お気に入りの音楽 151〜156

お気に入りの音楽 151〜156

151 歌姫 本田美奈子.

 某サイトのクラシック音楽の作品を読み、YouTubeを聴いていたら衝撃!
 本田美奈子.さんの『ヴォカリーズ』
 歌が上手な人だとは、知っていたけど、あまり馴染みがなかったので。
 俄然調べてみたくなりました。

 本田美奈子.さん。美奈子の後に『.』を付けたのは本人の意向による。
「ドットを付けると画数が31画になり、開運のために変えました。いつでも歌手として人として女性として輝いていたいのでドットを付けました」 
 この改名は2004年の11月。

【セルゲイ・ラフマニノフの『ヴォカリーズ】
https://youtu.be/u3n5j68QcYc?si=3dAhk-ZWRiacUTbx

 セルゲイ・ラフマニノフの『ヴォカリーズ』作品34-14は、1915年に作曲・出版されたピアノ伴奏付きの歌曲。
 歌詞のないヴォカリーズで歌われる旋律と、淡々と和音と対旋律とを奏でていくピアノの伴奏が印象的である。ロシア語の制約を受けないためもあって、ラフマニノフの数多ある歌曲の中でも、最もよく知られた曲となっている。(Wikipedia)

『ヴォカリーズ』有名なのに初めて聴きました。

 本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年〈昭和42年〉7月31日- 2005年〈平成17年〉11月6日)は、日本の歌手、女優、声楽家。
 歌手になることを夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。
 中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では合格して決戦大会へ進出した。
 この時の出場者の5人の中には松本明子と徳永英明がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。
 15歳を迎えて出場した決戦大会では、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。

YouTubeでみつけた動画。
スター誕生オーディション ハローグッバイ
https://youtu.be/eTtx9ECrX7Y?si=p0MjWjfOSv_V4TNR


 思い出しました。これ、リアルタイムで観ていました。舌を出す少女。

 高校2年生の1984年に第8回長崎歌謡祭に出場し、グランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。
 1985年に『殺意のバカンス』でアイドル歌手としてデビュー。
 同期デビューに、中山美穂・南野陽子・森口博子・斉藤由貴・井森美幸など、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれか。
 その後、4枚目のシングルをヒットさせ数多くの新人賞を受賞した。
 1986年『1986年のマリリン』をリリース。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。

1986年のマリリン
https://youtu.be/ZmE4Jl02Emo?si=VlQW47GYLXpKDQ__


 この頃はほとんどテレビを観ていなかった……のか、知らないのです。

 アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけた秋元康は、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。
「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」



ファースト武道館コンサートより
https://youtu.be/R9kaxbB7IXk?si=kB_t7F5HskKR048B

 彼女がデビューした年(1985年)の記念すべき武道館コンサート。その冒頭を飾るのは自身の曲ではない。
 フレディ・マーキュリーの「I was born to love you」
 本田美奈子は、クイーンの熱烈なファンだった。

フレディ・マーキュリー(1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのロックバンド「クイーン」のボーカリスト。
https://youtu.be/nE-8eZn20l0?si=ocSKEvaVI4gVjMGm

 クイーンが出てくると嬉しい。フレディ・マーキュリーは歳を取らない。
 ブライアン・メイは本田美奈子と親交があり彼女のために曲を書いている。


【アメリカ合衆国と日本の国家】を続けて斉唱。
https://youtu.be/u64hdRjEEYY?si=BzdN2k_HwXNE_XjK

 日本国家斉唱は『お気に入りの音楽58話、君が代は難曲』で特集しました。本田美奈子さんの歌唱もありました。

 指揮者の帝王カラヤンがクラシック以外で認めた曲が2つあるそうだ。
 ひとつは日本国歌『君が代』
 1954年に初来日したときに、NHK交響楽団が全員総立ちで『君が代』を演奏した。カラヤンは「世界の国家の中で、もっとも荘厳な曲」
と賛辞をおくったという逸話がある。
 そしてもう1曲はロックの金字塔、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』だ。
 カラヤンは、「私がオーケストラで演奏するとしても、これ以上のアレンジはない名曲だ」
と称えた。

『天国への階段』(Stairway to Heaven) は、イギリスのロックグループ、レッド・ツェッペリンの代表曲。ジミー・ペイジとロバート・プラントによる共作。
https://youtu.be/Ly6ZhQVnVow?si=8955JgDQ-qLSPgfc

 この曲を本田美奈子.さんが歌ってます。


【天国への階段】
https://youtu.be/oHanUkEVpk8?si=6_DFo8Njip0sqlMU

 1990年、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。 
 1992年『ミス・サイゴン』日本初演。以来1年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力が高く評価された。
 1997年、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。

ミス・サイゴン 命をあげよう
https://youtu.be/JZI3pLQXL-A?si=uOLypzd3rJ4j5UZI

レ・ミゼラブル オン・マイ・オウン
https://youtu.be/jgi07xag3ug?si=sTS39DAb8KPtoljH


『ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた。
 彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた。
 『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った。
『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』の作曲者、クロード=ミシェル・シェーンベルクは『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、
「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」
と述べた。
『クラウディア』での共演を通して親しくなったYU-KIは、本田の「ジュピター」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」
を受けたと話した。



 2004年12月1日、武道館で38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。
 2004年末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。
 翌2005年1月、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された。
 その後、2度に亘る化学療法を受けるが、寛解は得られなかった。
 治療として骨髄移植が考慮されたものの、ドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であった。
 同年5月、臍帯血移植を受けた。7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、9月に再入院。
 その後肺への合併症から容態が急変し、同年11月6日午前4時38分、息を引き取った。38歳没。
(Wikipedia)

『アメイジング・グレイス』は、急性骨髄性白血病のため入院していた本田美奈子.が一時快方に向かった際、ファンの支援への感謝を込めてセレクション・ミニアルバムが企画され発売された。
 発売からわずか2週間余り後の2005年11月6日、本田は急逝した。

