フリーズ114 真理解明のために―科学的手法と非科学的手法の止揚―
目的
本論文の目的は、なぜ科学の栄えた現代で哲学や形而上学、宗教などの非科学的な方法での真理の考究が求められるのかを示すことにある。
問題意識
未解明な謎が世界にはたくさんある。世界はどのように始まり、どのように終わるのか。人間は何のために生きているのか。意識とは何か。死んだらどうなるのか。科学者たちはこうした問の答えを求めて日夜研究をしている。科学と言っても様々な分野があるが、特に物理学は科学的に真理を探究する学問と言っても差し支えがないだろう。だが、高名な物理学者たちでさえ未だに真理を解明できていない。
だが、人は真理を知りたがる。科学では説明できないのであれば、非科学的な手法に頼るしかない。例えば宗教は独自の世界観を持っていて、科学が解明できない謎の答えを、科学的に誤りと言われるにしても、一応は提供している。いくつかの哲学的な書物も科学が解明していない謎を一応は解き明かしている。果たしてこのような非科学的な真理へのアプローチやそれらが導き出した答えを認めてもいいのだろうか。それがこの論文の問題意識である。
先行研究
科学的な手法以外にも真理を探究するやり方があるはずである。その方策こそ哲学や形而上学、宗教などの非科学的なアプローチである。過去には各々の方法で真理の探究をした書物が無数にある。科学がない時代はむしろ、それらの手法で真理を探究していたはずだ。ここでは非科学的な手法の価値に関連する三つの先行研究を参照する。
先ず、『科学の限界』という書物にて池内了(2012年)がこう述べている。「科学は無限の自由度を持っているのではなく、科学自身に内在する法則によってある限られた範囲しか究められない」(pp.102-103)。このように科学には限界があるのだ。宇宙の外は観測できないし、もし仮に別の世界があったとして、そこの状態や情報を知ることもできない。
次に、阿満利麿(1999年)は、無宗教の人が「死ねばすべて無になる」と主張し、それが科学的だと言うことに対して、そもそもこのことは科学的に証明できる事柄なのかと疑問を呈している。阿満は死を理解する行為は科学的証明とは関係のないものだと述べている。では、どうやれば人は死を理解することができるのか。それは死ぬ瞬間にしか分からないものなのかもしれないが、科学的証明が無理なら、非科学的に解明せざるを得ないだろう。
最後に、島田裕巳(2012年)の『宗教はなぜ必要なのか』には次のように書かれている。「仏教という宗教は、釈迦の悟りから出発したもので、その教えに従うことによって、永遠に苦しみの続く輪廻のくり返しから脱することを目的としていました」(p.93)仏教という宗教は輪廻と解脱という概念で死や死後のことを解き明かしている。また、キリスト教に関して島田は次のように述べている。「最後の審判のときに、イエスがふたたびこの地上にあらわれて、それによって裁きが行われ、救われる者と救われない者とが分けられるというのです」(p.123)これは世界の終末について、また死後についての説明になっている。このように宗教は分からないことの答えを提示してくれる。
これらの先行研究では各宗教の具体的な話や科学の歴史などが重点的に書かれていて、厳密になぜ非科学的な探究方が大切であるかについては掘り下げられてはいなかった。本論文では具体例を挙げつつ、明快に非科学的な探究方の重要性を記述していく。
仮説
非科学的な方法での真理の考究が必要である根拠として、
1科学には限界がある。
2非科学的な探究方法で得られる答えもある。
この二つを仮説としてあげる。
このように予想した根拠を次に示す。
科学ではまだ未解明の謎がたくさんある。技術的に現段階では解明不可能であるとされることが多いが、果たして本当にそうなのだろうか。そもそも科学では解明できない謎もあるのではないか。なぜなら科学は観測をもとにしていて、観測できない領域があったとしたら、その謎は分かりようがないからだ。故に科学には限界があると推測する。
また、「非科学的な探究方法で得られる答えもある」という根拠に関して、一つの思考実験をしてみる。人間の思考は時として現実を越えることがある。魔法や天国、地獄に異世界など、人間は現実ではないことも思考可能なのである。ならば、科学が観測できない領域があったとしても、そこを考察することは可能であると言える。大抵の思考が妄想に帰するとしても、その中に偶然性を持って真理にたどり着く思考が起きる可能性は零ではない。故に、非科学的な探究方法で得られる答えもあると推測できる。
