五分間下克上

 小さな麻痺銃をこちらへ向け、男は問う。
「狙いは命か」
 公表データによると五十代半ば。だが、手入れの行き届いた髪と肌、金のかかった健康体に最上級の仕立て服が決まり、四十の私より若く見える。
 私は施設メンテナンスのスタッフ姿だ。冴えないのっぺりデザインの制服は使い捨てのペラペラ素材で、脅威になり得る何も隠していないことが一目でわかる作りになっている。
 この場の見た目は、むしろ滑稽なぐらいだろう。せっかく人間のワーカーを排して美しくデザインされたAI制御の執務室に、私はお掃除オバさんの格好で侵入中だ。凶器どころかモップやホウキさえ持っていない。丸腰の私に、相手は護身武器を突きつける。それでも彼の方がよほど追い詰められ、緊迫している様子だった。
「お気の毒に。そんなにも命を狙われる心当たりがおありなんですね」
 つい余計なことを言うと、
『ちょっとぉ? ピーペ先生ェ〜!』
 イヤーカフ型のマイクロホンからクオンの声が叱る。
「命は結構ですよ。人の命は盗らないポリシーですから。私は武器も携行しません」
 男の背後に外界が見える。壁一面を使ったクリスタルの展望窓へ夕刻の明るい世界がずっと広がっている。きらびやかな都会も、びっしり建て並べられた中層の街も、切り絵めいて連なり、まるで幻想装飾だ。下層の街はさらに遥かかなた、ピンクがかった靄の中、灰色の土台となり茫漠としている。
 わかるはずがない、ここからでは。
 広々とした床は柔らかく音を吸収し、空気は澄んで快適な温湿度を保つ。巨大な窓から入る西日は、適度な明るさと熱さに遮光調整されている。
 男が動く。優雅な香りがふわっと届いた。香水よりも深く複雑な、耽溺したいほど良い香りだ。衣服、あるいは体自体に、凝った香を焚きしめてでもいるのか。
 あちらの景色の中へ沈めば、鼻をつくのはゴミ、油、排泄物、死骸、溝泥、人体の発するあらゆる悪臭だ。あるいは工場からの金属や化学薬品の匂い、舗装路の粉塵、排気ガス。不快な温度の空気は苦い味付きで、騒音に震えている。
 止まない騒音の中、人声にも気付くかもしれない。病んで死に瀕する年寄の呻き声、先天的に障害や重病を持ち大半は成人できないと決まっている子どもの泣き声。死んで生まれる赤子だけが泣かない。嬌声、悲鳴、怒声。生物も無生物も、少しでも力があれば叫び喚いて余命を空費する。
 意味のある、役に立つものなどほとんど置かれていないにも関わらず、空間は行き場のない余計なもので埋まっている。密集し折り重なりひしめき合う物体と生き物と、何ともつかないものとの間にあるのは不揃いで不快な隙間ばかりだ。その隙間を縫って雨水や不潔な生物、悪臭に騒音が忍び込み染み入って、増えてゆく。
 貧困は見えない手で、最底辺の街を逃さず抱きしめ続けている。醜い朝、耐えがたい昼にやかましい夜が継がれ、ひたすら繰り返す。
 そんなこと、すっきりと静かで良い香りの、がらんどうなほど贅沢に空間のある広やかなここから、少しでもわかるはずはない。
「どういうことだ」
 銃を突き出し問い質され、私は微笑んだ。他に適当な表情もない。
 タワー上層で支配する者達への不満はたっぷり、いつでも持て余すぐらいには持ってきた。だが、最高の地位にある男と対峙し、覚えたのは大半、軽蔑まじりの無関心だ。残りわずかの部分では「気の毒に」と感じる。そう感じたからといって、身を削って彼の幸せのために何かをしたいと思うほど、心からの同情をしているわけでもない。単に、路上で生き物の骸を見つけた時、感じるぐらいの「気の毒に」を私は、誰に対してでも持ち合わせるだけだろう。
「この部屋の全機能を管理しているAIは現在、私の仲間の制圧下にあります。部屋の開口部(スリット)が私のために開いたように、侵入者への防衛装置、攻撃装置も、今なら私ではなくあなたに向かって作動する。おわかりのはず」
 爪まで綺麗に手入れされた手が揺らぐ。本来、私のような侵入者相手に、ではなく誰が相手であろうとも、「人を撃つ」からといって生まれつきの上層民でずっと支配層にいる彼のような人物が、麻痺銃発射を躊躇するわけもない。そうではなく、操作レバーを有効な幅分、動かすまでの一刹那でも、部屋のAIによる対抗措置の方が早いと自明だからだ。彼は護身武器を使えず、ただ私に突きつける。そろそろ、腕を下ろさせてあげよう。
「銃を置き、どの端末からでもいいのでパスコードを入れてください。全権の行使者として登録されているあなたのIDを、私のIDへと書き換え、私があなたと入れ替わります」
「馬鹿な!」
 失笑したのだろうが、冷たい印象の顔はひきつれた程度だ。
「お前は中層民の労働者だろう? そんな者のIDは、入力したって意味がない。頭から弾かれる。何よりこの部屋の制御は五分もすれば復帰する」
「その五分で充分なのですよ。実を言えばあなたがパスコードを入れなくても、数分余計にかかるだけで全権は結局、私に移譲されます」
 思わず頭を斜(はす)にした。全て部屋の防犯映像を通して見ているクオンが、またもカフのホン越しに
『ちょ、先生(センセェ)! 格好つけすぎぃ』
 と笑う。余計な半畳を入れられている場合ではない。
「本日は、天下をいただくために参上しました。ちなみにこの、メンテナンススタッフの制服は今日だけの借り物です。私は真面目な働き手達よりも、ずっと下層から参りましたので」
 手首に認識コードの刺青も、手の甲にIDチップの埋め込みもない手を片方、はっきり差し出し挨拶した。
「はじめまして、私は怪盗ピーペ。金持ちからしか盗らず、どなたからでも命は盗らない。ここ十年ほどは、最下層でも多少、知られるようになりました泥棒です。どうぞよろしく……大統領」
 残念ながら、そしてまぁ当然かもしれないが、相手は握手を返すための手を出す素振りも見せなかった。

 計画が持ち上がったのは、実行の前々夜だ。私たちは電気屋の店内でそれぞれ、建物と負けず劣らず廃物寸前の、傾き軋む椅子に座を占めていた。
 私、電気屋クオン、それから私が昼間、弾みで拾った厄介な人物。
 室内は三人入れば、もう身動き取れないと言って良かった。他の場所はすっかり埋まっている。大型のものから細かな部品、ここできっちり詰め込まれているかと思えばあちらは乱雑に溢れ出し、棚に床にその隙間に、所構わず積み上がったあらゆるサイズのダンボール箱。何世代前の型遅れか、いつまでも同じ棚へ根を生やしている、嵩高さと威圧感だけは一丁前の筐体の群れ。壁からも棚からもケーブルだのコードだのが野放図な蔦のように下がり、あるいは床で重たく硬くトグロを巻く。モニターだの豆球だの何の用をなしているのか私にはわからない無数の機器だのが壁や棚、低い天井に重なり合って取り付けられ、うすぼんやり発光したり、チカチカ瞬いては間接照明を増やす。それとも、ある限り最も貧相なイルミネーションの振りでもしたいと願いつつ、薄汚れた狭い場所を賑やかしているのか。
「とりあえず、飯にすっかぁー!」
 口を切ったのはクオンで、言いながらももう、近所の中華飯屋でテイクアウトしてきた箱の一つを開いた。状況がわかっていないのではと疑いたくなるほど明るい声だ。
「食事の後はこの人をどうにかしないと。警邏隊の詰所に置い、いやお送りしてくるのが妥当でしょうか?」
 私の言葉は無視して、
「それ何。炒飯? へぇ、こういう『下層飯』の、リアルのやつって初めて見るよ。フリットは? 魚? ふーん、どこの養殖池由来? 違う? じゃあ合成? 産地情報のコード見れば分かるか。あ、そうだ悪いけど読み取り機も貸してくれる?」
 問題の男が聞き苦しい早口で尋ねる。聞きたいことしか聞かない自由があり、要求すればすぐ叶えられることに慣れ、無条件で世話されるのも当然だと思っている、如何にも自然な上層階級の口振りだ。それ以上に、なんとなく癪に障る態度が全体にある。だが、ここまで成人しているからには、それも出自以上に本人が選び育ててきた持ち味だろう。
「やーだなー、情報コードなんてないっすよ、コレ、天然ですよ! っていうかデスさんも別の意味で天然ですねー!」
 普段ならば近寄らず関わらずを通し、しかし敵視し軽蔑もし、酒でも入れば気の向くまま悪様に罵る対象のはずの上層市民だ。それがまさに目の前の相手だというのに、クオンの軽やかな受け答えは私相手の時と変わらない。丸い顔の中、糸のように細い目をさらに細めて笑っている。
 彼女は食事の紙箱を次々と開き、一つの箱の中身を他の箱へ半分以上移して作った隙間へ他の箱からあれを少し、これを少しと盛り合わせた。自分用、私用と作っておいて、同じものをデスにも渡す。顔でもしかめて拒絶するかと思いきや、青年は興味津々、使い捨ての竹箸を掴み食事を覗き込んだ。
「え、まさか魚、海から獲ってきたってこと? じゃなくても川とか湖とか沼とか? 重金属に環境ホルモン、マイクロプラスチックの有害化学物質とか思いっきり生体濃縮してるってことじゃないのそれ」
「だっからぁ。そんなの当たり前でしょー? 待って待って。このソースにね、除染剤入ってるから。全部これかけて食うんすよ。だぁいじょうぶ旨いよぉ! 食べ物はねぇ、ちょっと毒なぐらいの方が美味いんですって!」
「うーわ、調味料の色、本気でヤバイな! うっわー。見た目えっぐい。あっ、でも味はイケる。へぇ、意外。信じ難いけどかなり僕好みだよ。ジャンク好きなんだよね。あっちではガッツリしたのあんまり手に入んなくてさ。冗談抜きで、こんなの毎回食べてるわけ? 羨ましいな……じゃないか、本当にこれ解毒効いてるの、僕、今夜中に死なない? てかむしろ君たちよくみんな生きてるね。でもうっま。最高じゃん。まさかの、リアルに別世界へ転生してしまった感覚。夢とかではあるあるだけどさ、大概、夢って味はしないじゃん、食べる前に醒めちゃうことも多いしさ。え、本気でテンションぶち上がる。あっ、そうほら、丁度あれみたい、知ってる? 伝説の廃墟ダンジョン攻略ゲームのさ……」
「あーっ! さてはあれでしょ? いっやー、趣味が渋いわぁデスさん! ん、でも待ってよ世代、微妙にズレませんか、リアルタイムでやってたら相当、ガキンチョの時ってことになりますよねぇ。五歳ぐらいかナ? 天才だとゲーム操作なんて全然余裕なんすか? あ、じゃなくて、そっか上級の選民様だから。もしかして見た目年齢ほとんど歳取らないとか? あのゲームねー! えぇっと大体十五年前だっけ、幻の。あ、でもでもなんと、うちまだ未開封パッケージあるんっすよ〜! マニア用のニッチな珍品、コレクターズ用にって先代が勝手に仕入れ過ぎてさぁ。動作確認しなきゃだけど多分、使えるのあるよ。あん時はこのクソ親父ってボルテージ上がってうっかりマジギレバトルやらかしてしばらく商売休みになっちゃったんだよなぁ。ついにここで、拾う神現る! へっへ、旦那〜。お買い上げならお安くしときますぜ〜」
「まっ、マジで! 売ってくれるの、それは是非!」
 油に漬かった米飯やビビッドな調味液塗れのフライを平気でどんどん口へ運び、クオンもデスも十年来の友人かのように盛り上がっていた。話には正直ついていけないが、黙って二人が仲良くなるのに任せたところで事態はいっかな好転しないと逆に確信する。まだ食事に手をつけていない私を気遣い、クオンが瓶詰めの飲料を渡してきたところで、私は口を開いた。
「デス君。慣れていないものなら、あまり食べない方がいいですよ。死なないまでも、下痢や嘔吐で苦しむ可能性があります。仮に今すぐどうこうならなくても、確実に身体には良くないんですから」
「えー、でも、お腹減ってるし。大丈夫、美味しいよ」
 オイリーでスパイシーで危険な食物がお気に召してしまったのか、箱を離さず文句を言っている。
「美味しいことは安全を保証するものではありません」
「いいから遠慮せずピーペちゃんも食べなよ」
「遠慮する理由はありませんよ私がお代を払っているんです」
 やりとり中にクオンが吹き出し、慌てて自分の口の周りを拭った。
「ちょっとデスさぁん! ピーペさんのこと『ちゃん』付けするヤツなんてここらにはいないんっすよ! 時々海賊機の用心棒してるところから『旦那』とか、手練れの泥棒だからって理由で『先生』って呼ぶ人は多いけど。最低でも『ピーペさん』とお呼びなせぇ」
 ズレた注意をしているが、
「呼び方はどうでもいいんです、この際」
 遮ると、クオンはより一層破顔する。
「まぁまぁ、焦りなさんなって、ピーペ先生! 腹が減っては、ってヤツっすよー。食べてから動いても、今更そんな変わんないって。でも今回は本気でビビったわー、いかに先生とはいえ『猿人(サルート)』の“商品”をネコババするとはねぇ。今までのポリシーが大崩壊しないっすか? あいつらとは、胸糞悪いから絶対関わりたくないし、関わらない! ってずっと言ってたと思うんすけどー」
「その通りです。全てはずみで、不本意です」
 蘇る苦々しい気持ちに、大きな息が出てしまう。人身売買組織とは全く関わりたくなかった。実際、関わらずに済むよう立ち回れないこともなかったのではないか、と後知恵が責めてくる。
 用心棒仕事を終えた帰り道、ねぐら近くまで来たところ、通りで突然火柱になった若い男の叫びが響き渡って、その声に驚き冷静さを失ったから……というのは自分に吐こうとしているだけの嘘だろう。上着を脱ぎ、明るく燃える人体に被せて地面に突き転ばし、火が消えるまで容赦無くゴロゴロ転がして命を救った、その行動は一応「落ち着いており適切」と自己評価できる。そこで満足して撤退すれば完璧だった。
 その時点でも、合理的思考はそう判断していたはずだ。見るからに下層でも中層でもない青年。立派な骨格に頼りない肉付き、青白い肌に邪魔過ぎるほど長く渦巻く黒髪を結びもしないで垂らし、顔はといえば病んだ風ながらもギョッとするほどの美貌。周りで「猿人」の下っ端が、棲家から炙り出された害虫の如く走り回っていなかったとしても、厄介の種だなんて見ただけでわかる。何か気になるからといって、そこに放置できないほどではなかったはず。
「そうだよ放っといてくれて良かったのにさ」
 腹の立つことに、生意気なお荷物は今になって言葉を挟んだ。
「……放っておいたらあなたは今頃、焼死体になって処分場の穴の底です。さらに、下手をすればこの辺一帯まで大火事になっていたかもしれないんですよ」
「だからさ、一回、説明したじゃん! 大丈夫だってあの揮発性物質なら、体の周りでは派手に燃えるけど炎の中にいる僕は無事なはずでさ。悪漢どもが逃げた頃に燃料は燃え尽きる。そこで僕一人、悠々と退場する予定だったんだ」
 恐れげもなく言い返すデスと私を見比べ、クオンは変わらぬ菩薩の微笑を浮かべつつも内心、ハラハラしているようだ。口はクチャクチャ食べ続けていても、さっきまで軽快に動いていた使い捨てフォークのスピードが見るからに落ちている。
「その計画もどうせ全部、ゲームやVR内で得た知識だけで組んだんじゃないんですか? 炎がどう熱いとも、その邪魔な長髪が燃えるものだとも理解していなくて、中央塔(コート・タワー)まで届きそうな悲鳴を上げていた人がいましたね。あの場であんなバカな火遊びをしていた人は、あなたの他には見当たらなかったのですが」
 抑えきれずに皮肉を吐くと、
「っていうか。何事にも初めてはあるんだから、そこは仕方ないって。ちゃんと織り込んで理解して欲しいよなぁ。燃焼のシミュレーションに関しては独自にやってたよ。あれは計算上、大丈夫だったんだって」
 まだボソボソと言い募った。そして竹箸でまた、毒々しい食べ物を一つ口へ運ぶ。
 どう考えても、彼のことは火だけ消して、その場に置いてくるのが正解だったのだ。「猿人」の下っ端が私を全く見分けなかったというあり得ない仮定をしたとしても、まだ無数の通行人が目撃していた。そのうちの何人かはデスの不出来なファイア・ショウを動画や静止画に記録し、なんらかのネタに使って小遣い稼ぎするはずだ。つまり人身売買組織の幹部には今頃、誰が貴重な“商品”を横取りしたのかまで分かっているだろう。
 それなのに私は、彼を連れて逃げ、隠れ家近くのドヤ街でコインシャワーにまで入れてやり、手近なジャンク屋に飛び込み身を覆うのに足りるだけの古着と靴、下着や靴下に至るまで一式買ってやっていた。何しろ“商品”として輸送中だった彼は、盗み出された後のIDチップ摘出手術後、全裸に患者服一枚の姿のままモビルのトランクに詰められていたのだし、しかもその服を炎上させてしまっていた。消火のために被せた私の上着も当然、焦げて使い物にならなくなったため、「こちらの上着を脱いで羽織らせる」ことももう一度はできなかったのだ。
 そして今は大事なアジトの一つ電気屋へと伴って、晩飯まで与えている。そろそろ普段のピーペに戻る時間だ。手っ取り早いところでは、最寄りの交番にでも本人を「迷子になりました」と出頭させるとか。落ち着ける場所に座り、安心できる馴染みの相手、クオンを見ていると、ようやく心も頭も普段並みになってくる気がした。
「先生〜、とにかく飯をお上がりよ〜」
 クオンが再度、食事に注意を向けさせようとする。
「本当にどうかしてましたよ。ここからは軌道修正しないと」
 クオンに言い、飲料の詰めを外しつつ、次の手を思い巡らせる。ジュースといっても上等な天然果汁などではない、スパイスを混ぜた甘ったるい砂糖水だ。それでもクオンが選んで渡してくれたのは、私好みの一品ではあった。
 デスには、さっさと本来の居場所、確実に上層だろうが、そこへ戻らせてからまとまった額を送金させよう。充分な金を手に入れた後で「猿人」に詫び料――などというのも筋違いであり本音では全く謝りたくもないのだが、それでもトラブルを避けるため、ご機嫌取りの金子を少々届ける。その際「私こそあんた方の“輸送”の不手際に巻き込まれたのだ」と、多少は強硬に出てもいいかもしれない。“商品”になるはずの“荷物”を失くさせたのはこちらのせいではない、そちらの過失だ、と納得させて賠償額を値切るのだ。次善の策としてはそんなところか。
 とにかく、私は金持ちからいただくのが身上で、見知らぬ上層民に何であれ差し上げるようには生きていない。絶対だ。それが今日は、上物の上着をダメにしただけでは足りなかったとでもいうのか。
 コインシャワーで青年が自分の長い髪を、誇張でも皮肉でもなく本当に自分では満足に洗えないでいたため、見かねて手伝い、洗ってしまった。洗髪にあれだけのコインと時間と労力を費やしたのは、生涯初めての経験だ。私も着衣で狭いシャワーブースに入り込まねばならず、必然、ずぶ濡れになり、着替え直す羽目にもなった。洗髪後、これまたコイン式のドライヤーをオーバーヒートで故障寸前になるまで当てたものの、彼の髪が長過ぎる故に結局、生乾きだ。今も湿り気のためか、巻きも艶も随分と派手に見える。
「でも、洗ってもらったのは気持ち良かった。またやって欲しい。今度はピーペちゃんも服、始めから脱いで一緒に入ってよ」
 どうしてだか、同じような経緯を思い出していたらしいデスがとんでもないことを口にした。
「えっ、脱いで一緒に入って洗ってあげたんっすかっ?! ……どこを?」
 クオンが頓狂な声を発する。
「脱ぎません。手伝ったのは頭だけです。服がビシャビシャになりました」
「だから僕がピーペちゃんの服も脱がせてあげようとしたら、いきなり指をむっちゃくちゃ捻られてさ。酷いと思う。すっごく痛かった。心得のない一般人にああいうプロ的な技を使うのって禁止じゃないの? しかも僕みたいな非力、かつ友好的な相手に対してさ。あんなの虐待じゃない?」
 彼は「善意の手伝いのつもりでもいきなり他人の服に手をかけて乱そうとするのは推奨されないマナーで、場合によっては犯罪です」などとは教わったこともないらしい。むしろ自分が裸でも隠すそぶりもなかった。裸を晒すことへの抵抗感がまるでない世界で生きているということなのか。ともかく、シャワーブースで突然「思いついた」とばかりハッとした顔を見せた後、無知な子ども同然に、当たり前の顔でこちらの服を剥ぎにきた。咄嗟に指を捻り上げると、今度は痛みにも、そういった扱いを受けることにも全く耐性がなかったらしく大声でわぁわぁ泣き始めた。収拾のつかなさに、こっちが危うく挫けかけ、全部投げ出して逃げたい気持ちになったぐらいだ。
