フリーズ116 神、全知、永遠についての考察

神、全知、永遠について個人的な見解

◇神について

神について、私はアートマンやブラフマン、梵我一如などの概念が神並びに真理に通ずる理解だと思っている。逆に天照大神やゼウス、ヴィシュヌ、ラーなどの人格神には疑念を持っている。

持論だが、神とは全のことではないか、と考えている。汎神論的な神こそ正しく、全は主。故に全知全能なのではないか。このように考えている。

神とは全ての意識の波(量子的な波)そのものであり、そこに命や魂と呼ばれる概念が内包されているのではないか。

神性は全てに宿っている。人にも動物にも石ころにも。だが、それらの神性は大なり小なりだが、概してとても小さなものばかりである。だが、ソーマなどを飲んだり、死に近づいたりすると、脳が本来的な智としての神我(真我)に目覚め、神と繋がるのではないか。否、繋がるというより、自身が神の一部であることを悟るのではないか。これこそ正しく梵我一如であり、悟り、解脱、涅槃、とも言うべき体験であるのではないか。

私は梵我一如と悟り、解脱、涅槃、は近い概念だと考えている。真理を悟るとは全知(根源的な法、つまり自身が神であることを知識的にではなく経験的に知っている状態)になること。全知とは全てを忘れ、本来の我に戻ること。それ故に欲から解放される。何故なら全てのものを包括的に自身と一なるものとするので自他という概念が無くなるから、全てが自身となりあるがままに今を生き、その刹那刹那に満足するからこそ欲が消えるからだ。幸福で満足であれば人は欲など持たないのである。つまりは全ての欲が満たされている状態と言っても過言では無い。そして、全知になった者にあるのは、空間や時流などへの囚われを忘れた純粋な歓喜と永遠なる至福だけである。

◇全知、永遠について

全知とはつまり、法を体解し、全ては神たる自身であるということを理解していること。全知者は時の流れから離れる。何故ならば自然の運行に時間などないからだ。全知者は「時流などない」と真に理解し、今という永遠の中で生きる。

全知と永遠は不可分で、その永遠は恣意的なものである。刹那にも永遠は内在する。この場合の永遠とは、例えば不死になった者が永遠に生きるという文脈での永遠とは異なるものである。瞬間に永遠なる至福を甘受することこそ真の涅槃。これにより時流などないと知覚するのである。

◇結論

神、全知、永遠は互いに密接な関係にある言葉たちである。真理とは言語から離れた継続的非記号体験であるが、それを理解するにはやはり言葉が必要である。悟るためには言語から離れた体験が不可欠でそのための神、全知、全能、永遠、終末、涅槃、愛、魂などの概念を通して人は悟るのだ。

フリーズ116 神、全知、永遠についての考察

フリーズ116 神、全知、永遠についての考察

神について、私はアートマンやブラフマン、梵我一如などの概念が神並びに真理に通ずる理解だと思っている。

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更新日
登録日
2024-06-20

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