青春は……

青春は……

『この家には亡霊がいる』から幸子と英幸の物語を抜き出しました。

 G駅から10分強歩くと校歌に歌われているS川が流れている。M橋を渡ると歴史の古い公立校がある。川は歌詞のような清い流れではないが。
 入学式、30年前の卒業生だという来賓の挨拶が印象的だった。 
金縷(きんる)の衣は再び()べし、青春は得べからず」

 年よりずっと若く見えた。スピーチはユニークで聞き入ってしまう。その人が私の方を見た。目が合った。そして微笑んだ。まさか?
 来賓席に戻った三沢英輔を私はずっと見ていた。
 もう1度こっちを見て。私を見てください……

 誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでください……

 太宰の文章が浮かんだ。なんの小説だったか?
 私は見つめた。

 けれどもそれだけのことであった。千万の思いを込めて見つめる私の瞳の色が了解できずに終わったようだ……

 魅惑? 魅了? 恋?
 走っていってすがりたい。髪を撫でてほしい。
 ありえない。高校の入学式、30歳も年上の男性に私は恋をした……

 そのあとのことはよく覚えていない。入学生代表として立ち上がったのは同じクラスの男子生徒だった。背の高い斉田圭。たぶんいちばん成績がいいのだろう。
 クラス委員は先生が決めた。圭と私だった。それも成績で決めたのだろうか?
 隣の席の三沢英幸(えいこう)は冴えないガリ勉タイプの生徒だった。メガネをかけひどく猫背で、自己紹介のときはボソボソと小さな声でよく聞き取れなかった。英語の英に不幸の幸?
 私は、
「水谷幸子です。幸子という名前は古風だけど気に入ってます。趣味は読書。スポーツは、ダメです」
 隣の三沢英幸が吹き出した……ような気がした。すぐにポーカーフェイス。

 帰り、私は校内をうろうろした。まだあの人はいるかもしれない。
 諦めひとり帰る。
 M橋の上であの人はたたずみ川の流れを見ていた。思わず近くに寄るとあの人は振り向いた。
「スピーチ、素敵でした。とても。とても」
 間近で見た三沢英輔はもっと素敵だった。見つめられ頬が染まっていくのがわかった。
「D組の水谷幸子です」
と言うと目が合ったことを思い出してくれたようだ。
 金縷の説明をしてくれた。
 詩が好きだと言うと面白いことを教えてくれた。
 帰り際、私を見て言った。
「そんなふうに見つめてはいけない。相手が勘違いしてしまうよ。娘だったら心配だ」
 ほかの人を見つめたりはしない……

 しばらく胸がいっぱいで食欲もなかった。夢にも出てきて私を見て笑った。私は涙を流していた。
 かつてこれほど異性を思ったことはない。同じような思いをしたことがある。それは本の中の人物だった。誰にも言えない。それは乱歩の小説の中の、同性愛者だった。私は何度もその本を読み、最後の場面では泣いた。
 おかしいのだろうか? 私の感性は?

 隣の三沢英幸は、休み時間には本を読んでいた。誰にも相手にされなかった。私はクラスに馴染まない隣の彼に何度か話しかけたが、まともな返事はなかった。恥ずかしいのか煩わしいのか、苦手な代数を聞いたとき、彼は聞こえないフリをした。
「教えてやれよ」
斉田圭が来て強い口調で言った。ほとんど脅しだ。三沢英幸はノートに書いて教えてくれた。ボソボソと。きれいな字だ。そのあと彼は口を押さえて席を立った。唐突に。気分でも悪くなったのかと、あとを追うと彼は踊り場で笑っていた。私の顔を見て、また笑いがこみ上げてくるようだ。堪えようとしても……失礼な奴、笑い上戸。
 
「水谷さん」
 珍しく彼から声をかけてきた。
「2年の男子が呼んでる」
 廊下で部活動の勧誘を受けた。写真部にはモデルになってくれと頼まれた。
「私、スポーツはダメなんです。部はもう決めてあります」
 私は文芸部、圭はサッカー部、三沢英幸はどこにも入らなかった。
 音楽の授業、ピアノ曲の鑑賞のあと圭が三沢英幸を見て言った。
「おまえ、弾いてみろよ。こんなような曲弾いてたじゃないか」
 皆の視線が集中する。無視すると圭が皆を扇動する。弾けよ、みさわ、み、さ、わ……
 彼は小さく舌打ちし、ため息をつき時計を見た。まだ時間はたっぷり残っていた。そして弾き始めた。ショパンの葬送行進曲。皮肉な男。『こんなような曲』が葬送行進曲? 
 しかし彼はピアノの前では猫背ではなかった。大勢の前で上がりもしない。きれいな曲なんだ……有名な部分しか知らなかった。素敵だ。ピアノを弾いている彼は素敵だった。皆滅多に聴けない生の演奏に魅了されていた。CDの鑑賞のときには寝ていた生徒が姿勢を正して聴き入っている。
 弾き終わると圭も拍手していた。私は席に戻った彼に話しかけた。
「すごいのね。いつから習っているの? どのくらい練習するの? 好きなの、ピアノ?」
「好きじゃないさ。上達するとね、パパがご褒美をくれるんだ」
 国語の時間、宿題の詩の朗読をした。好きな詩を暗唱していく。圭はリルケの秋。私の好きな詩だ。

 木の葉が落ちる 落ちる 
 遠くからのように
 大空の遠い園生が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる
 ーーーーーーーーーーーーーー
 けれども ただひとり この落下を
 限りなくやさしく 
 その両手に支えている者がある
 
 私は、ミラボー橋。

 ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
 僕らの恋も流れていった
 僕は思い出さずにいられないんだ
 苦しみのあとに喜びがあったってことを
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 長い詩をしらけられるかと思ったが、つかえず暗唱し拍手が湧いた。しかしあの人が言っていた面白いことは起きなかった。
 次、三沢。彼は私を見て小さなため息をついてから立ち上がった。教室がざわつく。またミラボー橋。私は隣の彼を見た。ボソボソ声ではあるが抑揚があった。翻訳も違う。間を置いてまるでピアノでも弾きながら歌っているように。
 そう、歌うような詩が終わると国語の教師は歌い出した。フランス語で。

「シャンソンか」
「祖母がよくレコードをかけていました」
「ああ、君は、金縷の衣の息子だったな」
 金縷の衣の息子? あの人の?
「来賓の挨拶をした人、あなたのおとうさんなの? すごい素敵な人」
 もう下を向き文庫本を読んでいる。なにを読んでいるのか聞いても相手にされず覗き込んだ。
「午後の曳航(えいこう)?」
「読むかい? 父の本だよ。貸してやるよ。君の感想が聞きたいね」
 少し黄ばんだ本だ。あの父親の学生時代の? よりによってこの男の父親だなんて。なにひとつ似ていない。顔も背も体格も雰囲気も。ああ、声は似ている。
 語り合いたかった。おそらく詩にも小説にも詳しいのだろう。あの人の学生時代の本……

 後悔した。読まなければよかった 。

 母親の部屋をのぞく息子。母親の裸の描写……あの黒い領域。可哀そうな空家……母と男の行為。そいつがママと一緒に寝るところを見たんだよ。仏塔? 猫を叩きつけて殺し……まだ死なない。もう1度……解剖する。最後は男をーー

  私は無言で返した。
「もう読んだの? 全部読んだ? 感想は? いやらしいとか言うなよ」
 初めて顔を見つめられた。本の内容を共有し私は赤くなった。
「あなたは、感情のないことの訓練をしているの?」
 ポーカーフェイス。私はしおりをはさんでおいたところを指した。線が引いてある。

 僕らは感情のないことの訓練をしているのだから、怒ったりしちゃ変だ。

 自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するためにそなわっているのだ……数本が力強く濃くなって、白い肌の奥深く藍いろの毛根を宿している自分たちの毛も、その強姦の際、恥じらいに満ちた星屑をくすぐるために生えてきたのだ……

「あなたが引いたの?」
「父だよ」
「……」
「頬が真っ赤だよ」
このとき私は彼を異性として意識した。
  圭が本を取り上げた。勝手に借りていった圭は、次の日から休み時間には彼の前に座り、後ろを向いて話していた。
「おまえの家、猫がウヨウヨいたよな。おかあさん、獣医だったんだろ? おまえも部屋をのぞいているんだろ?」
 相手にされず、読んでいる本を取り上げ私によこす。パラパラとめくる。細かい字、不条理と自殺、哲学上の自殺ーーこれも父親の?
 しおりがはさんで線が引いてある。

 障害のある愛以外に永遠の愛はないとーー
 そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。
 ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ。
( カミュ『シーシュポスの神話』より引用)

 私は口に出して読んだ。頭に書き留めた。
 ウェルテルであるかしからずば無か。
「君のことだよ、斉田君」
「?」
「初めて会った日から好きだぜ。圭」
そして私に
「水谷さん、圭を取らないでね」
 冗談を言って笑う。また止まらなくなる。感情のないことの訓練はまだまだ足りないようだ。
 圭に彼を知っていたのか聞いたがはぐらかされた。

 夏休みに2泊3日のクラス合宿があった。ひとりでいる彼に圭は寄っていく。辛い山登り、体力のない私は遅れた。彼と圭はのんびり話しながら歩いていた。
「おまえ、なんで私立にいかなかったんだ? 金持ちのくせに」
背後から私が息を切らして歩いていくと圭が背中を押した。私に気があるのがわかる。
 共同生活はふたりを近づけた。翌日ふたりは肩を抱き合い歩いていた。飯ごう炊飯にカレー作り、ふたりは楽しそうに器用に作っていた。
 キャンプファイヤーを囲んでクラスごとの出し物。D組男子はダンスだった。皆は白いTシャツに白いパンツ。彼はいない。練習にもきていなかった。
 音楽がかかる。簡単なセットの棺桶の蓋が開く。風が吹いた。雰囲気は最高だ。悲鳴があがる。指が見え、髪の長い白いドレスの女性が棺桶から出てきた。観客は息を呑んだ。すごい存在感。誰? 亡霊が踊る。聞いたことのある歌だ。女の亡霊が踊る。まさか、三沢君? 髪に花の飾り。耳にイヤリング、爪も塗ってる。
 聞き取れたのはヒースクリフとキャシー。何度も繰り返す。窓を開けて、とパントマイム。彼はキャシーの亡霊!
 周りの男子の踊りはどうでもいい。皆、亡霊に釘づけになった。圭と同時に側転。彼はドレスで側転。何度も。何度も。少しも乱れない。最後は棺桶の中に戻っていった。皆、呆気にとられていた。そのあとの拍手はすごかった。圭が彼の腕をつかみお辞儀をした。彼はカツラを取り圭の頭に被せすぐに逃げた。拍手と大爆笑……
 信じられない。メガネを外し化粧をした彼はぞっとするほどきれいだった。相当練習したのだろうか? あの三沢君が?
 最初、彼は断固拒否したという。圭に頼まれお願いされ拝み倒され引き受けた? 化粧は自分でした? 化粧品会社の息子だからな……それにしても開き直ればすごい度胸。運動神経……
 
 合宿が終わり長い夏休み、暑中見舞いを出したが返事はこなかった。

 2学期が始まると彼と圭はますます親密になっていった。夏休みの間も会っていたらしい。彼はメガネを外し背も伸びていた。言葉もはっきりし体育の時間も目立つようになった。本性を現した彼は女生徒に騒がれるようになった。しかしふたりは女生徒には目もくれない。
 彼は圭を呼ぶ。
「ヒースクリフ」
 私が圭と話していると奪っていく。腕をつかんで。

 体育祭でも文化祭でもふたりは活躍した。クラス対抗リレーでは、圭からバトンを受け取った彼はひとり抜いてトップになった。
 少年が来ていた。身が軽くバク転してみせる。頬の傷で思い出した。
「キミはあのテニスのヘタッピな……」
 私は真っ赤になった。少年は失言を誤魔化し言った。
「よかったと思ってるだろ? 女だったら嫁にいけないって」
 私は三沢英幸を観察した。メガネを外した横顔、あのとき口を押さえて出ていったのは私を笑っていたのだ。彼は私のことをわかっていたのだ。早い時期から。あの運動音痴の不格好な中学生だと。

 去年の夏、彼の背はまだ私とさほど変わらなかった。子供っぽくて年下かと思った。夏なのに日焼けもせず色白の美少年。彼はハッとするほど垢抜けた女と打ち合っていた。それからあの少年とも。受験勉強の息抜きにクラスの仲間に連れ出された。運動の苦手な私は教わっても当たらなかった。隣のコートで少年ふたりが笑った。子供は残酷だ。たしなめた女性が私を教えた。彼と少年は私のために球拾いをさせられた。教え方が上手だった。両手でラケットを持つとボールがネットを超えた。相手をさせられた彼が打ちやすいボールを返す。奇跡的に続いたラリーだった。
「若い時は優勝したこともあるのよ」
 お喋りな人だった。
 彼はほとんど喋らなかった。憂のある美少年。もうひとりの少年は頬の傷を隠しもせず笑った。
 3人は似てはいなかった。

 文化祭では彼の伴奏で『ミラボー橋』を歌った。日本語の朗読のあとフランス語で歌った。また少年が来ていた。ピアノのミスタッチを指摘しフランス語で歌う。苦労したフランス語を。
「いい声だな、歌手になれるよ。きれいなボーイソプラノだ」
 圭が言った。

 私は見ているだけだった。私に気があると思っていた圭は見向きもしない。皮肉な隣の男は相変わらず無視をする。
 2学期も終わりに近づいたころ圭の父親が急死した。通夜には先生と私と数人が行った。彼はすでに知らされていたようで先に来ていた。少年が彼に寄り添って泣いていた。そしてあの女性が、まるで圭の身内のように焼香客の世話をしていた。
 圭はそのまま休み、3学期になると夜学に移った。病弱な母親の代わりに働くことになったのだ。私は部活のあと圭が登校してくるのを待った。何日か待ってようやく会えた。ひと月もたたない間に圭は変わっていた。疲れが顔に出ていた。
「三沢君、せっかく明るくなったのにまた孤立している」
「人の心配している余裕はないね」
 それから圭は私に会っても無視した。住む世界が違うのだというように。

