掌編集 28
271 アイスより
毎週休みの朝早く、おまえは部屋に来る。焼きたてパンを買ってくる。合鍵でドアを開ける。
オレは寝ているフリをする。コーヒーを挽く音でおまえは起こす。
パンが冷めるわ……
パンよりも……
電気をつけると、おまえは毛布をかぶる。オレはコーヒーを淹れ、温めたパンをベッドで食べる。
おまえと連弾する。おまえはメキメキうまくなる。練習熱心だ。ヘッドホンをし、オレをそっちのけで弾いている。オレはピアノに嫉妬し邪魔をする。おまえに悪戯する。
まだ、言わないが、オレは貯金を始めたんだ。おまえと結婚するために。いつかおまえの喜ぶ顔が見たい……そして結婚式にふたりで弾こう。エルガーの『愛の挨拶』
ふたりで狭い風呂に入る。
風呂上がりに、おまえが買ってきたアイスを食べる。アイスより、もう1度……
満ち足りた時間。
続くと思っていた。
ずっと続くと思っていた。
おまえが離れていくなんて想像もしなかった。おまえだけはオレのものだと思っていた。
ああ、未練がましいな……
【お題】 風呂上がりのアイス
272 体温調節機能
暑い。
施設で朝働いている。配膳、洗い物、そしてシーツ交換。人手がないからなるべくたくさんやろうとは思うのだが。
暑い。
入居者さんが食事で部屋にいないときににやるのだが、エアコンが切れている。
なぜ切れている? またつけるのなら切らない方が電気代はかからないはず。電気代高騰で、ボーナスが下がるかも……なんてお知らせもあった。
だから、シーツ交換のためにエアコンをつけるわけにはいかない。
汗だくになる。
運動だと思い働く。
電灯もつけっぱなしの部屋と消してある部屋がある。これは、どちらが正解なのだろう?
入居者は寒がりだ。
リビングでは長袖、カーディガンを羽織り膝掛けを。百歳のカリンさんは頭からショールを被り、毛糸のベスト。
それでも寒い寒い、と言う。
入居者さんにリモコンを持たせると、エアコンを切ってしまうので危険。
ある男性の部屋に入ったら何か変。エアコンはついているのに涼しくない。
壊れた? かと思ったら、暖房になっていた。寒いので切り替えたらしい。設定温度は23度。
注意すれば、寒いんです、と。
『壊れたエアコン』
273 明晰夢
【お題】 明晰夢
また、変なお題、と思ったら実際にあるのですね。明晰夢という言葉。
明晰夢とは、睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のこと。
明晰夢の経験者はしばしば、夢の状況を自分の思い通りに変化させられる。
夢はよく見る。一晩で何度も。断片しか覚えていないが、見すぎて眠った気がしない。疲れてしまう。
よく見るのは空を飛ぶ山。追われて逃げて切羽詰まって、もう飛ぶしかない。
飛べない、飛べない、いや、飛べる。飛べることにして…‥成功。
これが明晰夢?
素敵な人と一緒にいる。でも、先へ進まない。なにもしてくれない。
夢の中で強引に妄想している。でも、うまくいかない。
ああ、目が覚めちゃった。もったいない。
失敗したのは、世界滅亡を止められなかったこと。
いや、自分で終わりにしたようだ。
後悔する間もなく終わる。
もう取り返しがつかない。足元から消えていく……
なかったことにして……
そんな夢を何度か見た。
あと、トイレを流すとあふれ出す夢。これはわかっているのにやってしまう。夢でも愚かだ。
あと、言えなかったことを言ってしまう夢。
夫に文句や不満をぶちまける…‥絶対言えなかったことをぶちまけた。
結果は?
目が覚めて、夢で良かった、と思う。
274 放送塔
【お題】 もう二度と会いませんように
ブティックに勤めていた時、放送塔と呼ばれる人がいた。
客は狭い地域の人たち。知り合いも多い。
常連客の放送塔さんがいると帰ってしまう客がいた。何を言われるかわからない、恐ろしいから、と。
ご主人は元警察官。褒賞も受けた方だ。地元の大きな家に住んでいる。
この方は、悪口が3度のごはんより好き……アンテナを張り巡らし、自転車で駆け回る。他人の家の事情に詳しい。人の不幸は蜜の味。
あそこのご主人は自殺した。あそこの息子は、バカでアホで……誰々に男がいる、女がいる……嘘か誠か知らないが、放送塔は野放しにされていた。
つまらない人生、と思うのだが本人は悪口を言っている時が楽しそうだ。表情も豊かで生き生きしている。
何度かトラブルにもなり、絶交されたり、店にも出入り禁止になったりしたが治らなかった。これは、家族もわかっているのだろう。生きがいなのだ。
話を聞き出すのが上手い。家族のことを聞いてくる。ご自分の旦那様もお子さんも立派な方だ。お子さんは有名企業に勤めている。私も1度ひどい目にあった。子供のことを聞かれたときに謙虚に言った。
勉強しない。赤点ばかり。帰りが遅い。バイトばかり……
「どこでバイトしているの?」
「はい、地元の回転寿司です」
そしたら、わざわざ見に行った。どんなバカだか見に行った。そうして私が休みの時に皆に喋った。
「ブッサイクなの」
不細工? うちの娘は確かにバカだけど、不細工ではないと思うが……親の欲目か?
