バール
バール
買えるよ、バール。軍手は持ってたよね。作業服は中古で買えば良いし、防塵マスクは私がフィギュア作るとき使ってた、古い方のをあげる、捨ててもいいやつ。場所はあそこで良さそうでしょう、うん、ほんと誰も来ないよ。顔を教えてくれたら、誘い出すのは私がやる。あと必要なのは、あなたの筋力だね。
彼女が示したネット通販の画面で、一メートル二十センチのバールは二キロちょっとの重さだと記されていた。バラシ作業に最適。
振り回すのに良いのは何だろう。バット、ゴルフクラブ、鉄パイプ。練習にも、本番と同じものを使えれば理想か。でも六畳間を閉め切って、壁へ立てかけたマットレス相手に練習するなら「破壊力のない」ものの方が、ゴミの片付けは少なく済みそうだ。
筋力は必要だった。練習にはバラ鞭を選んだ。重い柄を用意し、滑り止めに紐をグルグル巻き、太いロープを複数取り付け、先はこぶ状に固く結ぶ。最も興味が湧いたのは鞭だった。練習は長い。なら、少しでも「好きな方」で。それにバラ鞭は力が分散されるため、マットレスをボロゴミに変えるまでも長いはず。
イヤホンからテイラー・スウィフトを流し、マット相手に練習を重ねた。相手は忘れているだろう。やった側は忘れる。私のことは覚えているとしても、何をしたのかは忘れている。忘れる以前の状態で、認識もしていないかもしれない。誰かを虐げたとすら考えず、自分が至って常識的でまともで「普通」で、程々に善良であると自認している。当たり前の顔で他人へぶつけた暴力と侵害が、そっくり似た姿で自分の元へ戻って来るまで気付かない。そうなったって気付かない。どうして、何も悪いことはしていない、と憤慨し被害者面をするだろう。でもそんなの、もういいんだよ。滅多打ちを真摯な答えとして受け取っていけばいい。あなたが理解するまで待ってあげるほど私があなたを好きだなんて、一体どうして勘違いできる?
どうしてあなたはそんなに意地悪なの、と十二年前のテイラーが歌う。意地悪、意地悪、意地悪。蒸しあがる盛夏、脳髄へ捻じ込む声で鳴くシカーダに同化して腕を振るう。ミーン、ミーン、ミーン。三ヶ月、半年、一年続ければ、代替わりした手製の鞭を二キロのバールへ持ち替えても大丈夫だろうか。
以前より腕に筋肉が付き、体も引き締まった頃、彼女が誘いに来る。中古の作業服、防塵マスク、軍手。バールを買いに行こうか?
「それなんだけど。顔を忘れた」
顔が失くなったというのが厳密なところだった。思い出せる顔もあったが複数で、顔の無い相手はもっといた。後ろから不意に殴りつけ、人に紛れ去った通り魔。匿名で投げ込まれた中傷文。遭った性暴力の断片的な記憶。ウェブ広告で現れ目に押し入るレイプ漫画のコマ。同じ仕事を同じ時間しても同じ扱いにならない雇用形態で雇われること。私の支払った費用や納めた税が、私のためではなく誰かを助けるためでもなく、誰かを虐げ侵害し殺すために恥知らずにも使われていること。すべて根は同じだった。「私にそういう仕打ちをしても良い」と思った誰かの、地球よりデカい勘違い。
鞭で打ち据える動きを反復し、私の中の憎悪や恨みが私の筋肉のどこに潜み何を痛めるのかを考えていた。滅多打ちの先に思い出せる顔は変わり、増え、顔では失くなる。顔の見えるみみっちい、意地悪な、気持ち悪い、複数の誰か達の後ろにでかい悪意の塊が聳えた。ならば、一人やそこらを誘い出しバールでバラすだけでは片付かない。もっと筋力が必要だ、それと知性と感性。協力者と共感。バールと鞭とモーニングスター。
「してくれたこと忘れないよ」
「なぁん、忘れて!」
彼女は笑う。私の好きな笑顔。
「忘れないよ」
やられたことも忘れない。私の分、あなたの分、私やあなたに似た人達の数限りない分。
バール