 2年になってもクラスはそのままだった。席は離れたので話しかけることもできなかった。
 入学式ではまた彼の父親が来賓で挨拶した。去年は父親だとは知らなかった。よく見ると似ている。声はそっくりだ。金縷(きんる)の詩は2、3年生は復唱した。
 あの思いはなんだったのだろう? 確かに私は恋をした。涙が出るほど好きだった。あれは恋に恋をしたのだろうか?
 息子がこんなに孤立していることを父親は知っているのだろうか?
 1年生の名前が呼ばれる。そのあとハプニングがあった。1年の女子が倒れたのだ。近くの来賓席の三沢英輔は立ち上がり抱き起こした。素早かった。少女は抱き上げられ保健室に連れて行かれた。息子のほうは無表情だった。
 帰り、私はM橋にたたずみ川を眺めた。彼の父親は現れなかった。

 あなたの息子に恋をしています。変人の息子に。

 倒れた篠田葉月はテニス部に入り男子のアイドル的存在になった。昼休みに葉月は来た。私は頼まれた。三沢さんを呼んでくださいと。彼は喜びもせずに葉月と話していた。私は聞き耳を立てた。葉月は小さな包みを出し渡そうとした。
「いらないよ」
「あなたにじゃないわ。おとうさんに」
 無視とは違い絶句。
「父は受け取らないよ」
 この美少女も年上の彼の父親に恋をしてしまったようだ。
 葉月が彼に会いにきたのはそのときだけだった。そのあと何人かの下級生が大胆に告白したようだが彼は興味を示さなかった。

 昼休みに彼は音楽室でピアノを弾いている。数人の女生徒が聴いている。激しい曲だ。引きずり込まれ魂を持っていかれそうな……
 葉月は廊下で聴いていた。ひとりで。
 恋をしているの? 三沢君に? 
 私と目が合うと下を向いた。不思議な少女だ。明るいのか、陰があるのか? 無邪気なのか大人びているのか? 私は音楽室に入り離れた席で聴いた。彼の後ろ姿を見ながら。

 5月の体力測定の日、1年生の真希が用紙を落とすと彼が拾った。杖をついている少女は返されるのを待った。彼は用紙の数字を見て驚いていた。
「覚えてない? スイミングクラブで一緒だったろ?」
噂はすぐにたった。三沢英幸(えいこう)が1年の足の悪い女生徒に興味を持った。
 え? 同情でしょ? なんで? どうしてあんな子に? 
 興味を持った彼は猛烈にアタックした。最初真希は戸惑った。
 音楽室で真希は彼のピアノを聴いている。リクエストできるのは真希だけだ。
 聞いたことのない作曲家。作品番号を言ってリクエストできるほど、真希は詳しくなっていた。部活に入っていないふたりは一緒に帰っていく。
 プールがはじまると真希はもちろん見学だ。前の時間に終わった彼が真希に言った。
「また見学か? 泳いでみろよ」
「私に傷だらけの足をさらせって言うの?」
 真希の語気に彼はたじろぎ謝った。
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃない。君なら泳げると思ったんだ」
 多勢が見ていた。真希は涙を堪え早足でよろける。彼は支え、拒否されながらまた謝った。
 真希は翌週から水着を着て授業に出た。傷だらけの足をさらして。プールに入るとすぐに気にならなくなったようだ。腕だけで真希は軽々と泳ぎ切った。腕の力は並ではない。先生も生徒も拍手した。彼はプールサイドで見ていた。真希と目が合うと笑って教室に戻っていった。それはすぐ噂になった。
 体育祭で真希は走った。スタートはずっと前方だったしゴールしたのも最下位で時間はかかったが皆が応援した。彼は1年の男子に混じって応援していた。
 
 私は寂しかった。彼は真希に夢中だ。先生公認、三沢の彼女か、たいした子だな。大事にしてやれ。手を出すんじゃないぞ、と冗談を言った。
 私がふたりを見ていると1年の男子も同じように見ていた。徒競走を彼と応援していた生徒だ。真希とは違うクラスだがいつも真希を見守っている。後輩に聞くと靖はクラス委員で頼りにされていた。

 やがて私は3人から目を離すことができなくなった。食堂で彼は靖の隣に座りうどんを食べていた。熱い汁が靖の腕にかかった。
「気を付けろよ。火傷するぜ」
 彼は靖を保健室に連れていった。
 故意だ。火傷はたいしたことはなかった。彼は真希に笑って話している。
「仇は取ってやるよ。学校に来られなくしてやるからね」
 休み時間、彼のあとをつける。靖は階段を降りている。彼は背中を押そうとした。
「三沢君」
 大声を出したが彼はそのまま押した。転げ落ちていく靖。彼は気を付けろよ、と助け起こす。
「いつか大怪我するぜ。真希みたいに」
 彼は私の前を通り過ぎる。何事もなかったように。
「三沢君、なにやってるの? やめなさいよ」
 彼は聞く耳を持たない。

 昼休みに彼は屋上に登っていった。呼び出されたのか靖も来ていた。
「飛び降りろよ。死にはしないって。償うんだろ? 真希に。おまえのやったこと」
「やめなさいよ、三沢君、死ぬわよ。なにしてるのよ、あなた」
「観客ができたな、靖。真希のやつ遅いな。ああ、やっと来た。本番だぜ、マリー、おまえも合わせろ」
 マリー? おまえ?
 彼は深呼吸してからはじめた。靖、飛び降りろよ、ともう1度言い、靖は柵を越えようとした。真希が早足で駆けてくる。
「転ぶわ。危ない」
 私の声で支えに行ったのは靖だった。かつて真希をいじめ足を不自由にした男。
「もうやめて」
 真希は叫んだ。
「許すのか? 真希、こいつを許すのか?」
 真希は答えずにもうやめて、と繰り返した。これは演技なの?
「行けよ。靖」
 彼のひとことで靖は去った。
 残った私を観客にして彼は泣きじゃくる真希を抱いた。目が合った。邪魔者は消えろ、と。ひどい人、私の前でラブシーンなんて。
 しかし大きな音がした。彼は頬を叩かれた。叩かれながらよろける真希を支えた。真希が私の隣を泣きながら通っていく。彼はため息をつき鼻を押さえた。
「なんだよ、笑うなよ」
「頬に手の跡がついてるわ」
「ああ、すごい力だ」
 恥ずかしいのか彼は饒舌になった。
「僕たちは同じスイミングクラブだった。靖はずっと苦しんでた。最初は靖が始めたんだ。あいつは父親が厳しく成績も水泳も真希には勝てなかった。 
 皆を扇動して真希をいじめたのは靖だ。しかし真希は負けなかった。母親が必死に働き好きな水泳をやらせてくれていた。靖は負けたんだ。真希の強さに圧倒されて。だが、まわりの男子が面白がってやめなかった。
 いじめは暴走して真希を追いかけた。靖は止めようとした。真希はオレたちとは次元の違う女なんだ……
 真希は逃げて車に轢かれた。皆は関わってない靖のせいにした。
 靖は責任を被って転校した。両親は離婚、靖は母親の姓になり、真希は同じ学校になっても気づかなかった。靖は変わっていた。真希が気づかず好意を寄せるほど」
「だからあなたが悪者になったのね? そして真希ちゃんにキスしようとして殴られた」

 それから彼は少し私に心を開いたようだった。真希の友達になってくれと頼まれた。自分はもう、いやらしい男に成り下がったから。

 1度だけ彼は弱みを見せた。昼休み、予鈴が鳴っても彼は気づかず弾いていた。観客は出て行った。彼は思いきり鍵盤を叩きつけた。
「努力に勝る天才はなし。嘘だな」
 立ち上がるとフラッとし私は支えた。背が高くなっていた。体重も。
 ダメ、支えきれない。
「三沢君、しっかりして」
 私は床に倒れた。彼も倒れた。私の上で。
 本鈴が鳴った。音楽の授業はないようだ。
「三沢君……」
 気がついている? 彼は顔を起こし私を見た。
「ごめん」
 立ち上がり、私の手を取り起こした。
「あなた、練習のしすぎじゃないの? ちゃんと寝てるの?」
 楽譜を持ち出ていく。
「あなたの感情……表現、すごいと思う。魂を持っていかれそう」
 
 秋の文化祭では彼の演奏で『わが子よ』という歌を歌った。世界中でヒットした歌だ。日本語の歌詞と映像を流すと親も生徒も涙ぐんでいた。
 演目の最後に三沢英幸がピアノコンクールで最年少で3位入賞したことが発表された。観客の拍手で彼は弾かざるをえなかった。ずっと練習していた曲だ。ショパンのピアノソナタ第2番第1楽章。花束を渡す役を真希が引き受けた。彼の優しさを再認識させたのは私だ。

 試験が終わりもうすぐ2学期も終わる。M橋で他の学校の生徒が彼を待っていた。ふたりは私の前を歩いていく。彼より小柄な他校生はチラチラと私の方を振り返る。ファミレスに入った。
「君も来いよ」
と言われ彼について行った。しかし、嬉しかったのにひどい。彼は他校生を幼稚園からの付き合いの治だと紹介した。
「こいつが君に一目惚れしたよ。付き合ってみないか? 人間的には僕よりずっと上だよ。ずっとずっと」
 よせよ、三沢、と治が照れる。彼の長年の親友。人のよさそうな頼りなさそうな、かわいいという表現が似合う少年。私は憤慨したが治と話した。聞き上手で気がきく。飲み物を取ってきてくれる。
「甘いもの食べない? 三沢、お汁粉好きだろう? 水谷さんも。おごるよ。介護施設でバイトしてるんだ。雑用だけどね」
「バイトしてる場合じゃないだろ? 落第するぞ」
「だから頼む。この通り」
 治は手を合わせる。

 翌日、M橋の上で治は彼を待っていた。私もあとを追う。彼はできの悪い治に勉強を教えてやるのだ。中学でもそうだった。三沢のヤマカンは当たる。私に会えて治は嬉しそうだ。電車に乗る。彼らは先に降りる。
「君も来るかい?」
 彼に言われ私は降りてしまう。
「来るのか? 男ふたりの部屋へ」
 治が安心させる。
「大丈夫だよ。おばあちゃんもいるから」
「それがこいつの常套手段」

 治の家、優しそうな祖母に猫がいた。彼になついている猫だった。私は安心し国語を見てやる。薄い教科書。レベルの違う高校。漢字を書かせる。私がみていると治は必死で覚えた。数学は彼が教える。確かにわかりやすい。
 提出物の大量のプリントに追試。
「受かったら映画観に行ってくれる?」
 治は彼と違って話しやすかった。祖母がチャーハンを作ってくれた。
 翌日も私は治の家に行っていいか聞いた。
「今日はおばあちゃんいないよ」
「平気よ」
「僕はゲイだから大丈夫だけどね。治は男なんだよ」
 3日続けて治の家に行き勉強をみてあげた。
「おばあちゃん、いるじゃない、嘘つき」

 三沢とは幼稚園からの付き合いだ。すぐに仲良くなった。あいつは3月生まれだから小さかった。中学まではボクのが背が高かった。ボクたちは虫が好きだった。よく青虫を探して歩いていた。その頃はエーちゃん、治ちゃんて呼んでたよ。
 ボクのかあさんは虫を気味悪がったけどあいつのママは平気だった。カマキリだって手で捕まえた。大きな家の奥さんなのに近くの畑もやって長靴履いて野菜作ってた。
 力持ち。三沢のじいちゃんは大柄なのに、半身不随の重いのをヒョイと移してたよ。車椅子に。
 じいちゃんは最初結婚を反対してたらしいけど、頼りきりだった。あいつのママに。
 ボクらはよく家を行ったり来たりした。あいつのママは泳ぎが得意でプールへ行くとずっと泳いでた。海辺の村の出身らしい。中卒らしいんだ。 
 顔は、あいつを長い髪にして小さくしたらそっくりかも。優雅とか品がいいとかじゃなくて、都会には合わなかった。
 あれ、幸子は東京に空がないってやつ。ホントの空が見たいという……
 智恵子でしょ? 
 ごめん。

 小学校に上がる前にじいちゃんが死んで、その年にあいつんちが持ってたアパートに若い男の音楽の教師が越してきた。ナツオの隣の部屋。おばさんはよく面倒見てた。おかず差し入れたりして。そのうちナツオがピアノを教わり三沢の家でよくそいつは演奏してた。三沢の家にはピアノがあって、あいつのばあちゃんはクラシックが好きだから、よくリクエストしてたよ。なんでも弾けてた。あいつもばあちゃんに習わされていやいや弾いてた。三沢のママは興味なさそうだった。
 ある日そいつの部屋に皆で行くと、腹が痛いってのたうちまわっていた。ナツオのおばさんは留守で三沢がママを呼びにいった。ママはすぐに車で病院まで連れていった。結石とかだった。そのうち三沢のママの妹がそいつと付き合うようになって、ふたりは結婚するのかと思ってた。でもダメみたいになってそいつは引っ越していった。 

 それから1年くらいしてそいつが入院してるって。ナツオがママと見舞いにいってきたって。そいつは癌で余命宣告されてた。
 あいつがそれをママに話したから、ママはなにもかも捨ててそいつのところへいった。何年も生きられない男の元へ。あいつが教えなければママは出ていかなかった。
 パパは息子を責めた。おまえが喋らなければ、って息子を殴った。よくあざ作ってた。見かねたナツオのママがしばらくあいつを引き取った。
 ふたりで留守番してる時、ナツオが食器棚に顔突っ込んで頬に傷が残った。
 パパはしばらくすると近所の獣医と再婚した。よく犬をみてもらってた獣医で三沢はなついてた。きっとあいつのために父親は再婚したんだ。
 三沢、苦手なんだ。あ、だめだ。これは言えないよ、バレたら殺される。
 あいつは、血がダメなんだ。小学生の時は血を見ると震えてた。今は平気なフリをしてるけど。
 あいつ、女だったら毎月失神してるね、あ、ごめん。
 ヴァージンは無理だね、あ、言っちゃった。
 なんでだろう、僕は平気なのに。ナツオがガラスかぶって怪我したとき、あいつは手を血だらけにして破片をどけた。ショックだったんだろう。

