ひらめいた曲 41〜50

ひらめいた曲 41〜50

41 ニュー盆踊り

 近くの公園で盆踊りのヤグラが組まれていた。木のボードは、なにかと思ったら、寄付をした者の名を張り出すためのものだった。
 
 行ってみよう、なんて思いながら終わってしまった。夜もまだ暑いし、寝るの早いし……

 そういえば以前ボン・ジョヴィを調べたときに、あったのだ。
『Livin' On A Prayer』の盆踊りが。
 今回調べてみたらあの時よりもある。たくさんのニュー・盆踊りが。


https://youtu.be/GrMpd7xnJLQ?si=m-zxF4LaI9aXi_-o
ボン・ジョヴィの『Livin' On A Prayer』で盆踊りをする“盆ジョヴィ”発祥のお祭りとして知られる『中野駅前大盆踊り大会』。



 平安時代中期に空也上人(くうや・しょうにん)が、仏教を広めようと「歌って踊りながら念仏を唱えた」ことから始まり、鎌倉時代に一遍上人(いっぺん・しょうにん)が全国を練り歩いて広めたといわれている。 
 ち手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えながら飛んだり跳ねたりする踊りだったという。
 その後、室町時代になると念仏から踊りに重きがおかれ、次第にお盆と結びつき、精霊を慰め送り出す行事「盆踊り」となったとされている。
 変化があったのは江戸時代で、徐々に“娯楽化”し、男女の出会いの場となっていったようだ。
 背景には「満月」が関係していたといわれている。盆踊りは旧暦の7月15日、満月の日に行われていた。当時は照明がなく、月明かりで気分が高揚し、異様な盛り上がりになったようだ。服装は軽装の「単衣の着物」だったという。
 その後、風紀の乱れから取り締まりの対象となり、衰退していった。大正時代に再び娯楽として奨励され、次第に“町おこし”の意味合いも持つようになり、今に至っている。
(FNNプライムオンラインより)


ダンシング・ヒーロー 盆踊り
https://youtu.be/gYKzACWqAy0?si=m-35rmdKRJ87fW68

 30年以上も前の昭和歌謡だが、盆踊りの世界では今も人気のメロディー。舞踊の普及団体である日本民踊・新舞踊協会などの後押しで盆踊り用のCDが新発売されたこともあり、全国でこの曲が響いている。
 盆踊り版『ダンシング・ヒーロー』は実は名古屋が発祥の地。曲がヒットしていた1986年、東海地区を中心に約2千人の踊りの師範を束ねる日本民踊研究会(名古屋市)の島田豊年・前会長が振りを付けたのが始まりという。
 もともと海外ヒットのカバー曲だったのでまず外国人労働者の多かった岐阜県などに根付いた。名古屋市では一時途絶えたが、人気が周辺地域から逆流し定番になったという。さらに北海道や関東の一部にも飛び火した。



『お気に入りの音楽』から

ボン・ジョヴィの『Livin' On A Prayer』
https://youtu.be/lDK9QqIzhwk?si=514OyTCwHygBoCnL

バブリーダンス 登美丘高校ダンス部
https://youtu.be/Lxr9tvYUHcg?si=yhUZudNQjFvAU73d

42 甲子園といえば

 職場の若い女性から、高校時代は吹奏楽部でトロンボーンを吹いていた、という話を聞いた。
 野球も強豪校で甲子園で演奏した、と。
 面接の時にトロンボーンの魅力はなんですか? と聞かれたそうだ。仕事とは関係ないのに……
 魅力は? 
 指で押さえないで音程を出せること……
 よくわからないので検索してみた。


 トロンボーンは、スライドで音程を変える唯一の金管楽器。 フルートのような音階の切れ目がないため、微妙な音程調整ができる点がトロンボーンならではのメリットになる。
 スライドを使用する仕組みのため、音階を区切らず滑らかに音を調節する「グリッサンド奏法」ができることも、トロンボーンの大きな魅力……


 娘も中学時代、吹奏楽部で頑張っていた。朝練昼練夕練、土日も、長い休みも練習して、練習。
 私もコンクールに出場するたび聴きに行った。
 頭の中に鳴らせるのはこの曲。
 好きだった。
 これは、甲子園でも良く演奏される。

