コクリコ 告り子

 ベランダを改造したサンルームが私の部屋だ。フレンチウィンドウの外では庭が奔放に野生化しつつあり、ここが住宅街だと少し忘れられる。
 私はコクリコ、ナノさんに作られた球体関節人形だ。銀の長い髪と紫の瞳に生真面目な顔、妖精めいたハイティーンの姿。ナノさんはある日、人形作りの本を買い込んで、見様見真似で身長四十センチほどの私を作った。その後、体調不良で仕事をやめ、両親から受け継いだ小さい庭付きの平屋に引きこもってしまった。
『外には金木犀の香りがして、世界は私が必要じゃない』
 十月の午後の光は蜂蜜色に透き通り満ち溢れ、空気は金木犀の香りで甘かった。ナノさんにはそれが苦しいようだった。苦しさが移ったみたいに、石粉粘土でできた私の空洞な胸にドクンと鼓動が響いた。温度が手足の先まで巡ったと思うと、私は着せてもらっていたナノさんお手製の人形服、レトロ風のブラウスとスカートごと拡大し、生きた人間の女の子としてナノさんの前にいた。
 ナノさんは驚かなかった。驚くほどの気力も残っていなかったのかもしれない。
『そう、コクリコちゃん。なんだか知らないけれど、来てくれたのか。ココちゃんって呼んでいい?』
 彼女はそう言って、ハーブティと手製のクッキーを台所から取ってきた。私達はそれをサンルームで食べた。
 以来、彼女が少しおしゃべりしたい気持ちになったり、作ったお菓子の食べ役を必要とした時、私は人形から生きた女の子の姿に変化する。そうでない時は、サンルームに続く居間の、太陽が直接当たらないデスクの上で、人形用のしっかりした椅子に座っている。「誰かが必要とすれば人間の姿になる」。それが私に起こった不思議だ。
 
 十一月の午後。外は晴れだ。
 にゃおん、と声がし、少し開けてあるフレンチウィンドウから白黒まだらで毛足の長い猫が入ってきた。目付きが鋭く人相――というか「ニャン相」はあまりよろしくない。
「シロクロさん」
 訪問者が「必要としている」ため、私は人間の姿へ変わる。猫は黄色い瞳でチラリとこちらを見、デスクの陰へ駆け込んだ。直後、
「ちわ……お邪魔します……」
 陰気な囁き声の挨拶が流れ、猫のシルエットは悪夢の影絵を思わせ膨らんで、痩せて背の高い姿が立ち上がる。黒いパーカーのフードを外すとロウのように白い顔が現れた。漆黒の巻き毛が艶やかに床近くまで流れ落ちる。ゾッとするような美貌、彫り深く陰る目元は鋭い。瞳は猫の時と同じ、満月めいた黄色だった。青年は手にした白黒まだらの布切れをパーカーのポケットへと突っ込んだ。毛皮の切れ端みたいなあれが、彼の猫の時の外側、変身マントみたいなものらしい。
「はい、ココっち。持ってきたよ」
 同じ手で何かつかみ出す。デスクの上、ちょうど私が人形姿でいつも座る椅子の後ろに置かれたのは、大きめの円形フレームに収まる立派な砂時計だ。固定された枠の中で、地球儀や天球儀のように回転させることができる作りをしていた。シロクロさんが手を離すと、砂時計はゆっくり傾きを変え、砂が静かに落ち始める。枠の中で、時計本体は止まらず緩やかに動いていた。
「どちらか片方に落ち切ったら止まる。そこは普通の砂時計と同じだけど、違うのは、どちらへ落ち切るかで君たちの処遇が変わること。『生きたい』の方へ落ちれば、君はあの女性(ひと)と再統合できる」
 シロクロさんは時計の砂を見つめて話す。
「ええ、以前お聞きしました。『生きたくない』の方へ落ち切れば、シロクロさんが無理矢理、私達両方を『刈り取って』連れていく。ですよね」
 私は答えたが、それがどういうことなのか、言われたことを覚えていただけで具体的な想像もつかなかった。それに、砂時計の漏斗状の容器が二つくっついた形のうち、どちらの一方が『生きたい』なのか。その逆が『生きたくない』だとわかっていても、どちらも同じようで、見分けは付かない。
「どちらがどちらか、君たちにはわからないよ。これは僕らにしかわからない」
 シロクロさんは私の疑問を理解しながら、答えることは拒んでいた。
「これは最大の譲歩だよ。人形の中へ分裂して中途半端にせよ独立しちゃった魂なんて、前例も類例もないから。計測器を設置して、観測と記録するからって進言してさ。僕が最後まで監視するってことでようやくオッケー出たんだ」
 彼は若干、恩着せがましい雰囲気を出すが、
「じゃあやっぱり、ナノさんにも伝えたほうがいいんですよね」
 と言うと露骨に慌てる。
「いやっ、それはあの女性にとって良くないっていうか。それにあの女性には僕のこの姿、見せるわけにいかないから。ココっちが話したって絶対、信じないよ。人間って基本、見えるものしか信じない。ココっちのことも同じ魂で、見覚えのある実体だから信じただけで」
 早口で捲し立てる一方、元々陰気な美青年はさらに悄然となってしまった。
「ナノさんと会えないの、寂しいですね」
「べ、別に。会わないのが当たり前だし。あの女性じゃなくても、僕らがこの姿で人間に会う時は『最期のお迎え』の時だけだから。逆に僕らが皮を被った『仮の姿』は見せていいんだし」
 明白に落ち込んでいるのに強がった口を利き、フイッと横を向く。
 シロクロさんはいわゆる「死神」らしいのだが、ナノさんへの思い入れが妙に強い。「あの女性」だなんて呼んで、アイリーン・アドラーに敬愛を寄せるシャーロック・ホームズ気取りだ。ここへ初めて来た時も私に話しかけるばかりで、ナノさんには遂に今のような姿を見せなかった。だからこそ私たちは、今もまだこうしていられるらしいが。
「でさ。今日は計測器、置きにきただけじゃなくココっちに提案があって」
 シロクロさんは改めて切り出すと、物欲しそうにサンルームへ目を走らせた。
「ま、まぁ、立ち話もなんだし……」
 ソワソワと両手をパーカーに擦っている。
「ナノさんのお菓子が欲しいんですね。台所を見てきます」
 私は居間を通り、キッチンへ向かった。後ろでシロクロさんが「いや、別にそういうわけじゃ」などと呟く。
 ナノさんは日々の家事をするほかに、気が向くとクッキーやケーキを焼く。出来上がったお菓子は味見するぐらいで、彼女自身ではあまり食べない。食べたくて焼いているというより、私を作った時のように、何か素敵なものが欲しい思いに動かされての行動かもしれない。
 ソーサーの上にコーヒーのカップ、小皿に大ぶりなガレットを二枚。お盆に載せ、運んで戻った。シロクロさんはサンルームの応接セットでかしこまっていた。ガラス天板のローテーブルを挟んで二つある小さな籐椅子、その一つに痩せすぎなぐらい細身でも大柄で背の高いシロクロさんが、渦巻く長い髪を床に引きずり体を折り曲げて座り込み、若干目をぎらつかせ待っている。
「あ、でもこれ、チョコレートチップが入ってて、ココア味でした。猫さんにはダメですよね。コーヒーも毒でしたっけ」
 お盆を置いてからわざとそう言うと、シロクロさんは椅子の中でちょっと飛び上がって丸めていた猫背をグッと伸ばした。
「本物の猫じゃないから! チョコとか全然、余裕!」
 叫んだ彼はガレットを一枚かっさらい、人間より心持ち尖った歯でガリっと噛む。そのままどんどん頬張った。食べる姿はうっすら化け物じみている一方、変に官能的で見ていると落ち着かない。私は目を逸らし、コーヒーを飲み、ガレットに手を伸ばした。薄く硬く焼かれた円形の菓子を小さく割って口へ入れる。とても甘いのに、しっかり苦い。はっきり硬く抵抗するが鋭く割れて、細かく砕けて消えてゆく。
「……あの女性の魂の味……」
 シロクロさんの恍惚とした呟きは、何かいけないもののような気がして聞かなかったことにする。
「ゴチソーさーっしたー……沁みた〜……」
 深いため息と共にシロクロさんは食べ終わり、まだ欲しそうに私が持っている残りを見つめてきた。
「お話はなんでしょう? 提案があるとか」
 尋ねると頷き、目をまだ私のガレットに据えたまま、コーヒーカップへ手を伸ばす。
「計測器は、あのまま置いておくだけで何もしなくていいんだけどさ。今、『生きたい』に砂が落ちきる要素、あんまりないよねっていう」
 はっきり言われて怯む気持ちが起こった。彼の顔を見ると、黄色い瞳が見返す。
「そりゃ、生きる気力は休息でもある程度回復するよ。とはいえ何か行動しないと充分は起こらない。ごっそりなくなった状態から回復してそれ以上、なんて到底溜まらない。でもあの女性は、まさにその気力が底を突いてる状態なんだから、今はほとんど動けないよね」
 その通りだと思った。
「で、考えたんだ。君は、『誰かが必要とすれば人間の姿になって』動けるよね」
 恐る恐る頷くと、彼も点頭する。
「君とあの女性、元は同じ魂だ。だったら、君が生きる気力を高めれば、カウントは合算されて『生きたい』の方へ落ちる砂が増える」
「でも私は人形で、普段は自力で動くのも無理です。生きる気力なんてわからない」
 驚いて言い返すが、シロクロさんは陰鬱な美貌の表情を変えもせず、
「そういうこと言ってる場合かなあ。まぁ、柄にもなく余計な骨折ってこんなことしてるわけだけど、僕は最終、どっちでもいいよ。君らを個別に、早めに刈り取ることになってもさ」
 と急に言った。
「壊れた魂は、それはそれで綺麗だ」
 彼の周りの温度と明るさが減ったみたいだった。無意識に微かな身震いが出る。
「それでも、私が動けるのは、今のところナノさんとシロクロさんの前でだけです」
 彼ら以外の前で人間の姿になったこともない。
「しかもナノさんが私を必要とするのは、同居人、話し相手、お菓子片付け係としてですし。シロクロさんは伝言係として、人間じゃない私を必要としているんですよね」
 ナノさんに直接、シロクロさんが会って教えるわけにはいかないことも、人形の私に伝えれば、私がそれとなくナノさんに気をつけてもらえる。彼は私達の監視者だけれど、ナノさんに関しては私とも協力関係、共犯関係にあるのかもしれない。今も彼は頷く。
「それだよ。僕らの必要だけじゃ、ココっちが外へ行く理由はない。行動も広がらない。だったら、僕ら以外の人から必要とされて人間の姿になり、相手の手助けをする過程で自分の生きる気力も高めたら」
 思いも寄らない言葉をさらりと並べ、シロクロさんは黄色の瞳を再びチラリと私の目に当てた。
「表の郵便受けに名刺ぐらい小さい、人形サイズの『看板』を出してさ。『手助けの欲しい方、お声がけください』って書いて、この部屋のフランス窓まで庭を通って来てもらえば。人間の姿になる条件と一緒で、ココっちの書いた『看板』なら、君の手助けを必要としてる人にしか気付かれないはずだ。やって来る依頼人は君を必要としてる状況下、ってことは、君は人間の姿になって出迎えられる」
「なるほど……やってみます!」
 思わず高揚して答えたが、ふと疑問がよぎる。
「そんなアドバイスをして、どちらへ砂が落ちるかを左右してしまうかもしれないのに、いいんですか?」
 相手は心なしか身を竦め、目を泳がせた。
「や、だからこれは全部、君が自分で思いついて、勝手に実行したってことで」
「ありがとうシロクロさん」
 お礼を言うと、彼は急にガバッと顔を伏せパーカーのフードを深く被り直し、
「別にそういうのいいから」
 と呟く。けれどすぐ、さらに小さな早口で
「お礼の気持ちならさっきのガレット、もう一枚二枚。か、あるなら三、四枚でもいいけど、貰わなくもないけど」
 と付け加えた。