 小学校4年の時、ボクは三沢と同じクラスだった。同じ班に(こう)っていう女の子がいて、香るっていう字。香るなのに動物臭くて虐められてた。
 同じ班で香は宿題やってこないからいつも残り掃除。香は口もきかず前髪がかぶさり上履きも小さくて、あれは育児放棄? 臭い臭いって虐められるのを助けたのはボクだよ。三沢じゃない。ボクたちは香に宿題をやらせようと家に行った。庭の木は手入れされずお化け屋敷みたいだった。香は縁側でハムスターと遊んでいた。それはもう魅力的で三沢も目を輝かせてさわらせてもらった。
 女の子が、ダメ、交尾しちゃう、なんて喋ってんの。
 そこにオヤジさんが帰ってきて、増えたハムスターを怒り処分すると言うと香は抵抗した。私も死ぬからねって。そのハムスターをボクたちはもらってきて育てた。 

 香のかあちゃんも男を作って出ていった。ボクたちは同志が増えたと喜んだ。母親に捨てられた三沢と香。父親に出て行かれたボク。ボクたちは同志連盟を作り、絶対親を許さない、親が死んでも泣かない、墓に唾を吐きかけてやろうって誓った。
 ボクたちは香がいじめられないよう前髪を切ってやった。うまくいかず香は泣き出した。しょうがないから三沢のおかあさんに切ってもらった。新しいおかあさんは世話好きだから、シャワーを浴びさせ服を洗濯しきれいにしてやった。
 父親のところへ行き話していた。忙しいと言う父親に虐待ですよって負けていなかった。おかあさんは香が自分のことは自分でできるよう鍛えた。毎日シャワーを浴びること。歯を磨くこと。髪の結き方。家の掃除、洗濯、簡単な調理。だんだん香はきれいになり香の家もきれいになっていった。
 とうちゃんは長距離の運転から日帰りバスの運転手に変わって、香はひとりで夜を過ごすことはなくなった。ボクたちは香のとうちゃんのバスに乗ったよ。香は嬉しそうだった。とうちゃんはマイクを持って喋り乗客は拍手した。

 中学になると香は同志から抜けた。もう女らしくなって香を好きだという男もいた。三沢もボクとはレベルが違うから、あいつは成績は塾にもいかないのにトップだったから、そんなにくっつくこともなくなった。
 3年の夏休みに三沢を生んだ母親が亡くなった。それが原因だろう。2学期からあいつは変わった。ボクが話しかけても無視した。そのうちあいつは不良グループといるようになった。獣医のおかあさんのところから盗んだモルヒネやってるとか噂になって、ボクはどうにもできないでいると、香がやってきて、連れ戻しにいくわよ。我らが同志をってすごい剣幕で。香は自分ちのでかい犬を連れて不良の溜まり場に乗り込んだ。
 玄関で、
「出てきなさい。三沢君」
て大声で叫んだ。ワルがふたり出てきてボクはひるんだが、香は犬をけしかけてまた叫んだ。
「三沢君、こんな人たちと付き合っちゃダメ」
 あいつはようやく出てきた。
「三沢君、母親が死んだくらいでなにやってるの? 忘れたの? 親なんか乗り越えるんだって。墓に唾吐きかけるって。私はやるわよ。誓ったでしょ」
「静かにしろよ。今、犬が死に行く」
 香の犬を門につないでボクたちは中に入った。部屋の中にバスタオルが敷いてあって、ワルのリーダーが犬をさすりながら泣いていた。皆初めて見た。いや、三沢は祖父母の死に立ち会っていた。元々は三沢のおかあさんが保護した犬で三沢が名前を付けた。シャーロックって。あいつはシャーロック ホームズ好きだったから。シャーロックは小学生の時にリーダーに引き取られていた。 
 シャーロックは苦しそうに見えたがモルヒネ与えられて苦しくはないんだ、と三沢が言った。下顎呼吸って言うんだ。死に向かうとこういう呼吸になる。
 苦しそうだよ。早く楽にしてやりたい。もうひとつモルヒネ飲ませてもいいか? 
 シャーロックはもう飲み込めなかった。集まってた不良たちが犬の死に向き合っていた。1時間も見守ると犬が大きな声で泣き、最期がくるのがわかった。三沢はサッと抱き上げた。その瞬間犬はおしっこもうんちもした。ボクたちは犬をきれいにしてやり箱に入れた。三沢は手を洗い香を見た。香も犬の死に泣いていた。
「香、勇気あるな、同志」

 三沢はもとの優等生に戻り卒業式。あいつは女子にボタンをむしられボロボロだった。そこへ香の登場さ。きれいになった香は三沢の前まで歩いてくると、
「握手してください」
と手を出した。女子が見ている中であいつは香と握手した。
「香、おとうさん、大事にしろよ」
 かっこよかったな。


 去年の夏、三沢は高い酒を持ってきてボクの家で飲んだ。
 お祝いしようぜ。命日なんだ。あの女の。
 三沢を捨てて出ていった母親の命日。飲めない酒を飲んであいつはペラペラ喋った。
 ママが死んだ。今日死んだ。
 異邦人とかいう本を暗記していた。ボクが飲むのを止めると、おまえは同志だ。おまえは本当にいいやつだ。幸せにな……それから出ていった。そのまま帰したらなにかやらかすんじゃないかと思った。
 あいつは駅に行き電車に乗った。ボクは近くで見ていたよ。あいつのそばにきれいな女がいて、泣いている三沢を見ていた。20歳くらいの会社帰りって感じの。あいつは見られることには慣れているけど、涙を見られて恥ずかしかったのか、じっと見つめ返してナンパしたんだ。目だけでナンパした。三沢は女の肩を抱いて歩いていった。
 夕暮れの海浜公園。ボクはついていった。防波堤にくるとあいつは怒り出した。自分でナンパしておきながら、のこのこついてきた女に怒っていた。
 この顔がそんなに魅力的か? ママそっくりのこの顔が? 
 女の様子は変だった。聞こえてないのだとボクは気がついたけど、あいつは酔っててわからなかった。自分の不幸を全部彼女のせいにして、無視されてると思い肩を揺すった。彼女は怖がり初めて大声を出した。言葉にならない声だった。
 ボクが止める前にあいつは近くにいた数人に取り押さえられた。襲われて悲鳴をあげたと思われたんだろう。彼女があいつを助けようとして、必死で手話を使って。あいつはやっと彼女の障害に気付き土下座した。大袈裟に。そして海に飛び込んだ。

 ママ、あなたの息子は最低の男になりさがった。

 1番慌てたのは彼女だ。男たちに助けを求め三沢に叫んだ。夏の海、泳ぎのうまいあいつは彼女に手を振り潜った。

 バカ、三沢、戻ってこい。 

 ひとりの男が飛び込んだ。暴れるあいつを殴り連れ戻した。梯子を登り終えるまで彼女は心配そうに大声を出していた。
 びしょ濡れのあいつはおとなしくなって、助けてくれた男の車の後ろの座席でボクに寄りかかって静かにしてた。彼女を家まで送り圭介さんていう男の部屋に連れていった。こいつを家に連れて帰ったら大騒ぎになる。
 圭介さんはすごくいい人であいつはおとなしくなっていた。訛りがあって、ママと同じ訛りだって甘えてた。もう、ママ、ママって子供みたいに。
 圭介さんはトイレで吐かせ兄貴みたいに面倒見てくれた。ボクは三沢の家に、うちに泊まるからと電話して、ふたりで圭介さんの部屋に泊まった。あいつは目が覚めると猛烈な頭痛で圭介さんが薬を飲ませた。トイレにも連れていって面倒見てた。 

 よかったな。レイプ魔にならなくて。覚えてるか? 彼女にしたこと?

 圭介さんは落ち着いたあいつとボクを車で送った。次の日、三沢はボクに頭を下げて謝った。
 治がいなかったらどうなっていたかわからない。本当におまえはいいやつだと。おまえには飾らなくてすむ。バカな自分でいられる。
 止めなかったボクが悪いんだって言うと、おまえはいつも自分が悪者になる……
 それからあいつは、きちんとけじめをつけた。
 圭介さんにきちんと礼を言いにいった。菓子折持って。
 圭介さんはきちんとしたあいつを見て驚いて喜んだよ。
 母親なんてものはいてもいなくても厄介なものだな、圭介さんのところは過保護、過干渉らしい。
 彼女の家の場所を聞くと圭介さんはボクたちを信用して教えた。
 ボクたちは彼女の家を探した。彼女の仕事帰りの時間頃、ボクたちは家のそばで待った。あいつは帰れ、って言ったけど心配だった。ほぼあいつの計算通り彼女は歩いてきた。
 三沢は……驚いたよ。三沢は彼女の前に行き、手話で謝ったんだ。たぶん、ごめんなさいって。(あや)っていう名前だった。文は驚いたけどきちんとした三沢を見て顔を赤らめた。近くの公園のベンチで筆談。謝り、許され、あいつは償いたいと。
 文は首を振り、考えて長い文章を書いた。あいつは憤慨し、大きくうなずいた。

 文の休みの日、ボクはまたくっついていった。犯罪者になるからついてくるな、と言われたけど。違う駅で文は待っていた。約束通り来たことに少し驚いていた。文のあとをついて米屋の前に立った。
 文が幼い頃、配達に来ていた米屋のオヤジ、ニコニコして文に菓子をくれた。文は信用してたんだ。ある日、文ひとりだった。

 大きくなったね。文ちゃん、重くなったか抱っこさせてごらん。

 手を広げられて文は不審にも思わなかった。信用してた男は文を抱き上げ股にさわった。母親が帰ってくると何事もないように帰っていった。文は母親に言えなかった。米屋のオヤジが来ると隠れた。

 引越ししても許せない。なにもできなかった自分。きっとあの男はまだ同じようなことをしている。親に話せない子がいるわ。罰を与えて。

 三沢は、行動開始だと深呼吸した。
 おまえは他人のふりをして、おおごとになったら文を連れて離れるんだ。僕はムシャクシャしてたからやった、と言う。太陽が眩しかったから、とでも言うよ。文の名前は出さない。出すなよ。絶対に。

 三沢はつかつかとオヤジにつめより、耳元でなにか言った。罪を確認したんだろう。それから急所を蹴った。ふさわしい罰だ。オヤジはうずくまった。そして米袋を投げつけようとした。けど、文が入ってきちまった。やめさせようとしたんだ。三沢は文の前に立ち塞がって顔が見えないようにした。
「マリー、仇は取ってやったからな」
 三沢は文を連れて出ていった。残されたボクは  
「大丈夫ですか? 警察に電話しますか? 仇ってどういう意味ですか? 女の子になにをしたんです?」
と、とぼけた。オヤジは、なんでもない、大丈夫だって。
 奥からたぶん奥さんが出てきたけど変な雰囲気だった。あれはきっと知ってるね。旦那が悪いことしてるってわかってるね。かわいそうだった。
 とにかく仇打ちは終わり文を送り再び公園で筆談。三沢は交際を申し込んだ。文は
「4つも年上なの。障害者なの」
と断る。
「もう許すから、もう来ないで」
 あいつが諦められないでいると、紙に書いた。
「いつか恋人ができたらあなたを殴りにいってもらうわ」
 三沢はそんな返事がくるとは思ってなかったろう。手話でさよならを言った。文もさよなら、たぶん、忘れないわって言ったんじゃないかな。三沢の初めての失恋。4歳上のきれいなしっかりした女だった。あれ、両思いだったぜ。きっと。

「マリーって、誰?」

 叔父の経営しているホテルで3日目の朝を迎えた。学校を休んで1週間になる。先生はゆっくり養生しろと言ってくれた。

 水谷ならすぐに遅れを取り戻せるから。

 皆には千葉で急性肺炎になり入院していることにしてある。
 あの日、私はすべてを口うるさい母のせいにして手首を切った。死ぬつもりなどなかった。 

 もう優等生でいるのが疲れたんです。

 先生は納得し、母にしばらく幸子と離れた方がいいと助言した。母は気の毒だった。父にも怒られ叔父にはたしなめられた。 
 叔父は最初心配し姪から目を離さなかったが、私が母の心配をするようになると安心して自由にさせた。
 死ぬ気などなかった。忘れればいい。なにもなかったことに。思い込めば記憶は薄れていくはずだ。
 窓から冬の海が見える。去年も1昨年もクラスの女子数人と来た。もうあの眩しい日差しの中には戻れない。
 海を散歩している男がいた。背の高い若い……
 まさか、三沢君?
 私は察した。彼は治に聞いたのだ。治は喋った?
 目が合うと彼は手を振った。
 彼は叔父のホテルに滞在した。好青年の彼はすでに叔父の信用を得ていた。食事を彼に運ばせる。鍵をかけたがマスターキーで開けて入ってきてテーブルの上にお盆を置いた。
「雇ってもらったよ。叔父さんに。いいところだね。僕の母も海辺で育ったんだ」
「知ってるわ。治に聞いたもの。あなたのこと聞きたくて治と遊んだのよ。聞いたわ。ママのことも、香のことも、文のことも。シャーロックのことも」
 彼は少し顔を赤らめた。
「恥ずかしいな。僕は恥ずかしさのために死にそうです」
 太宰ね。死という言葉をわざと言ったのね? 私の反応を見るために。
「聞いたわ。あなたが血が苦手だってことも。女だったら毎月失神してるって。ヴァージンは無理だろうって」
 私はため息をついた。彼も同時だった。そして同時に笑ったあと私はコップを割りカケラを握った。
「切るわよ。血、見たい?」
「わかった。降参だ。出ていくよ」
 そしてドアを閉める前に言った。
「どうして血が苦手になったか聞きたくない?」
彼は戻ると割れたコップを片付けながら話した。
 
「母に出て行かれ父は病気になった。心の病気だと祖母は僕に謝った。
 父は酒を飲んで帰ってくる。夜中に僕を起こした。テストの点が悪いと叩いた。頭の悪い子はパパの子じゃない。母親そっくりのしぐさだとまた叩いた。
 幸せな家庭は簡単にこわれた。僕は夏生の家に引き取られた。おばさんが、酒をやめるまで帰さないと言ってくれ、僕はしばらく夏生と暮らした。夏生は女だよ」
「えっ? 嘘」
「女だよ。どうして男のふりをしてると思う? 夏生が5歳のときだ。おばさんは買い物に行ってた。夏生が僕に言った。