これは頭にきた。顔には出さないが……
もう、閉店になり10年経つ。近くに住んでいるのに会わない。会いたくはないが……
いつかバッタリ会ったら鬱憤を晴らしてやろう。
客の間では、あなたへの悪口がいちばん多かったですのよ、と。
275 常備しておくもの
土曜は娘たちが孫を連れてくることが多い。それも突然決まる。
なので、いつ来られてもいいように買い置きしておくのが、コープのごぼうご飯。瓶詰めで米3合と炊くだけ。たぶんごぼうとにんじんだけ。あとはゴマと調味料。
自分で作れば安くできるのだろうけど、味がいいのでよく作っている。冷めてもおいしいし。
あとは常備している春雨でサラダ。ハム、きゅうり、人参の中華風。これは孫たちに人気がある。
それから、冷凍の牛バラ肉で肉じゃが。ジャガイモは安い小粒のを皮ごとよく炒めて煮る。
娘たちにはレタスときゅうりとにんじんとシーチキンだけのサラダ。
ドレッシングは、塩、砂糖、こしょう、酢、オリーブオイル。
娘は、この味にならないと言う。瓶に入れて振らなきゃ。振って振って乳化させるとおいしくなるのよ。
食後は紅茶。
4歳の男の子が言う。
「おばあちゃん、紅茶飲もう」
紅茶のカップに、牛乳と半々に入れ砂糖をたっぷり。スプーンでおいしそう飲む。
そして、遊びに夢中で……
漏らして、ママに叱られていた。
このママも、幼稚園で濡らしたパンツお持ち帰りしてきていたよね。
【お題】 定番の土曜ランチ
276 眼鏡を探した頃
この頃、眼鏡を置き忘れるから、縦型の眼鏡ケースを3つ買って、食卓、リビング、寝室に置いた。絶対にそこ以外には置かないこと……
と思っても置き忘れて探す。洗面所、トイレ、新聞の上。
見つからない、見つからない。
イライラして、2度と、眼鏡ケース以外の場所には置きません、と思うのだが。
でも、なければ困ると感じているうちはまだマシか。
数年後 (?)、私の眼鏡はユニットのキッチンのIH調理器の上に置いてあった。
もう眼鏡はかけるものではなく、おもちゃになってしまった。いじって壊してしまうから取り上げられたのだろう。
だからって、夜勤さん、IHの上に置くなんて。
高かったんです。その眼鏡。勤めていたブティックで売上のために買ったのよ。桁が違う。
でももう、眼鏡も入れ歯も補聴器もわからなくなってしまった。眼鏡は壊す。入れ歯も壊す。壊したから当分ソフト食にペースト粥。食事は口に運ばず混ぜて遊んでいる。時々投げて怒られる。
補聴器は高かっただろうに、水につけてしまうから、つけてくれない。だから、なにを言われても聞こえない。
音楽も、童謡なんか聴きたくないのに、大音量でかけてくれている。
聴きたいのは、藤圭子とディープパープル。
シーツ交換に入った職員が、タンスの上の写真を見ている。旦那様との仲の良さそうな写真。
旅行先でのツーショット。品の良いメガネは今ではひん曲がったまま。
旦那様は迎えに来てくれない。私が行くのが嫌なのか?