 名刺大のカードに「看板」を書き、ナノさんの郵便受けへこっそりと貼り出した翌日。晴れて明るい日もそろそろ夕暮れる頃、伸びた庭の植物を揺らし、フレンチウィンドウの外へ人影が立った。
「手助けしてくれるっていうの、ここですか?」
 やや緊張した高めの声が呼びかけ、私は人間の姿に変化した。

 サンルームを覗き込んだのは、高校生らしい女の子だった。制服を着て鞄を持っている。学校から帰る途中だろうか。彼女は緊張した声で、それでもはっきりと尋ねた。
「えっと、お聞きしたいんですけど……表に書いてあった、手助けしてくれるっていうのはここですか?」
「はい、私です」
 答え、フレンチウィンドウを大きく開く。
「えっ。あなた? でも……あたしと同じぐらいの歳じゃない?」
 私の容姿――本来が人形なので白銀の長い髪は腰まで伸び、瞳は菫色、体のバランスも大いに日本人離れしている姿――に彼女は驚いたようだ。けれど口では、私が「思っていたような大人ではない」から驚いたように繕った。咄嗟に
「いいえ、きっと私の方が年上です」
 と言い切る。人形としては先日出来上がったばかりだから明らかに私の方が「年下」だが、知識や能力の面では本来の魂、ナノさんと大体同じなので、充分「年上」と言っていい。しかし少女は勝気そうな目で私をじっと見、あまり納得していない様子で
「じゃあ、あなたも高校生?」
 と、尚も尋ねてきた。
「もう学校へは行っていません。ご相談がおありなのですよね? 私はコクリコと申します。どうぞ入っておかけください」
 応接セットの藤椅子を示し、勧める。「もう」どころか、私自身は一度も学校へ行ったことがない上、ナノさんとは記憶や感情までが共有なわけではない。それでも全体的に見てナノさんの経験値があるから大丈夫なはずだ、と自分に言い聞かせる。その間に相手は自分の用事を思い出したらしく、表情が引き締まった。
「えっとじゃあ少しだけ。あ、その前に確認ですけど、相談だけだったら、まだ料金とか発生しないんですよね」
 料金のことは考えていなかった。「手助けが必要な方、お声がけください」と「看板」を出した目的は、私が人間の姿で行動し、生きる気力を高めることだ。生きる気力が何かはまだわからないが、そうであれどうであれ、シロクロさんの置いて行った砂時計型は「生きたい」の方へ傾かせなければいけない。でも、「生きる気力を高めるのが目的ですので、無料で手助けします」などと言えば、彼女を胡散臭がらせるだけの気がした。そこで大人らしく見えるよう念じつつ、
「はい。内容をお聞きして、ご依頼なさるようなら料金を決めましょう」
 と答える。
「そう、なら……えっと、お邪魔します」
 彼女は窓から部屋へ入る時、私の足元を見て確認し、ローファーを脱いだ。そういえばシロクロさんも、人間姿の時はいつも靴下裸足だったが、そうと気にかけたことがなかった。シロクロさんは人間じゃないからまあいいとしても、依頼人用にはスリッパを用意するべきかもしれない。私も室内履きをもらえるよう、ナノさんに頼もう。
「手助けっていうか、お願いしたいのは『告白代行』なんですけど。そういうこともやってます?」
 藤椅子に浅く腰掛けるなり、少女は切り出した。向かいに座った私は、初めて聞く言葉に首を傾げる。
「あなたの代わりに、私が誰かに告白する、という意味ですか?」
「うん、言えばそんな感じ、かな。あの。あたしもそういうサービスがあるって、最近、ネットで知ったんですけど。広告に釣られて連絡するのも心配かなぁって、とりあえず連絡まではしなくて。あと、未成年だから契約自体無理かもしれないな、とかも思って。そしたら今日、ここの外に『手助けします』って書いてたじゃないですか。それで、告白代行もやってるのかな、って、訊けそうだったら訊いてみようって寄ってみたんです」
 明快な話し方だが、緊張もしている様子だ。両手がスカートの上で組まれ、すぐに解かれる。
「告白代行のご依頼は初めてですが、どういった内容でしょうか」
 実際には依頼自体、むしろナノさん以外の人間に会うこと自体、彼女が初めてだ。しかしそこは言わずに促した。
「うん……」
 彼女は再び私をじっと見つめる。
「人気配信者の『ラッキーIII』って知ってますよね。あの、あたし、言っちゃえば、そのメンバーの『にいた』さんに告白したいんですよ。だけどいきなり行くの失礼だし、そもそも普通に会えないじゃないですか。それで告白代行っていうサービスがあるって知った時に、これいいかもって。できたら、告白受け付けてもらえるのか、彼女になれる可能性ありそうか、とか確かめて来て欲しいなって」
「人気配信者のらっきーすりー……?」
 私はナノさんの知識を共有しており、ナノさんが知っていることなら知っている。しかし今の言葉は、意味がよくわからなかった。配信者、というのがネットで動画を配信している人々、というあたりまででギリギリだ。少女は一瞬黙るが、
「えー、そこからぁ? いや、でも、うーん。レイヤーさんぽいもんね、ジャンル違いだとわかんないかも」
 と独り呟くと、さっきまでより砕けた口調で語り出した。
「『ラッキーIII』は男性三人組の配信者。カッコ良くて面白くてすごくて、とにかく素敵なんだよ。この間もさ……!」
 彼女はしばらく、最近観た動画配信でその男性達がどのような企画を行い、どういったやりとりをしていたか、それがいかに面白くてカッコ良かったかということを楽しそうに話す。それから、
「あたしは、言ったらなんだけど親もお小遣い結構くれる方で、自分でもちょっとバイトもしてるから。ライブ配信観る時はいつも投げ銭つけてコメントしてるし、ファンミーティングやライブにもほぼ全部行ってるよ。グッズも、『にいた』のは抽選外れたのもネットで探して、今のとこ全部買ってるしさ」
 と得意そうに微笑んだ。なんとなくわかる単語と、やはりよくわからない単語が混在している。
「でね。こないだ『リスナーに企画募集』っていうのがあって、あたし、お小遣い一ヶ月分の勢いで投げ銭してリクエスト入れたんだ。そしたらほんとに採用されて、次の配信でこの町の心霊スポット実況やってくれることになって! 場所はほら、西ヶ丘の廃校」
 話は佳境に入ったみたいなのだが、ますます何のことかわからなくなってきた。こちらが置いてけぼりだと伝わったか、彼女は一旦黙って息を吸い込み、少し考えを組み立て直す様子だ。
「えっと。あのね。彼らとは、ファンミやライブで少しは交流できるし、普通のコメントにも反応くれる時はあるよ。でもそれってファン全員、同じ比重の扱いってこと。何度も投げ銭付けてコメントしたり、ライブやファンミ全通するとだんだん覚えてもらえて反応も貰いやすくなるけど、そんなガチ勢もいっぱいいるわけ。あたしより高額、貢いでる大人も結構、いるだろうし。だから、そういうみんなと同じことしてても全然『特別』にはなれないんじゃないかって。えっとここまではいい?」
 おぼろげにわかって私は頷いた。
「でもリクエスト企画では、配信者さん達がこの町までおいでになるんですね。そのチャンスに告白を……」
「そう! 西ヶ丘の廃校は、心霊スポットって噂のある古い小学校の建物だけど。あ、でも怪談に出てくるようなオンボロの廃墟じゃないよ。改装もしてあって、今は部屋を地域の人の集まりとかに貸したり、絵や手芸の展示会するのとかに使われてるみたいな、安全なとこ。『にいた』達は廃墟に不法侵入して炎上する迷惑系じゃないからね。許可とって撮影できる場所を提案したら、乗ってくれるかも、ってやってみたら大当たり。心霊スポットで肝試し実況やってってリクエストは、前からいっぱい出てたんだ、あたしもそういうの観たかったんだよね!」
 少女は瞳を輝かせて話す。なんとなく、得意になっても無理もないような気がした。彼女は目的のために考えて行動し、結果もついてきているということだ。
「すごいですね」
 と言うと、彼女は大きく頷いた。
「で、遂に今度、金曜の夜にライブ配信で実況するんだって。もー、すっごい楽しみ! リアルタイムでライブ配信っていうのも嬉しい! あ、これ、告知で言ってたから確かだよ。多分、廃校全体を借り切って、夜に配信するんだよね」
「それなら、ご自分で会いに行きたいのではないですか?」
「え、当然。そう考えて西ヶ丘を提案したんだから、嫌われない保証さえあったら学校休んで現場に行って、ひと目でも会いたいよ。だけど、場所が近い人でも待ち伏せはナシね、って告知の段階ではっきり言われててさ……せっかくのチャンスなのに、って思ったけど。後で考えたら、『にいた』達的にはファンミと違って、あたし達に対応しても対価は発生しないから当然かも、とも思って。それと、禁止って言われたのにまだ押しかける自分勝手な人は、メンバーに嫌われるだけじゃなくファンの間でも晒されて叩かれるだろうから。あたしは今のところ絶対『良いファン』って認識されてるのに、迷惑な勘違い系って思われたらもう、絶望だし。成功するかわからない告白に賭けて、今までの努力をここで投げ打つのはちょっとバカかなって考え直したんだよ」
 ときっぱり言う。
「そうですね……でも私が代行するなら、もし嫌われて追い払われても、あなたのお名前を出さなければ先方にはどなたの代理かはわからないから、大丈夫ということですね」
 答えると、彼女は少し狼狽たようだったが、それでも
「えっとね。うん、そうです。言い方は悪いけど、嫌われそうなら汚れ役も引き受けてもらって、うまく行ったら結果を戻してもらう。それが頼みたいと思ってた『告白代行』の仕事なんですけど」
 と言った。
「わかりました。やってみたいと思います」
 私の返事を聞き、彼女は目を見開いた。
 