 和ちゃん、どうしてるかな? 会いたいね。ピアノうまかったね。

 僕は夏生を叩いてた。小さな夏生は食器棚に突っ込んだ。顔中血だらけで僕は震えながらガラスの破片をどけた。おばさんが帰ってきてすぐに救急車を呼んだ。
 そこへ珍しく父がしらふで帰ってきた。運ばれる夏生と僕の様子を見て察したんだろう。暴力の連鎖。
 夏生は頬に大きな傷をつけ、自分で転んだって言い張った。おばさんはわかっていたと思う。おばさんはおじさんに責められても僕のことを庇ってくれた。
 夏生の顔を見ると大人たちは、女の子の顔に傷をつけてお嫁にいけない、とおばさんを責めた。 
 夏生は傷を隠しもせず陰口を言われないように明るく振る舞った。
 僕がやったことを覚えているのか、自分でやったと何度も言ううちにそう思い込んでいるのか、怖くて僕は聞けない。
 だから僕は夏生には負けていられないんだ。一生かけて償おうと思った」
「じゃあ、お嫁にもらうのね」
「ああ。貰い手がなかったらそうするつもりだった」
「幸せね。夏生は幸せだわ」
「夏生は君に憧れてる。女の子らしくしたいんだと思う。よくふたりで君のこと話題にした。僕は好きだった。テニスコートで会ったときから」
「嘘だわ」
「母が亡くなった夏だよ。僕は部屋に閉じこもってた。義母に無理やり連れ出された。スポーツは一瞬でも悲しみを忘れさせる。どん底でも恋をする。 
 何度も君を思い出した。君のフォームを思い出して笑った。君は奇跡を見せてくれた。あんな下手な君が僕と打ち合った。君は僕の小さな太陽、マリー」
「嘘よ」
「圭が君を好きだったから諦めたんだ。圭は高校入る前の春休み、うちの庭の工事を、親父さんを手伝ってた。父子で仕事して昼には母親の作った弁当を食べていた。僕は義母のいないとき飲み物を差し入れしていた。クラスが同じになると少しばかりの変装はバレた。
 三沢の坊ちゃんと呼ばれ僕はキレた。大喧嘩した。それからは気が合って、同じ女を好きになった。僕たちは恋よりも友情を選ぼうとふたりで諦めた」
 嘘だわ。そんなこと信じない。いまさらそんなこと……

 器を下げにきたとき、なぜここがわかったのか聞いた。先生は教えないはずだ。
「千葉のおじさんのところで入院してるって聞いたから。君、暑中見舞いくれただろ?」

 彼は午後叔父と釣りに行き、夕方は調理場で魚の卸し方を教わっていた。夕飯も彼が持ってきた。彼が卸した刺身を残すと私の箸で平らげた。
「間接キスだね」
「ダメよ。そういうことしないで」
 夜には教科書を持ってきた。
「もうすぐ試験だ」
「そうね。帰りなさいよ」
「君が帰らなければ帰らない。僕はね、水谷さんの2日あとに戻る。今は親戚の葬儀。田舎の葬儀は長いんだ。義母には、大事な彼女のためだって言ってきた」 

 また1日過ぎた。彼はのんきに釣りに行く。焦っているのは私のほうだ。
 なんて人なの……

 帰ろう。

 私は急いで支度をした。彼を残して駅から長距離バスに乗った。
 翌日私は登校した。駅まで行くとクラスメートに声をかけられ、あっさりとクラスに戻れた。誰も疑わない。
 彼は自分で言った通りもう2日休み、土産まで配っていた。それから彼は見守るだけになった。
 
 3年になるとクラスは変わり階も違った。入学式、この年は金縷の詩はなかった。彼の父親は出張らしい。
 私は思い出した。入学式に彼の父親が挨拶をしているときに目が合った。彼の隣の私を見て笑った。父親は下を向いている息子を見ていたのだ。辛い思いをさせた、変わり者の息子を見ていたのだ。

 今年の1年生のアイドルは|美登利(みどり)だ。皆にドリーと呼ばれた。家が駅の近くでコンビニを経営している。男子は夕方買いに行く。古文の若い講師も美術の教師も寄るらしい。学校ではチヤホヤされている彼女が、店では愛想がいいらしい。
 葉月と違いドリーは三沢英幸には関心を示さなかった。私は後輩から情報を得た。中学でも男の教師と噂があった。小学生のときから男の教師にはひいきされていた……
 母親は……淫乱……男を作り娘を捨てて出ていった。

 リストカットしていたみたい。腕にあとが痛々しい……
 私は自分の手首を見た。傷痕はほとんど消えていた。
 リストカット、彼が知れば関心を示すだろう。母親に捨てられた同志。きっかけがあればふたりは急接近する。彼は弱い者には優しい。
 しかし、名前を出すと彼は露骨に嫌な顔をした。
「女子には好かれないだろ?」
 女子は嫌う。陰口はひどい。淫乱……魔性の女……ドリーは気にしない。強い。女友達は必要ない。成績はいいし、運動神経は抜群だ。
 写真部がモデルを頼むとドリーは引き受けた。私は断った。自分の顔をさらしたくはない。
 できあがったドリーの写真は魔性の女ではなく、恋をしている少女だった。

 3学年は矢のように過ぎた。もう余計なことを考えている暇はない。母をこれ以上心配させたくない。私は勉強に打ち込んだ。彼はときどきメールをくれた。学校で会うと立ち話をした。
 文化祭。彼は強制的に音楽部所属だからまたピアノを演奏する。
 体育館へ行くとドリーが入口で誰かを待っていた。彼は男子に人気のあるハスキーボイスの女生徒には目もくれないで通り過ぎた。

「圭」

 ドリーが呼んだ。魔法の言葉だ。
 彼は振り返った。かつて同じクラスで過ごした圭にドリーは駆け寄った。男子は憮然として見ていた。圭は私に気づき、隣にいた彼を見ると、やっぱりな、という顔をした。
 過去を忘れたように圭は近づいてきた。彼とハイタッチ。彼の背は圭と同じくらいに伸びていた。
 ドリーが圭にまとわりつく。 
「前のほうで見ててね。圭のためだけに歌うから」
 見ていて恥ずかしくなる。圭は彼の隣に座って話しながら舞台を見ていた。軽音部のドリーは部員が準備している間にピアノを拭く。鍵盤を丁寧に。椅子も。
 きれい好きだ。いや、それ以上だ。誰も気がつかない。この少女は? 
 ドリーの歌が始まった。ピアノを弾きながらドリーが歌う。圭だけのための『月光』
 魅力的なハスキーボイス。男子の歓声と拍手。 
 そのあとは彼の演奏だ。ドリーが戻り、彼が座っていた椅子を圭はさりげなく拭いた。ドリーが座る。
 今度は女子の歓声。彼は予定していた曲とは違う曲を演奏した。私にもわかった。ベートーベンの『月光』
「いやなやつ」
 ドリーが怒る。
「あんな嫌味なやつが親友だったの?」
「おまえも弾けるのか? この曲」
「1楽章はね。3楽章は無理」
「なるほど」
 彼が戻ると圭の隣にはドリーが座っていた。彼は壁際に立ち圭が立ち上がるのを待っていた。
 グランドで4人で立ち話。私が美登利さん、と呼ぶとドリー、と言い直させた。
 ドリーは圭の腕をつかみ急かす。
「じゃあな、三沢」
「ヒースクリフ」
 私が代わりに呼んだ。圭は私を見て笑って去った。

 友情も再びは得べず?

「どうして月光にしたの?」
「さあ、いやがらせかな。どう見たって圭のタイプじゃない」
「あなたでも見かけで判断するのね」
(ドリーはあなたにそっくりよ。圭にじゃれついて、圭のことが好きで好きでたまらない)
「ドリーか、自分の名前が嫌いなんだな。たけくらべの美登利か」
(美登利は遊女になるのよ。いやでも決まっているの。ドリーは見かけとは全然違う。圭は理解している。リストカットも)
「君の名前は両親の思いが込められてるね」
(あなたは名前で呼ばせないのね。圭にも、治にも。英語の英に不幸の幸)

 ドリーは私に会うと手を振り近づいてきた。
「三沢さんと付き合ってるんでしょ?」
「友達よ」
「圭とは? 同じクラスだったでしょ?」
「一緒にクラス委員をやっただけ。斉田君は三沢君と特別だったのよ。三沢君は斉田君に夢中、ふたりは……」
 冗談を言って笑った。
 卒業式まではあっという間だった。帰り、彼と駅まで歩きホームのベンチで話した。
「今までありがとう。私はもう大丈夫だから。もう会わない。あなたといると忘れたいことを忘れられないの。もう電話もメールもしないで」
 彼はなにか言いたそうだったがうなずいた。
 
 治からメールがきた。
(卒業おめでとう。以前の明るい幸子さんに戻ってください)

 歩いて治の家を訪ねた。治は帰っていなかった。
 公園でも散歩してまた来よう。
 歩いているうち方向感覚がなくなった。いくら方向音痴でもこの道路はおかしい。携帯で調べていると声をかけられ驚いた。目の前に夏生がいた。
「エーちゃんちに行くの? 卒業式だからな」
 夏生に手を取られ引っ張っていかれた彼の家。想像していたより大きな邸に広い庭。
 夏生が大声を出すと窓から彼が顔を出した。私を見るとパッと明るくなった。それからは夢のようだった。テニスコートでコーチしていた若い母親と幼稚園児の妹が私を歓迎した。
 広い居間で紅茶を飲む。夏生が作ったというケーキ。レモンの香り。レモンの味。
「おいしい」
「ウィークエンドシトロンていうんだ。思いを寄せている人と食べるんだよ。ヒッヒッヒッ」
 夏生は私の髪をさわった。
「きれいな髪だね。ボクのこと、ずっと男だと思ってたろ?」
 高校の後輩になる夏生はいろいろ聞いてきた。
「何部にしようかな? テニス……吹奏楽。でもドラムは倍率高いからな」
「小学校からブラスバンド部。中学ではクラリネット。ピアノは僕より上手いよ」
「テニスもだろ」
 お喋りだが楽しい。3つも年下なのに話題が豊富だった。
「夏生さんは、フランス語話せるの?」
「亜紀先生に少し習った」
「亜紀先生?」
「私のことよ。夏生、ピアノの時間よ」
「ちぇっ」
と舌打ちし夏生は出かけた。
「水谷さん、今度テニスしよう。ヒッヒッヒ」
 私のテニスはふたりを笑い上戸にさせるようだ。
「笑えば、あなたも」
 義母の亜紀先生は彩を連れて買い物に行った。
「夏生、魅力的な子ね」
「変わってるだろ?」
 彼は2階の書斎に連れていった。階段を登るときは私を先に昇らせた。ミステリーのドラマに出てきそうな階段……
「靖君を階段から落としたのも演技だったの?」
「靖は柔道やってるから受け身が取れた」

 大量の本があった。古い文庫本。彼がよく読んでいた。
 アポリネールの詩集があった。私は手に取った。

 マリー、君はいつ帰ってくるの?

 そう、ぼくは君を愛したかったんだ、
 でも、うまくは愛せなかった
 今でも、君を思うと甘く切ない

 諦めようとしたり、
 きみなしではだめだと思ったり
 この心がどうなっていくのか、
 ぼくにはわからない
 きみがどこへいこうとしているのか、
 わからない
 きみの心はまるで秋の葉っぱ。

 約束だってちりぢりばらばら、
 風に飛んでいった
 
 ぼくは今、古い本をわきに挟んで、
 セーヌの河岸を歩いている
 川の流れはぼくの悲しみと似ていると思う
 川の流れには
 終わりというものがないのだから
 やっと1週間を持ちこたえたけれど、
 こんな日々はいつまで続くのだろうか

 M橋の上で彼の父親は教えてくれた。アポリネールには女友達は大勢いたが、愛されたことがなかった、と。
 あの人の息子は、心の中で私をマリーと呼んでいる。
 ミラボー橋の作者、アポリネールの恋人、マリー ローランサン。アポリネールはマリーを小さな太陽と呼んだ。
「おとうさん、来賓で挨拶するかと楽しみにしてたのに、忙しいのね?」
「出張だよ。多いんだ。彩がかわいそうだ」
 アルバムがあった。彼の中学のものだと思い手に取ると、それは父親の高校のものだった。開いてふたりで見た。30年前の父親はどことなく彼に似ていた。
「おとうさんも、もてたでしょうね。今でも……」
複雑な思いがあるのだろう。
 めくりながら彼の手が止まった。そこには篠田葉月の写真がはさまれていた。いや、葉月ではない。古びた写真。葉月の母親か? 
 彼も驚いたようだった。父親の同級生に葉月そっくりの女生徒がいた。
「同級生だったのね? 葉月さんのおかあさんと」
 M橋でたたずんでいたあの人、彼の父親。30年以上も前の恋? ずっと取ってある写真。
「どうでもいいよ。ほかの女のことなんか。鈍感だな」
 本に囲まれた書斎で初めてのキス……私は椅子から立ち上がって拒否した。
「ね、友達でいましょう。夏生と3人でデートしない?」

 夏生がいるほうが気楽だった。3人で遊園地に行ったり彼の取り立ての免許でドライブした。レストランに入ると夏生は彼の皿から味見をする。コーヒーのボトルも共用する。私は口をつけられなかった。

 化粧直し、夏生はじっと見ていた。
「リップ貸して」
 私はためらった。
「潔癖症なんだね。水谷さん、エーちゃんとキスできるの?」

 3人でテニスをした。思い出のコート。私は転んで膝をすりむいた。彼が手当てをしようとした。
「やめて」
「血が出てるよ」
「平気よ。さわらないで。無駄毛処理してないから見ないで」
 夏に別荘に誘われて断った。3人のデートはもう無理だ。

 夏生は部活が忙しくなり一緒に出かけることもなくなった。
 文化祭、なつかしい母校、夏生は吹奏楽部でクラリネットを演奏していた。軽音部にドリーはいなかった。彼は期待していたのだ。圭に会えるのでは? と。
 篠田葉月が彼を見ていた。私と目が合うと下を向いた。彼は気がついているのかいないのか? なぜ葉月を無視するのか? 父親に葉月の母親のことを聞いたりはしないのだろう。

