フリーズ115 リグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』から神のレゾンデートルへ
序論
リグ・ヴェーダ賛歌の中でも、『宇宙開闢の歌』が語るものは、人格化された神としての創造者のような神話的(故に俗事的)な観点から離れて在る真理のようである。次にリグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』を辻直四郎著『リグ・ヴェーダ賛歌』(pp.322-323)より抜粋する。
一 そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
二 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
三 太初において、暗黒は暗黒に覆われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)
四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起原)を無に発見せり。
五 彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者(能動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。
六 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ。この創造(現象界の出現)はいずこより生じ、いずこより〔来たれる〕。神々はこの〔世界の〕創造より後なり。しからば誰か〔創造の〕いずこより起こりしかを知る者ぞ。
七 この創造はいずこより起こりしや。そは〔誰によりて〕実行せられたりや、あるいはまたしからざりしや、――最高天にありてこの〔世界を〕監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。
この『宇宙開闢の歌』では創造主としての神でさえも、真の創造の後に生まれたとしている。この発想はとても興味深い。なぜならば、神でさえも最終的な真理、目標ではないというのだからである。この点で、この歌は神々への言葉、賛歌であるリグ・ヴェーダ賛歌においても異色な歌であるといっていい。また、この歌は創造の起原についての言及で締めくくられるも、その起原は誰も知らないかもしれないとしている。
この『宇宙開闢の歌』は、真理としての一なる者(世界、神、梵我一如)を規定しつつも、さらに探究を深め、その先を求めようという気概が見て取れることから、リグ・ヴェーダ思想の最高峰に位置するのではないであろうか。
ここで、一つ定義づけをしたい。世界があるのならば、真理は存在する。少なくとも、究極的な真理ではなくとも、その世界に限った話での真理はある。例えば、ある世界が仮想現実世界であったとするならば、その世界の真理は「この世界が仮想現実である」となるし、またある世界が人格を保有した神によって創造されたのならば、その世界の真理は「創造主こそが真理である」となる。だが、その真理は究極的ではない。なぜならば、仮想現実世界の例ならば、その仮想現実世界を作った者たちが何者であるかの説明は何一つされていなく、また人格神の例ならば、創造主はどこからどうやって来たか、どう生まれたかについての説明がないからである。
最終的に、全ての始まりである起原こそが謎として残る。ここで真理と言うと、先のような解釈も含まれてしまうことから、全ての始まりたる所以の究極的な真理を『神のレゾンデートル』と呼ぶことにする。以降、リグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』やウパニシャッド哲学をはじめ、幾つかの文献を参考にしつつ、『神のレゾンデートル』を追求する。
本論
祭式主義に落ちぶれたバラモンへのアンチテーゼとして形成されたウパニシャッド哲学は梵我一如という概念を中心にした思想を形成した。梵(すなわち宇宙を支配する原理、ブラフマン)と我(個人を支配する原理、アートマン)が同一であり、またそれを悟ることを梵我一如といい、達すると永遠の至福に至るとされる。
ここで先に挙げたリグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』と梵我一如という思想を比較したとき、前者の方がより抽象度が高い。なぜならば、梵我一如が真理だとして、その我であり梵である梵我一如としての一はいずこより起きたかについては説明していないからだ。ただ、その場所が永遠なる至福であると主張しているに過ぎない。その点、『宇宙開闢の歌』はその先があるのではないかと、ある意味より大きな可能性すらも含蓄しているようである。