 依頼人の彼女は、私のコクリコという名前をあだ名と解釈し、自身も「アザミ」という仮名を名乗った。「告白代行」の具体的な内容は以下のように取り決めた。
 配信者グループ『ラッキーIII』は金曜日、西ヶ丘の廃校へ撮影に来るはずなので、私が彼らをどうにかして待ち伏せ、接触を図る。アザミさんのお目当ての『にいた』さんと話せた場合、「ファンからの告白を受け付けているか」尋ねる。返事がYESならば「二人きりでの告白の機会を作ってもらえるか」「連絡の取り方はどうすれば良いか」を尋ね、答えを持ち帰る。代行の結果は週末、聞きに立ち寄ってもらうことにした。
 二人で会う機会は作りづらいと言われるかもしれないから、「告白を受け付けている」場合、手紙を渡すのはどうか、と提案すると、アザミさんは
「えー。それじゃあ普通のファンレターじゃないですか。みんな『好きです』って書いて送ってるんだから」
 と不満そうに答えた。けれど少し迷った後、結局、手紙は書くと決めた。報酬は、当日私が『にいた』さんと少しでも話せたなら、答えが良くても悪くても一万円、と彼女が言い出した。
「とにかく行って、できるだけのことやってくれたら五千円払います。なんていうか、もしすぐ追い払われて全然話せなかったとしても、移動費もあるし一日か半日、潰れるわけだから。お疲れ様料ってことでね」
 大人びた口を利きながら、少し不安そうな面持ちでもある。しかし私も相場がわからないため、
「ではそれで」
 と頷いた。手紙は郵便受けへ入れておいてもらうことにし、彼女をフランス窓から送り出した。

 翌朝、誰かが来たわけでもないのに人間の姿へ変わったことで、郵便受けにアザミさんの手紙が入ったとわかる。サンダルを突っかけて外に出、かっちり白い封筒を回収して部屋へ戻る途中、ハッとなった。
「そうか! 私は『必要とされている時』じゃないと、人間の姿になれないんだった」
 大前提だが、大変なことを忘れていた。告白代行のため、金曜日に西ヶ丘の廃校へ向かうと約束したけれど、アザミさんはその時、学校に行っている。私を呼びに来て一緒に行くわけではないのだから、人間へ変化するきっかけがない。人形のままでは自力で部屋からも出られない。
「遠隔でも、告白代行をして欲しいと思ってもらえているなら金曜日は一日、人間になれる……かなぁ?」
 楽観的な予測を立ててみたが、確信は持てなかった。
「どうしよう」
 他に頼める相手はただ二人、シロクロさんかナノさん。だが、シロクロさんはどういうタイミングで来るかわからないし、金曜日までに現れる保証もない。答えは決まったようなものだけれど、外界に心を閉ざし、近所への買い物以外ほとんど出かけないナノさんに「連れていって欲しいところがある」などと頼んで大丈夫だろうか。
 朝の光が差し込むサンルームで逡巡していると、
「ココちゃん? もしかしてさっき外へ出た? ドアの音、したよね」
 声と共にキッチンから居間へと、まだパジャマ姿のナノさんが入って来た。四十代初めで独身、子どものいないナノさんは、身長は高めでも細く中性的な外見のためか、「大人の女性」という感じがあまりしない。無自覚に魂を分裂させてしまうぐらい今は不安定だからだろうが、どこか心許ない雰囲気だ。
「あ、やっぱりドア、ココちゃんか。よかった」
 人間姿になっている私を見、勝手にドアが開閉したわけではないことに安堵した様子で、ナノさんは薄く微笑む。
「せっかくその格好になってるなら、朝ごはん一緒に食べよう」
 喜んで頷きたいお誘いだが、それより先に懸案事項があった。
「ナノさん! 金曜日、行きたい場所があるんですけど、連れていってもらえませんか?」
「え……」
 ほとんどの時間を人形として居間の机の上に座り、たまに人間の姿へ変わってもサンルームでナノさん相手に過ごしている私だ。急に何故、一体どこへ行きたがるのかとナノさんが驚いたことはよく分かった。
「友達に教えてもらった面白そうな場所がありまして。人形のまま運んでくださると助かるんです」
 朝ごはん、いただきながら相談したいです、と促し、共にキッチンへ向かった。

 金曜日の午後二時過ぎ。私はナノさんと共に、西ヶ丘の廃校を利用した施設前にいた。正確には、ナノさんが人形姿の私を入れた専用ケースを持ち、元は小学校だった場所の正門前に立っている。
 ナノさんは引きこもっているとはいっても、家から一歩も出ないわけではない。近所への買い物と散歩にはほぼ毎日行っていた。ただ、仕事をするとか趣味を楽しむような、他の人と接点を持つ「外での活動」を全くと言っていいほどしなくなっている。彼女がこんなに遠出をするのは、私の知る限り初めてだ。
 今日もよく晴れて、割合、暖かいようだ。バスから降りたナノさんはマフラーを外したまま歩く。
「素敵な建物だね。今は会議や音楽の練習や、何かの展示に部屋を貸してるのか」
 施設紹介のボードを眺め、ナノさんが独り言した。いや、ケースの中の私に話しているのだ。
「ココちゃんをしばらく置いておける安全な場所、あるかな?」
 二階建てでこぢんまりした建物の玄関を入る。小さな受付では中年女性が一人仕事していて、「こんにちは」と入るナノさんに「こんにちは」と挨拶を返した。
 管理する人の少なさを補おうとしてか、大きく目立つ「ご自由にご覧ください」の立て看板のほか、「敷地内禁煙」「飲食は御遠慮ください」など、立て札や張り紙の表示が仕事している。既にアザミさんお目当ての配信者達が施設を借り切っていて入れないかもしれない、とも心配していたのだが、今のところそんな様子はなかった。
「二階でアール・ブリュットの展示をしてるって」
 表示を頼りに、ナノさんはゆっくり歩いて行く。アール・ブリュットとは、正規の美術教育を受けていない人達の美術表現を指す言葉だという。元は教室だった展示室に入り、無料の展覧会を見て回るナノさんは、意外と楽しんでいる様子だ。
「へぇ、この焼き物、恐竜だって。こっちはなんだろう、綺麗な色。面白いな。誰もいないから、落ち着いて見られる」
 彼女の言う通り、私達以外に見て回っている人はいなかった。施設は町の中心地からは離れていて交通の便もさほどよくない。しかも今が平日の昼間だからだろう。
 展示を見た後、ナノさんは貸しスタジオになっている元音楽室や、ダンス練習用に改修された部屋なども、鍵のかかった扉の覗き窓からいちいち覗き、丁寧に見ていった。
「ここにしようか」
 結局、立ち止まったのは二階の廊下の突き当たりだ。大きな額入りの鏡がかけてあり、その下、膝より低い位置に狭い棚のようなスペースに、花瓶に入れた秋の花が飾られている。ナノさんは花瓶から離れた場所へ私のケースを置いて開き、中から私を取り出す。閉じたケースを椅子がわりにして座らせ、壁へもたれさせてくれた。
「独りで置いていくのは心配だけど、夕方までここにいたいんだっけ」
 実は私は、「告白代行」の依頼を受けたことについて、全く話していなかった。「友達が教えてくれた面白い施設があるから見に行きたい、友達も来るかもしれないので夕方まで独りで待っていたい」と頼んだ。ナノさんは「面白い施設」がどんなものか、インターネットで調べた後、私を連れて行くにも自分で訪れるにも大丈夫そうだと判断したらしい。人形の私に外部の「友達」がいることについても、何故だか特に尋ねてこなかった。何かをおかしいと感じたり疑問を持つ気力もないのかもしれず、少し心配だ。しかし今、彼女は
「お友達って、最近、庭によく来る白黒の猫さん? なんて、そんなことないか。猫はこんな遠くまで来られないな。バスにも乗らないし」
 などと言って自分でちょっと笑い、身を起こす。
「西ヶ丘の展望台っていうところまで散歩して、夕方、迎えに来るよ」
 始めからそう計画して来た彼女は散歩向きの、むしろ軽く山登りでもできそうな、アクティブなズボンと防水パーカーにデイパックを背負った姿だ。つばの広い帽子を被り直し顎紐もかけた。座って見送る私は、いつものレトロなブラウスとスカートの上からチョコレートブラウンのコートを着て、足には編み上げブーツ、頭にフェルトのベレーを被っている。これらの素敵なアウターはナノさんが、私の「お出かけ」に合わせて作ってくれた。ただ、その作業で疲れた彼女は今朝なかなか起きて来ず、ここへ来るのが午後半ばになってしまった。
「それじゃ後で!」
 手を振って、彼女は廊下を去っていった。