アメイジング・グレイス
https://youtu.be/310cxamdUfg?si=wk0Ie3W1CO9pxKbj

 本田美奈子のソプラノ・アルバムの第1作。収録曲は100曲以上の候補の中から本田自身が心に響く曲、歌いたい曲を選んだ。

 カッチーニのアヴェ・マリアは数ある「アヴェ・マリア」の中でも本田が最も気に入り収録された。

アヴェ・マリア
https://youtu.be/_puB04VtmD0?si=dHICtVB_fbVZE73u


「つばさ」は、1994年5月25日発売の19枚目のシングル。 
 本田作品の中では「アメイジング・グレイス」と双璧をなす人気を誇り、間奏部分で大きく伸ばす超ロングトーンは、10小節強、時間にして28秒にも及ぶ。
 2003年5放送の『題名のない音楽会21』出演時には、さらに1小節長い11小節半(時間にして30秒)のロングトーンを披露しており、曲の途中でありながら観客から大拍手が起こったほどの反響があった。


つばさ
https://youtu.be/RtbHsMPGv2c?si=0JJ9pxjU1mhFeOUY


 本田美奈子.の音域は最終的には3オクターブまで達していた。華奢な体からは想像できない実力の持ち主であったと言えよう。
「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちに、それまで出せなかったような声を出せるようになった」
と本人も語っているが、代表曲となる「つばさ」の中盤に代表される驚異的なロングトーンは、努力と訓練がなければありえない名唱となっている。
https://www.soundhouse.co.jp/contents/feature/index?post=332

152 あるランキング

【岡村孝子】

『待つわ』は、あみんの楽曲。
 デビューシングルながら、1982年のオリコン年間売上1位となるヒットを記録し、累計売上は120万枚を超える。
https://youtu.be/8TL__mexkF4?si=vg1VwvjgRTyFGV7e

 あみんは、岡村孝子と加藤晴子の2人による女性歌手グループ。
 活動期間 1982年 - 1983年、2007年 -

 1980年代前半にシングル4枚とオリジナルアルバム2枚をリリースののち活動休止、2007年に活動を再開した。

 あみんは当時、現役の女子大生の岡村孝子・加藤晴子のデュオであった。第23回ヤマハポピュラーソングコンテストにおいて『待つわ』でグランプリを獲得、その後同曲がファースト・シングルとして採用され、デビューした。
 1982年暮れの『第33回NHK紅白歌合戦』に『待つわ』で出演した。デビューからわずか5ヶ月ほどでの選出となった。
 しかし、加藤が活動を辞める意思を示した。学業に専念したい、というのに加えて「芸能界は私のいる場所ではない」が動機だった。
 あみんの活動休止後(1983年)、岡村は『待つわ』をソロで歌ったことはない。解散後、相手を変えて、あみんとしての活動を続行する話があったものの、加藤以外の人物と組むことは全く考えていなかったという。 
 2002年の歌手デビュー20周年記念コンサート・ツアーでは、最終日9月6日・渋谷公会堂公演に加藤がスペシャル・ゲストとして登場し、およそ20年ぶりに生で『待つわ』を披露した。
 岡村が加藤を誘ったことがきっかけとなり、2007年には活動が再開された。復活第1弾シングルとして『待つわ』のリメイクを含む『ひまわり/待つわ'07』(2007年)を、7月25日には25年ぶりにして2作目のオリジナルアルバム『In the prime』をリリース。同年、『第58回NHK紅白歌合戦』にも「待つわ」のリメイクで出場した。

『夢をあきらめないで』は、岡村孝子の通算5枚目のシングル。1987年2月4日発売。
作詞・作曲 岡村孝子
チャート最高順位 50位(オリコン)
https://youtu.be/4xUufRft9Hs

『夢をあきらめないで』は、1982年に "あみん" として『待つわ』で歌手デビューを果たしたのち、1985年よりソロ歌手に転向した岡村にとって、代表曲のひとつである。
 岡村は
「ただの失恋ソングのつもりで作りました」
とインタビューで語っているが、流行り廃りのない言葉で綴られている歌詞は、岡村本人の意図する解釈を超え、スタンダード・ナンバーへと成長した。
 岡村は
「この曲を『応援歌』として捉えられることは、自分の意図とは違う方向へ一人歩きした感じがした時もありましたが、現在でもこの曲を愛してくれていることは凄く嬉しいです。現在ステージで歌うときは、皆さんへの応援歌としての気持ちで歌っているんです。」
と16年後に語っている。
 
 テレビなどで使われることも多く、フジテレビ系情報番組『タイム3』のエンディングテーマや、武蔵高等予備校・東北電力のコマーシャルソングに使用されたほか、朝日放送・テレビ朝日共同制作の『熱闘甲子園』で使用されたりもした。
 朝日放送の高校野球中継における高校球児たちに対しての「好きな曲アンケート」では、本楽曲が第1位に選ばれた。このように応援歌的な人気があるほか、音楽の教科書に掲載されたこともあり、卒業シーズンの定番曲である。

 岡村孝子さんの父親は、ホテル経営をしていたが経営に失敗し、岡村孝子さんは連帯保証人であったため借金を背負うことに。その金額15億円。
気が遠くなる金額だが2007年に完済している。

 岡村孝子さんは2019年4月には急性白血病を公表し、7月には臍帯血移植の手術を受け、9月には退院とともに「移植後完全寛解」の状態であることを発表した。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/2207/22/news139.html%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

【五木ひろし】

 すごい動画見つけた、と思ったら、静止画で音源は当時のものではない。当時ビデオはまだまだ発売されていなかった。それでもすごいです。姉が五木ひろしさんを好きで、毎週観ていた。デビューするとコンサートに引っ張っていかれた。チケット買うのに、夜中の新宿コマ劇場の前に並んだ……

五木ひろし誕生 全日本歌謡選手権での10曲
https://youtu.be/YomBkMS99Lw

『全日本歌謡選手権』は、1970年1月5日から1976年12月25日まで日本テレビ系列局で放送されていた歌謡番組である。
審査員 淡谷のり子 船村徹 平尾昌晃 鈴木淳 山口洋子 浜口庫之助 橋本淳他