 1年が過ぎても彼とはそのままだ。強風が吹き私は肩を支えられた。肩を抱かれ胸にすがって泣いた。キスの予感。私は離れる。

 2年になると彼は知り合いのレストランでバイトを始めた。ウェイター。夜はピアノを弾く。私は行きたかった。彼のピアノを聴きたかった。しかし私は彼との距離を置く。想像する。女性客が増えるだろう……
 そんなときあの母親が現れたのだ。寝耳に水。私は写真を見せられた。それこそ寝耳に水。彼と若い女性の写真。マンションの前、女性は彼の車に乗る。女性の肩を抱きマンションに入っていく。
 遊園地の写真。ふたりきりではない。バイトしている店の息子、春樹と3人のデート。
「由佳には親の決めた相手がいるのよ。別れさせて欲しい。あなた、恋人でしょ?」
「違います。ただの友人です。私には関係ない」
「では父親のところへ行くわ。子供ができた、なんてことになったら困るのよ」
 なんていう母親なの? しかしすぐにでも実行しそうだった。

 三沢英幸、父親、三沢英輔。母親は除籍、幸子……
 ようやくわかった。なぜ私の名を呼ばないのか? なぜ心の中でマリーと呼んでいるのか。ようやくわかった。
 彼は1度も私を名前では呼ばなかった。
 水谷さん、水谷、君……
 1度だけおまえと呼ばれた。彼は私の名を口にしたくなかったのだ。彼を捨てた母親と同じ名前だったから。夏生やあの母親にも禁句だったのだ。

 その日私は連絡をもらい彼のバイトしている店に行った。深呼吸をして入る。奥の席に彼と由佳と男の子がいた。
「エイコウさん。弾いて、17 番」
と由佳が言った。少年も言った。
「エイコウ、弾いて、1番」
 私には呼ばせなかった。その名前。圭にも治にも。母親も夏生も、彼の名を呼ぶのを聞いたことがない。
 私にはわからない。17 番も1番も。

 彼は突然現れた私に驚いたが、バイト先を訪ねたと思ったのだろう。嬉しそうな顔をして紹介した。
 僕の彼女だと。
 まだ垢抜けない素朴な女性は彼の言葉に驚き、彼の隣に座った私を見て勝ち目はないと思っただろうか? あの母親の言うように。
 彼は春樹を遠い親戚だと紹介した。彼によく似ていた。
「幸子よ。よろしくね」
「幸子? ママと同じ名前だ」
 ああ、この子は彼の弟だ。
 かつて彼が読んでいた本、線が引いてあった。
  
 障害のある愛以外に永遠の愛はないと。
そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。
 ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ。

 母親を奪っていった男のことだ。春樹は憎んでいた男の子供だ……
 彼は春樹を私には会わせなかった。由佳には会わせたのに。
 嫉妬したけどホッとした。
「お邪魔してごめんなさい」
 優雅に席を立ち歩いていく。彼はなりふり構わず追いかけてきた。
「待てよ」
 マリーとは呼ばなかった。私はため息をつき興信所の封筒を渡した。
「調べたのよ。いやな女になったわ」
 耳元でささやく。
「頑張ってね。エイコウさん。彼女、ヴァージンよ」
 タクシーを停め乗り込んだ。優雅に。

 彼からは何度も電話がきたが出なかった。メールがきた。

(春樹は父親の違う弟だ。母の妹が引き取って育てている。春樹はもらい子だと言われ不登校になり家出した。由佳さんが保護してくれた。春樹は彼女に懐いたから家庭教師をしてもらってたんだ。彼女は母と同郷だから春樹も懐いた) 

 返事は出さない。電話がきて私の代わりに友人が出た。

「サチコサンハアイマセン。モウデンワシナイデクダサイ。ワタシ? ワタシハ、スティーブン。サチコサンヲアイシテマース」

 忘れるために酒に酔い踊る。どうでもいい男の肩にもたれて。強く抱きしめられ唇にふれてこようとする。私は耳元でささやく。
「ダメよ。私、エイズなの。キスする勇気ある?」
 おかしくてたまらない。
 離れた席に私を見ているなつかしい顔をみつけた。酔った私は圭の隣の席に座った。
「ヒースクリフ」
「みっともないぜ」
「みっともないのはあなたのほうよ。どうしちゃったの?」
 かなり年上の女が私を睨んだ。きれいだが化粧の濃い女。
「三沢はどうした?」
「振ったわ。浮気したから。あなたと三沢君、ゲイかと思った」
 女が不機嫌そうにタバコを吸う。圭が止める。
「いいでしょ。どうせ死ぬんだから」
「そうよ。どうせ死ぬのよ。私にもちょうだい」
「見てらんないな」
 圭は水をよこした。頭を冷やせと。
 女は順番になり歌いにいく。
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない? ドリーはどうなったの? あの巨乳のハスキーボイス。男子のセックスシンボル。寝たの? 圭君? あのサッカーに明け暮れていた少年は今は年上の女と、不潔」
 私は水をかけた。
 女が歌い終わると圭は出て行った。もう1度違う男にもたれて踊る……

 背中を叩かれ振り返ると彼がいた。彼は取り巻きの男たちからひとことで私を連れ出した。
「おかあさんが事故にあった」
 送られる車の中で彼は話した。
「嘘だよ。連れ出す口実」
「死んだっていいんだけどね。あんな母親」
「圭が電話くれたよ」
「圭? かつて私を好きだった男は年上の女と。あの女死ぬわね。
 由佳さんは元気?」
「会ってないよ。あれ以来」
「別れたの? そう、私が邪魔したわね。あれはね、彼女の婚約者の母親に頼まれたのよ。いきなり現れて、あなたと彼女を別れさせてくれって。子供ができたなんてことにならないうちに。でなけりゃあなたのおとうさんのところへ行くって。
 そんなことできなかった。息子が婚約者のいる人を愛してるなんて、そんな残酷なこと聞かせられない。母親を奪っていった男と同じことしてるなんて」
「幸子、全部見当違いの誤解だ。君は話を聞こうともしない」
 私の家はもうすぐだ。
「いやよ。帰りたくない。ね、話しましょう、休んでいきましょう」
ふたりでホテルに入った。
「あなた、入ったことあるの? そうよね、由佳さんの部屋でやればいいんだから」
「しつこいぞ。幸子」
 大声で叱られ私は泣いた。怖かった。怖くてゾクっとした。すぐに彼は謝った。
「ごめん。幸子」と。
「謝らないで。幸子の連呼はやめて」
 甘い言葉はいらない。もっと怒って欲しい。
 ああ、今私は欲情してる。ぞくぞくしてあなたが欲しい。
 私の目の色に彼は気づいたはずだ。私は誘惑した。抱きついて唇にふれた。
「エイコウ。私も呼びたかった。私も聴きたい。17番も1番も」
 彼は答えられない。
「シャワー浴びてくるわ」
 シャワーで流す。タバコの匂い、踊った男たちの匂い。
 ダメ。暴走してはダメ。
 私は水を浴び頭を冷やした。冷たい水を浴び考える。酔いを覚ます。打ち明けよう。これ以上苦しませたくない。

 長いシャワーに心配し彼がドアを叩き、温かい湯に変える。さらした裸身、私は胸を隠した。彼はバスタオルで私を包んだ。私はもうキスさえ許さない。
「もう私を捨てなさい。こんなに嫉妬深い汚れた女」
「君の嫌がることはしない。僕は待つよ」
「いつまで待つの? あなたの欲望はどうしてるの?」
「頭の中で君を抱く。もう想像しなくていい。目に焼き付けたから」
 携帯が鳴る。母がいまだに心配をして連絡がないとかけてくる。
「出ろよ。おかあさんを心配させてはいけない」

 やがて冬。彼が言った。
「治は介護士になった。あいつにぴったりだな。学歴もなく父親もいない」
 彼は私の反応を確かめる。
「会ったの?」
「会うわけないだろ」
 耳元で彼は言った。決して口にしなかったことを。
「会うわけないだろ、君を犯した男だ。もっと殴ってやればよかった。去勢してやればよかったな」

 そしてその日は来た。
「治が事故にあった」
 慌てて飛び出していくと彼は車に乗せた。
「状態は?」
「詳しいことはわからない」
「病院は?」
「ちょっと遠いよ」
「なぜ知ったの?」
「おばあちゃんから電話がきた」
 筋は通っている。
「スピード出すよ。休憩しなくて大丈夫? トイレは?」

 早く行かなきゃ。治に言わなきゃならない。
 彼は私の様子を観察し無言で車を飛ばした。
「別荘地? 病院は?」
「ああ、あれ嘘だよ。引っ掛かったの2度目だね。大事な人のことだと簡単に引っかかるんだな。降りろよ。話があるんだ」
「本当に治は無事なのね」
「ああ、君の大事な治は元気に働いてるよ。お年寄りに慕われてる。天職だな」
 私は大きな別荘の2階に連れて行かれた。彼は窓を開け空気を入れ替えた。すぐに空気が冷える。
「この部屋には亡霊が出る。だから立ち入り禁止なんだ」
 寒くなり彼は窓を閉めた。いつもと雰囲気が違っていた。
「父と僕には見えない。亜紀には見えるらしい。 
 父は母と別れる前にここで話をした。なかなか帰ってこなかった。心中するかと思った」
 ベッドのシーツを敷きながら彼は話す。
「おかしいと思ってたんだ。治が君の嫌がることをするはずがないんだ。幼稚園から知ってるんだよ。あいつは人がよすぎるくらいにいいやつなんだ。
 誘ったのは君のほうだろ? 酒が入ればみだらにもなる。あんな目で見つめられたら我慢できないね。
 君は酔いが覚めて後悔した。治は君には不釣り合いだからね。自殺未遂はおかあさんへの当て付けだ。治は無理やり君を自分のものにしたと、自分が悪者になった。
 君は治を除外しようとした。親も学歴も収入も。とても治をおかあさんには紹介できない。僕は都合よかったからね。母そっくりの顔は自分では大嫌いだけど。背は高いし頭もいい。父は会社経営してるし義母は獣医。土地も家も高級車もある。おかあさんの受けもいいだろう。
 君は僕と付き合いながら治と比べ、治の方が人間的にはずっと上だって気づいたんだ。治を愛しているんだよ。ほら、否定しないんだな。
 ひどすぎるじゃないか、マリー。
 この3年はなんだったんだい? 否定してくれよ。マリー。この3年、僕を愛してたって言ってくれよ。治ではなく僕を愛してたよな?」
 私はうなづいた。
「誤解よ。三沢君。見当はずれの誤解なの」
 抱きしめられ唇がふれる。
「だめ。口内炎ができてて痛いの」
「君はいつもそうだ。今日は無駄毛処理は?  してなくても今日は抱く」
 私はうなずいた。
「避妊して。絶対。それから、私のいやがることはしないで。させないで。私のいうことを聞いて」
 彼は少し笑いうなずいた。
「シャワー浴びさせて。トイレも。ずっといってないのよ」
「早く言えよ。下で風呂入れといてやる……」

 下に降りると彼はキッチンで簡単な調理をしていた。電子レンジで温めたパックのごはんを握り味噌をつけた。
「父が怒ったよ。貧乏たらしいって。レトルトのカレーにする?」
 断るとそれを立ったまま食べた。すごい勢いで。
「ゆっくり食べなさいよ。喉につかえるわ」
「ママの炊いたごはんはうまかった。どうしてなんだろう?」
「お味噌がついてるわ」
 私は唇についた味噌を指でぬぐって舐めた。涙が出てきた。彼の母親になったような気がした。
「口内炎が、しみるの?」
 彼は水を汲んでよこした。
「喉乾いただろ? うまいよ。ここの水は。 
 ああ、生水は飲まないんだな」
 コップを手でよけると胸にこぼれた。私はセーターを脱いでカウンターの上に置いた。彼のセーターも脱がせた。笑いながら。
「手編みね。夏生の……器用なのね」
 順番に脱いでいく。ブラウスを、シャツを、スカートを、ズボンを……

 大きな浴室でシャワーをかけ合った。窓の外は絶景だ。
「君の気持ちがわからない。潔癖症なのか……治を憎んでいるのか、愛しているのか? 君の心はまるで秋の葉っぱ」
「マリーはあなたを愛してるわ」
 繰り返される愛撫。浄化される……大きな浴槽に彼は潜る。

 亡霊が出る部屋に戻り、カーテンの開いた日差しの中でさらされた胸、乳首。彼はきれいだと言い、甘えた。
「カーテンを閉めて」
「白状するよ。音楽室で立ちくらみして、君を押し倒した。胸の感触楽しんでた」
「わかってたわ。戻りたい。あのときに」
 戻りたい。戻れたらあの道は選ばない。
 彼はきちんと避妊をした。おそらく初めての彼には違和感はないのだろう。
「やっと征服したよ。君を。今夜は一睡もしないだろう」
 聞いたことのあるセリフ。唇にふれてくるのを私は手のひらで受けた。その手を彼は舐めた。指の1本1本丁寧に。
「くすぐったいわ」
「指が感じるのか? どう? 気持ちいい?」
 恥ずかしがると彼はふたりで読んだ本の話をした。
「僕の生殖器は君と性交するために備わっている。この毛も、恥じらいに満ちた君をくすぐるために生えてきたのだ」 
「やはりあなたが線を引いたのね」
「君は真っ赤になってた。君には無防備でいられた。辛いときは助けられた。テニスコートと音楽室で」
「テニスコートの少年。あの子と……それにキャシーとこうなるとは思わなかった。別人みたいだわ。成長したわね、三沢君」
 小さな舌打ち。かわいい人。
「背中はどう?」
「くすぐったい」
 舌がかすかにふれる。
「舌の逍遥だ」
「逍遥?」
「卒業したら結婚しようか」
「夏生はどうするの?」
「夏生は喜ぶよ。君が姉貴になったら。亜紀は君と同じクラスになった時、運命を感じる? って聞いたよ。あいつは勘がいいんだ。怖いくらい」
「幸せよ。このまま死にたい。このまま死ねたら幸せよ」

 また母からのメール。彼は返信するのを待ち携帯を奪った。ロックを解除された電話を取られ私はうろたえた。それを見て彼は中を見る。治とのやり取り。最初は他愛ないものだ。
(幸子さん、三沢のこと好きなんでしょ? お似合いだよ。きっと三沢も幸子さんのこと好きだよ。保証する)

(卒業おめでとう。もうメールしないよ。以前の明るい幸子さんに戻ってください)

 あの日からの大半のメールは削除していた。それを彼は不審に思った。  
 このメールだけは消せなかったのか?
「決定的だな、これは。卒業式か。卒業式だったな。君が僕の家に来たのは。公園のそばで夏生に会った。
 そうか、君は治の家に行ったんだ。僕に会いに来たんじゃない。夏生が勘違いして連れてきたんだな。治に会ったあとか?」
 私は首を振った。全否定はできなかった。
「夏生に連れられて僕の家に来た。大きな邸を見てまた気が変わったか?」
 彼はため息をついた。なにかを決断するときの癖だ。そして出ていった。裸のまま。決断する。彼は今度こそ決断する。
 私はメールを打った。長い告白をした。しかし送信できなかった。 

 壁に絵が飾ってあった。母親が子供を抱いている。

 あの日、長い時間僕は歩いていた。父のことを思った。
 決断!
 愛するものを手放す。
 いやだよ、パパ、いやだ。マリーを離したくない。
 どうして治なんかを?