 廊下へ差し込む午後の日差しがゆっくり動き、少しずつ斜めに長くなる。ナノさんは「迎えに来る」と言っていたから、ここまで戻ってくるつもりだろう。けれど、本当に配信者グループ「ラッキーIII」が夜に施設を借り切って動画撮影するなら、彼らの到着後、部外者は立ち入り禁止になるかもしれない。だから私は、用事が済めばなんとか自分で外に出て、ナノさんを待とうと思った。
 告白を「必要とされる」瞬間に、私は人間の姿になれるのではないかと予想していた。アザミさんの遠隔の思いが「必要」を作り出すはずだ。そして告白代行し終えて、まだ効果が続いている間に、私はうまく建物から退散するのだ。外で人形に戻ったとしても、ナノさんが戻ってくれば、彼女に「必要とされ」再び人間の姿になることができるはず。やったことはないけれども、きっといいタイミングで人間になれるはずという、後から考えればかなり楽観的な予定で、私は待っていた。
 一時間ほど経った頃、静かだった外が活気づいた。校庭を整備した駐車場へ車が入る音の後、階下で受付の人と話している声、それから彼ら同士で話す声がする。荷物を運び込むらしい物音も聞こえて来た。耳をそばだてるまでもなく、もう人声は階段を登って、四、五人の男性が廊下の向こうへ現れた。
「おぉ、雰囲気いいじゃん!」
「懐かしーね。俺の小学校、もっと新しくてデカかったけどさー」
「でも綺麗すぎじゃね? 古いのはいい感じだけど心霊感は薄めってゆーか」
「夜になればまた変わるんじゃないですかね。照明どの辺に置くかな」
「あー、企画的に明かり、あんま置けないよね」
「床とか階段、しっかりしてて安全そうなの助かったわー」
「本音は霊いなさそうで助かった、だろー? サンちゃんすげー怖がりだもんね」
 賑やかに話しながら廊下を進みかけた彼らの中で、一人が私に気付いた。
「うわっ?! ビビった、何あれ人形? 待ってよー、もう仕込んでた系?」
「知らないっす。ここで置いてる飾りじゃないっすか」
 みんなこちらへ近寄って来る。
「うわヤベー、夜に初めて見てたら叫んでたわ」
「いや既に叫んだじゃん、怖がりすぎ! よく見なよこんなキレーなの、なんも怖くねー」
「違うって! キレーだからコエーの!」
 笑いながら話す彼らは、屈んで私を見つめる人もあれば、周りを見回す人もいる。
「ああ、展示品かな? ほらあっちの部屋、アートのなんかやってて、夜は入らない約束の」
「ええ? でも名札みたいなのないぜ。題名とか作った人の名前書いたちっこいカードあるじゃん」
「キャプションってやつっすねー。確かに一個だけ廊下に置くとかちょっと変だな」
「えー! お前らそうやって怖い話っぽくするのやめろよー」
 ワイワイ言いながらも、やがて彼らは真面目な様子で、
「もしこれが作品展のやつなら勝手に触ってもマズいんで、下、行って管理の人に確認して来るっす」
「てか忘れ物じゃねーの。朝からここ、フツーに開いてたんでしょ?」
「あー。んーじゃさ、トミーが尋ねてる間に俺らで他の部屋、見てさ。誰かいたら、忘れてないか訊こうよ」
 と話し合う。
「っすね。一般人いたらもう、出てってもらわなきゃなんで。うまいことお願いしまーす」
 スタッフらしい言動をしていた一人が階段へ引き返し降りていく一方、残る三人も、
「誰もいねー感じだけどねー。一応全部の部屋の鍵、貰ってっから、開けて回るか」
 との一人の言葉をきっかけに、近くの扉を鍵で開き、まとまって入っていった。
「誰でもいいから、あれ片付けてくれる人いねぇかなー」
 姿の見えなくなった三人の内の誰かが部屋の中でそう言うのが聞こえる。その途端、私は人間の姿へ変わった。彼らが「人形を片付けてくれる人」を必要としたから、まさにその人形自身ではあるものの、私が「必要とされ」たことになり人間化したのか。何はともあれ、ちょうどのタイミングでうまく人間になれた。急いで自分が座っていたお出かけ用のケースを持ったところで、部屋から男性たちが出て来た。一人がぎくっと立ち止まると、残る二人も「うわっ?」などと声をあげ、こちらを凝視する。
「びっくりした! 人、いたんだ」
 先頭の人が声を上げた。
「もしかしてそこにあった人形のオーナーさん? かな?」
 一番背の低い人が尋ねる。
「いやマジ怖いんだけど! 人形と同じ格好ってこと? 人形が人になったと思ってちびりかけた!」
 細身で髪を金色に染めた人が賑やかに騒いだ。
「んーなわけねーだろ。人形はほら、あのケースに入れたんだよ。ねっ、そうだよね」
 先頭の背の高い人が、私の持つ空のケースを指さしながらそう言う。
「驚かせてすみません。それから、待ち伏せ禁止だったそうなのですが、お邪魔してごめんなさい」
 先回りに、アザミさんから聞いていた事情を踏まえて頭を下げた。
「ん? あれ? ファンの子?」
「てゆかどこに隠れてたの、気配ほんとなかったよねコエー!」
「えー、やっぱトミーの仕込みじゃねーの? あんなこと言っといてさー。隠しカメラ探そうぜ」
 三人が笑い混じりにざわめくが、私は首を振った。
「私はコクリコ、告白代行の仕事で来ました。『にいた』さんというのはどなたでしょうか?」
 三人は束の間黙り、改めて私を見た。
「そっかー、お仕事ですか」
「ファンの子じゃないね、誰が誰か知らねーんだからシロだ」
「いや待ち伏せてたって言ったっしょ、クロいよ。ま、いーや」
 それぞれが言った中で、背の高い男性が自分、隣、もう一人、と指さしながら、
「こっちから、イッチー、にいた、燦之介。ラッキーIIIと申します。以後お見知り置きを」
 と教え、ニヤリと笑う。一番背の低い、少し童顔の彼が「にいた」だと分かった。
「ありがとうございます。『にいた』さんに、ファンの方から告白の打診をお預かりしております。少しだけお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
 彼らは顔を見合わせる。「にいた」が一歩、前へ出て、
「えっとコクリコさん、でした? 仕事、って仰ったとこアレなんですけど。俺らもこれから仕事なんですよ。だからこの場で、すぐ言ってもらってすぐ終わる、って形なら聞きます」
 と笑顔ながらもきっぱりと言った。
「えー、冷てー」
 急に冷やかす金髪の人へ、彼は
「サンちゃん当事者じゃないからそんなこと言えるんだろー?」
 と言い返す。背の高い「イッチー」が私に向かい、
「まぁ、事情分かって欲しいっていうか。ファンには待ち伏せ禁止ねって言ってるんで、こうしてお話聞くのも本当はちょいマズいんすよ。代行の人に頼む、って手は、確かに俺らも禁止してなくて、抜け穴かもしんねーんだけど……やっぱフェアじゃないっつーか?」
 と苦笑しつつまとめた。
「ごめんなさい。聞いていただきありがとうございます」
 もう一度、心を込めて頭を下げ、急いで本題に移る。
「依頼された方は『にいた』さんに真剣な思いを寄せているファンの方です。可能であれば直接告白をされたいとのことですが、ご迷惑かもしれないので、まずは告白を受け付けていらっしゃるかお尋ねしたい、ということでした」
 彼らはまた、三人で顔を見合わせた。「にいた」が真顔になり、
「んー、まあ、告白とか、別にファンのみんなからのご好意は有り難いです。って意味では、受け付けてるのはいつでも受け付けてるんですけど。でも俺ら、ファンの子とは配信通じてみんな友達、みんな仲良し、全員俺らに恋してくれよな! って感じなんで。オフで直接会うのとかは、なぁ」
 と言う。「イッチー」が後を受け、
「気持ち的にはめちゃ嬉しいんっすけどね! お応えするのはほぼ無理で。人によっちゃあファンの方と個人的に会ったり遊んだりする人もいるのかもですけど、俺らは基本、ナシでやってて。逆に、もし直接連絡返してきて二人で会おうとか言い出す配信者がいたら、喜ぶより先に偽物のなりすましかファンのこと食い物にするクズか、なんてちょっと警戒した方がいいかもって俺的には思いますね」
 と微笑を浮かべて続けた。「燦之介」も
「その代わり俺らの方でも、特定の恋人はいません、永遠のフリー、って設定の維持に努めるから。夢壊さないようにね。なんつーか、そっちの頑張りを買ってくれたら嬉しいなー!」
 と思いの外、優しい調子で付け加える。
「わかりました、ご対応くださり本当にありがとうございます。預かった手紙があるのですが、受け取っていただけるでしょうか」
 私はケースの中から、忍ばせておいたアザミさんの手紙を取り出した。
「あ、まあ、ファンレターは普通に事務所とか送ってくれても届くから。いいっすよ」
 「にいた」が手を出し、「あざっす」と軽く会釈して封筒を受け取ってくれる。これで私の仕事は終わり、その場にも一件落着、みたいな空気が流れた。
「んじゃ、いいっすかね」
 確認して表情を緩めた「イッチー」が、ふと先ほどのニヤリ笑いを見せる。
「惜しかったなー。コクリコさんフツーにこっち側の仕込みの人だったら、打ち上げ誘えたのに」
「うん、サプライズとしてはよくできてたよ、見た瞬間、スゲーびっくりした。人形と同じ姿で来るとかめっちゃいい考えだよね」
 大きく頷き、「にいた」が目をぐるっと回して私に言った。
「嘘嘘、夜にこんな脅かされたら俺、腰抜かす! 怖くない企画の時に会いたいよー」
 大袈裟に悲鳴を上げた後、「燦之介」もこちらへ笑いかけて
「ねーオネーサン、外へ出る場所、トミーに案内してもらうといーよ。ここ、夜は俺らの借り切りで、多分もうあっちこっち閉めてるから。追い出すみたいになってごめんねぇ」
 と別れを告げた。こちらこそお邪魔しました、配信頑張ってくださいと挨拶し、戻って来たスタッフの人に送られて施設の裏口から出る。外はまだ日暮れ前だったが、正面玄関や外の門も締め切って、彼ら以外は入れないようにしているらしかった。