アフリカン・シンフォニー 
佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラ
https://youtu.be/EeZPz_rSD_4?si=Aj28-j6lqvIxekPJ

 
 オリジナル版はヴァン・マッコイが1974年に発表したアルバム『ラブ・イズ・ジ・アンサー』に収録されていた楽曲である。いわゆる「ディスコ・ミュージック」の一つとして発表されながらも、自身の結成したオーケストラ「ザ・ソウル・シティ・シンフォニー」との演奏により、独特の世界観を生んでいる。
 1975年にはヘンリー・マンシーニがアルバム『シンフォニック・ソウル』 のラストナンバーとして本楽曲を取り上げている。
 1977年には岩井直薄の編曲による楽曲が『ニュー・サウンズ・イン・ブラス第5集』に収録されたことによって吹奏楽曲の一つとして認知されることになった。
 1981年吹奏楽の楽譜が発売される。
 日本で広くこの曲が知られるきっかけになったのは、1987年に智辯学園和歌山高校野球部が第69回全国高等学校野球選手権大会に初出場した際、同校吹奏楽部顧問の吉本英治がアレンジして応援曲として採用したことによる。
 以後、他校の応援にも採用されるようになり、高校野球の応援曲として高い人気を誇っている。
 ただし、甲子園での高校野球応援でアフリカン・シンフォニーを一番はじめに演奏したのは1978年の第60回のPL学園高校である。


アフリカン・シンフォニー ヴァン・マッコイ
https://youtu.be/lnk2MKag7CM?si=V_IomqS0EOL8w16c



 YouTubeを検索していてみつけた素敵な女性。
 テレビを見ないので、知りませんでした。


吹奏楽 アフリカン・シンフォニー
海自の歌姫・三宅由佳莉
https://youtu.be/L9yTzvAcUUo?si=qvR8LNIrrKaQ7Etw

43 復活の朝

【お題】 人類のみなさんへ


 ようこそ、地球へ。人口はゼロ。

 なんて番組を観ました。(途中まで)

 人類のみなさんはいなくなったけど、心配御無用。
 地球は元気を取り戻します。
 

 人という名の姿が消えーーーー

 人はもういない 地球(ほし)は光る 

 ーーーー 

 復活の朝 岡林信康
 https://youtu.be/NrSaqNfsK8U



 1番の疑問は、原発はどうなるのか?
 なので、自分で検索してみました。

 人類がいなくなると、原発は自動停止なり、経年劣化で破壊される。
 なかには正常な停止に至らずメルトダウンも起きるだろう。
 ただ地球規模でみれば、人間が集めている核燃料などはごくわずかで、これくらいの核反応は過去の地球では自然界ですら起きていた。

 アフリカ中央には何億年も前にウラン鉱脈が自発的に核反応をしていた時代があったし、そもそも地球大気が今のような組成でなかった時代には、太陽からの放射線は、我々人類が作り出す規模とは比較にならないほど大地に撒き散らしていた。

  自然界のスケールに尺度をあわせるならば人間の核燃料使用等は取るに足らない規模だ。 仮に現存するすべての核燃料や爆弾がメルトダウンあるいは爆発しても、10年20年程度は近隣数十kmを汚染するが、100年200年経てばなんの影響もおよぼさないほどまで地球環境は復元してしまう。
(広島長崎はたった70年で大都市になったし、福島もわずか5年で人々の帰還が始まってるでしょ?)

 これまでに人間は、原爆投下 (広島、長崎)や海洋で原爆を爆発させる実験等を繰り返しているし、チェルノブイリで原発事故が起きているが、自然界全体に影響が出ているわけではない。
 仮に、原発が爆発した場合、その周辺の環境は破壊される可能性が高いが、数十年すれば見かけ上は元に戻り、100年、1000年と重ねれば影響はなくなっていると考えていい。

 原発も、金属の劣化によって爆発する可能性はあるが、1万年もすれば僅かしか痕跡は残らないというのは正しいだろう。CO2と水さえあれば植物が育つから、コンクリートの上であってもすぐに木々が覆ってしまうだろう。