 その後、どうにかこうにか洗い進める間も彼は不貞腐れて動こうとせず、されるがままの状態でひたすらぐずぐず泣いていた。しかし全て洗い上げ乾かす頃になると、泣いてスッキリしたのか私に可能な限りの手間をかけたことで気が済んだのか、けろりとして図々しくも「何かシャワー後に相応しい、美味しい飲み物」を要求した。大の男が大泣きする声で周辺に野次馬でも集(たか)っていたらどうしようかと、シャワーを出るまで私は冷や汗をかいていたというのに。
 デスは、こうして話している分には憎たらしいぐらい口達者に見える。しかし完全に大人だと思って相手するにはそこかしこで危うい。厄介と言って余りある。
 クオンが、もうほとんど空になった飯の紙箱の上でフォークを振って取りなし、
「でもデスさん、ピーペさんに助けてもらえてラッキーだったっすよ。どこに売られてもいずれ劣らず最悪だったでしょうし。最悪のバリエーションだけは豊富ですからね、最下層ってやつぁねぇ! でも、だからって逃げ出すため、そのまんまの意味で自分に火をつけても。ほぼほぼ、そこでお陀仏でしたよ。『猿人』の下っ端には、困ったらとにかく撃つ、みたいな単細胞もいるんすよぉ。全身炎に包まれたって話だったけど、先生の消し方が良かったんだか、白いお肌に火傷もなしで。綺麗なお髪(ぐし)も先っちょがちょっとチリチリしたぐらいじゃないっすか? ああ、巻き毛は元からですよね、あたしと一緒だわぁ!」
 などと言っている。
 確かに、二人とも先天的な巻き毛だった。だが、クオンの細かなカーリーヘアはお世辞にも綺麗とは言えず、住環境の塵芥を吸い取る毛玉、色の悪い弱々しいアフロと化して、彼女の丸く大きな顔をかなり貧弱に縁取っている。他方、拾い物上層青年のそれは、艶々と豊かに波打ち流れ落ち、床まで届いてなお余る。まだ若干は湿っていそうな、渦を巻き捻れうねるウェーブが黒い炎の滝とでも言いたい見事さだ。豆球やディスプレイモニターの弱い光さえ漆黒の流れは捉え、星の光めいて反射させていた。
 そういえば、食べ物でもそうだ、と急に思い当たる。デスの持っている食事容器もそろそろ空っぽになる。だが、クオンの騒々しい食べ方に比べ彼の方は、大口を開けて掻き込んでいた時でもクチャクチャもぐもぐいう音が聞こえなかった。食後の容器も、竹箸でさえも、妙に見た目が小綺麗だ。私たちならどう繕っても出てしまう地金が、彼の場合は剥がれるメッキもない、芯までやんごとない貴金属、ということか。やはりデスは異物であり、ここでは異質だった。
「早く、安全確実なやり方で、デス君を元いたところへ戻さなければ」
 上層ではデスに関係のある誰かが既に都市警察へ捜索願いを出しているだろうし、「猿人」も逃げた“人荷”を取り戻そうと躍起で探し回っているだろう。私としては、どちらとも面突き合わせたい相手ではない。となると、デスを下層の人間では手の届かないところへ厄介払いしておいて、私は彼と出会ってもいないことにし、何もかも知らないふりで熱(ほとぼ)りが冷めるまで姿を隠し逃げ通す。それしかないと思いながら言った途端、
「あ、それ無理」
 神経を逆撫でするあっさり具合と冷たい表情で、本人が宣った。なんだと、と目を怒らせて見返ったけれど、青年は動じもせずヘラヘラと話を続ける。
「人身売買の“商品”用に、騙されて連れ出されたとは言ってもさぁ。僕としては完全に、上層どころかこの街からも、脱出するつもりで用意したんだよ」
「戻りたくない、ということですか?」
「違う……じゃなくてそれも、全くないことはないけども。そうじゃなくて、IDを消して来たの」
「チップを摘出されたことなら、戻って紛失届でも出して、代わりを埋めて貰えば済むんでしょう」
「違うって。僕のデータ全部、中央(タワー)に管理されてるやつ自分で消してから、僕は外へ出てきたんだよ」
 一瞬、狭い店内を沈黙が支配した。常に止むことのない外の喧騒さえ、私達の意識からは数秒間遠のいた。
「……不可能では」
 溢してしまった驚愕の呟きが、
「ヤッベ! マジでガチでブチ大天才っすね! デスさんパネェ!」
 クオンの歓声で吹き飛ばされる。
「上層の市民はIDチップさえ、手とか足だと万一切断して盗まれたらヤベーからって、胴体や頭に埋められるんっすよね? だからデスさんを盗むに当たっては、『猿人』がお抱えの闇医者に手術でチップ摘出させるお決まりの流れだったんでしょうけど。え、じゃあそーんな原始的なことしなくてもよかったんじゃね? データ自体を消せるんっすか! 中央が管理してる元データいじれるなんて、ありえん無敵能力じゃないすか〜。そんならデスさんさえいれば、上層でも中・下層でも認識記号で管理されてる誰のデータでも消しちゃって、盗み出し放題ってことに……!」
 言葉を受け、デスは頷く。
「データ、消すだけじゃなくて、書くのもできるよ。書き換えるのもできる。素材と時間は必要だけど、ゼロから人間一人分、丸々作るとかもできるよ。誰かと誰かのIDをそっくり交換して人生丸ごと入れ替わり、ってのも可能。全部、僕がその気になったらって条件は付くけど。だから常時監視状態で閉じ込められてたんだし、一生そのまま飼い殺し確定ルートってわかってるから逃げ出そうとしたんだ」
「もしかして、まさかそんなことはないとは思いますが……あなたは中央のID管理システムを作った人達の誰かとお知り合いだったり、一緒に働いていたりしたのですか?」
 用心して言い出した問いにも、彼は無造作に
「じゃなく、僕が全部構築した。あれだよね、昔の歴史とか神話でさぁ、難攻不落の砦を作れって言われて作ったら、攻略法を他に漏らされると困るからって設計者や大工が口封じに殺されるのお決まりのパターンじゃない。で、こっちとしてもそれは分かるけど、システムに今後のメンテいらないんですか、ってのは出来上がった時に尋ねたわけ。散々、会議したりAIにもシミュレーションさせたっぽいけど結局『要る』って答えがまぁ当然出てきて。だから僕は殺されまではしなかった。代わりにサクッと幽閉されたってとこ」
 と答える。
「それはまた……」
 とんでもない“人財”らしい、と舌を巻く。しかし
「その後、不具合対応できる人がいなかったとしても、支配側に立って考えるなら安全のためには、確実にデス君の口封じをしておくべきでしたね」
 思わず言ってしまったため、デスは「ひっど、マジで言ってる? 殺せって?」と傷ついた顔で私を睨んだ。長い睫毛にまた涙まで溜めている。かと思うと「あ、でもいいことがあった!」と急に表情を明るくした。
「ねぇクオっちって、電気屋さんの仕事の都合とかで上層の街やコート・タワーに出入りできるパスが欲しい、なんてことある? あるなら、君に埋まってるチップのデータ、チョチョッと書き直してあげてもいいよ。そしたら中層や上層でも取引できて、今より多分、儲かるんじゃない? それぐらい簡単だし。今からレトロゲーム色々見せて貰えるんなら、お礼にさ」
「ま! ……っじで!」
 一語を分割し間を置いて力強く驚き、その後、クオンは沈黙してしまった。事態の深刻さと、デスの存在が「ヤバイ」の一言程度では表現しきれない危険度だということに、彼女も実感を持ったようだ。
「私は何をボヤッとしていたのか。もっと早く気付いても良かったです。『猿人』があなたのような若い男性を“商品”にしようとするなんて、ちょっとおかしなことだ、とは思ったのに」
 思ったより彼の始末に振り回され、思考停止していたのだろう。デスはおそらく二十代前半、鍛えておらずひ弱そうな体ではあっても充分に健康、容貌は奇妙にホラーじみているけれど印象的な美しさであることは否定できない。それらは見れば分かる。ただし、「若く健康体で美しいから」程度のことでは、上層の市民を拐って売り飛ばしてもリスクの方が大きく、大損になるはずだ。上層市民に対する犯罪となると、下層の居住区がいくつ潰れようと知ったことではないという勢いで、警察や都市軍は捜査と名の付くあらゆる暴力を振るってくる。
 生まれ育ちの良い美青年を奴隷にしたいと、特に求める買主もいなくはないだろうが、性的搾取も含めた労働を搾取する対象としては中・下層の女性や子どもを主に狙うのが人身売買組織だ。それから、兵士にするため、軍部と取引して下層の若い男を狩り集めることもこの頃は増えているようだ。しかし、身代金を取るための人質とか、政敵の依頼でライバルを誘拐するなどの特殊な条件で「確実に儲かる」のでなければ、彼らが上層の成人男性をターゲットにすることは稀だった。ところがデスの場合、出会った時点でチップを摘出し売り飛ばす準備は整っていた。人質ではなく明確に“商品”の扱いだ。どうやら、誘き出し手術し、モビルに詰め込むまでは最下層の悪漢グループの仕事でも、依頼主がもっと別にいるケースだろう。もしかすると最終的に彼は、中央塔(コート・タワー)の支配層が「敵国」とみなし開戦準備を進めているその「敵側」からの依頼で拐われ、そちらへ“密輸出”される予定だったのではないだろうか。今の話を聞いてそんなことも考える。
「しかしあの下っ端達は、あなたの能力や技術をどこまで分かった上で、あなたを拐おうとしたんでしょうかねぇ」
 呆れずにいられない。彼の値打ちや依頼人、あるいは“出荷先”をある程度でも知っていたとするなら、輸送も警護も杜撰過ぎた。デスが勝手に“荷物”をやめて、脱走して人体発火実験をやらかすぐらい隙だらけだったのだ。盗んだものの値打ちをわかっていないにも程がある。
「だって、まるで『これは王国の鍵』……デス君さえ協力してくれれば、この都市の誰にでも成り代われる、ということでしょう。IDで管理されたあらゆる認証は、生体認証まで含めて意味がなくなる。登録自体を書き換えられるのなら、私が銀行の頭取にでも刑務所の所長にでも、演技や変装の必要もなくこの場にこうして座ったままで成り代われてしまう。誰の預金でも引き出し放題で、誰の名前でも契約できる。まるで全部の扉を開けられる万能鍵を手に入れたも同然だ」
 数えていけば、私の声に欲望を聞き取ったのか、デスはこちらへ不気味寄りの美貌を向けた。満月のような黄色い瞳が急に意地悪そうに光る。
「へぇ、君が泥棒っての、本当なんだね。スペシャルマスターキーがあったらやっぱり素直に欲しいんだ? でも残念〜。『誰のデータでも』いじったり書き換えたりできるわけじゃないから。『この都市の誰にでも』成り代われる、なんてわけにはいかないよ。例えばピーペちゃんみたいな、ID付いてない、チップ埋まってない人のデータは『無い』わけなんで、書き換えたり取り替えたりもできませーん」
「チップが埋まっていないような登録外、市民外の人間に成り済ましたところでなんの得もありませんから、そんなことは誰も願いませんよ」
 上層の人間はもちろん、中・下層であっても都市に登録された市民ならばIDチップを体に入れていた。税を納め兵役に就くなどの義務がある一方、階層のレベルに応じたケチくさいものながら義務教育を受けたり福祉の手当てを受けることができ、形ばかりなりと選挙権つまり政治に関与できる参政権というものもある。都市内で合法的に労働したり契約を結んだりするにはIDが必須だ。一定の資格を満たすようになれば下層民から「出世」して、上層、中層への出入りや居住もできると謳われている。
 中・下層の市民は手の甲にIDチップを埋めているものが多いが、それを読み取り機にかざすだけで電子マネーを用いた購買活動もでき、医療機関にかかるなどもスムーズにできるようになっていた。一方、手首に刺青のコードがあるのはかなり重罪の前科者で、こちらは行動を監視・追跡する便利のためにIDを付けられている。支配階級は都市の住民を全て番号記号で登録し、便利に管理したい意向だった。チップを埋めた市民からは税の取りはぐれがなく、居場所や状況も常に掴んでいられる。IDで管理される都市住民のことを考える時、いつもなんとなく私は、人に対する措置というより貨幣だとか、情報コードを付けられた商品を連想する。
「そぅお? 僕は、命懸けでも登録外の人になりたかったけどな」
 本人としては言葉の綾だったとしても事実、命懸けで出てきた厄介青年は、なぜか恨みがましげな上目遣いで私を見た。
「に、しても、思ったより目敏いですね。私にIDチップが入っていないと、どうして分かったんです」
 手の甲に埋めるチップは非常に小さく、手術も簡易で目立つ傷痕も残らない。手に痕跡がないからといって、あるかないか見た目だけではわからないはずだが、と気にして尋ねる。だが、デスはなんでもないことのように
「え、だって、ピーペちゃんが今日やってた支払い。全部、具体物のコインか紙幣、じゃなかったら顔パス? 『ツケ』だか『ヅケ』だか、なんか口約束みたいのばっかだったじゃん。この辺でも、どんな崩れかけの廃墟みたいな店でも『電子マネー対応』の表示は出てるのにさ。テクノロジーに置いてかれた可哀想なお年寄りかと思うには、茶化し動画のご老人みたいにヨボヨボもフガフガもしてないし、変だなって」
 と、ズケズケ言った。さらに
「でも、君が泥棒だって分かったら、それも当然過ぎる行動なんだって了解したけどね。ID使って電子決済なんかしたら、君がいつどこで何やってるか、全部、中央(タワー)の元締めAIに筒抜けだ」
 とも付け加え、嬉しそうに含み笑いする。
「で、誰になりたいの」
 彼の一言で今度こそ、狭く薄暗い電気屋の時空間は凍りついた。クオンの、普段は糸ほど細くなって笑っている目が見開かれ、ぐうっと私を見つめる。異様な空気になったのに、
「IDの無い人のIDを書き換える、なんてのは真空中に鉛筆で文字を書くみたいな意味で無理だけどさ。『新たに作ってあげる』ことはできるんだよなぁ」
 屁理屈の謎なぞで大人を出し抜いて喜ぶ子どもそっくり、デスはほくほくと喋り続ける。
「最上層にいるどんな金持ちのでも、権力者のでも。クオっちが材料無制限に貸してくれるんなら僕用に端末作ってさ、それでネットワークに潜り込んで、あとは情報抜いてIDの体裁整える。簡単だろ? この都市で管理してるIDならどれでも、そっくり同じのを君にあげることは可能だよ。まあでもそれだと、データ上全く同じ人間が急に二人いることになっちゃうから、元IDと一緒にオリジナルの本体つまり人間も消さない限り、この先一生成り済ますのは難しいね。短期間だけ成り済ますならその間、オリジナルのデータだけいじるなり消すなりして統括AIを誤魔化し続ける必要がある。ちょっと面倒だな。だったらいっそ、今までこの世に存在しなかった人のID作って、『前々から存在していた』ことにして、それをピーペちゃんだ、ってことにするのはどう。上層市民の誰にも負けない経歴と家柄、許されているVIP待遇の数々、残りの生涯プラスあと何百回もの人生を思いっきり贅沢暮らししてもまだ余る資産総額。悪くないんじゃない?」
 ペラペラと並べられる絵空事、だがデスにとってそれは不可能事ではなく、ただ本当に「できること」の羅列らしい。
 ――力をやろうか。世界が欲しくはないか? 俺の言葉を聞くのなら、お前を地上の王にしてやろう。
 古色蒼然たる誘惑のフレーズは、子ども騙しのフィクションの中でももはや使われないのじゃないか。現実味がなく具体性にも欠ける、イメージだけ壮大な言葉を並べても、真に受ける大人などいない。なのに今、壊れかけの椅子の上で、背の高い体を姿勢悪く丸める不気味な美青年だけは、実は本当に悪魔が人の振りをして訪れたのではないか。不意にそんなことを信じそうになった。一生に一度。私だけに開かれるお伽話(フェアリー・テイル)の国への扉。これはその、王国の鍵……まさかそんなわけがない。
「何故、そんな提案を? ……私に?」
 そう尋ね返すまでに不自然な間が開いたが、デスは気にも留めないようだった。
「えー、だって。他に知り合いいないから。当分、ここに置いてもらうためには、できることで対価の先払い、しとこうかなって。データ上、ピーペちゃんが上層の金持ちってことにするのは簡単だから。それで君が、記憶喪失で都市外を放浪してたけど急に記憶が戻った貴族の末裔、とかなんとか、適当なことでっち上げて上層に潜り込む。旧知の知り合いがいないことなんて全く問題ない。むしろ利用価値高いって思われて、大勢、擦り寄ってくるよ。IDこそが信用されるんだから。黙って立ってれば周りが色々世話焼いて、IDに相応しいあれそれを整えて席を作ってくれるって。上層なんて、そうやってできてるんだからさ。で、落ち着いた頃になったら有り余る口座残高を活用して、僕とかクオっちにたんまり恵んでくれるの。簡単でしょ」
「そう簡単なことには思えませんが。今の話は、そこらの路上で小銭を投げれば見せてもらえる酔っ払い向け人形劇でも、昨今なかなか採用しなさそうなほど、お気楽でメルヘンチックなシナリオに聞こえます」
 私の批評を、しかし彼は「え、そんなシアターあるんだ? 面白そう後で連れてって」とだけ反応し、
「言った通り、僕は前いた場所に戻る気はないし、戻ったところでデータもIDもないから前の生活はできないし、もっと言えば物理的にも戻れない。中央(タワー)、都市中どこからでも目に入るあの馬鹿でかい高層建築の内部でしか暮らしたことないからね。ここからタワーへの行き方もわからない。そもそも都市の居住区はわざと入り組ませてあって、塔が見えるからって見たまま寄っていける作りにはなってないってことを差し引いてもさ」
 淡々と数え、私達の顔を見回した。道がわからないから帰れない、とはこれまた子どものような言い訳だが、表情から見るに、本人は至って本気のようだ。
「あと、なんだかさっき、パトロールか誰かに引き渡して連れてってもらう的なこと話してたじゃない。パトロールのとこへ行っても僕は多分、IDもないし身元も照会できないってなって、不法移民かなんか、そんな扱いで収監されるよね。もし、奇跡的に身元が信用されたとしても、そっちの方がまずくてさ。面倒な事態ごとなかったことにしよう、ってなって上役の指示でこっそり殺されるか、それとも下っ端が私腹を肥やせるって考えてまた盗み出されて、奴隷として売られるとかになるんじゃない。わかんないけど」
 わからないという割に、こちらの予想はかなり正確な線を行っていた。
「それでも、そして何を交換条件に持ち出されても……。あなたのような人を置ける余裕ここには、いいやこの辺のどこにもありませんよ」
 電気屋はもちろん、知り合い全体で考えてもそうだ。
「今日のことで、人身売買組織が私に恨みを持っただろうだけでも面倒なのに、上層の市民を拐ったかどで都市警察や軍から目を付けられたら私が困るだけじゃない。いくらあなたがIDや記録を消してきても、人の記憶までは消せないんですから、これは悪漢が上層市民を拐った上、中央管理のデータまで破壊していった重大事件ということになるはずです」
 ことの深刻さは「関わったら面倒そうな人物をつい弾みで助けてしまった」で終わらないのだと、さっき以上によく分かってきていた。中央塔の管理する都市住民の全データから、デスが自分のものを消して逃げ出した、という想像外の話のせいで、彼の技能に驚きしばらく危機に対する感覚が麻痺したらしい。彼は万能の鍵とか悪魔の誘惑とか、そんな楽しいものではない。災厄の種、破滅の始動スイッチだ。
「あなたの容姿は目立ちますし、外見を多少変えても街頭は監視カメラだらけ。AIが記録と照合できないようにしてきたからといって、人力のチェックも機能せずもうお手上げ、とはならないはずだ。それに、人命がかかっていようが他人のものなら知ったこっちゃないとばかり、情報を小銭目当てに喜んで売る住民の方が多いんです。うっかり連れてきてしまったけれど、あなたがここにいる今の瞬間でさえ、本当はもうダメなぐらい危険なんだ。この上、さらに居座られたらすぐにクオンさん達や私の立ち回り先、ねぐら周辺のご近所もみんな、今までのように暮らせなくなる。最下層の居住区は、捜査の必要上とか治安のためとの口実で、上層市民の無責任な報復感情が薄れるまで何ヶ所も潰されます。分かってください、デス君。あなたという存在はでかい爆弾も同然です。どう考えても、ここらに置き場なんてない」
 当然の理は伝えねば、と思って言い、私は手にした食べ物容器も置いて立ち上がった。ところがデスは座ったまま、また傷付き責める顔でこちらを見た。
「え、じゃあ即行で死ねってこと? 『怪盗ピーペは人の命を盗らない』って、さっきクオっちが自分のことみたいに得意な顔で教えてくれたんだけど。そんなに尊敬されてるのに、せっかくのキャッチフレーズが今日限りで嘘になるね」
