じきに、溶けて見えなくなる
――消えてしまいたい。
ポツリとつぶやいたあなたは空を仰ぎ、その視線の先に一筋の白い雲が棚引いていた。上空の風はゆっくりと雲を運び、青の中に白を散らしていく。じきに、溶けて見えなくなる。
あなたは髪をかきあげ、耳にかけた。露になった耳、その奥の鼓膜は小さく小さく振動し、あなたはふと瞼を閉じた。
「ねえ、また一人でどこかへ行ってしまうの?」
あなたの睫毛がぴくりと震えた。
たまに戻ってきたかと思えば、あなたはまた消えてしまう。わたしはすべてを放り出して、あなたを置き去りにしたくなる。だって、あなたは何も語りかけてくれないから。ねえ、わたしの声はあなたをわずかでも振動させることができるのかな。それとも、わたしの声はとてもとてもゆっくりとしたスピードで空気を振動させて、あなたの鼓膜を震わせるのには何万光年もかかってしまうのかな。そもそも、あなたとわたしは同じ時のなかで息をしているのかな。わたしはこうしてあなたの姿を目にすることができるけれど、あなたに触れたことはない。あなたと言葉を交わしたことはあるけれど、あなたの唇に、喉に、振動するその声帯に触れたことは一度もない。あなたは果たして本当に存在しているのかな。もし存在していないとして、そのことはわたしに何か違いをもたらすのかな。わたしのなかにはあなたがいる。あなたという存在がある。そう、たとえば神様の存在を信じる人と信じない人がいる。それと同じ。わたしはあなたの存在を信じるより他にない。それはあなたが消えてしまっても変わりはしない。あなたが消えるなんてありえない。少なくともわたしにとっては。
あなたの意識を振動させるのが悔しくて、浮かんだ言葉は未消化のまま嚥下した。
「ねえ、わたしが見えてる?」
あなたは瞼を閉じたまま、唇だけを動かした。
あなたはわたし、わたしはあなた。
「あなたがわたしを見てるなら、わたしはあなたを見てる」
「そう。でも、わたしはあなたのなかから消えてしまいたいと思うことがある。わたしがそう思ってるということは、あなたも同じようにわたしのなかから消えてしまいたいと思っているということ」
そっと瞼を開けると、薄絹のような淡い雲の向こうを飛行機が過っていった。あなたは心地良さそうに目を細める。
「わたしが消えてしまえば、あなたは心穏やかでいられるのかもしれない。もっと自由でいられるのかもしれない。枷になるなら消えてしまいたい。けれど、あなたが求めるなら待っていたい。待つことが重荷になるのなら、やはり消えてしまいたい」
「わたしは、あなたが自由に羽ばたくところを想像している。わたしのことなんて忘れて、自由に飛び回るのを」
「わたしは地面を掘るだけ。掘って掘って、そこにあるものを取り出して、あなたはそれを目にして眉をしかめる。地の底にあるのはしがらみ。断ち切ることもできないし、根は深く深くわたしのなかに入り込んでいる。あなたとわたしはやはり同じ時には存在していない。同じ場所にも。だって、こんなに近くにいるのに、ふと気づくとあなたはとてもとても遠くにいる。あなたの指がそっとコーヒーカップの縁をなぞるとき、わたしがそこにいることはない」
――消えてしまいたい。
ポツリとつぶやいたわたしは、綴ったすべての文字を消してしまいたい衝動にかられ、【すべてを選択】し、【削除】した。
窓から見える外の景色は雨に煙っていた。人の声、店内のBGMはジャズピアノ。
【シャットダウン】
わたしの指がコーヒーカップの縁をなぞるとき、あなたは隣にはいない。冷めかかったコーヒーを啜り、そっと瞼を閉じた。
あなたは今、何をしてるのかな。返事は期待していないけれど。
じきに、溶けて見えなくなる