白のグラフィティ
白のグラフィティ
寂れた屋内駐車場の三階、他の利用者も来ないどん詰まりが、毎晩、僕らの定位置だった。僕とハル。行先未定のモラトリアムだ。二十代の入り口で、ふと、道にでも迷った気がして立ち止まった。秋の深まりにつれ長くなる夜をまだ持て余している。
ハルはコンビニへ僕を拾いに来る。いつもの駐車場まで乗り、二人して降りる。角ばる車体の周りが居場所だ。電車やバスが最終のランプを灯し、残らず行ってしまうまで、他愛ないことをダベって過ごす。時々、僕は灰色の壁へスプレー缶を向け、新しいノズルの書き味を試す。
一体、自分は今、何をしていればいいのか。疑問と焦りが常にあるが、何をすべきかはわからない。それで同じような日々を、見かけの上では至ってのんびり繰り返す。代わり映えしない平穏が重なるほどに、心の中の焦燥は高まる。けれど僕らは、それについて話さない。
車の前へしゃがみ、白いスプレーで床にある駐車スペースの番号「34」を上塗りして僕は
「一度、ブレイズヘアにしてみたいんだよな」
なんて言う。するとボンネットに腰掛けたハルが僕の後ろ髪を摘み
「ナギの髪は細いからなぁ。エクステいっぱい使えば出来んのかなぁ」
などと返事をする。今日の彼の手からは、玉ねぎを刻んで生クリームも使い、自分で作るコーンスープの匂いがした。
ブレイズヘアでも、メッシュでも。そろそろ気候に合ってきた虎の刺繍のスカジャンでも。シルバーアクセや腕のタトゥーも、お金を出せば買えるものだ。床に転がしたスプレー缶もそうだ。でも僕が探しているものは、「買う」という手段では手に入らない。
真夜中がゆっくりと過ぎた頃、物好きの車が上がってくる。車外へ溢れるカーステレオの音楽と、強いヘッドライトですぐわかる。アオさんだ。
「よぉ、いたか。終電、終わったよ。行ったら」
ライトが眩しく僕らを照らし出す位置へ趣味っぽい外車を停め、アオさんはスマホ片手に降りて来て言う。そう言うからには彼は、僕のやっていることを知っているんじゃないかと思う。だけど彼はそれ以上言わない。僕らも彼に、自分のことを話さない。
B系の曲ではなくファジーなジャズだの、時にはクラシック調の現代音楽だのを癖のある香水と同じように纏う彼が、なぜ僕らを構うのかは知らない。それでも彼が初めから簡単にアオと名乗り、大音量をかけっぱなしで車から降りて、床や横手の壁に見えているはずのスプレーの落書きについて何も言わなかったため、僕らは彼のことを大きくは「同じ側」の人間だと見做した。金や時間や体力に少し余裕があり、ちょっとばかり「普通」の社会からはみ出している、自分を持て余した大人未満の大人だろう、と。僕は、彼がハルに目を付け職の斡旋でもしたいのかと想像した。ハルは逆で、アオさんが僕を何かの事業に誘いたいのだろうと予想する。本当のところはわからない。アオさんは何の用事も言わない。ただ頻繁にここへ来て、僕らが知らないわけじゃない時間をわざわざ告げる。
僕はハルの車に乗り込む。動き出すまでにアオさんはもう、ギラギラするヘッドライトを回し音楽ごといなくなっている。低い天井や四角く太い柱の間へこもる排気に押しやられ、香水の残り香も消える。
向かうのは駅近くのガード下だ。線路の橋脚が作る、分厚いコンクリート壁の間に空き地が並ぶ。空き地は全部、道路からフェンスで隔てられているが、実はいくつかの場所でフェンスに切れ目が開いていて、簡単に入り込める。
人通りも絶え、防犯用の街灯だけが明るい駅とバスターミナルが見えた。ガードレールへ寄せてもらい、ボストンバッグを手に車から降りる。汚れてボロいバッグには、スプレー缶が入っている。
ハルの車は線路沿いの道路を去ってゆく。明け方までやっているクラブかバーにでも行くのかもしれない。コーンスープのある一人暮らしの部屋へ戻り、眠るのかもしれない。僕を下ろした後のハルを、僕は知らない。ハルの方でも、車を下りた後の僕のことは知らないだろう。想像は付くとしても、きっと、確かには知らない。
高架に沿って歩き、フェンスの間を抜け、空き地へ入る。コンクリート壁の前に立つ。他にも僕の回るポイントはあるが、駅から近く、街灯の光も届くこの場所はホットスポットだ。防犯カメラもなく、ホームレスもいない。アスファルト舗装の空き地には、鉢から出して土ごと捨てられたアロエの塊が、その場で妙に強靭に繁っていた。尖った葉の間で、先端に派手なオレンジを滲ませて花の蕾が伸び出している。秋の虫もどこかにいる。金属的に震える高い音が、意外と大きく響く。
ガード下を形作る橋脚は落書きだらけだった。自分のものではない建造物や品物へ、勝手にペイントをするのは器物損壊の犯罪だ。落書きも当然バンダリズムで、見つかれば取り締まられる。けれどここは両側を道路が挟み、道に面したフェンスにはそれぞれ切れ目がある。表と裏、どちらの道路へも出られる。もし、片方の道へパトカーが見えたら、反対へ走ればいい。