分析枠組み
ここでは、科学的な事実や歴史的事実、それらを記述した文献を援用しつつ、なぜ非科学的な方法での真理の考究が必要かを説明する二つの仮説としての根拠について論ずる。
まず、一つ目の根拠「科学には限界がある」についてはニュートンの古典力学の限界や地動説と天動説の論争などをあげて議論する。続いて二つ目の根拠「非科学的な探究方法で得られる答えもある」については般若心経と現代物理学を比較することで論を進めていく。
分析
先ずは一つ目の根拠「科学には限界がある」について論ずる。人間はニュートンの古典力学を用いることで、ほとんどの地球上での物理現象を記述することが可能だ。だが、ワトソン(1994)によれば、きわめて微小な環境では既存の古典力学では説明がつかないこともわかり、それに伴って量子力学などの新しい力学体系が必要となったという。
ここで注目するべきなのは、一昔前は真理だと思われていた古典力学が後に覆され、その理論を修正する必要に迫られたということであり、物理学での真理は例えるなら井の中の蛙の浅知恵に過ぎない可能性があるということだ。地動説と天動説との論争なども似たような例として挙げられる。かつては天動説が正しいとされていたが、科学の発展とともに地動説が正しいと分かってきた。他にも時代とともに真理とされてきたものが覆ることの例は枚挙に暇がない。要するに、観測できる範囲でしか科学者は実証実験をすることができず、彼らの導く真理はその中にとどまってしまうのである。ある時観測可能領域が広がると、以前の真理はたちまちその絶対性を失うだろう。もし観測不可能な領域に真理やその鍵があるとしたら、彼らのやり方では何年経とうと真理へとたどり着くことはできないことになる。
今の科学のやり方を否定するわけではないが、以上のことから科学的な手法だけでは限界があると言わざるを得ない。
二つ目の根拠「非科学的な探究方法で得られる答えもある」について説明する。
アインシュタインが導き出した式E=mc^2。
般若心経に出てくる二つの言葉『色即是空、空即是色』。
物理学と仏教という一見関係のなさそうなこれらの式と言葉には、真理への糸口があると考えられる。水上勉『「般若心経」を読む』によると、『色即是空、空即是色』とは、あらゆる物質的存在は空に他ならないもので、本来は何もないということを言う。空とは実体のないもので、エネルギーも空だ。一方、色とはサンスクリット語のルーパが訳されたもので「かたち」「いろ」という意味である。
ここで先の式を見てみると、左辺のEは空であるエネルギーを意味し、右辺のmは物質量、c^2は定数なので、実質、空(エネルギー)は色(物質)となり、なんとこの式と『色即是空、空即是色』は同じことを語っているのである。つまり、非科学的な手法でも科学的な手法で得られる答えと同じ答えが得られることもあるということである。
この論文ではなぜ対立する二つの手法で同じ答えが出るのかについては語らないでおくが、非科学的な探究方法でも得られる答えはあると言える。
結論
なぜ科学の栄えた現代で哲学や形而上学、宗教などの非科学的な方法での真理の考究が求められるのか。その答えは科学の限界、そして思考の可能性の二つである。この論文では科学に限界があることを示したが、なぜ非科学的な真理の探究方法で得られる解が妥当かについては説得力のある説明はできなかった。だが、今後脳科学が進展するにつれて意識や思考についてわかる時が来れば、論は進むかもしれない。
また、この論文は科学を否定するわけではない。むしろ、科学のさらなる進展のためのものである。真理へとたどり着くには、いずれ科学は大きく変わる必要に迫られるだろう。その時に非科学的な領域との融合が起きるのではないかと考える。その際にこの論文が役立つことを期待して終わりとする。
参考文献
阿満利麿『人はなぜ宗教を必要とするのか』(筑摩書房、1999年)
池内了『科学の限界』(筑摩書房、2012年)
島田裕巳『宗教はなぜ必要なのか』(株式会社集英社インターナショナル、2012年)
水上勉『「般若心経」を読む』(ビジネス社、2005年)
ライアル・ワトソン(Lyall・Watson) (1994) 『ネオフィリア―新しもの好きの生態学』(内田美恵訳)筑摩書房
フリーズ114 真理解明のために―科学的手法と非科学的手法の止揚―