 コンクリートジャングルは本物のジャングルに変わる。ビルや橋は植物に覆われ、数百年のうちに灰色の都会は緑で埋まる。
 その中で、河川による浸食や落雷、山火事による火災で、人が建てた建造物も崩壊していくだろう。

 そして緑が増えれば、当然ながら昆虫が急速に増加する。人類の消失とともに農薬や化学物質の散布もなくなるので、その増加スピードは爆発的なものになる。
 この昆虫の増殖から、それをエサにする鳥類や哺乳類も一挙に繁栄していくだろう。特に専門家が予測するのは、「大型生物の復活」だ。

 かつて恐竜以後の地球を支配したマンモスや大型のライオン、トラ、サイは、人類の繁栄とともに姿を消していった。しかし、人がいなくなれば、大型生物が再び地球規模で復活し始める。
 専門家によると、「もし人類が世界中に拡散していなければ、今日のアメリカ中南部はライオンやトラが、地中海地域はゾウが、北欧はサイが覇権を握っていただろう」と指摘する。

 ただし、大型生物が生態系の覇者に返り咲くには、300万〜700万年はかかるそうだ。
 また、一度絶滅したマンモスの復活などは見込めないが、それとは別に恐竜を凌ぐ新種の巨大生物が誕生するかもしれない。

 それでも、人類が残す遺産の中で最も大きな「地球温暖化」の影響は根強いという。

 人類亡き後の気候変動については予測が困難だが、もし工業プラントの爆発や放射能の拡散、製油所の火災などが頻繁に起こるなら、熱を持った莫大な量の二酸化炭素が大気中に放出される、と予測される。

 大気中の二酸化炭素は海が吸収してくれるが、それにより多くの海洋生物が犠牲になるだろう。また、海の吸収量にも限度がある。

 もし海が限界に達し、大量の二酸化炭素が大気中に放置されるなら、温暖化は続き極地の氷冠をさらに融解させ、永久凍土を軟化させることで、さらに多くの二酸化炭素が放たれることになる。

 この悪循環が、人類がいなくても長きにわたって続く……
 しかし、温暖化の悪循環も永遠には続かない。

 例えば、約2億年前のジュラ紀には、大気中の二酸化炭素量が現在の5倍以上に達し、海洋の酸性度が跳ね上がって、自然は厳しい環境下に置かれた。
 ところが、その極限状態に適応し進化を遂げた動植物がたくさん現れたのだ。

 つまり、地球の極端な環境変化にかかわらず、自然には常に生存の道を見つける力がある。

 結局、人類がいなくなっても、地球が負った深い傷は長期にわたって消えない。
 しかし最後には、豊かな自然とともに息を吹き返し、母なる大地のもとへと帰っていくのだ……
(Yahoo知恵袋から)

44 指揮者 三島由紀夫

 前々回のアフリカンシンフォニーで、海上自衛隊のの三宅由佳莉さんの姿に魅せられ、いろいろ検索していたらすごいものを見つけました。

軍艦行進曲 
指揮 三島由紀夫
演奏 読売日本交響楽団 
https://youtu.be/5smjjQXkUUk?si=DoKAPmyygavadLV9

日本テレビ『團伊玖磨ポップスコンサート』という番組に三島由紀夫がゲスト出演者した時の映像です。1968年3月31日。

三島 由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、小説家、劇作家、随筆家。評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)

 三島さん、指揮もしたのですね。膨大なWikipediaにはいくつも『天才』の文字が。 
 三島由紀夫は『午後の曳航』と『憂国』しか読んでいません。
 太宰治はずいぶん読みましたが。
 ふたりは1度だけ会っていたのですね。


 1946年12月14日、三島は、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治を囲む集いに参加した。
 三島は太宰の稀有の才能は認めていたが、その自己劇画化の文学が嫌いで、愛憎の法則によってか生理的反発も感じていた。
 
 三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。
 そして三島は森鴎外についての意見を求めるが、太宰は、
「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」
と太宰流の韜晦とうかいを込めて言った。
 下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。
 その酒宴に漂う絶望讃美の甘ったれた空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
という言葉をその時に発した。
 これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
と言った。
 気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。
 その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。

 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。
— 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)

太宰治 死去1948年6月13日、東京玉川上で山崎富栄と入水。38歳没。

三島由紀夫 死去1970年11月25日、自衛隊駐屯地での割腹自殺。45歳没。

45 無惨の美

【お題】 神様が住む駅

 某サイトで毎日出題されるのですが、時々突拍子もないお題が出ます。

 神様が住む駅なんてあるのだろうか?
 どんな駅? 