「だから! ここで隠れていたって遅かれ早かれの違いしかない。巻き込まれる人間が増えるだけだ。むしろあなたのことだって、できるだけ死なせないで済むように、と考えるから元の場所へ戻して差し上げようとしているんでしょうが! 浄水の中しか知らない魚がドブに逃げ込んだって、生きていけるわけがない」
「戻ったら死ぬ。っていうかあんなとこで飼い殺しに生きてても、それ死んでるのと一緒なんだけど。その辺のこと、さっきからすっごく砕いて説明してんだけどまだわかんないかな、想像力とか一切持ち合わせてないのかな、それかもしかして頭悪い?」
「待ぁって! 待てって、まぁまぁまぁまぁ! お待ちなせぇ!」
 言い合いに突如、クオンが割って入った。私は我に返る。吸い込んだ息はまだ、まずい言葉になって口から出てしまう前だった。見ればデスも、凶悪化していた酷い険相から力を抜き、彼女の方へ視線を動かした。
 クオンはいつもよりも目を開いている。つまりは笑っていないということだが、それでも見てくれの悪い全身からは持ち前の円満な気配が滲んでいた。最下層ではダイヤモンドより貴重な資質で、しかし本人はそれにあまり頓着しない。彼女は、
「ピーペ先生ェ〜。結論を急いじゃいけないよぉ〜。デスさんもあんまり短気起こさずにねぇ。まーまー、二人とも、おまわりや怖いおにいさんが嗅ぎつけてここまで来るには、まだまだ時間あるっすよ! ちょっと情報、付き合わせてみましょうぜー。頭悪いあたしも、もっとよく分かりたいっすわぁ。ほら、先生、お掛けになって!」
 と、空のテイクアウト容器を置いた後の油っぽい丸っこい手を、私とデスへ片方ずつ差し出し、宥める仕草でひらひらさせた。
「あたしの見るところ、先生もデスさんも、お互い探したってそーうは得られない、ドンピシャの当たりくじ引いてると思うんすよぉ。スッゲェなあ、奇跡ってもしかしたらあるのな! なーんて! うっかりあたしまで希望持ちそうだよ。そりゃともかく、ねぇ。先生を助けられるのはデスさんだろうし、デスさんが頼れるのは間違いなくピーペさんっすよ〜」
「何が当たりくじです。頼られても困る。いい加減なことを言って彼の期待を煽るのはやめてくださいよ」
 さっきより声も勢いも低めたが、言い返すのは抑えられない。けれどもクオンは私と目を合わせ、油と香辛料入り解毒液のソースがくっついた自分の唇をちょっと舐めてから、再び口を開いた。
「ねぇ先生。まずあたしにも考え付けるぐらいの簡単なやつで例えばの話、してみるんっすけど。仮に先生が『猿人』のボスに一時、変身して、ですよ。あ、これデータ上ってことですけどねぇ。でも、その状態で、なんかこうパスコード入れないと送れないメールとかデジタル署名付きのなんかとか、信用度高いやり方で幹部達に解散命令出すんっすよ。そしたら組織は混乱して、逃げた“人荷”探しや、関わったかもしれない先生を探し出しての報復なんざ、おちおちやってられなくなるんじゃないすかねぇ」
 のんびりした声音でも、先ほどデスが「IDを書き換えられる」と言った時からそんなことを抜け目なく考えていたのか、と思わせられた。彼女は続ける。
「それで。デスさんの言ってた、同じ人間が二人いるのおかしい、ってとこも逆手に取れるんじゃねぇの? って思ったりして。『偽物の首領がいるぞ!』『どっちが偽物だ』『あっちだ』『いやこっちだ』『両方じゃねぇ?』……なーんてことで。ゴタゴタがデカくなったらナンバーツーやスリー、取引相手やらライバル組織までもがチャンスと見ちゃってさぁ。自分の派閥率いてボスに反乱起こしちゃったり、乗っ取り企んで外部からちょっかい出したり。そんで組織が自壊しちまってー、……って、もしもそこまで行ったらあたし達ゃぁだいぶ安心して暮らせますわなぁ。この先、人狩りに遭う女の子とかガキンチョとか、市民の身代わりで兵役用に売られちまうIDチップ無しの若い男連中も、とりあえず『猿人』には捕まらないってわけっすからな〜!」
 飄々と話してからクオンは傍へ避けた食べ殻を再度覗き込み、そのまま、まだご飯粒でもついていないかと探すような顔で付け足した。
「まあこれはぁ、あたしごときが簡単に考えたお話だから。ピーペ先生ならもっといいこと考え付くと思うんだなぁ。なんかこう、パァッとスカッとする花火の構想、いつも練ってるじゃないすか、怪盗ピーペ先生は! で今回そういうの技術面から可能にできちゃう天才花火プログラマーが、デスさんってわけっすよぉ」
 私の盗みを花火に例え、クオンはニコニコと笑う。彼女や、最下層の一部の住民にとって、私の「仕事」は後で語り合えるエンターテインメントでもある。だから彼女の、憧れを込めた声や表情も演技ではない。私は面映さが少し、残りは自分を恥じるというか、少なくとも声を荒らげた数分前の態度について後悔した。
 聞いていたデスが、無意識に強く握ったらしく歪んでいる食事の紙箱を手近の段ボールの上に置き、少し俯く。
「ごめん。クオっちは頭悪くない。ここで愛想尽かされたら僕はもう本当に詰むんだから、僕の方こそ馬鹿言った」
 そちらだけ明確にし、彼女にだけ謝っているところは憎たらしいが、私も息を吸い直した。
「私も焦って、不安な面しか考えていなかったかもしれません。しかも建設的でない言い合いの相手までしてしまった。すみません、クオンさん。ありがとう」
「ちょ、なーんでこっち通す? お互い謝らねーんだもんなぁ!」
 クオンが噴き出して笑い、私達もなんとなく苦笑いの気分になった。
「まぁまぁ、先生。お酒やんないのは分かってるから、ほらまぁそのジュースとか、こっちのお水とか飲んでてねぇ。高級ミネラルウォーターじゃなくコピー商品だけど、ここらの水道水よりぁやや安全なはずだよぉ」
 彼女はさっきくれた色付き飲料瓶の側へ、水の透明ボトルも並べてくれる。
「それでも『やや』安全なだけなんだね。はー、カッコイイなあ、何、その毎日の命懸け感?」
 まともに取っては皮肉か揶揄としか聞こえず神経を逆撫でされそうなデスのズレた感想も、少し慣れてきたのか腹は立たなかった。彼がまだ、踏み入れたばかりの『別世界』を作り物のように現実感なく見ていると、私に分かってきたということかもしれない。
 冷めてしまった魚のフライを摘み、焼き飯も食べる。クオンとよく利用する近くの中華飯屋の料理で、他の店同様原料の安全性を期待できない一方、ここは味も悪くない。今日は時間のかからない品、クオンの好きそうな脂っこいものという観点だけで雑に選んでしまったが、自分が好きでいつも頼む空芯菜のスープも、面倒でもやはり買ってくれば良かったなと思った。そう思えるぐらい、食べ物を胃へ収めるにつれ、気持ちの余裕が少しずつ復活した。
「私はクオンさん達には、ただ買い被ってもらっているようなものですから。今日もそうですが、ご迷惑をかけ助けていただくばかりです」
 砂糖と肉桂できつめの味付けをした色水飲料の残りを飲みきる。瓢箪型の小ボトルはママゴトおもちゃのジュース並みに容量が少ないが、それでちょうどぐらいの濃さだ。水のボトルも開けて、口にいつまでも残る味を薄めた。そうしながら、事態を考え直す。緊張もさっきより緩み、素直な言葉も出やすくなった。
「怪盗だなんて呼んで期待していただいても、年齢的にも、体力的にも限界に近付いている自覚があります。そろそろリタイア、むしろ人生の終わり方を考えなければと思っているほどなので」
「それ、わーかるー! 苦しまずに死ねたらなぁ! っていうのは毎日、朝起きる時と寝る前には考えますぜー。あたしは二十歳までに死んでるつもりだったのに、三十越えてまだここにいるんだぁ。もー、意地悪な予定外だねぇ!」
 クオンが明るい声で深刻な相槌を打った。彼女だけがこうなのではなく、ここらの誰もが概ね、そんな思考でいるのは分かっている。といって、こちらはいつも上手い返事を思い付けない。とにかく私は続けた。
「そもそも私にできるのは、あれこれうまく誤魔化した上で短時間、どこかへちょっと忍び込むぐらいなものですからね。変装や声色で誰かそっくりに成り済ます、フィクションの怪人のようなことはできるわけもないので」
「待ってそれ本気?」
 急にデスが私を見つめた。奇妙で不吉な感じとはいえ造作の整った顔が真剣に迫ってくるとたじろぐ。
「なんです、ガッカリしましたか? 娯楽小説なんかではいかにもお手軽で確実そうに書かれていますがねぇ、変装や声色で別人になるなんて、実際には」
「違うそっちじゃない。短時間ならどこへでも忍び込めるって本当?」
 遮って尋ねるデスの口調は今までと違っていた。
「なんなんですか。忍び込まずにどうやって泥棒すると思ったんです? 他の方法で安全確実にいただけるのなら、もちろんその方法で行います。けれど現地へ盗りに行くのが一番いいと判断した場合、どうにか忍び込める手さえ思いつくなら、あなただって自ら盗りに行くでしょうが?」
 なんだか守勢に立って言い訳しているような感覚になり、泥棒でもないデスを相手に無意味な仮定をしてしまう。それに、
「あ、でも待ってください。だからと言ってスーパーヒーローみたいに体一つで空を飛んだり壁を登ったり、あるいは物質をすり抜けたり屋根を持ち上げたり、なんてことも無理ですからね」
 つい連想したことから先回りに予防線も張った。なんとなく、近所の子守婆さんがチビたちに語っているらしい私の武勇伝……という名の九割以上創作話のせいで、「怪盗」に幻想と過分な期待を持ってしまった子どもらが「飛んで見せて!」などと頼んで来るのを断る時の後ろめたさが思い出されていた。
「壁登りどころかもう近頃は、二十歳の頃のような無理した力押しのアスレチックまがいのやり方は一切、採用しません。梯子や階段より、やっぱりエレベーターを使いたいですし、出入りにはドアから普通に入って、普通に出るのが一番楽です」
「それでもあたしらよりぁ全然、動けるっしょー! 先生ぇ〜」
 クオンが笑いながら慣れた合いの手を入れる。デスはしかし、変わらず怖いほどのトーンのまま、
「必要があれば現地へ、自分の生身で本当に行けるんだね? それなら君は、いや僕は、僕らは……。中央の統括AIをしばらく誤魔化してる間に誰かの口座から勝手に引き出すとか、なりすましメールで詐欺るなんてせこい事、忘れていい。やりたかったことが本当にもっとちゃんと、長期的にできるよ」
 と言った後、徐に手を伸ばし、私の右手を自分の両手で掴んできた。骨っぽい大きな白い手の掌が予想外に熱く、力も思ったより強くてびっくりする。こちらの驚きを完全に無視し、彼は黄色い目をギラつかせこちらの目を覗き込んだ。
「ねえ、僕が君の、最高のIDを作ってあげる。それで君が行った先に、君こそが正当なIDの持ち主だって事実も作ってあげる。中央(タワー)が持ってるデータに新しく作った君のデータを刻んで、君こそを誰よりも、この都市中の誰よりも真実な存在にしてあげる。だから君が天下を取って。支配者になって。最高権力者になってよ。そしたら僕らはなんでもできる」
「何の話をしているんです?」
 急に並べられた、普段思い浮かべもしない壮大な言葉のオンパレードに唖然とする。彼が突然言っているのは、もしかして何か、彼が好きだというレトロゲームの設定だろうか? 話が飛んでいたのに気が付かず、相手をしていたのかもしれない。と、ずらして考えようにも、目の前の美貌はどうにも真剣だった。奇妙に美を引きたてる不気味さが、何故だかずんずん増して感じられる。さりげなく彼の手から自分のを抜き距離を取ろうとしたが、できない。デスがそれぐらい、しっかりと掴んでいる。瞬くのをやめて凝視している目が怖いような気にさえなってきた。
「ちょっと、デス君。天下とか、支配するとかされるとか……最下層ではどちら向きに考えても面白くない冗談ですよ」
「わけわかんないジョークなんて言ってない。まだ考えてもないくせに。すぐ、今! 考えてよ。僕は君になら支配されてもいい。違う、僕は君に支配されたい。ちゃんと聴いて」
「ぶはっ?! それ、なんていうプロポーズっすか。え、ちょっと、デスさん?」
 クオンが慌てた声を上げ、割って入ろうとして失敗する。デスは尚も私の手を握り締めて顔を寄せた。狭い店内へ詰めた狭い椅子に、決して小柄とは言えない私達が座っているため、こうもグイグイ寄って来られると顔がくっつきそうなほど近くなる。
「中央塔(コート・タワー)最上階まで行って。短時間でいい、一瞬、入れればいいんだ。僕が君の新しいIDを作るから、それを持って行って。そして君が入れ替わる」
「ま、ってくだせぇよデスさん?! 最上階って言ったら、この都市の」
 クオンの遮りにも月色の瞳を動かさず、彼は続ける。
「大統領の執務室がある。あの男は人間を信用していないから、最上層部のオフィスは全部、AI制御だ。働いているのは自動機械ばかり。官僚達とはデータでやりとりして、会話する時も映像越し。でも君なら入り込めるでしょ。同時に、同じ部屋にいられるなら、全権をあちらのIDからこちらのIDへ登録し直す権限移譲が成り立つ。お願い、やってよ。そして君が大統領になって。怪盗ピーペ。お願いだよ」
 熱烈に言葉を連ねたと思ったら、いきなりデスは私の口に自分の口を重ねており、あまりの事態に思考がショートした。クオンがキャッと叫んだような気もしたが、後々思い出しても、この時数秒分の記憶は飛んでいる。
 気がついた時にはクオンが「まぁまぁ先生! まぁまぁまぁ!」と、私の両腕を押える形で胴へがっしり抱きつき、百回繰り返す勢いで「まぁまぁ」を言い続けていた。デスは何故だか倒れた椅子の向こうのゴタゴタした段ボールと棚の隙間、ケーブルの束の上に尻餅をついた格好で転げており、それ以上退がれないことも気付かずもっと後ろへ逃げようと無様にもがいている。そうしながらも彼は涙目でこちらを見上げ、「酷い! 酷い!」と糾弾していた。見たところ特に傷や痕は見えない。彼が転げているとしても、私が暴力に訴えたのではないはずだ。
「私は彼に何もしていません、よね?」
 クオンに確認したが、彼女は引きつった笑顔をこっちへ向けてまだ「まぁまぁまぁ!」と言った。デスが代わりに捲し立てる。
「した、っていうかしようとした! シャワーで僕の指捻り上げた時とおんなじか、もっと酷いことしようとしてた! そういう顔してたから! 怖い! 酷い!」
「えーまぁそれでぇ、デスさんがビビって逃げようとして椅子ごと吹っ飛んだところへ、先生がゆ〜っくり立ち上がってね。あたしぁそこでなんでかわかんねぇっすけど急に『あわや!』みたいな予感がしたもんで。絶対気のせいだなぁ〜! とは思いながらも、一応ね! こうしてお止めしてるって寸法っすよ〜。なんつーか、ほらぁ。あ、そう、あれだ。このまま何もせず、座ってもらえると嬉しいなぁ!」
 クオンはこちらを的確に抱き留め、自重をうまく利用して椅子へ引き摺り下ろそうとしている。
「デスさんには後であたしからもよぉく説明して、こう、ここら辺りでのスキンシップのルールとか、相手を尊重するってなったらどういうやり方するのかとかもよく理解してもらった上でしっかりきっちり詫び入れてもらいますから。ほらぁこれ、あれっすよ! 文化摩擦? カルチャーギャップ? とにかく悪意はないはずなんで。ね。すれ違いと誤解。そういうことですから。ねっ。ね?」
 汗だくで宥めてくれているクオンを見下ろす。言われた言葉を考えている間動かなかったためか、多少安心した様子で彼女は、私に回していた腕の力を緩め始めた。
「クオっちありがとう、君は命の恩人だよ」
 向こうでデスがぐすぐす鼻をすすりながら言っている。私はなんだか、頭でも痛いような気がしてきた。
「どうしてそうも破廉恥な行動を取るのか。きっと上層ではみんなそうなのでしょうね。上層市民以外の生き物は全部ガラクタおもちゃみたいなもので、気が向いたら触り放題、生かすも殺すも好きに扱っていいと思ってるんでしょう。最悪です」
 こう言うぐらいではおさまらず、口を捻り上げるのがいいぐらいかと思う。しかしクオンの必死の取りなしを考えると今すぐ捻りに行くのも難しく、「預けておきます」とだけ言って私は座り直した。
「なんで怒るのさ? 君の組成って好意を信じる心0%? 尊敬と親愛の表現じゃないか。真心から、本気でそういう気分になったからやったのに、無碍にするなんて酷い。僕の心は粉々だ。最下層のマナーってどうなってるの、やっぱり最低なの、それかピーペちゃんにだけ人の心がないんだ」
 デスはぶちぶちと聞こえよがしな独り言で、泣き言だか恨み言だか悪口だかを言い続けており、床の上から戻ってこようとしない。一方、クオンは油断なく用心深く私達を見ながらも、私を離して自分の椅子に戻った。一瞬の間の後、クオンはふと顔を上げ、細い目の中の黒ビーズに似て光る瞳をこっちへ向ける。
「でも。デスさんの話、ってか存在がねぇ、伝説かよってぐらいスゴ過ぎて。だからあまりにも夢みたいな話で、正直なところ全っ然、信じられてはねぇんっすけどね。それでもやっぱ、ねぇ。夢は夢だから、夢で見ててもまぁいいっちゃいいんだよなぁ! 聞いててあたしも、そうだったらいいなって思うんっすよ」
 何が、と言う前に彼女は慈愛溢れる菩薩の笑みでニッコリした。
「ピーペ先生が大統領になったら、色々といいことやってくれそうだもんなぁ〜!」
 
 昨日、一昨日の二昼夜と、今日の午前中を含めてもプラス半日。それで本当に、私の天下取りを実行できるまでお膳立てしたのだから、デスの言葉は虚言でも、過言でもなかったことになる。中央塔の機構を制御しているAIは単純な一つきりではないはずだが、高度な人工知能の間断なく抜け目もない動作を出し抜くためのプログラムは、とにかくデスに任せる以外ない。やり方を説明されたとしても、それが妥当か、危ないのか、危ないとしてどれぐらい危ないのかなど私では分からない。
 デスも説明はしなかった。そんな余裕もないのだろうし、そもそも門外漢への説明の仕方が分からないのかもしれない。クオンが彼の技術的な補佐や資材調達、生活面での世話までもある程度、助けると請け合って引き受けてくれたのでこれまた任せることにした。
 デスが私にしたように、クオンにも無礼なスキンシップを図ったらどうしようかと心配もしかかったのだが、彼はクオンに対してはまた少し違う態度だった。友好的、かつリスペクトも感じられる一定の距離を保ちつつ、仲良さげに専門的な話もしている様子だ。私と違い、温厚な性格のクオンとでは口喧嘩にならないから、デスの無礼な振る舞いも出てこないのかもしれない。それにどの道、クオンもあの場所で長年、店を守って来ている人物だ。常に菩薩の心と振る舞いで通しているが、もしもの時には無礼者や暴漢を短時間で気絶させて随時、通りへ放り出せるぐらいの備えを私より豊富に持っている。何かあったら遠慮なくそうするように、ただし、またデスが拐われたりしたら事なので外へは決して放り出さず、適切な物置へでも閉じ込めて私を呼んで欲しいと頼んでおいた。そして資材費と生活費と共に彼を預け、店を出た。
 二日間、私は私でやることがあった。まず、血眼になってデスを探しているところの人身売買組織へ出向いた。同時に二方向の敵を相手にするのはそれだけで厳しい。人身売買など行っている相手のことがいくら気に入らなくても、ここは一旦、停戦せねばならない。想像通り面倒な交渉だったが、結局、しばらく手を出さないという約束を取り付けた。彼らに伝えていないけれど、計画が成功すればその後、違法行為への取り締まりが強化される予定なので、実は組織解体も目前だ。元から私は人権蹂躙の商売を憎んでいたが、そういった勢力を潰せるだけの力がなかったから「関わらないように」などと消極的に立ち回っていただけだ。今までのようなズブズブのなぁなぁではない捜査や処罰の手がきちんと及ぶようになったなら、彼らも自分の身の始末におおわらわとなり、デスや私に構っていられなくなるはずだ。「しばらく」の約束が「永遠」になるというわけだ。騙したことになるかもしれないが、別に良心は痛まなかった。
 それから、中央塔のメンテナンススタッフの制服や、タワー下層階へ入るためのIDも調達した。人脈と準備費用を駆使すれば、こんな急ぎの話でも大概、どうにかなるものだ。最下層だけでなく下層、中層にも私の味方や知り合いはいて、条件次第で協力してくれる商売上の仲間もいる。ただし私の準備で入れるのは、人間の労働者が働く下層階までだけだ。そこから上への道が開けるかどうかは、デスの仕掛けにかかっていた。