主な出身者(再デビュー順)
大橋恵子
五木ひろし
天童よしみ 八代亜紀 中条きよし
中真理子 - 『スター誕生!』第9回決戦大会に出場したが、合格ならず。本番組には1週落ちしたものの、再挑戦の機会を与えられて10週連続で勝ち抜き、グランドチャンピオンを達成した。
有砂しのぶ
竜エルザ- 沖縄海洋博会場での公開収録時に初挑戦して1週勝ち抜き。その後も順当に勝ち進み、グランドチャンピオンを達成した。
ロマン・タム - 香港出身歌手。10週連続で勝ち抜き、グランドチャンピオンを達成した(1975年)。
真木ひでと - グループ・サウンズのオックスに所属していた野口ヒデトで、演歌歌手に転向するために出場。で五木ひろしの「よこはま・たそがれ」を歌い、合計点73点で合格となり、グランドチャンピオンを達成した。
山本譲ニ 日高隼人
その他の出場者
南こうせつとかぐや(第一期メンバー)も出場したが、4週目の挑戦で途中棄権した。
かつての天才少女歌手青山ミチも出場して10週連続で勝ち抜いたが、プロ復帰はならなかった。
カントリー・ヨーデル歌手として著名なウイリー沖山、琉球民謡歌手の大工哲弘、女流落語家の林家パー子、喜劇俳優の芦屋小雁も出場したことがある。
石野真子が出場し、3週まで勝ち抜いた。


 灯台下暗し……
 親族でも信用してはいけない。
 五木が抱えていた借金の総額は、推定で20億円ほどだと言われている。その原因は、彼自身ではなく、事務所の経営をまかせていた親族の放漫経営にあったそうで、彼らによる多額の使い込みもあったという。
 しかし、すぐさま経営スタッフを入れ替え、精力的に活動を続けた五木。全国で愛されるがゆえのカラオケの印税収入などを駆使し、無事完済したそうだ。  
――巨額が行き来する芸能界ゆえ、足をすくわれ多額の負債を抱え込むことも多いようだ。だが、そこでくじけず返り咲いた彼らの知恵と根性、精神力はまさに賞賛ものと言えるだろう。
https://nikkan-spa.jp/1576501/2


【加山雄三】

旅人よ
作詞︰岩谷時子 作曲:弾厚作
リリース:1966年10月
演奏:加山雄三とザ・ランチャーズ
https://youtu.be/IXSlDxXQcoQ?si=Nm1EymwbBwF2vsJj

 加山雄三(弾暑作)の曲づくりは、メロディが先でそれに合わせて詞をつけるという作り方。加山の曲の良さは岩谷時子の洗練された歌詞によるところが大きいと思っているのだが、特にこの曲は言葉から先に作ったのではと疑うほど、格調高い詞と曲が溶け合っている。
『旅人よ』は基本的にコーラス前提で作られている曲。「たどる瞳輝く~」の部分のハモリ、「サビの「やがて冬が冷たい(冷たい)、雪を(雪を)~」部分の輪唱的なハモリがとても気持ち良いし、「裏メロ」がわかりやすく、追いかけやすいので、歌うと大変心地よい。
 この曲には独自の完結した世界を持っており、自分の中ではほぼ同時代のビートルズや日本のフォークミュージック、その後のどんな曲にも代え難い。
 同じようなテーマの曲では、フォー・セインツ、岸洋子の『希望』、ブロードサイド・フォーの『若者たち』などもあり、どれも良い曲だが、ハーモニーの素晴らしさ、コーラスとメロディ、言葉の完璧な一体感では及ばない。
 荒野や草原を行く旅人のイメージでは谷村新司『昴』と共通するところがあるが、『旅人よ』が「厳しい道だが前途がある若者の旅」であるのに対して、昴は「永遠とか死の旅」のイメージだ。 
 聴き比べるとこの曲の若々しさ、みずみずしさが際立つ気がする。
https://keepr.hatenablog.com/entry/2021/11/23/170552

 加山雄三さんは親族が営むホテルが倒産して、保証人として借金を抱えたり、新潟・湯沢にスキー場「加山キャプテンコースト」を開業したが、こちらも大赤字で数十億の借金を抱えることに。
 しかし、借金だらけになってもポジティブシンキングの加山さんは、借金完済のために、講演会やディナーショーの出演、パチンコのイメージキャラクター、趣味である絵画の個展や販売会、ミュージアム経営など、いろいろな仕事をしました。
「永遠の若大将」として有名ですが、何が何でも乗り越えるという信念がかっこいいです。

【藤田まこと】

 1973年、必殺仕置人に出演し、俳優としてブレイクした。
 その一方で、レストラン業など夫人が手掛けていた事業がバブル崩壊を境に不調に陥り、30億円ともいわれていた負債を背負うことになった。

「母が負債を背負った時、父は
「任せた俺にも責任がある」
と言い切って、母を責めることは一切無かったです。
 中には、母に自己破産を勧めた方もいました。
でも父は
「破産をすれば家内の人権が著しく制限されてしまう。それでは家内がかわいそうだ」
と言って……。
 当時、父は60歳でしたが
「俺がみんなを守るから心配するな。俺についてこい」
と言ってくれました」

 ほとんど休みも無く働き、藤田は見事に負債を全額返済をした。
 その反動からか、2008年4月に検査の結果、食道がんがみつかる。
 2008年5月25日に手術をし、08年10月に必殺仕事人で仕事復帰を果たした。 
 しかし2009年11月、慢性閉塞性肺疾患のため、出演を予定していたドラマ・JIN-仁-を降板、2010年3月撮影予定の必殺仕事人2010での復帰を目指して療養生活をしてたが、2010年2月16日に倒れ、17日に帰らぬ人となった。


【矢沢永吉】

 団塊の世代であり、特にザ・ビートルズの影響を強く受けている。最初にプロデビューを飾ったキャロルは、初期ビートルズを模範としたロックンロールをベースにしたもので高い人気を誇った。

 若い頃の動画が全然ない。

黒く塗りつぶせ 矢沢永吉
https://youtu.be/UI2Q6CYPpQ4

 かねてからオーストラリアのゴールドコーストに強く惹かれていた矢沢さんは、そこにスタジオを作れないかと考えた。
 この事業を信頼していた2人の部下に任せていたが、この2人が実際に行っていたことは別のビジネスで、矢沢さんは詐欺・横領などによって35億円もの借金を背負った。
 しかしそこは熱狂的なファンを多く抱え、コンサートはいつも満席の矢沢氏。
 コンサートやCM、テレビや映画出演など精力的に活動をし、35億円の借金を数年で完済した。