 わからないときはWikipediaで検索。神様、たくさんいらっしゃる。
 次々ザーッと、読んでいく。

 死神……これは、駅に住んでいるかも。ときどき起こす、事故や……

 もっとすごい、自殺の神様がいた。

 イシュタム は、マヤ神話において、自殺を司る女神。死者を楽園に導く役割を担っていた。


 コロナ禍、自殺が増えた。鉄道の人身事故はしょっちゅう聞いた。電車が遅れる。賠償額はすごいらしい、という噂 (?)

 噂のように数千万から数億円単位にはならないらしいが、遺族には数百万円程度の損害賠償請求がなされることがあるようだ。

 人身事故の6、7割が自殺だ。


 歌手、友川かずきには2歳年下の弟、(さとる)がいた。覚は熊代のしろ農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出した。覚は、兄かずきと同じように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。

 一時郷里に帰ったが、昭和55年再上京して兄のアパートに同居した。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人をしていた。
 しかし半年後、いつもそうだったように突然出奔し、行方の知れないまま4年が経った。 

 昭和59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳だった。
 富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎のかずきの部屋には20冊の大学ノートと数十枚のメモが残された。

 かずきの弟、覚は詩を書いていたが、生前は無名の存在だった。彼が自ら命を絶った理由はわからないという。 

 淋しさを紛らわすために、多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。

 麻薬中毒の作家、W・バロウズは
「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」
と言ったが、言葉は人間の心を蝕む病原体かもしれない。
 淋しさに形を与え、谺こだまとなって無制限に増殖してゆく。本当はきっと、彼は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?

 鉄道自殺した弟の身元確認の際、
「見ない方がいいですよ」
と言われたがかずきは、顔半分が飛んでしまった遺体と対面した。それは自分の親族だからというのでなく、一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。

 弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言った。
 
 世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。


無惨の美  (友川かずき 作詞作曲)
https://youtu.be/8nlUs8w6wBs?si=e10p7NEw8RY-88cA


その死は実に無残ではあったが
私はそれをきれいだと思った
ああ覚 そうか死を賭けてまでもやる人生だったのだ
よくぞ走った
走ったぞ
無残の美

46 黒い炎

 あなたのおとうさんにいただいた1枚のレコードはチェイスの『黒い炎』
 あなたの形見にもらってくれ、と言われたけれど、あの頃私は洋楽には全然興味がなくて、流行ったことも知らなかった。

 何度か聴いたけど、やがて忘れて、しまったまま。
 結婚して引っ越しして、しばらくあったのだけど、レコードプレイヤーも処分した時に、大量のレコードとともに、捨ててしまった。
 
 そして、ずうっと忘れていた。
 投稿するようになり、高校時代のことを思い出した。
 エッセイに書いてみた。
 あなたのこと。
 音楽エッセイにも書いてみた。
『黒い炎』のこと。

 今は作曲者も演奏者も忘れてしまっても、ほんの少しの記憶からYouTubeで探すことができる。黒い……だけで、あなたにもらったレコードジャケットが出てきた。

黒い炎 チェイス
https://youtu.be/t7HKPV8LeHQ?si=T0wuIlDvLOSiaFDt


 半世紀も経つのに色褪せない曲ね。
 知らない世代の人に教えてあげたい。



 夏休みが終わる時期になると思い出すようにしている。
 高校2年のことだった。夏休み明けのことだった。教室へ行く階段で、すれ違った女子が泣いていた。教室に入ると登校していた生徒数人が泣いていた。

 クラスの男子が自殺した。同じ姓の男子がふたりいたので、Y君と呼ばれていた。

 1年から同じクラスにいながら、話をしたことのない男子だった。髪は長く直毛ではなかった。新聞部に所属していた。話したことはほとんどない。真面目な生徒、あの学校には真面目な生徒しかいなかった。