「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえが、ピアノであいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」

 僕が劣っているのは?
 亜紀は小学校のときから治を褒めていた。
「みんな自分を中心に地球は回っていると思ってるけどあの子は違う。自分のことよりあなたのことを考えてる。あなたは自分を不幸だと思ってるでしょ?」

 治だったら、虐待されても父を庇い心配するだろう。とうに許してうまくやっているだろう。小さな女の子がなにを言おうと、手を上げることはしないだろう。

 僕はなにかあると、治だったらどうするか? と考えた。真希と靖のことも。不器用にふたりの中を修復させようとしたはずだ。

 もう解放しなければ。
 続けてもマリーの心は手に入らない。マリーが決断できないなら僕がしよう。
 マリー、どちらか選べないならば、どちらも捨ててくれ。

 あの日、マリーを駅まで送った。とても家までは無理だ。駅で切符を買い渡した。改札まで見送った。
「僕は自分の名前が大嫌いだ。改名したいとさえ思った。ピアノも嫌いだ。君と話題にはしたくなかった。
 17番と1番はベートーベンのソナタだよ。僕は楽しんで弾いたことなど1度もない。
 君を愛さなければよかった。愛しすぎて壊れたパパをみていたのに……」
 マリーは泣き濡れた顔でなにか言いたそうだったがなにも言わなかった。

 僕は部屋を片付けた。亡霊が出る立ち入り禁止の部屋だ。壁に絵が飾ってある。母親が子供を抱いている絵だ。
 ここは母が出ていく前に父と話し合った場所だ。母は僕かあいつかどちらかを選べ、と言われあいつを選んだ。
 父は手放せなかった。祖母が管理人に連絡した。母は衰弱していたが決心に変わりはなかった。祖母が後始末をした。父は別れさせた祖母まで恨んだ。父は酔うと泣いてた。
 帰ってこい、帰ってきてくれ……

 パパ、いいかげん葬ろうよ。亜紀はもう死んだママより長い付き合いだろ? 僕とパパの恩人。先生でもある。亜紀がいなかったら僕たちはどうなっていただろう?

 高校1年の夏休み、同じクラスになった圭が家に来た。
「三沢の坊ちゃん」
と言われ僕はキレた。
「取り替えるか? 圭。俺の家と、家族と。俺の人生と俺の……」
 圭は僕の剣幕に驚き、亜紀が何事? と出てきた。
「俺はおまえが羨ましい。父親から仕事を教わり母親の作った弁当を食べる。変わるか? 三沢家の長男の重責。成績はトップでなきゃならない。父がそうだったから」
「入試はトップじゃなかったろ? 手、抜いたな」
「そんなことないさ。おまえには負けた」
「嘘つけ。面倒くさかったんだろ? クラス委員は成績で決めたからな。おまえのせいでクラス委員になった俺は大変なんだ」

 圭は合宿でダンスをやるからと、個人レッスンをしにきた。前日の集まりはピアノのレッスンを優先した。そんなことは言えない。
 夏生もやってきて、彩と亜紀と5人でダンスの動画をみた。確か書斎にCDがあったはずだ。亜紀が聴いていたことがある。30年近く前にはやった歌。去年の文化祭でダンス部が踊った。 『嵐が丘 』
「これを男子がやるの?」と夏生。
「女装すれば……失言」と亜紀。
 庭で圭は振り付けを教えた。夏生は英語の歌を歌いながらすぐ覚えた。彩も速い。クルクル回る。
「棺桶から出てくるのにすれば?」
 亜紀が余計なことを言った。動画を探す。白いドレスの亡霊……圭と亜紀が僕を見た。
「いやだよ。絶対にいやだ」
「亡霊なんてパパが喜ぶわ」
 亜紀の復讐。かわいさ余って憎さ百倍。いまだに前妻を忘れられない夫にチクチクといやがらせをする。僕と彩を使って父の心に波風を立たせようと……

 長い独身時代になにをやっていたのか? 才能を小出しにされ驚く。亜紀は指導した。演劇もやっていたのか? 
 マリーも見るのに女装なんて……いや、僕は女装癖のある変態。それでいい。
 化粧をする。メイクの研究をする。夏生にもしてやる。傷跡を隠し目を大きくし……13歳の夏生には不自然だ。
「気にしてないから」
 少し間を置き
「自分のせいだし」

 圭は部活の合間にやってきた。それが楽しみになる。夏生も彩も圭を待つ。
 踊ってみれば面白かった。皆で歌いながらパントマイム。何度か側転を入れる。夏生は得意だ。華麗に回る。僕と圭は息が乱れる。
 演劇部から借りてきたドレスとカツラ。その姿で乱れずに側転できるまで……歌が耳から離れない。父に見せるなら完璧に。
 完成した日曜の午後、父が見物した。父は僕を見る。それを亜紀が見る。父には思い出の物語なのだろう。亜紀の言う亡霊はキャシーに関係があるのか? 
 嵐の夜、亜紀は父に連れ戻され、翌日書斎でこの歌を大音量でかけていた。『嵐が丘』の本が開いてあった。

 いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ!
 
 パパ、これで僕の復讐は終わりにする。あとはパパとの約束を果たす。そしてそのあとは僕は自由だ。
 夏生はこんなに明るく育った。僕の罪は?

 音楽が始まる。僕はダンボールの棺桶を開けてゆっくり出る。皆と一緒に踊る。クルクル回る。側転が多すぎる。夏生は少しも乱れない。最後の側転でカツラがはずれた。慌てて拾い圭に被せた。
 父と亜紀が笑う。手を叩いて笑う。彩が父に駆け寄り呼びかける。
「Heathcliff,it'me-Cathy.」
 僕は心の中で言った。
「I hated you,I loved you too.」

  母の命日、父はいつもと変わらなかった。彩にキスされ車に乗った。僕は治のところで酒を飲み羽目を外した。
 翌日帰ると亜紀はすぐ気づいた。まだ酒は抜けていなかったし、服は圭介さんに借りたものだった。
「パパは?」
「会社に泊まり」
 母がいるときはどんなに遅くても帰ってきた。朝も早いのに。仮眠室もあるのに。
 命日だった。墓参りに行ったのだろうか?

 シャワーを浴びた僕の目を亜紀は覗き込んだ。
「お酒は嫌いでしょ?」
「……」
「ドラッグとセックスは?」
「やってない」
 本当? とは聞かなかった。
「もう無理だわ。私には。初めから無理だったのよ。彩ひとりでさえ大変なのに。思春期の男の子なんて。パパはなんの役にもたちゃしない」
「パパは無関心だ。女でもできたんじゃないの?」
「だったらマシよ。生きてる女なら許さない」
「……」
「あなたもパパもこの家で亡霊と暮らせばいいのよ」
 僕はまた土下座して謝った。
「ごめんなさい。おかあさん。もう2度とバカなことはしません。お願いがあります。手話を教えてください。理由は聞かないで」

  高校で彼女と同じクラスになったことを、亜紀は夏生から聞いた。
「運命を感じない?」
「ぜんぜん」
「幸子」
「禁句だよ」
 幸子……パパが呼んだ。何千回も。優しく、やがて狂おしく……僕は呼べない。その名前は。

 目標にしていたコンクール。本選間近、亜紀は僕の体と精神を心配した。
「倒れるわよ。映画みたいに。精神が壊れる」
「努力に勝る天才はなし、だろ?」
「……あなたにあるのは人目を引く容貌。礼儀正しさ。観客を魅了できるわ」
「言えよ。才能なんかないって。教授だってわかってる。桂が羨ましい。パパは桂の才能を見出した。桂はあいつを超えた。もういいじゃないか」
「好きでやっているやつにはかなわない。言ったでしょ。やめてもいいって」

 行き詰まり、マリーに醜態を見せた。立ちくらみがしたのは本当だ。彼女は支えようとした。崩れていく彼女を押し倒し、意識がないフリをし体を密着した。
 音楽の授業があったら大変なことになっていただろう。

「力が抜けたわね。いいことでもあった?」
 マリーの感触を思い出し、顔に出るのを抑える。 
「結果はどうでもいい。コンクール体験に価値がある」
 意地も執念も、マリーの前では砕け散れ。僕にとって彼女ほど価値のあるものはほかにはない。

「聴衆賞、さすがだわね」
「あいつを超えられなかった」
「そんなことないわ」
「僕には、おかあさんがいる。あなたがいたから今の僕がある」
 本当に感謝している。気恥ずかしくて映画のセリフを代用して伝えた。
「今夜、私があるのはあなたのお陰だ。あなたがいて私がある。ありがとう」
 亜紀は照れて封書を出した。
「手紙がきてたわよ。あなたのママと同じ郷里の人」 
 母と同じ郷里? 佐々木由佳? 圭介さんと同じ姓、同じ町だ。彼の? 
 圭介さん、長身でガッチリした体格、野球をやっていたと……口髭と顎髭生やしてた。惹かれる。憧れる。会いたい。恥ずかしいが。汚名返上……入賞しました。最年少で。あいつと同じ3位だけど、聴衆賞のおまけつき……

 コンクールのビデオ、何度も繰り返し聴いています。私も練習しています。ショパンのピアノソナタ2番……

「ファンができたのね? 返事書いたら? あっ、勿体無い」
 手紙は破り捨てた。惹かれたのは僕の外見だけ。
 もう、ピアノは解放だ。


 マリーが休んだとき、僕は葬儀で休むことにしてくれ、と亜紀に頼んだ。
「友達が不登校になった。千葉まで迎えにいく。ひとりでは帰らない」
「誰?」
「……」
「マリー、小さな太陽」
 なぜ知ってる? なぜいつもわかるんだ?
 マリー……僕は呼んだ。何千回も。優しく、やがて狂おしく……マリー、小さな太陽!

  卒業式の日に彼女が訪ねてくると亜紀は喜んだ。
「気を利かせてふたりきりにしてあげたのに、キスもしなかったの?」
「友達でいましょうって」
「感じが変わったわね。憂いを含んだ彼女は美しい」
 
「喜びのあとには?」
 亜紀がデートのたびに言う。
「夏生も一緒だ」
 マリーは……嫌悪症……恐怖症。
「潔癖症」
 夏生が気づいた。
「ドラマにあったね。すごい潔癖症の男の探偵。奥さんだけは大丈夫だった」
 なにが言いたい? 

 春樹のことも亜紀が教えた。父は亜紀経由で僕に伝えた。
「芙美子さんが本当の母親じゃないって気づいたわ。繊細な子だわ。学校にも行ってない」
「ざまあみろ、だね」
……治ならどうするだろう? 父親違いの弟の面倒をみるだろうな、あいつなら。

 葉月のことも観察力の鋭い亜紀にはわかっていたのだろう。若い娘が父を訪ねてきた。父は降参し打ち明けたのだろう。父の初恋の人のことを。
 激しい恋はひとつではない。

 別荘から戻ると亜紀は気づいたようだ。
「ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ。素晴らしかった」
「なんだよ? それ?」
「昔、なにかで読んだの。自分の苦悩のなんとちっぽけなことか……」
「行ってこいよ。パパと」
「パパは行かない。私とは」
「……どういう意味?」
「パパが愛したのはただひとり」
「……」
「ふたり……」
 寂しそうな亜紀の顔を見たのは初めてだ。

 治に10年ぶりに呼び出された。

 どうしても話したいことがある。渡したいものがあるんだ……

 よくマリーを送っていった駅だ。大きなペットショップで治は待つという。

 入り口に治が立っていた。10年経っても変わっていない。同じ女を愛さなければ僕たちは親友でいられたのだろうか?
 結局僕は負けた。この男に。
 マリーはふたつとも手放したのだ。

 しばらく……元気だったか?  と。
 もう年月がわだかまりを溶かしていた。
「水谷さんに会ったんだ、ここで、昨日。手紙を預かった」

 そばの喫茶店に入り治の話を聞く。
「ペットショップから水谷さんが出てきた。小さな男の子連れて。英幸(えいこう)って名前だよ。ここで、彼女は手紙を書くから渡してくれって。幸子さんは結婚した。ハワイに住んでる」


 三沢君、治に会ったので急いで手紙を書いて彼に託します。あなたと別れる前に私はメールを打ちました。真実を打ち明けようと。あなたにどう思われようと送信すべきでした。
 あの日あなたが言ったことはすべて誤解です。全部違うの。

 高校2年の2月8日、私は治と駅で別れた。治は送っていくと言ったけど、休みのたびに私はあなたの情報が欲しくて治と出かけ、母は怒り心頭、駅まで迎えに来そうな勢いだったから送ってもらわなかった。
 小走りで近道をしたの。大通りを曲がって。
 そこは暗くて草が茂っていて、暗くなったら通るなと言われていた。
 暗い道、なにが起きたかわからなかった。私は誰かにぶつかって倒れ、引きずられ強姦された。 
 あっという間の出来事だった。それが真実です。でも、それより怖かったのは男に殺されるのではないかと思ったこと。どう見ても健常者ではなかった。夢遊病者か麻薬常用者。私は強姦はされても死にたくはなかった。悲鳴をあげたのでしょう。男は我に返ったのか、それがいちばん怖かった。今でも。
 男は嘔吐したの。そして走っていった。

 私は家に帰った。なにもなかったと言い聞かせ。
 母は待ち構えて怒り出したわ。娘になにが起きたかわからなかった。私はシャワーを浴びてバレないようにしようとしたわ。でも母が、小言を言い続け、私はヒステリー起こして発作的に包丁を持ったの。
 治は電話に出ないのを不審がって家まで来て、救急車で運ばれる私を見て推理したのね。あの小道のことは話してあったから確かめに行って私の携帯を拾った。