 最後に私は、よく利用する床屋へ髪の手入れをしてもらいに行き、伸びてきていた髪の根元の白髪部分を綺麗に染め直してもらった。若作りしても仕方ないのに、中年が見栄を張って無駄に資金を使う……という話ではない。顔貌を変えたりなどしないが、せめて中層市民の労働者に見える外見でなければ、タワーの近くへ行った時、「下層の人間がうろついている」と目に付く可能性がある。
 こうして準備を済ませ、昨夜は早いうちから、時たま隠れ家として使う宿の一つへ泊まり、しっかり眠ってきた。
 クオンの電気屋に篭って、デス達がどういう手段を講じたのかは全く分からない。しかしデスは二日後には私のIDを捏造し終え、タワーのAIを手懐けるプログラムを作り上げたらしい。結果、私は今、空調管理された静かなオフィスで、大統領職にある男から麻痺銃を向けられながら、天下に王手をかけている。
 
「本当にここまで辿り着かせてくれるとは。やっと話を信じる気になりました」
 呟くとイヤーカフのホンから
『ウッソだろ。僕を信じてないのにそこまで乗り込んだってこと? こっちが信じられないよ』
 デスの驚愕の声が返ってきた。
「ちょっと失礼して、一枚羽織らせていただきます。借り物の制服で誤解され、メンテナンスの人達に風評被害があるといけませんので」
 大統領には断りを入れ、マッチ箱ほどの圧縮ケースに入れて持っていた上着を取り出し、広げた。目立つ黄色のレインパーカーは、背が高い方の私でもオーバーサイズで、きっともう少し大きな男性向けにデザインされているんだろう。中古とはいえ状態は大変良く、汚れも、妙な臭いもついておらず、軽くて着心地も悪くない。下層の街でそこらにちょっと脱いでおこうものなら、即座に置き引きされるだろうぐらい値打ち物だ。作りにもごまかしのない防水仕様だが、この場所、優雅さの粋を凝らした大統領の執務室で着ると流石に場違いでみすぼらしく見える。でもそれでいい。
「権限移譲の模様は監視カメラの映像から抽出し、夕方と夜の臨時ニュースで都市に、その後は世界中に流します。ですからそろそろ、武器はお置きになった方がいいですよ」
 話す間にも部屋のAIが権限者の交代を承認し、新たな権限者、私のIDを要求して読み取り機のある壁を点灯させた。パーカーのファスナーを上げ、そこにチャームとして付けてある電波遮断容器をいよいよ開く。炒り大豆ほどの大きさでロケットペンダントのようになっている容器内に「新しい私のID」が入っている。部屋のAIが優しいランプの点滅とオルゴール音によって、読み取り機の端末へ誘導する。近寄り、金色のマイクロチップをかざした。小さく光が走り、僅かな間があってから、承認の合図として爽やかなメロディが流れた。
 随分あっけなくて感慨も薄いけれど、最底辺からの下克上が本当に成立してしまった。デスやクオンも見ているだろうか、それにしてはイヤーカフから快哉が聞こえない。いやそんなことを言えば彼らの歓声を待ってでもいるようでおかしいが。
「交代完了です。お疲れ様でした、『元』大統領」
 言って振り向いた時、夕暮れの太陽とは違う、奇妙な反射光が外から部屋を一瞬照らして横切った気がした。同時に耳元でデスの声が響く。
『え待って何この飛行体、五秒後に』
「勘違いするな、テロリスト。それともコソ泥を名乗っていたのか? どちらにしてもお前の在任期間は、早くも今をもって終了だ」
 イヤーカフの音声は私にしか聞こえないため、目の前の男の発した言葉が無遠慮に重なる。途端、「五秒後」が訪れた。
 どかーん、ずごーん、などと擬音で表し得るような、馬鹿みたいな音は一切しなかった。衝撃のほとんどが最上層までは届かないようだった。ただ、気のせいにもしてしまえそうな、微かな変化のせいで異変のあったことは分かる。非常に遠くから、緩衝され弱められたものではあっても、振動が確かに部屋へ伝わって来た。
 肩越しに目をやった時、透明で広い展望窓と、外へ限りなく伸び続いている景色との間に、紫がかった灰色の煙がゆっくりとたなびいた。そして計画開始以来、ずっと耳に入っていた、デスとクオンからの通信音は一切が消えた。
 目の前でスーツの男が急に高笑いする。異常に昂った声はしかし数秒で止んで、彼はこちらを睨みつけた。
「部屋のAIを操ったところで何だ。私は大統領だぞ、何だってできる。お前の仲間はもちろん、このタワーの下層にいたんだろうな?」
 その通り、と答える義理もなく、私は無感動に相手を見つめ返す。彼は勝ち誇った口調で続けていた。
「中央塔は外部からの電波妨害やハッキングを受けないよう、遮断物質を活用して作られ、独立したネットワークを内部に持っている。内部専用の回線を使わずに無線通信しようと思ったら、タワー内部へ入らなければならない、そうだろう。テロリストが入り込むのは、人間の労働者に紛れて入ってまず下層階までだ。認めるしかないが、お前がここまで上がって来たことは、完全に想定外の事態だ。大したものだ、とでも褒めた方がいいか。しかしそれも、今後、AIも信じないようにして対処せねばならない、と決める良い契機となった」
 彼が偉そうに並べて聞かせた通り、デスとクオンはメンテナンスの労働者達と同じ、中層市民向けのビークルでタワー下層の駐車場まで「出勤」し、そこで「作業」に勤しんでいたのだった。
「大変な偶然ながら、先程、隣国が我が都市へ先制攻撃を開始した。タワー下層階にミサイルが着弾したのはそれだ。私は常々、隣国は必ず我々の都市を攻撃するから軍備を拡張し、反撃能力を持たねばならない、と市民へ警告してきただろう。その通りになった訳だ。ただし、幸いなことにさっきの攻撃が届いた場所には、支配層はもちろん上層市民もいない。死んでも補充の効く中層労働者と、退治せねばならない害虫であるお前の仲間がうろついていただけだ。仲間には後日、何が起こったのか教えてやるといい。お前が死刑になってから、地獄まで這いずって行って話せばいいだろう」
「おかしいですね」
 心はさっき、遠い煙を見た時、消えたのかもしれなかった。まだ、麻痺銃で撃たれたわけでもないのに、全ての感覚を鈍く遠く感じる。なんの感情も、この後についての考えも浮かばない。にも関わらず、――だからだろうか?――自動運転の機械めいて私の身体が口を利いている。
「ああ、可笑しいだろう、頂点を盗ったと思ったら五分で害虫に逆戻りだ。こんな短い天下取りは過去にもないのではないか? 笑ってしまう」
 嘲る相手に首を振った。
「そうではなく、奇妙だ、変だという意味です。そんな偶然あるわけない。短時間で飛来し、正確に着弾するハイテク兵器ならあるでしょう。しかしそれが都市軍や警察の攻撃ではなく、隣国からの先制攻撃とは? こんなにも都合よく、あなたの権力を守るためタイミングぴったりに飛んでくるなんて」
「もちろん、偶然ではない」
 天は自ら助くるものを助く、とか何とか男は言ったようだが、私の推測は自動で進んだ。
「私が部屋に入った時、既にあなたは素早く発射命令を出していた? 『敵国』へ、ですか? 部屋の防犯装置や日常の執務機能とは連動しない、緊急命令のようにして特定の信号を送れる仕組みがあるのか。それでも『敵国』とやらでは遠いですね。五分で届くミサイルなんてあるのでしょうか。一方、都市軍なら近くにいるのではないですか。ミサイルを持っている、との公式情報は無いようですが。都市軍なら最近もずっと、『敵国』の国境付近へたくさん送られています。中央塔からの公式ニュースでは不思議と全く触れられませんけれど、既に越境し『侵攻』しようとしている、との相手側からの抗議も複数回、出されているようですから」
 下層での情報は、中・上層と違い中央によって完全にはコントロールされていない。嘘やゴミ情報を含みながらも、ニュースや噂は都市内外から集まって来る。情報によく意識を向け、どれが正しいか吟味し批判的に検証できるほどの能力を持った人材がほとんどいないため、様々な情報が入ったところで流言飛語の温床になる場合が多い。しかし、中央が統制して流す情報とは別の視点からの、真実を含んだデータの切れ端が混じっていることはよくある。
「国境辺りに展開している都市軍が、『敵国』から物凄い速度で飛ぶ敵からのミサイルを、軽技よろしく空中で撃ち落とすのまでは難しいとしましょう。けれどミサイルなんていう重大な品を、警告や報告もできないぐらい完全に見落として素通しに通過させるんでしょうか。そうではなく、さっき飛んできたのはもっと確実に『敵からだ』と偽装して自分の軍に撃たせたミサイルではないのですか。であればここ、敵なら一番狙いたいはずの中央塔の上層階ではなく、下層階の『被害が軽微で済む』ところを上手に狙えても当たり前ですね」
「よく喋る女だ。構わん、話していろ。その間にレスキューも駆けつけるだろう」
 そうだ、レスキューや警察の危険もあった。タワーにミサイルが撃ち込まれたとなったら、いや、ミサイルかどうか分かっていなくても。破壊と被害の緊急事態が発生したのは外目からでも明らかなのだから、塔専属や上層市民対象の請負い会社、ありとあらゆる関係各所、この地区一帯から救援にやってくることは間違いない。彼らは一部破損して煙を上げるタワーへ到達した後、デス達が死んでいようと死にかけていようと、やはり上層階にいる重要人物から優先的に助けに来るのだろうか。少なくとも、男はそれを待っているようだ。
 私はカフの無音に耳を澄ませ、別に彼が促そうが止めようが関係ないとばかり勝手に話す。
「後で破片や着弾情報から分析すると、タワーにさっき飛び込んだ物体は確かに敵のミサイルで、敵が撃ったもの、との結果が出るのでしょうね。何しろあなたは情報を操作するだろうし、開戦してしまえば互いが相手から撃って来た、と言い合うことになる。そのままうやむやにできるかもしれない」
「まさにその通りだ。臨時ニュースは私の開戦宣言を流すだろう。本日よりわが都市は戦争状態に入る。これまでとは比較にならないほどの強権が大統領へ集中され、市民の人権をはじめ財産権や言論の自由、個人の権利などという効率的でも合理的でもない余計な贅沢は制限されることになる。どのみち、お前達のような下層、いや最下層の居住区に巣食っている害虫には、人間向けのどんな権利も元からないのだから何も気にしなくていい」
 実際に害虫を嘲笑っている様子で、男は冷たい光の目を、私との間の微妙にずれた宙空へ据えている。
「これは全て、もっと早くやりたかったことだ。外向きには言葉を慎まねばならないからな、統括AIが公式に発するための談話を全てチェックするせいで、私は言いたいことも自由に言えない。しかし思っていることはずっと同じだ。平和状態が長く続いたせいで市民の中には厭戦感情を持っているものもおり、加えて国際法や国内法の縛りも緩めるのに時間がかかった。合法かどうかや市民感情に配慮していては、何も進まない。だから、お前達が何をしようが、あるいはしなかろうが、だ。近々、こうして『敵のミサイル』が中央塔の危うい場所へと着弾することになっていたのだ。予定されたハプニングというわけだ。お前が侵入したのは予定外ではあったが、きっかけ作りの手間を省いてくれたことにはなる。ちょうど良いから先ほど、『先制攻撃』を実行に移した。そういうわけでお前達は、大統領の命を狙ったテロリストだ。お前達が手引きしたからこそ、中央塔にはミサイルが撃ち込まれた。しかし『幸いにも』下層階、そしてテロリスト自身に『軽微な』被害を出しただけで済んだ」
 小さな護身武器をこちらへ向け続け、男は報道用の演説以上に勢いよく喋っていた。しかし公式声明では、統括AIが常に彼の発言をチェックし、内外の法や条約、倫理規範に照らして不適切とみなした部分については細かく訂正していたのか。市民の安全と生活を守ることが大統領の一番の責務だ、と毎回の演説で繰り返していたはずの男だ。何を言うにしろここまで露骨なことはなかったと思ったが、表向きに発言する場では常にAIの手直しがあったのなら、と少し納得がいった。
「そういうシナリオになるわけですね。そして現在あなたが饒舌な理由は、レスキュー待ちの時間稼ぎなのでしょうね、『元』大統領?」
 尋ね、少し首を巡らせ、すっきりとして見える部屋に実は複数あるはずの、防犯カメラを探した。すぐわかるような付け方はされていないが、部屋の全景が見下ろせる位置、壁が天井に付くあたりの装飾に紛れて小さな穴が開いており、そのいくつかはカメラレンズを仕込んでいると見当がつく。
「私が『現』大統領だ、この先もな。コソ泥の害虫が五分間でも天下を盗むなど、本気で可能だと思っていたのか」
「害虫が天下を盗んでいる。……それはあなたの自己紹介でしょうか」
 カメラだと思うあたりを眺めて言う。
「お話は興味深く拝聴しております。けれど、私の仲間がこの部屋を制圧した時からずっと、ここでの出来事や会話は監視カメラ越しに全て記録されています。それらの情報は、仮に仲間の持ち運んでいた機器等が壊されたところで、自動的にニュース映像内へ流されるでしょう。そういう仕組みを予め、作ってもらっていたのです。こうして単身乗り込んだのも、暴力を用いない権限移譲で平和的に、ほんの数週間か数ヶ月、より民主的な選挙が行われるまでの間だけ椅子をお預けいただこうと思ってのことでした」
 私に用意された偽のIDは、大統領に選ばれても不思議はないぐらい立派な経歴を持った架空の人物のものだ。計画では、統括AIさえ味方につければ全てを握ったも同然だったが、それはそれとして官僚や市民の納得というものは必要だ。そこで、目の前の男には説得により平和な雰囲気の中、権限移譲を行ってもらい、その様子を報道して「正当な手段で大統領が交代した」と知らせる予定だったのだ。しかしデスとクオンを奪われた時から計画は完全にご破算になってしまった。今、私がしようとしているのは「目の前の男がいかに非道なのかをできる限り暴露すること」になっている。
「具体的な技術の話は苦手なのですが、私達の“会見”の一部始終が都市と、世界中に公開されることは一応、さっきも説明したかと思います。今更ながら、カメラの前でミサイルの仕掛けや『元』大統領の企みを、こんなにもわかりやすく次々と話していただいてよろしかったのですか?」
 言っても男は動じない。
「『現』大統領だと言っている。いくら話しても構わん。私個人としては、お前の言う、ニュースで拡散されるなどの与太話も一つ残らず嘘だと考えている。仮に事実だったとしても、後から全て、テロリストの用意したフェイクニュースだと訂正し、抹消する。中央塔の統括AIさえ握っていれば簡単なことだ。つまりお前は、無駄な五分間のフェイク映像作りのために、命をかけてここまで来た害虫ということになる。やはり笑える存在だな」
 笑えると言い、嘲弄する言葉を続けながらも、彼の表情は憎々しげに睨んでばかりだ。楽しい笑いを忘れてしまって随分長くになるのだろうか。
「それなら話を続けましょう。私の考えはあなたと違うと、映像を視聴してくれる方々へお知らせする機会にはなるでしょう」
 視聴者がいれば、なのだが。計画段階でデス達に、全ての状況を映像で記録し、証人を多く得るために拡散してくれと頼みはした。でも、その手立てやプログラムが狙い通りに動くのかは、彼らの作った仕掛け次第だ。今までのことから、デスは頼みにそぐうような仕組みを作ってくれたこととは思えた。けれど、拡散しようとした段階での相手の妨害や、後からの揉み消し工作への対処までを、デス抜きの完全自動でこなせるとは考え辛かった。統括AIが元通り、相手の味方に戻れば「前」大統領が今、言っている通りになるかもしれない。私の存在はテロリストで言葉は全て嘘、映像も「大統領」を陥れるための偽物だとされるかもしれない。それでも、後のことをどう悩もうが、ここで私ができるのは知恵を絞って話し続けることだけだ。
「都市のことを考えるならば、開戦や強権集中は愚策だと思えます。戦争をすれば、一部の産業は儲かるのでしょうが、都市全体では物資が足りなくなり物価は上がり、流通や取引全般が不安定になって一般市民の経済活動が滞る。全体的に見れば都市は余計、貧しくなります。軍事費のために税も上がり、働き手は戦争のために動員され、暮らしが立ち行かなくなって不安だけが増大する。そんな中では治安も悪化してゆく。弱い者から次々と皺寄せを食らいます。直接戦いに行かずとも、居住区が直に戦場にならなくても、間接的に死ぬ人が大勢出ます」
 今だって、最下層ではあらゆる意味での欠乏が原因で、悲惨の中、亡くなる人だらけだ。しかし戦争が始まれば、今は中層や上層の居住区にいる人でも、市民としての「真っ当な、人並みの暮らし」が崖っぷちへ追いやられて次々滑り落ちることになる。底辺へと押し流されて来る人がどんどん増えるだろう。逆に貧困は最下層の谷底から速やかに這い出して行く。下層の街、中層の居住区、上層市民の住う地区へすら、貪欲に遠慮会釈なく手を伸ばすだろう。荒廃の腕は元がどんな街でもギッチリと抱きしめ、すぐさま、慣れた自分のテリトリーにしてしまうはずだ。
「結果的に都市を滅ぼすかもしれないのに、あなたはそうまでして権力やお金が欲しいのでしょうか。ああそうだ、お金は権力とほとんどイコールなのでしたっけ」
 馬鹿馬鹿しい、とか、汚らわしい、との思いが湧き上がった。それでいて、自分だって常日頃、金がなくては生きていけないとの思いで、最底辺で足掻き、他所から掠め盗っては生きてきた。今度の作戦では、そうやって集めた中から長い間貯め続けてきた「何かの時の資金」、もしかしたら「老後の資金」とも思ったかもしれないものを全て、ここへ来るためだけにほとんど使ってしまったのじゃないか。そうまでしてやって来たのは、そんな汚れた金集めに必死の日々から、抜けたい、脱出したいと私も思ったからではないのか。全く違う生活が上層にあると思ったわけではなかったが、……それとも空想したんだろうか。上層では人々が、誰かから不正に奪うことも一切なく、それでいて平穏に満ち足りた贅沢暮らしをしていると? しかし今は、始めから上層市民として最後まで上品な生涯を送るより、自分の身を日々、危険に晒し、些細な余り物を他人から掠めて暮らす方がまるで潔癖で正直なように思える。
「あなたを見ていると、どうも自分以外の者が没落し、徹底的に貧しく惨めになるのを望んでいるように見えます。都市の市民が平和に生存し、豊かに、幸せになって個人の権利がよく守られるようになっても仕方ない、と思っていらっしゃるのか。そこにご自分の得はひとつもない、と思えるからでしょうか。他人が幸せになるのをご自分の損、と数えるのでしょうか。自分だけが得できるなら、都市中の他の人間全てを悪魔にでも売り渡すとか?」
 きつい言葉を放った自覚はあったのだが、相手はそう感じなかったらしい。むしろほとんど得意気に聞こえる答えが返ってきた。
「都市中どころか世界中、未来の世代まで残らず売り渡す。その方が儲かるのなら。だが、この道で何も、間違ってはいない。地獄を見下ろしながら自分だけが安泰で、快適に暮らし、ご馳走を食べられる。そういうところが天国だ。犠牲を厭わない思い切った決断ができ、富を集めるために無駄を切り捨てることのできる者だけが天国に到達できる。このタワーはそういう意味で天国に近いだろう。外を見ろ。他の人間の暮らしが全部、足の下だ。ずっと遠くの外縁で霞んでいる灰色が最下層か。地面へ叩き潰された、お前達害虫にそっくり似合いの地獄だ。私はこの率直さと、真実を語る賢明さ、誠実さで支持を得て大統領になっている。コソ泥のくせに格好をつけ綺麗事を並べたがっているようだが、お前だって実際同じように、最高の権力と富を持つことを夢見て、ここまで上がってきたのだろう。それは私の考えを正しいとし、真実だと認めている行動だ」
 問われ、私は首を傾げる。
「私がしたかったことは少し違うようです」
 問われるまでは、自分でわからなかったのだろうか。しかし今は、考えが楽々と言葉になって出てきた。
「他人から奪わなければ生きられない。うっかり人に優しさを見せたらそれが、ヤキが回って死ぬ時だ。などという暮らしを、私はずっと切実に、やめたく思っていたのです」