 家庭の事情、ということだった。集会では、生活指導の怖い先生が、どんなに楽しそうに見えても悩んでいる生徒がいる。家庭ではいろいろな事情があるんだ……そんな話をした。
 クラスメイトは告別式に全員参加することになった。
 私たち4人グループの女子のRが、その前にお線香をあげに行こう、と言い出した。リーダー的存在のしっかりした女子だった。活発で男子とも臆することなく話し、ふざけていた。亡くなったY君ともそうだったのだろう。

 4人で午後、家を訪ねた。牛乳屋だった。その時応対したのは父親だけだった。父親は何も知らない私たちに話した。学校のせいだと。新聞部のY君は日教組のことを書き、先生側と何かあったらしい。
 感電死? どうやって? 無知な私は聞いているばかりだった。遺書を見せてくれた。

『私が死んでも悲しまないでください。悲しみは一時的なものです』

 供養だから、と言われバナナを食べた。息子の好きだったレコードをもらってくれ、と言われチェイスの『黒い炎』のLPをいただいた。

 当時の私には理解できないことばかりだった。感電死がわからない。日教組も知らなかった。
 
 告別式は雨が強かった。
 
 何があったのか、数日後の朝、校門の前で男が印刷物を配っていた。先生はそれを止めることもできずに見ていた。書かれた内容は当時の私にはよくわからなかったが、学校側を責めていた。真面目な生徒ばかりの学校。誰も何も言わなかった。親しかった男子はいただろうに。

 グループのリーダーのRが私たち3人を引き連れ、職員室に乗り込んだ。彼女は担任に、Y君の父親から聞いた話をした。事実はどうなのか? と。担任はタバコを取り出し吸った。間を置いたのはわかった。当時はそれができたのだ。生徒の前でタバコを吸うことが。
 私はそこにいただけだ。なにが起きているのかわからなかった。表面上は穏やかだった。印刷物を配る男も数日するといなくなった。

 落ち着いた頃、私達4人の女子は警察署に呼ばれた。それぞれ別々の部屋で調書を取られ拇印を取られた。Y君の父親と何を話したのかを聞かれた。確か日当も出たと思う。

 あれはなんだったのだろう? 自殺の原因が学校側の数人の先生にあると、父親が訴えたのだろうか? 私たちの名は誰が出したのだろう? 
 無知な私は無知なまま過ぎてしまった。投稿するようになり調べるまで。

1973/9/3
自宅で、××高校のY・Yくん(高2・16)が感電自殺。
6/8 Yくんは、日教組批判の新聞記事を学校新聞に掲載しようとして、担任教師や新聞部 の先輩に見つかり、集団リンチを受けた。顔や背中に大けがをし、11日間の入院。それ以降登校していなかった。 遺書には「体育館で記事について責められ逃げ場がなくなった。助けてくれと叫んでも助けて くれるものはいなかった。死ねばみんなが喜んでくれるだろう」と書いていた。 学校や日教組は、リンチなどの暴力沙汰を否定。
10/11 被疑者不詳のまま、傷害罪で告発。  
   (指導死一覧より抜粋)

 検索したらヒットした。そういえば急性肺炎で入院していた。

47 花ぬすびと

 ある方の作品を読んだら、「野分の去った空は」という表現があった。
 野分……聞いたことはあるけど、意味を知らず。学校で習ったのだろうか? 

野分(のわき)
 野の草を風が強く吹き分ける意。
 秋から冬にかけて吹く暴風。
 特に、二百十日・二百二十日前後に吹く台風。 
 のわきのかぜ。のわけ。

『花ぬすびと』の歌詞に野分が出てきて、何度も聞いていたのに。

 第23回ヤマハポピュラーコンテストのグランプリは、あみんの『待つわ』

優秀曲賞『花ぬすびと』 明日香
https://youtu.be/UWIBwpqolH8?si=xjY-WdRgda0o2j4T

 明日香はこの曲で世界歌謡祭グランプリに輝いた。
 当時は名古屋音楽大学の学生で、ピアノを専攻していたが、ピアノ弾き語りによる『花ぬすびと』は、美しいイントロから、静かな語りで始まり、サビの「二度咲き 夢咲き 狂い咲き」へと、たたみ込むような展開で進行。
 花を題材に恋愛を描いた詞も素晴らしく、ポプコン史上屈指の傑作と言っていい。
 原曲は中学生のときに書いたというから驚き。
 明日香はこの曲で世界歌謡祭グランプリに輝き、高井真巳子に『メロディ』を作曲するなど楽曲提供も行っていたが、2013年、がんのため49歳の若さで逝去した。
 もっと記憶に留めるべきアーティストです。