桑田佳祐による「すべての歌に懺悔しな!! 騒動」
 1994年に桑田が発表した楽曲「すべての歌に懺悔しな!! 」の歌詞を巡り、マスコミによって長渕剛と共に桑田に揶揄された当事者とされた。
 この際、激怒した長渕とは対照的に
「お互いクリエイター。全然、気にしていないよ。それより桑田君の方は大丈夫か?」
と逆に桑田を気遣う発言をしたとされている。


すべての歌に懺悔しな!! (4:20)
(作詞・作曲:桑田佳祐 編曲:桑田佳祐 & 小倉博和)
https://youtu.be/gcZH6L3aQjQ?si=jhdd680ri2b9aroJ

歌が得意な猿なのに
高級外車がお出迎え
スーパー・スターになれたのは
世渡り上手と金まかせ

【さだまさし】

 シンガーソングライターのさだまさしさんは、自身が主演・音楽・監督を務めたドキュメンタリー映画「長江」(1981年公開)の制作で推定35億円の借金を背負うことになった。
 映画はヒットしたけど…
 しかし現地中国での撮影が難航し、当初の予定より大規模な撮影になったこと、スケジュールの超過、人件費を始めとする制作費の増大などで、受けた融資額と金利を含め、約35億円もの借金を背負う。
 借金返済がモチベーションに。
 後にさださんは
「借金を返すためにも歌手をやめるわけにはいかない」
との思いから、歌手活動を40年もやってこれた理由の1つに負債があったと語っている。
 借金の完済には30年かかったとのこと。


【小林旭】

惜別の歌(昭和36年、1961年)
作詞:島崎藤村 作曲:藤江栄輔 歌:小林旭
https://youtu.be/Cw0Gpv_kgWY
 
 この歌には一つの歴史がある。昭和20年3月、応召された中央の学生の見送りの際、同じ工場で働いていた東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の生徒たちから、島崎藤村の処女詩集「若菜集」の中にある「高楼」の抄編が送られた。
 それには「惜別の唄」と題されており、その詩に当時予科1年生であった藤江英輔が曲をつけた。その後その工場では、応召学徒を送り出す際に、今生の別れを惜しんでこの歌が歌われるようになったという。

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

4.君がやさしき なぐさめも
  君が楽しき 歌声も
  君が心の 琴の音も
  またいつか聞かん この別れ

中央大学校歌版

4.君の行くべき山川は
  落つる涙にみえわかず
  袖の時雨の冬の日に
  君に送らん花もがな


 かつては日活の看板俳優として、マイトガイの愛称で知られ、かの故・石原裕次郎氏と並ぶ大スターとして活躍。
 昭和歌謡界の女王、故・美空ひばりさんとの結婚と離婚。そして「アキラ節」と称される独特な味わいの歌唱スタイルで披露される『昔の名前で出ています』、『北帰行』、『熱き心に』といったヒット曲の数々。
 小林旭という人は、まさに昭和の、古き良き時代の映画スターとしての生き字引と言え、70歳を過ぎた今なお、若々しさを失わず、精力的に芸能活動に勤しんでいる。
 ただし、その人生においては巨額の借金に度々直面。それにも関わらず、自らの芸能活動の稼ぎによって返済したというスゴ技を発揮したことでも知られている。

【千昌夫】

『津軽平野』は、1984年3月25日に発売された千昌夫のシングル。作詞・作曲は吉幾三、編曲は京建輔。
https://youtu.be/yZOI_bkZO74?si=YFwO_aKbA_g77gil

 日本における出稼ぎは、第二次世界大戦前は農村や山村などにおいて製炭などに従事する労働力を他村から受け入れることがあった。
 戦後の高度成長期(1970年代まで)に顕著となり、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。
 出稼労働者の所得確保の一方で、高度成長に伴う旺盛な需要により労働者不足に悩む都市部への重要な供給源となった。
 また出稼ぎを題材にした映画や楽曲が多数作られた。
(『あゝ野麦峠』や吉幾三の『津軽平野』など)

 説明不要の借金王。
 1969年に仙台の土地を購入し、その後、東北新幹線の着工決定に伴い地価は10倍に上昇。それに気をよくした千は、歌手業を休業して次々とマンションとビルを買い漁り、「歌う不動産王」と呼ばれるようになる。
 結果、バブル崩壊と共に借金が膨れ上がり、借金総額は驚異の2853億円に。
 その後、個人向け民事再生法を適用して2002年に「6年間で約1億5000万円を返済すれば良い」とお達しを受け、一応の解決を見ることに。今はかなりの額を返済しているという。

https://middle-edge.jp/articles/Z6vyL?page=2

153 五音音階

 ヨナ抜き音階に続き、五音音階をもう少し調べてみました。

【滝廉太郎の『花』ト長調 2/4拍子】
https://youtu.be/yOm7wLJG0zs?si=S7UGwVEitwaEm-gu

*レーレ ソ ソ ラ ソ ファ#ミ レー シ レ ソ ファ#ソ レ ラ-
*レーレ ソ ソ ラ ソ ミ ファ# レー ラーラ ラ シ ソ―
*レーレ レ シ ドード ド   ラ シーミ ラ レー
*レーレ ソ ソ  ラソ ファ# ミ レー  ラー シ ド ラ ソー

 ヨナ抜き音階は、4番目と7番目が存在しないわけだから、 (ド)と (ファ#)はないはずであるが、『花』の楽譜には、両方ある。それも複数個。 
『花』は、ヨナ抜き、ではなく、七音音階の平均律、ト長調の枠組みの中で、作曲されている。

 いわゆるペンタトニック (五音音階)と称するモードから抜け出し、ヨーロッパで練り上げられ、世界中で通用する共通ルール、平均律で書かれている。
 滝廉太郎は、音階の巧みな使い方、伴奏における、充実した和音、快活さを更に表現するための、付点音符の効果も見事に利用できている。