 だからここへ来たのか、と改めて見つけ直し、噛み締める間に相手は嘲笑する。
「戯言だ。奪われたくないのなら、奪う側に回ればいい。支配されたくないなら相手を支配する側になるだけだ。撃たれる前に撃つ、殺される前に殺す。支配、などと言ってもお前ごときの規模では惨めなものだろうが。お前は今以上に奪いたいと考え、もっと支配したいと願ってここへ来た。ならばその理屈だけは、害虫ながら間違っていないと言える。やめたい? そう言い出すことこそ間違いだ。害虫が何を潔癖ぶる? 汚らわしいからゴミを喰わないなどと笑い事を言っていては、ただ死ぬだけではないか」
 潔癖な害虫か。そんなものいるだろうか。確かに笑える存在かもしれない。急に、デスはそういえば上層市民のはずなのに、最下層民の私達のことを害虫扱いしなかったなと思った。それとも彼は、上層で特権的扱いを受けながらも実際は利用するためにだけ閉じ込められ、飼い殺し状態の自分について、客観的に「人間以下の扱いを受けている」と判断していたのか。
 何がどれぐらい誰の金、誰の儲けになるのか、という視点から見るなら、この都市の誰もが「人間以下の扱い」で、IDにより管理されている商品や家畜のようだ。そして最下層の私達、管理の外にあり、労働や兵役をせず余り物を掠めて生きる存在は規格に満たない粗悪品、ゴミで害虫だ。この都市では誰もがそう扱われていることをデスはわかっていて、だから私達のことも自身と同じような人間として(あるいは人間以下の害虫仲間として)、等しくフランクに接していたのか。
 もう少し彼と話せば良かった。より正直に言うなら、「私はもう少し、それとももっと、彼と話したかった」。自分の内部へ浮かんだとんでもない思いに、自分で驚いた。
「お前は今までの暮らしをやめられるとも」
 大統領だった男は皮肉に請け合い、喋り続ける。
「奪わないなら奪われる側に、撃たないなら撃たれる側に回る。害虫が害虫暮らしをやめる時は叩き潰される時だろう? 実にシンプルだ」
 その時、彼の待ち望むレスキューが来たのか、部屋に開口部(スリット)の開くことを前もって知らせるらしい優しい音色が流れた。相手は私の注意が少しでも逸れる機会を窺っていたらしい。メロディの最初の音が鳴った途端、私に向かって麻痺銃を発射した。
 
 衝撃によろめき、踏み堪える一瞬がとてもゆっくりと感じられる。呼吸は止まり、視界へ着衣の黄色が眩しく入って、輝きが膨らんでゆくように錯覚した。背中に数字の「1」が印された黄色のレインパーカー。「最底辺から頂点取りに行くんじゃん」とデスは言った。頼みもしない衣装をわざわざ誂え、「防弾仕様だ」などと嘯いていた。そのパーカーの明るい黄色、きいろ……。

 「どうして黄色なんです」
 私は眉を顰めて尋ねた。パッと目立つ黄色のレインパーカーを目の前で広げたまま、デスは何故か嬉しげに笑っている。計画を実行しに出かける直前、今朝の光景だ。
「ちょっとぉ! ピーペ先生ぇ! いきなり否定から入ったらダメだって!」
 クオンが側で、慌てた声を上げた。私は、自分の準備を済ませ、デス達のID捏造とタワーのAI懐柔用のプログラムの進捗を尋ねに、二日ぶりで電気屋を訪れていた。
 デスが「二日で全部できる」と言ったため、それに合わせて急いで準備をした。それでいながら、本当に「二日で」IDやプログラムが出来上がるとは、実は信じていなかった。私が来たと知って出迎えたクオンの表情が明るいのを、良い兆候と見た。しかし、続いて現れたデスの最初の行動が黄色のパーカーを「プレゼント!」と差し出すことだったので、やっぱり仕事はできていないんだろうと思い直した。相手との約束や期日を守れないとなった時、あるいは何かが都合の悪い方へ変更になった時。食事や物品、金銭で詫びつつ、期日を延ばしてもらったり仕事内容を考え直してもらうというのはよくある手だ。大方、クオンが知恵を付けたのだろう。
「まだ否定はしていません、何故、黄色なのかと尋ねているところです。タワーは屋内ですから雨の心配はないですし、潜入用の服は既に用意済みです」
 きちんと、もっと地味なメンテナンススタッフの制服を。と思いながら答える間にも、デスはパーカーを構えて私ににじり寄ってくる。彼は服を差し出しながら、
「そうだろうけど、大統領になる時には専用の上着あってもいいじゃん?」
 などと言う。
「映像も都市中に流すんだし、今後のトレードマークになるようなカッコいいやつ着てよ。これ、ピーペちゃんにプレゼント。ちゃんと、いい品物だよ。クオっちも全部見てくれて、変なところないって。上等だってさ。防水も切れてないし、破れや汚れもしてないし。前の持ち主の変な匂いとかもないし大当たりだって」
 プレゼント、と得意気に繰り返しているが、何を買うにしたってデスには現金の持ち合わせがなく、上層市民らしく電子決済するためのIDももうないのが現状だ。つまりパーカー代金は私がクオンに預けておいた計画のための資金か、この数日分の生活費の中から流用したのだろう。私が大事にしてきた蓄えをほとんど全部吐き出してまでこの計画に懸けたのに、余計なものを買って、と責めそうになるのを堪える。
「……クオンさんが見てくれたのなら、まともな品ではあるんでしょうが」
「うん、丈夫で軽くて防水、防寒、それに防弾仕様だし。熱線銃や光線銃、麻痺銃のビームも弾くんだってさ」
「最後あたりは売り手の嘘ですよ、騙されています」
 防水布一枚で銃弾や熱線が防げるわけがない。それ以外はまあ、物だけ見るなら良さそうな品だ。ユニセックスなデザイン、というよりやっぱり男物だが、チェックしてくれたというクオンも普段から男物ばかり着ているので、そこに含みはないんだろう。サイズは、ひどく大きいわけではなさそうだが、それでも余り気味になりそうだ。などと思っているのがわかったのだろうか、デスは、
「ちょっと大きめサイズだから、この先、ピーペちゃんがいっぱい太ってもずっと着られる」
 と、嬉しくは受け止めづらい売り込み方をする。
「デスさん〜! ピーペ先生は太らない〜! いっつも完璧な体型を維持するために摂生と運動を心がけてらっしゃるんだから。変なこと言っちゃダメっすよぉ。メッ!」
 クオンが叱っているが、体型維持に必死だと思われるのも、それはそれで面白くない。デスは頓着なく、パーカーの前側を見せ、閉めてあるファスナーの摘み部分を示した。
「でね、ここ。この卵形の小さいチャームが、電波遮断容器。服とは別に用意したやつだけど、うまくつけられてぴったりだった。これが卵、服はひよこ色、楽しいよね。ねぇ見てて、ここがロケットペンダントみたいに開く。ほらね。中に君の新しいIDのマイクロチップ、入れとくから」
 最後に重大なことをポイと言われ、調子が狂う。
「IDはできたんですか?」
「全部できてるよ、今日行くんでしょ? できてないでどうするのさ?」
 逆に問い返されてしまった。デスは「そんなことより」とまたパーカーに注意を引き、
「後ろ姿もいいんだよなぁ、ほら、ナンバーワン!」
 フードが畳まれているのを持ち上げて、黄色く広い背中に黒々と入ったアラビア数字の大きな「1」を見せた。
「……どうして『1』なんです」
「え、だって最底辺から頂点取りに行くんじゃん、ピーペちゃん。カッコいいだろ、ナンバーワン! ぴったりだと思って」
「……黄色は?」
「それはピーペちゃんが黄色って感じだから。……ああ違う、黄色系人種を蔑視とかしての発言じゃない。誤解しないで」
 デスの語調に嘲りや蔑みの調子は全くなかったので、そういった誤解はしていなかった。しかし「黄色って感じ」については意味がわからず、相手を胡散臭く見上げる。
 二日の間、デスはろくに寝ていないのか、元々陰気な美貌が今は壮絶な感じになっている。長く渦巻く闇色の髪に囲まれたロウの白さの肌の顔、肉付きは悪いが背は高い大柄な体の迫力から、以前以上に死者の王みたいな雰囲気が強まっている。彫りの深い眼窩で目だけギラギラ光っているのが恐ろしいほどだ。風呂には入ったのだろうか? いや風呂なんて贅沢な設備は電気屋にも、近所にもない。ここらでは簡単に湯船のあるような施設へ行けないから、体を洗いたいならどこかの水道か水場、マシなところで先日の如くコインシャワーになる。
 髪はきっと洗っていないに違いない。何しろ自分ではろくざま洗えなくて、余計ひどいことになるだろうから。彼は髪を縛る気がないようで、艶やかな黒は今も波打ち渦を巻き、背を覆い膝下までも垂れ下がったままだ。そっちはいいとしても、無駄に美しい顔へ無精髭が伸びかかっているのは早急にあたって欲しいところだ。つい相手を観察してしまったが、その間、デスは一生懸命、説明の言葉を探していた。
「なんて言えばいいんだろ? お日様の光のさぁ、黄色。あれいいよね、まぁ徹夜明けには嫌だけど。あと、ひよこの黄色。卵焼きの黄色。それに、僕が幼稚園(キンダーガーデン)ぐらいの歳の頃、病気で入院した時、使ってたふわふわのタオルが黄色だったんだけど。なんか元気くれる色だと思うんだ」
 悪意ではないと伝わり、むしろ何かが絆されそうになる。彼は続ける。
「あっ、それと。中央塔に近接して空中公園っていう、空中に浮かべてある広い人工庭園があってさ。大きい空中人工島なのに、位置取り的にタワーの陰でここからじゃ見えないんだね。あそこは上層市民専用で、政権中枢取ってたのが前の前の世代ぐらいの時、いやもっと前かな。その時の大統領が人気取りに作った庭だけど、ずっと維持されてて、結構綺麗で。嫌いじゃないからたまに行ってた。でっかい銀杏の樹がいくつか植えてあってさ。それ全部、恐竜時代にもこんな風なのが生えてたんだろうなって思っちゃうぐらい、でっかくって呆れるほどなんだ。秋になったら黄葉して、眩しい黄色になる。散ったら地面が一面、黄色になる。すっごくカッコいいんだ」
 そこまでは良かった。好意さえ伝わると思って聞いていた。しかし、
「あの樹は見るからに、ほんと態度デカくて偉そうで。銀杏の実が落ちないタイプの方ばっかり植えてたはずなのに、間違って混じったのか実を大量につけるやつがあって、そういうのは時期になるとすっごい臭いがするんだよ。でももう全部、大木ででかい恐竜みたいで名物みたいになっちゃってるから誰も切り倒すとかできない。やりたい放題、傍若無人、天上天下唯我独尊、て感じ……もうめっちゃくちゃピーペちゃんそっくりだよ。なんか、一昨日会った時からずっと、君みたいな存在をどこかで見たことあるなあって思ってたら、それだったんだよ。あー、だからこのパーカーを古着の店で見つけた時、これだ! ってなったんだな。ねぇ、空中公園の銀杏を見に、ピーペちゃんが大統領になったら行こうよ。そのパーカー着てさ」
 勢いよく流れている話にどんどこ聞き捨てならない表現が入り込む。こやつ、私の言動も銀杏の実のようにクサくて鼻につく、とでも言いたいのだろうか。私は息を吸ってクオンを振り返った。彼女は菩薩の笑みを顔に張り付かせ、
「いいんっすよ〜ピーペ先生はいくら偉そうで態度デカくても! ほーら、みじめったらしい最下層では根拠なく偉そうなのも財産! キザに振る舞えるのは教養と心の余裕の証! どれも全く無駄じゃないよぉ。卑屈にペコペコしたって舐められるだけっすからねぇ!」
 とフォローにならないフォローを入れた。

 走馬灯のように、たった半日ほど前の出来事を見ていたらしい。気付けば踏みとどまり、私は倒れていなかった。意識が戻るまでどれぐらい経ったのかと思いきや、目の前の景色も同じだ。展望窓から入る、明るさと熱が適切に調整された西陽も、先ほどから少しも傾いた感じがない。
 左肩から腕にかけて、衣服を含めて見た目の損傷こそ全くないが「感覚が一切ない」という非常な不快感がある。その部分が現在、自由に動かせなくなったのは確かだ。それ以外は一呼吸分、息がしづらかった。それだけだ。
 まさかデスから贈られた黄色のパーカーに、防弾機能や麻痺銃の波動を無効化できる力が備わっていたわけもない。けれど私は無事で生きていた。
 実弾や熱線の出ない、護身用として相手を麻痺させるための銃でも、出力を最大にして心臓か頭を正確に狙えば心臓麻痺や脳卒中を起こさせることができる。射撃の腕は必要だがこの距離なら。そして相手の感じからしても、私の心臓を狙っていたと思うが。
 男は、床に寝ている。
「撃ち損ねましたね」
 呟いたけれど、相手は先ほど立っていたまさにその場所で倒れ伏して動かない。こちらの言葉もきっと聞こえないのだろう、何の反応もしなかった。
 私が彼に何かしたわけではない。室内へ微かに、催眠ガス使用後の薬効成分分解臭が流れた。それから、手を伸ばせば簡単に届く距離へ、涼しげに光るガラスの板のようなものがスッと出てきた。見れば、壁から伸縮性のあるコードのようなものが伸び、板をこちらの視線の高さへと差し出している。ガラス板へ目を戻し、透明なそれへ文字が走るのを認める。
『ご無事でしたか。大統領』
 無事どころか、大統領をしていた男はそこで昏倒しているようだが。そう考えていると文字が追加された。
『私はこの部屋のAI、並びに塔の統括AIです。在室者の生命及び身体保護の緊急対応措置に従い、入室予告音で暴漢の注意を引きつけ、催眠ガスを噴射しました。しかし暴漢は失神直前に、麻痺銃を発射した模様。バイタルサインによれば、あなたの負傷の程度は軽いようです。しかし念のため、救急隊を呼び出します』
「待ってください、救急隊は結構」
 まだ捕まるわけにはいかない。それがまず浮かんで咄嗟に止めてから、
「ああ、もしもそこへ倒れている人に、救急救命措置が必要ならば別ですが」
 とかろうじて付け加えた。
『暴漢の命に別状はありません。一時間、深く眠るだけです。睡眠の延長、あるいは覚醒を早める必要がある場合、措置を追加します』
「そうですか、それならそのままで」
 現れる文字を追い、声に出して答えながら、事態に理解が追いついてくる。私を大統領だと、部屋のAIは認めており、逆に「元」大統領の男を暴漢だと認定し、催眠ガスで眠らせた? 彼は気を失い倒れながらも麻痺銃のレバーを引いていた。しかし照準までは維持できなかったため、狙いが外れて私は、左肩と左腕全体が麻痺するだけで済んだのか。
「デス君が操作しているのではなくても、部屋のAI(あなた)はまだ、私を大統領だと認めているのですね? それで私を守ったのですね」
 半信半疑、問いかけると、ガラス板に「聞き取っています」の表示が出てから、答えの文字が浮かんだ。
『生命及び身体の保全に関しては、IDに関わりなく、バイタルサインで読み取った殺意の度合いと危険行動から判断しても同様の措置となります。また、役職者の認識に関しては、大統領の全権限移譲先IDの保持者があなたであることを認証しています。マイクロチップを胸元にお持ちです。そのことは、現在も画像により確認できています』
 文字の横にこの部屋の俯瞰映像が並んで映し出された。黄色のパーカーを着た私が立っており、ファスナーチャームのロケットペンダントは開いて、IDのチップを光らせている。
「では、……まだ、私の命令が行使されると?」
『なんなりと』
 打てば響くように文字が答えた。
「なんなりと……? ではもし、今すぐ甘いものが欲しいと言ったら?」
『すぐに準備いたします。甘いもので検索中。候補数が多すぎるため、より具体的なキーワードを複数、指定してください。聞き取っています』
「例えば……ええ、と。高級チョコレートにシロップやリキュールをかけたような?」
 信じられずに、大統領権限によってのみ実行できる命令をして試そうと思ったのだが、急には何も思い浮かばない。「甘いもの」などとどうしようもないことを言ってしまった。それならそれで、天下人以外はおいそれと口にできない珍しさの極みにある甘味でも指定すれば、まだ試しにもなったかもしれない。しかしそんな、あるのかないのかも知らない幻の菓子など、さらに思い付きもしなかった。
「ああ、妙なことを言ってしまいました。そんな場合ではないというのに」
 何をすべきか、ともかく権限の及ぶ間に? そもそもこれも、私をここへ留めおくための時間稼ぎで罠かもしれない。本当にAIの言っている、いや書いて出している通りなのか。AIは嘘をつかないどころではない。指示されれば、打ち込まれたシナリオ通りに私を騙す芝居をするだろう。誠実に正確無比に。しかしこれが罠か、そうでないのか、確かめる術を手元に用意できないこともわかっている。ここにいる以上、乗るしかない。
「教えてください。タワーの被害状況は? それから、この建物の倒壊可能性について教えてください。さらに、救助がどうなっているのか」
『お答えします。被害は下層……』
 滑らかに、記号を連ねた説明が続いたが、塔の内部区分や名称に精通しているわけでもないので、文字を見ても何もピンと来ない。
『建物倒壊の可能性は現在のところありません。パニックによる二次被害防止のため、タワー内に居住及び活動中の人々へは階ごとの移動を禁止し、平常状態へ復帰するまで最寄りの部屋で待機するよう要請しています。建物からの緊急脱出は現在、認めておりません。レスキュー隊は現在、下層域まで到達、展開しています』
 わかる文章が出て頷いた。
「レスキューか警備、SPか。ともかく他の人間がここまで来るのに、あと何分かかるでしょうか? 予想できればお願いします」
『聞き取っています。……レスキューの到達予定時刻は現在時刻から約五分後。高速昇降機の安全点検が終わり次第、順次移送を開始し、当該フロアーへ到達します』
 結局、五分か。
「レスキュー隊へは、下層で被害に遭った人達の救命を最優先にするよう、命令の伝達をお願いします」
 口にしながらも、デスとクオンに助けが間に合うとは思っていなかった。それでも言わずにいられない。AIはガラス板へ
『かしこまりました。実行しました』
 と文字を浮かべた。
 暴力的な要素なしにすんなり大統領交代が成功すれば、少なくとも数週間かけて、順番に色々なことをやる予定だった。クオンやデスの他に今回協力してくれた人々、それから他の最下層、下層、中層に上った知り合いとも連絡を取り、考えや要望を聴きながら政策を提案していこうと。自分が政治を動かせるような人間だとは思わなかった。しかし誰か、参政権もなく、市民権も持たない人々のことまで考慮する人物に、政治の中枢へ入っていて欲しかった。この都市の辺縁に確かに住み続けている人々のことを、少しでいいから知っており、僅かでいいから他人事でなく考えている人間が、中央にいて欲しかった。貧困、餓えや病い、暴力という、防ぐために対処のしようはあるはずの原因によって、日々あっけなく多くの命が消えている。人々の身体や精神、尊厳がとどまることなく脅かされている。それを少しでも減らしたかった。
 もうちっと多く、医者の先生に診てもらえたら助かるっすねぇ、とクオンは笑っていた。複数、不具合を抱え、しかもそれを騙し騙し、隠して凌いでいるらしい自分の体や精神のことで言っているのではなかった。近所の住民、老人。子守婆さん、爺さん達に預けられている、生育上の不安要素の見本市みたいな子ども達。そしてその母親達。多くが、尊厳はもちろん、健康上の安全も軽視された働き方をせざるを得なくされている、夜の仕事の女性達だ。肉体労働や兵役の現場で事故に遭っても充分な手当や補償を得られずに、働けない体になって戻ってきて、自分のみならず関わる人々の生活と心身までも壊してしまう男達。蔓延る一時逃れの刺激、賭博、アルコール、薬物。どうしようもなくそれらに依存し、ただ堕ちるだけひたすらに堕ち、堕ち続けながら死んでゆく人々。抜け出す手段が見つからない。無知が貧困に拍車をかける。
 間に合わない。五分でできることは何だ? クオンのこと、デスのこと。思い出している時間がない、喪失を受け止める暇もない。何ができる? 私は真面目な働き手ではなかった。何かを作ること、まっとうにやりとりすること、人を助け正しく人のためになることなどできない。私にできるのは他人から盗むことだけ。どうせ盗るならもっとも盗っている者、不当な富の上にふんぞりかえっているような者から、盗ってやろうと思ってきただけだ。それも思うばかりで碌々できずに今、ここだ。何かを作り上げることなどできない、治めることなどできない。なのに五分間、天下を盗み、何をする?