48 名探偵だけど

【お題】 触れ合った指


「あら、全然召し上がっていませんのね。モンクさん、お口に合いませんかしら?」
「い、いただいてますよ。とてもおいしいです」
「あら、無理なんじゃありません? 鍋を直箸でつつくのなんて」
「そ、そんなことないですよ」
「思ったとおり、モンクさん、食べられないのね。潔癖症だから」
「な、なにを入れたんですか?」
「毒よ。あなたが食べなければ、あなたが犯人。私は死ぬ……」
「大丈夫です。あなたは死にません。洗面所に隠してあった毒は小麦粉に変えておきました」
「なぜ? なぜ? ああ、この間、手を洗いに行ったら戻ってこなかったわね」
「私の手洗いは長いですから」
「憎い人、どうしたら復讐できるのかしら?」
「もう、やめなさい。あんな男のために人生を無駄にしては……わっ、やめてください。
 ティッシュ、ティッシュ」
「失礼な人ね。指が触れただけで」


 主人公エイドリアン・モンクは、ある事情により休職中の警察官。
 優れた観察力、記憶力、洞察力を持つ一方で、10代の頃から強迫性障害を患っており、それに加え妻を殺害されたことによるPTSDが原因でカウンセリングを受けている。
 全体的にコメディ的要素が強いが、彼の優れた能力や深刻な心の病状が引き起こす弊害を描くことでドラマにシリアスな面を与えている。

 ばい菌・高所・閉所・裸体・牛乳・化学物質などに対する様々な恐怖症を患っており、モンク本人によればその数は312個にも及ぶ。
 特にばい菌に対する恐怖は相当で、握手などのあとにはかならず除菌ティッシュで手を拭いている。
 潔癖症でもあり、頻繁に自宅を掃除し、天井にも掃除機をかけている。化学物質が脳に入ることへの恐怖感から、投薬治療は行っていない。
(Wikipedia)

名探偵モンク
https://youtu.be/0KyTkzDR-_A?si=HBOHrhIWu8wfjg63

49 別れてよかった

 合鍵から別れを連想。思い出した歌。
 歌詞に合鍵は出てこないのに。
 半世紀も前に流行った歌。大ヒットしたわけではないのに、ときどき口ずさむ。

 別れたいのかなあ? 
 ひとりになりたい!
 でも、もう、情が湧いてかわいそうだからそばにいる。(お互い様)

『別れてよかった』は小川知子さんの15枚目のシングル。
 1972年6月に発売され、オリコンシングルチャート最高18位、100位内に25週ランクインし18.9万枚の売り上げ、大ヒットではなかったもののロングセラーと言える成績を収め、今も良く知られる1曲となっている。
 作詞はなかにし礼氏、作・編曲は川口真氏のコンビネーション。
 同コンビは1969年に『人形の家』(弘田三枝子)、1970年に『手紙』(由紀さおり)と、いずれもヒットが途絶えていた歌手の起死回生的な大ヒット作品を生み出している。
『別れてよかった』も1969年の『初恋のひと』のヒット以来、チャート上位にしばらく食い込めていなかった小川知子さんへのテコ入れの意味合いがあったようで、大袈裟なまでに歌い上げるタイプの歌唱法をファルセットを用いたささやき唱法に変え、楽曲の持つイメージをふくらませた事がヒットにつながった。
 同時期の山本リンダさんの場合は真逆で、それまでの舌足らず発声ののど声歌唱を腹式呼吸的な発声に変えた事が、ビジュアルの変化と相まって『どうにもとまらない』のヒットにつながる大きなインパクトとなった。
 奇しくも『別れてよかった』と「どうにもとまらない』は全く同じ発売日。
 川口真氏による、歌唱法変更を伴う楽曲提供はさらに続き、『別れてよかった』発売の半年あまり後に『他人の関係』(金井克子)、そのさらに半年足らずで「浮世絵の街』(内田あかり)と立て続けに発表し、いずれも現在も親しまれる有名曲となっている。
https://orikarapoponta.blog.ss-blog.jp/2016-03-27