多分それが理由で、壁はいつでも誰かから鬱憤をぶちまけられていた。使われるのはスプレーやペンキに限らない。フェルトペンやボールペン、シャーペンらしき筆記具さえ、色の少ない隙間を狙って黒色の跡を残す。
グラフィティの中でも手早く書ける、グループや書き手のサインみたいな「タグ」もある。だが、それ以外の落書きも多い。誰かの名前、相合い傘、「誰それ参上!」という子どもじみた主張。卑猥な単語や、下手くそな絵。書き殴られた暴言もある。言葉にも、形にもなっていない、グシャグシャと塗り潰しただけの部分もたくさんある。
汚れ放題の壁へのさらなる落書きを、器物破損の違法行為だと真面目に認識した上で、敢えての主張としてやっている奴はほとんどいないだろう。「大好き」「Kiss」なんてバカっぽい文字が、稚拙で乱雑な「死ね」とか「殺す」の言葉と同じように汚くせめぎ合い、消しあっている壁を見て想像する。自分はまだ未完成だから、可能性が他にも何かあるんじゃないか。そんな風に考えて密かに燻り、煮詰まり、もがいている大人未満が未熟な筆跡で描いたんだろうか。こんな場所でも、落書きするのが「良くない」ことだとはわかっていて、だからこそわざとラインをはみ出す感覚で「悪い」ことをしたい、と思って。後ろめたさとスリルと、自分も知らない自分の可能性への期待を感じながら、人目のないのをいいことに少し落書きする。だけど描いた結果は? 思ったよりもずっとずっと見栄えせず、何かを成し遂げたという感覚にもならず、自分の描いたものを見直してもきっと、他の落書きと同じように「汚い」と思うはずだ。期待したような、道を外れない「普通」の人達とは違う特別に素晴らしい自分、などは見つからない。それでもやっぱり落書きのある壁を見れば、もがくように、手探るように、手近な塗料で自分の痕跡をのたくらせたくなるんだろう。僕のように。
前回のグラフィティは、まだ残っていた。だが、上から黒いスプレーで誰かのタグが描かれている。AやらZやら入っていてもなんとも読みきれないタグは、僕の描いたものを否定し、破壊することで、今度はタグの書き手の存在を手軽に誇示しようと狙っている。
僕は白いスプレーで描く。すると翌晩かその次の晩には、黒くて雑な落書きが白地の上で嬉々として暴れる。たまに、アオさんがこのタグの主じゃないか、なんて妄想もしてしまう。
上から新しく描くと決め、スカジャンのポケットのマスクを出して着けた。使い捨てでも一応、塗装作業に適切なフィルターだと謳っている品だ。バッグから汚れた手袋を出して嵌め、スプレー缶も出す。
描くのはまだ、借り物の言葉だった。「いいな」と思った短い何か。例えばアインシュタインが相対性理論から導いた方程式の、「E=mc²」。小さなものにも膨大なエネルギーが秘められていることを表すのだそうだ。他には創世記の「光あれ」。だがそれは思った以上に眩しすぎて、描いた後で手痛い思いに駆られた。文字の形も借り物だ。ネットの画像検索中に「素敵だ」と感じた字体をスクショする。それを言葉に合わせて引っ張り出し、見様見真似でレタリングする。
時間はかかっても、数秒の殴り書きで完成するタグや、スカスカとデカく膨らんでいるだけの「スローアップ」より美しい。けれどそれも結局は自己満足で、上からすぐに汚される。僕が描こうが誰が描こうが、ここでは上になり下になり、全てが「汚す側」、全てが同じ一括りの「落書き」だ。よくわかっている。キース・ヘリングやバンクシーの後続になりたいなんてわけでもない。ただ、描かないのなら他にどうして、未明までの時間を過ごせばいいのかを知らない。
使うのは白だから、それを目立たせる黒が先だ。既にある落書きと、壊された僕の古いグラフィティを黒く塗り込め、くっきりと輪郭を引いてナワバリを決める。その後を白くまっさらに塗る。より白くするため、最後の陰影に少し灰色を足す。そっけない街灯の光や夜の暗さの中では、色よりも明暗がビビッドだ。
そうしながら僕はずっと、借り物じゃない僕の言葉を欲している。肚の底からの、僕そのものの言葉を。ハルが見た途端に僕だとわかるほどの言葉。妄想の中のアオさんが、上からタギングするのを自然に止めてしまう白いグラフィティ。
誰かが来たら素早く逃げ出せるよう耳をすませ神経を尖らし、注意を周りへ振り向けながらスプレー缶を振る。攪拌玉がカチカチと音を立てる。噴射音が静かに続く。これが今の、僕という虫のか細い声だ。まだ言葉を見つけない僕の「声」は、空き地で鳴き続ける虫の声と、混ざるでもなく響く。
(おわり)
白のグラフィティ
2022年12月作。