 滝廉太郎は,明治時代の代表的な作曲家で『花』は、日本で作曲された最初の合唱曲。
 明治12年に東京で生まれ、富山県や大分県で育った。
 子どものころから音楽が好きで,15歳で東京芸術大学音楽学部に入学し、21歳で,代表作の『花』、中学唱歌『荒城の月』『箱根八里』、幼稚唱歌『お正月』などを作曲した。
 22歳でライプツィヒ音楽院へ留学したが,2か月ほどで病気になり,帰国後,わずか23歳で亡くなった。
 短い人生だったため、作品の数は少ないが、日本人の感性に寄り添う名曲は、たくさんの方々に歌い継がれている。

 伝統的な西洋音楽の「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」には、1オクターブに7つの音があることから、七音音階と呼ばれている。
 それに対して、ヨナ抜き音階のように1オクターブに5つの音がある音階を、五音音階と呼ぶ。

 五音音階は東アジアや東南アジア、南アメリカ、アフリカなどでよく見られるが、すべて五音音階かというとそうではなく、部分的に七音音階が使われたりと、多様性がある。

 つまり五音音階というのは、西洋音楽の立場から見た呼び方でしかなくて、世界の音楽はとても広くて深い。

【ショパンの『エチュード 作品10の5番』、通称『黒鍵のエチュード』】
https://youtu.be/vUONXDKqpqg?si=BqXfax1m2Hqt1htK

 この曲の右手は1音だけファが出てくる以外は、すべて黒鍵を弾く。「ソラシレミ」の半音下げた5つの音がほとんどなので、五音音階。


【黒鍵のエチュード➕わらべうた】
https://youtu.be/aMWONCJEBPc?si=DXhErH5iLePnrh38

 ショパンさん、なに思う?
 黒鍵のエチュードは好んで聴かなかったけど、面白い!

【ドヴォルザーク 交響曲第9番2楽章。いわゆる『家時』の名旋律】
ピアノ
https://youtu.be/gnFxilyfULU?si=SsmoxHBN7KikFivz

オーケストラ
https://youtu.be/OkRJpNwR2B0?si=6MEjbGKPXhnjo8Un

 ドヴォルザークの音楽にあるどこか素朴で懐かしい情緒は五音音階に起因しているといわれる。

 ドヴォルザークは、民族性を強調する手法として五音音階を使った。7音の一般的な全音階から第4音 (ファ)と第7音 (シ)を抜くために『4,7抜き音階』とも呼ばれるこの音階は、ボヘミア、アメリカ、スコットランド等、民謡に広く使われている。


【弦楽四重奏曲『アメリカ』の1楽章】
https://youtu.be/5fiO22Qmzmk?si=JKDr1D-c3qLfCwl6

 ニューヨーク時代に作曲した弦楽四重奏曲『アメリカ』の1楽章もそうだが、その主題を聴いた人が、国籍を問わず、自分の故郷を思い出すような効果がある。
 我が国では『家路』として歌われる第1主題も同様で、農村の素朴な夕べの祈りが目に浮かぶ。
 しかし、厳密にいうと純粋な五音音階ではない。シが何回も繰り返されるからだ。但し「シ→ド」と半音上昇する導音的な使用は意識的に避け、常に「シ→ラ」という下降音型にすることで、五音音階に聴こえるように工夫していることが判る。
(千葉フィル楽曲解説)

 1楽章のペンタトニック (五音音階)は4番めと7番めの音を抜くヨナ抜き音階。♭シとミの音 (ヘ長調でいう第4音、7音)が使われてない。


【シューベルトの交響曲第7番「未完成」の第2楽章】
https://youtu.be/A8FK2n_Pb04?si=-HR8HIy4krUlOqtD

 ホ長調で書かれていて、ホルンの呼びかけに乗って弦楽が奏でる美しい旋律で始まる。
 ホ長調という調性は、神秘的で天に近い存在を表すことによく用いられ、また、ホルンという楽器も最も古い楽器のひとつで、「動物の角」すなわち「角笛」という意味を持っており、ギリシャ神話では最高神ゼウスに授乳したヤギの角が“豊かさの象徴”として登場している。
 この旋律は「五音音階」と呼ばれる、さらさらとそよぐような音階でできている。

 第2楽章 (ホ長調)の冒頭、ホルンの呼びかけに乗って弦楽が奏でる五音音階のそよぎは、『美しい水車屋の娘』 (1823年)の終曲で小川が若者を包みこむ永遠の安らぎの歌であり、死の前年にいたってなお『冬の旅』の『菩提樹』が「ここにお前の憩いがあるよ」と囁ささやきかける声なのである。
 つまり、第2楽章で光と平安に満ちた天上世界を描ききってしまったシューベルトには、その先を続ける内的な動機がもはや残されていなかった。


【歌曲集『美しき水車小屋の娘』】
https://youtu.be/SfMPMm5aaYo?si=4WSTah_bn0ESYKsm

 ヴィルヘルム・ミュラーの詩にフランツ・シューベルトが作曲した全20曲からなる歌曲集。『冬の旅』・『白鳥の歌』と並び「シューベルト3大歌曲集」の一つと称される。
 この歌曲集は「修業の旅に出た粉ひき職人の若者が、勤め先の水車小屋 (製粉所)の娘に恋をするが、その娘は狩人と恋仲となり、失恋した粉ひき職人は川に身を投げて自殺する」という物語からなり、20曲の歌によって語られる。
 シューベルトはここに描かれている若者の姿に大きな共感を抱いていたと思われ、音楽にそれが十分に表れている。希望に胸を膨らませて旅に出かけた若者が恋によって次第に変化してゆく姿が生き生きと描かれた「青春の歌」といえる。

【冬の旅】
https://youtu.be/SmnDwlMpu28?si=9O4p4KN3YtjIjVFg

 若者は最初から失恋した状態にあり、街を捨ててさすらいの旅を続けていく。
 唯一の慰めである「死」を求めながらも、旅を続ける若者の姿は、現代を生きる人々にとっても強く訴えかけるものがあるとされ、一般に彼の3大歌曲集とされる作品の中でも、ひときわ人気が高い。