小川知子 別れてよかった
https://youtu.be/Ow-fd3k86qY?si=4eHPtdr9K-pR_gK-

小川知子 初恋のひと
https://youtu.be/6qb9O_1ho7Q?si=cgf80X5Si-ZvYqoC

50 原作を超える作品に

【お題】 隠された経歴


 松本清張の推理小説はずいぶん読んだ。
 隠された経歴で思いついたのは『砂の器』と『ゼロの焦点』
 
 成功した自分の過去を知る人物が現れた。
 絶対に知られてはならない自分の過去。
 
 
『砂の器』は映画になったときに観に行った。映像と音楽は圧巻。
 原作は読んでいたので、レコードも買った。
 音楽監督・芥川也寸志、作曲/編曲・菅野光亮の『宿命』

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年(大正14年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。
 小説家・芥川龍之介の三男として東京市田端に生まれる。長兄は俳優・芥川比呂志。
 父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。

 父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に
「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」
「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生!畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」

 結婚を3度している。
 2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)

 逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で
「あとをたのむ」
と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された追悼記事に残されている。
 最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか……あの曲の最後の音はどうなったかなあ」
だった。


 映画『砂の器』がテレビ放送されたとき、ラストシーン近くで真相が明かされる場面、丹羽哲郎演じる刑事が捜査会議で述べるセリフがある。
「当時は不治の病と思われていた、○○病であります」
 ○○病の部分だけ音声カットされた。
 この映画の中で、一番肝心な「○○病」というセリフが出てくるのはこの1か所だけ。それがカットされては、もはや映画全体のテーマが分からなくなるということである。
(砂の器と差別用語の話から)


『ゼロの焦点』も松本清張の長編推理小説。
 北陸地方を舞台に、太平洋戦争直後に端を発する時代の傷痕が生んだ連続殺人事件を描く。
 1961年・2009年の2度にわたり映画化、また多数テレビドラマ化されている。

 1961年3月19日公開。製作は松竹大船、配給は松竹。監督は野村芳太郎。
 能登金剛・ヤセの断崖をクライマックスの舞台とする、松本清張原作映画の中でも著名な作品のひとつとなった。第12回ブルーリボン賞助演女優賞(高千穂ひづる)受賞。


 原作以上の作品になったのは、芥川也寸志の音楽があったから。『砂の器』以上だという声も。

 本映画公開後、能登金剛周辺地域で投身自殺が急増し、多い年には18人の自殺者が確認されるにいたった。当時19歳の女性が、
『ゼロの焦点』の舞台となった能登金剛で死ぬ。との遺書を残して自殺した事件を契機に、女性の霊を慰め、更なる自殺者が出ないようにと、能登金剛の巌門には、本作にちなんだ歌碑が立てられた。歌碑には
「雲たれて ひとりたけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅」
と、原作者直筆の文字が刻まれている。

 主人公と犯人が崖上で相対する演出は、のちに2時間ドラマなどで多用、定番化されたため、現在では、しばしば本映画がこの演出の原型と位置づけられている。
(Wikipediaを参考にしました)

砂の器
https://youtu.be/WORz46IWDf8?si=B68HzqW7Y0g3Elhy

ゼロの焦点
https://youtu.be/1hFldTB1Dyw?si=8CfORdz5YM9wEf1L

ひらめいた曲 41〜50

ひらめいた曲 41〜50

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 41 ニュー盆踊り
  2. 42 甲子園といえば
  3. 43 復活の朝
  4. 44 指揮者 三島由紀夫
  5. 45 無惨の美
  6. 46 黒い炎
  7. 47 花ぬすびと
  8. 48 名探偵だけど
  9. 49 別れてよかった
  10. 50 原作を超える作品に