 夕焼け色になりつつも、空はまだまだ明るい。「ラッキーIII」は、もう少し暗くなってから肝試し企画をライブ配信するのだろう。私はスタッフに案内された裏口から敷地の外に出て、校庭を迂回し正門の方へ戻る。そろそろ、展望台までハイキングに行ったナノさんが私を迎えに来るはずだ。
 正門は既にロープで簡易的に閉鎖され、「本日貸し切り」の札が下げられていた。気付けば、近くの路上が来た時の無人状態とは違っている。一人で、あるいは二、三人で立ち止まって、廃校を眺めている人が目についた。
「チラッとでいいから誰か見えないかな!」
「外に出て来てくれたらいいのに〜!」
 そんな会話が聞こえ、オペラグラスで校舎の窓を見ている人もいる。高校生のアザミさんと同じぐらいか、年上らしくても若い女性がほとんどだ。配信者の「にいた」達は、事前の告知で撮影現場に集まらないよう注意したそうだが、やはり「ラッキーIII」を一目見ようとやって来たファン達なんだろう。
 アザミさんに依頼された「告白代行」の仕事は無事に終わった。そのため私は、そろそろ人形の姿へ戻ってしまうのではないかと気が気ではなかった。誰かに「必要とされた時」私は人間の姿になれるので、必要な時が終わってしばらくすれば元の球体関節人形へ戻り、自分で動けなくなる。こんな風に人目のあるところで急に人形へ変化したら困る。それこそ呪いや怪奇現象扱いされそうだ。でももし人形になったらなったで、ナノさんには見つけてもらわねばならない。人形が置いてあっても他の人から見つからない、あるいは全く気にされないが、ナノさんにだけはすぐに必ずわかるような……そんな都合の良い所、あるだろうか。
 焦りながら辺りを見回し、歩いていると、足元でにゃおん、と声がした。
「シロクロさん!」
 毛足の長い白黒まだらの猫がすり抜けるように私を追い抜き、振り返りざま、黄色い瞳でチラッと見上げる。どうしてここにいるのかわからないが、様子を見にきてくれたんだろうか。まさか「死神」の「仕事」、というわけではないだろう……といっても、そもそも彼がどんな風に「仕事」をするのやら。むしろそれは私がぼんやり想像するように「人の命を奪ってゆく」ことなのかどうかも、私は知らないのだけれども。とにかく、知り合いのシロクロさんが近くにいてくれれば私の人間化もまだ保つかもしれない。そう思った矢先、
「ココちゃん! 出て来てたんだ。お友達には会えた?」
 今度は後ろからナノさんの声がした。振り返ると、彼女がこちらへ向かって軽く手を上げ合図しながら歩いてくる。自分でも驚くほど安堵し、駆け寄った。
「さっき、ココちゃんのお友達みたいな白黒の猫さんを見かけたよ、この辺にも似た猫がいるんだね」
 ナノさんの中では、いつの間にか私の「友達」とは猫、そしてシロクロさんは私の友達、ということになってしまっているようだ。彼女は廃校利用の施設を見遣る。
「何かあるのかな。昼間より人が集まってるみたい」
「それが、あの建物はこれから、動画配信者の人達が貸切で使うそうで。部外者は入れなくなるとの事だったので出て来ました」
 説明すると、
「えっ、困ったんじゃない? よく、いいタイミングで出てこられたね。遅くなってごめん」
 と驚いた様子で答えた。
「いいえ、ちょうど会えてよかったです。帰りましょうか」
 ナノさんが私を道連れとして「必要としている」からか、人形に戻りそうな感じはしなくなり、安心して彼女と並ぶ。ケースに入って来た行きと違いバス代は二人分かかってしまうが、ナノさんは人間の姿の私と話しながら帰る方を選んだ。
「展望台もいいところだったよ。丘の上は紅葉が綺麗で。今度ココちゃんも一緒に行こう」
 バスの中で、疲れた様子ながらも楽しそうに彼女は言った。

 翌日の土曜日、早速アザミさんが結果を聞きにくるものだ、と私は思っていたのだが、彼女は現れなかった。まさかシロクロさんがなんらかの「仕事」をしたのではないだろうな、と変に疑ってしまうが、しかし彼も姿を見せない。
 日曜日は朝から静かな雨だった。こんな日、ナノさんはいつもよりさらに遅くまで眠っている。サンルームの外では庭の景色が灰色の空の下、薄暗く寒そうだ。十時頃、私は人間に変化した。伸びすぎたイングリッシュガーデンの植物を揺らし、傘をさした人が窓の外へやって来たところだ。様子を見る限り、彼女は先日会った時と変わりない。シロクロさん、というか「死神」というワードと関連しそうな不吉な事件を思わせる雰囲気もない。そんなにも彼を疑っていたわけではないつもりだったが、それでもなんとなくホッとした。
「いらっしゃい、アザミさん」
 声をかけてフレンチウィンドウを開き、以前のように中へ招こうとした。今度は来客用のスリッパも用意してある。ところが彼女は外でそのまま、開いた窓を塞ぐように立った。今日は制服ではない。透明のビニール傘をさし、暖かそうな上着と、対照的に短いスカート、カラフルなおもちゃみたいなスニーカーだ。足は剥き出しだが寒くはないらしい。
「代行の件ですけど。約束通りお疲れ様料、五千円払います」
 少女はなんだか切り口上で言って、肩にかけた小さいショルダーバッグから大きな財布を取り出した。あれっ、と思わず声が出る。
「アザミさんの情報と作戦のおかげで、配信者の『にいた』さんとは直接、お話できましたよ。その時の様子をお伝えします。どうぞ、お入りになりませんか?」
 改めて部屋へ上がるよう招くのに、彼女は首を振った。
「あの。すみませんけど、あたし最初は、あんまりよく考えず『返事が良くても悪くても、話して来てくれたらそれだけで一万円』とか言いましたけど。告白代行って『あたしの』告白を、相手へきちんと届けてもらうことのつもりだったんですけど」
 怒っているような声の調子に、私はキョトンとしてしまう。
「はい。ご依頼通り、『にいた』さんに直接、告白を受け付けていらっしゃるかと確認しました。お返事としては、受け付けてはいるけれど、ファンの方と二人きりで会って告白を受けるのは難しいとのことでしたので、お預かりしたお手紙をお渡ししました」
 頼まれたことをきちんと遂行できたと思っていた。大成功ではないにせよ依頼は達成、仕事は成功。そう考えていた。しかしアザミさんは硬い表情で私を見た。
「え。金曜の夜の配信、見てないんですか。『にいた』達は肝試し企画の終わりに、まとめのお楽しみトークしたんだけど、そこであなたの『告白代行』のこと、話題にしてましたよ」
 これには少し意表を突かれた。
「どんな風に?」
 咄嗟に聞き返しながら、何かまずかったのだろうと予感が走る。配信を見ておけば良かったか。思ったところでもう遅い。それにパソコンやスマホはナノさんのもので、私専用の機器はない。金曜日の夜の時点では、配信を見ようとは思いもしなかった。今更に驚く私を、少女は責める目で見る。
「『ラッキーIII』は、廃校で撮影前のセッティングしてたら銀髪で紫の目の、人形のコスプレした美少女が現れてびっくりした、とか喋ってました。オバケ役の仕込みの人かと思ったら一般人だったからすぐ帰ってもらったけど、すごく雰囲気あったから本当は一緒に撮影したかった……なんて。やたら盛り上がってたよ。良かったじゃないですか。コスプレがしっかり印象に残って、話題にしてもらえて」
 皮肉な言い方をし、
「心霊現象かと思ったら『告白代行』の仕事で来たって言われてさらにびっくりした、とか話題にしてたけど。『代行』があたしからの告白だったとか、それでどう思ったとかは何も言わないで、『にいた』達、撮影場所へ会いにくるのは今後、代理の人でもNGねって宣言しちゃった」
 彼女はほとんど憎々しげに私を見た。
「これなら自分で会いに行った方が良かったよ。最初で最後のチャンスだったのに、むざむざ他人に譲ったも同然だったってこと。あなたは『ラッキーIII』と直接会えて、話もできて、覚えてもらえて配信で話題にもしてもらえたよね。でもあたしは他のファンと同じで、普通にファンレター出したのと変わらないわけ。あなたが渡したあたしの手紙も、配信内では匿名のファンから扱いで、手紙ありがとうね、って軽く言われて終わりでした。連絡先、書いておいたけどメッセージも来ないし。あたしが事前に企画のリクエスト出して、代行もあたしが依頼した。お金出すのもあたし。なのに、なんですか、これ。不公平過ぎじゃない?」
「ですが」
 こうなるかどうかは、事前には誰にもわからなかった。そう思ったけれどアザミさんは聞かずに首を振る。
「あたしは、あたしの想いを『にいた』に届けてって依頼したんです。なんていうか、それをちゃんとやってもらえたのかなって。疑問だなって。言えば、どれだけあたしが他の人より彼のこと好きで、彼女になりたいか、『にいた』がわかってくれるようにちゃんと伝えてあたしが彼に会えるよう繋いでくれるのが本当の仕事じゃないですか?」
 そんな取り決めはしなかった、と思う一方、それが彼女の膨らませた期待だったのか、と今になって気が付いた。
「ごめんなさい。私はそこまでわかっていなかったようです」
 アザミさんの過大な期待をわかっていなかった、という以前に、彼女が彼を「好き」だという、その気持ちも私はよくわかっていなかった。もっというなら、今もわかっているとは言えない。
 彼女が「好き」な彼というのは、配信者としての彼が世間に向けて「売っている」、「ラッキーIII」の「にいた」だろう。それはある種の役柄というか、もちろん生身の人間としての彼は確かにいるけれど、アザミさんの「恋」している配信者「にいた」とイコールにはならない気がする。彼女が一体、どんなふうに彼を好きなのか、私はわかっていなかった、と今更気付いた。私は彼女から聞いただろうか? 配信者としての彼の魅力、楽しい企画を通じて観られる素敵でカッコいいあれやこれや。投げ銭してコメントをつけ、イベントに通い、グッズを集めること。彼らに喜ばれる「良いファン」として応援すること。それは聞いた。でも、私が彼女の「恋」を「わかった」かというと?
 彼女が望む結末――人気配信者の「にいた」と特別な機会を設け直接会って告白し、受け入れてもらい、他の「普通の」ファンとは違う特別な存在、恋人になるというドラマチックなハッピーエンド――へ絶対に辿り着けるように、私が代理で彼女の「特別な想い」を伝え下準備してくる。……などというのが事前に「求められていること」だとわかっていたとしても、私にはおそらく実現できなかっただろう。「にいた」達の断りを聞いた上では、私ではなく、誰が代行したとしてもおそらく難しいのじゃないかとも思う。とはいえ、どんな結末へ導きたいとも思わずに、私はただ彼女の質問を代行し、手紙を渡しただけだった。
 こちらへ非難する言葉を向けたアザミさんは、けれど自身でも、少し大き過ぎる期待をかけていたとは気付いている様子だった。彼女は私から視線を外し、
「謝ってもらっても。もう終わっちゃったし」
 と呟いた後、
「今更ですけど。あたしもバカだったと思います。まるで、代行を頼めばあなたが何か奇跡を起こして、あたしを『にいた』の彼女にしてくれるんだ、なんて思ってたみたい。あれっぽっちの金額でそんな奇跡、買えるわけないのにね」
 と自嘲するように言った。
「お金は関係ありません、私の理解不足でした。もっとお話をお伺いしていれば、私ももう少し何か、先方へ伝えることができたのかも」
 言いかけるのを遮り、彼女は
「いいです。もうチャンスもないし。それに、本気で『にいた』の彼女になりたかったらもっとすごい額を貢げるようになるとか、事務所買い取るぐらいの人じゃないと無理なんだろうな、なんて前からわかってました。それともあたしが、彼らから付き合いたいって求められるぐらい絶世の美女になるとか、超絶有名になるとか。とにかくこれ」
 と財布から取り出した五千円札をフランス窓の内側、サンルームの床へ投げるように置いた。
「本当だったら『にいた』達と会えたあなたの方が、私にお礼、払うべきじゃない? って思いますけど。約束は約束だし、そういうコスプレするのってお金かかりますよね。だからあんな看板出してるんでしょ。あたしも今回は勉強代だったと思って諦めて、これはあげます。もう来ません、さよなら」
 くるりと踵を返した彼女のビニール傘から雨粒が飛んで、私に当たった。冷たい滴を顔に受けても、私は動けずに立っていた。

