入浴介助の時、ユズ湯なのに知らないで、ユズを入れ忘れたことが過去に1度ある。その時は大変だった。周り中に聞いた。
「あなた、ユズ湯入れてもらった?」
 何度謝ったことか。そして次の時に、残ったユズを全部入れてやった。
 コデマリさんは忘れない。ユズ湯のたびに言う。あのときは入れてもらえなかった、と。
 もう4年も経つのに。それだけではない。菖蒲湯のときにも言う。菖蒲湯に入れてもらえなかった、と。
 私はまた謝らねばならない。
 構わない。謝るのはタダ……
 しかし、いつまで言うのだろう? 私が辞めても言うのだろうな。私の名は永遠に。お迎えが来るまで……か?

 香さんは真剣だから、話してわかってもらおうとする。そして時々、入居者さんと衝突する。
 衝突してどうするの? 認知の入ったお年寄り、適当に褒めておだてて……
 その方が楽だろうに。

 普段は穏やかなマンサクさんが、怒って娘に携帯で電話をして文句を言った。
「早くしてくれないんだ……他を探してくれ」
 電話された方も困るだろう。家族だって知っているだろう。介護施設の過酷な状況。10人をひとりで世話しているのだ。

 ナースには文句を言ってはいけないと言う。辞められたら困るから。しかし介護士は、特に男の高齢者は女の介護士を下女だとでも思っているようだ。女性職員は嘆いていた。

 ブティックで働いていた時に店長に言われた。
「かわいがられた方が得でしょう」
 店長にもお客様にもかわいがられたほうが得。褒めるのも謝るのもタダだし。
 長い接客勤務が嫌な女にした。媚びて甘える。プライドなどない。自分がない……高価なものを買っていただけるのなら下女のごとし。ブティックの客に比べたら、入居者さん達はかわいい。扱いやすい。

 入居者さんにも、かわいがられたほうが得でしょ?
 若いうちは嫌だろう。反発するだろう。お世辞を言って媚びて甘えるなんて。

 男性のリーダーが出勤してくるのはギリギリだ。それからサイボーズと日誌を確認。朝の配膳は遅くなる。
 急がない。慌てない。すごい人だ。インカムで挨拶する。明るい声で。
「今日も1日楽しく働きましょう!」
 脳天気な人に思えてきた。仕事は速い方ではない。ミスも多い。

 入居者が嘔吐した時は、マニュアルを引っ張り出して読み始めた。香さんは換気もせずにキッチンに集まって喋っていたパートに呆れ、換気扇を回した。
 リーダーの、のんびり加減に呆れていた。
 しかし香さんはリーダーにはなれない。異動も多い。歴代のリーダーよりも、知識も行動力も1番だと思うが。

 リーダーは明るい。パートには評判がいい。
「Cさん、髪切りました?」
とか、気にしてくれている……と思わせる。前のユニットでは、しょっちゅう飲み会をやっていたそうだ。
 入居者さんもわかっている。何より必要な……なんだろう? 言葉、おべっか、お世辞……はたまた、優しさ?

 そういうものは必要なのだ。配膳は遅くてもコデマリさんは文句は言わない。優しい言葉をかけてもらった、気にしてくれている、尊重してくれている、と喜んでいる。
 他の職員だと嫌味を言うのに。
 仕事のできる香さんには不満だらけのリーダーだが。

 香さんがもう少し柔らかくなれたらいいのにな、と思う。時々折れてしまうのでは? と心配になる。
 別の階でコロナ感染者が出た時には、率先して手伝いに行った人だ。


【お題】 縦から失礼します


『ついのすみか』を改筆しました。

あれやこれや191〜199

あれやこれや191〜199

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 191 慣れたけど
  2. 192 課長代理
  3. 193 憂い
  4. 194 思い浮かばない2
  5. 195 思い浮かばない 2続き
  6. 196 タンスの中
  7. 197 恋と無関心
  8. 198 別れた理由
  9. 199 縦しか行けないの