【お題】 眼鏡が見つからない
277 いろいろな雨
【お題】 秋時雨
秋時雨という言葉に馴染みがなかった。
時雨といえば思い浮かぶのは、カップに入った氷菓『しぐれ』
あと、時雨煮。牛肉とごぼうの時雨煮。好物だった。
読んだのは『蝉しぐれ』
読んだけど、タイトルの意味はわかっていなかった。
調べたら雨の種類はたくさんある。
啓蟄の雨。
虎が雨(曾我兄弟が討たれた旧暦五月二十八日に降る雨)
小糠雨、台風、スコール等々。
時雨もたくさんある。
春時雨、青時雨、霧時雨、朝時雨、磯時雨、山茶花時雨等々。
最近はゲリラ豪雨に線状降水帯。
地球温暖化による異常な雨。人類のせい。自業自得。
でもいちばん降ってほしくない雨は……
はげしい雨。
✳︎
『はげしい雨がふる A Hard Rain's a-Gonna Fall』は、ボブ・ディランが作詞・作曲・演奏・歌唱した楽曲。
反戦フォークの旗手、偉大な芸術家、今世紀最高の詩人……
ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン。
これまで、その謎めいた比喩や歌詞は、正確な意味をめぐって研究者の間でも解釈が分かれ、議論を呼び続けてきた。
『はげしい雨が降る』は後年のディランの作品に通じるような象徴的なイメージに満ちたもので多様な解釈ができるが、「はげしい雨」が核ミサイル攻撃による「放射能の雨」という解釈については否定をした。
スウェーデンのストックホルムで行われた2016年ノーベル賞授賞式、ディラン本人は欠席したがパティ・スミスが『はげしい雨が降る』をパフォーマンス。
感極まったあまり途中で歌い直す場面もあったが、
「ごめんなさい。緊張してしまって、歌い直すわ」
と語ると、会場中から温かい拍手が巻き起こり、最後まで感動的にエモーショナルに歌いあげた。
ステージ上のスウェーデン国王やノーベル賞各受賞者、そして会場中から大きな温かい拍手が鳴り止まず、観客の中には涙するものもいた。
278 夢がうつつか幻か
100歳のカリンさんはよく夢を見た。
夜は一睡もしていません、という申し送りが多かったので、昼間寝ている。昼夜逆転だから、時間をずらしての食事になる。
車椅子に座り、夏でも毛糸のカーディガンを羽織り、ひざ掛けを。頭にショールを巻いている時もあった。
それでも、スプーンで自分で召し上がる。刻み食に粥だが残さない。コーヒーも砂糖を入れておいしそうに飲む。
手は掛かるが皆に好かれていた。
よく夢を見るようだ。
布団に犬が3匹も入ってきて、掛け布団を剥がしていく。寒くて寒くて眠れない、と嘆く。
私がシーツ交換で部屋に入ると、
「犬がいるから気をつけて」
と、真顔で言われた。
「私が飼えればいいんだけど、苦手なの」
「じゃあ、誰か飼ってくれる人、探しておきますね」
この方は実際に見えてしまう病気なのだ。
カーテンになにかいる、と言ったときに、旦那様は施設入所を決めた。
その旦那様はすでにいない。
それまでは毎日会いに来ていた。ご主人も相当なお年だったろう。
カリンさんの車椅子を補助車にして歩いてきた。寒い日も酷暑の日でも。
歩いてたどり着けば疲れて奥様のベッドで横になる。奥様より先には逝けない、とおっしゃっていたのに。
カリンさんは、もはや旦那様だとは思っていない。
「かわいそうなおじいさんに部屋を貸してるの」
長寿は残酷だ。共に生きた連れ合いを看取ることもできず、知らされもせず。なお生きる。
妄想が悩ます。泥棒が全部持っていった。焼夷弾が足に刺さった。頭に塩酸をかけられた……。
【お題】 夢見る昼寝
279 空き家
娘の家のお隣さん、10年前はひとり暮らしの女性が住んでいた。自転車でよく出かけていた。高齢だ。着物を着ていた。
そのうち、草木は伸び放題、電線を超えた。外にまで物が出してあり、ゴミ屋敷状態。
娘は見たそうだ。
バケツの液体を外に撒いたらハエがウワーッと。
窓から娘の家の方にバナナの皮を放り投げる。境目の狭い敷地にはゴミがたくさん。
時々、娘さんが来て片付けているようだった。
そのうち、ヘルパーさんが出入りしていた。
そして今、誰も住んでいないようだ。荷物はそのまま。外には古い自転車や、ガラクタが置きっぱなし。
伸びた葉が視界を塞ぐ。
娘は危ないからと区役所に電話した。しかし、1週間過ぎても変化なし。
隣、空いてますよ。
なんとかして!
【お題】 となり、空いてますか?
280 思い出したこと
もう半世紀、もっと前のこと。
父の給料日。
まだ現金でいただいていた時代。
父は自転車置き場で隣の荷台にカバンを置き、そのまま家まで帰ってきてしまった。
慌てて戻るとすでに消えていた。
交番へ届けると、
「あんた、家に帰れるのか?」
と言われたらしい。
家に戻り、酒を1杯飲み、打ち明けた父を母は責めなかった。
もちろん戻ってこなかったが。
酔うと父は言った。
「ロクな死に方はしない」
どうしただろうか?
からの弁当箱や古い鞄で豊かでないことはわかっただろうに。
すぐに捨てたのだろうか?
父は、あの時責めなかった母が亡くなるともうボロボロ。
優しい娘がいてよかったけど。
届けなかったやつはどうしただろう?
ばちが当たっていないだろうか?
後悔していないだろうか?
【お題】 落とし物を届けたら
掌編集 28