 「ちょっと。ココっち」
 声をかけられ、ぼんやりしていた目の焦点が合ってくると、陰気さの極みながらも美貌の極点ともいえる、人間姿の時のシロクロさんの顔がすぐ前にあった。彼はサンルームの応接セット、ガラスのローテーブルを挟んだ籐椅子に、以前来た時のように座ってこちらを見ている。気付いてみれば私も、もう一つの籐椅子に腰掛けていた。
「いつの間に」
 いつから彼が来たのか、私はなぜ意識を失くしていたのか分からず、目を瞬く。
「いや、さっき。雨、降ってるのに窓開けたまま、濡れそうなところで人形になって寝てるから。僕が来てても、拾って座らせて声かけても、今日はなかなか人間にならないし。どうかした?」
 聞いている間に、アザミさんの来訪と依頼の「失敗」を思い出した。思わずフレンチウィンドウへ目をやったけれど、シロクロさんが閉めたのだろう窓は閉ざされており、外にはもちろん、アザミさんの姿など見えなかった。
「これも一緒に落ちてた。ココっちの?」
 シロクロさんが骨っぽい手の長い指で指すのを見れば、ローテーブルに五千円札が置かれている。
「違います……そうです」
 矛盾する答えを呟きながら、また頭が重たいように感じる。
「女の子から手助けして欲しいと、『告白代行』を頼まれて、その謝礼……でも私は失敗しました」
「失敗したのにお礼はくれたんだ?」
 シロクロさんは怪訝な顔をし、けれどそれよりも何か険しい目つきを居間のデスクの方へ向けた。
「ふーん、じゃあそのせい? 計測器がおかしなことになってるよ」
 ぼんやりと重たい頭でもその言葉にはハッとなる。計測器。それはナノさんと私の処遇を決める、「死神」シロクロさんにしか読めない砂時計だ。ナノさんの「生きる気力」の増減を測り、「生きたい」へ砂が落ち切れば、彼女から分裂した魂である私は彼女に「再統合」できるとのことだった。何か異変が起こったのかと問う前にシロクロさんが話し出す。
「あの女性はほとんど動き回る気力をなくしてるから、『生きる気力』を増すためには、同じ魂から出てきた人形のココっちが代わりに動きたい。でも誰かから『必要とされ』ない限り君は自由に動けない。そこで表に『看板』を出して、手助けが必要な人間を募集し、誰かから『必要とされて』人間の姿になり、手助けをするついでに自分の『生きる気力』も高める。計測器が測ってる君らの『生きる気力』は合算だから、そうやって『生きたい』の方へ砂が落ちるようにしようっていうのが作戦だったよね」
 長いおさらいに頷いた。アザミさんの依頼を受け私が活動したことでは、どれぐらい砂が動いたんだろう。シロクロさんは黄色い瞳を私に向ける。
「こういうの教えるのも厳密にはルール違反だけどさ、知らないとそのまま行っちゃうだろうし、それじゃ僕がここまでやってる意味もなくなるから言うよ。前回置いた時と比べて、あの女性の『生きたい』は、ほんの少しだけど増えてる。多分こないだ君と出掛けたのが良かったんだろ。なのに今、全体で言うと『生きたくない』の方が増えてる。今もそっちに傾いてってるんだけど」
 言われたことがすぐには理解できず、わかっても信じられなかった。
「わ、私が?!」
 飛び出した声は自分でも小さな悲鳴に聞こえた。計測器の「生きる気力」が合算だというのなら、逆もそう、つまり今「生きたくない」を増やしているのは私、ということになる? シロクロさんは冷たいほど静かだった。
「そう、君がさ。さっきから僕といても、人形に戻ろう、戻ろうとしてる。自覚ない?」
「私は」
 だが、じわじわと感覚へも理解が追いついて来た。人間の姿にならなければ良かった、依頼など受けなければ良かった。今日言われたことも一昨日の出来事も、いっそ始めから起こらなければ良かったのに。「告白代行」のこともアザミさんのことも、一切忘れて、全部なかったことになればいい。私はそう思っていた。そして、今すぐ人形になりもう二度と人間にはならなければ、全部をなかったこと同然にするのも可能じゃないかと感じていた。
「私は……。ですがやはり、『もう必要ではない』ので」
 アザミさんが表明した私への落胆はそういうことだったんだと思い、言葉にした途端、シロクロさんは鋭く顔を上げた。
「待って。君は頼まれたことをやるにはやったけど、君基準、あるいは依頼人基準では『失敗』し、依頼人からさっき手切金みたいに紙幣一枚渡された。そして自分が『もう必要ではない』って言われて厄介払いされたと思ってるわけだ」
 私が頷くのも待たず、彼は陰険に見えるほど尖った目付きで見つめる。
「でもそれ、本当に全部相手がやったこと? 特に、その最後のとこさ。『お前は失敗した』『もう必要ではない』『だからいらない』『消えてしまえ』って、ココっちに言ってるのは、本当は誰なのかな」
「それはもちろんアザミさんでは……」
 答えかけて詰まる。
「……で、は、なくて……私だ」
 アザミさんは確かに、私の「告白代行」が期待外れでがっかりしたことを表明した。頼んだのが間違いだった、もう頼まない、と捨て台詞を残し去っていった。けれどその後、「失敗した」「やったこと全てに価値がない」「もうお前は必要じゃない」「さっさと消えてしまえ」としつこく私に言っているのは私自身だ。私はそれで、もう人間の姿でいるのは嫌になった、消えてしまいたいと感じ、今「生きたくない」気持ちになっている。こんな些細な失敗で、と考えたくても、気持ちの落ち込み具合は変わらなかった。
「そうらしいね。だからこそ砂時計が、思ってたのと逆の方へ傾いてる。でもさ」
 そこまで言った時、シロクロさんの怖いぐらいの表情が変わった。哀愁とでもいうのか、不思議な顔を見た気がしたが、彼はふいと背ける。そして、呟いた。
「ココっちが初めて独自に感じてるその気持ち、あの女性がずーっと感じて考えてることと、近いのかもしれないよ」
 ナノさんが? そう思ってから、それはもちろんそうだ! と急に強く思う。
『外には金木犀の香りがして、世界は私が必要じゃない』
 外界は自分の存在なしでも、平然と存在している。空は明るく輝いて空気は甘かったその朝、自分など必要ないと、彼女は自分に宣告した。そして今は、緩やかに自分に対し死刑執行しようとしているようなものなのだろうか。世界があなたを必要としなかったか、何があってそう思ったのか、そもそもそんなことどうやって測れるのか、客観的な絶対の事実と言えるのか。私にはわからない。ただ、あなたは間違いなくそう感じていた。そのせいで、あなたはあなたを必要じゃないと言い、あなたは世界を閉め出した。
「私、ナノさんに話さないと」
 衝動的にそう言って立ち上がった時、そのナノさんが居間の扉を開けて入ってきた。

 サンルームは居間と一続きなので、互いの姿は簡単に見通せる。
「ぎにゃっ!」
 奇妙な叫びに慌てて目を向けると、シロクロさんが猫の姿になって来客用スリッパの上へ落ち、震え上がったところだった。依頼人用に用意したスリッパを、彼は今日勝手に履いていたらしい、なんてことに今気づいても仕方ない。白黒の毛皮で毛足の長い猫はフレンチウィンドウへ猛ダッシュしたけれども、彼自身が入る時に窓をきちんと閉めていたせいで出口はなかった。ぐるぐる駆け回るまだらの毛玉の動作は、他の時だったら思わず笑ってしまうぐらい滑稽な大慌てぶりだ。どうすればいいのか唖然とし、眺めるばかりでいる私に、ナノさんの笑い声が聞こえた。
 笑い声は小さなものですぐに止んだが、見直した彼女の顔にはまだ間違いなく微笑が残っている。シロクロさんは突然、おもちゃのゼンマイが解け切ったようにストンと腰を下ろし、ニャン相の悪い顔で彼女を凝視した。
「お友達の猫さん、雨だから入れてあげたの? そのスリッパは洗えるから、上に乗って汚れても大丈夫。外に出たいのかな。でも、まだ降ってるね」
 穏やかに言いながら、ナノさんはゆっくりこちらへ歩いて来た。
「ナノさん、私」
 予め考えていた言葉ではなく、考えにつれ言葉が出て来た。
「言わなきゃいけない、いいえ、聞いて欲しいことがあります」
「うん」
 予想外に、ナノさんは私の顔を見つめて優しく頷く。
「なんだか、この前から色々してたんだよね? 今まで聞けなくてごめんね。でも今日は聞ける気がする」
 そう言って彼女は、床で毛皮の雑巾風にへたったままのシロクロさんをまた眺め、微笑んだ。
「食べながらでどう? ココちゃんと私にクレープを焼くよ。猫さんには煮干しかな? カツオの削節? クレープは食べないよね」
 シロクロさんがビクッと飛び上がり、座り直す。捕まえようとも無理に撫でようともせず遠くから静かに様子を見るナノさんに少し安心しかけた野良猫、という風に見えないこともなかった。しかしそれから彼は、妙に熱心な顔付きになってちょっと身を乗り出す。どこか外からやってくる「いわゆる普通の野良猫」のはずなのに、向こうから馴れ馴れしく寄ってきて言葉がわかるような行動を見せられてはまずい。焦った私は咄嗟に、
「あっ、いえ! この猫はクレープ、食べるかも! そうだ、ツナマヨ乗せたらいいんじゃないかな!」
 と変なことを言ってしまう。そうかなあ、マヨネーズはきっと猫には良くないよ、とまた少し笑い、ナノさんはキッチンへと向かった。私も手伝います、とシロクロさんを置き去りにして後を追った。
「ナノさんに話したいことがたくさんあるんです。ええと……」
 外では冷たい雨が細く降り続け、私はまだ辛い気持ちを持ったままで、でもそれこそが彼女と話せる、初めて持った共通の土台のような気がしている。そして、そんな時でもどんな時でも、ナノさんの焼くクレープはきっと美味しいに違いなかった。サンルームから「しめた!」とでも言いたげな、にゃっという声も届いた気がした。