 シューベルトの健康は、1823年に体調を崩し入院して以来、下降に向かっていた。
 友人たちとの交流や旅行は彼を喜ばせたが、体調は回復することはなく、経済状態も困窮のまま、性格も暗くなり、次第に死について考えるようになる。
 シューベルトには10代の頃から死をテーマにした作品があり、家族の多くの死を経験したことからも死についての意識は病気以前からあったと考えられている。
 とりわけ、ベートーヴェンの死は、彼に大きな打撃を与えた。
 シューベルトがミュラーの『冬の旅』と出会ったのは、1827年2月のことであった。シューベルトは前半12曲を完成させ、友人たちに演奏したが、あまりの内容の暗さに彼らも驚愕したという。
 友人の一人が「菩提樹は気に入った」と口にするが精一杯であった。
 全体的に暗く絶望的な雰囲気に包まれた音楽の中で時に長調の部分が現れるが、それは幻想かイロニーに過ぎず、全24曲を通して甘い感傷に陥ることがない。

『冬の旅』は二十歳の頃に買ったクラシック名曲集に入っていて、何度も聴いていた。暗い曲が好きだった。 


https://ameblo.jp/galwayera/entry-12032049975.html
https://www.sawakami-opera.org/wp/classics/schubert-symphony-no-7-2nd-movement-d-759-unfinished

154 最高の歌唱 人生の宝2

 拙作『ひらめいた曲』で茅ヶ崎が生んだスーパースターふたりを取り上げました。

「尾崎さんは茅ヶ崎の誇りですよ。
 憧れましたね。
 キーヨって言うんだよね、ツウは。えぇ。えー、ツウじゃないけど大好きでした。
 I LOVE YOU now & foreverですよ。
 ほんと尾崎紀世彦、あの人の真似もよくしたね。とにかく、茅ヶ崎からあーいう歌手が出るって嬉しくて。
 俺達はよく真似しまして、あの尾崎さんがあのスタイルで、あの歌うたってくれたおかげで、俺達の音楽人生や青春はね、やっぱり輝いたと思いますよ。
 今年も、もうすぐあの尾崎さんが大好きだった浜降際っていうのがあってね、
 茅ヶ崎。うーん。御神輿担いで、あの人毎年担いでいたみたいなんだよ。うーん。俺あんまり担いだことないんだけど、情けない、茅ヶ崎人の俺は、ねぇ。

 ご冥福を改めてお祈りいたします」

        桑田佳祐



 尾崎紀世彦の『さよならをもう一度』がはやっ
た時に、この映画も取り上げられていました。観てはいませんが、検索したら、ブラームスの交響曲が原曲だと知りました。

『さよならをもう一度』は、1961年のフランス・アメリカ合作映画。フランスの作家フランソワーズ・サガンの小説『ブラームスはお好き』を映画化したもの。
 初公開は1961年6月29日。
 ブラームスの交響曲第3番第3楽章の甘美なメロディが様々にアレンジされ、各場面で効果的に使われている。(Wikipediaより)

映画の原曲
 ブラームスの交響曲第3番。ドヴォルザークが影響を受けたという。
 7分30秒あたりからの第3楽章が有名です。
 木管の響きの上に、チェロが旋律を歌う。全曲でもよく知られる部分である。中間部は変イ長調。主部の旋律はホルンによって再現される。

ブラームスはお好き
https://youtu.be/K3D4EffoFC8?feature=shared

ブラームスの交響曲第3番
https://youtu.be/ldoVnXMvczg?si=oQDbxlA6jdXDgV-m



 人生の宝の続きです。
いろいろコメント読んでたら、尾崎紀世彦は『また逢う日まで』でレコード大賞まで取ったが、『一発屋』だと。

 2発目の『さよならをもう一度』も大ヒットしました。

さよならをもう一度
https://youtu.be/9MPCfKOG64E?si=EjjC5UiU-lUBF0kU


 デビュー曲は『別れの夜明け』なのです。レコードを出した後、交通事故に!
 この歌、イタリア語のセリフを真似してました。

別れの夜明け
https://youtu.be/pLSxgtTExTQ?si=6fvxXA_pZj8Og2hq

 1971年6月25日発売のマモル・マヌーの『サンゴ礁の娘』は、尾崎紀世彦、坂本スミ子、郷ひろみ、城みちるにカバーされている。

 城 みちる(1957年11月18日- )は、日本の歌手、デビュー時のキャッチフレーズは「夢の国からやってきたロマンチック・プリンス」

 尾崎紀世彦のカバーはうますぎてイヤらしい、というコメントも。

珊瑚礁の娘 マモル・マヌー
https://youtu.be/MbhPkZNo1bg?si=FWnyR3GhJgFiATzL

珊瑚礁の娘 城みちる
https://youtu.be/n_8v3wU7xpw?si=HQ0Vuwk9spfiI2-0

珊瑚礁の娘 尾崎紀世彦
https://youtu.be/rva0BaGhFgk?si=qH0x0mwNznnn3iey

真赤な太陽 美空ひばり 尾崎紀世彦
https://youtu.be/3QATkZaK0yg?si=-oKONEP7D21irm3U

 ひばりさんが嬉しそう。
 女性相手のときは控えめな尾崎さん。



おす犬 尾崎紀世彦
https://youtu.be/UF0vCgnMWwo?si=0nOZSG5iAec-Qs27

 1曲選ぶとこの曲ですね。15歳の時、初めて聴いた時は恥ずかしかったけど。
 セクシーです。

ラバーズ・コンチェルト
https://youtu.be/f0FS3bhiNDo?si=KgOH5bEm63A9y_i4J.S.