 その時、聞き覚えのある優しいメロディが部屋に流れた。開口部(スリット)が開く予告音だ。もうレスキューが来たのか、と慌てる前に、ガラス板へAIからのメッセージが浮かぶ。
『先ほどご注文の、甘いものが到着しました』
「は? 甘いもの?」
 壁に出入り口が開いて、廊下から無人の、ではなく自走式のティーワゴンがしずしずと入ってきた。上に銀盆が置かれ、ソーサー型シャンパングラスが一つ、水晶でできているかのような透明度で輝きつつ載っている。広口の、パーティでの乾杯などで使われる気取ったグラスだが、中に入っているのはシャンパンではないようだ。むしろ酒でも単なる飲み物でもない。透明で綺麗なスープ……に、可愛らしい形のチョコレートがいくつか、沈んでいるような。いつも夢には見てもそうも口へは入らない、シロップやガナッシュ、プラリネや漬けた果実を豊かに包む、一粒一粒の味の芸術。そんな素敵なチョコレート達の姿に見えた。
「何ですかこれは」
 手元までゆっくり寄ってきたワゴンで光る器を見下ろし、戸惑って呟く。グラスの横には金色の華奢なデザートスプーンとフォークが、柔らかそうなナフキンの上へ並んでいる。
『最上級のトリュフチョコレートに特製シロップと香り付けのリキュールを混ぜたものをかけた、大統領考案・御所望の特別デザートです』
 ガラス板にそんな文字が流れた。その時突然、そしてようやく、私は部屋のAIが完全に私を「現」大統領、この都市の最高権力者として「認証」していることを確信した。するといきなり、やるべきことへ意識が向いた。
「デザートは後で。この画面に五分間のカウントダウンを表示してください。そして統括AI(あなた)は、今から命令することを確実に伝達し、命令が不可逆的に拡散していくようにしてください。すべての末端へ到達するまではウィルスの感染拡大のように、発信元より必ず受信先の数が多くなるようにし、全部の受信元へ命令が速やかに届くようあらゆるルートを使ってください。そして該当部署へ到達次第、全ての命令が即座に実行されるよう手配してください」
 板に「聞き取っています」の表示が浮かぶのを見つめながらはっきりと話した。文字の横へ小さく、五分間のタイマーが表示されてカウントダウンを始める。五分で充分、できることがある。
「隣国、及び関係諸国への停戦を申し入れます。本日より当都市ではあらゆる武力を放棄し、何に対してであれ、武力をはじめとする暴力によって事態解決に当たるという行動は選択から除外します。これまでに調停を申し出ている国際関係機関へ、直ちに停戦調停を依頼してください。同時に現在ただいまより、国境付近、及びその外まで展開中の当方都市軍の全てに退却、撤退を命じます。当方都市の正式範囲内まで撤退した後は、全軍、全てのグループに対し、速やかに武装解除と組織の解散へ向けた手続きに取り掛かるよう命じます。兵士は武装を解除し、元いた生活の場へ戻ってください。そうできない人々に関し、相談と補助を行える組織の立ち上げを提案します。議会その他、必要な場所で諮り必要な予算を計上し、なるべく早く実現するよう動いてください」
 全軍の武装解除までしてしまったら、隣国その他からの攻撃を受けた場合、都市は壊滅ではないか。床で意識を失くしている「元」大統領の男が囁くかのように、私の頭へはそんな考えも浮かびはする。
「逆です。逆に、まだ開戦していない今しかない。一度でも何か手を出し、本当に『侵攻』してしまったら相手には『報復』の口実ができて、そのまま泥沼です。でも今、こちらから停戦し、国際社会を証人に立てつつ本気で武装解除をすれば、その後、丸腰の相手へ手を出す相手が誰であれ悪いことになる。国際社会と世論を敵に回してまでここへ『侵攻』するほどの利点があるとも思えない」
 使わない武器を用意したり持っていることは不必要だ。私はそうして“仕事”してきた。などと言ってはまさに「盗人にも三分の理」になるか。でも、私は真面目な働き手達とは違い、自分で何かを作り出すことはできないかもしれないが、こうして誰かの血塗れの野望を盗み出して使えなくすることはできる。
 善人では悪人に対処できないことがある。善人は善性ゆえに、他人を苦しめるような酷いことを思いつかず、仮に思いついても「まさかそんな」と信じず、自分では悪事を実行しないからだ。私のような悪党の存在意義がその隙間にある、と言ったら「元」大統領は「害虫」と罵るだろうか。何と言われようと知ったことではない。
「人を殺すのも、人のものを取るのも犯罪です。それが日常のルールです。開戦すれば日常が、ルールごと全部消し飛んでしまう。そうはさせるものか。戦争成金の超大金持ちが極少数、最上層の居住区に閉じこもっている街なんてどうにもなりゃしない。普通のドアから入っていける場所に、普通の人の普通の日常生活がごまんと成り立っているのでなければ、私の“商売”はあがったりなんですよ」
 独り、自分の不安へ向けて反論しながら、揺れそうになる気持ちを立て直した。
「軍は撤退の際、物品、家畜や植物、人間に至るまで、こちらから持って行ったもの以外のものを持ってくることを禁じます。また、傷病者はもちろんのこと、乗り物、物資、兵器、廃棄物、不用品等を置き去りにすることを禁じます。軍で所有していた物品の他所への横流しや横領を禁じます」
 人のものを盗ったら泥棒だ、などと、どの口で言うのか。可笑しくはなるが必死の真剣さで続ける。
「資材は全て都市へ戻し、軍を解体した後で、しかるべく有効活用できる場所へ分配する手立てを取ってください。武器に関しては全てを順次スクラップとし、武器としての再使用や再構成が不可能な素材状態にしてから再利用へ回してください。武器が都市内に残ることのないよう、また、都市の内外問わず闇市場などへ出回ることのないようにしてください。これらすべての命令の実施に関しては上層の人間のみで行わず、アクセス可能地点で必ずAIの補佐を付け、AI同士は連携を取り人間の実行者が誠実に命令実行しているかのチェックを行ってください。また、その間の経緯の記録を漏らさず、最終的には全て市民へオープンな場で検討、経過報告することを命じます」
 カウントダウンの数字が減っていく間、私は命令を発し続けた。

 五分を使い切り、私は「開戦」の可能性をできる限り潰した、と思う。その頃には、展望窓の外の景色が騒がしく動きのあるものになっていた。警察や報道のものらしい飛行ビークルがタワーに近接して飛び回り始めている。機体は物々しく、動きはいかにも激しく忙しない。しかし都市内の上層居住区近くだからか、多くの乗り物はホバーなど比較的静音の飛行機械が選択されていて、室内へ騒音はほとんど聞こえてこない。飛行する機体の影が夕日の光を遮り、室内を何度も横切っている。
 逃げ出すのなら五分前の方が良かったし、それでも逃げおおせたかはわからない。第一、逃げてどこへ行こうというのか。一番大事な仲間を死なせてしまってこの先も、怪盗ピーペだと威張っていられるほど厚顔じゃない。執務室へ立てこもっても時間の問題だろう。今のところ部屋は私に味方しているが、その気になれば無理矢理にでも開く方法がいくらでもあるはずだ。それとも逆に閉じ込めて投降を促すとか、あるいはそのまま亡き者にしてしまうことだって可能だと思えた。
「もう少し印象的な、ロマンチックな最期を期待していましたが。逆にもっとろくでもない終わり方も何種類でも考えられるので、その中ではマシな方でしょうか」
 独り言で言い、部屋のAI向けに
「あなたに自殺幇助、というか具体的には、私に安楽死措置を施すことは認められていますか?」
 と尋ねる。目の前のガラス板には案の定「認められていません」との文字が出た。
「そうですか。催眠ガスか麻酔弾でも致死量使ってもらえれば、大変結構だったのですが。しかしそうすると、あなたに人殺し機械との汚名を着せることになるのか。それは本意ではないですね」
 優雅なティーワゴンに、さっきの頓珍漢な高級デザートが載って待っているのを眺めつつ、独りで喋る。終わりにせねば、と思うと柄にもなく、こんな人生へも未練が感じられるのだろうか。寂しくて悲しい気もしてあまり落ち着かない。クオンもデスも先に行っているのだから、ここで寂しがっていても無駄だと自分に言い渡す。
「歴史の香り床しいロボット三原則は私も尊重したいです。こう見えてロマンを愛する怪盗を自認していますから。でも、このまま捕まって秘密警察に連れて行かれ、拷問の後、殺されるというルートは避けたいのです」
 言葉に出せば気持ちは固まる。手段として使えそうなものは、「元」大統領の男の側へ転がっている麻痺銃か。左肩から手の先までが利かないだけなので、右手で銃を持ち自分の心臓を撃つことはできる。心配なのは蘇生されてしまうことだった。部屋をまた大きな飛行船の影が横切って、私は「そうだ」と振り向いた。
「展望窓を開くことはできますか?」
『構造上は可能ですが、安全のため、緊急時を除き禁止されています』
 ガラス板へ浮かんだ答えに少し安堵する。撃った後の体が塔から落ちるように体勢を工夫すれば、この高さだ。拾い集めて再生することもほぼ無理な状態になるはずだ。後始末をする人、あるいは機械には申し訳ないが、私の勝手な願いとして、自決したつもりが蘇らせられ改めて拷問を受け殺されるのは避けたい。苦しいのや痛いのは大嫌いだ。
「申し訳ないのですが緊急時です。窓を開けていただけますか? それからたくさんの協力をありがとう。もしも来世とかパラレルワールド、天国とか何かで『今度』などというものがあればですが、今度こそそこへ用意していただいた素敵なデザートをいただきに来ます。今日のところはどなたか、ここへ来るレスキューの方へでも差し上げてください」
 指示を出し、展望窓がゆっくりと開かれていくのを眺めた。天井から床まで一面を閉じていた枠のない広い窓が大きく開き、外界とここを遮るものがなくなる。風が吹き込む。温度調整されていない風は冷たく感じられ、外の匂いが押し寄せる。それですら最下層の空気とは全然違って「綺麗」だけれども、飼い慣らされることのない生きた風の匂いには、地上で巻き上げた塵芥や大気中の湿気、大気汚染の香りもたっぷり含まれていると感じる。この中にはさっき、デス達を殺してたなびいた煙の粒子も、まだ匂いとして嗅ぎとれるほど含まれているだろうか。それを憎むのか、懐かしむのか。私はすぐに決められない。麻痺銃を取ってこなければ、と窓を背に、倒れて眠り込んでいる男のところへ歩きかけた。
 その時、部屋に先ほどまでとは音色の異なる、もう少し注意を引く音楽が流れた。同時に壁と床に、緑色に光る矢印が現れてはっきりと点滅し始める。
「何です、これは」
 呟きに応じるのか、後にしてきたガラス板が伸縮アームを柔らかく伸ばし、読みやすい場所へと差し出し直された。
『タワーからの緊急脱出措置が整いました。大統領専用脱出飛行救命艇へご案内します。緑の矢印に従って、速やかに避難を開始してください』
「避難? ……ああ、誤解させてしまったのでしょうか。さっき緊急時と言ったせいで?」
 部屋が私を逃がそうとしているのかと思い、やや慌てて訂正しかかると、文字が書き換わる。
『展望窓の開扉とは関連しない緊急事態の発生により、現在、避難プログラムが発動しています。当該タワー内に留まることの危険性が高まり、一旦、すべての人員を救命艇へ誘導し避難させるプログラムが実行されています。大統領も避難対象者となります。緑の矢印の誘導に従ってください』
「さっき、タワーは壊れないと言っていたではないですか?」
 かなり驚きながら尋ね返すが、AIが返答としてガラス板へ打ち出した文字列の膨大さと、専門用語を多く含んだ難解さに読み解く気が失せる。
 見聞きし、体感したことから判断するなら、あれ以降ミサイルの攻撃はなかった。そして建物が、例えば揺らぐとか、振動や危険を感じさせる音などを伝えてくるということもなかった。今も、展望窓から見える報道あるいは警察の飛行機械が複数、怖いもの知らずにも塔のギリギリまで寄せて来ている。その様子は、タワーが崩壊しそうな気配もないからこそだ、と思える。けれど、私もこのような高層建築が崩壊する場合についての専門家ではない。予兆など何もなくても急に崩れ落ちるものなのかもしれず、そこは何とも言い切れない。
 本当にタワーが崩れるのなら、室内で倒れている男を私が救命艇に運んでやって、避難させねば。一時間は催眠ガスの効果で眠り続けるはずだから、自力の避難は無理だろうし、塔が崩壊するといって緊急避難が始まっているのなら、レスキューもここまで来ないかもしれない。大体、AIの予想では五分後にここへ到着する予定だった彼らが、実際にはまだ来ていない。そうなると、男をこのまま置いておくことは見殺しにすることとイコールのようだ。個人的な感情としては進んで助けたい相手ではない。それでも人の命を盗らないのは私のポリシーだった。レスキューで入って来たはずの人達や、下層階の労働者の内でミサイル着弾後に生存していた人達も、もう脱出できているのだろうか。
「タワーの生存者全員が脱出できてから、私も脱出します」
 そう言っておけばタワーと共に終焉を迎えることも可能かと計算しながら、私は部屋のAIに告げる。床と壁では緑の矢印が点滅を続けている。その明滅を三回、数えて眺める間に、どうも死んでいる場合ではないと考えが回った。
 私が死んだらどうなるか。次の大統領が選ばれる。その人物は、私がさっきしたことを全て元に戻してしまうこともできる。私がここへ来て話し、行なったこと全てを、なかったことにもできるのじゃないか? 停戦を撤回し、軍備解体をストップし、今までよりさらに好戦的に、他人を強烈に抑圧するため強権を集めるかもしれない。
「だめだ。死んでいては、クオンとデスに何も言い訳できないじゃないですか」
 私が生きたまま、ID入り電波遮断容器ファスナーチャーム付きの黄色いパーカーを着て逃げ延び、当分そのまま生きていることが、少なくともさっき出した停戦命令を有効にする方法だ。デスの作った、統括AIがIDで支配者を認識して動くというタワーのプログラムは、デス以外には簡単にいじったり書き換えたりすることができないもののはずだ。AIは私を「現大統領」だと認めている。つまり執務室にいなくても、行方不明であっても、私が生きている限りおいそれと「代わりの権力者」が最高権力を握って動かすことはできなくなる。
 逃げなければ。それこそ、今こそ怪盗の得意技として、見事に逃げ切ってみせなければ。
「そこへ倒れている人を、この部屋専用の救命艇へ乗せましょう。そして先に脱出させてください。私はもっと別の、下層階からの救命艇へ乗せてもらえればと思いますので」
 部屋のAIへ呼びかける。大統領専用の飛行救命艇となれば、後で、でなくとも今まさに外にいる警察機達によっても、乗っているだけで追跡されてしまうだろう。部屋に留まることと同じぐらい、捕まることを確定してしまう。ここは別のものに乗るためにも、先に「前」大統領を乗せて飛ばせてしまうのがいい。
『かしこまりました。暴漢を拘束した上で避難させます』
 ガラス板の文字から察するに、部屋は依然、「元大統領」を暴漢と認識しているらしかったが、頼んだことはすぐ実行に移してくれた。緑の矢印を点滅させていた先で、壁が開口部を開き、自走式のストレッチャーが室内へ入ってくる。他に誰もいないので、私が男を担架に乗せねばならない。左腕が使えないのに、体の厚みや肉付きのある重たそうな相手を持ち上げられるだろうか。心配したけれど、ストレッチャーは男の側まで来ると足を縮め、床に付くまで低くなった。男の体をうまく転がして、担架に無事、乗せることができた。自動で固定ベルトが締まり、ストレッチャーは再び動き出す。そしてスムーズに開口部を通って行った。
「よし。避難状況はどうでしょう。下層階の救命艇で、ここまで寄れる余裕のあるものは」
 尋ねた声に、AIが今までとは異なり、ガラス板へ浮かべる文字ではなく合成音声で答えた。今や天井から床までの部分が全開になっている展望窓の方から、落ち着いた男性の声が大きくはっきり響く。
『ピーペちゃん、こっち。飛んで来て』
「……は?」
 振り返って見えたものは、展望窓を塞ぐように迫り上がってくる飛行船の銀色で、それは部屋へ夕陽の反射光を入れて束の間明るくした後、今度は光を遮り影を落として暗くする。部屋のAIがまた「喋る」。
『早く、飛んできて。逃げよう』
 目の前の飛行物体はタワーの救命艇、でいいのだろう。開いた窓の外はさすがに、風の音と様々な飛行機械の音で煩く、人声が簡単に通る環境ではない。しかし部屋のAIの合成音声はボリュームも充分、読み上げ速度と滑舌も文句なく、壁に仕込まれたスピーカーも上等なのか、完璧に聞き取れる。
『何をぼーっとしてるのさ。飛んできてってば。僕が受け止めるから』
 言葉の内容にそぐわない、はっきりゆっくりと読み上げる音声だが「デスの声、デスの言葉」に聞こえる。そして窓の外、数メートル先で揺れている飛行船のゴンドラで、スライド扉を開きへっぴり腰で乗り出そうとしながらこちらへ手を振り、聞こえない大声で何やら言っているのは「デスの姿」に見えた。
「何で生きてるんですか?」
 言葉が勝手に口から出たが、この疑問への答えを待つ気はなく、私は「飛ぶ」ことを考えていた。
 ゴンドラへ飛び乗るためには床の終わり部分から飛行船の扉の内側まで、最低でも五メートルのギャップ。下は何百メートルだか。下については即、考えないことにする。飛行機械の構造的に、現在位置よりさらに塔へ寄せるのは無理なのだろう。では、少なく見積もっても幅跳び五メートル。競技選手でもない生身には無理だ。全盛期の体力があったとしても、護身武器で撃たれた麻痺がなかったとしてもだ。怪盗だからって、身一つで空は飛べない。それはよくよく言ってあったはずではなかったか? 持って来た脱出道具など何もない。黄色のナンバーワンパーカーに、インチキなセールストークでさえ飛行機能までは付けられない。
 急いで室内を見回した。家具のないシンプルで優雅な執務室、ふかふかの絨毯、優しく光のサインを出している壁、防犯カメラを仕込んだ天井近くのモールド。部屋の中にまだ、食べられるのをポツンと待っている「現」大統領考案・所望のスペシャルデザートがある。美しいグラスの中の甘いスープに沈む可愛いチョコレート。それを乗せている華奢な雰囲気のティーワゴン。ティーワゴン! これだ!