 小麦粉にお砂糖、牛乳に卵。ふるって合わせ、溶かしバターを混ぜて、生地を休ませる間にナノさんはルイボスティを淹れる。シロクロさんのためには小皿に入れた水と、鰹節と煮干しひとつまみずつが用意された。シロクロさんは本当の猫ではないから、そういう「本当の猫が少量食べても問題ないだろう猫向けのおやつ」より、ナノさんの淹れてくれたお茶とナノさんの焼いたクレープが絶対に欲しいだろう。けれども、ナノさんは彼を「至って普通の本物の猫」だと信じて疑っていないから仕方ない。
 クレープに砂糖を振ってレモンを絞ると美味しいよ、とナノさんが言うので、レモンを半裁し、シュガーポットとそれぞれの小匙を用意した。その間にも私は、外の郵便受けにこっそり小さなカードを貼って、手助けの欲しい人は声をかけてくださいと書いたことから話し始めていた。
 カードに気付き手助けを求めて来た人の前では人間の姿になれること、訪れた少女の依頼を聞いたこと。金曜日、ナノさんに頼んで西ヶ丘の廃校を利用した施設に連れて行ってもらったのは、実は「告白代行」をするためだったこと。目的の人気配信者と会えたけれど、そこで私が行なった打ち合わせ通りの行動は、少女の期待していた「告白代行」とは大きく違ったこと。先ほど、少女は依頼料を届けに来たけれど、不満足だと言い、行ってしまったこと。そのせいで私は気落ちしていること。
 ただしシロクロさんのことや、彼の置いた砂時計が測っている「生きる気力」については言わなかった。
 「そうか……行動しても、ココちゃんの思っていたのとは違う結果になって落ち込んだんだね」
 相槌を打ち、ナノさんは「生地を寝かせる時間、短すぎるかもだけど、早く食べたいから」とフライパンへ注いだ。クレープが薄く綺麗に焼けてゆく。良い香りが漂った。
「依頼人の彼女は、これなら妥当って思える金額を支払って、自分の納得のいく結果が欲しかったんだね。例えばお店で服でも買うか、ヘアサロンで髪型を変えてもらうみたいに。でもそうならなかったから、彼女もがっかりして、ココちゃんに八つ当たりしたのかも」
 ナノさんは焼き上がったクレープを皿に乗せ、また生地を流しておたまの底でくるくると、円い形へ薄く広げる。
「配信者の人達がファン向けに『売って』いる『商品』の中には、今のところ『ファンを恋人にする』っていうサービスはなかった。だからココちゃんが代理で行っても、お求めの品は買えなかった」
 言って、彼女は焼けたクレープを取り出すと私を振り向き、
「焼いてみる?」
 と誘った。それで、次の一枚から焼かせてもらう。ナノさんと同じだけのことはできるはずの私だが、経験と慣れが足りないせいかナノさんほど綺麗には焼けなかった。ムラもあり、素早く円く広げきれなかったところが穴になってしまう。でもナノさんは「上手。美味しそう」と言ってくれた。クレープを乗せた皿やお茶のポット、カップをトレーに分けて載せ、彼女は少し途切れた話を継いだ。
「やれることをやったつもりなのに結果が期待と違ったら、『失敗した』って落ち込むよね。でもそういうこと、いくら嫌で避けようとしても、やっぱりあるよ。何もかも期待通りかそれ以上にうまく行って、一生涯、絶対に失敗しない、なんてあり得ないから」
「それはそうかもしれません、というよりもわかっていると思います。些細な失敗の一つぐらい、って思おうとしてるんですけど。それでもこんなに落ち込んでしまって嫌な気持ち。どうすればいいんだろう」
 私の呟きに彼女は小さくニコリとする。
「気が済むまで落ち込んでいいんじゃないかな」
 あっさりと言われて拍子抜けし、そのせいか少し気が軽くなった。ナノさんは続ける。
「失敗したくない、傷付きたくない、でも動かないと何も起こらない。だから依頼人の子は動くことにはした。だけど動くって決めたらその時点で、失敗とか傷付くとか落ち込むリスクも当然、発生する。彼女はそれもわかってて、自分で直接やるんじゃなくココちゃんに頼んだ。ココちゃんをクッション代わりに、失敗することや期待外れの結果っていう衝撃を和らげた。私から見れば、だからココちゃんは役目を果たしてると思うけどな」
「というと……クッションの?」
「そう。ココちゃんはクッションじゃないからね、酷い、馬鹿にするな、とか思うかもしれないけど。いや、これは私がそう思うのかな。でも依頼人の彼女にとって、あなたの『手助け』を利用する方法は、五千円払って後腐れのないクッションになってもらうことだったのかな、とも思う」
「それだとかなり、冷たいというか薄情というか。私には、ドライ過ぎる気がします」
 言いながらも、友達でもない初対面の相手に望む「手助け」は結局、そんなところなのかもしれないと、諦めとも納得ともつかない思いは抱く。
「ココちゃんの思っていた『手助け』はどんなだったの?」
 サンルームへクレープやお茶を運び、さっきシロクロさんが座っていた方の椅子へ腰掛け、ナノさんは尋ねた。テーブルまで戻ったときも、アザミさんが置いていった五千円札は、気まずさの塊としてまだドンと載っていた。けれど、食べ物を並べるからどけよう、というだけの当たり前の仕草でナノさんはそれを居間のデスクへ移動させ、その後一瞥もしない。その代わり、ちょっと楽しそうな表情で猫姿のシロクロさんを何度も眺める。シロクロさんはフレンチウィンドウにぴったりくっつく位置で油断なく私達を見つめているが、逃げようというそぶりはもう全くない。私が「猫にふさわしいおやつ」の小皿を目の前まで運んであげた。彼は、おやつの内容には極めて不満ながらナノさんの側でもらえることには大満足、みたいな複雑な気配を醸し出した。その表現力に思わず気を取られかけたが、なんとか思考を元へ戻す。
「私が思っていた手助けは」
 私の『生きる気力』が高まるような……という、自分中心な上に自分でもよく分かっていないことを言っても仕方ない。
「手助けしている間に、もっと相手のナマの感情がわかるような……かな? 何か交流があることを期待していたと思います、ポジティヴな意味での。それで私にも、人間らしい感情がもっと色々わかったらいいなと思ったんです。でも、今思うと、アザミさんも『にいた』さん達も、最後まで役柄でも演じてるみたいにドライだったなという気がして。いえ、みんな本当は複雑な背景や感情もあるんでしょうけど。私に見ることのできたのが、彼らの演じてた『高校生のファン』とか『人気配信者グループのメンバー』っていう役柄だけだった、みたいな気持ちです」
 それを言うなら私自身、事実その通りとはいえ他人事の傍観者みたいな態度で通した気がする。思い起こし言葉にしている間にナノさんはクレープを取り分け、ブラウンシュガーをふりかけた。レモン汁を絞ってフォークで綺麗に折り畳み、それを私に、小皿ごと「はい」と差し出す。
「いいんですか」
 自分で食べるため取り分けていたと思ったので驚くが、
「もちろん」
 と、彼女は温かいルイボスティもマグカップへ注ぎ、ミルク入りにして私の前へ置いてくれた。向こうからシロクロさんがいつにも増して険しい、刺すような視線で私を見ている。彼がナノさんの前では「仮の姿」で通さねばならないのは彼の事情だし、そもそも私は彼女の魂の一部のはずだ。ナノさんのように知らないところでシロクロさんから一方的に慕われたりしたらそれはそれで困るとはいえ、敵意を向けられるのは釈然としない。私と彼女で何がそうも違うというのか。ナノさんが今日も私に親切だからといって、そんな恨みがましい顔をされる言われはないと思うが。
 私が猫の姿の「死神」を気にしており、当の死神は自分を気にしすぎるぐらい気にしているなんて思いも寄らないだろう、ナノさんは自分のクレープを取る。冷めないうちにと言われ私も口へ運べば、美味しくてペロリと食べてしまった。落ち込んでいるから食欲も出ないかと思いきや、軽くて香ばしくレモンの酸っぱい爽やかさが砂糖の甘さと共にジュワッと弾ける薄い柔らかいおやつは、むしろ涙を拭うハンカチか捻挫に当てる湿布みたいに作用する。おかわりも勧められ喜んで従った。ますます絡みつくシロクロさんの視線は強いて無視した。
 やがて、食べながら考えている様子だったナノさんが、お茶のカップを置いて口を開いた。
「失敗せず損もしない、ってことに一番の重点を置いて、お代にぴったり見合う分だけ、役柄を演じてうまくこなす。そしたら傷つかない。傷ついても浅くて済む気がする。失敗しても否定されても、それは『役柄』の仮面に起こったことで自分本体そのものじゃないから。なんだか、『配信』も『ファン』も『想いの告白』も『彼女になること』もそんな風だったのかな、ってココちゃんの話を聞いてて思ったよ。どれも正しい場所で正しいお代を差し出せばゲットできる、商品(アイテム)として並べられてる、みたいな」
 彼女はフレンチウィンドウから見える庭の奔放な植物達と、そこへまだ降っている静かな銀の雨を見遣る。
「小綺麗にパッケージされて、妥当だと思える値段がはっきり書いてあって、不良品はすぐ取り替えてもらえる。そうだとわかりやすい。相手も自分も、全部そうだとわかりやすい。でも残念ながら、私達ってそうじゃない」
 彼女は呟いた。
「全然、そうじゃない。それでも私は、自分をパッケージして値札を書いて、なるべく高値で流通に乗せるのが生きてくことかと思ってた。そんなの無理だ、嫌だ、辛いと思う気持ちをなんとか誤魔化して、無視して押し殺すのが生きることだと思ってた。結局、うまくできなくなって、もう生きていけないとも思った。その時私は、ココちゃんみたいに、歳も取らない理想の美しさを持った存在なら良かったと思った。そうすれば私は、パッケージにも値札にも流通にも、そぐうものになれるのに。なんて思ってた」
 理想の存在。それが、「辛い」と思う心もない人形? 彼女が言わなかった部分を思い浮かべる。でも人形ではない彼女には無理だ。歳を取らないのも感情を持たないのも、彼女が思い浮かべるがままの理想の美を体現するのも、人間の有り様として不自然だから。そう思うと同時に、彼女の魂が私へと分割してしまった理由が、少しわかった気もした。
 ナノさんが今言ったような、人が流通に乗せられる「現実」は、確かに何がしかあると感じる。アザミさんや「にいた」達も、流通するわかりやすい「商品」らしく振る舞おうとしていたのかもしれない。でも、私の前でドライに、あるいは軽やかに当たり前の顔をして自分の「役柄」を振る舞って見えた彼らは、本当に「うまく」やっていたのだろうか。今一瞬、ルールを熟知しうまくやっている気でいても、この先もそのやり方で行けるのだろうか? 感情や人と人との関係というものは、そうもたやすく、綺麗にわかりやすくパッケージして流通に乗せられるものなのだろうか。ナノさんだからそういったことがうまくできず、ナノさんだから無理になった。と、考えるのは簡単だったが、やっぱりアザミさん達だって人間であって、人形ではない。
 少なくともナノさんは、この先再び彼女のいう「流通」には乗れないんだろう、とも不意に思った。なぜなら彼女はそうすることがあまりにも「無理」で「嫌」で「辛い」からだ。そして現実に
「ナノさんが人形になるのではなくて、私(人形)が人間になってしまった」
 からだ。ならば、人形のように心もなく流通する存在になりたいと願ったことよりも、それは耐えられない、それでは辛いと思ったことが彼女の本音だったのじゃないかと思える。
「うん、でもそれで良かったよ」
 思わず出した言葉に対する返事が意外で、私は顔を上げた。ナノさんはまだ、濡れて寒々しい色合いの庭を眺めていたが、すぐこちらを向く。
「私が消滅するとかじゃなく、ココちゃんが『生きてきて』、ココちゃんになって良かった。私はあの時『生きていたくない』と思ったはずだった。でもあなたが、私も知らない押し殺そうとしていた私の告白を、存在でもって代行したみたいなものだから」
「どういうことですか」
 戸惑って聞き返す私に、ナノさんは言った。
「ココちゃんは誰かに『必要とされた』時、人間の姿になるって言ったよね。だから私が『必要とした』時、人間の姿になれたんだ、ってさっき話してた。でも私はあの時、自分は誰にも必要とされない、世界は私が必要じゃない、と思っていた。私自身さえ私を要らないと思った。それなのにあなたが現れたのは、多分、私があなたを必要としたからじゃないよ。世界さえ、自分さえ要らない気持ちだった時に、私は何一つ必要とはしていなかったと思う」
 衝撃的な言葉を穏やかに並べ、彼女は目を伏せてまた微笑む。
「あなたがあなたになったのは、他の誰かに求められたからじゃない。あなた自身であなたを必要としたから。そう気付いたら思った。私も他の誰かじゃなく、あなたがしたように、私自身で私を必要としたかった。『いらない』と投げ捨てたいのじゃなく『いる』って掴んでいたかった。それなら私は今も、『生きていたくない』と思ってるんじゃなくて、『生きていたいと思いたかった』って思ってるのかなって」
 では、ナノさんも気付いていなかった「生きたい」思いが彼女から魂を分割してまで飛び出して、私になったということ? その「生きたい」思いは、自分を「商品」のようなパッケージにして流通させることができずそうしたくもないという彼女の本音とも密接ということになるが、しかし形としては「商品」にもなり得る形の、人形の私が生き始めた。いや、私はこうして人間になっているから、そこは矛盾しないのか? ならばナノさんがそれに気付いた今、あの砂時計は「生きたい」へ落ち切る? 私は彼女と「再統合」するのだろうか? 様々に思いが巡った束の間は、ナノさんの続けた言葉で破られる。
「言っておいてなんだけど、それも、それだけでもないのかもしれないな。これこそ、何もかも小綺麗にパッケージしてきちんと意味づけできて『あれはこうだったんだ!』って割り切れるばかりではないのかも。とにかく私はこうして生きてる。ココちゃんもココちゃんとしてそこにいる。それで二人で朝ご飯を食べられてる。そういうのは全部、やっぱり良かったなって」
 まだ私は頭の整理が追いつかなかったが、ナノさんは落ち着いた様子でクレープを食べ終えた。シロクロさんが、絶対にわざとだろうが、「反芻する猫」というあり得ない存在かのごとくものすごくゆっくり煮干しなどを食べていると確認してから、彼女は「お昼はもっとちゃんとしたもの作ろう。猫さん、トイレに出たりする?」とフランス窓を開ける。庭が猫の糞で汚されたとしてもあまり気にしないか、すぐに片付ける気かもしれない。だが本当の猫ではないシロクロさんは雨の庭へは出ようともせず、ひたすら煮干しのかけらを口の中で噛み続け、ナノさんの動きを目で追った。
「その猫さん、庭に糞やマーキングはしないみたいです。今までもしてたこと、ありません」
 彼の名誉のため一応言ったのだが、ナノさんは不思議な理解をしたようで
「そっか、もう去勢手術してるのか。それとも、見た目以上におじいちゃんなのかな。あまり食べないものね」
 と返事をし、シロクロさんは何を考えたか、また小さく飛び上がった。