ここで、梵我一如における永遠なる至福はヘルマン・ヘッセが『幸福論』にて語った幸福なのではないかと考える。ヘルマン・ヘッセ『幸福論』(高橋健二訳/新潮社)よりいくつかの文を抜粋する。
「完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである」(p.56)
「私の場合、幸福ということばは一生涯のあいだに、こういう包括的な、宇宙大の、神聖な意味に達した」(p.57)
「その幸福との出会いの独特な点、純粋な点、根本的な点、神話的な点、静かに笑いながら宇宙と一体になっている状態、時間や恐怖から絶対的に自由である状態、完全に現在である状態、それは長く続きはしなかった」(p.59)
「幸福の永続は、この時、美しいものの増大、喜びの増加と過剰によってくずされてしまった」(p.62)
これらのヘルマン・ヘッセが『幸福論』で語る幸福はまさしく梵我一如のようである。特に、永遠、宇宙というキーワードが関連している。このことから、人間には我があり、それが梵(宇宙)と一体になって永遠なる至福であるかのような体験をする能力があるにはあるが、それは永続しないということが言える。
また、宇宙と我に関して思索しているエドガー・アラン・ポオによる〈散文詩〉と題された詩的宇宙論『ユリイカ』(八木敏雄訳/岩波書店)では「これらすべての創造物は、―すべてのだ―おまえが生物だと呼んでいるものも、おまえには生命の活動が見られないというだけの理由で無生物とみなしているものもひっくるめて―それらすべての創造物は、大なり小なり、喜びや悲しみを感じる能力を備えているのだ―だが、それらの知覚の総和はかの聖なる存在者が自己自身に凝縮するときに当然の権利として保持する幸福の総量と正確に等しいのである」(p.190)と語られていて、この主張を鑑みるに、我とは人間にだけ宿るものではなく、動物や植物、無機物を含めてすべてに存在し、またそれらの総和が聖なる存在者とポオが呼ぶものではないか。その我の総和たる聖なる存在者こそウパニシャッド哲学での梵であり、リグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』の第七節に出てくる「最高天にありてこの〔世界を〕監視する者」なのではないだろうか。そして、『宇宙開闢の歌』によれば、確かに我々はその存在者から生まれる者かもしれないが、その存在者がどこから来た何者であるかの解は持ち合わせていないという。つまるところ、梵に入り、神に等しく一になったとしても、全知全能だとしても、神のレゾンデートルだけが解らないのではないか。
結論
何故生まれたのか、我々が生まれた理由はなにか。もしその答えがあるとするのならば創造主やそれに値するようなこの世界から見て絶対的である存在により、我々が創造されたほかにはない。これ以外に生まれた意味などない。何故ならば、帰納的に考えて、生まれた意味は何者かによって意図的に創られたものにしかないからだ。例えば机はその上で人間が作業するために作られ、ペンと紙は文字を書いたり絵を描いたりするために作られた。それが意味となる。逆に自然には意味などない。木や花は創られてあるわけではない。人間が育てて初めて食用や園芸用などの意味が生まれる。
つまり、もしそのものに生まれた意味があるのならば、その者が何者かによって作られた証拠である。しかし、ここで一つのパラドックスが生まれる。それは最終的で究極的な意味を求めるならば、永遠にその解に辿り着くことはないということである。それ故に神のレゾンデートルなのである。世界が生まれた意味である神はなぜ生まれたのか。その神をも作った上位者がいるのなら、その上位者はどこから生まれたか。これでは堂々巡りである。これ故に仏教ではその真理でさえも諦めて、解脱することを教えるのであろうが、やはりこの神のレゾンデートルこそ、真理の先にある最終命題であるように思う。
だが、これはあくまでも生まれた意味を先天的に求める場合の話である。神も、人間も一人ではない。故に、歴史や関係性の中で『生まれた意味』が生まれるのである。ある者は音楽を作った。その者は多くの者に感動を与えた。ある者は哲学によって、後世の哲学者たちに影響を与えた。もし神がいるのならば、神のレゾンデートルは彼のものを信仰する人間である。また、人間のレゾンデートルは神が創ったからとなる。仏教の化和合という概念のように、全ては関係性の中で縁ができ、その結果として生まれるのであろう。もしかすると、この後天的な意味こそ神のレゾンデートルなのではないであろうか。
参考文献
辻直四郎著『リグ・ヴェーダ賛歌』(岩波書店、1970年)
ポオ『ユリイカ』(八木敏雄訳)岩波書店、2008年
ヘルマン・ヘッセ『幸福論』(高橋健二訳)新潮社、1977年
フリーズ115 リグ・ヴェーダ賛歌『宇宙開闢の歌』から神のレゾンデートルへ