 治は入院している病院に来て私の食事が出ていると安心し、手がつけられるようになると病室に来て携帯を返した。
 謝ったわ。あなたの情報をエサに私と会ったこと。私は全部母のせいにして急性肺炎ということにして休んだ。治にはなにもなかったことにしてもらった。
 あなたは誤解して治を責めて殴り、治は黙って殴られてくれました。
 あなたが迎えに来て私は元の生活に戻れた。忘れようと思いました。

 でも妊娠しました。あなたは気づかなかった。母も誰も気づかなかった。相談できるのは治だけだった。
 治はおかあさんに自分のせいだと話し、私はおかあさんに謝られいたわられ手術の費用まで出してもらい、術後は治の家で手厚く介抱してもらったんです。
 治はそのあとは私がいやなことを早く忘れるように会いませんでした。ときどき様子伺いのメールがきたけど、私は元気です、と返してすぐ削除した。

 卒業式に最後のメールをもらい、私はなんて自分勝手だろうと反省したの。このまま恩を受けたままではいけない。治はきっと手術のお金もおかあさんに返したに違いない。
 あなたはよく言ってたわね。治は自分よりずっとランクが上だって。
 私はたぶん治をもてあそび、甘え、傷つけた。自分のことで精一杯でひどい女だったわ。

 家を訪ねたけど留守で、歩いてるうちに私は迷い、どつぼにでもはまったみたいになり怖くなった。あのとき夏生に声かけられたときも怖かった。
 あの日、あなたの家に行かなければ私たちは終わっていたでしょうね。あなたは優しくて、私は怖かった。
 強姦も中絶も知られたくない。でもそれよりも怖いのは、思い出したくないけど私を襲った男が嘔吐したこと。
 風邪や胃腸炎なら構わない。私は性感染症を恐れた。月日が経ち症状は出なくて安心したけどひとつだけ疑える病気があったの。エイズです。
 まさかとは思ったけど。あの異様な男は自分の病気を知り、やけになって手当たり次第移しているのじゃないかと妄想が駆け巡った。
 二十歳にもなって検査にもいけない。確率からしてほんの少し。いえ、 100パーセントかゼロパーセント。
 検査にもいけずあなたと付き合っていました。打ち明けることもできず別れることもできず、友達としてと言いながら他の女に嫉妬してあなたを苦しめた。
 わかるでしょう? 粘膜の接触は危険なの。1パーセントの確率でもあなたを守りたかった。

 今思うと滑稽だけど私は必死だった。あなたが私の乳首を見たら、セックスしたら中絶したことがバレてしまうかも、そんな不安が頭を占めていました。
 夫はアメリカ人で、あなた電話で話したことがあるわね。ずっと私を愛してくれ求婚されてすべて話しました。拍子抜けするくらい冷静でした。今では当たり前のように毎年検査しています。

 三沢君、ごめんなさい。治との友情をこわした私を許してください。そして治との友情を復活させて。
 彼は生涯の親友にすべき人です。私よりずっとずっとランクが上。
 あなたとの思い出は生涯の宝物。

 青春は再び得べからず。

              マリー


 何度か読み直し僕は治に手紙を見せた。
「バカだ。おまえは。バカだ。マリーも。話してくれたら、いや、いちばんバカなのは俺だ」


 治に現場を案内させた。
 今は整備された公園だ。治は夜勤だからと帰っていった。
 僕はしばらくベンチに座っていた。子供に僕の名前を付けたのか? 1度も呼ばせなかったのに。
 なぜもっと考えなかったのか? おかしなことはたくさんあった。生水を飲まなくなったのもあの頃からだ。治の家では飲んでいたのだから。
 考えて問い詰めていたら……
 たとえどうであっても君となら……
 ああ、最低だ。おまえはなにをしてきたのだ?

 犯人は近辺の者か? 駅へ向かう者か? 
 10年経ってる。なんの手がかりもない。どうする? 
 叩きのめす。自分がこんなに激昂するなんて。止められない。父にそっくりだ……

 手がかりはもちろん男。夢遊病者か麻薬常用者。
 あとは2月8日。
 僕はネットで調べたがわからない。
 無理だ。10年経ってるんだ。
 でもやるだけのことをやらないと……

 分厚い封書が届いた。差出人は……
 原稿在中
 手書きの原稿 見覚えのあるきれいな字だ。
 H高文芸部OGのマリーへ
 読んでいただければ光栄です。
      

   無題

 母が死んだ。
 7月の暑い午後、母は幼児を庇って車の前に飛び出した。
 葉子から連絡が来た。状態を聞いても泣きじゃくり、要領が得ないとEの声に変わった。
「とにかくすぐ来るんだ」

 実感が湧かなかった。電車の方が早い。家に向かう道すがら由紀夫は10年前のことを思った。

 難関校の合格発表の日、母と喜びを分かち合った。父は早世していたが、祖父母も大喜びだった。
 その週の土曜日だ。祖父母と母は法事で留守だった。黒いスーツに黒のストッキング、化粧は控えめだが母はきれいだった。
 出かけたあと母の部屋に入った。きれい好きな母の部屋は見事に整頓されていて、少しでも動かせばすぐに気づかれそうだった。タンスの上に亡くなった父の写真が数枚飾ってある。実物に抱かれた記憶はない。

 なぜあんなことをしたのか? 由紀夫はタンスをあけてみた。整頓された下着類をいじることはできなかった。
 和ダンスには紙に包まれた着物が入っていた。小物類の箱をそっとあけてみる。そこにはよくわからない着物の付属品が入っていたが、明らかにそれは隠してあったのだ。
 1本のビデオテープ。なにも書いてない。 

 人の部屋に勝手に入ってはいけない。人のものを勝手に見てはいけない。
 父親代わりの由紀夫の祖父は孫を正しく導き育ててくれた。
 しかし由紀夫は誘惑に勝てなかった。

 すぐに後悔した。
 映っていたのは若い頃の母だった。
 入学式でも成人式でもなかった。若い母が恥ずかしそうに服を脱ぐ。

 きれいだよ、と男の声。
 恥ずかしがるなよ。ビーナスの誕生だ。
 手をどけて。目に焼き付けておくよ。君の体……
 テープは不鮮明だが明らかに母だった。若い母と男の行為だった。男の顔は映らなかったが父のはずがなかった。
 家のために自由な結婚はできなかったはずだ。祖父の選んだ会社の後継者、母は従うしかなかった。
 思い当たることがいろいろあった。母は電話が鳴ると必ず自分が出た。由紀夫が出ると電話は切れた。
 母は電話のあとすぐに出かけた。祖父母は黙認していたようだ。母は独り身なのだ。しかし結婚前から続いている? 
 由紀夫はぞっとした。父は知っていて結婚したのか?

 日が暮れて由紀夫は家を出た。帰ってくる母と顔を合わせたくはない。早足で歩き続けた。暗い方向へ導かれていく。
 そこで女とぶつかった。若い女は勢いよく倒れスカートがまくれた。悪夢だった。

 悪夢は女の方だったろう。乱暴されて殺されると思ったようだ。それほど異常者に見えたのだろうか?

 由紀夫は吐いた。悪寒がした。
 家に帰らないでいると祖母が探しに来た。15歳の孫を探す過保護な祖母だった。
 公園のベンチでみつかり由紀夫はまた吐いた。祖母は風邪だと勘違いして自分のコートを由紀夫に羽織った。
 戻れるのは家しかなかった。自分の部屋に入り鍵をかけた。従順な孫の反乱に家の中はパニックになった。祖父がドアを蹴破ろうとした。祖母が止める。ドアの向こうで祖父母が言い争っていた。
「あなたが厳しすぎたのよ。いつかこうなると思っていた。もう孫まで失いたくない」
 母が宥める。
 私が悪いんです、と。

 終わりだ。由紀夫は机に頭をぶつけた。しかし気を失うこともできなかった。
 派手な一夜が明けると由紀夫は祖母の友人の家にあずけられた。

 母の顔はずっと見ていない。あずけられた家には小学生の女の子がいた。母親は亡くなっていた。
 面倒見のいい祖母の友人と幼い葉子は歓迎してくれた。家の主人は仕事が忙しく帰るのは夜中だった。 

 由紀夫は勉強に打ち込んだ。悪夢を忘れようとした。
 ひとつの悪夢は理解しようとした。母はひとりの女なのだ。母の人生なのだ。
 忘れられないのはそれによって犯した自分の罪。あれは……現実だったのか? 
 自分が犯したのは夢の中の母親。吐き気がこみあげる。由紀夫は記憶を押しやる。そのかわりに償いとしてボランティアに精を出した。

 寂しがりやの葉子の面倒を見た。葉子の祖母に頼まれ女手では無理な仕事を任された。器具の取り付け、修理。由紀夫は得意だ。
 珍しく大雪になった翌朝の雪かき。葉子は雪の球を投げてきた。雪だるまを作った。
 3年間、由紀夫はその家の息子のようだった。葉子は妹のような存在だった。祖母はよく遊びにきた。母と祖父のことを話した。由紀夫の顔色を伺いながら。
 祖母は由紀夫が荒れたのは厳格な祖父に反抗したためだと思っている。母は祖父の言うことには逆らえない。

 大学に入ると由紀夫はひとり暮らしをした。葉子の家を出るとき、葉子は由紀夫の車を追いかけて転んだ。
 胸が痛かった。ずっとそばにいてあげたかった。しかし……
 君のそばにいてはいけないんだ。僕は……なにをするかわからない。成長していく君のそばにいてはいけないんだ。
 由紀夫はボランティアに明け暮れた。辛い仕事は買って出た。アルバイトの給料が入ると寄付をした。寄付するところは次から次に出てくる。匿名ではなかった。償いだ。誰に認めてもらいたいわけではないが、許されないだろうが……
 いくらかでも自分の罪が軽くなるように……

 祖母が危篤……由紀夫は病室で母に会いトイレに駆け込み嘔吐した。
 祖母は誰かを待っていた。祖父に追放された甥か? 祖父の会社の金を持ち逃げし、付き合いは絶たれた。祖母のかわいがっていた甥だったが、祖父は許さなかった。
 祖母はよく祖父を責めていた。厳しすぎると。死の間際まで祖母は待っていた。それ以来祖父も弱くなった。

 祖父は祖母の形見のレコードを聞いていた。由紀夫に聞いた。
「厳しすぎたか? 自由がなかったか?」
「そんなことないよ。いつもきちんと叱ってくれた」
 本当のことは言えない。
「おまえは自慢の孫だ」
 ーー僕は犯罪者なんだ。

 祖父も祖母のあとを追うように死んだ。祖父も最後まで甥を、誰かを待っていた。
 母はひとりになった。家に戻れと親戚は言う。 
 由紀夫にはもうわかっていた。母は知っていたのだ。こうなった原因を。
 几帳面な母親にはすぐにわかったのだろう。だが弁解できなかった。思春期の息子に言えなかった。母の顔を見れば息子は吐く。母はただ時が過ぎるのを待っていた。由紀夫が大人になるのを。
 家を出るのが少し早かっただけだ。


 母は書道を教え始めた。はがきが届いた。葉子を引き取ったと。
 葉子……懐かしい名前。母は二十歳の葉子を自分の娘のようにかわいがっている。母のない娘と娘のない母。
 ふたりは一緒に買い物に行き料理をし、寝るのも同じ部屋だ。 
 葉子、僕の代わりに母に孝行してくれ、と由紀夫は願う。

 祖父母に線香をあげにいく。母の顔は見ない。葉子は変わっていなかった。由紀夫の目には眩しいくらい美しくなっていたが、10年経っても懐いてきた。10年の歳月を感じさせない。母との気まずささえ薄らぐ。
「来月も来てね。お線香あげに来てね。月命日には来ないとダメよ。月に2度は来てね」
 葉子は甘える。子供の頃のように。

 そのうち母の書道教室には大人も習いにくるようになった。母の人柄だろう。由紀夫と同年代の男がふたり。日曜日に習いにきている。
 葉子とはしゃぎ手料理まで食べていく。由紀夫も誘われたが自分の部屋にこもった。
 生徒のEが弾いているのか? 女に持てそうな男だ。葉子が好きになるのでは? 
 ピアノに合わせて葉子ともうひとりの男が歌っている。母が歌うのも初めて聞いた。

 小さな木の実

 歌詞に泣けた。父と息子の絆を歌う……由紀夫は入ってはいけない。楽しんではいけないのだ。
 それでも毎週帰った。月に2度が毎週になった。葉子の顔が見たくなって。葉子とふたりの男のことが気になって。

 もう充分苦しんだ。もういいだろう? 人並みの幸せを求めても。
 しかし夢を見る。思い出したくない夢。思い出したくない空き地。刑事が捕まえにくる。まだ時効ではない。時効間際に捕まったという強姦事件の記事も読んだ。
 あれは、事件になったのか? その話題を聞いたことはない。あれは、闇に葬られた……

 気がつくとEが目の前にいた。
「ごめん。ノックしたんだけど」
 彼は由紀夫の顔を覗き込む。
「偉いんだね、君。また寄付したね。新聞に名前が出てたよ」
 この男は新聞の災害の寄付欄にまで目を通すのか?
「偽善者です」
「女に興味ない? 葉子ちゃんにも? まさかゲイ? 童貞とか?」
 葉子とOも入ってきた。
 由紀夫さん、ゲイなの? 
 えーっ? 
 童貞はOちゃん……キャッキャッキャッ……
 若い娘が。
「Eさん、彼女とうまくやってる?」
「やってるよ。ジャンクセックスはしてないよ。君に言われたから……」 

 若い娘が、若い男たちがあんなふうに、あんなふうに話せたら冗談にできたらどんなにいいか……
「ごめん。かあさんのビデオ、盗み見たんだ。きれいだったよ」


 

 病院で見た母の顔は事故で酷く傷ついていた。傷ついた顔を見ても平気だった。見ても嘔吐しなかった。
 悲しんでいる暇はなかった。喪主として決めることが次から次にあった。葉子がそばにいて手伝ってくれた。悲しみに浸らないために葉子もキビキビ動いた。
 Eが母に死化粧をした。傷跡を隠し、生気を取り戻させていった。由紀夫は口を押さえて部屋を出た。

 母の葬式に、その女は来た。母によく似た双子の妹。親戚は怒った。
「もうあなたに渡す遺産なんてない、あなたのためにどれだけ苦労したか、親の葬式にも来ないで」
 勘当された母の妹は正反対の性格だった。厳格な父親に従順な姉。反抗し家を出て行った妹。
 勘違いだった。
 あのビデオは妹のものだった。おそらく恐喝されたのだろう。母は妹に泣きつかれて尻拭いをしてやった……

 台所に立つ、母そっくりの女。殺してやりたい。この女のために母は電話が来ると会いに行き金を渡した。
「ねえさんだけだった。味方は。ママは私を見捨てた」
 叔母が振り向いた。母にそっくりの顔。
「いろいろあったけど今は幸せなのよ。息子がいるのよ。15歳。私に似ないで優秀なの」
 ではその息子に見せてやろう。あのビデオを。どんな反応をするだろうか? 
 いや、あんな反応をした自分が悪いのだ。なにもなかったように過ごせばよかったのだ。
 叔母が帰り由紀夫は祖父の聞いていたレコードをかけた。

 お前が生まれた時 父さん母さんたちは
 どんなによろこんだ事だろう
 ーーーーーーーー

 お前は大きくなり 自由がほしいと言う
 私達はとまどうばかり
 ーーーーーーーー
 
  (Anak 日本語詞 なかにし 礼)

 我が子よ……祖父母は出て行った娘のことを思い泣いていたのだ。死ぬ間際までもうひとりの娘を待っていた。

 叔母のことを思う。情景が浮かぶ。悪い仲間に入り夜の街をさまよう。母は必死で止めたのだろう。
 由紀夫は母の部屋に入った。あの日以来だ。あのビデオを観た呪われた日以来……
『心を病む子供達』
 これは妹を理解しようとして読んだのか? 