 浴衣も似合うんですね。

 この曲の原曲はJ.S.バッハの『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中に含まれる『メヌエット ト長調 BWV Anh.II/114なのです。

バッハ メヌエット ト長調 BWV Anh.II/114
https://youtu.be/KqSAGwa49MM?si=KmRkcRA3fC44l4XP

155 海自の歌姫と宇宙戦艦ヤマト

 拙作『ひらめいた曲』の『甲子園のあの曲』でアフリカンシンフォニーを探していて見つけた動画です。


アフリカン・シンフォニー
https://youtu.be/L9yTzvAcUUo?si=rmmz46WvpILGQm7D

 オリジナル版はヴァン・マッコイが1974年に発表した楽曲。
 1977年には岩井直薄の編曲による楽曲が『ニュー・サウンズ・イン・ブラス第5集』に収録されたことによって吹奏楽曲の一つとして認知されることになった。
 日本で広くこの曲が知られるきっかけになったのは、1987年に智辯学園和歌山高校野球部が第69回全国高等学校野球選手権大会に初出場した際、同校吹奏楽部顧問の吉本英治がアレンジして応援曲として採用したことによる。
 以後、他校の応援にも採用されるようになり、高校野球の応援曲として高い人気を誇っている。

三宅由佳莉(1986年12月14日-)は海上自衛官(2等海曹)で、自衛隊初の専業歌手として声楽採用されたヴォーカリスト(ソプラノ)
 クラシックからアニメのテーマソングまで、ジャンルにとらわれない歌声は多くの支持を集めている。 


宇宙戦艦ヤマト 組曲
https://youtu.be/cr4fceXJ-gc?si=7q_B6tGoPGUNcTiW

音楽員 
 部隊の士気高揚や儀式・式典、および広報のために音楽の演奏を行う。資格は吹奏楽の技能を持つ者に限られていたが、近年ではピアノ奏者を技術海曹として受け入れる など、多様化が進んでいる。

宇宙戦艦ヤマト 海上自衛隊MAD
https://youtu.be/iBVMVbLAISw?si=qmLClsc2HW1dLhFi

 海上自衛隊では陸空と同じく独自の音楽隊を編成しており、一般的な軍楽隊と同じく吹奏楽に重点が置かれているものの、ピアノ奏者を技術海曹として受け入れたり、声楽枠による採用を実施するなど多様化が進んでいる。
 儀礼曲として、観閲式や遠洋航海への出港などの際には『軍隊行進曲』が、葬送の祭には『命を捨てて』など旧海軍の曲がそのまま制定されている。
 海外派遣の際には見送りの曲としてアニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングテーマが音楽隊により演奏されることが多い。

 歌詞に
♪必ずここへ帰って来ると 手を振る人に笑顔で答え
という部分や 「宇宙戦艦ヤマト」が 物語の中でも 無事任務を果たして帰還した事を 「海外派遣」される 隊員とその家族・関係者の 気持ちにつながるという事で 縁起をかついで採用されるようになった。
(Yahoo知恵袋より)


宇宙戦艦ヤマトで出航する護衛艦
https://youtu.be/8SIuETOUHvk?si=fWjyV4Q2W0gSOne4


宇宙戦艦ヤマト
 西暦2199年、異星人ガミラス帝国による侵略で滅亡の危機に瀕した地球を救うため建造された恒星間航行用宇宙戦艦「ヤマト」の遠大な旅と戦いを描く。
 当初は同時間帯に放送されていた『アルプスの少女ハイジ』『猿の軍団』などの影響もあって視聴率が低迷。本来の予定回数(全39話)から全26話に短縮された。
 しかし、再放送などで改めて注目され、再編集した劇場映画が公開される頃までには社会現象とも言える大ブームとなっていた。子供のものと思われていたアニメ作品に中・高校生から青年層までの幅広い視聴者が存在していたことを広く示すことになった。


アメイジング・グレイス 三宅由佳莉
https://youtu.be/B3nehMDiX40?si=TeY4bURPJMQEzpoD


三宅由佳莉
 ミュージカル俳優を志していたので日本大学入学後はミュージカル研究会に入ろうと思っていたが、空手部で見た女性の“型”の姿が非常に格好良く映り空手部に入部した。
 在学中の2007年に全国大会 女子段外 型の部で優勝した。
 性格は「天真爛漫で負けず嫌い」
 大学卒業前に大手百貨店への就職が内定していたが、恩師から海上自衛隊が歌手(ヴォーカリスト)を募集しているので受けてみるよう勧められた。
 当初受ける気はなかったが断れず説明会に参加、東京音楽隊の具体的な活動を聞いてから意識が変わり、自衛隊が初めて設けた声楽採用枠(1人)に合格して2009年4月、海上自衛隊に入隊した。
 2011年末頃、例年日本武道館で開催される「自衛隊音楽まつり」の様子が「ニコニコ動画」にアップされると、「歌がうますぎる」「綺麗」「カッコイイ」などと話題になり、その後も東日本大震災の被災地や、高校の吹奏楽部などを訪ねる姿が、テレビなどの報道・情報番組、読売新聞「顔」のコラムコーナーなどに取り上げられ認知が広がった。
 また、歌唱する動画がYouTubeにアップされるや再生回数30万回を突破するなど、数々のメディアに“美しすぎる自衛官”“海上自衛隊初の歌姫”などと取り上げられ、2013年には自衛官としては異例のメジャー・レーベルからのソロ・デビューに至り、同年8月発売のアルバム『祈り〜未来への歌声』が「第55回日本レコード大賞企画賞」、「第28回日本ゴールドディスク大賞クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「第6回CDショップ大賞クラシック賞」の3賞を受賞するなど、その評判が社会現象にまでなった。


国家独唱 三宅由佳莉
https://youtu.be/Z5ldt11qqwE?si=BZ7eZVAIA0AVZUQC

 海上自衛隊の敬礼は、陸上自衛隊・航空自衛隊の敬礼とは違い、狭い艦艇内で行われることを想定し、右肘上腕部を右斜め前約45度に出して肘を張らない特徴がある(狭い艦艇内で肘を張ると、擦れ違い敬礼の交換の際に相手とぶつかってしまうため)。しかし、場合により陸空と同様の肘を大きく張った敬礼が行われる事もある。



 YouTube観ていて、すごいものをみつけました。


軍隊行進曲 
 指揮 三島由紀夫
 演奏 読売日本交響楽団 
https://youtu.be/5smjjQXkUUk?si=e9ZhB4QprCCVr98o

156 黒の舟唄

 Youtube Musicを流していたら、加藤登紀子さんが歌う『黒の舟唄』にずしりと引っかかりました。聞いたことはありますが、誰の歌なのか? 全曲を通して聞いたことはありませんでした。