 結論を言えば、ナノさんが「生きたい」と口にした後も、何日経とうが私は私のままだった。ご飯の時間や、ナノさんのクッキーが焼けた時、それから来訪者のあった時には、人形から人間の姿に変わる。
「砂時計も、まだ動いています」
 呟いた口調は不満げに聞こえたようだ。今日も入ってきていたシロクロさんが、デスクのところで振り返る。
「そりゃそうだよ。人間の心、あの女性の心は、ココっちが思ってるより複雑なんだ。逆はともかく、『生きたい』って思った時でも全部がそれにはならない。日々、せめぎ合いだよ。彼らにはいつ来るのか予見できない『XDAY(その日)』まで。それが面白い。それが味」
 彼の側では円い枠に嵌った大きな砂時計が、手も触れないのにゆっくりと角度を変え、回りながら砂の落ちる方向をあちら、こちらと変化させている。
「では、『生きたい』に落ちきれば私がナノさんと『再統合』できる、という話は嘘だったんですか」
 尋ねると黄色い目を逸らした。
「い、いや〜? エントロピー増大の法則の方が強いっていうか、あの女性は現状の、欠けてる月の美しさみたいな。傷まで含めて完璧ですし、むしろ君ぐらいまではっきり別人格になる分割をした後でまた再統合するのは極めてむずか……いやいや、僕、言ったっけ再統合とか? あ、まあ、アレだよ、ほら確率は低いけど絶対にないとは言い切れないかもしれないわけだからっていう理論上のあれであって。嘘と言われるとさすがに心外かな、みたいな。あっ、あっ、それよりココっち、今日は僕が来る前から人間になってなかった? また誰か来てたの」
 下手くそな誤魔化し方をしてぎこちなく話題を変える陰気な美青年を前に、やはり信用してはいけないな、と心に刻む。隠さない猜疑を込めた視線を向けつつも、
「先ほど、新しく依頼の方が来ました。今度も『告白代行』のご依頼です」
 と答えた。
「あの女性もできるところあれこれ手伝ってくれるようになって、ココっちもだんだん、それっぽい仕事してるみたいじゃない」
 揶揄い気味に彼が褒める。
「まあ、打ち合わせシートは毎回、改良していますし。商品としてのサービスというより、人間同士のお手伝い、との心構えで打ち合わせ、準備段階から実行の後までもお互いお話しするのを重視しています」
 胸を張ったものの、その先までそのままではいられなかった。
「それにしても恋愛の告白はちょっと、自信があまりないというか。依頼は多いんですけど、私には恋愛感情というの、やっぱりよくわからない感じで」
 今度もそんな話だったなあと思い、眉を寄せる。考えても、わからないものはわからないのだ。私は目の前の、痩せて背の高い、渦巻く黒髪が床まで届く異質な美青年を眺めやった。
「恋ってどんなものなんですか? わかります?」
「状態異常。狂気で凶器。あなたを殺して僕も死ぬ。君の魂を食べたい」
 さらさらと答えた後、シロクロさんは私の表情を見て慌てだす。
「いやっ、違っ、違って! これはそう、一般的な! 一般的なことを言ったまでで僕は危ないヤツじゃない!」
 信じないぞ、と思いながらフランス窓の景色を眺めた。晩秋の庭が曇り日の下、寒そうではあっても長閑だ。
「今日のおやつは何かなあ。シロクロさんにはきっと煮干しか鰹節ですね。要らなければ帰ってもいいんですよ」
 と言えば、口惜しげな呻き声が返事をした。
 いつかは彼の「猫の姿をしていても特殊な猫だから、大丈夫なのでナノさんお手製のお菓子が食べたい」という告白を、ナノさんに代行してあげたいとは思っている。だがそれも、シロクロさんが私たちにとって、あらゆる意味でもう少しぐらいは安全だと思えてからの話だ。

(終わり)

コクリコ 告り子

2022年11月作。

コクリコ 告り子

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-26

Copyrighted
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