 久しぶりにビデオを観た。こんなもののために長い時間を無駄にした。祖父母にも辛い思いをさせた。
「君でもこんなもの観るんだ」
 振り向くとEがいた。慌てて消そうとするとEが止めた。
「おかあさんだね。すごくきれいだ。ビーナスの誕生か」
 なんていう感想を言うんだ。
「おかあさん、愛していたんだ。おとうさんを。結婚を反対されて駆け落ちした。優秀で従順なあの人が。
 なにも知らないんだな。おかあさんのこと。勘当されて君が生まれて、おとうさんは不治の病にかかった」
「母じゃないよ。母だと思い込んでいたけど違ったんだ。あの女だった」
「おかあさんだ」
 彼は続けた。
「死を覚悟してふたりは愛し合った。おかあさんは乳飲み子かかえて頭を下げて戻ってきた。治療にはお金がかかるから。
 すぐにおとうさんは亡くなったけど、おかあさんが愛したのは君のおとうさんだけ。君は日に日に似てくるって」
「母はあなたに話したんですか?」
「思春期にこれを観て、世界が終わった、か? 10年前の冬」
「……」
「神聖な愛なのに」
 ビデオの終盤、男が喋る。
「死ぬときはこの何倍も気持ちいいらしいよ。神様の最後の贈り物だ。そう思うと死も怖くないな……由紀夫を頼む」
 由紀夫の目から涙が吹き出した。声を抑えられなかった。なぜ最後まで観なかったのだ?
「最後まで観なかったのか? バカだな」

 納骨まで葉子はいてくれると言う。
 おかあさんのそばにいたいから、と。
 近所の目がある。親戚の目も。自分はいいが……
 葉子は近くに部屋を借り働くと言う。
 嬉しかった。母の残してくれたプレゼント……


 四十九日も過ぎ、EとOが線香をあげにきた。Eに言われ葉子と4人で散歩した。
 行きたくない場所。決して近づかなかった場所。
 悪夢を思い出す、いや、忘れはしない。

 そこはきれいに整備された公園になっていた。
「10年前は草が茂っていて夜になると暗くて、女は危ないから通るなって言われていた」
 Eが話しだした。
 彼の高校時代、愛した女が乱暴された。ここで……
 さらに不幸なことに妊娠した。
 さらに不幸なことに……

「僕は知らなかった。ついこの間まで。ついこの間まで、彼女の相手はOだと思っていた。彼女はOを愛しているのだと思っていた。

 彼女の手紙を読んで決心した。
 10年経ってる。犯人を探すのは不可能か? 
 しかし、できるだけのことをやらなければ……
 翌日から僕とOは周辺を聞き回った。Oが仕事の日はひとりで聞き回った。
 この公園の周辺は建売の家が立ち並び、10年前にあった工場はなくなり、精神病院は老人施設に変わっていた。
 彼女の手紙にあった、夢遊病者か麻薬常用者。もう調べることは不可能か?

 ぶらぶらと歩き回ると古いたばこ屋があった。吸いもしないたばこを買い、話好きな老婆に昔の話を聞いた。引っかかることはなにもない。ただひとつだけを除いては。
 僕は老婆に聞いた家を探した。古くからの土地持ちの邸。
『あのうちの子は皆出て行った。娘も孫も。幹夫さんが厳しかったからね。娘はひどかったねぇ。孫の由紀夫君は真面目すぎたんだよ。名門の高校に受かったのに……』

 2月8日は私立高校の合格発表のあとの土曜日だった。
 その翌週、真面目な由紀夫君は大きな邸を出て行き、知り合いのところから通学した。
 なぜ? 
 以来祖父母が亡くなり母親ひとりが残されても戻らない。


 僕は家をのぞいた。娘も孫も出て行った。ではあの娘はなんなのだ? 20歳くらいの活発そうな娘は?
 娘と目が合い、とっさに芝居をした。僕は立ちくらみがした振りをし、門の前でしゃがみ込んだ。

 あなたは駆け寄り庭に入れ、椅子に座らせてくれた。落ち着いたふりをすると、あなたはわざわざ家に入り飲み物を持ってきてくれた。濁った茶色い汁。鰹節の匂い。
『飲んで。出し汁よ。ジャンクフードばかり食べてたらダメよ』
『ジャンクフード?』
『ジャンクフードにジャンクセックスはダメ。生き方を変えなきゃ』
 思わずあなたの顔をみつめた。初対面の男になにを言い出す……? 
 日の光の下でもあなたはきれいだった。健康的で肌も目も髪も歯も輝いていた。本気で見ず知らずの僕を心配してくれた。心のきれいな女性だ」
「やめてよ。恥ずかしい」
 葉子を無視して彼は続けた。
「女主人が出てきた。走ってきた。警戒していた。ピンときた。武道に精通している。あの人が守ろうとしたのはあなただね。
『ヨウコちゃんのお友達?』
とあの人は聞いた。ヨウコ、か。
 僕は取り入った。年配女性には受けがいい。礼儀正しいからね。表札に書道教室の看板があった。僕は生徒になった。Oも誘った。ヨウコはOの好きなタイプだ。

10

 思ったとおり、Oはあなたに惹かれていった。Oのシフトに合わせて日曜日の午前中早めの時間、僕たちは書道教室に通った。
 Oを見ると女主人の書道教師の警戒心は完全に解かれた。
 人徳。Oの人徳だな。幼稚園からの親友だ。Oは半紙に『葉子』と書いた。
『5月生まれ?』
とOが聞いた。
『8月生まれだろ?』
と僕が聞いた。葉月の8月。
『生命の息吹を感じる名前。亡くなったおかあさまが付けたのよ』
 先生の説明にあなたは涙ぐんだ。Oは完全に惚れた。遅番の時間ギリギリまでいて、あなたに見送られ自転車を漕ぐ。
 Oの恋を応援したい。僕は本気でそう思っていた。しかしあなたには意中の男がいた。

 初めて由紀夫君に会った。僕は自分の推理が間違いだと思った。君はまるで聖職者のよう……
 手を合わせて拝みたくなるように神々しかった。おかあさんの自慢だった。災害があればボランティアにいく。警視総監賞をもらったこともある。物欲のない珍しい男だと。

 葉子は君を愛している。こんなにわかりやすい女はいないな。Oはがっかりした。Oは身を引く。Oはいつでもそうだが……
 Oはボーナスでペンダントを買った。振られてもいい。葉子の幸せを望む。

 いつも襟の高い服しか着ていないのはなぜだい? 葉子ちゃん。
『Tシャツを着ないな、病気の跡でもあるのか?』
 Oでさえ気づいた。そのほうがマシだな。
 小説みたいに? クリスティの小説みたいにさ……病気のあとならどんなに醜くたってOの気持ちは変わらない。
 結局プレゼントは渡せなかった。先生が亡くなってしまったから……
 10年前の2月8日、ここで強姦したのは君だろ? 僕の彼女はずっと苦しんだ。今でも」

 もう覚悟していた。
 過去の卑劣な犯罪を葉子の前で暴露された。
 優しいOが止めた。
「もう、やめろよ。葉子ちゃんの前で。彼女は喜ばない」
「どうして、おまえはそうなんだ? こいつのせいでおまえは俺に殴られた。Oは妊娠した彼女を中絶させた。自分のせいだってことにして。僕は知らなかった。ついこの間まで。
 葉子、君にわかるか? 彼女の苦しみ。年月が過ぎても彼女は忘れない。犯人は嘔吐した。
 なぜだ? 嘔吐した。風邪か? 胃腸炎か?  
 心配症な彼女はエイズを疑った。エイズにかかった男が絶望して手当り次第移しているのだと……
 なぜ吐いた? おかあさんを見ると君は吐いた。あのビデオのせいか? あのビデオに刺激されて欲情した」
 由紀夫は殴られ立ち上がった。また殴られるために。愛する葉子の前で下劣な犯罪を暴露された。死んだほうがマシだ。
 殴られ蹴られる……OがEを止める。
 葉子がEの前に立ちふさがる。
「どけよ」
 葉子は両手を広げて立ち塞がる。
「あんたは罪を犯したことがないの?」
「……」
「もう充分苦しんでる。償いはしたわ。何人もの人を助けた」
「そうだな。許すよ。これで……
 君はなぜOを選ばない? 由紀夫は君にはふさわしくない。いや、君はOにふさわしくない」
 Eが話した衝撃の真実。
 彼は葉子のハイネックの襟を引き下げた。いつも隠していた葉子の首にはくっきりしたアザがあった。
「刑務所で首を吊った。麻薬常用者は君だ」

 衝撃を受けるふたりの男。葉子は力をなくし立ちすくんだ。
 葉子は自分から告白した。
「刑務所で首を吊り、死にそこなった。死にそこなったのは2度目。由紀夫さんがいなくなって、おばあちゃんが死んで、パパは忙しくて広い家にひとり。寂しくて悪い仲間と悪いことして……」
「万引きに援助交際。家出して売春、乱行。よく妊娠しなかったな? エイズにもならなかった。どこまでも落ちて覚醒剤に手を出した」
 Eが付け加える。
「パパが、もう手に負えないから少年院に入れるって。それでもまたやって死にそこなった。遠い刑務所に入れられた。パパは面会にも来なかった」
「死にそこなってどうだった? 快感だったか? セックスの何倍も?」
 葉子はEを睨んで続けた。
「ある日おばさまが面会に来たの。由紀夫さんの母親だって。懐かしい気がした。大好きだった由紀夫さんのおかあさん。おばさまは息子に見捨てられたって。私は父に見捨てられた。
 おばさまは私を引き取ってくれた。悪い友達が来るから家には帰さない。絶対立ち直らせるから覚悟を決めなさいって。
 トイレもお風呂も付いてきた。抵抗しても強くて敵わなかった。いろいろ教えてくれた。ママが生きてたら教えてくれたのかしら? 礼儀作法、書道、料理、本も読んだわ。たくさん話した。
 どうせ、汚れきった女だから……おばさまは、死んでもいいと思う人に巡り会うまで死んだらダメだって……」
 そう言うと葉子は去った。去るしかない。

「追いかけろよ。由紀夫、早く追いかけろ」
「目糞、鼻糞を笑う、か。由紀夫君」
 OがEを殴った。Eの唇が切れた。
「バカヤロウ。こんなことして……知ってたんだな、調べさせたんだ」
 葉子を追いかけたのはOだった。
「バカなやつだ。由紀夫君、僕は消える。あとはOに任せる。仇は取った」

 死んでもいいと思う人と巡り会えるまで……
 彼女となら死ねた……
 僕は、君となら死ねた……
 

 墓石の前でEは葉子とOに土下座した。
「かまわないわ。事実だもの。いつまでも隠してはおけなかった」
「自分の復讐のために君を利用した」
「そのまえに褒めてくれたわね。褒めちぎってくれた」
「事実だ。君は輝いていた。健康的に」
「おかあさんのおかげ。もっと早くに出会えていたら……」
「Oは君の過去なんか気にしないよ」
「……」
「バカ、葉子ちゃんが愛してるのはひとりだけ。子供の頃からひとりだけだろ? 僕は許すよ。おかあさんに免じて。由紀夫を許す。あいつは苦しんだ」
「……」
「ほら、迎えにきたよ。行けよ。あいつの償いだ。おかあさんの代わりに最後まで君の面倒をみさせろ。だから許す。行ってくれ。僕たちはもう少しここにいる。早く行けよ」

 Oに言われ葉子は去った。Oはふたりが去るのを見ていた。
「あのペンダント、どうするんだ?」
「余計なお世話だ。派遣社員にかわいい子がいるんだ」
「俺が女だったら、絶対おまえを愛するよ」
「よせよ。気持ち悪い。唇、大丈夫か? 血が出てるぞ。もう、血は平気か?」
「おまえは……かばってくれた。小学校のとき、隣の子が彫刻刀で手を切ったとき、血を見てパニック起こした僕を宥め、バレそうになると自分が大袈裟に騒いで先生に怒られてくれた」
「そんなことあったか?」
「女みたいだって言われてたのに、弱虫だってわかったら絶対いじめられていた」
「どうする? 彼女に電話しようか?」
「時効はまだだ」
「もう、いいじゃないか。彼女は許すよ」
「夫がいるからね。まだダメだ」

       

    (了)


 稚拙な文章、読んでいただけましたか?
 あなたは行間を読んでくれるだろうか?

青春は……

青春は……

  • 小説
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  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-06-02

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