「あの自走式ティーワゴンのスペックを教えてください。耐荷重とスピードをお願いします」
 AIに質問する。
『最大積載重量150キログラム、自走速度は平均時速二十キロです』
 AIが「デスの声で」丁寧に答える。時速二十キロなら自転車並みだ。私はワゴンに近寄りシャンパングラスと、揃えられていた可愛い金のフォーク&スプーンをナフキンごと取り上げた。
「これをちょっと持っておいてください。欲しい人が来たら差し上げるようにお願いします」
 言葉に従い、壁からドリンクホルダーらしいものと小物置きのトレーが、伸縮アームの先に付いて差し出されて来た。グラスと布、食器はそれへ預ける。
「本当にコソ泥のようで申し訳ないのですが、ワゴンだけしばらくお借りします。返せるかわかりませんので、弁償費用を大統領の月給からでも引いておいてくださいね。今から私がこれへ乗ります」
 言って小さな荷台に登る。なるべく身体を小さく丸めて身を伏せ、しっかりと掴まった。
「私の重さも測れているのでしょうね? では、あちらの飛行船へ届くぐらいの飛距離を出せるよう、適切な加速度になる分の助走距離を取って自走させ、展望窓から飛行船の開口部目掛けてワゴンを飛び出させてください。よろしくお願いしますよ」
 窓枠というものがないため、床の終わりで引っかかる段差もないはずだ。指示を出し、動き出したワゴンの上でバランスを保ち、掴む右手に力を入れる。これでダメならそれはそれだ。というよりも、正直に言えば、ダメだなどとは微塵も考えなかった。
『かしこまりました』
 AIの返事の後、半拍置いて
『来て。受け止めるから。絶対に』
 誰かの余計な言葉が続く。
「受け止めなくていいです! 下がって、避けていなさい!」
 窓に叫んだが、届いたかどうか。それ以上気にする暇はなかった。ティーワゴンは奥の壁まで滑らかにバックして距離を取った後、前進し、急激に加速した。
 
 キャビン内に充満していた複数のエアバッグが、役目を終えて自動で収納され直してゆく。クオンの姿を探したが、客室内も、向こうへ素通しで見える運転席にも私達以外の人員は見えない。救命飛行艇は自動操縦されているようだ。塔の側へ向け大きく開いていたスライドドアが、ゆっくりと閉まった。
 窓から見えた周辺の空は、先ほどよりずっと暗くなっていた。日暮れにはまだ時間がある。さらに、ここは高い場所なので、下層の街より遅くまで照らされ日没が遅いはずだ。暗さは空が曇って来ているからだった。それだけではなく、光をしょっちゅう遮るほどに、たくさんの機影が近くを飛んでいる。集まっていた警察や報道のホバーかと思って見直すと、それらは遠巻きの距離へ退いており、代わりにタワー周辺の空は脱出した救命飛行艇、飛行船の類で混み合っている。あたかも鳥の群れがねぐらの樹から、一斉に飛び立ったような具合だ。
「痛いよ〜、折れたぁ〜! 血が出たぁ〜……」
 みじめったらしい泣きべそ声の方へ目を戻せば、デスがティーワゴンと一緒に、まだ座席の間へ転がっていた。
「折れてません。そんな音はしなかったし、血も出ていません。どう見てもどこも曲がってません。お立ちなさい」
 告げると、床へ座り直す程度までは起き上がる。
「でも痛い〜、ぶつかったぁ〜。ピーペちゃんやっぱり重たい〜。大物は特に重たいんだぁ〜」
 可哀想というより、もう鬱陶しいので、泣くのはどうにかならないのだろうかと思う。けれども、こうして涙をボロボロ流すのが多分、彼にとって手軽で効果的なストレス発散方法なのだろう。なんとなくわかって来た自分がちょっと嫌だ。
「避けろと言いましたよね」
 聞こえなかったかもしれないが。
「重たいのは加速度ですし、ティーワゴンの重さです。それもかすった程度でしょう」
 真正面から受け止めようとしてぶち当たっていたら、彼の身に今、骨折や出血が本当に起こっていたかもしれなかった。しかし、運動し慣れていない不器用さが逆に幸いしたのか、デスは「ティーワゴン突入の勢いであおりを喰らって勝手に倒れた」ぐらいのところが正確だ。ベソベソと泣いている彼を見下ろしながら私は、子どもと酔っ払いと愚か者には特別な天使が付いているため滅多に怪我をしない、という言い回しをなんとなく思い浮かべる。
「私は全然、あなたに当たっていないはずです。ちゃんと柔らかそうなエアバッグの方へ飛び込みましたから」
 怪我をしたくなかったですし。付け足して、乗り合いビークルの車内を思わせるキャビンへ視線を巡らせた。エアバッグが大量に膨らんで私を受け止めてくれたのは、この救命艇も塔のAIと連動していて人命救助のやり方をきちんとプログラムされており、適切にそれを使えるということなのだろう。
「ありがとう、無事脱出できました」
 飛行船の制御装置が聞き取って部屋のAIへも伝えてくれるかと思い、そう言うと、
「どういたしまして」
 なぜか涙声でデスが答える。誰に向けて言った「ありがとう」のつもりだったか、敢えて訂正しない方が親切だろうか。間を置かずに「同じデスの声で」合成音声がもっと落ち着いた響きを伴う
『ご無事で何よりです、大統領』
 という返事をした。声は客室内のスピーカーから響いている。どうやら執務室で会話していたのと同じAIへ、救命飛行船の中からもまだ、通話が可能なようだ。そこで
「……ちょっとさっきから、気になっていることがあるんですが。AI(あなた)の合成音声が、どうもデス君の声のように聞こえて混乱します。これは、たまたま似ているだけですか?」
 と尋ねたところ、
「ああ、さっき執務室で応答を文字から音声出力に変えて、『飛んできて』って言ったのは僕がこっちから操作したんだよ。普通に叫んでも距離と外音で、あっちではちゃんと聞き取れないんじゃないかと予想できたんで」
 横からデスが答えた。それは非常に正しい、賢明な措置だったとは思うが質問の答えにはなっていない。だからなのか、すぐにAIが、
『現在使用中の私の音声は、設計者の声をサンプリングし、合成している特別なものです。私には他にも何種類かの声があります。ご指定により、応答音声は随時、変更可能です』
 と穏やかな答えを足した。その声質はデスのもので、喋り方は全然違う。
「そうですか……こうして聞いていると、良い声なのですね。今まで気付かなかったな」
 礼儀正しい話し方に丁寧ではっきりした発音、聞き取りやすい速度というAIの声は耳に心地よく、胸の中へまで温かく快く響く。はっきり言ってしまえば好みの声だった。
「でしょ? 僕って声もいいんだよ。だからAIの声にも使っておいた。あ、それから僕は歌もうまいよ。何か一曲、歌ってあげようか」
 隣で泣き止んだデスが、今度はニタニタし始める。そう思って聞けばこちらも確かにAIと同じ(素敵な、と言えなくもない)声のようだ。それに彼の顔は、今やたらに汚れている上、涙とよだれと鼻水まで出ているが、それをしっかり拭けばゾッとするほど美しい造形であることは間違いない。なのに、この生身の青年が何だか残念なのは一体どうしてなのだろうか。
「クオンさんはどこです? 無事なのですか」
 もう答えられるだろうと、気にかかっていたことを尋ねる。
「クオっちはビークル運転して行ったよ。この飛行船が降りるところへ迎えに来てくれる約束。持ってた自前の位置情報システムは生きてるから、ちゃんと追跡してもらってる」
 聞いて、これからの段取りがどうでもよくなるほど、クオンの無事にホッとした。
「良かった! クオンさんが無事で本当に良かった。あなた方のいる場所へミサイルが撃ち込まれた、と『前』大統領が言ったものですから、つい信じてしまって。通信もまさにその時途切れましたし、あなた方はもう生きていないのじゃないかと思いました」
「うん、死ぬとこだよね。クオっちのおかげで生きてるよ」
 デスが真顔で頷く。なんとなく嫌な予感がして彼を見た。
「クオっちって、ものっすごく用心深いんだね。ほら僕達、ビークルでタワー下層階の、外部の人間でもワーカーならギリギリ入れる、ってとこまで上がってさ。駐車場から電波出してAIを懐柔して、高速リフト呼んでピーペちゃんを上層階へ送ったじゃん。その時点でもうタワーの無人設備は全部、僕の言うことを聞くわけだから、そのまま通信維持して操作しようとしたら、クオっちがやたらソワソワして。『絶対ヤバイから』ってやたらに言うんだ。だから妥協して、彼女が納得するぐらいまで、ビークルを電波届くギリギリのとこへ下げたんだよね。そしたらミサイルがドーン」
「あれは本当にミサイルだったんですか」
「まあ着弾五秒前に気付いたからギリギリ、プログラムに干渉して不発にすることだけはできたんだけど。あのフロアーではちょっと置いてあった乗り物類が燃えたりしてた。でも、僕ら以外に人は誰もいなかったから人的被害は出てないよ、安心して。火事も普通レベルのやつだったから、タワーの通常のオート対応ですぐ消火したしね。ただ、壁には結構でかい穴開いてたな。それに僕ら、すぐ移動したんで、まだ不発弾がそのまま転がってる状態で放ってきちゃった。今頃は撤去のために、無人機械で編成されてる処理班と、それを遠隔操作でバックアップする技師班が頑張ってると思う」
「なるほど……」
「ビークルを奥の、駐車場入り口まで下げてなかったら直接、当たってたかもしれないし、そしたら爆発してなくても死んでたかも。でもギリギリまで下げてたせいで、フロアーが衝撃で揺れた時にスロープをそのまま下層階まで滑り落ちちゃってさ。電波届かなくなって通信が一度、切れた。で、通話はそのままになっちゃった、ごめん。通話の方を繋ぎ直すより、ピーペちゃんが『前』大統領とやりあってる映像に字幕入れ加工とかして拡散したり、ピーペちゃんの停戦命令を『感染爆発』させるためのプログラム走らせるの優先してたから。腕が二本、二人でも四本しかないからさあ。クオっちもめっちゃ頑張ってくれたんだけど、どうしても同時にできることが限られてさ」
「待ってください、ミサイルは爆発していなかったのですね? タワーのAIも最初、建物崩壊の危険はない、と言っていたのです。それがどうして後から、全員緊急脱出するように、と変わったんです? 脱出という割には、見えた範囲の飛行艇に人が乗っているようでもありませんし。あなたが何かしました?」
 尋ねている途中にも、デスがニヤニヤ笑いになっているのを見て「何かしたんだな」ということはわかった。
「昨日クオっちにもらったレトロゲームのソフトが、なんとちょうど良くて」
 咄嗟には関係なさそうな話に思えるが、口を挟まず耳を傾ける。
「摩天楼にゾンビが大量発生して、上へ上へと逃げながら脱出を目指す楽しいゲームなんだけど。これをAIのデータに入れてやって、まさにリアルタイムで現実に起こってることだ、って認識するよういじったわけ。だから今『大量発生したゾンビから逃げるために救命艇は生存者を乗せて全部脱出』してるんだけど、ピーペちゃんの気付いた通り、どれにも乗ってる人はいない。あれでもデータ上は、ゲーム内のNPC、あ、プレイヤーが動かしてないキャラのことね、もちろんゾンビじゃなく初期の生存者達。その人達が乗って、脱出してることになってるんだよ。AIの認識上に限った話だけどね。実際にはゾンビなんてタワーに一体たりともいない。居住者やワーカーも、最寄りの安全な部屋でずっと待機命令守ってるよ。こんなの、『ゾンビが大量に発生』みたいな初期の報告時点でも、人間ならすぐゲームだな、フィクションだなって気付くよね。でも、ここのAIは素直だから。作り主に似て」
 最後の台詞に限らず、言われた全てに呆れてしまった。彼は、
「あれ、だけどピーペちゃんさぁ、緊急脱出が必要になった理由を怪しんで、AIに言ってデータ出させるところまではしてたよね? その報告、ちゃんと読んでたら何があったかわかってるはずだけど。読まなかったの? いきなり脈絡なくゾンビが大量発生とか、急に話のジャンル変わり過ぎててありえないから、普通すぐ気付くでしょ」
 と笑いながら続ける。その態度には妙に腹が立ってきた。しかしそこまで話したところでデスが急に、「思いついた!」という例の顔でハッと私を見、
「そういえば! ピーペちゃんって撃たれたんだよね。ゲームでもよくあるけど、怪我した相棒の手当ては重要なイベントだよ、親密度アップ、エモいムービー入ったりしてさ。是非やらなきゃ! 左肩と腕、動かなくなった? 大丈夫? 見てあげる、見せて。脱いで」
 と言いながら腕を伸ばし、私の黄色のパーカーに手をかけた。
「大丈夫です! 麻痺銃ですから何もせず放っておいたとしても数日で治ります。ねぐらへ戻れば緩和剤もあるはずですし、何かおかしいようなら馴染みの闇医者先生を頼みます」
 動く方の腕で振り払って離れた席へと距離を取るが、未練がましくにじり寄ってくる。
「いや、でもこの飛行船、救急救命のために医療キットとかも積んでるし。応急処置してあげるよ、腕とか胸の辺り、痺れてて気持ち悪いでしょ? ちゃんと気持ち良くなるようにマッサージとかもしてあげる。ねっ、任せて」
「全く任せたくないです。そっちへ座って両手は膝に。自分の膝です、こっちじゃない! 寄ってこないように」
 牽制し、それからようやく先ほどの言葉が頭に入ってきた。
「それでは、執務室での私の様子は、音声での通信が切れてからも、あなた達からずっと見えていたわけですか?」
「見えてたし、聞こえてた。五分で停戦と軍備解体の命令、出し終わってたよね。ウィルス感染みたいに命令が不可逆的に伝達されて実行されるよう、プログラムしろなんてすごい無茶振りまでつけてさ」
 頷いてから彼は少し姿勢を正し、私の顔をじっと見た。
「あれは、ピーペちゃんが前から考えてたことなの? 五分しかない、ってわかった時から急に、あんなにすらすら停戦と軍備解体のための命令を思い付くものなのかな」
 真顔で問われ、やや言葉に詰まる。
「さあ……目の前の『元』最高権力者がやろうとしていたことが戦争だ、と分かった途端に、五分でそれを止めてやる、と思ったような。反発心、でしょうかね。好きにさせてたまるか、という」
 答えを探して無意味に視線を下げると、動かなくなっている腕も含めて上体を着実に包んでいる、パーカーの黄色が明るい。
「クオンさんとあなたが、あの男の仕組んだミサイルでやられたんだと、あの時は思ったんですよ。それは腹が立つとかよりショックが大き過ぎて、自分では何も考えられていない気分だったんですが。その間も考えてたんでしょうかね。戦争になったら権力者は安全なところにいて、ゲーム感覚で指揮をし、ますます権力を集め、いよいよ儲かる。その上、周りが極貧に堕ちていくので、相対的には最高に富み栄える存在となるのかもしれない。でも権力者ではない人々は、相手の国も含めてですが、直接の戦闘でも派生的に起こってくる各種の間接的な窮乏状態でも、とにかくたくさん死ぬでしょう。例えば身近なクオンさんやあな……いやまぁ、知り合いの人達で考えた時に、自分の好ましいと思うような人達が寿命ならまだしも、それ以外の避けられる理由で無駄に死ぬというのはどうも許容し難いなと思って。許容したくない、だからしない、と思ったのじゃないですかね」
 一番上へ出てきた思いを一番に実行しただけだろうと思う。答えた私へ、
「君からどんどんAIに向けて出された命令が実行できるよう、プログラムに手を加えながら僕は、ピーペちゃんに『支配者になって』って頼んだこと間違ってなかったな、良かった、って思ったよ」
 とデスが言った。突然その声も、目を上げて目が合ったその顔も、一切の留保なしに美しいと気付いた。驚いている自分にさらに驚くような、奇妙な気持ちに焦りまで覚える。
「ですが、私は支配者にはなりたくありません」
 焦りは形を変え、私は急いで伝えた。
「私が支配されたくないのだから、支配・被支配という関係性の構図自体、拒みたい。支配されたくない、抑圧も、侵害もされたくない。だからって、支配する側ならいい、奪う側や殺す側にならなってもいい、とも思えない」
 彼は頷いた。
「同じ暴力がどっちへ矢印向けるか、それぞれ単に反対側の面、ってだけだもんね。君は泥棒なのに、暴力がすごく嫌いなんだ。でも、だからさ」
 デスの声が深くて、耳にとても柔らかい。
「君が支配したくない人だから。支配者にならないって、偉そうに頑固に、誰の許可を得ないでも自分で勝手に決めてる人だから。そういう人にこそ、ちょっとの間だけ天下を取って欲しかった。五分で何ができるのか、みんなに見せて欲しかった」
 どういうことか、と彼を見つめると、黄色い瞳が見返した。その明るい黄色が、現在、自分の纏っている色と同じようだと急に思い至る。
「AIじゃなくて、金とか力に取り憑かれて人の心も忘れ果てたような奴じゃなくてさ。まだ人の心を持ってる人が、中央で何か動かしたらどうなるのかなって。夢が見たかった、ってことかもしれない」
 彼の口から聞きそうもない不思議な言葉に、私はなんだか現実味のない空中で揺れているような気がしたが、飛行救命艇は実際、気付かないぐらいの穏やかさで少しは揺れもするようだ。デスが続ける。
「この都市の支配を助けるAIを僕は作って、人の管理を楽にするシステムも作った。でもそれは誰かの権力を無駄に強めたり、資産をやたら増やしたりするのにばっかり使われてた。僕自身はそんなこと全然したくもなかったのに、そうなった。僕に作れるものを作って遊んでいただけのつもりが、知らない人を知らないところへ兵隊にして送り込んだり、医者にかかれない御老人や子ども、シャワーを浴びられずご飯も買えないような人たちから最後のコイン一枚まで税金として取り立てるため便利に使われてた。僕自身もそれで管理されてた。頭と胸にチップが埋まってて、欲しいものは部屋に居ながらどこからでも、ほとんどなんでも取り寄せられるけど、常時監視されててタワー上層階から出られない。それって使える限りの道具としてただ取って置かれてるだけなんだ。そんなのが人生? 納得できない。だから、中央塔内部で完結してるはずの通信をいじって外のネットワークへこっそり繋げてさ。人身売買組織とか、最下層のヤバそうな商売の奴らにわざと知らないふりで連絡取って、逃げ出せるかやってみたんだ。僕が遊びで何かおかしくしちゃったかもしれない。そういう世界の端の方の現実ってのを自分でちょっとでも知れるのなら、くたばるリスク取ってもいいんじゃないかと思って」