黒の舟唄 加藤登紀子 1974年
https://youtu.be/lsZdcs-USwQ?si=w68DXjRIrDtInfPh


黒の舟唄 野坂昭如 オリジナル1971年
作詞 能吉利人
作曲 桜井順
https://youtu.be/itPrkIT3vB0?si=IpFRt-8lhACm_lUL


野坂昭如(のさか あきゆき、1930年10月10日-2015年12月9日)は、小説家、歌手、作詞家、タレント、政治家。
 作詞家としては「おもちゃのチャチャチャ」で第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞。
 1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。
「黒の舟唄」は元はヴァージン・レコードから3000枚限定でプレスされた自主制作盤『鬱と躁』の収録曲で、その後1971年2月10日、日本コロムビアからシングルとして発売されヒットした。
 後に多くの歌手にカバーされており、中でも長谷川きよしのカバーがよく知られている。

 野坂昭如が歌ったシングル盤の「マリリン・モンロー・ノーリターン」は、1971年にコロムビアからレコード発売された。

マリリン・モンロー・ノーリターン
https://youtu.be/d4HiKH9dzIo?si=CCVRnjzHR4TLrCfD

 しかし時代のトリックスターのような立場にいた黒メガネの直木賞作家が、歌手としてデビューするという話題がマスコミに派手に取り上げられたものの、それほどヒットしたわけではなかった。

 ところが話題性がなくなった後に、レコードは地味な動きではあっても売れ続けた。
 それはB面に入っていた「黒の舟唄」のおかげだった。

「マリリン・モンロー・ノーリターン」と「黒の舟唄」は、どちらもクレジットに”作詞・能吉利人ノーキリヒト作曲・桜井順”と記されている。
 能吉利人という謎めいた名前の作詞者がCMソングのヒットメーカーで、作曲家の桜井順と同一人物であることなどは、当時まったく知られていなかった。

 そして当然のように誰もが作詞は野坂が書いていたと思ったのは、小説で描かれる文章のタッチと歌詞のイメージが、自然に重なるものだったからだ。

 桜井順はCMで作詞することもあったのだが、その場合には”作詞・作曲 桜井順”と表記していた。
 ところが野坂の歌に関してだけ能吉利人の名を使っていたのは、ソングライティングの方法に由来するという。

 作曲家の桜井順は日本のCM音楽の巨匠で、
 富士フィルム「お正月を写そう」
 石丸電気「石丸電気は秋葉原デッカイワー」
 アース製薬「ダニアース」
 味の素「コーヒーギフトはAGF」
など約3000本のCMを作曲している。
 
 イエスキリストに対してノー・キリヒトという人を食ったようなネーミングセンスも凄いが、この詞の深さは底なしだ。

 出来上がった歌を渡された野坂はつべこべ言うことなく、まるで物でも食らうかのように黙々と歌ったという。
 作・編曲の桜井順、作詞の能吉利人、それに歌手の野坂昭如とが三位一体になって、はじめて歌が成立していたのである。

 やがて多くの人の胸に何かが引っかかった「黒の舟唄」が、盛り場の有線放送などを通じて口コミによって広まっていった。
 そして1年が過ぎて知る人ぞ知る変わった歌というポジションを得たところで、楽曲に新しい生命を注いでくれるシンガーとの出会いが待っていた。

 黒いサングラスをかけた盲目のシンガー・ソングライター、長谷川きよしによって力強いギターと共に歌われることによって、「黒の舟唄」は歌詞に描かれていた哀しみや悔いがいっそう深く聴き手の心に届いたのである。

黒の舟唄 長谷川きよし
https://youtu.be/0DLzaR5NONU?si=oG2eOkDOBVxmJJOb


 緑内障のため2歳半で失明し全盲となる。高校三年生のときシャンソン・コンクールに4位入賞。1969年、「別れのサンバ」でデビュー。発売直後はあまり反響のなかった曲ではあったが、深夜放送で流れるようになると、フォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなった。
 超絶的なギター演奏と、濃密かつ透明度の高い声によるバラードで人気を博す。盲目である事やギタリストである事などの共通点から日本のホセ・フェリシアーノと評された。

別れのサンバ 長谷川きよし 2012年https://youtu.be/XhILpwXcIeo?si=j_FLVlr2cvZzOg8V



黒の舟唄 桑田佳祐
https://youtu.be/ImAsWEoP1Mw?si=ZJzgaCg3AZ2o96nU


歌の内容は男女の性的な営みの暗喩と思われる表現もあり、刹那的な青春を歌っているとも考えられる。
 ここでの桑田さんのボーカルは凄味さえ感じさせる迫力がある。自分の曲でも見られないような入れ込みよう。聴いて楽しめるか、と言われると?
 だけど、心に深く刻まれる曲。
https://eboshi-rock.hatenablog.com/entry/2018/09/23/070040


黒の舟唄 藤圭子
https://youtu.be/ifXzq5WuoL0?si=30rj3yai7eZOHD1p

 藤圭子さんは若い頃は非常に綺麗な人でした。 愁いを帯びたという表現がぴったりな感じの。 
 北島三郎さんの番組で、北島さんの歌を北島さんより上手に歌って、北島さんが半ば本気で落ち込んでいました。


 なんと、この歌を尾崎紀世彦が33歳の時に歌っています。YouTubeで観られますが、貼り付けられません。

【この歌は野坂昭如さんで聴いていました。なんと個性的な歌詞の歌だろうと思いながら。
 キヨさんで聴いたのは1976年,彼は33歳。
 この若さで,これほどまでに渋く歌えるとは,あらためて「タダの歌手ではない」「別格・唯一無二だ」と,今更ですが・・・。
 闇に引き込まれる深淵さはあるけれど,決して陰鬱にはならず,人間の心の襞,機微を朗々と歌い上げて,詩の心を見事に表現する力量に圧倒されます。
(尾崎紀世彦ワールド研究室) 】

お気に入りの音楽 151〜156

お気に入りの音楽 151〜156

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-13

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  1. 151 歌姫 本田美奈子.
  2. 152 あるランキング
  3. 153 五音音階
  4. 154 最高の歌唱 人生の宝2
  5. 155 海自の歌姫と宇宙戦艦ヤマト
  6. 156 黒の舟唄