クラインの家

クラインの家

 扉を開けると、私達は廃墟の中に立っていた。私達四人、私と私の兄、私の妹、そして兄の長子である中学生の甥っ子。全員、大叔母の遺産の相続人だ。その部屋の壁は一面、ごっそりとなくて、灰色と黒と茶色の風景が遠くまで見渡せた。マンションのかなり上の階、リビングらしい。半分だけ残っている室内には、ちぎれたラグや傷のついた家具だけでなく、壊れていない道具も散乱している。それでもこの「家」は、もう人が住める場所ではなかった。
「ウクライナかな」
 無人、無音。凍える寒さ。荒廃を眺めて兄が呟く。
「レバノンの写真で前にこういう、爆撃にやられたアパートを見たよ。全部の階の内側が丸見えになってて、ああつまり外側からの視点だけど。他にもシリアとかパレスチナとか、多分アフガニスタンとか?」
 私もそんなことを喋った。と、部屋を見回していた妹が急に冷笑含みで
「あるいは未来の日本とか。専守防衛を捨てるんなら」
 と言う。
「ミサイルを撃たれたらうちもこんな風になるの」
 兄の側で、彼の一人息子が尋ねた。こんな光景の中へ中学生がいるのは間違いのような気もするが、甥っ子も相続人ではあるので仕方ない。
「うーん。こっちがもっと強いミサイルを持っていれば大丈夫」
 兄の言葉は政府も肯定しそうな答えに思えた。しかし妹が鋭く
「ミサイルは相手の国に壊れた家を増やすだけ。何かを守ったりしない」
 と断じる。
 次の部屋では足元から大洋が広がって、中へ入ることはできなかった。無辺に広がる海は一見、蒼く美しく穏やかだが、水平線に黒雲がぽちりと現れる。雲はみるみる大きくなり近付いてきた。私達は扉を閉めて離れた。
「もしかして本当はどこかの部屋に繋がってたけど、沈んだのかな、気候変動とかで」
 呟くと兄は首を竦める。
「ろくな部屋がないなぁ」
 全くその通りだった。次の部屋は豪雨と土砂災害の後なのか、歪みへしゃげて何もかもが泥に埋まっていた。
 その次の部屋は「山に呑まれた」というのか、家屋へ竹だの蔓だのといった植物が床や壁を破り無茶苦茶に繁茂して壊しつつあった。
 さらに次の部屋は、野生動物に荒らされたらしい室内だったが、意外にも窓の外には長閑な農村風景が見えた。今にも軽トラックや農作業の人の通りそうな麗かな景色だが、人影はない。電線の張った電柱に雀はおらず、線路の踏切も見えるが電車の音はしない。街路に立てられた低めのポールには、デジタル時計めいた赤い数字が大きく表示されていた。兄が「線量だ」と言い、私達は大急ぎでその部屋を離れた。
「これが遺産?」
 くねった廊下を次の部屋へと歩きながら妹が呟く。
「まぁ、もうすぐ取り壊されるまでは」
 大叔母は不思議な人で、自分の家を「クラインの家」と呼んでいた。有名な空間の概念「クラインの面」に因むようだ。まさか本当に四次元や五次元を利用して時空をねじ曲げ、離れた場所とつなげられるとは思わないし、私たちが何か変なものでも食べて集団で幻覚を見ているだけだろう、と頭では思う。だが開ける扉、開ける扉の向こうにある様々な種類の「悲しい家」は、見る限りどうも実在に見える。
「住める家を遺してくれればいいのに」
 やや場違いに、実利的な兄が溢した。途端、甥っ子が鋭くこちらを見た。
「そうだ。住める家を遺さないと。だから僕達に見せたんだ。これって全部、大叔母さんの反省、っていうか、父さんや叔母さん達にも遺せなかった家ってことでしょ?」
 クラインの家、cryingの家。住めない地球に誰がする? 未来人から現在人になりかかっている少年に言われ、
「うわぁ。そうきたか。そういうことか」
 私達は廊下で立ち止まって頭を抱えた。

(おわり)

クラインの家

クラインの家

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-24

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