「それで本当に、外界へ出るや否やくたばりかけたんですから、実にしょうがないですね」
 咄嗟に手厳しく言い返してしまったが、初めて出会った時に彼が陥っていた絶体絶命状態を思い出すと、今度は身震いが出る。その時は、馬鹿が馬鹿をやってる、としか思わなかったのに、今となっては目の前の青年が火をかけられるかと思うだけでもゾッとした。こちらの内心を知らないで、デスは「ひっど、この誠実な開発者の責任感について、もうちょっと感心してくれても良くない? リスペクトの欠片も感じないの?」と恨みがましい視線を送る。
「でも、命がけの値打ちはあるよ、あったと僕は思う。友達が欲しかったんだ」
 彼はまだ強い真剣な視線を、長い睫毛の陰へそっと伏せた。
「友達? ……そんなもの。上流の錚々たる人々と、当然お知り合いかと思っていました」
 呟きに、同じ呟きほどの声で彼は
「知り合い、っていうならそりゃね。いっぱいいたよ、前大統領(あの男)も当然そうだし。顔や名前が多すぎて、当たり前だけどAIが代わりに記憶して管理してたから全然、覚えてない。それって単に、僕っていう便利な道具にアクセスしたい人が多かった、ってだけ」
 と言い返す。それから、
「でも、できれば生きてるうちに、僕が道具としてどう便利かとか関係なく、ただ僕がいるからってだけで相手にしてくれる人と会いたかった。それでその時は、認識用の番号記号じゃなく、役職名や称号でもなく、嘲った変なあだ名で呼ぶんでもなくてさ。僕の名前に優しく『君』とか『さん』とかつけて呼んでくれて、こっちからも親しみ込めたあだ名で呼んだり、幼稚園(キンダーガーデン)の時に習った通り、大事に『ちゃん』付けして呼び返せるみたいな友達がさ。欲しかったんだよ」
 と締めくくった。彼が私を呼ぶ、その呼びかけは不遜なわけでも、馬鹿にしてのことでもなかったのかとようやく理解する。浮かばない言葉の代わりに視線を動かすと、窓の外では、にわか雨がパラつき始めていた。飛行船はもう、下層エリアの上空へと差し掛かっている。下層とはいっても、塔を中心に広がる都市の広い縁辺部に差し掛かった、というだけのことで、私達のいた最下層の居住区とはまた違う方角だ。私のねぐらがあるあたりや、クオンの電気屋からは随分と離れている。
「これではしかし、追跡されてしまうのでは?」
 遊覧飛行のようなゆっくりとした飛行船の進行に、忘れていた現実的な心配が思い出されてきた。
「この船に私達が乗っているのはAIも把握していることでしょう? 位置情報もずっと知られているのだろうし、降りるや否や警察に囲まれるということになりませんか」
 話し込んでいる場合ではなく、もっと早く、着陸地点でのことを心配せねばならなかった。遅まきに慌てるが、デスは落ち着いている。
「どうして? ピーペちゃんを受け止めた後、ちゃんと塔の周辺と全部の飛行救命艇に妨害電波出して、身元分からなくしながら飛んで、って指示出しといたよ。それでもまだ追跡されるかな? クオっちにだけは来て欲しいから、専用の違法電波で信号送ってるけど」
 そう聞くと、デスの手配で大丈夫だったのかもしれない、と思えた。少なくとも周囲に、この飛行船を目指して追いかけてきているホバーや追跡機械はないようだし、もう遠くへ散ってしまった同じ形の救命艇達の影も、見える限りのところで変わらず穏やかに飛行を続けている様子だ。
 タワーから四方八方へ何百と飛んでいった無人の飛行機械は、やがて下層や最下層の街へ降りるだろう。そしてすぐに、金目のもの目当ての住民たちによってしかるべく処分されてしまうだろう。私達の乗っているこれも、惜しいは惜しいが、乗り捨てるのが良いだろうか。
「タワーのAIには悪かったですね。道具をずいぶんと失わせてしまった」
 救命艇の通信が塔のAIにまだ繋がっているのかも、もうわからなかったがAIへ向けての謝罪のつもりで言った。デスは
「あれだってAIの道具じゃなく都市のものだ。税金で出来てるんだから、僕らの道具でもあるわけだろ。気にしなくていいんじゃないの」
 と言う。
「それでも少なくとも、私のだとは言えませんね。私に市民権はないですし、納税もしていません」
 答えてから苦笑が溢れてきた。
「つまり、あれもまた盗んだことになる、のでしょうね。そんなつもりはなかったのに。飛行救命艇を何百隻も」
 やっぱり、怪盗ピーペが中央塔(コート・タワー)から盗んで、貧しい住民へバラまいた、そういう話になるんだろうか。
「そういえば『空中公園』というのはもう通り過ぎてしまったのですか? 大きな銀杏の木があると言っていたところですよ」
 尋ねるとデスは窓からの景色を眺めて頷いた。
「こっちへ出ちゃうと、またタワーに遮られて見えないね。今回は行けなかったけど、次は一緒に行こう。どのみち、銀杏の実が落ちるのとか黄葉までには、まだ時間があるよ」
 次なんてあるのだろうか。
「偽のIDを持っている私が、生きて逃げ続けている限り、大統領は私、なのですよね?」
 高度を下げ始めた飛行船の座席で、パーカーのファスナーチャームを触って私はデスに尋ねた。
「そうだね。『元』大統領がどんな奴かはそろそろニュースで暴露されてる頃だろうし。上層では新しい大統領代理かなんかを立てて事態の収拾を図るだろうけど、君の出した命令が完了するまでAIはそれに従って動くから。プログラムを途中で止めるのなんて、中央(タワー)のAIやシステムをごっそり書き換えられない限り無理だし。または、今のAIをタワーごと潰して、新しいの作ってそっちを運用しようとか考えだすかもしれないな。だけどそれも、急には絶対無理だね。移行先もなしに現行のシステムをただ止めたって、都市の全てが破綻するだけだから」
「では、ええと。少なくとも停戦が完全なものになるまでは、あなたも私も捕まるわけにはいかないということですよね」
 思っていたより大変なことをしでかしてしまって、都市の支配権を「盗み出して」来たことになるようだ。内心では慄きつつ、当面のことだけ考えようとする。けれどデスは、
「それより、またどうにかしてちょっとだけタワーへ戻ることを考えてもいいんじゃない。別の命令ができるよ」
 などと言った。
「中央塔の、というより都市のAIは、まだ私の命令を聞くんでしょうか」
 聞くとしても命令をしたいわけではないのだが、一応確認する。
「プログラムを変えない限りそうだよ。タワーまで行ってそのロケットペンダントを開けて、君が直接頼めば言いなりだよ。今まではそうでもなかったけど、今日からはそういう風にしておいた」
 とんでもないことをしてくれた、というのをここで言っても仕方がないが、後でクオンも合流してくれたら絶対に言おうと決める。デスは知らぬが仏といったところで、
「上層の連中はすぐにも書き換えようとするだろうけど無理だと思うな。まぁ、もし僕と同じぐらいの天才がどこかにもう一人いて、その人にやってもらうとかできたなら、多少なんとかなるかもしれないけど。僕ほどの天才、一世代に一人もいないはずだよ。むしろ百年に一人も出ないんじゃないの」
 得意気に嘯き、頭を傾けた。括らず自由に流されている、渦巻く豊かな黒髪が揺れる。洗髪していない頭の脂が酸化して微かに臭っていた。意外と、不快な気はしない。このとんでもない天才の頭を早いところ洗ってやらねばならないな。そう思った後、違う、自分で洗えるようにさせないといけないのだ! と思い直す。
「上層では、髪はどうやって洗ってたんです? 専門の洗髪屋さんでもいるんですか」
 前々夜からの疑問をようやくぶつけた。
「え、なんか入浴を娯楽としてあれこれしてる施設や商売もいっぱいあったみたいだけど、僕は一番簡単なやり方してたよ。全自動入浴乾燥機が部屋にあって、汚れたなって思った時とか気分転換したい時に使ってた。全部丸洗いして乾かしてくれる、便利。ピーペちゃん達の近所にも、あんなぬるくて古くてしょぼしょぼの前時代的なシャワー施設じゃなく、最新式全自動のを置いたらいいのに。楽だし、公衆衛生の推進にも寄与するよ多分。次の大統領命令でそれ、やったら?」
 ぺらぺらと答えた後、ふと彼は美貌を曇らせる。
「いや、やっぱりやめといた方がいいな。やめとこう。さっきの話は撤回、忘れて。あのシャワーじゃないと、きっとピーペちゃんに洗ってもらえなくなるんだ」
「それももう一つ、ずっと気になっていたんですが」
 地上がぐんぐんと近付くのを眺め、私は急いで質問を足した。
「どうして私に触ろうと、いや、関心を持つ。というか触れ合いを求める、……なんですか言いにくい。あー、デス君は女性経験がなくて何かそれにコンプレックスがあって、妙な拘りに取り憑かれているとかあるんですか。容姿の冴えない中年女性に特別惹かれるとか」
 自分で言いたくない自己評価を付けることになる上、我ながらシャッキリしない問いだ。デスは
「何にも取り憑かれてないけど。あ、ピーペちゃんと触れ合いたいっていうのには取り憑かれてるのかも? わからないな」
 と真面目なのかとぼけているのか掴めない答えを返す。
「上層市民だったあなたなら、大概、どんな相手でも望めば手に入れられたのではないですか」
 あまり言いたくないことだったが露骨に尋ね直してみた。デスは「あーそれか」と苦そうに笑った。その顔は今まで見た中にはない表情で少しハッとする。彼は冷たいような表情になって私をチラッと見返した。
「興味なかったから。接待、とかプレゼント、とかって色々、送り込まれてきたのはたくさんあったよ。生身のプロの人も、専用機械で人間そっくりなのも、老若男女、人間以外の姿になってるものとかも。成人向けの露骨な性的サービスって、贈りやすくてウケが良いプレゼントらしくて、もうなんでもありだ。実体じゃなくVRのサービスもある。ないのは人権感覚とか倫理観。でも、性欲解消するだけなら一人でできるじゃん。時間と労力の浪費すぎるだろ。いらないものはいらない。だからそういうのじゃない。……うーん、そういうのじゃないと思うけどな? ピーペちゃんだけ例外?」
 最後の付け加えまでは、きっぱり話す彼を信用できるのではないかとまで思いかけていたが、最後でまたわからなくなる。デスはしばし考え込んでから続けた。
「別にピーペちゃんの外見とか年齢とかがズバリ僕の嗜好で、だから、ってわけでもないと思う。なんだろう。なんだか知らないけど君がいい。君が好き。おかしいかな」
 真っ直ぐ目を上げて言われ、答えに困る。今まで人間関係の経験が少なすぎるから、卵から出たひよこが動くものなら何でも親だと思い込んで追いかけるように、単純で馬鹿馬鹿しい妙な刷り込みが起こっただけではないのだろうか? 思い込みというのは、どうやれば正せるのだろう。戻ったら闇医者先生に相談してみようか? でもあの医者は、精神科的なことまではやっていなかった。他の専門家を探す必要があるのか。困惑が深まる。その隙に彼は「思いついた!」という例のろくでもない表情を輝かせた。
「最後までやってみれば、もっとはっきりわかるんじゃないかな?! そうだよそれがいい。戻ったらシャワーに行こうよ、汚れたんだから行くよね。僕の髪、昨日も洗ってないから洗ってよ。今度こそピーペちゃんも服を全部脱いでさ」
「では今日中に、全自動入浴乾燥機を盗んできます」
 きっぱり言い切って私は飛行船のドアへ向かった。機体はごみごみした街角へふわりと着地していて、様子を見ていたこの辺りの住民達が一旦は距離を取り、建物の陰などから遠巻きに窺っている。ここでは小雨が本格的に降り出していて、居住区はもう夜の暗さに浸されていた。寂れた夜の電飾もポツポツ灯りかける道の向こうへと目をやった時、丸い体型にアフロヘアーの見慣れた人物が思い切り手を振って合図した。ビークルは用心して少し離れたところへ止め、歩いて迎えに来てくれたのに違いない。
「クオンさん! さあ、デス君、行きますよ。……泣いているなら置いて行きますよ」
「嫌だ。全自動入浴なんてもう一生使わない。ピーペちゃんに洗ってもらうのじゃなきゃ嫌だ。もう一生、頭洗わない。そしたら頭がめちゃくちゃ痒くなって、痒すぎて死ぬんだ。それで僕が死んだら、もう誰もタワーのAIのこと制御できなくなるんだからな。ピーペちゃんが大統領権限で命令しても、実行には効率悪い自動計算の機械しか助けてくれなくなって、それって君にはピンと来ないかもしれないけど、絶対に絶対に困るんだから。AIが応答に使ってる僕の合成音声聴きながらピーペちゃんは、あーデス君が生きててくれたら良かったのに! ってその時、すっごく思うことになるんだ。でももう遅いんだからな」
 涙ぐみながら恨みの視線をこちらへ向け、矢継ぎ早に妙な脅しを吐いているデスの手を、動く方の右手で掴んだ。しまった、外は雨だ。先にパーカーのフードを被ってからにすれば良かった。
「死にませんよあなたは。行きましょう」
「あっ? これって、手を繋いでる? ピーペちゃんが手を繋いでくれた!」
 急にデスが嬉しそうに叫び、ギュッと手を握り返す。
「幼稚園(キンダーガーデン)の時以来だよ、お友達と手を繋ぐの!」
 人身売買組織から逃げていた時も手を掴んで引っ張ったことぐらいあるはずだが。シャワーで指を捻り上げたりもした。クオンの呼ぶ方へ走り出しながら、あの時はまだ「友達」じゃなかったからか、と思い当たる。
「お疲れっす〜、ピーペ先生ェ〜! デスさんも! バッチリっしたねぇ! さぁ、帰りやしょ!」
 クオンが満面の笑みで声をかけてくれるのが嬉しくて、逆に言葉が出ず、何度か頷いた。彼女もデス同様、随分汚れているが怪我などはないようでとても元気だ。すぐさま先導に従い、ビークルの止めてあるところを目指し、角を曲がって路地を小走りで進む。
「あ、待った!」
 突然、デスが足を止め、繋いでいた手が引っ張られた。
「なぜ止まる」
 ほとんどムッとなって問い質しながら振り返ると、彼は横手の方にある何かへ注意を引きつけられており、さらに私の手を引いて
「ねえ! あれ、お菓子屋さんじゃない?」
 と言う。
「お菓子屋……」
 そう呼べるような結構な店かとなると疑問だが、クオンの狭い電気屋よりさらに狭く崩れ落ちそうな隙間にある小店だ。狭く汚く暗いながらも、目を凝らせば確かにキラキラと子ども騙しな色や形が詰め込まれているのが見えた。店自体がこちらへ向かい、こっそりウィンクしているようだ。
「寄って行こうよ! それでチョコレートと、シロップとリキュール買おう」
 余計な出費はできません、と撥ね付けかけてぎくりとなる。
「……どうしてそんなものが要るんです」
「え、ピーペちゃんのための特別デザート作りたいから。大統領考案・御所望のスペシャルデザート」
「聞いていたんですか、あれを!」
 思わず顔を覆いたくなったが、動く方の手はデスに掴ませたままで、左手は腕から麻痺しており無理だ。
「あたしも聞いてましたよ〜」
 クオンまでが、例の菩薩の笑顔を見せて振り返る。
「ピーペ先生は絶体絶命のピンチでも流石の余裕でシャレオツなものを思いつかれますなぁ、って、二人ですっげぇ感心してたんっすよ。映像でも遠目にちょっと見えてましたけど、オシャンなグラスに入ってね。どんな味なんだろ? とりあえず甘いのは甘いんでしょうなぁ? 先生ってば甘党だからねぇ!」
 そんなことを言った彼女は、次にデスを見上げ、
「ここらの駄菓子屋のチョコレートは合成で、あんまり美味くねぇんっすよ。あたしが知ってる、上からの闇流しを扱う店までちょいとビークル転がしますから、だーいぶ高いですけど今日はそっちで買いません?」
 などと提案した。
「そうなの、じゃあそっち行こう! そこも、ああいう感じで雰囲気あるかな? 下層の小さいお菓子屋さんでの買い物、してみたかったんだよね。例の廃墟ゲームにもあるじゃん。暗号集めて持って行ったら、店で隠しアイテムを出してくれて……」
「あ〜、アレっすね! あたし好きだったなぁ、型抜きのほら」
「おあーっ! それそれ、それー!」
 急にまた二人がレトロゲームの話か何かで大いにテンションを上げ始めた。
「余計な出費は」
 言いかける私のことなど気にせずに、
「ねえあのデザート、大統領考案の、とかって言うの長いから名前付けようよ。何がいいかな? そうだ、こちら現大統領考案・御所望のスペシャルデザート、『五分間の下克上』でございます! とかどう?!」
 デスが勢いよく言い出す。
「おお、いいっすねぇ! 流行りそう! こいつぁ商標登録した方がいいかもしんねぇな?」
 楽しげな合いの手を入れつつ、クオンはビークルの後部座席へ私達を促し、自分は運転席へ回った。小型の車体もデス達とお揃いで、最後に見た時よりずいぶん汚れてギズだらけだが、やっぱり機能には問題ないらしい。
 周りがどんどん夜色になる。雨の降る狭い路地から空を見上げると、中央塔が見えた。高い辺りはまだ曇り日の光を受けており、空や高層建物群の全体が白く明るく見える。塔の周りを飛び交う警察や報道の飛行機械の音も、ここまでは聞こえない。タワー最上階では素敵な合成音声のAIが、シャンパングラスの中の甘いスープと可愛いチョコレートを誰かに差し出そうと、今も待っているんだろうか。思い出すと、あれを味わってみるために戻るぐらいは、少し、してみたいような気になった。といってあのスペシャルデザートも、咄嗟の変な言葉選びから出てきた産物に過ぎず、きっとただ甘いだけなんだろうけれども……。
「ねぇ、ピーペちゃんはどう思う。スイーツの名前。『五分間の下克上』!」
 デスがうるさく問いかけてくる。最下層ではどう頑張ったところで、安っぽい味のする薄いコインチョコレートを二、三枚、湯呑みに割り入れた上から人工甘味料の水飴をかけ、合成香料エキスを数滴振りかけたようなものにしかならないはずだ。デスがそれを笑顔で差し出してくるところまで容易に想像できる。それでも、それもまた。
「まぁ。ちょっと良いかなと思いますよ」
 輝く塔を眺め、つい、口を滑らせた。

(おわり)

五分間下克上

五分間下克上

  • 小説
  • 中編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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